渋沢栄一は、文久3年に攘夷の示威行動「高崎城乗っとり」のグループにいたが(後述)、その11年後には第一国立銀行の総監役となった。死をも辞さない熱狂的な攘夷主義者であった栄一が、なぜたった11年で近代化政策の推進者となったのか。本書は、その変化を描きつつ、一貫していたものとは何かを探るものである。
渋沢栄一は、埼玉の百姓に生まれた。といっても才覚ある祖父や父によって彼の家は豪農となり、藍玉の商売によって巨利を得ていたから、百姓というよりは商人であった。渋沢家は領主を凌ぐほどの富を持ち、文化にも遠慮なく金を使っていた。一方で、栄一が贅沢品を買ったのを見て父が非常に落胆したことがある。必要なお金は大胆に使うが、華美を嫌い、「百姓」としての誇りを持っていたのが彼の父であり、生涯、栄一はこの父を尊敬した。
そして彼は、義兄で従兄でもある、10歳年上の尾高藍香(おだか・らんこう)に大きな影響を受けた。藍香は石門心学流の実学を重んじ、経営や技術にも明るい上、儒学にも造詣が深い教養人であった。そんな彼はあくまでも江戸時代の学問の枠内から(つまり洋学の影響ではなく)、幕府の倒壊は間近であると見通すとともに、郡県制・実力主義の人材登用の新制度へと変えなければならない、と確信する。埼玉の一農民でしかなかった藍香はこうして革命を夢見て倒幕=尊皇攘夷運動に身を投じ、カリスマ的魅力でグループを組織していった。その一員となったのが従弟の渋沢栄一、従弟の喜作であり、弟の尾高長七郎であった。
そしてその決起計画が「高崎城乗っとり」であった。横浜にある外国の商館を焼き討ちするため、まずは領主の居城高崎城を夜襲して武器弾薬を奪おうというのである。そして関東一円に趣意を喧伝してその動きに呼応させ、天下の形勢を一変させようとするものであった。彼らは長州がこれによって挙兵すると考えていたらしい。
しかしこの計画は、藍香が京都に派遣していた弟・長七郎の必死の説得によって中止される。決起の準備が整った頃、同志69名が帰郷した長七郎を取り囲んで会議を行ったところ、長七郎が意外にも反対したのである。彼らの計画は一言で言えば空想的すぎた。京都で坂下門外の変などに間近に接してきた長七郎には、それが単なる犬死にで終わることが分かっていた。こうして会議は激論となった。しかし激論となったこと自体に注目すべきである。というのは、異論を唱えた長七郎を「切って捨てろ」とはならなかったからだ。彼らは狂信的な攘夷主義者であったが、「激論」を戦わせて答えを出すという、文明的な態度を持っていたのである。
こうして藍香たちは36時間もの議論をぶっ続けで行い、長七郎がもたらした時事情報を吟味した結果、計画は中止となった。議論によってこうした決断が出来たということが、彼らが血気にはやる若者集団なだけでなかったことを窺わせる。
計画中止により、一転、栄一たちは捕縛の危険にさらされることとなった。それまで計画の遂行のために大枚をはたいて武器を買い集めていたからだ。やむにやまれず栄一らは故郷を去る。逃亡同然だったが、栄一の父は出奔に際して「思うままにせよ」と述べ100両を餞別に与えた。「これは父の豪(えら)い所だと思う(p.185)」。
なお出奔に際して、栄一は父に自分を勘当するよう申し出たが(これは自分に事件があった時に実家に迷惑がかからないようにするため)、父は今すぐに勘当する必要はなかろうといい、栄一は妻子を実家に残し、喜作とともに京都に旅立った。
ところで、なぜ埼玉の農民グループが激論によって答えを出すという態度を身につけていたのか。著者はその背景に「詩」を見る。栄一が17歳の時、藍香と二人で藍の売り込み旅行に信州に出かけたことがあった。セールスの出張である。その際、二人は旅の様子を漢詩にしたため、『巡信記詩』という詩集を作った。「十七歳の農家の一青年がセールスをしながらこういう詩を作っていた時代が日本にもあった(p.166)」。二人には相当な漢文の知識があり、それは特別なことではなかった。そして詩の世界に遊ぶことは、「絶対管理されない「一貫している詩の心」(p.184)」を持っていることであった。言い換えれば、彼らはいつでも世界を日常語と違う論理によって見ることができた。しかもそれは、どこまでも個人の内面のみから生じる自由な世界であった。著者はこの漢詩の能力こそ幕末明治の人の「思考の武器」だったという。
