2024年4月29日月曜日

『近代天皇制と伝統文化──その再構築と創造』高木 博志 著

近代天皇制と伝統文化との連関を論じる本。

明治維新以降の近代天皇制においては、前近代の文化を再構築した「伝統文化」を不可欠とした。郷土愛が愛国心に包摂されていったのも、近代日本のアイデンティティの確立にも、国体を体現する伝統文化が大きな役割を果たしていた。

一方で、明治政府は神仏分離政策によって神仏の文化を変容させ、また近世の様々な文化を迷信として退け、破壊してもいた。維新以降の政府が天皇制のよりどころとした「伝統文化」は、自然発生的に形成されてきたものではなく、遡及的に再構成されたものであったのである。伝統文化という概念そのものが、政府に都合よく取捨選択されて生み出されたものなのだ。

第I部 天皇制

「第1章 伝統文化の再構築と創造」では、京都の位置づけの変化を中心として、明治政府の伝統文化政策を述べる。

明治初年においては、政府は開化政策にやっきになっていた。しかし明治10年、約半年にわたり京都に天皇が滞在した行幸を契機として、「世界の「一等国」には歴史や伝統文化が不可欠とのコンセプト(p.21)」が浮上する。

神仏分離以降、等閑視されていた皇室関係寺院や(歴代天皇の陵があった)泉涌寺(せんにゅうじ)も、この頃に保護が始まる。もっとも、神仏分離政策によって皇室祭祀は全て神道によることとされたため、仏式の法要等はあくまでも皇室の私的なものと整理された。

明治16年(1883)には、岩倉具視の「京都皇宮保存ニ関シ意見書」で京都復興策が提起される。そこでは即位式・大嘗祭を京都御苑で行うことを核とし、賀茂祭・石清水放生会・春日祭の「旧儀」を復興するなど古都京都の旧慣保存を訴えた。1880年代は、近代化と歴史や伝統が組み合わされて、国家のアイデンティティの形成が図られる時代だった。そうした情勢の中、明治16年2月には宮内省に諸陵寮が復活。6月には泉涌寺の開山俊芿(しゅんじょう)に大師号が宣下された。

明治19年(1889)、伊藤博文は、所在の分からない山陵があるのは「外交上信を列国に失ふ」と述べ、同年、未治定の13陵が一括して決定された。現在の外交感覚から見て、伊藤博文の懸念は全く理解できないが、歴史と伝統こそ国の立脚するところとの観念があったためであろう。

こうした旧慣保存政策の嚆矢となったのは、明治4年(1871)4月の「大学」からの建言「経歳累世ノ古器旧物敗壊致候モ不顧、既ニ毀滅ニ及候(p.31)」との批判である。この時期、未だ廃仏毀釈は一部で進行中であったし、同年11月の大嘗祭は京都ではなく東京で行われ、依然として前近代の伝統は軽視されていたが、経文・仏像・仏具などが「古器物」として位置付けられた。ただし町田久成などがおこなった翌年の宝物調査でも、仏像はあまり取り上げられなかった。仏像は、信仰がなくては意味がないものとの観念があったのかもしれない。

町田は、社寺の貴重な宝物が国外に流出することを懸念し、宝物の保存に取り組んだ。明治10年(1877)の大和行幸の際、法隆寺から宝物献上の願いが出されたことを契機に、皇室は大量の御物を集積することとなり、御物は一般の文化財と別に秘匿された形で保存されていくことになる。

一方、明治11年(1878)には内務省が社寺の「創立再興復旧」を認める。追って400年前を指標にした古社寺に限定されるが、建造物の保護政策が採られた。さらに翌年、大隈重信は延暦寺の「旧観」保存を訴える。内務省社寺局長の桜井能監も大社寺の法会などの復興を建議している。

こうした趨勢の背景にあったのは、列国との関係であった。列国は近代的な相貌の裏に、王室儀礼を重視するなど伝統文化をアイデンティティにしていた。各国に独自の文化があることが「一等国」に不可欠だと考えられた。特に岩倉具視は東京と京都を、ロシアにおける首都モスクワとサンクト・ペテルブルグの関係になぞらえ、首都と古都の役割分担を構想した。その背景には、京都在住の華族たちを保護する意図や、彼らの意向があった。

しかし、京都の伝統文化は、近世以前のまま保存されたのではなかった。それを象徴するのが京都御所・御苑である。京都御所は近世には庶民にも開かれた場所だったが、外交に活用するための場として再整備された。同時に、東京の皇居も伝統を強調する形で整備された。

