2023年5月18日木曜日

『江戸の科学者—西洋に挑んだ異才列伝』新戸 雅章 著

江戸時代の科学者11人を紹介する本。

日本の科学技術は、明治時代の文明開化で急に発展したのではなく、江戸時代から西洋の知識が流入しており、高いレベルに達していた科学者も多かった。それは明治以降の科学の発展の土台となったのである。

とはいえそれは、江戸時代の知識人の本道ではなく、西洋の科学に取り組んだものはたいてい変わり者で、反骨精神があった。本書は、そうしたかぶきものならぬ「かがくもの」を描くものである。

私は本書を2つの関心から手に取った。第1に、江戸時代の科学者たちがどのようにして「西洋」に出会ったのか、ということ、第2に、彼らはどのような身分であり、またその科学知識は彼らの身分を上昇させたのかどうか、ということである。以下、その点を踏まえてメモする。なお、本書には4つの章が設けられているが、以下のメモでは章別けは無視した。

高橋至時:高橋至時(よしとき)は、幕府天文方を務め、伊能忠敬の年下の師匠としても有名。シーボルト事件で処罰された高橋景保の父でもある。明和元年(1764)生まれ、父は大坂定番同心で、父を継いだ後に趣味で数学や暦学を学び、麻田剛立に弟子入りした。麻田は天文の研究のため脱藩して大阪で町医者になっていた人物。至時は、同門の間重富が桑名藩主松平忠和(ただとも)から入手した中国の天文書『暦象考成 後編』に出会い、一門をあげて研究。この本には天動説とケプラーの楕円運動論による天文・暦学が論じられており、この研究で至時は頭角を現し、寛政7年(1795)、幕府の命を受けて暦の改正に取り組んだ。時に徳川吉宗は、蘭学書物の輸入規制を緩和しており、西洋の文物や知識がどんどん流入する時代になっていた。天文観測に長けた重富と理論に長けた至時は協力して新暦「寛政暦」を完成させた。

その後至時はフランスの天文学者ラランデの天文書(のオランダ語訳)の翻訳を若年寄堀田摂津守正敦(まさあつ)から言い渡された。そこには地動説に基づいた天体運動が論じられており、寝食を忘れて翻訳に没頭。わずか半年で『ラランデ暦書管見』11冊を完成させた。この翻訳によって日本でも西洋の天文学を直接学ぶ道筋が付けられた。

志筑忠雄: 江戸時代で最高の翻訳家。彼は長崎の資産家に生まれ、志筑家の養子になり稽古通詞になったが、生来病弱なため早くに退職。生家の中野家に復帰し、学究の道に入った。大木良永から蘭学の手ほどきを受け、イギリスの自然哲学者ジョン・ケイルの著作に出会ってニュートン力学に目覚める。彼はケイルの著作の翻訳を生涯の仕事と定め、『求力法論』『暦象新書』などを翻訳した。これらの著作で、引力や重力、真空、分子といった訳語を定めたほか、「ー、+、÷、√」といった数学記号を日本にはじめて紹介した。また「鎖国」という言葉は、忠雄がケンペルの『鎖国論』を翻訳したことで生まれたものである。「人と交わるのが苦手な忠雄は生涯長崎を一歩も出ず、家にこもり、(中略)蘭学の研究に没頭した(p.49)」。他の蘭学者ともほとんど交流を持たなかった。

橋本宗吉:「日本電気学の祖」橋本宗吉は、宝暦13年(1763)、大坂の傘の紋描き職人の家に生まれた。貧しい職人として働いたが、非凡な記憶力や知能が間重富に注目され、重富は蘭方医の小石元俊と費用を負担して、宗吉にオランダ語を学ばせるために江戸へ留学させた。江戸では蘭方医の大槻玄沢の門に入り、帰坂後、宗吉は蘭方医として修行しながら、元俊と重富のために蘭書の翻訳に精を出した。さらに寛政9年(1798)、自身も医院と蘭学塾を兼ねる「絲漢堂」を開いた。そして翻訳だけでなく自ら実験もし、特に『エレキテル訳説』の翻訳では自身で電気学の実験を行った。さらに自らの実験をまとめ、日本初の実験電気学の書『阿蘭陀始制エレキテル究理』をまとめた。ただしこれはなぜか幕府の許可が下りなかったため生前は出版されなかった。晩年はシーボルト事件の影響で絲漢堂を閉じざるを得ず、おそらくは公議を憚ったために死後も墓は作られなかった。しかし彼の学統は、孫弟子の緒方洪庵によって継承、発展した。「大坂蘭学の祖」とも言われる。

関孝和:関孝和は幕臣内山永明の次男として出生。長じて甲府藩勘定役を務める関五郎左衛門の養子となった。吉田光由の『塵劫記』を読んで数学に目覚めたとされる。しかし特定の師にはつかず、書物を通じた独学で数学を学び、朱世傑『算学啓蒙』によって天元術に触れた。これは算木や算盤を使う中国の代数学である。孝和は算木ではなく記号によって代数学の大系を作り、延宝2年(1674)、『発微算法』にまとめた。これは生前刊行された唯一の著書である。他の和算家が数学を解法として見ていたのに対し、孝和はその背景にある一般理論に興味を持った。そしてライプニッツに約10年先駆けて行列式を考案。ベルヌーイとほぼ同時に「ベルヌーイ数」も示している。孝和の業績は「関流」和算として発展させられ、建部賢弘はその跡を継いだ。賢弘は『発微算法』の一般向け注解書『発微算法演段諺解(げんかい)』を上梓している。こうして江戸和算の全盛期が築かれた。「算額」を奉納する風習はその象徴である。「江戸期には庶民のための数学入門書がベストセラーになり、全国に数学塾が開かれ、西洋とほぼ同等の記号による数学が隆盛をきわめた(p.88)」。なお、孝和は主君が六代将軍として江戸城に入ったので江戸詰となり、勘定方吟味役にまで昇進している(数学との関連は不明)。