京都へ着いた栄一たちは、しばらく旅館に泊まって志士気取りをしていたが、彼らは一介の田舎ものに過ぎず「藩」の後ろ盾がないので相手にもされない。不安になって長七郎を京都に呼び出したところが上京の途上で捕縛されてしまう。これは後に「高崎城乗っとり」とは無関係であることがわかったが、この知らせに栄一らは震え上がる。またその時既に栄一たちは無一文どころか25両の借金もあった。進退窮まった彼らに手をさしのべたのが、一橋家に仕えていた平岡円四郎という男。京都で知り合って意気投合していた相手だった。
元々栄一たちは幕府の倒壊間近と感じていたので一橋家に仕えるつもりは毛頭無かったが、平岡に説諭されて一橋慶喜の下で働くことになった。しかし自分たち自身が納得するためにも、その際に慶喜に倒幕を勧めるという異例の建言をした上で臣下になっている。よほど平岡は栄一らに目をかけていたのだろう。それに平岡にとっても、自分の手足となって絶対に裏切らない、有能な部下が欲しかった時期であった。こうして栄一は「武士」になる。百姓と武士という「身分」の移動を妨げる障壁は何もなかった。武士として雇われれば武士なのである。
平岡の下で、栄一は諜報員のような働き(大坂で、薩摩藩出身の折田要蔵を探る)をして認められ、今度は一橋家の兵隊をリクルートする命を帯びて関東で集めるが、その折りに平岡が水戸藩士に暗殺されてしまった。だが平岡の後を継いだ黒川嘉兵衛にも栄一は認められ、今度は関西で兵隊をリクルートする仕事(歩兵取立御用掛)をした。慶喜は京都守護職であったにもかかわらず、手兵がいなかったからである。栄一は456人もの応募者を連れて京都に帰った。そうなると今度は、この手兵を養うためのお金が必要になる。こうして栄一は一橋家の勘定組頭となって財政改革に取り組むのである。
当時の大坂は、為替や先物取引、両替(江戸時代の貨幣制度は複雑で、しかも幕府は紙幣を発行していなかったので両替が発達した)、質(しち)といった金融面で非常に発達していた。栄一はこうした仕組みを学び、一橋家の財政改革を推し進めた。ところが、主君一橋慶喜が将軍となってしまう。主君が将軍となれば臣下は喜びそうなものだが、栄一は幕府の倒壊は近いと思っていたから、将軍にならぬよう、と建言していたほどだった。こうして、今度は栄一は幕臣となった。倒幕論者だった栄一が幕臣となったのは皮肉なものである。
しかしここで転機が訪れる。慶喜からの命で、慶喜の弟・徳川昭武に随行してフランスへ行かされるのである。昭武はパリの万国博覧会に出席するとともにヨーロッパを巡遊し、ナポレオン3世より招待されてフランスに留学する予定だった。そこには攘夷派の志士が護衛のため随行することとなっていたが、攘夷派の心情も分かり、会計や実務に明るい栄一に白羽の矢が立ったのである。もちろん栄一自身もかつては強硬な攘夷派だったのだが、すでにその頃栄一は開国指向へと変わっていた。幕臣となっては面白くないから百姓に戻ろうとまで思っていたので、栄一はこの話に飛びついた。
この栄一の洋行で、特徴的なことが2つある。
第1に、栄一は西洋を毛嫌いしたり、逆に感化されて西洋礼讃になるようなところがなかったことである。彼は慣れない食べ物も「うまい」と食べ、西洋の新技術に感心したが、今風にいえば「フラット」だった。栄一は技術や実務といった面から西洋を見ていたから、自分の感情を交えず社会を冷静に観察した。一方、思想や宗教といったものはあまり関心がなかったようである。