この頃の政府は、対外的には伝統と歴史を強調しつつ、同時に近代国家としてのしつらえを整えていた。そんな中でも、私的な領域では実際の伝統が細々と連続していた。宮中でも、仏教信仰は続けられ、とりわけ英照皇太后・昭憲皇后は泉涌寺に帰依した。1895年、明宮(はるのみや=後の大正天皇)が病気になった時は泉涌寺で焰魔天供が執り行われている。さらに1912年、明治天皇の強い意志により、京都の桃山に御陵が造営された。明治天皇の死が、古都京都の変化の区切りとなった。

「第2章 近代皇室の仏教信仰」では、維新後の皇室で続いた私的な領域での仏教信仰とそれを担った泉涌寺について述べる。

中世後期から近世の歴代天皇が葬られたのが京都の泉涌寺である。同寺の月輪陵(つきのわのみささぎ)には、後水尾天皇以降、仁孝天皇までが九重石塔で葬られている。泉涌寺は応仁2年に炎上したが、後水尾天皇の院宣により再興されて近世の御陵所として確立。また慶応元年(1865)の孝明天皇の勅「皇祖御尊敬之訳ヲ以、諸寺之上席たる」は明治以後の地位向上の根拠となった。

しかし慶応2年、孝明天皇の葬儀は火葬の形式を廃し、僧侶を排除した形で行われた。その山陵後月輪陵は円丘で、泉涌寺と分離する形で造営される。明治4年には皇室の神仏分離が行われ、京都御所の御黒戸も廃止。門跡号や比丘尼御所、院家、院室など、皇室が仏教界を後援する枠組みが否定され、大元師法や後七日御修法といった皇室の仏事も廃止された。同年11月には、恭明宮が完成し、御黒戸の位牌等が奉遷され、京都在住の60歳以下の隠居女房・薙髪女官等がことごとくそこへ移り住んだ(明治6年、恭明宮は廃止)。同年、社寺上知令によって泉涌寺の寺領も大きく削減され、財政的に困窮した。

また泉涌寺は真言宗の所管となった。明治9年(1876)には泉涌寺や仁和寺など32寺に定額金が下賜されることとなり、京都の各寺院から泉涌寺に歴代天皇の尊牌が合併された。翌明治10年(1877)、京都府は泉涌寺改革に乗り出し、長老以下、住職9名が罷免された。そして翌年、内務省が真言宗古義派の佐伯旭雅を長老に任じて、旧スタッフを一掃して皇室との関係が再樹立された。この頃から旧慣保存策の一環で、明治初期とは逆に保護が加えられるようになる。特に、未解決であった歴代皇妃・皇親の祭祀を泉涌寺が行ってきたことが、彼らを供養し続ける同寺の存在を重くした。

そして皇室においても仏事が私的な領域で認められた。ここで面白いのは、明治11年(1878)の規定で、歴代の天皇・皇妃・皇子女等は神式で祭ることとするが、宮中の奥向きや英照皇太后宮や旧女官からの神祭の献物は、3分の1は陵墓掌丁に下し、3分の2は泉涌寺の僧侶に配分することとしている点だ。皇室で仏教を棄てなかったのは女性であった

明治16年(1883)、泉涌寺は天智天皇以降の歴代天皇の菩提寺として位置づけられ、宮内省との関係はさらに緊密となった。明治30年(1897)、英照皇太后が死去すると、表向きは神式で葬儀が行われたが、実際には泉涌寺としても密教の引導法要を行った。もちろん国家の側はそれを好ましく思わなかったが、生前、皇太后が仏教に帰依していたことやこれまで仏式で歴代皇族が供養されてきた歴史を楯に泉涌寺側は認めさせた。

明治31年(1898)に死去した山階宮晃親王の場合は、遺言では「真言宗勧修寺之例」で葬儀・供養を行うよう希望されていたが、公的には却下された。だが実際には私的な領域では仏僧が行われた。なお山階宮は40代後半まで僧侶として生活を送ったが、文久4年には宮門跡の還俗推進・門跡廃止論を唱えている。維新後は京都に隠居し、「近世と変わらない神仏習合的な信仰世界に生きた(p.95)」。

第II部 歴史意識

「第3章 奈良女高師の修学旅行」では、奈良女子高等師範学校の修学旅行を取り上げて、近代の修学旅行の意義を述べる。

修学旅行といえば、現在では卒業までに1回だけ行くものとなっているが、1900年代初め、元来の修学旅行はそうではなかった。例えば京極尋常小学校(京都)では、各学年が行くものだったし、梅屋尋常小学校では毎月行われた。春秋の2回、各学年が行く学校もあった。そのように度重なる旅行が行われたのは、実際に歴史の現場を見て回ることに大きな教育的効果があったからである。そして最終学年での伊勢への修学旅行が一般化していることは、それが単なる歴史の勉強ではなく、敬神の観念と結びついていたことも示している。修学旅行は皇室の聖地をめぐるものであった。