平賀源内:平賀源内は、「博物学者であり、鉱山技師であり、電気学者、化学者、起業家、イベントプランナー、技術コンサルタントであり、日本最初の西洋画家であり、ベストセラー小説『風流志道軒伝』や人気戯作『神霊矢口渡』の作者であり、「本日丑の日」で知られる日本最初のコピーライター(p.91)」である。彼は高松藩の下級武士の子として生まれ、生来利発で13歳から藩内の儒者の下で学んだ。21歳で家督を継ぎ、御米蔵番として出仕。同じ頃に藩の薬園の御薬坊主の下役に登用された(ダブルワークなのだろうか?)。本草学者としてのスタートである。さらに長崎に遊学し、帰藩後、藩に退役を願って許可され、妹に婿養子をとらせて平賀家を継がせ、自分は自由な身分で江戸に移った。27歳の時である。すぐに頭角を現した源内は、再び高松藩主(松平頼恭(よりたか))に召し抱えられるものの、藩の枠内に留まる不利が勝り再び辞職を願い出た。許可されたが「仕官御構」(=今後他藩に仕えてはいけない)の条件が付けられた。

源内は学究肌というよりは事業家肌で、様々なことに取り組み、しかもその事業は時代に先駆けていた。ただ、失敗も多く、殖産興業の努力はあまり実を結ばなかった。最後は殺人事件を起こし、獄中死した。彼は科学者としては一流ではなかったが、「科学と国益を結びつけて考えたこと、さらに進んで科学・技術と産業を結びつけようとした点(p.116)」に真骨頂がある。

宇田川榕菴:宇田川榕菴は、大垣藩医で蘭学者の江沢養樹の長男として生まれ、13歳で津山藩医宇田川玄真の養子となった。玄真は『西説内科撰要』18巻を書いた大学者で、幕府の蕃書和解御用にも任用された蘭学者の泰斗であった。榕菴は最高の環境で勉学に励み、オランダ語を学んだ。とりわけ興味を抱いたのが植物分類学。『菩多尼訶(ボタニカ)経』というお経仕立てのリンネ植物学の本が最初の著書である。江戸を訪れたシーボルトとも親交を結び、シーボルトは顕微鏡とドイツ語の植物学入門書を榕菴に与えた。28歳で宇田川家を継ぎ、幕府から蕃書和解御用にも任じられた。同時期に大槻玄沢も同ポストにいた。ここで榕菴は、ショメールの百科事典を翻訳し、全70巻+続編32冊におよぶ大著『厚生新編』を完成させた。翻訳には30年以上かかった。シーボルト事件ではかろうじて難を逃れ、その後も訳業と著述に励んだ。『遠西医方名物考補遺』では元素、酸素、水素など「〜素」の訳語を始めて使用した養父の著書の補遺で、本書では、親和、物質、流体、凝固、気化、酸化、還元、酸、塩などの用語が始めて使用された。またリンネ植物学を体系的に述べた『植学啓原』では花粉、葉柄、気孔、柱頭、葯といった植物用語を定着させた。さらに畢生の大著『舎密開宗』では、ラボアジエの化学理論を始めて体系的に紹介した。これらの本は、単に洋書を翻訳するだけでなく、自身も実験や分析を行っていた。榕菴は多才で、コーヒーや西洋音楽の研究にまで手をつけている。「蛮社の獄」では榕菴には政治的発言がなかったので処分されなかったが、病のため48歳で死去した。

司馬江漢:司馬江漢の生まれはよくわかっていない。町絵師江漢は、なぜか蘭学に心惹かれ、平賀源内と交流した。そして彼の影響で日本で始めて銅版画を制作。また油絵にも取り組んだ。写実的な洋風画を描きたいという欲求は、世界の真実を知りたいという欲求と重なり、長崎に遊学。やがて天文地理に興味を持ち、日本で初めての銅版画による世界地図「輿地全図」、その説明書『輿地略説』を刊行、また『和蘭天説』でコペルニクスの地動説を論じた。その後も地動説の普及のためにいくつかの書物を刊行した。またカラクリの才もあった。一言でいえば彼は奇人で、人に馴染まなかった彼は歳を取って孤独になり寂しく死んだ。彼は多芸多才ではあったが、どの道でも第一人者とは呼べなかった。しかし「終生、権威や権力におもねることなく、一芸術家、一好学者(p.157)」であった。

国友一貫斎:当時としては世界的な性能の反射望遠鏡を作ったのが一貫斎こと国友藤兵衛重恭(しげゆき)である。国友鉄砲鍛冶の中で、ひときわ才能があった一貫斎は、いわゆる「彦根事建」で諸大名から鉄砲の受注ができるようになり、そのおかげで西洋の文物に触れる機会を得た。また事件の詮議のために江戸に出て解決後も含め5年滞在し、技術を学んだ。そして松平定信から命を受け、鉄砲の製作マニュアル『大小御鉄炮張立製作』を献上、刊行した。松平定信が鉄砲製作法を公開するという異例の対応をとったのは、ロシア船出現などを受けた国防の強化にあったと見られる。なお一貫斎は江戸で平田篤胤と交流している。一貫斎は尾張犬山藩の江戸屋敷でオランダ製グレゴリー式反射望遠鏡を見、そのとりことなった。一貫斎は10年の準備期間を経て製作を開始、約1年で完成させた。彼でなければ完成は不可能だったと言われている。その望遠鏡を使い、一貫斎は種々の天体観測を行った。特に、太陽黒点の観測は約1年間にわたって克明に記録したもので世界水準である。その外にも様々な発明品・製作品がある。彼はひたむきな努力の人で、独学で物理学、化学、天文学、博物学、軍学などを修め、またその人間性で多くの支援者を得た。

