2024年5月6日月曜日

『もう一人のメンデルスゾーン——ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの生涯』山下 剛 著

メンデルスゾーンの姉の生涯を述べる本。

クラシック音楽の歴史において、随一の才能を持っていたのがフェーリクス・メンデルスゾーンであるが、その姉ファニー・メンデルスゾーンも弟に負けず劣らず音楽の才能があった。しかし音楽家として成功した弟と違い、その活躍の場は限られ、家庭人として一生を終えざるを得なかった。本書はこの知られざる作曲家・音楽家、ファニー・メンデルスゾーンに光を当てるものである。

彼らの祖父モーゼスは低い身分のユダヤ人として生まれたが、勉学に勤しみ哲学者として大成した。『モーセ五書』のドイツ語訳をしたのもモーゼスの大きな功績である。彼は子どもの教育にも極めて熱心で、長男ヨーゼフと次男アーブラハムは金融業の世界で目覚ましい成功を収める。このアーブラハムがファニーの父親である。

一方、母親はレーア・ザロモン。彼女は裕福なユダヤ人銀行家の娘であった。アーブラハムはかつてフランス贔屓だった(つまり共和制に憧れた)が、レーアと結婚して社会的地位も安定するとプロイセンに適応して愛国者になった。彼はユダヤ人として最初のベルリンの市参事会員になっている。その背景には、フランス支配下の重税や徴兵、文化統制や検閲により、フランス革命への幻滅があったこと、ドイツ統一を求める民族主義の高まりが指摘できる。この時代、「ユダヤ人解放令」によってユダヤ人は建前としてドイツ人と同様の権利を認められたが、民族主義の高まりの中で反ユダヤの動きも起こってくるのである。

アーブラハムはこうした中、子どもたちに厳格で高レベルな教育を施し、ドイツ人以上にドイツ文化を身につけさせた。さらに子どもたちはキリスト教徒として育てている。ファニーやフェーリクスは利発で、様々な面で優れていたが、殊の外音楽には優れた才能を示し、作曲をツェルターに教わった。ファニーはフェーリクスより4歳年上だったので、フェーリクスよりも早く作曲に習熟した。しかし父親は作曲に熱中するファニーを諫め、「女らしさだけが女性の勲章」と諭している。

ところで、ツェルターはジングアカデミー(ベルリンの民間音楽組織)の監督であり、音楽教育家(マイアベーアの師)でありまたオルガニストでもあったが、驚いたことにレンガ積み職人でもあった。彼は不安定な音楽の仕事の収入を補うため、王立協会アカデミーの教授になった後でも、職人との二足のわらじを履いていたのである。

一方、メンデルスゾーン家には湯水のようにお金があった。旅行をすれば王侯貴族の行列のようなのだ。フェーリクスは父に連れられて見聞を広め、当時神のように崇められていたゲーテにも紹介された。ファニーも追ってゲーテと面会したが、弟と同程度の音楽の技術や才能があったのに、彼女が話題の中心になることはなかった。ファニーはちょっと音楽の得意な娘さんとしか扱ってもらえなかったのである。なおフェーリクスは大学に進学しているが、ファニーは進学させてもらっていない。

そんなファニーが力を注いだのが、メンデルスゾーン家で定期的に行われる日曜音楽会である。これは私的な演奏会であったが、各界の名士が参加し、自作を披露できる場になっていた。ファニーは優れた歌曲を書き、またフェーリクスの「無言歌」にもファニーの作品が紛れ込んでいるのではないかと考えられている。

ファニーは画家のヴィルヘルム・ヘンゼルに求婚される。しかし両親は直ちに結婚を認めず、ヴィルヘルムはその後5年間ローマに留学。その間、彼はメンデルスゾーン家の人々を理想化した肖像画を送って求婚し続けた。留学から帰ると、ヴィルヘルムはプロイセンの宮廷画家に任命され、1829年に結婚を認められた。

この1829年には、フェーリクスが中心となりバッハの『マタイ受難曲』の復活公演が行われているが、これにはファニーも重要な役割を果たした。ファニーは弟以上にバッハを崇拝しており、13歳の時、父アーブラハムの誕生日にバッハの平均律第1集の全24曲を暗譜で弾いている。なお、これは一族に賛否両論を巻き起こしたらしい。あまりにも音楽に入れ込みすぎているというのだ。

そして同年、『マタイ受難曲』の上演が終わると、フェーリクスはイギリスへと旅立った。「ファニーはその後も家族や大勢の友人たちに囲まれていたが、憂鬱に取りつかれ、心には大きな穴が開いたようだった(p.89)」。ファニーにとって、フェーリクスは自分の分身であり恋人のような存在だったのである。この年の1月4日からファニーが日記を書き続けていることは象徴的だ。

ただ、ファニーの家庭生活は幸福だった。25歳の時には男児を出産。バッハ、ベートーヴェン、フェーリクスに因んでゼバスティアン・ルートヴィヒ・フェーリクスと名付けられた。ヴィルヘルムは音楽の素養はなかったが、同じ芸術家としてファニーの創作活動を応援した。逆にフェーリクスは、姉の音楽の才能を大いに買いながらも、主婦の役割に徹するべきだと主張していた。このあたりはとても面白い。

ファニーが30歳の時、父アーブラハムが死ぬ。ファニーの創作は父を喜ばせたいとの思いが強かったので、父の死去はその意欲を減衰させた。またフェーリクスは実家住まいではなかったので、自然とファニーが一族を取り仕切る役目となり、自分自身の時間が持てなくなった。日曜音楽会も中止され、ファニーは作曲の意欲を失った。そこには、結局自分の作品を理解してくれる者が誰もいないという孤独感も伴っていた。フェーリクスに手紙を書いても、そこに温かい言葉はなかった。ファニーは深刻な鬱状態に陥っていく。

ファニーは弟の顔色を窺いながらも、歌曲集を出版。フェーリクスはそれに対してお祝いの言葉一つ述べず、母には「芸術家になるにはファニーには意欲も使命感もない」などと書いている。この時期、彼は彼で追い詰められていたのであるが、姉の才能を理解しながら(彼は「生涯にわたってファニーを音楽の手本として仰ぎ、自作に対する彼女の批評を最高のものと見なした(p.196)」)こういう切り捨て方をしているのは驚きである。父の死後、フェーリクスがアーブラハムの役割を引き継いで、女性を家庭に押し込める言動をするようになっていた。

そんな中でも、1838年、ファニーは生涯で唯一の公開演奏を行っている。上流階級の人たちによる慈善講演会(収益を貧しい人たちに寄附する)である。イギリスの音楽批評誌「アシニーアム」はファニーについて「ミセス・シューマンやミセス・プレイエルと並んで、超一流のピアニストとして世界中に有名になっただろう」と書いている。だがファニーは職業人として有名になるには、あまりに上流階級のお嬢さんすぎた。

33歳の頃、ファニーたちは家族で1年にわたるイタリア旅行に出かけた。ファニーは最初こそ落ちぶれたイタリアの姿に幻滅したが、ローマでフランスの芸術家たちと知り合って意気投合。彼らはファニーに演奏をせがみ、ファニーはバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトなどドイツ音楽の本格的な作品を次々と弾いた。彼らはその素晴らしさに感動し、「ファニーは日に日に心が解放されていくのを感じた(p.151)」。ファニーは人に認めてもらえる喜びを噛みしめた。なおこのフランスの芸術家の中に、『アヴェ・マリア』で有名なグノーがいる。『アヴェ・マリア』(バッハ平均律第1巻第1曲のプレリュードを伴奏にした歌曲)はファニーの影響で作曲されたものである。こうして、たった2ヶ月間であったが、ファニーはローマで人生最良の日々を過ごした。

ローマから帰ると、ファニーは旺盛に音楽活動に取り組み始めた。ベルリンは三月革命前の混乱した政治状況にあり、母の死などもあったが、ファニーには平穏で幸せな日々が続いた。ヴィルヘルムもファニーの音楽活動を励ましていた。また司法官試補コイデルと出逢い、彼がローマでのフランス人芸術家たちのようにファニーを崇拝して、活気をもたらした。コイデルの助言でファニーは歌曲の出版を決めた。その時にフェーリクスに出した手紙にはこうある。「私は14歳の時にお父さんが恐かったように、40にもなって弟たちが恐いのです(p.186)」。フェーリクスは保守化しており、政治的に急進的な青年ドイツ派の作家や女性の社会活動家には嫌悪を示していた。しかし姉の曲集出版にはしぶしぶながら「了承」を与えている。ファニーはフェーリクスからわざわざ了承を得なければならなかったということが、彼らの関係性を表している。

それでもファニーは許しが得られて幸せだった。編集や曲作りに幸せいっぱいに取り組み、次々と作品を出版した。「当時の音楽界は女性に独創性など認めていなかった(p.194)」が、ファニーは作品で反論できることを励みにして意欲に溢れていた。

なお、同じ女性音楽家であるクラーラ・シューマンもファニーを作曲家として認めていなかったというのが興味深い。クラーラはファニーのピアノの腕には舌を巻いていたが、その活動を全面的には認めていなかった。クラーラは貧しい生まれで、幼い頃から演奏活動で家族を支えていた。彼女らは育った環境があまりにも違いすぎて互いにしっくりこないものがあったらしい。

1847年5月14日、意欲的に活動していたファニーは、突然脳卒中で倒れ、その日のうちに息を引き取った。41歳。遺作となったのは、前日に作曲された歌曲『山の喜び』。「そこには、生きていればファニーの前に開かれたであろう広々とした自由な世界が潑剌とした曲調で描かれていた(p.205)」。

フェーリクスは姉の死に衝撃を受けた。彼は姉の創作活動を妨害していたことに罪悪感を覚え、「まるで姉に対する罪滅ぼしのように(p.210)」その遺稿集をまとめた。そして憔悴したフェーリクスは、姉の死から半年後、38歳で亡くなってしまうのである。フェーリクスの亡骸は姉の横に埋葬された。

ファニーは、上流階級に生まれたことでその可能性を狭められた面がある。同時代のクラーラ・シューマンは働かざるを得ない境遇だったために、女性ピアニストとしてヨーロッパ中で活躍できた。だがファニーは女性が外で働くことが「はしたない」とみなされる階級であった。それでも、音楽活動に理解ある夫のおかげで、その枠内では「才能ある女性に許されていた可能性を当時としては十二分に生かしきったとも言える(p.215)」と著者はいう。

とはいえ、ファニーの人生には女性が直面せざるを得ない現実が象徴されている。つまり、人生で一番意欲と能力と体力が溢れた時期に、女性は子育てをやらなければならず、子育てが一段落してようやく自分の時間が持てるようになった頃には、もう以前ほどの能力や体力はなく、人生の可能性が狭まっている、という現実だ。現代では、女性が外の世界で活躍することはそれほど悪く思われていない。それでも、女性は人生のある時期、出産や育児にかかりきりになってしまうから、女性は家庭人となるか、自己実現を図るかで二者択一を迫られてしまう。

