2022年6月11日土曜日

『維新史再考—公議・王政から集権・脱身分化へ』三谷 博 著

幕末の政局を見通しよく描く本。

本書は、幕末の政局が直面した課題を主役にして維新史を編んだものである。つまり、志士たちの活躍とか激動する事件とかは主役ではなく、時の政権が直面した構造的な課題を読み解き、それをどう解消していったのかという視点で明治維新に至る歴史を語っている。

本書前半(第1章〜第4章)は、近世の社会が置かれていた状況がグローバルな視野から再検討される。著者は近世日本の政治体制を「幕藩体制」ではなく「双頭・連邦国家」と呼ぶ。禁裏(天皇・朝廷)と公儀(徳川幕府)という双頭の下に、大名の領国が半独立に存在していたからである。

その下で日本には極端に「忠」を肥大させた国家主義が発達したが、実際の政策決定はボトムアップ式であり、幾多の上申を経て老中が決裁する仕組みだった。また家格と決定権が分離しており、むしろ大大名であればこそ政権の意志決定からは排除されていた。彼らが外様大名であったという事情もあるが、外様の場合も小大名からは老中が輩出されていた。島津のような外様の大大名は、政権から排除されていることを不満とし、政権への参画を様々な形で図っていくのである。

また当初は厳格であった身分も、学問や武芸といった面では徐々に混ざり合い、また「塾」などを介して全国規模のネットワークが育っていった。そして人々は一方的に統治されるのではなく、「国民」として「御国(おくに)」のことを考える土壌が育っていた。

一方、幕末にかけて西洋諸国は東アジアに関心を寄せるようになり、特にロシアとの関係が緊張した。このような中、「日本知識人の世界像は、中国を主軸に構成するものから西洋を中心に構成するものへと、はっきりと転換した(p.97)」。そして西洋に対抗するため、日本を「より統合性の高い軍事強国として再建する(p.98)」ことが考えられるようになった(会沢正志斎『新論』)。

本書中盤(第5章〜第11章)は幕末から王政復古までの政局の変転を丁寧に描いている。 天保期からペリー来訪までの政策課題は「鎖国」「避戦」「海防」であり、幕府(公儀)は大きく鎖国・海防へと傾いたが、ペリー来航によって開国へと政策転換した。公儀主導の挙国一致への動きが、「大名や武士の間に広く参加願望を生みだし(p.133)」、特に大大名たちは「公儀の決定権を、譜代の小大名からなる老中から、家門・外様の大大名の連合体に移そうと考え始めた(p.134)」。橋本左内はさらに土地や身分を問わず有能な人物を政権に登用することも構想した。当初の左内の構想に天皇中心といったアイデアはなかったのだが、安政5年に左内は政体変革構想に「朝廷」を組み込むことを思いつき、後に「王政」の下の「公儀」という政体へと行き着くことになった。

ところでアメリカへの条約勅許を朝廷に申請したことで「朝廷の拒否権」が明確化され、これが次なる政策課題となった。特にハリスが予定より1年早く来航したため、大老井伊直弼が勅許を待たず即日調印したことが大問題となる。一橋慶喜を将軍に待望する一派はこの不備を突いて江戸城に登城したがかえって弾圧され、「安政の大獄」が始まった。こうして幕閣専制が復活したかに見えたものの、桜田門外の変で井伊直弼が白昼堂々暗殺されると幕府の威光はガタ落ちとなった。しかし幕府は海軍を大規模に編成して近代的軍制へと舵を切った。

そして条約勅許問題によって朝廷と幕府の間がギクシャクすると、これを周旋することに政治的価値が生まれた。特に長州藩が朝廷と近づいた。諸藩の周旋の結果、将軍が上洛して天皇に謁見して幕府は攘夷を公約させられることとなり、朝幕の地位は完全に逆転した。このあたり(文久年間)から「王政復古」が公家(三条実美)や長州過激派などにより視野に入ってくるようになる。ちなみに早くも安政5年(1858)には久留米の神官真木和泉が王政復古を構想し『大夢記』というシナリオまで書いている。