緒方洪庵:緒方洪庵は、文化7年(1810)、備中足守藩の下級藩士の三男に生まれた。元服後、父に従って大坂に出、蘭学者中天游(橋本宗吉の弟子)の私塾「思々斎塾」に入門、医学と蘭学を学んだ。家督は継げないから医術で身を立てようと思ったのだ。さらに江戸へも遊学し、坪井信道に入門、学頭に抜擢されるとともに、宇田川玄真に薬学も学んだ。そして長崎へも遊学し、医者を開業しながら博学のオランダ人商館長ヨハネス・ニーマンから西洋医学や自然科学も学んだ。大坂に帰って医者を開業し、さらに蘭学塾「適々斎塾」を開いた。最高の教育を受け、たぐいまれな見識と技術があった洪庵には入塾希望者が殺到。福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、大村益次郎、佐野常民などが学んだ。医師としては種痘(牛痘)の普及活動に力を入れ、大坂に除痘館という幕府公認の種痘所を設立した。またコレラの治療にも最善を尽くした。こうした評判は幕府に聞こえ、幕府から奥医師へ招聘され、あわせて西洋医学所の頭取も兼務した。町医者から医学界の最高位まで上り詰めたのである。なお当時の奥医師は総勢19名、すでに3分の1が蘭方医であった。洪庵は医師としても一流で、また日本最初の画期的な病理学書『病学通論』を著すなど学者としても一流、さらに教育者としては超一流であった。適塾の血気盛んな生徒たちが、みな洪庵に心酔し、それぞれが新しい時代を開く人材になった。

田中久重:田中儀右衛門久重は、久留米藩のべっこう細工店を営む田中弥右衛門の長男に生まれた。久重は幼いころから工作に才があり、『機巧図彙(からくりずい)』を参考書に独学でからくりを作り始めた。15歳の時に絣の織機を製作し評判となる。久重はさまざまなからくり人形を作り、「茶酌娘」はその代表作である。祭の見世物でのからくり興行が大評判になり、ついたあだ名が「からくり儀右衛門」。創意工夫もさることながら、歯車やぜんまいなどの加工技術がものをいっていた。

彼はからくりに魅せられ、家を弟に継がすと、妻子を置いて修行の旅に出た。修行の成果として、「弓曳童子」というからくりが最高傑作として残されている。旅を終え大坂に落ちつき、妻子を呼び寄せ時計師の店を出し「無尽灯」(ランプ)を開発。京都に移って「雲竜水」(消防ポンプ)も開発した。そして京の嵯峨御所から「大掾」の称号を与えられた。芸能の最高位である。さらに久重が持てる技術の全てを注いだのが和時計。この際、彼は天文の基礎から学び、京で蘭学塾「時習堂」を開く広瀬元恭に入門して西洋の物理・化学の原理も学んだ。こうして万年時計が完成。世界にも類のない時計だった。使用された歯車やぜんまいは、すべて久重の手作り(工作機械を使わない)で、一度巻けば225日も動いたという。その後、54歳の久重は佐賀藩から招請を受け、佐賀藩の近代化事業に従事。「精錬方」に配属され、蒸気船「凌風丸」を完成させた。久留米藩からも招聘を受けて郷里に帰ったが明治維新となり、明治6年には、70代になっていたにも関わらず電信機製造のために招聘されて東京に移住、見事成し遂げて、彼の工場は「東芝」につながっていく。

川本幸民:川本幸民は、文化7年(1810)、摂津三田藩の藩医を務める家の末子(三男)として生まれ、早くに父を亡くし長兄に育てられた。藩校では抜群の成績で「三田藩始まって以来の秀才」と言われ、医学の勉強に早くから取り組んだ。長兄が参勤交代で藩主に従って江戸詰めになるのに同行を許され、費用は全額藩が負担して留学した。全く異例の措置である。藩主九鬼隆国の格別の温情によるものだった。江戸では高名な蘭方医足立長雋の門に入り、たった1年で師に認められ、さらに坪井信道の門へ移った。しかし酒席の諍いから藩の上役を傷つけ、蟄居・謹慎を命じられる。なおこの期間中に「蛮社の獄」が起こっている。

浦賀奉行の池田将監頼方のおかげで謹慎が解けると、医学のみならず物理学や化学を研究。日本近代科学史上の記念碑的著作『気海観瀾広義』を上梓し、蒸気船など最新科学技術を解説した『遠西奇器述』も公刊。薩摩藩は彼に講義させており、昇平丸の建造には『遠西奇器述』が参照されている。さらに化学分野での翻訳書も公刊し、万延元年(1860)には代表作『化学新書』を出版。これは元素・化学反応・化学式といった最新知識を詳述し、日本近代化学の礎となった。こうした業績を受け、安政3年(1856)に蕃書調所の教授手伝(→のち教授)に任命され、幕府の直参に出世した。さらに幸民は三田藩から薩摩藩に籍を移し、島津斉彬の下で洋化事業に従事した。ただし幕府の蕃書調所の仕事もあったので、薩摩藩には弟子の松木弘安を派遣。電信機の製作に成功した。斉彬死去後は蕃書調所に戻ったが「安政の大獄」で調所も縮小された。大政奉還後には江戸を離れて郷里の三田で塾を開き、後に新政府から出仕を求められたが61歳で死去した。

最後に、冒頭で述べた2つの関心事項をまとめておく。第1に、江戸の科学者たちはどうやって「西洋」に出会ったか。 洋学は「江戸時代の知識人の本道」ではないと述べたが、洋学は藩主や幕府といった権威が導入していたことも多かった。また吉宗の蘭学書物の輸入規制緩和のおかげで、洋書の翻訳が盛んに行われ、本を通じて洋学に出会った人も多い。つまり非合法な方法によって洋学を知ったのではないということは重要だ。

第2に、彼等の身分について。本書に取り上げられている人の生まれは3パターンで、(1)下級武士、(2)技術者(職人)、(3)商人である。

(1)下級武士の場合は、普通の武士(つまり役人)の場合と、医師の家の場合がある。また、医師以外の場合には職務と科学には関連性はなく、家が世襲してきた役とは別に科学に関連する職種(蕃書、天文方、奥医師等)へと登用されていることが多い。概ね科学により身分が上昇している。