ファニーの場合、家庭人となったことは悪くなかった。夫は典型的なビーダーマイヤー型(小市民型)であり、現実的なつまらない面を持っていたが、それだけに妻を愛して家庭を平穏に守った。それがファニーの限界を定めた面もあるものの、ファニー自身も家族を愛して幸せだった。夫を亡くしたクラーラ・シューマンが、子どもを家政婦に預けて演奏旅行で飛び回らなくてはならなかったのと比べると、どちらが幸福というのではないが、やはりファニーは恵まれていたといえる。彼女が「忘れられた音楽家」にならざるを得なかったとしてもだ。

なお、ファニーは手紙を大量に書いており、中断はあるが日記を死まで書いていることから、メンデルスゾーン研究の基礎資料を残してくれた。「ファニーの一人息子ゼバスティアンはモーゼに始まるメンデルスゾーン家三代にわたる評伝を著し、これがその後のすべてのメンデルスゾーン研究の出発点となった(p.216)」 。

非凡な才能を持ちながら、時代の制約からついに活躍できなかった女性を描く力作。

【関連書籍の読書メモ】
『メンデルスゾーン』ひのまどか著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/04/blog-post_13.html
平易かつ内容のしっかりしたメンデルスゾーン伝。

『クララ・シューマン』萩谷 由喜子 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/04/blog-post.html
クララ・シューマンの伝記。世界で初めて、妻・母としてコンサートピアニストの人生を全うした一人の女性の生涯。

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2024年4月29日月曜日

『近代天皇制と伝統文化──その再構築と創造』高木 博志 著

近代天皇制と伝統文化との連関を論じる本。

明治維新以降の近代天皇制においては、前近代の文化を再構築した「伝統文化」を不可欠とした。郷土愛が愛国心に包摂されていったのも、近代日本のアイデンティティの確立にも、国体を体現する伝統文化が大きな役割を果たしていた。

一方で、明治政府は神仏分離政策によって神仏の文化を変容させ、また近世の様々な文化を迷信として退け、破壊してもいた。維新以降の政府が天皇制のよりどころとした「伝統文化」は、自然発生的に形成されてきたものではなく、遡及的に再構成されたものであったのである。伝統文化という概念そのものが、政府に都合よく取捨選択されて生み出されたものなのだ。

第I部 天皇制

「第1章 伝統文化の再構築と創造」では、京都の位置づけの変化を中心として、明治政府の伝統文化政策を述べる。

明治初年においては、政府は開化政策にやっきになっていた。しかし明治10年、約半年にわたり京都に天皇が滞在した行幸を契機として、「世界の「一等国」には歴史や伝統文化が不可欠とのコンセプト(p.21)」が浮上する。

神仏分離以降、等閑視されていた皇室関係寺院や(歴代天皇の陵があった)泉涌寺(せんにゅうじ)も、この頃に保護が始まる。もっとも、神仏分離政策によって皇室祭祀は全て神道によることとされたため、仏式の法要等はあくまでも皇室の私的なものと整理された。

明治16年(1883)には、岩倉具視の「京都皇宮保存ニ関シ意見書」で京都復興策が提起される。そこでは即位式・大嘗祭を京都御苑で行うことを核とし、賀茂祭・石清水放生会・春日祭の「旧儀」を復興するなど古都京都の旧慣保存を訴えた。1880年代は、近代化と歴史や伝統が組み合わされて、国家のアイデンティティの形成が図られる時代だった。そうした情勢の中、明治16年2月には宮内省に諸陵寮が復活。6月には泉涌寺の開山俊芿(しゅんじょう)に大師号が宣下された。

明治19年(1889)、伊藤博文は、所在の分からない山陵があるのは「外交上信を列国に失ふ」と述べ、同年、未治定の13陵が一括して決定された。現在の外交感覚から見て、伊藤博文の懸念は全く理解できないが、歴史と伝統こそ国の立脚するところとの観念があったためであろう。

こうした旧慣保存政策の嚆矢となったのは、明治4年(1871)4月の「大学」からの建言「経歳累世ノ古器旧物敗壊致候モ不顧、既ニ毀滅ニ及候(p.31)」との批判である。この時期、未だ廃仏毀釈は一部で進行中であったし、同年11月の大嘗祭は京都ではなく東京で行われ、依然として前近代の伝統は軽視されていたが、経文・仏像・仏具などが「古器物」として位置付けられた。ただし町田久成などがおこなった翌年の宝物調査でも、仏像はあまり取り上げられなかった。仏像は、信仰がなくては意味がないものとの観念があったのかもしれない。

町田は、社寺の貴重な宝物が国外に流出することを懸念し、宝物の保存に取り組んだ。明治10年(1877)の大和行幸の際、法隆寺から宝物献上の願いが出されたことを契機に、皇室は大量の御物を集積することとなり、御物は一般の文化財と別に秘匿された形で保存されていくことになる。

一方、明治11年(1878)には内務省が社寺の「創立再興復旧」を認める。追って400年前を指標にした古社寺に限定されるが、建造物の保護政策が採られた。さらに翌年、大隈重信は延暦寺の「旧観」保存を訴える。内務省社寺局長の桜井能監も大社寺の法会などの復興を建議している。

こうした趨勢の背景にあったのは、列国との関係であった。列国は近代的な相貌の裏に、王室儀礼を重視するなど伝統文化をアイデンティティにしていた。各国に独自の文化があることが「一等国」に不可欠だと考えられた。特に岩倉具視は東京と京都を、ロシアにおける首都モスクワとサンクト・ペテルブルグの関係になぞらえ、首都と古都の役割分担を構想した。その背景には、京都在住の華族たちを保護する意図や、彼らの意向があった。

しかし、京都の伝統文化は、近世以前のまま保存されたのではなかった。それを象徴するのが京都御所・御苑である。京都御所は近世には庶民にも開かれた場所だったが、外交に活用するための場として再整備された。同時に、東京の皇居も伝統を強調する形で整備された。

この頃の政府は、対外的には伝統と歴史を強調しつつ、同時に近代国家としてのしつらえを整えていた。そんな中でも、私的な領域では実際の伝統が細々と連続していた。宮中でも、仏教信仰は続けられ、とりわけ英照皇太后・昭憲皇后は泉涌寺に帰依した。1895年、明宮(はるのみや=後の大正天皇)が病気になった時は泉涌寺で焰魔天供が執り行われている。さらに1912年、明治天皇の強い意志により、京都の桃山に御陵が造営された。明治天皇の死が、古都京都の変化の区切りとなった。

「第2章 近代皇室の仏教信仰」では、維新後の皇室で続いた私的な領域での仏教信仰とそれを担った泉涌寺について述べる。

中世後期から近世の歴代天皇が葬られたのが京都の泉涌寺である。同寺の月輪陵(つきのわのみささぎ)には、後水尾天皇以降、仁孝天皇までが九重石塔で葬られている。泉涌寺は応仁2年に炎上したが、後水尾天皇の院宣により再興されて近世の御陵所として確立。また慶応元年(1865)の孝明天皇の勅「皇祖御尊敬之訳ヲ以、諸寺之上席たる」は明治以後の地位向上の根拠となった。

しかし慶応2年、孝明天皇の葬儀は火葬の形式を廃し、僧侶を排除した形で行われた。その山陵後月輪陵は円丘で、泉涌寺と分離する形で造営される。明治4年には皇室の神仏分離が行われ、京都御所の御黒戸も廃止。門跡号や比丘尼御所、院家、院室など、皇室が仏教界を後援する枠組みが否定され、大元師法や後七日御修法といった皇室の仏事も廃止された。同年11月には、恭明宮が完成し、御黒戸の位牌等が奉遷され、京都在住の60歳以下の隠居女房・薙髪女官等がことごとくそこへ移り住んだ(明治6年、恭明宮は廃止)。同年、社寺上知令によって泉涌寺の寺領も大きく削減され、財政的に困窮した。

また泉涌寺は真言宗の所管となった。明治9年(1876)には泉涌寺や仁和寺など32寺に定額金が下賜されることとなり、京都の各寺院から泉涌寺に歴代天皇の尊牌が合併された。翌明治10年(1877)、京都府は泉涌寺改革に乗り出し、長老以下、住職9名が罷免された。そして翌年、内務省が真言宗古義派の佐伯旭雅を長老に任じて、旧スタッフを一掃して皇室との関係が再樹立された。この頃から旧慣保存策の一環で、明治初期とは逆に保護が加えられるようになる。特に、未解決であった歴代皇妃・皇親の祭祀を泉涌寺が行ってきたことが、彼らを供養し続ける同寺の存在を重くした。

そして皇室においても仏事が私的な領域で認められた。ここで面白いのは、明治11年(1878)の規定で、歴代の天皇・皇妃・皇子女等は神式で祭ることとするが、宮中の奥向きや英照皇太后宮や旧女官からの神祭の献物は、3分の1は陵墓掌丁に下し、3分の2は泉涌寺の僧侶に配分することとしている点だ。皇室で仏教を棄てなかったのは女性であった

明治16年(1883)、泉涌寺は天智天皇以降の歴代天皇の菩提寺として位置づけられ、宮内省との関係はさらに緊密となった。明治30年(1897)、英照皇太后が死去すると、表向きは神式で葬儀が行われたが、実際には泉涌寺としても密教の引導法要を行った。もちろん国家の側はそれを好ましく思わなかったが、生前、皇太后が仏教に帰依していたことやこれまで仏式で歴代皇族が供養されてきた歴史を楯に泉涌寺側は認めさせた。

明治31年(1898)に死去した山階宮晃親王の場合は、遺言では「真言宗勧修寺之例」で葬儀・供養を行うよう希望されていたが、公的には却下された。だが実際には私的な領域では仏僧が行われた。なお山階宮は40代後半まで僧侶として生活を送ったが、文久4年には宮門跡の還俗推進・門跡廃止論を唱えている。維新後は京都に隠居し、「近世と変わらない神仏習合的な信仰世界に生きた(p.95)」。

第II部 歴史意識

「第3章 奈良女高師の修学旅行」では、奈良女子高等師範学校の修学旅行を取り上げて、近代の修学旅行の意義を述べる。

修学旅行といえば、現在では卒業までに1回だけ行くものとなっているが、1900年代初め、元来の修学旅行はそうではなかった。例えば京極尋常小学校(京都)では、各学年が行くものだったし、梅屋尋常小学校では毎月行われた。春秋の2回、各学年が行く学校もあった。そのように度重なる旅行が行われたのは、実際に歴史の現場を見て回ることに大きな教育的効果があったからである。そして最終学年での伊勢への修学旅行が一般化していることは、それが単なる歴史の勉強ではなく、敬神の観念と結びついていたことも示している。修学旅行は皇室の聖地をめぐるものであった。

そこには、旅行が一般化していく趨勢も影響していた。修学旅行は、多くの階層の子どもにとって初めて行く均質な「旅行」だった。尋常小学校の修学旅行によって日本のツーリズムの文化が広まったともいえる。

本章では、こうした修学旅行の在り方について、奈良女高師の例を通じて分析している。奈良女高師では卒業するまでの4年間に10回以上の多様な修学旅行が持たれた。そこで巡られたのは、神武陵・橿原神宮・飛鳥の古寺、豊臣秀吉関連の史蹟、嵯峨野など古典文学と関連する場所、西陣織・清水焼の工場や試験場など産業関連の場所、神社仏閣といったものだ。それらは、考えなしに巡られたのではなく、教育的意図を持って計画され、文系理系でコースを違えるなど、国家にとって必要な知識を習得するように構成されていた。