そこには、旅行が一般化していく趨勢も影響していた。修学旅行は、多くの階層の子どもにとって初めて行く均質な「旅行」だった。尋常小学校の修学旅行によって日本のツーリズムの文化が広まったともいえる。

本章では、こうした修学旅行の在り方について、奈良女高師の例を通じて分析している。奈良女高師では卒業するまでの4年間に10回以上の多様な修学旅行が持たれた。そこで巡られたのは、神武陵・橿原神宮・飛鳥の古寺、豊臣秀吉関連の史蹟、嵯峨野など古典文学と関連する場所、西陣織・清水焼の工場や試験場など産業関連の場所、神社仏閣といったものだ。それらは、考えなしに巡られたのではなく、教育的意図を持って計画され、文系理系でコースを違えるなど、国家にとって必要な知識を習得するように構成されていた。

「第4章 「郷土愛」と「愛国心」をつなぐもの」では藩祖三百年祭をキーにして地域の歴史が国史に包摂されていく経過を述べる。

日清・日露戦争の時期が、幕藩体制の開始から300年後にあたっていたため、各地で藩祖三百年祭が行われた(著者はこれを「紀年祭の時代」と位置づけている)。この時代に、「郷土愛」と「愛国心」が接続されたと著者は見る。

この時代、(1)「武士道」が国民全体の倫理思想になり、(2)名教的歴史学(道徳のための史学)が確立、(3)国民道徳が広く流布するようになって(例:井上哲次郎)、(4)「国史」と「郷土史」が連動するようになる。つまり、地域の歴史が国家の歴史の中に、名教的なものへと変換されつつ、位置づけられた。

維新政府は、当初「賊軍」への慰霊を認めなかったが、明治7年(1874)にこれを認め、また明治22年(1889)の大赦令で「賊軍」の罪は公的に許された。こうしてかつて賊軍とされた旧藩主家らにとっても、日本国は敵対的なものではなくなっていった。

このような趨勢の中、明治22年の東京開府三百年祭が紀年祭ブームの幕開けとなった。徳川家康への顕彰がおおっぴらに行われ、しかもそれは明治天皇への崇敬と矛盾していなかった。この祭典は地方へと波及し、金沢開始三百年祭、前田利家三百年祭、仙台開府三百年祭、そして平安遷都千百年紀年祭など、国家との関係にかかわらず、各地で紀年祭が催されたのである。

それらの藩祖顕彰活動で強調されたのが、歴代の藩祖が「勤王」であったとの事績であり、国家もこれに応えて旧藩主へと追陞・贈位を行っている。なお、藩祖顕彰においては、それを祀る神社が紀年祭の時代に先立って創建されていた。例えば伊達政宗を祀る青葉神社が1874年に創建され、1914年には県社であった青葉神社を別格官幣社に昇格させようとする動きが現れた。

こうした時代を経て、大正6年(1917)の戊辰政争50周年の各地の記念式典が「賊軍」の慰霊や顕彰の画期となった。

地域の歴史が国家に位置づけられたのは、国家の側からの動きというよりは、地域の側からの自発的な動きと考えられる。しかもそれは他の城下町との対抗的な意識から、競って国家の側に立っていった結果であるように思われる。こうして自然には繋がらない「郷土愛」と「愛国心」が連動するようになるのである。

「第5章 桜の近代」では、近代日本において桜にナショナリズムが託されていたことを述べる。

桜は、近代日本にとって特別な存在だった。しかも在来の山桜やしだれ桜ではなく、一斉にさくソメイヨシノこそが重要だった。ソメイヨシノは、「文明」や「近代」を表すものとして爆発的に普及した。ソメイヨシノは、まず堤防や軍隊・学校、郊外住宅など、近代的な景観とともに植えられる。

本書に述べられる弘前の場合は象徴的だ。弘前では、荒廃した弘前城に旧藩士が1882年に桜を植えたが、城を物見遊山の場にするのかと非難を浴び伐採される。ところが日清戦争後には、陸軍省が軍用地としてきた城址を市や旧大名家に払い下げる動きとなり、弘前城も公園として整備される。その頃には、桜は武士道や男性性の象徴とみられており、弘前城にも日清戦勝記念として植えられて、津軽の御国自慢の表象となっていった。城と桜との組み合わせは全く伝統的なものではないが(伝統的には城と松)、「日本文化」を表すものとして海外へのイメージとしても使われた。