(2)技術者(職人)の場合は、幕府や藩に登用された場合(田中久重)と、一好事家のままだった場合(橋本宗吉、司馬江漢)がある。なお(1)にも事例が多いが、医師を開業している場合(橋本宗吉)は、出仕とは違った意味での身分上昇と考えられる。

(3)商人の場合は、本書には志筑忠雄の場合しかないが(とはいえ彼は通詞の家に養子に行っているので、商人と呼べないかもしれない)、家のお金をつかって好きに生きているイメージである。これはヨーロッパの貴族が学問をするケースに近い。

なお西洋の場合は、近代以前の科学者は多くが貴族である。あまり働かなくてよいので余暇を使って天体観測をしたり、実験に取り組んだり、数学を研究した人というのが多いのである。一方、近世の日本では西洋とは階級のあり方が違ったので単純な比較はできないが、有閑階級(例えば上級武士・大地主)の研究というケースは少なく、余暇を使って研究しつつも、それが職業や身分上昇に繋がるケースが多いと考えられる。それは、社会から科学技術が役に立つ「実学」と見なされたためであろう。これは、蘭学がまず「蘭方医」によって実用化し、奥医師に蘭方医が多く進出したことが象徴していよう。

要するに、近世社会において科学技術は、異端的というよりは、先端的であったのだ。彼等は総じて変わり者ではあったが、時代のトレンドを先取りしていたのである。

気軽に読める江戸時代の科学人物誌。

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2023年5月11日木曜日

『幕末維新史への招待』町田 明広 編

幕末維新研究のガイド本。

私は、結構幕末維新に関する本を読んできた方だが、この本はもっと早く読みたかった。本書は、司馬遼太郎の小説などで広まった間違った過去の通説を批判しつつ、最新の実証研究に準拠した参考書を手際よく紹介してくれている。本書を幕末維新研究の入り口として、紹介されている10冊くらいを読めば、研究の最前線を理解することができると思う。

一方、本書は小説や教科書を通じてある程度幕末維新史を知っている人を対象にしているので、「幕末維新ってあまりよく知らないな」という人が読んだら、さっぱりわからない部分がある。なにしろ維新史の通史は全く述べられていない。そういう意味では、「幕末維新史研究への招待」という標題にした方が適切だったかもしれない。

本書では論点ごとに21の章(序章・19章・終章)が設けられているが、その簡単な紹介は以下の通り(章題は割愛した)。

(1)「尊王攘夷」vs「公武合体」の構図は当を得ていない。坂本龍馬は実際より過大評価されている。薩摩藩研究は平成以降、はるかに深化した。(町田明広)

(2)幕末は、かつては階級闘争史観で国内的な事情から捉えられたこともあったが、現在はペリー来航など対外的・国際的要因の方が重視されてその起点が設定されることが多い。(森田朋子)

(3)幕末の日本は「鎖国」しておらず「鎖国令」も存在しない。また4つの口(対馬口、薩摩口、長崎口、松前口)による貿易・国際交流が行われていた(荒野泰典)。よって「海禁」と呼ぶべきである。(大島明秀)

(4)「尊王」と「佐幕」は対立軸ではなく、幕府も尊王だった。また、尊王に幕府を否定する意味は皆無であった。尊皇は攘夷とセットになって政治的主張としての効力を有するようになった。(奈良勝司)

(5)幕末の社会は、コレラの流行、頻発する大地震、ハイパーインフレと打ち壊しなどの世直し騒動など、政治的変動とは別の面で庶民の世界も動揺していた。(須田 努)

(6)朝廷は財政的には幕府に依存し、幕府も朝廷にはなるだけ予算を割いていた。文久3年、幕府は朝廷との関係強化のため、朝廷の財政の枠組みを大きく拡張させて増額させた。(佐藤雄介)

(7)幕末期に外藩とされた国持大名は、他の大名とは違い、幕府とは距離があった。しかし幕末には譜代大名だけでは国政が動かなくなり、挙国一致体制の中で幕府は彼らに依存するようになった。(藤田英昭)

(8)一橋慶喜・会津藩・桑名藩が結合し、幕府と孝明天皇とが協調して政権が運営された様態が「一会桑」である。一会桑を「政権」と見なすか「権力」「勢力」と見なすかはまだ定説はなく、今後の研究の進展が期待される。(篠﨑佑太)

(9)幕末、薩摩藩では財政改革が行われた。500万両もの莫大な借金を一方的に250年払いに変更し、砂糖の専売や貿易の振興、偽金づくりによって財政は好転。薩摩藩の雄飛の基盤となった。(福元啓介)

(10)幕末の長州藩では、近代的海軍の萌芽のような軍事体制を構築し、対外的な脅威を背景に富国強兵策も構想された。これらは周布政之助を首班とする藩制改革派が主導した。(山田裕輝)

(11)列強によって日本が植民地化される危険は少なかったとする見解もあるが、イギリスは自由貿易体制を維持するためには軍事力の行使を想定しており、危険がなかったわけではない。(田口由香)

(12)日米修好通商条約の締結にあたって幕府は朝廷からの勅許を求めたが、それは全国的な合意形成の手法が確立していなかったために天皇の権威に頼ったという面がある。勅許問題は列強諸国が朝廷を政権のキーと見なすきっかけにもなった。(後藤敦史)

(13)平野国臣が討幕を唱えたのと同じ頃、将軍の側近の大久保忠寛(一翁)は、徳川家も一諸侯に下るべきだという大政奉還論を唱えた。土佐の後藤象二郎は、坂本龍馬からこの大政奉還論を聞き、それが土佐の藩論となった。(友田昌宏)

(14)長州藩の奇兵隊は、旧来の身分秩序にとらわれないものだったが、それはあくまで「奇」だった。大村益次郎は長州の軍隊を近代化し、装備の標準化や士官教育のカリキュラム確立、西洋式武備の充実などに取り組んだ。だが、「国民」が創出されていない中での軍制の近代化には限界があった。(竹本知行)