「第4章 「郷土愛」と「愛国心」をつなぐもの」では藩祖三百年祭をキーにして地域の歴史が国史に包摂されていく経過を述べる。

日清・日露戦争の時期が、幕藩体制の開始から300年後にあたっていたため、各地で藩祖三百年祭が行われた(著者はこれを「紀年祭の時代」と位置づけている)。この時代に、「郷土愛」と「愛国心」が接続されたと著者は見る。

この時代、(1)「武士道」が国民全体の倫理思想になり、(2)名教的歴史学(道徳のための史学)が確立、(3)国民道徳が広く流布するようになって(例:井上哲次郎)、(4)「国史」と「郷土史」が連動するようになる。つまり、地域の歴史が国家の歴史の中に、名教的なものへと変換されつつ、位置づけられた。

維新政府は、当初「賊軍」への慰霊を認めなかったが、明治7年(1874)にこれを認め、また明治22年(1889)の大赦令で「賊軍」の罪は公的に許された。こうしてかつて賊軍とされた旧藩主家らにとっても、日本国は敵対的なものではなくなっていった。

このような趨勢の中、明治22年の東京開府三百年祭が紀年祭ブームの幕開けとなった。徳川家康への顕彰がおおっぴらに行われ、しかもそれは明治天皇への崇敬と矛盾していなかった。この祭典は地方へと波及し、金沢開始三百年祭、前田利家三百年祭、仙台開府三百年祭、そして平安遷都千百年紀年祭など、国家との関係にかかわらず、各地で紀年祭が催されたのである。

それらの藩祖顕彰活動で強調されたのが、歴代の藩祖が「勤王」であったとの事績であり、国家もこれに応えて旧藩主へと追陞・贈位を行っている。なお、藩祖顕彰においては、それを祀る神社が紀年祭の時代に先立って創建されていた。例えば伊達政宗を祀る青葉神社が1874年に創建され、1914年には県社であった青葉神社を別格官幣社に昇格させようとする動きが現れた。

こうした時代を経て、大正6年(1917)の戊辰政争50周年の各地の記念式典が「賊軍」の慰霊や顕彰の画期となった。

地域の歴史が国家に位置づけられたのは、国家の側からの動きというよりは、地域の側からの自発的な動きと考えられる。しかもそれは他の城下町との対抗的な意識から、競って国家の側に立っていった結果であるように思われる。こうして自然には繋がらない「郷土愛」と「愛国心」が連動するようになるのである。

「第5章 桜の近代」では、近代日本において桜にナショナリズムが託されていたことを述べる。

桜は、近代日本にとって特別な存在だった。しかも在来の山桜やしだれ桜ではなく、一斉にさくソメイヨシノこそが重要だった。ソメイヨシノは、「文明」や「近代」を表すものとして爆発的に普及した。ソメイヨシノは、まず堤防や軍隊・学校、郊外住宅など、近代的な景観とともに植えられる。

本書に述べられる弘前の場合は象徴的だ。弘前では、荒廃した弘前城に旧藩士が1882年に桜を植えたが、城を物見遊山の場にするのかと非難を浴び伐採される。ところが日清戦争後には、陸軍省が軍用地としてきた城址を市や旧大名家に払い下げる動きとなり、弘前城も公園として整備される。その頃には、桜は武士道や男性性の象徴とみられており、弘前城にも日清戦勝記念として植えられて、津軽の御国自慢の表象となっていった。城と桜との組み合わせは全く伝統的なものではないが(伝統的には城と松)、「日本文化」を表すものとして海外へのイメージとしても使われた。

逆に京都では、ソメイヨシノは歓迎されなかった。在来の桜の文化や歴史があったからだ。対外的には日本文化を象徴していたソメイヨシノが、伝統都市である京都では忌避されていたのが面白い。

桜は、コロニアリズムとも関わっていた。朝鮮には盛んにソメイヨシノが植えられたのだ。朝鮮での「1911年から1925年までの記念植樹の面積は8万1212町、本数は約2億4336本にのぼった(p.194)」。昌慶苑(李氏朝鮮時代の王宮を公園として整備した場所)にも、日本の城址に桜が植えられたようにソメイヨシノが植えられ、桜の名所となった。桜によって、朝鮮の王権と朝鮮の文化が上書きされた。朝鮮にも在来の桜はあったが、その価値は日本人からは、取るに足りないものとみなされていた。そして「桜の花は日本文化固有という言説は、桜を同化の象徴とするイデオロギーと表裏一体にあった(p.197)」。

もちろん、朝鮮人からは桜は冷ややかに受け止められていた。だからこそ、昌慶苑の桜は解放後に伐採されたのである。しかし、今ではソメイヨシノが近代日本のナショナリズムを表象していた記憶も薄れ、現在では朝鮮でも桜が植樹され、日本と同様に桜前線が報道されている。

なお、本章を読んで、桜と軍との結びつきに改めて気付かされた。靖国神社や千鳥ヶ淵には桜があり、 特攻機「桜花」があり、軍歌「同期の桜」があるのだ。一斉に咲き、一斉に散るソメイヨシノは、軍隊との相性が良かったのだろう。近代日本を象徴するもう一つのアイテム「制服」にも、そのボタンに多く桜がデザインされていたのはおそらく偶然ではない。

第III部 文化財

「第6章 20世紀の文化財保護と伝統文化」 では、第一次世界大戦後の文化財をめぐる動向を述べる。

1911年、史蹟名勝天然記念物保存協会が発足する。会長徳川頼倫(よりみち)、副会長徳川達孝(さとたか)以下、井上友一、床次竹二郎、九鬼隆一(以上官僚)、山口鋭之介(宮内省諸陵頭)、正木直彦、本多静六、黒板勝美、三上参次(以上学者)などがメンバーであった。それは単に旧蹟を保存するのではなく、欧米の文明を相対化し、日本の「国体」や日本独自の文明を探る取り組みであった。

1919年史蹟名勝天然記念物保存法が貴族院に提出される。内務大臣の水野錬太郎は、史蹟等は「国家ノ精華ヲ発揚スル」ものだと述べ、地方改良運動以来の国民教化と史蹟名勝保存をリンクさせた(※水野錬太郎は、神社合祀運動の時の内務省神社局長である)。つまり、史蹟名勝は、愛国心を涵養し、国威発揚に役立つもの、ナショナリズムの道具として捉えられたのである。

しかし、史蹟名勝への捉え方には2つの立場があった。第1に国民の厚生や観光を重視する本多静六が代表する立場。第2に保存を優先させる黒板勝美・上原敬二などが代表する立場である。 

このうち黒板勝美は、史蹟名勝天然記念物保存法の制度を作った張本人。黒板は国民道徳を重視した歴史家で、「もし黒板勝美が1936年に倒れなかったら、紀元二千六百年事業をはじめ戦時下の歴史学動員の大部分を、平泉よりも黒板が担うことになったであろう(p.215)」と著者は言う。黒板はヨーロッパ留学の際に各国がギリシア文明を盛んに研究していることを目の当たりにし、逆に現地で文化財が保存されていない(各国の博物館で保存されている)ことから、現地保存の重要性を逆に思い知った。

そこで彼は、帰国後の1912年に「全ての史蹟遺物を差別せず、そのままの現状を保存すべき」とする意見書を提出した。彼は東京帝室博物館に全国から仏像などを美術品として集積するのではなく、社寺で現地保存する施設をつくるのがよいと言っている。この構想は日本では実現しなかったが、朝鮮ではある程度実現された。

また黒板は史蹟の開発に批判的で、欧米の物質文明に対抗して、日本ならではの自然と共存した文明のありようを模索していた。黒板の思想には、そういう先進的な面があったが、史蹟名勝の保存は「国民に公徳心を養成し、国土を愛し、家郷を愛」するために行うという思想も併存していた。これはドイツの郷土保護運動の理念が援用されていた。黒板は史実とは異なることを認識しながらも、「名教的歴史」(国民道徳としての歴史)を重視した。

そして、ツーリズムの隆盛を受け、史蹟名勝が活用されるようになる。これは国民に娯楽を提供する意味と外客の誘致の両方の意味があった。1930年前後の世界的な国立公園指定のブームの中、日本でも国立公園が検討された。内務省では、保護を重視する立場と国民的利用(開発)を重視する立場で対立したが、結局、開発を重視する内務省衛生局が主導し、1931年、国立公園法が公布され、最初の12の国立公園が指定された。

このような趨勢の一方で、文化財から切り離され、国民から秘匿されていったのが皇室財産である。陵墓についても桜は相応しくなく、常緑樹を植えるべきだとされ、荘厳な空間、近寄りがたい空間へと変わっていった。明治神宮の造営事業が、「皇室や神社の景観をめぐる大きな画期となった(p.223)」。常緑広葉樹が第一次大戦後の陵墓や社寺、鎮守の森の「創られた伝統文化」になった。

「第7章 現地保存の歴史と課題」では、これまでの論考とはうって変わって、近年における文化財の現地保存について考察される。

かつて先進国に文化財を奪われた国が、近年その返還を求める運動が行われている。ヨーロッパ諸国に文化財を持ち出されたことは、適切な保存が可能になったというよい面もあるが、その文化財が生まれた国・場所で保存される方がずっとよい。

翻って、日本でも地方の文化財は近代に入って中央に吸い取られてきた。埋蔵文化財を担当する職員が都道府県・市町村に配属されるようになったのはようやく1960年代後半であり、それまでは地方で発掘・保存することが不可能であったとはいえ、それは地方からの文化財の略取であった。黒板勝美はこうした動向に批判を加え、現地保存の方が「遺物の価値は最も多く発揮」できると主張し多くの賛同を得たが、文化財保存行政の中央集権的性格は改まらなかった。

現在、国際的にも文化財の返還は必ずしも順調になされていないが、「文化財は本来あった場所において、地域社会の文化とともにあるべき(p.256)」と著者は考える。

「補論 近代天皇制と「史実と神話」」では、神話や名教的な歴史が復活しつつあることへの危惧が述べられる。

天皇制の根幹には神話がある。しかも近年、一度否定されたはずの神話が復権しつつある。さらに、史実でないとされている史蹟が大手を振って史蹟扱いになっているのも昔のままだ。例えば楠木正成の「桜井の別れ」の国指定史跡「史蹟桜井駅址」は解除されていない。

世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」では、構成遺産名に「仁徳天皇陵」があった。これは被葬者は仁徳天皇ではないと考えられており、学術的には「大山古墳」とすべきものだ。「史実と神話」を腑分けする戦後の学知が軽んじられ、神話が政治利用されつつある。

*****

本書は、2009〜2022の論文を再構成した論文集であり、著者にとって18年ぶりの単著となる。そこに通底するのは、近代天皇制がいかにして支えられたかという視点だ。近代天皇制が機能するためには、天皇の権威を演出する必要があった。その演出のために、神話が事実とされ、歴史が国民道徳とされた。しかしそれだけではなく、「皇室財産の秘匿」(国民から隔絶した皇室の象徴)が行われる一方で、同時にツーリズムが大きな役割を果たしたことが意外だった。