逆に京都では、ソメイヨシノは歓迎されなかった。在来の桜の文化や歴史があったからだ。対外的には日本文化を象徴していたソメイヨシノが、伝統都市である京都では忌避されていたのが面白い。

桜は、コロニアリズムとも関わっていた。朝鮮には盛んにソメイヨシノが植えられたのだ。朝鮮での「1911年から1925年までの記念植樹の面積は8万1212町、本数は約2億4336本にのぼった(p.194)」。昌慶苑(李氏朝鮮時代の王宮を公園として整備した場所)にも、日本の城址に桜が植えられたようにソメイヨシノが植えられ、桜の名所となった。桜によって、朝鮮の王権と朝鮮の文化が上書きされた。朝鮮にも在来の桜はあったが、その価値は日本人からは、取るに足りないものとみなされていた。そして「桜の花は日本文化固有という言説は、桜を同化の象徴とするイデオロギーと表裏一体にあった(p.197)」。

もちろん、朝鮮人からは桜は冷ややかに受け止められていた。だからこそ、昌慶苑の桜は解放後に伐採されたのである。しかし、今ではソメイヨシノが近代日本のナショナリズムを表象していた記憶も薄れ、現在では朝鮮でも桜が植樹され、日本と同様に桜前線が報道されている。

なお、本章を読んで、桜と軍との結びつきに改めて気付かされた。靖国神社や千鳥ヶ淵には桜があり、 特攻機「桜花」があり、軍歌「同期の桜」があるのだ。一斉に咲き、一斉に散るソメイヨシノは、軍隊との相性が良かったのだろう。近代日本を象徴するもう一つのアイテム「制服」にも、そのボタンに多く桜がデザインされていたのはおそらく偶然ではない。

第III部 文化財

「第6章 20世紀の文化財保護と伝統文化」 では、第一次世界大戦後の文化財をめぐる動向を述べる。

1911年、史蹟名勝天然記念物保存協会が発足する。会長徳川頼倫(よりみち)、副会長徳川達孝(さとたか)以下、井上友一、床次竹二郎、九鬼隆一(以上官僚)、山口鋭之介(宮内省諸陵頭)、正木直彦、本多静六、黒板勝美、三上参次(以上学者)などがメンバーであった。それは単に旧蹟を保存するのではなく、欧米の文明を相対化し、日本の「国体」や日本独自の文明を探る取り組みであった。

1919年史蹟名勝天然記念物保存法が貴族院に提出される。内務大臣の水野錬太郎は、史蹟等は「国家ノ精華ヲ発揚スル」ものだと述べ、地方改良運動以来の国民教化と史蹟名勝保存をリンクさせた(※水野錬太郎は、神社合祀運動の時の内務省神社局長である)。つまり、史蹟名勝は、愛国心を涵養し、国威発揚に役立つもの、ナショナリズムの道具として捉えられたのである。

しかし、史蹟名勝への捉え方には2つの立場があった。第1に国民の厚生や観光を重視する本多静六が代表する立場。第2に保存を優先させる黒板勝美・上原敬二などが代表する立場である。 

このうち黒板勝美は、史蹟名勝天然記念物保存法の制度を作った張本人。黒板は国民道徳を重視した歴史家で、「もし黒板勝美が1936年に倒れなかったら、紀元二千六百年事業をはじめ戦時下の歴史学動員の大部分を、平泉よりも黒板が担うことになったであろう(p.215)」と著者は言う。黒板はヨーロッパ留学の際に各国がギリシア文明を盛んに研究していることを目の当たりにし、逆に現地で文化財が保存されていない(各国の博物館で保存されている)ことから、現地保存の重要性を逆に思い知った。

そこで彼は、帰国後の1912年に「全ての史蹟遺物を差別せず、そのままの現状を保存すべき」とする意見書を提出した。彼は東京帝室博物館に全国から仏像などを美術品として集積するのではなく、社寺で現地保存する施設をつくるのがよいと言っている。この構想は日本では実現しなかったが、朝鮮ではある程度実現された。

また黒板は史蹟の開発に批判的で、欧米の物質文明に対抗して、日本ならではの自然と共存した文明のありようを模索していた。黒板の思想には、そういう先進的な面があったが、史蹟名勝の保存は「国民に公徳心を養成し、国土を愛し、家郷を愛」するために行うという思想も併存していた。これはドイツの郷土保護運動の理念が援用されていた。黒板は史実とは異なることを認識しながらも、「名教的歴史」(国民道徳としての歴史)を重視した。