(15)江戸幕府が創設した海軍は、士官任用が家格ではなく能力が基準になるなど能力本位の人事制度、一元的な指揮系統の確立、近代海軍教育制度の開始など画期的なものだった。また幕府は蒸気船を何隻も座礁などで沈めた経験を踏まえた軍艦運用ノウハウもあった。明治政府の海軍は幕府海軍の「居抜き」でスタートすることができ、比較的短期間で確立できた。(金澤裕之)

(16)いわゆる「薩長同盟」とされている盟約は、長州藩がことを起こした場合に薩摩藩が中立を表明したもので軍事同盟とは言えず、「小松・木戸覚書」と呼称するのが適切。坂本龍馬はこれを周旋しておらず、会議後に証人となったにすぎない。盟約をきっかけにして薩長の関係が緊密化した。(町田明広)

(17)徳川慶喜の大政奉還は、幕藩体制の限界を認め、来るべき朝廷を中心とする公議政体で自らが中心的な地位を占めるために行われたものと考えられる。(久住真也)

(18)戊辰戦争を民衆が支持したかどうかの二分論は過去のものとなり、「それぞれの戊辰戦争」を解明することが研究の潮流となっている。(宮間純一)

(19)公家も幕末の動乱に参加し、維新政府では当初要職を占めたが次第に遠ざけられ、廃藩置県を経て中枢から排除された。その後、宮内省が公家の活躍の場となった。

(20)明治政府といえば藩閥・有司専制というイメージがあるが、当初の政府は「公議」を重視して公議機関を設け、明治2年には官吏公選を行い、旧幕臣も登用するなど、必ずしも藩閥だけでない政権運営が行われていたことが薩長の強さだった。(久保田哲)

(21)明治維新は、マルクス主義史観からの評価、無血革命としての評価(司馬史観)、などイデオロギー的に評価されてきたが、実証研究の進展、ローカルとグローバル双方の研究の積み重ねによって近年ではより多角的に捉えられるようになった。(清水唯一朗)

全体として、図が割と多いこと、主要参考文献+関連書籍が章ごとに紹介されること、著者の考察は極力少なくして研究の全体像を示そうとしていることなど、大学の講義に雰囲気が近く、筑摩新書の「○○史講義」のシリーズに似ていると思った。

特に興味深かったのは、(13)の大久保一翁の大政奉還論、(15)の幕府海軍についてである。

幕末維新史研究の最前線へ誘う良書。

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2023年5月4日木曜日

『真木和泉』山口 宗之 著

真木和泉の評伝。

維新史において、真木和泉は「最も早く王政復古を主張したものの一人」として必ず出てくる。しかし彼が何を考えて王政復古を着想したのか、どんな人物だったのか、といったことはよく知らなかった。そこで手に取ったのが本書である。

真木和泉は、文化10年(1813)、久留米藩の水天宮の神官の子として生まれた。父は中小姓格に列し、年60俵扶持であった。神官であるとともに、下級武士としての待遇を与えられていたということだ(「格」なので武士そのものなのか疑問があるが)。

和泉は体格に恵まれ、力士に間違われるほどであったが、学問に励み、漢学や国学を学んだ。わかっている彼の蔵書を分析すると、水戸学や国学を中心とした志向が窺える。

和泉は、父の死によって11歳で神官を継ぐ(文政6年(1823))。たった11歳の和泉が、父の葬儀を仏式でなくあえて神式で行ったことは注目される。また10年後の天保4年(1833)には、先祖の仏式の法号を全て廃して霊神号に改めている。彼には廃仏傾向があった。

19歳の時に、9歳年上の女性(睦子)と結婚、5子をもうけ3人が成人することになる。20歳で吉田家より大宮司の許状を得、従五位の下に叙せられ和泉守に任じられた(それ以前も通称として和泉を使用)。

32歳の時に水戸に遊学し、会沢正志斎に親しく教えを受けた。時を同じくして、久留米藩では有馬頼永(よりとお)が襲封する。彼は23歳の英邁な藩主で、楠木正成を敬慕する尊王家であった。頼永は倹約によって財政を改善するとともに、長崎からの情報を摂取して実学を盛んにした。これによって起こった実学派を「天保学連」という。和泉もこの一員だった。弘化3年(1846)、和泉は改革意見を頼永に提出。そこでは「国土は全て朝廷の所有するもの」と早くも主張している。ところが同年7月、頼永は25歳で死去してしまった。

同年8月、和泉は孝明天皇の即位式に公卿の野宮定功の随身として参加。激しい感動を受けた。一方、藩内は頼永亡き後、改革を担ってきた天保学連が外同志(和泉はこちらに属する)と、内同志の2派に分かれ、抗争し、不祥事を起こした。嘉永4年(1851)、藩主を継いでいた頼咸(よりしげ)が入部すると、外同志は「内同志たちが頼咸廃立の陰謀を図っている」と頼咸に直訴。それをきっかけに取調が行われたがその事実が立証されなかったため、逆に外同志たちに重い処分が下った。こうして和泉は水天宮神官の職を取り上げられ、弟の大鳥居理兵衛が留守別当職を勤める水田天満宮で、10年以上もの幽閉(三里構い)の日々が始まるのである。

しかし、これは幽閉とはいえ、あまり厳重なものではなかった。「三里構い」の意味は本書に詳らかでないが、三里以上離れてはいけない、ということなのだろうか(和泉はたびたび外出している)。和泉は敷地内に小舎を建てて「山梔窩(くちなしのや)」と名付けて読書生活をし、和泉を慕ってここに多くの青年が集うようになった。 彼らの多くは武士ではなくせいぜい村役人クラスの百姓であった。

また和泉の弟外記と嗣子主馬は、彼の耳となり手となって情報収集を行い、和泉は山梔窩にいながらにして内外の諸情勢を把握していた。彼は幽閉中にもかかわらず、『魁殿物語』『急務三箇条』などを草し、『急務三箇条』は三条実万に提出している。そこでは神武創業の精神にかえり討幕・王政復古を仄めかしている。また野宮定功に『経緯愚説』を上程し、簡潔ではあるが討幕・王政復古への具体策を述べた。さらに『大夢記』では、天皇が親征して幕府を滅ぼし、親王を安東大将軍として江戸城を治めるという討幕のシナリオまで書いている。吉田松陰ですら討幕を考えていなかった時期に、驚くべきエネルギーである。