修学旅行は皇室のゆかりの場所、皇室の歴史を学ぶものであったし、日本の偉大さを思い知るのが史蹟名勝めぐりであった。そして、史蹟名勝が「桜」で彩られたのが興味深い。桜が近代日本の国家を象徴するものであったということは知っていたつもりであるが、朝鮮における桜の扱いはたいへん興味深かった。

そして、こうした動きの中で、今我々が「伝統文化」だと思っているものが形成されてきた。国家の側によって「何が伝統文化か」が選別されてきたのだ。それは国家が統一した意思をもって選別したのではないが、結果的には、皇室を支えるものが「伝統文化」であり、追っては国威発揚に資するものが「伝統文化」だったのであろう。

すなわち、日本の「伝統文化」そのものが国家によって創られた概念だったということになる。戦後、それとは違った伝統文化が見直されたが(例えば、被農耕民、縄文、悪党・かぶき者など)、日本は再びステロタイプな「伝統文化」に回帰しつつある。

それは、神話と道徳が綯い交ぜになり、王朝風で、常緑樹が植えられた聖域と、桜が植えられた遊興の場がある、中央集権的で均質な空間なのだ。

伝統文化そのものを近代天皇制から反省させる、警鐘に満ちた書。

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2024年4月13日土曜日

『メンデルスゾーン』ひのまどか著

メンデルスゾーンの伝記。

メンデルスゾーンは、近代西洋音楽の歴史おいて随一の才能を持ち、しかも恵まれた環境に生まれた。また彼は非常なる努力家であり、また勤勉であった。その上、大変教養が深く、人当たりもよかった。才能と努力が両立することは第一級の人物にはしばしば見られるが、彼の場合、天は二物を与えずどころか、与えなかった部分がないくらいであった。

にもかかわらず、ユダヤ人の家系に生まれたことで長く正当に評価されず、未だに「メンデルスゾーンは優美ではあるが深みがない」などという言説がまことしやかに跋扈している。これまでメンデルスゾーンの伝記はいくつか出版されたが、悉く絶版となり、現在新刊で手に入るメンデルスゾーンの伝記として本書は唯一のものだ。

フェリックス・メンデルスゾーンは、銀行を経営する家に生まれた。父方の祖父はモーゼス・メンデルスゾーンという著名な哲学者で、父アブラハムは一代でベルリン最大手の銀行を創設したビジネスマン。母レアはキンベルガー(バッハの弟子)に師事したほどのピアノの腕を持っていた。母が主宰するサロンはベルリンでも屈指のもので、哲学者ヘーゲルや詩人のホフマンなど錚々たる顔ぶれが集った。財力と文化的素養の双方を兼ね備えた家庭だったのである。

フェリックスと姉のファニーは母から音楽の手ほどきを受けて上達、クレメンティの弟子ルートヴィヒ・ベルガーに学び、10歳になってからはバッハの孫弟子の巨匠カール・フリードリヒ・ツェルターに作曲と音楽理論を学んだ。その上、音楽以外のあらゆる学課でも、各分野の第一人者が家庭教師としてメンデルスゾーン家に招かれた。絵を教えるための画家までいた。フェリックスは音楽以外の勉強でも特別すぐれていたが、音楽についてはツェルターも認める神童であった。

ツェルターの計らいで12歳のフェリックスはゲーテと面会。ゲーテの面前でバッハのフーガと即興演奏を見せると、ゲーテは「モーツァルトの再来」と激賞した(本書には書かれていないが、ゲーテは14歳の時に7歳のモーツァルトの演奏を実際に聴いている)。ゲーテはフェリックスを大変気に入り、ゲーテ邸になんと60日間も滞在させた。

フェリックスは完全無欠といえるほどの能力と環境に恵まれたが、両親は子どもたちがユダヤ人であることの不利を感じていた。ベルリンではユダヤ人への風当たりが強くなっていたからだ。そこで両親は子どもたちをキリスト教徒として育て、自分たちも追って改宗した。そして、その改宗をきっかけに、ユダヤ的な姓メンデルスゾーンに、ドイツ的な姓バルトルディを追加して、メンデルスゾーン・バルトルディとなった。これには子どもたちは反発したが、アブラハムのやり方は絶対なのだった。

フェリックスの作曲能力を高めたものに、メンデルスゾーン家で行われる「日曜音楽会」がある。アブラハムは宮廷楽団のメンバー十数人と演奏契約を結び、隔週の日曜日に音楽会を開催したのである。フェリックスはそこで、弦楽シンフォニアやピアノやヴァイオリンの協奏曲、大規模な合唱曲を次々と発表し喝采を浴びた。豪華な昼食も出る日曜音楽会はたちまち評判になり、ウェーバー、パガニーニ、シュポア、フンメル、カルクブレンナーなど大巨匠たちも参加した。序曲『真夏の夜の夢』が発表されたのも日曜音楽会である。

フェリックスは、14歳の誕生日に母方の祖母バベッテ・ザロモンからバッハの『マタイ受難曲』の楽譜を贈られた。祖母の妹ザーラ・レーヴィはバッハの長男フリーデマンにチェンバロを習い、また次男エマヌエルを長年経済的に助けていた。メンデルスゾーン家はバッハ一族と結びつきがあり、多数のバッハの楽譜を所有していた(それらはツェルターに預けていた)。バベッテ・ザロモンはツェルターの許可を得て『マタイ受難曲』の写しを作成しフェリックスに与えたのである。フェリックスは『マタイ』を研究し、それがバッハの最高傑作であると確信した。

ベルリン大学の大学生になっていた20歳のフェリックスは、友人たちと協力してジングアカデミー(ツェルターが監督していた)の演奏、自身の指揮で『マタイ』の復活上演を計画した。師ツェルターは賛成しなかったが、しぶしぶ了承した。そんなことが若造に出来るわけがないと思っていたのだ。しかしフェリックスはスコアを完璧に暗記しており、その指揮は的確で、指導力はツェルターを超えていた。バッハがライプツィヒで『マタイ』を初演してからちょうど100年ぶりの復活演奏は、大成功だった。公演にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と皇太子(4世)の顔もあった。

21歳になったフェリックスは、ヨーロッパ各地に顔を売るため(=音楽家としての経験を積むため)3年がかりの旅行に出された(といってもしばしばベルリンに帰還している)。ベルリンでは反ユダヤの風潮が高まっており、新天地を求める意味もあった。ロンドンでは特に歓迎され、一連のコンサートで「メンデルスゾーン・フィーバー」が巻き起こった。

フェリックスは、イタリアには幻滅し、パリでは社交界の人気者にはなったが作曲者・指揮者としてはデビューできなかった。2度目のロンドン滞在ではセントポール大聖堂でオルガン演奏をしているのが興味を引いた。

フェリックスは各地で観光している間も、仕事をせず時間を無駄にしている罪悪感があった。彼は根っから勤勉なのだ。ナポリでは人々が怠惰であることに憤慨している。フェリックスに限界があったとすれば、この勤勉すぎる性格にあっただろう。「旅行の資金は父から十分すぎるほどもらっていたが、気持ちの上では彼はつねに追い詰められていた(p.136)」。

なお旅行期間中、当然に自分に依頼されると思っていた「宗教改革三百年祭」の音楽をユダヤ人であることを理由に外されるという挫折があった。フェリックスは挫折を知らなかったわけではない。彼は挫折のたびに立ち直った。ベルリン帰還後、準備していた「宗教改革交響曲」を売り込んだものの、ジングアカデミーの反応は冷淡だった。フェリックス自身は作曲に専念したかったが、社会的地位を重視する一族は彼をツェルターの後任になるように勧めた。しかし一族の運動も空しくフェリックスは投票で破れた。反ユダヤ人の空気が横溢していたのだ。

フェリックスはデュッセルドルフ市の音楽監督に就任したが、やる気のないオーケストラの団員、気楽で娯楽性の高い音楽だけを好む市民、拘束時間が長く雑務が多い劇場の仕事に辟易し、さっさと手を引いた。

折よくライプツィヒ市から音楽監督とゲヴァントハウス管弦楽団の第五代音楽監督の就任要請があり、入念な条件の調整の後に引き受けた。フェリックスは26歳だった。この頃、ライプツィヒは人口4万5千人の都市である。フェリックスはオーケストラの団員からも市民からも歓迎された。ライプツィヒでもバッハの芸術が忘れられていたため、フェリックスはバッハの復興に力を入れ、また新しい交響曲の発掘、「歴史コンサート」のシリーズのスタートなど意欲的な事業を次々と手がけて多忙な毎日を過ごした。

フェリックスはゲヴァントハウス管弦楽団を市立オーケストラに昇格させ、また団員に年金制度を取り入れることなどに取り組んだほか、ライプツィヒ市に創立する音楽学校の仕事も引き受けた。今やフェリックスは「ヨーロッパ一忙しい音楽家」であった。

その中でも、聖トマス教会でバッハ作品によるオルガン・コンサートを開催しているのは興味を引いた。これバッハ記念碑を建設するための資金集めのコンサートだった。

こうした多くの仕事を、メンデルスゾーン(第8章以降、「フェリックス」から「メンデルスゾーン」に呼称が変わる)は人任せにしないでどれも完璧にこなした。その結果、彼は慢性的な疲労に陥っていった。ただでさえ忙しい中、プロイセン王からベルリンに創設する音楽学校へ協力してほしいという要請を受けた。メンデルスゾーンは反ユダヤ的なベルリンで活動するのは気乗りしなかったが、王の要請を断ることは困難だったのでしょうがなく引き受けた。しかし高額な年俸と名誉な称号があるだけで、メンデルスゾーンは飼い殺しに近い待遇だった。

一方、メンデルスゾーンが心から楽しんだのがイギリス訪問だった。イギリスではメンデルスゾーンの音楽は芸術として愛され、王室とも親しく付き合った。ヴィクトリア女王がバッキンガム宮殿にメンデルスゾーンを招待してオルガンを演奏させたのがその契機だった。彼は、本心ではイギリスに移住したいと思っていた。

ライプツィヒでは、1843年にドイツ初の音楽学校が開校した(現フェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学)。第一級の教師陣が集められ、メンデルスゾーンは実質上の校長で、科目はピアノ・作曲・歌・器楽合奏を担当した。ただ、メンデルスゾーンは教師は向いていなかった。「なんでそんなことができないんだ!」と生徒を叱責してしまうからだ。要は、彼には凡人の気持ちがわからなかったのだ。

反ユダヤ的で、思うように活動できなかったベルリンですらもメンデルスゾーンの名声は確立したが、35歳頃にメンデルスゾーンは公的な活動からの引退を考え始めた。彼は過労のため健康を害していた。しかし「子どものときから、周囲の期待にこたえるよう努力してきた習性と、社会のために働くべきだという義務感から、彼は仕事を拒否できなかった(p.267)」。

彼は仕事も社交も楽しそうにしていたが、内心では「自分はほんとうは、人間ぎらい、音楽ぎらい、指揮ぎらい、公の仕事ぎらいなのかもしれない(p.270)」と思っていた。彼はうんざりしていたのだ。幸福を感じるのは、親しい本物の音楽家たちと語ったり、作曲している時だけだった。それでも、決して止まらなかったのがメンデルスゾーンの悲劇、といえば悲劇だ。そのような中で、オラトリオの大作『エリヤ』を完成させ、完全な状態で初演したのである。「明らかに体も神経も疲れはてているのに、自分でやらないと気がすまない(p.274)」メンデルスゾーンは、『エリヤ』のパート譜の仕分けまで自分でやっていた。