そして、ツーリズムの隆盛を受け、史蹟名勝が活用されるようになる。これは国民に娯楽を提供する意味と外客の誘致の両方の意味があった。1930年前後の世界的な国立公園指定のブームの中、日本でも国立公園が検討された。内務省では、保護を重視する立場と国民的利用(開発)を重視する立場で対立したが、結局、開発を重視する内務省衛生局が主導し、1931年、国立公園法が公布され、最初の12の国立公園が指定された。

このような趨勢の一方で、文化財から切り離され、国民から秘匿されていったのが皇室財産である。陵墓についても桜は相応しくなく、常緑樹を植えるべきだとされ、荘厳な空間、近寄りがたい空間へと変わっていった。明治神宮の造営事業が、「皇室や神社の景観をめぐる大きな画期となった(p.223)」。常緑広葉樹が第一次大戦後の陵墓や社寺、鎮守の森の「創られた伝統文化」になった。

「第7章 現地保存の歴史と課題」では、これまでの論考とはうって変わって、近年における文化財の現地保存について考察される。

かつて先進国に文化財を奪われた国が、近年その返還を求める運動が行われている。ヨーロッパ諸国に文化財を持ち出されたことは、適切な保存が可能になったというよい面もあるが、その文化財が生まれた国・場所で保存される方がずっとよい。

翻って、日本でも地方の文化財は近代に入って中央に吸い取られてきた。埋蔵文化財を担当する職員が都道府県・市町村に配属されるようになったのはようやく1960年代後半であり、それまでは地方で発掘・保存することが不可能であったとはいえ、それは地方からの文化財の略取であった。黒板勝美はこうした動向に批判を加え、現地保存の方が「遺物の価値は最も多く発揮」できると主張し多くの賛同を得たが、文化財保存行政の中央集権的性格は改まらなかった。

現在、国際的にも文化財の返還は必ずしも順調になされていないが、「文化財は本来あった場所において、地域社会の文化とともにあるべき(p.256)」と著者は考える。

「補論 近代天皇制と「史実と神話」」では、神話や名教的な歴史が復活しつつあることへの危惧が述べられる。

天皇制の根幹には神話がある。しかも近年、一度否定されたはずの神話が復権しつつある。さらに、史実でないとされている史蹟が大手を振って史蹟扱いになっているのも昔のままだ。例えば楠木正成の「桜井の別れ」の国指定史跡「史蹟桜井駅址」は解除されていない。

世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」では、構成遺産名に「仁徳天皇陵」があった。これは被葬者は仁徳天皇ではないと考えられており、学術的には「大山古墳」とすべきものだ。「史実と神話」を腑分けする戦後の学知が軽んじられ、神話が政治利用されつつある。

*****

本書は、2009〜2022の論文を再構成した論文集であり、著者にとって18年ぶりの単著となる。そこに通底するのは、近代天皇制がいかにして支えられたかという視点だ。近代天皇制が機能するためには、天皇の権威を演出する必要があった。その演出のために、神話が事実とされ、歴史が国民道徳とされた。しかしそれだけではなく、「皇室財産の秘匿」(国民から隔絶した皇室の象徴)が行われる一方で、同時にツーリズムが大きな役割を果たしたことが意外だった。

修学旅行は皇室のゆかりの場所、皇室の歴史を学ぶものであったし、日本の偉大さを思い知るのが史蹟名勝めぐりであった。そして、史蹟名勝が「桜」で彩られたのが興味深い。桜が近代日本の国家を象徴するものであったということは知っていたつもりであるが、朝鮮における桜の扱いはたいへん興味深かった。

そして、こうした動きの中で、今我々が「伝統文化」だと思っているものが形成されてきた。国家の側によって「何が伝統文化か」が選別されてきたのだ。それは国家が統一した意思をもって選別したのではないが、結果的には、皇室を支えるものが「伝統文化」であり、追っては国威発揚に資するものが「伝統文化」だったのであろう。

すなわち、日本の「伝統文化」そのものが国家によって創られた概念だったということになる。戦後、それとは違った伝統文化が見直されたが(例えば、被農耕民、縄文、悪党・かぶき者など)、日本は再びステロタイプな「伝統文化」に回帰しつつある。

それは、神話と道徳が綯い交ぜになり、王朝風で、常緑樹が植えられた聖域と、桜が植えられた遊興の場がある、中央集権的で均質な空間なのだ。

伝統文化そのものを近代天皇制から反省させる、警鐘に満ちた書。

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