そういう48歳の和泉の下へ密かに訪れたのが平野次郎国臣で、二人は意気投合。平野から桜田門外の変や和宮降嫁問題などの切迫した状況を聞かされ、もはや幽囚している時ではないと和泉は決心。久留米藩を動かす術はなかったので、薩摩藩に頼ってことを起こすこととし、門人3人(うち一人は次男菊四郎)と共に脱藩して薩摩藩へ向かった。和泉50歳であった。彼らは、白昼堂々と久留米藩を脱出。あまりの迫力に捕吏たちは手出しができなかったのだという。

薩摩藩では大久保利通や小松帯刀ら要人に会い、連日非常な持てなしを受けた。何の後ろ盾もない和泉らが歓待されたのは不思議だ。11年も幽閉されていたのに、和泉の名が知られていたことは間違いない。しかしながら、公武合体を志向する薩摩藩では、和泉の即時討幕の意見は受け入れられることはなく、薩摩藩からは退去することを求められた。

薩摩を離れ上京した和泉は、薩摩藩士の過激派である有馬新七らと合流。彼らは討幕の挙を実行せんとして寺田屋に集結したが、久光は鎮撫使を派遣し、彼らは斬殺された。寺田屋事件である。しかし和泉は寺田屋の別室にいたので助かり、久留米藩に預けられた。薩摩藩は穏便にことを済まそうとし和泉を処分しなかった。和泉は久留米藩の定宿に70日ほど勾留された。

さらに和泉は久留米藩に護送され、拘禁された。しかし久留米尊攘派を中心に和泉赦免の運動が起こり、公卿への働きかけの結果、正親町三条実愛から頼咸へ解囚の命が下り、和泉は自由の身となった。一転、和泉は頼咸へ召されて重用された。彼は薩築連合を説き、今度は藩命を帯びて薩摩に下ったが、やはり久光には相手にされず帰還した。それでも和泉は、あくまで朝廷を中心とし、天皇が政務・軍事の指揮権を握る体制を夢見ていた。

一方で、頼咸には確たる政治信念が無く、重臣の意見に振り回される面があった。和泉らは一度は寵を得たものの反対派の巻き返しにあい、和泉らの一党はふたたび捕縛された。これを「和泉捕り」という。またもや赦免運動が展開され、公卿等も藩主に穏便な取り扱いを求め、また前藩主頼永の実弟亀井茲監(津和野藩主)も藩士を久留米藩に派遣し解囚を切言した。一方和泉は、自分がこれ以上久留米藩にいると藩内の不調和が続くとして『退国願』を提出。自主的に久留米を去り、朝廷の直臣になろうというのだ。

これは藩内に動揺をもたらし、却下されるところだったが、ちょうどその時、中川忠能の次男忠光が久留米藩に来た際、その対応を誤ったこと、解囚を勧める関白鷹司輔煕の内旨書があったこと、長州藩が和泉の解囚を勧めたことなどから許可された。和泉の処遇を重要人物たちが気にしていることからも、彼の存在感がわかる。

こうして久留米藩と縁を切った和泉は長州藩に赴いた。長州藩では藩主毛利敬親から信任を受けて重んじられた。そして藩命により再び上京するのである。京都でも一貫して討幕・朝廷中心の政体樹立を主張(『五事建策』)。彼は公卿にも大きな影響力を持った。和泉は学習院御用掛に任命され、「このころ和泉は「先生」「大人」「王人」と仰がれ「今楠公」と称せられて志士たちの尊敬するところとなっていた(p.164)」。鷹司関白はいつ参上しても必ず会ってくれた。和泉の生涯で最も得意な時だった。長州藩が朝廷を手中に収めた時でもあった。

そして和泉の建言に基づき、いよいよ天皇の大和行幸・攘夷親征の詔勅が発せられた。ところが、ここで「八月十八日の政変」が起こる。薩摩・会津藩が朝廷から長州藩勢力を駆逐した政変である。天皇としても、朝廷が長州に牛耳られていることは不本意で、その間の勅は真のものではないと言い切った。こうして長州勢は京都から退却し、攘夷派の公卿7名も長州へ落ち延びた(七卿落ち)。

和泉は再起を期し、敬親に建白書を上呈して挙兵上京を説いた。敬親親子はひたすら恭順の姿勢で赦免を請う方針だったので和泉の意見は容れられなかったが、 彼はめげることなく、薩摩と連合しようとするなど(不発)、討幕に向けた策動を続けた。そんな中で、京都では長州を討伐するというムードになり、長州の進退が窮まった。こうして敬親親子まで含めた5隊が編成され長州に進発した。一応、藩主親子の冤罪を哀訴、浪士鎮撫などの名目だった。浪士隊(清側義軍)の第一隊では、和泉と久坂玄瑞が総管であった。

しかし、戦うことが目的でなくても、京都に大軍を差し向ければ、京都守護職の松平容保としては迎撃せざるを得ない。徳川慶喜も長州藩征討を決意。長州藩としてももはや引くに引けず、「君側の奸」松平容保を除くため進撃を決めた。こうして「禁門の変」が起こった。しかしあえなく鎮圧。天王山に逃げた和泉は、禁門に対して刃を向け、藩主親子に罪を重ねさせた責任をとり自刃した。

なお和泉とともに17名が自刃しているが、実はこの中に長州藩の人間は一人もおらず、久留米藩4人、福岡藩1人、熊本藩6人、高知藩4人、宇都宮藩2人となっている。禁門の変は、単純な長州と会津の戦いではなかったことに注意が必要だ。