しかし過労から耳鳴りと偏頭痛がひどくなり、徐々に仕事を減らした。そんな中でもイギリスには10回目の滞在をしている。ようやく帰宅すると、姉ファニーが死んだとの知らせが届いた。メンデルスゾーンは自分の分身ともいえる姉の死に衝撃を受け、深刻な鬱状態に陥った。そして力を振り絞り、ファニーのためのレクイエムとして書いたのが『弦楽四重奏曲第6番ヘ短調』である。その約2か月後、メンデルスゾーンは卒中で倒れ、病に伏してあっけなく死んでしまった。ファニーの死から約半年後、38歳9か月だった。

葬儀では、最後にバッハの『マタイ受難曲』の最終合唱「われら涙して墓の中のあなたに呼びかける。安らかに憩いたまえ」が演奏された。

本書は全体として、10歳の子どもにも読めるように平易で、しかも大人が読んでも面白い。既存のメンデルスゾーン伝を子供向けにリライトしたのではなく、しっかり現地取材して書いている。また先述の通り、現在新刊で手に入る唯一のメンデルスゾーン伝として価値が高い。本書は『メンデルスゾーン——美しくも厳しき人生』(リブリオ出版、2009年)を増補改訂したもので、宗教音楽については星野宏美の近年の業績を参照しているようだ。

なお本書を読むうえでの私の興味は、メンデルスゾーンのオルガン演奏・作曲にあった。彼の時代、ドイツでは宗教音楽が奮わず、教会のオルガンがやや廃れていたようだ。そんな中、メンデルスゾーンはいくつかのオルガン曲を作曲している。ロンドンではメンデルスゾーンのオルガン演奏は歓迎されているが、ドイツではどうだったのか。どうもメンデルスゾーンは、ドイツでは名声が確立するまではオルガン演奏をしていない節がある。

そもそも、メンデルスゾーンは教会の楽師長(なんていう役職が当時あったのかもよくわからない)をしていたわけでもないので、どこでオルガン演奏をマスターしたのだろうか。もしかしたらペダル付きピアノで練習したのかもしれない(シューマンも使っていた、足鍵盤のあるピアノのこと)。本書はオルガンについては深入りしていないので、こうした点は書いていなかった。

平易かつ内容のしっかりしたメンデルスゾーン伝。

【関連書籍の読書メモ】
『メンデルスゾーンの宗教音楽—バッハ復活からオラトリオ≪パウロ≫と≪エリヤ≫へ』星野 宏美 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/06/blog-post_18.html
メンデルスゾーンの宗教音楽をオラトリオを中心に述べる本。メンデルスゾーンのオラトリオを宗教性から読み解く堅実な本。

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2024年4月2日火曜日

『江戸の農民生活史—宗門改帳にみる濃尾の一農村』速水 融 著

江戸時代の一農村の人口の歴史を述べる本。

江戸時代には、戸籍のような役割を持つ宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう、以下「宗門改帳」)が作成された。これは全国で作成されたのであるが、意外と完全には残っていない。ところが、大垣からほど近い西条村という濃尾平野の小さな村の宗門改帳は、江戸時代の後半97年間分(安永2年~明治2年)が一冊も欠けず完全な形で残されていた。本書は、この史料を詳細に分析することで、江戸時代の個人や家族の行動を追跡調査したものである。

宗門改帳は、キリスト教対策のために導入されたが、全国で同一の方式で作成されたわけではなく、幕府直轄地か私領かでも異なっている。その中で大きな違いは、対象を調査時点でそこに住んでいる者とするか(現住地主義)、そこを本貫とする者か(本貫主義)である。なぜこのような2系統が生じたのかというと、人別改め(賦役を負担する者を測定するもの)と宗門改めという、起源の異なる調査がいつのまにか合体されたためと考えられる。現住地主義の改帳の利点は、出稼ぎの様相がわかることで、西条村はこちらである。なお、宗門改帳の原本は領主に差し出されているため、村に残っているものはその控えである。

宗門改帳は、家族(傍系家族や奉公人を含む)を単位としてまとめられており、史料的に若干の制約はある(例えば妻の名前は「誰某女房」となり明らかでないなど)。しかし「江戸時代の日本以外の前近代社会で、世帯、家族、夫婦、個人の出現から消滅まで、その行動をかくも克明に、精確に追うことのできる社会は世界中どこにも存在しない(p.55)」。著者は家毎にデータをまとめ、そこから個人の人生を復元した。

西条村は人口300人余りの純農村であるが、本書で明らかになる意外な姿は、奉公(出稼ぎ)が大変多いことである。江戸時代の農村では、土地に縛り付けられて一生を生まれた村で過ごした…というようなイメージがあるが、実際には人々はダイナミックに移動していたのである。

そして出稼ぎは、西条村の人口の動向に深くかかわっていた。江戸時代には乳児死亡率はかなり高かったと推計される(出生から最初の人別改めまで生存しなかったものは記録されないので正確な死亡率は不明)。それでも江戸時代のだいたいの期間、出生率は死亡率を上回っていた。にもかかわらず西条村では人口減少に見舞われた期間も多い。それは大量の出稼ぎ奉公による人口流出のせいだったと考えられる。

西条村では、11歳まで生き延びた男女のうち、男子50%、女子62%もの人が奉公を経験していたのである。特に文化13年(1816)には、おそらくは洪水被害により農地が減少したため、現住人口の半数ほどが奉公に出た。なお奉公に小作層出身者が多いのは当然として、地主など上層でもその割合は相当高かった。

出稼ぎ先は、京都・大坂・名古屋が多かったが、幕末にはその割合が減って町場(近隣の地方都市)の割合が多くなった。これは商工業の中心が在郷町に移っていったことと関係しているのかもしれない。

在郷町の奉公を細かく見てみると、1年かせいぜい2年で頻繁に奉公先が変わっていることが意外である。雇う方も雇われる方も刹那的な労働形態であったことが予見される。死亡に至るまで長期間、目まぐるしく奉公先を変えた人がいたことは、我々の江戸時代観を揺るがすものだ。この背景には「奉公人の需給を結びつける周旋業者の存在が想定される(p.131)」。個人的には奉公先に寺院が含まれていることが興味深かった。また、奉公先には武家奉公もある。ここで「天領大垣藩預り地の西条村の住民にとって、支配とは関係のない名古屋、彦根等の武家奉公が相当量に達していることは、都市や農村への奉公が藩領域と何ら関係をもっていないことと併せて、この時期の労働移動に、制度的な制限がなかったことを示している(p.135)」。

なお、人口流出の要因は出稼ぎだけでなく結婚や養子もある。ここでも興味深いのは、婚姻により西条村に来た女性は「少数の村に偏ることなく、広い範囲にわたり、藩領に関係なく拡がってい(p.109)」たことである。藩領が、人々の生活実態の中で意識されていなかったことの証左であろう。それでも、都市から西条村に縁付いて来た女性はほとんどなかったということは、現在と似ている。

結婚年齢は西条村では意外と遅いが、結婚年齢に大きな影響があったのが奉公経験の有無である。特に小作層の女子は奉公に行くことが多かったから、結果的に結婚が遅くなった。ただし結婚した後は定期的に子どもが生まれており、間引きや堕胎が行われた形跡はなく、出産力は高かった。なお独身率は低く、ほとんどの人が結婚したが、離婚率は11%と意外と高かった。

それでは個人に着目してライフヒストリーを見るとどうなるか。本書ではいくつかの例が提示されており、うち3例をメモする。

第1に、村最大の地主の家に生まれ、医師となった「利三郎」。彼は地元に近い村で5年、京都で2年修行して帰村し、分家し医師として開業した。人口300人ほどの農村で医師を開業したのは当時としても珍しい。彼は長男ではなかったが、わざわざ医師にならずとも安楽な生活が送れた階層にあった。にもかかわらず長い修行を経て新しい生き方を選んだところに「江戸時代日本のもつダイナミズム(p.161)」を見出すことができる。

第2に小作農「伊蔵」家。「伊蔵」の父は奉公中に35歳の若さで死亡。今でいえば単身赴任中の死亡だ。その後、母は65歳で死去するまで戸主として留まった(本書には詳らかでないが、「伊蔵」の兄(長男)は成人後も家を継いでいない)。明治民法以前の家の在り方として興味深い。予想されるように、「伊蔵」家は貧しく、彼自身も奉公に出て、結婚して子供をもうけてからは娘たちが次々と奉公に出た。しかし幕末になると大都市への出稼ぎが困難になり、多くの子どもを世帯内に抱えることになった。

第3に「重助」夫婦に生まれた娘。この家も貧しく、子どもたちは次々に奉公に出た。面白いのは、「重助」夫妻の死亡後、娘の一人がおそらくは絶家を避けるため奉公から戻ってきたことである。ところが彼女自身、生涯独身で、53歳にして大坂に奉公に出てそのまま死去し絶家となっている。「重助」家には相続すべき財産もほとんどなかったと思われるが、やはり絶家は避けるべきという意識があったのだろうか。しかしその後、養子も取らず絶家しているのでよくわからない。

これらの例からわかるのは、当時の人がかなり広範囲に移動していたこと、奉公とはいえ、暗いイメージばかりではなく、奉公を機縁として結婚し家族を形成したり、都市住民になっていったことなどだ。さらには、婚姻や養子を通じて「士」と「農工商」がまじりあっていたことも注目される。そして養子の慣行が、農民相互間で想像以上に広く行われていたのも面白い。しばしば彼らは、実子がいるのに養子を迎えて家を相続させた。明治民法以前の日本の「農民の家の継承は、はるかに変化に富んだものであった(p.177)」。

江戸時代後期には、日本は気温低下に見舞われて東北太平洋側や北関東で大きな人口減に見舞われた。同時期、同じく人口減少したのが近畿地方である。近畿は京都や大坂を擁し、経済発展していたにもかかわらずなぜ人口が減ったのか。それは、都市への集住が疫病の流行などを背景に平均寿命を短くし、また出生率を低めたのが理由だったと考えられる。北関東などとの人口減少とは全く理由が違うのである。逆に言えば、農村の余剰人口を都市が吸収していたことになる。つまり都市は農村の人口を一定に保つ安全弁の役割を演じていた。西条村の人口分析はこれを鮮やかに示している。

農村から都市へ一定の人口流出があったことは、もう一つの人口学的メカニズムを生んだ。出稼ぎ奉公してそのまま一生を終えるのは小作層世帯民が多く、小作層の家では絶家の割合が多かった。では小作層は少なくなっていったのかというとそうではない。それは、地主層が分家して下方に身分移動することで、常に小作層世帯を供給していたのである。出稼ぎ、小作層の絶家、地主層の分家がうまくバランスを取り合うことで人口と階層割合が一定になっていたのだ。

このことを考慮すると、西日本の各地で幕末に人口増大が続いたのは、近くに大都市がなく奉公先が限られていたことが理由と考えられる。幕末期には西日本の人口増大は限界にまで達していたと思われる(幕末以降の人口増加が低いため)。薩摩や長州、土佐などは江戸時代後半に最も人口増大した地域だった。「人口増大が限度をこえてもたらした社会的緊張が、藩の心ある人々に、危機感を抱かせ(p.203)」、明治維新につながったのかもしれない。

