2022年6月16日木曜日

『文明国をめざして—幕末から明治時代前期(日本の歴史13)』牧原 憲夫 著

明治時代、どのようにして民衆が「文明化」されたかを述べる本。

本書は非常に刺激的である。明治時代の歴史というと、政権の中枢にいた人たちを主役に描かれることがほとんどだが、本書の主役はそれに翻弄されていた民衆の方なのだ。そのため本書では、新聞や雑誌、戯画や戯作の類まで動員して、民衆の心象を探っている。

明治を表象するコンセプトは「開化」と「復古」である。「開化」は言うまでもなく近代化=西洋化のことだ。それは政体の西洋化に留まらない。政府は「文明国」に相応しい人民となるよう風俗を矯正した。一方「復古」は明治維新の大義名分であり、「神武創業の始め」に戻ることが明治政府の正統性を保証した。この2つのコンセプトは一見相反するように見えたが、実は「江戸時代を否定する」という点で共通しており、相補的なものであった。

「第1章 幕末の激動と民衆」では、幕末の民衆意識が概観される。

幕末には大地震が頻発した。嘉永6年(1853)に小田原大地震、安政元年(1854)には伊賀上野大地震、東海大地震、南海大地震が立て続けに起こり、安政2年(1855)には江戸で安政大地震、安政4年、5年にも各地で地震が起こった。これにより職人は引っ張りだことなり賃金が上昇。財産をあまり持たない庶民は地震の被害が相対的に小さかったから、打ちひしがれるどころか「世直し」への期待が高まった。

一方、開国によって大量の小判が海外に輸出されたことに対応し(金銀の交換レートの内外差によって金が流出した)、幕府は金銀の交換レートを改訂。その結果、名目の貨幣総領が急に増えたためインフレが引き起こされた。特に慶応2年(1866)には一揆・打ちこわしが頻発し、江戸時代を通じて最大の件数に達した。しかし民衆は開国や攘夷といったことに関心はなく、ただ適正な米の価格を求めただけのことだった。

一転して慶応3年には豊作となり、それまで猖獗をきわめたコレラも落ち着き、長州戦争も終結した。この年はインフレが農民・商人の収入を増やす結果になり「庶民は悉く繁盛」した。この楽天的ムードが西日本を中心に「ええじゃないか」をもたらす。伊勢神宮のお札が降ったのをきっかけに、異様な身なりをして富裕者へ酒食を強要、秩序を無視して歌い踊ったのである。それは世直しを求めたものではなかったが薩長を歓迎するものではあった。朝廷が機能不全に陥っていることは庶民の目にも明らかだったからだ。

一方、関東では慶応4年に大規模な世直し一揆が起こった。生活に困った貧民が質屋や商人などの家屋を襲った。その要求は決して無茶・無法なものでなく無秩序な破壊ではなかった。権力は、そうした要求に対して「徳義」で応えるべきとの観念があった。

ところが新政権が発足すると、年貢半減令などは早々に撤回され、富商に献金を強要したり御用金を命じた。その結果大坂の両替商の多くが「分捕り」のために破綻。 また慶応4年の世直し一揆の頭取は処罰され、質物・質地などを質屋や地主に返すように命じた。「新政府は庶民の味方ではなかった(p.54)」。そして戊辰戦争では後の日本陸軍に見られるような「分捕り」や「リンチ」が行われ、遺体の埋葬が禁じられるなど凄惨な光景が繰り広げられた。

それまでも、「殺人・強奪・放火を大義名分で正当化した水戸の天狗党(p.59)」などの志士たちが暴力を公然と行使するムードをもたらしていたが、このようにして明治は「暴力の時代」になっていった。

「第2章 「御一新」の現実」では、明治維新の政権を巡る動向が改めて触れられる。

維新は徳川幕府の廃止とともに、朝廷の改革=西洋化を意味した。維新政府は天皇を「文明国」の君主として恥ずかしくないものにしつらえる必要を感じていたのである。東京に天皇を移したのも伝統や格式に囚われた旧勢力から引きはがす目的があった。

また、徳川慶喜征討の勅が出る1日前という緊迫した状況で、「皇族・公卿の涅歯(お歯黒)・点眉は<古制>でないからやめてよい」という一見瑣末な通達が出たのは注目される。「復古」を目的に「開化」を促し、公家らしい外見を捨てるよう進めたのだ。これは公家自体の否定を暗に含んでいたのだろう。 

