メンデルスゾーンといえば、バッハ≪マタイ受難曲≫の伝説的な復活上演で知られる。本書は、≪マタイ受難曲≫と、全曲演奏を果たせなかったバッハの≪ミサ曲 ロ短調≫について述べ、メンデルスゾーンがいかにバッハに傾倒し、その伝統を継承していこうとしたか示している。さらに自作オラトリオ≪パウロ≫と最後の大作となった≪エリヤ≫について詳細に検討し、メンデルスゾーンがこの2つのオラトリオに懸けた思いを考察している。
メンデルスゾーンはユダヤ系ドイツ人であったが、ユダヤ人の両親は子どもたちをキリスト教徒として育てる(具体的にはプロテスタントの洗礼を受けさせた)。その理由は、子どもたちには「キリスト教が教養ある人々の信仰のかたちだからである(p.227)」と述べているが、それは両親がユダヤ教徒として生きる不利を感じていたからに他ならない。
両親はユダヤ系の「メンデルスゾーン」という姓の代わりに「バルトルディ」というドイツ系の姓を名乗る許可を得、子どもたちには「バルトルディ」と名乗るよう命じた。しかしメンデルスゾーンはフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディとダブルネームを使った。
彼は、偉大な祖父モーゼス・メンデルスゾーンを誇りとしており、ユダヤ教徒としての出自を捨て去りたくはなかったのである。しかし自身のユダヤ性に向き合っていたからこそ、メンデルスゾーンは産まれながらのキリスト教徒以上にキリスト教徒らしい音楽を作り、そしてドイツ音楽の正統な継承者としてバッハの復活に熱意を注ぐのである。
今から見れば少し奇異な感じすらするが、当時の人はバッハの音楽を退屈で難解なものと感じ、それは単に忘れられていただけでなく、いわば「音楽性」の合わないものであった。よってメンデルスゾーンはなるだけ原典に基づきつつ、当時の聴衆に受け入れられる形でバッハの作品を復活させた。その成功例が≪マタイ受難曲≫であり、なかなかうまくいかなかったのが≪ミサ曲 ロ短調≫であった。メンデルスゾーンの熱意にもかかわらず、遂に≪ミサ曲 ロ短調≫の全曲演奏を果たせなかったのは(部分的には実現した)、彼自身の多忙のせいもあるが、この大曲が技術的に難しかったという点も大きいようだ。
本書はさらに≪パウロ≫と≪エリア≫の成立の事情、バッハの影響の検証、さらには一曲ごとの分析を加えている。これはかなり細かい話である。ところが、なぜか本書には一つも楽譜が掲載されていないので、楽曲の分析はやや分かりづらい。楽譜が掲載されていれば(楽譜を読める人には)もう少し分かりやすかったと思う。一方、歌詞については細かな点まで考察しており、信仰の内容の分析は重厚である。ただし、私はキリスト教には疎いのでこの部分はあまり頭に入らなかった。
私自身の興味としては、≪エリア≫とメンデルスゾーンの宗教性について知りたくて本書を取った。≪エリア≫はメンデルスゾーンの絶頂期に作曲され、初演では空前の成功を収めた。音楽的には≪パウロ≫の方が優れているという見方もあるが、最後の大作であることもあって、メンデルスゾーンの代表作であるのは間違いない。
新約聖書に基づく≪パウロ≫は、キリスト教徒としての強い自覚があったメンデルスゾーンにとってうってつけの素材であった。ユダヤ教からキリスト教に改宗したパウロに、自身をなぞらえていたのではないかというのだ。その当否はともかく、「パウロ」という素材がキリスト教的なものであり、メンデルスゾーンの宗教性と関わっていたことは事実であろう。ただし、この作品が教会ではなくコンサートホールで初演されたことは重要だ。当時はオラトリオが「脱宗教化」していく時代でもあった。
一方、≪エリヤ≫は旧約聖書に基づく。ではこれはメンデルスゾーンが決別したはずのユダヤ性と改めて向き合って作ったものなのだろうか? 本書ではそのような見方をしていない。むしろユダヤ教とかキリスト教とか、 カトリックとかプロテスタントとかいう宗教の違いを超えた普遍的な真理を表現する素材としてエリヤを選んだのではないか? と著者は推測している。それはメンデルスゾーンの父の教えでもあった。どのような宗教を信仰していようとも、宗教の表面的な違いを超えた「唯一の真理」に到達できる、というのが父の考えだった。≪エリヤ≫の作曲には、その考えが影響しているのかもしれない。
しかし、メンデルスゾーンは厖大な手紙を書いているが、作品についての個人的な考えを語ることが極端に少なく、実際にどうであったかはわからない。とはいえ≪パウロ≫と≪エリヤ≫は、メンデルスゾーンという天才が、並大抵でない思いを抱いて作曲したことは確実であり、彼の音楽を理解する上でも重要な位置を占めているのである。
ところで、メンデルスゾーンは日本ではなぜか人気がいまいちで、現在では一冊の伝記も(新刊では)販売されていない。日本人にとって、メンデルスゾーンの思想は勿論、生涯の基本的な事項すらも謎に包まれている。そういう状況の中で、限定的なテーマであるとはいえ、メンデルスゾーンをテーマにした本が出版されたことは喜ばしい。この調子で新しい伝記が出版されて欲しいと願うばかりである。
メンデルスゾーンのオラトリオを宗教性から読み解く堅実な本。
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