本書は、濃尾地方の一農村の人口という地味な分析を述べたものだが、江戸時代の社会の在り方を考える上でのヒントがたくさん含まれている。特に出稼ぎ奉公についての実態は興味深かった。このような分析が日本各地で行われることでもっと多くのことがわかるだろう。寺院過去帳の分析も見てみたいと思った。

江戸時代の農村の人々がダイナミックに流動していたことを示した良書。

【関連書籍の読書メモ】
『人口から読む日本の歴史』鬼頭 宏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_1.html
日本の人口の歴史を述べる本。江戸時代を中心として、日本の人口の増加と停滞を概説した良書。

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2024年3月19日火曜日

『日本霊異記』原田 敏明・高橋 貢 訳

日本最古の仏教説話集。

『日本霊異記』は、正式な書名を「日本国現報善悪霊異記」といい、平安時代の初期に薬師寺の景戒(きょうかい)という僧によってまとめられた。その書名のとおり、テーマとなっているのは因果応報だ。善い行動にはよい報いが、悪い行動には悪い報いが現れた…という不思議な話が簡潔でテンポの良い文体で次々と述べられる。

原本は上中下の三巻に分かれ、説話がほぼ時代ごとに配列されており、 上巻は奈良時代以前から聖武天皇の時代、中巻は聖武天皇から淳仁天皇の時代、下巻が称徳天皇から嵯峨天皇の時代までである。

景戒がどのような人物だったのかわからないが、正式な僧であったことを考えると、本書に著された仏教思想は、この時代の公式的な仏教理解とさほど離れてはいなかったと思われる。本書は、当時の人が理解していた仏教の具体的姿を髣髴させるものとして大変興味深い。

まず、本書では「因果の道理」があたかも自然法則であるかのように記述されている。何か善いことや悪いことを行うと、それが結果に直結する。ほとんどの説話では、まるでリンゴが重力に引かれて落下するような説明で、善悪の報いが完成する。これがユダヤ教やキリスト教であったら、善悪の行動→それを神が認知→神が何らかの働きかけをして結果に繋がる、というような話の構造になると思われる。一方、「因果の道理」はなんの超越的存在も必要とせずに実現するのである。

ただし例外もあり、上巻5話では「善神の加護だと言ってよい(善神加護也)」、中巻1話では「仏法守護の神はこれを喜ばず、その怒りにふれた(護法嚬嘁。善神惡嫌)」、中巻36話では「仏法守護の神が罰を与えたのである(護法加罰)」、下巻19話では「仏法の守護神が空から降りて(神人自空降)」、下巻29話では「仏法の守護神がいないことはないことが本当に分かった(諒知、護法非無)」、下巻33話では「仏法守護の神が罰を与えたことを少しも疑ってはならない(更不可疑、護法加罰)」、とされている。こうして書き出してみると結構あるように思うが、これ以外の話ではなんのメカニズムの説明もなく善悪の報いが現れている。

また、「善神・護法(の神)」が因果応報を仲介する場合があるにしろ、この重要な役割を担う「善神・護法」の存在が曖昧で、固有の名称すら持っていないことは、教義の未完成さを示唆している。ただし、閻魔王はたびたび登場し、現世での善悪の行いを踏まえて量刑をしている。とはいえ、閻魔王は「因果の道理」そのものを司っているのではなく、あくまでも(主に地獄への)転生の番人として振る舞っている。

なお、現世で因果の報いが現れることを「現報」と言い、本書には現報の事例が数多く収録されている。よい現報は(1)盲人の目が見えるようになるなどの奇跡、(2)苦難からの救済、(3)長寿・子孫繁栄、が中心である。けっこう現世利益的な現報もあり、特に上巻31話で、仏道修行をした人物が「南無、銅銭一万貫、白米一万石、美女大勢召し給え」と祈願して手に入れた話は、我々の考える仏道修行とあまりにかけ離れた煩悩満載の願いで面白い。一方、悪い現報は、ほとんどの場合、悪死(悪い死に方)である。悪死という言葉は一般的ではないが、本書には頻出する。

来世で報いを受ける事例もある。それには、地獄に落ちる場合と動物に転生する場合がある。動物への転生では、特に牛に生まれ変わった事例が多い(上巻10話、20話、中巻9話、15話、32話)。牛は身近にいてしかもひどく働かねばならない動物だったからだろう。

いうまでもなく、仏教の教理では、生き物は六道を輪廻するとされている。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天の6つの世界で、これを生まれ変わりながら苦しみ続けるというわけである。ところが本書には、地獄へ行く話や動物(畜生)に生まれ変わる話はあるが、餓鬼・阿修羅・天に行く(生まれ変わる)話は全くない。これらの世界は具体的なイメージを伴っていなかったのかもしれない。

本書は全体的には仏教の因果応報を喧伝するが、一部は仏教とは全く関係のない不思議な話も収録されている。例えば、 上巻1話は雷を捉える話、上巻2話は狐を妻とした男の話である。

一方、一見仏教的であるが、その実、全く仏教教理に則っていないのが上巻12話と下巻27話。この2話は、肉身に殺された者の髑髏(の霊)が旅人の協力を得て復讐し、旅人に恩返しをする、という共通した構造を持つ。これは復讐や恩返しという因果応報の枠組みに則ってはいるが、髑髏の霊が、生まれ変わらずにずっと現世に留まっている、という点で仏教教理に則っていない。元来の仏教では、霊は中有の期間(いわゆる四十九日)を過ぎたら生まれ変わる(来世へ行く)とされているが、ここで髑髏の霊がいつまでも留まっているのはなぜなのか。後世に広まることとなる、非業の死を遂げたものの霊はいつまでも現世に留まり続けるという観念(→御霊信仰)は、すでに奈良時代にその観念が芽生えていたようだ。

なお、平安時代以降に関心の的となる極楽往生については、本書では上巻22話や下巻39話でちょっと触れられるだけで、至極あっさりしている。この頃は極楽往生よりも、現報がより重要だったようだ。

ところで、どうして景戒は本書を編んだのだろうか。もちろん仏法を広めるためではあろうが、どこに力点があったか。それは本書で酷い目にあっている人々がどんな人であるかで推し量れると思う。それは、しつこいほどに出てくる「因果の道理を信じない(不信因果)」の人である。ということは、仏教の教理の中でも、特に因果については当時の日本人はピンと来ていなかった、ということなのだろう。因果の道理、因果応報の原則が物理法則のように存在することを示すために編んだのが本書ということになると思う。

ちなみに本書の中心である奈良時代〜初期平安時代は、国家の側では仏教の教理が最も生真面目に受け止められた時代である。その時代においても、「因果の道理を疑うべきでない」とか「仏教を少しも疑うべきでない」とか「信心のおかげだ」といったことが喧伝されるのは、逆に言えば仏教に対する疑いを持つ人が多かったことの証左だ。

中世には、仏教は膨大な典籍を博引旁証することによって論証され、「インドや中国から来た経典に間違いがあるわけがない」というような理屈で仏教は正当化されたように感じるが、本書では経典がどうこう、インド中国云々といったことは全く説かれていない。あくまでも「こんな事がありました」という日本の具体的事例のみによって仏教(というより「因果の道理」)の正統性・妥当性を示しているというところが、本書の著しい特徴だと感じた。

なお、本書に収録された話は、『今昔物語集』などのこれに続く説話文学や昔話のネタ元になっており、説話文学の淵源を瞥見する意味でも興味深かった。

※括弧内の原文については、こちらのページを参照しました。
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki.htm

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2024年3月17日日曜日

『方丈記私記』堀田 善衛 著

堀田善衛の読み解く鴨長明『方丈記』 。

本書の冒頭に、著者は「これは方丈記の読解ではなく、私の体験を述べるものだ」という趣旨のことを書いている。

それは、1945年3月の東京大空襲から始まる。著者はこの空襲の直接の罹災者ではなかったが、東京にいた。そしてこの空襲による大火災を遠望し、翌日、天皇がその様子を視察するのにも偶然遭遇した。筆舌に尽くしがたいほどの惨状の中、著者は『方丈記』が恐るべきリアリティを持って、当時の惨状を活写していたことを悟るのである。

『方丈記』には、養和の飢饉として知られる大飢饉や京都の大火が記録されている。この頃は、保元の乱や平治の乱、そして福原遷都など平氏政権の末期にあたっており、戦乱、災害、食糧危機といった人々を襲った惨状は、太平洋戦争中のそれと符合していた。そして上っ面だけ立派で人々を顧みない無責任な体制も、すでにこの当時において完成していたのだ。

19歳の藤原定家が、その日記「明月記」に「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ(=戦争なんて俺の知ったことか)」と、悲惨な時代を超越して芸術のための芸術に邁進していたことを著者は清々しく思っていたのであるが、いざ戦争の惨禍が目の前に迫ってくると、むしろ『方丈記』の迫力が著者に理解されてくるのである。そして「3月10日の東京大空襲から、同月24日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごした(p.68)」。

多くの人たちが、惨禍のさなかにあって右往左往するしかなかったのは、今も昔も同じである。しかし鴨長明は、惨禍を直視して、大局的かつ実証的に記述した。同じ時代に、千載和歌集を編纂していた藤原俊成(定家の父)とはなんという違いだろう。千載和歌集は、悲惨な時代にありながら「いったいどこに、兵乱、群盗、天変地異の影があるものであろうか(p.86)」。

長明はこの時代、失業者同然の暮らしをしていた。彼は鴨神社の禰宜の次男として生まれたが、早くに父をなくし「みなし児」になり、日々の生活に必死であったと思われる。父方から相続した家を手放して、10分の1の家に零落した。『方丈記』といえば無常感であるが、それは日々の暮らしに飽いた上級の人々の持つ「もののあはれ」などとは全く違うのである。むしろ「彼の無常感の実体は、あるいは前提は、実は異常なまでに熾烈な政治への関心と歴史の感覚(p.116)」に基づいていた。宮廷とその取り巻きたちによる虚構の世界を、世捨て人として糾弾した果てにあったのが無常感なのだ。

しかし長明は、現実の社会を透徹した目で見つめた傍観者ではない。彼が歌人として上向いてきたのは、それこそ千載和歌集に一首入れてもらったからで、彼はそれに素直に感激している。そして懸命に定家流の幽玄体の和歌を作り、地下人(非貴族)としてただ一人寄人になるのだ。だが後年、それを馬鹿馬鹿しく思ったのか、「今の体は習いがたくして、よく心得つれば、詠みやすし」と言っている。定家は300年前の言葉を使って歌を詠めと言っており、昔の秀歌や故事を残らず頭に入れておかなければ幽玄体の歌はできないのだから、それが「習いがたい」のは当然だろう。しかしそうして作り出された歌は、現実の世界とは何の関係もない歌のための歌、芸術のための芸術であった。そして言葉が現実から遊離して、現実を叙述することができなくなっていたことに、長明は気付いていた。その先に『方丈記』の散文があるのである。