そして摂政・関白といった旧来の朝廷の仕組みは撤廃され、「太政官」が復興された。「太政官」という名称は復古的だったものの、内容はアメリカの制度を参考にした三権分立の体裁を整えた機構だった。ここでも「復古」と「開化」は一体となっていた。そして、「公議所」が設けられ様々な近代化政策が議論された。政府首脳は議論を必ずしも歓迎したのではないが、未だ政権基盤が脆弱だった維新政府は「公論」を尊重せざるを得なかった。

ところが、政府は民衆の「公論」は全く尊重した気配はない。明治2年は天保以来の大凶作であり年貢の半減・全免を余儀なくされる藩が多かった。ところが政府直轄領では年貢を軽減するといった措置を全くとらなかった。それどころか年貢軽減の嘆願をしたものを牢に入れ次々に獄死させた。こうした高圧的な対応に憤慨して西日本各地で大一揆が起こる。これに対し大隈重信が「千人迄は殺すも咎めざるべし」といって鎮圧を命じたのは有名な話である。

また、明治政府は神仏分離を断行し、それに触発されて廃仏毀釈も引き起こされた。 人々が素朴に信仰していた神仏が否定され、信仰までも作りかえていったのである。人々は信仰世界の破壊を目の当たりにし、神道国教化政策は本来はキリスト教対策が眼目だったにも関わらず、「太政官は異人が牛耳っている」とか、「廃仏政策はキリシタンの仕業ではないか」と疑った。

 「占領軍のような態度で民衆を抑圧し、凶作でも年貢を軽減せず、そのうえ生きる拠所である信心世界まで破壊する——これが「御一新」の現実(中略)であり、ここに近代天皇制の特質を見てとる(p.97)」ことができる。

「第3章 自立と競争の時代」では、開化に伴って人々が「競争社会」に飲み込まれていく様子が述べられる。

廃藩置県が封建的な社会機構を一気に整理した後、留守政府は急進的な改革を進めた。その一つに身分制の解体がある。「四民平等」を謳った布告はないものの、様々な面で人々の同質化を進めたのである。

また、廃藩置県後の行政機構として「大区小区制」を敷いた。これは全国を「大区小区」として機械的に分割し、旧来の「村」を解消して行政を行うものだった。これはあまりにも無理があったので後に修正されるが、明治政府は「村」だけでなく、身分に伴う各種の中間団体を否定して人々をバラバラの個人に再編した。

また「開化」は人々の風俗を改変した。裸は文明的でないからと「裸体禁止」をし、「断髪」は当初は髪型の自由化を意味したが、次第に「開化度」を測る指標となって事実上強制されていった。そうした風俗の矯正を行ったのは封建的な圧制者ではなく、開化思想の地方指導者層だった。彼らは自らが「国民」であることを自覚し、進んで国風の改善に努めたのである。

さらに、そうした指導者層は祭礼を無駄として休止させたり、神仏分離政策にともなって仏教信仰を無駄として切り捨てた。人々の楽しみとなっていた各種の講が廃止され、重要な祭日だったお盆も禁止された。休んでばかりいないで働きなさい、というわけだ。また芸能者や宗教者への施しが禁止された。彼らが働かないのは自己責任なのだから慈悲を施すのは無用だというのだ。その上、障害者なども社会にとって無用な存在だから施しを与える必要はない、と切り捨てた。

初期明治政府の社会経済政策は「自由主義経済」だ。これは一見人々の自由を尊重するように見えて、結局は「強者の自由」を保障するものでしかなかった。社会的弱者は切り捨てられる弱肉強食の社会が到来した。

そして身分を否定し、建前として平等な世の中になったことで、「学歴社会」が出来した。当時の小学校は試験ずくめで、合格しなければ卒業できなかったため中退者が続出した。等しく教育を授けるよりも、刻苦勉励するものを選抜していこうとする思想が強かったのかもしれない。明治政府にとっての「開化」は、野蛮・不潔・無駄なものを切り捨て、勤勉・清潔・有用なもので置き換えることだった。政権の原理は、「徳」から「合理性」へ変容したのである。

「第4章 平等と差別の複合」では、徴兵制と賤民への差別が「開化」をキーに繙かれる。明治政府は徴兵制を敷いたが、これは全員が徴兵されるのではなくクジで当たった人が合計10年も兵役を課される仕組みだったので、庶民は徴兵逃れに奔走した。そういう庶民を横目で見て、武士たちは自分たちの出番だと意気込んだが、新政府は武士の志願制を認めれば実質的に士族復権となることがわかっていたので、民衆にも武士にも敵視された徴兵制を続けるしかなった。

また軍隊の生活は、時計に基づく生活をし、整列して行進するなど、それまでの武士の在り方とも全然異なっていた。軍隊こそが「文明的生活」を養成する場だったのだ。そして近代的な軍隊=国民軍を編成する上で、武士の復権はありえなかった。