真木和泉は、ほぼ40歳から50歳までを幽囚の日々で過ごし、身分も高くなかったのに、かなりの影響力を持った。それは人柄と思想の力のなさしむるところだった。

人柄については、一族が和泉に協力を惜しまなかったことでも知れる。和泉には人を虜にする魅力があったのだろう。

思想については、水戸学をさらに突き詰めたと評価できる。水戸学では現実の封建体制(江戸幕府)を否定するどころか、会沢正志斎も将軍への恭順を主張していた。水戸学からは直接は討幕は導かれないのである。しかし和泉は、正式な武士身分でもなく、幽囚の身でもあり、藩の機構に組み入れられることも、その後援を受けることも叶わなかったために、かえって藩意識から自由であり、早い段階で「天皇の直臣」としての意識を持ったことが特筆できる。「恋闕の人」和泉は、情熱的に天皇を追い求め、たとえ国土・民族滅亡することがあろうとも、天皇にひたすら従い「国体」を守ることが日本人としての務めだと考えた。であるから当然に天皇中心の時代に復古することが彼の目的となった。

しかしながら、彼の思想には3つの弱点があった。第1に、彼は西洋のことをよく知らず興味もあまりなかった。よってその思想は日本の近代化を見通したものではなく、時代錯誤な復古主義にならざるを得なかった。第2に、彼は一貫して反幕府的であったが、封建的体制への絶対的肯定があり、いわば将軍の位置に天皇を据えることのみが彼の統治論であった。よって民衆へのまなざしは皆無で、自ら建白の随所に「言路洞開」を求め、どのような身分でも勤王に身を尽くすべきとしながらも、身分制の解体に向かうどころかそれを強化しようとさえした。第3に、彼は他の志士のように藩という組織の中で現実の行政に携わった経験がなかっため、その論策が現実性に乏しく、名分をただすというような理念的なものにとどまった。しかしながら、彼の思想は論理的・現実的であるより、感情的・夢想的であることに魅力があったのも確かである。

そして最後に、和泉は他の志士より年代が一回り上だったことも、その影響力の一因だった。西郷隆盛より14歳、木戸孝允より23歳も年上なのだ。横井小楠と佐久間象山と同世代で、志士の中ではかなりの年配に属した。若く血気にはやる志士たちの中で、和泉が頼りにされリーダー格になったのは年齢も大きかったのだろう。

本書を読みながら、私は真木和泉と吉田松陰との対比を考えた。松陰も若くして家督を継ぎ、罪を得て幽囚の時を過ごした。そして幽囚の中で読書生活をし、自らの思想を先鋭化させた。そういう点で和泉と松陰には共通点が多い。水戸学と国学に大きな影響を受けたのも共通している。しかし松陰の場合は、西洋を知り、現実の外交関係を考慮したことが和泉とは決定的に違う。そして高弟に恵まれたのも和泉と好対照をなした。和泉は、多くの人に影響を与えながらも、それを受け継ぐ人が育つことはなかった。

それは、和泉の思想が理論的なものではなく、彼の人格と絡み合った情念によるものだったことを示唆する。そして「恋闕の人」でありながら、結果的に禁門の変で禁裏に対して戦い、賊臣として死んだことも、その論理を徹底させられなかった悲劇であるとみなせる。それは二・二六事件の青年将校たちを彷彿とさせる。

皮肉なことに、彼は「天皇」の名において「国家」に反逆する最初の典型となったのである。

【関連書籍の読書メモ】
『吉田松陰—「日本」を発見した思想家』桐原 健真 著
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吉田松陰における「日本」の自己像に関する思想の変転を振り返る本。松陰の思想について概観するための良書。

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2023年4月25日火曜日

『漂泊—日本思想史の底流』目崎 徳衛 著

日本における漂泊の思想をエッセイ風に探る本。

著者によれば日本の思想史には3つの類型が登場するという。第1に、宗教的な志向、第2に、政治的・社会的な志向、そして第3に、そうした規範ではなく、旅をしつつ生の実相を見つめる志向である。すぐに看取されるとおり、この類型はあまりに大雑把で、しかも第3の類型については理念的すぎ、ちょっと導入からひっかかる。

ともかく、本書は日本思想史に登場する第3の類型である(と著者が考える)漂泊的志向について、歴史に沿って述べるものである。ただし、本書では「漂泊」が厳密には定義されていない。著者が何を持って漂泊と見なすか、やや恣意的であるように見受けられる(後述)。このように、枠組みがあやふやであるために、本書は残念ながら思想史としては成り立たず、著者自身が述べるようにエッセイの範疇だ。

日本における漂泊の原型は、ヤマトタケルの軍旅である。それはなぜか。記紀神話によれば、ヤマトタケルはただ戦いに赴いたのではなく、そこに詩心が伴っていた。漂泊者の原型とは、運命的悲劇によってよるべない放浪に赴く詩人なのである。

しかし万葉集は未だ漂泊以前である。それは、万葉集には夥しい羇旅歌が収められてはいるものの、大和から離れて故郷を懐かしむ気持ちが濃厚で、旅そのものに生きる態度が見られないからだ。ただし遊行女婦(うかれめ)という、旅先にある男を慰めた女たちには、漂泊的な性格が看取できる。彼女たちのよるべない暮らしは、例えば大伴家持のような高位の官人の旅よりも、漂泊の詩心を育んだのに違いない。なお本書には指摘がないが、「遊行女婦」という当て字も興味深い。彼女たちの存在は「遊行」であると見えたのだろうか。

最初に漂泊の思想が形をなしたのは、伊勢物語であるという。在原業平のありし日の色好みと老いて後の零落は、放浪の悲劇を鮮明な形で表現している。一方、女性がよるべない境遇に陥り、放浪して生きながらえるというモチーフは源氏物語の宇治十帖にも描かれ、小野小町が零落して遊女になって漂泊したという伝説にも見られる。才女や美女が哀れな末路を辿りさすらうという物語を人びとは好んだのだ。

それはフィクションの世界だけではない。後深草院の寵愛を受けた女房二条は宮仕えを辞して諸国行脚をし『とはずがたり』にまとめている。そこには「妄執と信仰の間をたえず揺れ動く心情」が表現された。それが「中世漂泊者特有のエネルギー」であった。