彼は、生きるために懸命になりながら、この社会の馬鹿馬鹿しさにどこか倦んでいた。「世にしたがえば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり」。社会に従えば身が苦しい。かといって、従わず我が道を行けば狂人と一緒である。そして長明は、出家の道を選んだ。世の人からは「世を恨みて出家して(十訓抄第九)」と見えたらしい。長明50歳の時であった。

そして長明は、世を捨てて大原に隠棲し、理性を立て直した。そこで彼が棲んだのが、一丈四方の組み立て式住居「方丈」なのである。『方丈記』は、世界の古典文学では珍しい住居論なのだ。彼は住居の在り方から社会を考える。あまりにも有名な冒頭「ゆく河の流れは絶えずして…」も「世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」と、住居の話に繋がっていく。そしてその住居論は、当たり前のことながら、快適さや豪華さなどは全く眼中にない。

彼は、贅を尽くした貴族の邸宅が、大火で灰燼に帰すのを見ていたのだ。それよりも、人間が生きるために必要な住居は何か。大火や群盗に怯えずに、自分が自分でいられる住居とは何か。その答えが、山の中の掘っ立て小屋のような家だった。そこでの暮らしはどんなものだったか。長明に一度会ったことがある源家長が隠棲中の長明に再会したところ「それかとも見えぬ程に(=見違えるほどに)やせ衰えて」いた。現代文明の利器などない中での、自給自足の暮らしである。相当に厳しい生活だったと思われる。

にもかかわらず、『方丈記』には、山暮らしは大変だ、などとは一言も書いていない。それどころか「つねにありき(歩き)、つねに働くは養性なるべし」と言っている。一人の力で立っていることを楽しんでいたのだ。だが一方で、彼が透徹した心境にあった、ということもありそうにない。むしろ彼は、社会に「ざまあみろ」とツバを吐きかけていた。捨てられるものはみんな捨て、「言いたいことを言ってやるぞ、文句あっか!」と啖呵を切っていたのである。おそらく、長明は悟りきった隠者ではなく、相当な変わり者、偏屈な頑固者だった。「とてもかくても柔和な風流人などというものではありえなかった(p.203)」。周りの人からは狂人扱いされていたに違いない。「出家をしても、世を捨てても、六十になってもトゲののこる人であった(p.208)」。

「あの当時にあって、かくまでのウラミツラミ、居直り、ひらきなおり、ふてくされ、厭味を、これまた大っピラに書いた人というものは、長明の他にはまったくいなかったのではないだろうか(p.210)」と著者は言う。そして住居を考えることから始まった人間論は、

「夫(それ)、三界は只心ひとつなり」

という堂々たる宣言に帰着する。どんなに豪華な宮殿に住もうとも、心が安らかでなければ意味がない。だがこの「方丈」にいるときは、自分が自分でいられ、「他の俗塵に馳する事をあはれむ(他人が俗塵にまみれあくせくしていることを憐れむ)」。このセリフを、乞食に成り果てた長明がいうのが面白い。

それは痩せ我慢なのだろうか。いや、そうではないだろう。

それは社会が惨状にあるのに、連日の遊宴に浮かれていた宮廷社会に対する痛罵であり、その狂った社会の中で一人正気を保つための「われわれの唯一の逃げ口(p.237)」としての思想なのだ。

【関連書籍の読書メモ】
『定家明月記私抄』堀田 善衛 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/01/blog-post.html
藤原定家の「明月記」を蘇生させた、優れた読解の文学。

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2024年3月16日土曜日

『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著

荘園の通史。

荘園とは私有の農園(とそれに付属する土地)である。中世の歴史の下部構造をなしたものの一つが、荘園であった。墾田永年私財法から約750年、平安時代から戦国時代までの長い期間、荘園は姿を変えながら存続し、日本社会の基調をつくった。本書は、荘園の在り方の変遷を全方位的に述べたものである。

荘園は律令制の改革から生まれた。律令制では公地公民であり、人々に口分田を与えて耕作させた。中国の律令制では自ら開墾した農地の私有を認める「永業田」の制度があるが、日本の令にはこの規定はなく、農地の私有は認められなかった。

土地の私有を認めなければ、当然開墾もなされず、口分田は不足した。政府は百万町歩の開墾計画を立てたがうまくいかず、三世一身法を制定。これは社会に大きなインパクトを与えた。追って天然痘が流行して当時の人口のかなりの割合が死亡し、その鎮圧と復興のために聖武天皇は大仏を建立。743年の墾田永年私財法もその流れに位置づけられる。

墾田永年私財法は、所有できる墾田の面積に位階による制限を設けて開墾を申請制としたものである(位階による制限は772年に撤廃)。孝謙天皇は寺院墾田許可令を出し、寺院による墾田の所有も許可された。こうして土地は公田と墾田(私有地)の2本立てとなった。この墾田が初期荘園である。ただし墾田も公田と同じく租は課された。

東大寺は4000町もの墾田所有枠を与えられ、買収などによって立荘していった。造東大寺司などの官人と僧侶がともに荘園実務を担当している。

9世紀後半からの摂関期には、地震が頻発。10世紀に入ると水害と旱魃が繰り返される異常気象となり、古代村落は崩壊した。班田収授や租庸調といった人頭税は安定した古代村落を前提としていたのでこれが機能不全となり、かわって富豪層と呼ばれる有力農民が出現した。不景気で農民が二極化していったのである。こうして富豪層と貴族や官庁によって荘園の設立が急増した。

延喜2年(902)に藤原時平はこうした荘園を整理する荘園整理令を発し、また長く行われていなかった班田を実施した。しかしこれは結果的に最後の班田となり、班田制は終焉した。

摂関期には、税の徴収が困難となったため、税制の改革が行われた。人頭税(租庸調)から地税へ、そして国司の権限拡大、田堵(たと)による請負制の採用などである。

国司の権限拡大については、地方行政機関の国衙の在り方の改革ということになる。国司は決められた税さえ納めれば統治のやり方は自由になり、守(かみ)の権限が特に拡大されてそれは受領(ずりょう)と呼ばれた。摂関期には郡司の任免権も受領国司に与えられた。こうして受領国司になることは蓄財や昇進の重要な足掛かりになった。国司は課税額を決める権限もあったから、様々な意図で私領に対する税の減免を行った。その免田が集まったのが摂関期の荘園で免田型荘園という。

受領国司は国内の農地を(みょう)という単位に分けて、名の耕作と納税を負名(ふみょう)と呼ばれた農民に年単位で請け負わせた。負名の中の有力農民を田堵という。農民には名の所有権も、継続的な耕作権もなく、実績が伴わなかったら解雇されたが、逆にいえばやり手の農民にとってはのしあがるチャンスにもなった。田堵は多くの耕作者を従えて条件のよい耕作地(荘園を含む)渡り歩く企業的な「プロ農民」だった。

だがこの時期の荘園は国司の裁量で生まれた存在だったので、国司の交替によって廃止されることも多かった。新任国司は税収を上げたいために免田をなかなか認めなかった。ところが任期の終わりになると、貴族・寺社に納めるべきものの未納分を帳消しにするためや賄賂によって免田を認定した。免田の認定とその廃止が繰り返される構造があったのである。

なお国司ではなく国家によって税の減免が認められる荘園があり、これは官省符荘という。

摂関期は、古代的徴税システムが機能不全をきたしていたため、貴族や寺社への配分が滞った。国家や国司は、納税されるはずのものを、ある場所を指定して直接貴族や寺社の取り分とすることでこの問題を解決した。大局的に言えばそれが荘園の成立につながったのである。

11世紀半ばからは気候が安定して農業も安定し、平野部の開発の機運が生じた。この時期には地方行政に大きな改革も行われた。国司の課税裁量権を制限し、税の物品を米・絹・油に単純化した公田官物率法、国免荘の整理を行う荘園整理令、別名制の導入などだ。別名制とは、公領を再開発したものに郡郷を通さずに国衙に直接納税する(つまり徴税権を与える)許可「別符」を与えるものである。それまでの私領・荘園と違い、別名の領主には安定した権利が与えられたから、長期的な支配が可能になった。だが別名は荘園ではなく、あくまで国衙領(公領)であり対象は田畠だけである。

なお他に同類の制度として「保」、郡の中の徴税単位を独立させた「院」がある。

別名は在庁官人(官衙を担った土着勢力)に活用され数多く設けられた。結果として、国—郡—里という古代の地方支配体制から、公領については郡・郷・別名・保・院などが国衙に直属する体制になった。この変化を郡郷制の改編という。

そしてこの時期、「(しき)」というものが形成される。職とは、世襲される役職のことである。在庁官人は職や別名制の活用によって成長し、在地領主という地方豪族に成長していった。彼らは、国家の機能を一部分与されることによって形成されたものと理解できる。

院政期の直前、後三条天皇が延久の荘園整理令を発して荘園整理を実行した。内裏と中央官庁を再建するための財源を捻出するためだった。これはそれまでの荘園整理とは違い、国司ではなく中央政府が直接整理の実務を行い、貴族や寺社などからの干渉を排して実施が徹底された。その実務を行ったのが記録荘園券契所で、ここでは荘園の権利文書をよりどころに半ば機械的に荘園の存廃を決めた。しかしこの仕分けも、天皇・上皇や摂政・関白の後ろ盾があれば回避できた。そのため「皮肉なことに延久の荘園整理令は、当初の政策意図とは逆に、太政官を超越した上皇や摂関から特権を与えられた領域型荘園の設立へと歴史の歯車を回すことになった(p.79)」。

領域型荘園とは、田畠を中核として山野も含めた四至の領域が一括して荘園として指定されるもので、経営が在地領主に任された。摂関期には豪壮な御願寺(天皇・上皇・その妃などが願主になって設立した寺院)の建設が相次いだが、その財源として領域型荘園が活用されたこともその乱立を促した。上皇らの権力によって、それらの荘園には最初から不輸・不入が認められた。摂関期の荘園には地方分権的な色彩があるが、院政期の荘園はむしろ国家の中枢の方が荘園を利用しているようだ。

さらに知行国制も荘園の設立に影響した。知行国制とは、貴族や寺社に特定の国からあがる税収を報酬として与える制度で、国司の任免権も知行国主が持った。この制度もむしろ国家側に恩恵をもたらし、白河上皇は24か国も知行国を持った。知行国ではかなり自由ができたので、上級権力に都合の良い荘園が設立された。そして在地領主にとっても荘園を任されることにはメリットが大きかった。

こうして、数百に上る荘園を領有する本家(上皇・天皇・摂関家など)—複数の荘園を支配する領家(女房・家司)—その下で荘園現地を管理する荘官(在地領主)という3層の支配体制が成立した。これを「職の体系」という。

続く鳥羽上皇の時代には、荘園の設立はよりシステム化されて展開し、日本の国土の半分ほどが荘園になってしまった。特に御願寺とその中の院・堂の設立を名目として荘園が設立された。例えば鳥羽上皇は京都に安楽寿院を設立、そこに無量寿院や不動堂といったものが附属させられ、それぞれが大荘園領主となった。鳥羽上皇は出家するにあたり、安楽寿院領を暲子という皇女に相続させた。彼女は母の美福門院から歓喜光院・弘誓院領も相続した。彼女は出家すると八条院の称号を受け、相続した膨大な荘園群は八条院領と呼ばれる。このほか、後白河上皇によって集積された長講堂領も有名な巨大荘園群である。大寺院も同様に荘園を増やし、また門跡領もこの時代に形成された。