実際、明治維新を成し遂げたのは武士であったが、「御一新」の勝者は農民であった。武士は特権を失い、家禄を失い、路頭に迷った。武士は江戸時代には土地と遊離していたから、地主になり損ねたのである。そして現実に耕作している農民に土地所有権が認められた。

しかしそれは、農民が引き続き納税者になるということでもあった。「地租改正」で土地の私有が認められ、その代わりに地価のに応じた納税が必要になったからである。これは土地に紐付いた税という意味では江戸時代の年貢と似ていたが実際には大きな違いがあった。それは地主制への道を開いた点である。

年貢は村請制であり、納税責任を負うのは「村」だった。ところが地租の場合は納税責任はあくまで個人にある。さらに土地の共同所持を否定し、土地は個人の所有物とした。村請制では原理上、他村の土地を大量に持つのは難しい。ところが村単位の仕組みがなくなり、「徳義」ではなく「合理性」が幅をきかせるようになると、少数の強者が土地を集積していくのは自然のなりゆきだった。

明治6年(1873)には地租改正、断髪反対などを主眼とする騒動が西日本各地で起こった。民衆は開化政策を拒否したのだ。そこでは被差別民の焼き討ちなど、「穢多」の解放に反対する主張があったのが注目される。これは直接には開化政策の一つである明治4年の賤民制廃止令に基づくものだったが、人々の意識の中でも「開化」と「差別」の問題は繋がっていた。

江戸時代の賤民(穢多=かわた)は、被差別階級を為していたとはいえ、清めの役割や皮革の取り扱いといった経済的特権も付与されており、決して貧困に喘いでいたわけではない。それどころか百姓よりも裕福なかわたは多く、関東のかわたの頭である弾左衞門は3000石の旗本並みの存在だった。しかし維新政府は賤民制を廃止した一方で、彼らの清めの役割や特権も剥奪して形の上で「平等」にした。

結果的には、彼らは百姓並みになるどころか自由競争の社会に投げ出されて経済的に没落し、彼らの「「穢れ」は「不潔」に置き換えられ(p.166)」、文明社会に対応できなかったものとして新たな「差別」の対象となっていった。「「地域と生まれ」が固定された「部落」の差別が、ほんとうに苛酷になるのは文明開化期以降(同)」なのだ。そうしてこうした差別意識は、アイヌ、琉球、朝鮮、中国の人々へも広がっていく。日本は「文明化」を成し遂げた一等国であり、こうした地域は未だに遅れた野蛮な場所だから差別してもよい、というのである。

「第5章 近代天皇制への助走」では、結果的に近代天皇制を準備することになった変節が述べられる。

明治天皇は当初、むしろ親しみやすい君主として登場する。江戸時代の将軍に対するように平身低頭する必要はないと政府は民衆に伝えた。天皇自身が文明開化の象徴であり、西洋の君主のように人々と親密な関係を結ぶ必要があった。皇后も西洋の王妃と同じように外交の場に出てきた。

明治政府は朝廷を西洋化したが、それは「開化」であるとともに「復古」でもあった。西洋近代は日本古代と通ずるとされたのである。

人々の生活を劇的に変えてしまった「開化」が、太陰暦から太陽暦への「改暦」だった。民衆はすぐにこれに順応したのではないが、祝日が全て天皇関係(新嘗祭、天長節、元始祭など)に置き換えられたり、五節句が廃止されたりといったことで太陽暦は国民生活に浸透していった。そして旧来の行事は廃止され、または太陽暦の日程では季節感が合わなくなったため低調になった。ちなみに定時法(一日24時間)はあまり抵抗なく受け入れられた。

一方、政府は一度は神道を国教化したものの、仏教界と妥協し、神仏合同の「国民教化運動」を進めた。ところが、先述の明治6年の西日本各地の一揆を受けてこれも修正を余儀なくされる。「三条の教則」と呼ばれる原則に対する「兼題」(具体的な行動の模範を示すもの)の変化にそれが窺われる。「西欧化との対決を目的とした教導政策が、一転して開化政策を民衆に浸透させるものになった(p.191)」のである。

もちろん神道派はあくまでも「復古」を主張し、例えば古式に則って「火葬禁止令」を出したが、これは埋葬箇所が足りないといった現実的問題からすぐに撤回された。何が古制であるか、何が仏教的(神道的でない)かは、恣意的であり、どうにでも解釈できた。それが神道派の弱さでもあったが、神道派のリーダーたちは神道は宗教ではなく国家の「政典憲章」であるとし、この見解は神道の国教化を防ぎたい島地黙雷や大内青巒などの仏教家と奇妙に一致していた。結果、神道は宗教ではないこととされ、宗教を超越した「国家神道」への道を歩むこととなった。