しかし文久3年(1863)、薩摩・会津が中心になって起こしたクーデター「八月十八日の政変」により攘夷派公家と長州藩が京都から排除され、天皇と将軍が和解して「公武合体体制」が作られた(一会桑政権)。この体制では大名が朝義に参与し、幕議にも参画していくことが構想されたが、幕府はこれを拒否。島津久光は「公武合体体制」による「公議」によって幕政に参加していくことを考えていたのであるが、それどころか幕府は大大名の朝義への関与権まで否定し京都から追い出した。こうして薩摩は幕府に強い不信を抱くようになるのである。

一方、クーデターからの再起を図り「禁門の変」を起こして京都を奪還しようとした長州はあえなく鎮圧され「朝敵」となった。こうして長州の処分をどうするかが朝幕で問題となる。その際の一つの焦点が、「公武合体体制」において大大名たちをどう取り込み長州問題に結論を出すかであったが、結果的には大大名の招集は棚上げになった。他方、長州は下関戦争で外国に屈すると攘夷をあっさりと捨て、軍事機構を大胆に西洋風に組み替え、幕府との戦争に備えた。そして土佐の中岡慎太郎の仲介で薩長が接近し、裏で「薩長盟約」が成立。王政復古の実現のための協力が謳われるのである。

長州は幕府による処分案を拒否し、慶応2年(1866)年に長州戦争が起こった。しかし幕府は苦戦し、戦争中に将軍家茂が病死。こうして政局が不安定になったことを逆手に取り、一橋慶喜は将軍に就任するとともに政敵(山階宮や正親町三条)を排除した。さらに同年、孝明天皇も天然痘で亡くなる。慶喜は意欲的に幕政改革に取り組むととに、西洋への華々しい外交を展開した。

これに対し、島津久光(薩摩)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、松平春嶽(越前)の四侯は政体の一新のために協調し、慶喜に対し「反正」を求める議論をふっかけたが、慶喜の方が一枚上手であり、徹夜の会議は慶喜の粘り勝ちとなった。徳川慶喜は、歴代将軍の中でも特に有能で雄弁、自負心があり実際に全ての問題を自ら裁量していた。将軍という立場も考えれば、誰も慶喜に言論で対抗できるものはいなかったのである。

であればこそ、慶応3年(1867)、薩摩は「政治交渉を断念し、基本方針を武力動員による政体一新に転換した(p.257)」。ここからは、「個々の争点は後景に退き、政体転換をめぐる赤裸々な権力闘争が主題となった(p.258)」。 大まかに言えば、大政奉還による政権の一元化と、大藩の連合による「公議」の実現については多くの陣営で共通した目標だった。違うのは、その来るべき政体において引き続き徳川家(徳川慶喜)が中心になるのか、それとも徳川家を排除するのか(薩長)、という点である。朝敵とされていた長州は政局の蚊帳の外におり、薩摩にも来たるべき政体へのヴィジョンはなかったが、土佐の後藤象二郎らが政策転換して「制度一新、政権朝に帰し、諸侯会議・人民共和」の体制を創出するという構想を固めて、これに薩摩が乗って方向性が定まった(薩土盟約)。

ただし、島津久光は武力行使に消極的で、土佐の山内容堂の参加によって平和裏に政権移行が可能だと期待していた。ところが後藤象二郎の京都到着が遅れたため機会を逸し、盟約は事実上棚上げされて互いの妨害をしないというところまで後退した。そして薩摩は単独挙兵の道を探ったがリスクが大きすぎ、また国元でも挙兵反対論があって一枚岩ではなかった。このため朝廷の裏工作によって「討幕の密勅」を下してもらったものの、慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は自ら政権返上を申し出て事態が大きく動く。

慶喜は政権を投げ出したのではなく、「天皇の直下に大大名の連合政権を組織し、自らその首班となって日本を強国とする(p.275)」ために政権返上を申し出た。これにより、天皇に対して恭順の意を示し、自身への批判をかわす意図もあった。そして朝廷には自ら政権を担っていこうとする意志も能力もなかったから、結局は武家が政権の実務を担うことは既定路線であった。よって慶喜は再び政局を手中に収めるため猛烈に運動を開始した。