土地支配と税という国家の基幹システムが、国家の中枢自身によって蚕食され、私物化されたのがこの時代の荘園であったといえる。かつては「在地領主が開発した所領を貴族に寄進して荘園が成立し、その貴族も権益の安定のため、より上位の貴族・皇族の庇護を仰(p.105)」ぐことで大荘園が形成されたと理解されてきたが、領域型荘園はむしろ上からの力で成立したと考えられるようになっている(川端新「立荘論」)。

武家政権の時代、荘園は歴史を動かす次の力になった。上皇や貴族たちが荘園を設立するには、領家職・下司職も必要になるため、平家はこうした権益を一族郎党に分配することで一大勢力を形作ったのである。しかしながら、それらは上皇や摂関家との属人的なつながりによって任命されたもので強固なものではなかった。

1181年から翌年にかけて養和の飢饉が起こる。この惨状は鴨長明の『方丈記』に描写されている。そのような中で源平の争乱が始まった。戦いに勝った源頼朝は、「日本の歴史を大きく変える行為をした。それは軍功に報いる恩賞に所職を用い、敵方に加わった武士の所職を没収して味方に分け与えた(p.117)」ことである。

これは「当時としてはとんでもない脱法行為(同)」であったが、頼朝は朝廷に対する反乱軍だったから武力を頼みに上位権力の任免権を無効化した。ところが頼朝は後白河上皇と対立する意思はないと表明し、これに安堵した朝廷は「寿永二年十月宣旨」を出した(1183年)。頼朝らの脱法行為を不問にし、これまで通り年貢を出すように求めるとともに(=年貢を出しさえすれば所職のいかんを問わず)、この命に服さないものがあれば頼朝に処置させるというもので、この宣旨は鎌倉幕府の出発点となった。

また上皇は平家没官領(没収した土地)を全て頼朝に与えた。頼朝は没官領などの所職を戦功があった武士に地頭職という名称で給与した。それ(荘郷地頭)までの郡司職・郷司職ではなく、恩賞を地頭職の名称に統一することで頼朝の任免権を明確化した。

また、頼朝は義経討伐の中で後白河上皇の責任を追及し、「国地頭」の設置を認めさせた。これは国単位の支配権を与えるもので、国地頭は国中の武士を動員することができ、また兵粮米を徴収することができた。これは西国の武士を頼朝の御家人にする布石となった。国地頭は後に守護職になる。

頼朝は御家人を編成していったが、その中心となったのが在地領主としての所職である。御家人になるには、国衙の在庁官人や、郡郷司、荘園の荘官であることが必要だったのである。このあたりの記述は、「土地の支配権を認めてもらう(所領安堵)ことで御家人になった」という石井進らによる従来の説明とだいぶ毛色が違う。御家人の編成においては、むしろ上からの組織化のために土地が道具として使われた観がある。

こうして荘園制は鎌倉幕府によって大きく改変された。職が恩賞化されたことで本家や領家の任免権がなくなり、本家-領家-荘官の3層構造のうち荘官の地位が上昇したのである。これを本書では「いわば在地領主層による強力な労働組合ができたようなものだ(p.124)」と形容されている。

結果として、新たに荘園が設けられることはなくなり、荘園と公領の比率が固定化した。それは全国平均で概ね6対4であったと考えられている。ただし下司職・公文職などの荘園の所職と、郡郷司職や別名などの公領の所職は区別されることなく地頭職として給与されており、荘園と公領の違いは事実上ほとんどなかった。

こうして鎌倉時代には荘園の安定期を迎えた。それらはいわば独立した小世界であり、不入権は検断権(警察権)や債権回収権にまで及んだ。新たに開墾した土地は領家に年貢を出す必要がなかったことで新田開発が促され、農地は4~6割増大したとみられる。幕府は裏作の麦に年貢をかけるのを禁止したので、二毛作も普及した。ただし、鎌倉期には現代までの1200年間で最低気温を記録し、日本史上最悪とも考えられる寛喜の飢饉(1230~32)、その後に起こった正嘉の飢饉を経験している。

百姓の側では、中世では名の保有権が名主職(みょうしゅしき)となって明確化し、相続も可能な財産となったことが古代との大きな違いである。中世では、土地の利用権は安定していた。名は耕作と徴税の単位だったが、それと別に村や郷といったまとまりがあり、これは制度上の位置づけが与えられることは少なかったが、人々は鎮守などを中心に互助を行い、徐々に荘園や名よりも村の結合の方が重要になっていく。

こうしたことを踏まえて中世荘園の在り方を考えると、今の役場にあたるものが荘園であったとみなせると思う。荘園には下司を最上位とし、事務官の公文、測量・地図係の図師などの役職があり、領家から派遣された預所(あずかりどころ)などの役人もいた。ちなみに年貢は田地1反あたり2~7斗ほど。ただし米以外で納めた荘園も多く、運搬の便宜から絹布・麻布が年貢として用いられた。これ以外に雑税としての公事があり、様々な労務や物品を提供した。この中には朝廷の任務も含まれたが、六条御所の門番は各地の荘園から交替で務めていた。「一つの門で延べ1000人前後、合計で延べ5265人が動員され(p.155)」た。こういう動員の連絡はどうしていたのだろうか。かなり社会が安定し、文書行政がいきわたっていたことが推測される。

13世紀後半からの鎌倉時代後期には、荘園制がふたたび変質する。本家・領家と地頭が紛争するようになり、その紛争解決の手段として、荘園を本家・領家が直接支配する部分と地頭が支配する部分に二分する下地中分(したじちゅうぶん)が多用されたのである。地頭が支配する部分にも本家・領家への年貢納入の義務はあったが、なにしろ本家・領家の支配領域ではないので年貢の納入は期待できなかった。そして本家・領家自身が荘園業務の実務を行わなくては支配権が確立できないなら、そもそも本家・領家の存在意義もなく、本家と領家は支配権をめぐって争い、どちらかが実質支配するようになった。こうして支配の3層構造がなくなり、一つの荘園を一つの領主が支配するようになった。この領主を本所といい、一つの領主によって支配される荘園の領域を一円領という。なお貴族や寺社が支配する領域は寺社本所一円領と呼ばれ、軍役を負担しなくてもよかったから、荘園か公領かの区別よりも重要になった。

13世紀後半には、もう一つの大きな変化があった。貨幣経済の進展である。大陸から輸入された宋銭は広く流通し、やがて年貢も貨幣による納入に置き換わっていった。そのため米を換金する時期や市場を選ぶことで差益を生むことができ、荘官・金融業・手工業を一人で兼ねて富を生み出すビジネスモデルが生じた。荘園の支配や年貢収納はこれまでとは違った利益となり、これを代行する代官が増えた。代官には世襲権がなく契約制だったが、そこから利益を求めて既存の枠組みにとらわれない「悪党」が生まれていく。

御家人制が廃止された建武の親政を経て、南北朝の動乱期に至ると、荘園制は再び変質した。源平の合戦に比べはるかに大規模かつ長期間化した南北朝の動乱では、前線に立つ守護の権限が強化されたからだ。知行国主は公領の領主としてだけの意味になり、守護が領域的支配権を有すようになって(守護が寺社本所領の年貢の半分を徴収できる半済令(はんぜいれい)はその象徴)、荘園の所有にも守護の承認が必要となった。また遠方の所領を経営することは不可能になった。

戦乱が収束に向かうと、強大化した守護の力を抑えるため、守護在京制が導入され、半済の撤回や規制を行う応仁の半済令が発せられた。「職の体系」とは別の形で、京都に集住する諸領主層が地方の所領を支配する体制が再建されたのである。

本書にはこの時代の丹後国の領主別構成割合が円グラフになっておりこれが興味深い(p.213)。それによれば寺社32%、幕府関係者等28%、守護領・守護被官16%、国人15%、不明7%となっているが、京都公家は2%しかない。つまり鎌倉室町を経て、没落したのは京都の公家、権門を維持したのが寺社、そして勃興したのが守護ということになる。

南北朝・室町期には村落結合が成長し、また貨幣経済がさらに進展。信用送金のシステム割符(さいふ)もできた。信用送金が発達したのは、宋銭での年貢納入は10円硬貨で何百万円もお金を払うようなもので不便だったからだ。

荘園の支配には、管理委託を請け負う代官が多用されたが、代官には大まかに(1)領主の組織内の人員(直務代官)、(2)僧侶や商人、(3)武家代官の三種があった。ここで面白いのはもちろん(2)で、山僧(→おそらく山門派=延暦寺の僧を指している)や禅僧は財力もあり、幕府や守護との結びつきもあって様々な問題への対処能力も高かった。巨大な荘園領主となった五山派では、教学に携わる西班衆(さいばんしゅう)と、寺の経理や管財を担当する東班衆に分かれており、東班衆は荘園経営・経理の専門集団であった。それらの僧の一部は荘園の代官に任じられて「荘主(そうず)」と呼ばれた。なおその人事権は室町幕府にあった。

この時代、荘園経営に代官が活躍し、年貢の徴収権が「あたかも利権を生む証券のようにやり取り(p.230)」された。この代官請負制が「中世荘園制の最終段階に現れた支配形態(同)」である。もはや領主権は有名無実化していたといえる。

南北朝・室町期は、気温・降水量がともに激しく変動した。応永27年(1420)には応永の飢饉に、1430年頃には異常な高温に見舞われ、徳政や年貢の免除を求める土一揆(つちいっき)が頻発した。室町幕府は将軍権力が弱体化していたからこれに応えざるを得なかったが、荘園は独立した小世界だったため有効に対処できなかった。さらに1450年代には気温が急降下し、1459~61年に寛喜の飢饉と並ぶ中世の二大飢饉である寛正の飢饉が発生した。

こうした中で応仁の乱が起こり、荘園制の核だった京都が破壊されたことで守護在京制も崩壊。京都と地方を結ぶ物流や商人のネットワークも致命的な打撃をこうむった。こうして荘園制は終焉した。ところが荘園は何百年も続いた制度だったので急にはなくならず、徐々に「惣(そう)」という自治村落に再編されていった。荘園が否定されたというより、かつて荘官が行っていた業務の大半が村落によって担われるようになったと理解できる。そして土地支配権は、荘園領主から任命される名主ではなく、土豪や地侍という自然発生的な小領主によって保持された。

本書は全体として、荘園の歴史を教科書的にまとめており、非常に勉強になった。また、気候変動が端々に触れられているのも興味深かった。農業の消長を考える上で基盤となる気候のことが従来よくわかっていなかったのであるが、最近の研究によってこれがかなり正確に明らかになり、史実と照応できるようになったことは大変な進展であると感じた。

そして荘園制の最終形態を迎えていた室町期については、その豊かさが気候に恵まれたためではなかったというのが意外だった。荘園制によって究極の地方分権となり、各地で利益を最大化する取り組みが行われると同時に、国の中心である京都との強固なつながりがあったことが豊かさをつくったのである。

なお、本書を読んでもわかったようでわからなかったのが別名制である。今に残る「別府」の地名はこの名残と考えられるが、多くの荘園の名前は失われたのに、別府が残ったのはなぜなのだろうか。

荘園を学ぶ上での基本図書。

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