「第6章 「帝国」に向かって」では、明治政府の対外政策が述べられる。

これ以降の章は、庶民の心情よりも政府の動向が中心だ。明治初年には早くも朝鮮との外交に問題が起き、征韓論が萌芽した。神功皇后の朝鮮征伐を事実と見なし、朝鮮は日本の属国であるとする「復古」の論理もその背景にあった。明治6年には「明治六年政変」(征韓論争)が起きて薩摩出身者が大量に政府を去った。

台湾出兵も大義名分なき侵略だった。明治政府は万国公法的へりくつによって東アジアの伝統的秩序を無視して台湾に兵を送る。台湾は「無主の地」だからこれを分捕るのは自由だという論理だった。これに対しイギリスやアメリカが抗議。思わぬ批判に驚いた政府は矛を収めようとしたが、すでに出動していた軍隊は勝手に行動し、それを政府も追認した。後の戦争でお決まりのパターンになるやり方だった。

しかし明治の初めまでは、庶民は外国人を敵視する態度は持っていなかった。だが次第に日本人は自らを「文明化」されたと信じ、清国人や黒人を野蛮なものとして蔑視し、優越感を抱くようになった。これは西洋人のそういう態度を受け継いだのかもしれないし、文明化の副作用でもあっただろう。「むろん、それをあおったのは新聞(p.227)」だった。

この蔑視の目は琉球や北海道にも向けられる。明治12年、政府は琉球に沖縄県を置いた。それまで琉球は薩摩藩の属国であったが対外的には独立の体であり、清国にも独立国として朝貢していた。それを勝手に日本に組み入れたのである。当然清国も抗議し、琉球人も反発。イギリスからも批判を受けたがなし崩し的に占領を続け、人々の心情を無視して同化政策を行った。「琉球問題の最終解決は日清戦争まで持ち越された(p.231)」。

樺太、千島、北海道に至っては、最初から「無主の地」であると決めつけて分捕った。アイヌが生活していることは知っていたが、それは「土人」であるからものの数には入らない、というのだ。北海道の場合、アイヌの存在を無視して政府や藩で開墾地を割り当て、アイヌに対しては和人化政策を行った。彼らの文化は否定されたのだ。

しかし「琉球の民衆やアイヌが受けた同化政策、「姓・名」の確定、断髪、小学校、日本語(標準語)等々の強制は、「生蕃並み」といわれた本土の民衆がこうむったものと基本的に変わらない。(中略)文明開化とは何よりもまず日本自体の「自己植民地化」(p.241)」だったのである。

明治10年、鹿児島では西南戦争が起こった。鹿児島の士族は文明開化を否定し、士族の特権の解体を認めなかった。これは激闘の末政府に鎮圧されたが、結果的に尊攘派志士を潰滅させることとなった。明治維新は尊攘派志士が成し遂げたものであったが、「開化」に否定的だった彼らが潰滅したことで、明治政府は「開化」を完遂することができるようになったのである。

「第7章 国民・民権・民衆」では、国会開設に向けた様々な動向が語られる。

明治の世論を語る上で見逃せないのが新聞である。明治6年頃から新聞は盛んに創刊された。新聞は建白を掲載し、これまで国政に参与したことのなかった平民までが国民の一員として「国恩に報いる」ことを考えて建白し、時には政府への献金まで呼びかけ実現させた。

しかし政府は介入を嫌い、献金も受け取らなかった。政府と民衆の間には、見た目以上に断絶があったのだ。それを痛感した人々は「民撰議院」の設立を指向しはじめる。国家と自分たちを同一視し、一蓮托生の存在と考えたからだ。「民権論と愛国心は不可分(p.261)」なのである。なおこの時期に、政府と国民を一体視せず、「客分」的な論理で「政府の借金は官債であり自分たちの借金ではない」とラディカルに考えた窪田次郎の例は興味深い。

明治13年には町村議会ができる。しかしここでは、江戸時代の村の寄合では当然参加出来た女戸主や貧民は排除された。国家にとって議会は火種も抱えていたが、代議員制は権力者の都合のいいように代表を設定することができたから御しやすくもあった。