第2に、彼は一行の中で会計実務を一手に担ったので、特に西洋の会計制度に熟達するようになったことだ。そして合本組織(株式会社)の存在を知り、これこそが日本の悪弊「官尊民卑」を是正する切り札になると確信するのである。一株は武士が持っても百姓が持っても一株で平等。そして利益は株式に従って分配される。財利のことを武士がいうのはみっともないという日本の常識と違い、彼は西洋諸国の君主が殖産興業(特に製鉄)に力を入れているのを目の当たりにして衝撃を受けた。しかしそれを国家による官営工業で実現するのではなく、民間の零細な資本を集めて実現するべきと考えたところに彼の非常な独自性がある。
こうして西洋の社会を実地で学んでいたところに幕府瓦解の報が入った。彼らを派遣していた政権がなくなってしまったのだ。同行者は次々と帰国。一方、栄一はなるだけフランスに留まり続けようとし、母国からの送金なしに昭武とともに留学を続けようと画策した。ところが幕府瓦解によりナポレオン3世の態度も冷淡となり、フランスに居続けることは不可能だった。滞仏2年弱。道半ばでの帰国だった。栄一29歳の時である。
帰国後、栄一の戻るべき場所はなかったから、駿河に行って慶喜に仕えることにした。ただしこれは仕事がなく困って慶喜を頼ったということではなく、慶喜への恩に報いるために百姓になってでも奉公しようという考えだった。そういう栄一にも慶喜は冷淡だったが、彼を勘定組頭に任命するなど手元に置こうとした。慶喜は情は薄かったが栄一の有能さは買っていた。だが栄一には宮仕えをする気はなかった。それよりも、フランスで学んだ「合本組織」による商業の振興に興味があった。彼は一橋家の協力も得て、民間の資本も募り「商法会所」を設立する。これは銀行と商社を足したような組織であった。栄一はこの頭取となって積極的な商社活動を行い、「水を得た魚」のように活躍した。彼はこの活動をライフワークとし、家族も呼び寄せて駿河に永住するつもりであった。
が、明治2年に突然新政府よりスカウトされて栄一は「大蔵省租税司」となる。栄一としては自分の事業を中断することを意味したからこの出仕は残念であり、新政府には反発心もあった。しかも新政府には栄一の知人は一人としていなかったから、政府内でもこの起用に反対する人がいたらしい。著者は、慶喜から栄一という有能な駒を引きはがすための人事ではなかったかと推測している。ともかくこうして栄一は新政府の一員となり、それは不本意でもあったが結果的には目覚ましい働きをする。新政府の役人はかつての志士上がりばかりで、政局に聡いばかりで実務には疎かったから、実務経験豊富な栄一が重宝された。
そして栄一は、大隈重信の下、大蔵省の「改正局改正掛長」(兼務)として制度改革に大なたを振るうことになった。これは今風に言えば政策研究所である。ここでは自由闊達な議論が行われ、アメリカの制度を参考として多くの改革が実施された(栄一はフランスへの留学経験があったのにアメリカの制度をより多く参考にした)。「明治政府における渋沢栄一の政治上の最大の業績といえば、この改正局をつくったことであろう(p.575)」
ここで栄一が提言・研究したことは、例えば全国測量、度量衡の改正、貨幣制度、禄制改革、駅伝制の改正、外資を導入しての鉄道の敷設、金納による租税納入(実施は明治7年)などである。栄一が関与したこうした改正事業は200近くあるという。なお明治3年8月には改正掛が「穢多非人の称を廃して平民籍に編入」する措置も行っている。
明治4年の廃藩置県では、藩札や藩の借金の扱いに苦心しつつも乗り切った。そして栄一は大蔵大丞(事務次官)に昇進するが、ここで新政府最大の実力者大久保利通と対立する。その要点は、栄一は各省に予算をつけて、その中で事業を推進する考えであったが(つまり今から見れば当然のやり方)、大久保らは予算(使えるお金の上限)など設定する必要はなく、その都度の必要に応じてお金を支出すればよい、という考えだったのである。陸海軍に大きな支出決定をしようとした大久保と対立して、栄一は辞職を決意した。