しかし薩摩は岩倉具視と結んで武力クーデターを計画し、土佐にも事前に知らせた。土佐→越前を通じクーデター計画は慶喜にまで漏れたが、慶喜は京都での戦乱を回避することとし、全面対決しなかった。こうして薩・土・尾・越・芸の5藩は朝廷を封鎖し、その状態で朝議が行われて慶喜の排除が決定された。さらに12月14日には王政復古が布告され、復古に基づく「公議」が謳われた。ところが尾・越はこれまでの徳川家との関係から慶喜の政権参加を周旋した。これでは何のためのクーデターか分からない。クーデターに参加した5藩のうち、徳川の打倒に執心したのは薩摩のみだったのだ。そこで薩摩は長く朝敵とされていた長州と手を結び、徳川方と薩摩・長州の間で鳥羽伏見の戦いが勃発し幕軍は敗退した。これは小規模な戦闘だったが、日和見を決め込んでいた諸大名はなだれをうって薩長に合流し、なし崩し的に新政府が発足した。

本書後半(第12章〜終章)は、それまでの緻密な記述とは違い、いきなり駆け足で歴史をなぞっていく。まるで講義の時間が足りなくなってしまったような感じである。著者自身が「学生時代以来、久しぶりの勉強となった(あとがき)」と述べており、通説の要約以上の内容がないため、ない方が全体的なまとまりはよかったように思う。

とはいえ、この部分で本書の重要なテーマである「脱身分化」が述べられる。新政府は、無位無官の武士たちが参画していたためもあり、身分や家格に囚われない運営が当初から指向された。「人材登用」の結果、無能な公家が排除されるとともに、幕末のギリギリの政局をくぐり抜けてきた大名家臣(徴士)たちが政権の中心に躍り出ていった。そして政権では「公議」「公論」が強調された。明治政府の当初には、上意下達的ではない、ボトムアップ式の議会主義が胚胎していたのである。

そしてもう一つ、武士身分の解体に与ったのは皮肉なことに戊辰戦争だった。従来の武士の戦いが使いものにならないことが明らかになり、近代的な銃隊が編成されたからである。さらには戊辰戦争への動員は各藩の財政を急激に悪化させ、上級武士の俸禄が相対的に大きく削られたことで武士身分内の平準化が思わぬ形で進むことになった。

戊辰戦争後は、軍事的発動が困難な情勢になっていったため、「公議」すなわち言論によって中央集権国家に再編成するしかなかったが、大藩においてこれは簡単には受け入れがたい変革であった。ところが西郷隆盛は最終的には武力をちらつかせてあっさりと廃藩置県を成し遂げた。藩がなくなったことで武士は失業。「廃藩の直後、政府は世襲身分を解体する様々の措置を一気に展開した(p.344)」。散発脱刀、婚姻の自由化、穢多・非人の称の廃止などである。これらは大蔵省の渋沢栄一が中心になって進められたが、それは彼の出自が百姓(豪農商)であったことが関係しているのではないかという。しかし結果的には、身分を平等化したことは徴税を平等化することにつながり、このせいで負担増になった階層も多かった。

さらに教育、徴兵、人口と国土の把握、交通・インフラ整備などを進め、地租改正を行って土地の売買を自由化するとともに、家禄処分を行った。このあたりの記述は極めて概略的である。さらに留守政府、征韓論争、西南内乱(西南戦争)と続くが、やや旧い学説のまま書かれているような印象を受けた(参考文献に毛利敏彦氏の著作がない。これは意図的に避けているのだろうか)。ただし島津久光の動向を詳しく追っているのは興味を引いた。終章では、明治維新が改めてグローバルな立場から位置づけられ、「公議」が「自由民権」へと受け継がれていったと述べる。

本書は全体として、政局の変転を緻密に追うもので、少なくとも王政復古までは最近の学説が援用されてかなりよくまとまっている。しかし政局の変転がメインであるために、個人の履歴や思想はほとんど顧みられることがなく、「その状況で、なぜそのような選択がなされたのか」という考察はほとんどない。さらには民衆の動向は完全に閑却されている。例えば幕末の「ええじゃないか」運動などは政局にも影響を与えたのは確実であるが全く触れられない。つまり本書は「政局中心史観」とでも言うべきもので記述されており、幕末明治の歴史を多角的に捉えたものとはいえない。

しかしながら、王政復古までの記述については非常に説得力が高くかつ平易である。古典的な価値を有する力作といえると思う。

「政局中心史観」で書かれた明治維新の新しい教科書。

【関連書籍の読書メモ】
『明治維新』遠山 茂樹 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_6.html
唯物史観から見た明治維新の分析。明治維新について考える際には必ず手に取るべき古典。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