一方、板垣退助らは明治10年に「民撰議院設立建白書」を提出したが、議会開設を求める運動を政府は弾圧した。明治15年には「官吏侮辱罪」が成立し、官吏に反抗すると些細なことでも逮捕できるようになった。しかし自由民権運動が政府への抵抗運動だったわけではない。それどころか自由民権運動は政府へ「国民の権利」を求めると同時に、民衆にも「国民の自覚」を喚起する「愛国的運動」だった。そしてここでも、天皇が持ち出された。「「天皇は国民の味方だ」という観念を浸透させる上で一定の役割を果たしたのは、政府よりも民権運動の側だった(p.274)」 。

「明治十四年政変」では、それまで憲法について調査し、民権派の意見を容れて案を作ってきた大隈重信が政権から排除され、政権は薩長が独占するに至った。翌日明治23年の国会開設を約束する勅諭が出され、政権は国会開設に向けて動き始める。

一方、民権運動は昏迷する。民衆は穏当・理性的な議論よりも、過激・感情的な煽動の方によく反応した。民権家たちも民衆の支持がなければ活動が成り立たなかったので、そうした民衆の心情を汲まないわけにはいかなかった。また明治16年頃には民権運動自体が不況のために低調化した。そしてそれは、主義よりも公共事業の配分を巡る争いになっていく。

明治17年、朝鮮における日本派がクーデターを起こし失敗した「甲申政変」が起き、日本の朝鮮政策は頓挫する。この政変では日本の公使館員・居留民らが40名殺されたことで、福澤諭吉が『脱亜論』で朝鮮や清国を切り捨てた他、民衆も激しく反応し、ナショナリズムが高まっていった。

「第8章 帝国憲法体制の成立」では国会開設に至るまでの政府の動きを述べている。

明治10年頃には、政府が生活習慣にまで口を出す啓蒙的専制の時代は終わり、むしろ自由放任的なムードになってきた。農村も豊作に恵まれて好景気になったが、明治13年には好況が終わり15年にはデフレに陥っていく。そして経済が地主・大企業中心になり「経済的・文明的強者が自己の利益を追求する——そういう時代の始まり(p.303)」だった。

明治19年(1886)の帝国学校令・師範学校令・中学校令・小学校令では、学校と社会的地位が明確にリンクするようになり、明治20年には試験で官吏を選抜するようになった。小学校の学費が無料化され卒業試験がなくなるなど、国民が広く学校に通うようになる。また運動会が兵式体操の一環で始まるなど、軍隊式集団主義が小学校に導入されていった。 

女子教育については、「良妻賢母」を育成するための教育だった。つまり女性のための教育ではなく、その子どもや夫のための教育なのだ。また明治31年の民法では戸主(男性)の権限が強化され女性は「二級市民」とならざるをえなかった。

また、皇室財産が設定されて皇室の基盤が確立するとともに、ご真影・日の丸・君が代・万歳という国民統治の「四点セット」が勢揃いした。皇室への讃仰を通じて国家の一員となる政策がどんどん進んでいく。

同時に、日本文化や歴史の見直しがなされるようになり、「日本国民」としての自覚が促されたのもこの時期だ。しかしいくら「日本国民」としての自覚があっても、現実には多くの人には参政権はなく、国政に関与していくことはできなかった。帝国憲法体制では「我々人民はもはや前日の無権力・無責任なる国民ではない(朝野新聞)(p.334)」と言われたが、現実には「直接国税15円以上を納める25歳以上の男性」しか衆議院議員選挙権は持っていなかった。圧倒的多数の人民が「非−国民」の立場におかれたのだ。だから結局、議会は人民の議会ではなかった。しかしそれでも、天皇は人民の天皇だった。だから政府は、民主制ではなく、天皇を通じて人民を国家に統合したのである。人々が「天皇の赤子(せきし)」=「臣民」と呼ばれるようになったのは、それを象徴していた。

そして「帝国憲法は、天皇主権と立憲主義の複合体(p.337)」であり自縄自縛の状態に陥った。伊藤博文や陸奥宗光は、その不具合を清国との戦争によって脱しようとしていくのである。

本書は全体として、庶民の側から見た「文明開化」を検証するものとなっている。それは、我々が通常の「通史」で見る明治維新とは随分違っている。もちろん一般的な通史においても、文明開化が強制的なものであり歓迎しない庶民は多かった、ということは語られる。しかし本書では当時の多くの「生の声」を拾い集め、それを使って明治初期の歴史をヴィヴィッドに浮かび上がらせている。特に第5章までの記述は非常にオリジナリティがあり、必読書のレベルに達している。

文明開化を庶民から見るスリリングな論考。

【関連書籍の読書メモ】
『明治のむら』大島 美津子 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post_14.html
明治時代の農村政策を描く。明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。

 

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