大久保らが岩倉使節団で外遊に出発すると、政治的対立が棚上げされたことを奇貨として近代化政策はさらに進められたが、やはり予算の対立があって栄一は井上馨とともに政府を去った。
政府を去った渋沢は、「国立第一銀行」の総監役(頭取)となる。「国立第一銀行」は栄一が設立したもので、三井組・小野組が共同で運営する国立銀行である。三井・小野は全くの対等であったから、組織が綱引きで立ちゆかなくなることを怖れ、彼らを調停する頭取として渋沢を雇ったのである。渋沢は頭取といっても雇用契約に基づく「雇われ社長」であった。なお、本書での説明は簡潔だが、この「国立銀行」は敢えて言えばアメリカの連邦準備銀行(これは民間の銀行)に近い。ポイントは紙幣の発行がこの銀行を通じてなされることである。その原資は何かというと、新政府が乱発してきた巨額の不換紙幣(太政官札など)であり、これを回収して兌換紙幣に替えてゆくことがこの銀行の当初の大きな役割であった。また大蔵省の出納事務もこの銀行でなされた。
なお、この銀行の設立にあたっても、栄一は広く株主を募っているのが面白い。実際には三井・小野の出資が大部分であるが、5分の1ほどが一般の株主の出資であった。国立銀行を株式会社的に運営しようとしたことに栄一の信念を感じる。
本書は「第一国立銀行」出発の時点で筆が擱かれている。ただし、強硬な攘夷主義者の一農民であった渋沢栄一が、たった11年後に「国立第一銀行」の頭取になる経緯が詳細に語られ、「そこには常に変わらない一貫したものを感ずる(p.658)」とされながらも、一貫したものは何か、変化したものは何か、というまとまった考察は本書にはない。
本書を通じて私なりに感じたのは、まず栄一の中で変化した点は経済観念である。栄一は豪農の息子であり何不自由なく育っている。京都に行った時も残金の計算もせずに旅館に泊まり、結果無一文になっている。そして喜作とともにネズミを捕まえて食べるのである。この時、栄一は、経済の裏付けがなかったら、いくら立派な思想や主張があっても役に立たないと悟る。ここに大きな転向があった。そしてちょうどその時に一橋家の勘定組頭という会計責任者となったことで、栄一は会計・金融の道へと入っていくのである。
次に、変化しなかった点は、おそらく身分平等の意識であろう。栄一は百姓時代、父の名代として代官に呼び出されて500両の御用金(要するに強制的な寄附)を申しつけられた。一般には500両は大金だが、渋沢家にとってはなんでもない。だが金を出させる方が偉そうにして、こちらを軽蔑しているものだから栄一は憤慨した。身分の差、というもののバカらしさを感じた原体験だったようだ。その後も一貫して、栄一は身分の差の解消に取り組んでいるように見える。彼にとって経済は、身分の平等を実現するための方策だったように思えてならない。
本書は全体として、栄一の自伝の引用を基調として、それを一つひとつ読み解いていくような形で書かれている。扱っているのは人生のたった11年間であるが非常に丁寧な評伝である。しかしながら、「近代の創造」を副題としているのに、維新政府で栄一が何を行ったかは極めて概略的にしか述べられないのは少し物足りない。彼の携わった近代化施策はもう少し詳しく知りたかった。「穢多非人廃止」にしても一言だけで終わっている。
私自身の興味としては、渋沢栄一と戸籍法の関わりについて知りたくて本書を手に取った。戸籍法も、栄一が「改正掛」で調査して公布したものの一つであるが、本書ではそれについての詳細はない。ただ、どのような経緯や環境でそういった仕事を手がけたのか、ということはよく理解できた。
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