中世には、漂泊が一つの形をなすようになる(=著者曰く「中世的漂泊観念」)。漂泊に形を与えたのは「名所」と「歌枕」だった。名前を出すだけで情感が生じる「名所」、そしてその地名を読み込んだ名歌、そしてその名歌を本歌取りにした作品の続出が、「歌枕」を成立させた。特に陸奥の「歌枕」は特異な魅力をもった。中将実方(さねかた)は政争の果てに陸奥へ赴き、歌枕を訪ね歩いた。それは観光というようなものではなく、むしろ「痴(をこ)」なる行為であった。端正な王朝文化から逸脱して風狂に近づいたのだ。漂泊は反俗精神を内包していた。

能因も陸奥・出羽を訪れ、大漂泊者の劈頭となった。彼は数寄者であり、遁世(出家)の形をとってはいたが、宗教的な修行の跡はなく、歌道に沈潜することが目的であったと見られる。彼は非僧非俗(世俗的生活も捨てなかった)の暮らしの中で数寄心に殉じて漂泊した。

その能因を手本にしたのが西行である。西行は、実際に旅に出ていた期間はたった3年ほどだが、信仰と数寄を共に高いレベルまで高め、命がけの修行の中でも消えない詩心、「甘美な何か(p.188)」を漂泊に託し、「魂の漂泊」をなした。しかし次第に信仰と数寄に引き裂かれ「いかにすべきわが心」と嘆ずるようになった。

なお、中国への渡航のように、理想郷への脱出・まだ見ぬ国への憧れも漂泊思想に影響を与えた。本書には宋の五台山へ参詣しようとした源実朝の事例が述べられているが、現実を打開する術がない時に、脱出の衝動を持った実朝は、実際には旅をしていなかったとしても漂泊者の系譜に位置づけられる。

『一言芳談』は念仏行者・遁世者の言葉を収録したものであるが、ここに「人生そのものが旅(今生は一夜の宿り)」とする中世漂泊思想が表明されている。人生は仮のもので、旅の宿り(一時的なもの)にすぎないとすれば、教学までも否定の対象となりうる。

その虚無主義を超克したのが一遍である。彼の旅は苦悩や零落によるものでなく、大衆に崇められ、法悦に乱舞する大勢に囲まれてのものだったが、彼はどこか孤独で、あらゆるものを捨て去って遊行した。それは自らを超越的立場におくもので、人間的な営みである漂泊とは対極的なものであった。

連歌師宗祇の旅も、漂泊とは似ても似つかない、ビジネスライクなものであった。戦国たけなわのころに宗祇は各地に招かれ悠々と旅をし、城に着けば至れり尽くせりでもてなしされた。しかし制作された連歌には、そうした実態は出てこず、「今生は一夜の宿り」の無常観、旅と人生の連結が表現されている。漂泊が現実から遊離し、類型化した語りになっているのである。それでも宗祇の中には、日常性に埋没しきれない数寄心が蠢いていた点で、漂泊者とみなせる。

そして近世に向かうにつれ、宗教が地獄を恐れる切実なものから遊興じみたものへと転化したように、旅も恐ろしいものから楽しいものへと変わっていった。近世には物見遊山の旅は厖大に行われたが、かえって漂泊のような反俗的な旅は少なくなった。著者はこれを「漂泊不在の季節」と呼ぶ。 そんな中で漂泊に足を踏み入れたのが芭蕉である。

彼は人生に行き詰まり隠遁し、さらに生活の後ろ盾の全く無い中で漂泊に身を委ねた。その旅は、西行を追慕して名所を周到に巡るものだったから漂泊とはいえない。しかしその精神は、全てを捨て、数寄心に殉じ、おのれを詩人としつつも、それを「妄執」と見なす漂泊の定型に合致していた。

ここで筆者の考察は終えられているが、さらに近世後期については、架空遍歴譚(例えば、平賀源内の『風流志道軒』、春川恋町の「異国奇談和荘兵衛」など)が少し取り上げられる。それは解放への欲求を反映したものと見られ、また近代になると西洋への憧れ、逃走が新たな漂泊の局面をなしてくる。

しかしそうしたものよりも、田山花袋が「東京の十三年」で書いている次の言葉は、近代における旅の本質を突いている。「旅に出さへすると、私はいつも本当の私となつた。」

著者が「あとがき」で述べるところによれば、「この一巻で追求しようとした主題は、古来日本人の心の底を流れてやまない漂泊の思いの、思想史的位置づけである(p.315)」ということだが、この意図は成功しているとはいえない。本書の方法論には問題が2つある。

第1に、漂泊を定義づけておらず、著者が漂泊と思いたいものを漂泊と見なし、漂泊者とみなしたい人を漂泊者としているということだ。西行は、たった3年ほどしか旅をしていないのに漂泊者としているし、逆に全国を巡りに巡った一遍が漂泊者ではないというのも首肯しがたい。著者は最初から「漂泊の思想とはこのようなものだ」と決めて、その結論に合致するように人物を当て嵌めていっている。だから歴史を繙いても著者が最初に措定した思想以上のものが出ていない。また近世には、よるべない旅に生きた人びとが大勢いたのであるが、そうした人びとを全て漂泊者でないと片付け、「漂泊不在の季節」としたのは大きな瑕疵であろう。

第2に、漂泊と仏教の関係を正面から取り上げなかったことである。仏教においては、遍歴することに大きな意味があり、勧進しながら、托鉢しながら諸国行脚をすることが非常に重要な修行であった。古来信仰によって日本を回ったものは数えきれぬほど存在する。それらは、よるべない放浪とは違ったものもあったが、著者のいう漂泊の性格のいくらかは持っていた。確かにそれらが詩心を常に伴っていたとは言えない。しかし漂泊に詩心がなぜ必須なのか、本書では遂に説明されない。仏教思想による漂泊を捨象したことは、漂泊の思想を大きく切り詰めるものである。

このような問題があるため、本書では漂泊の思想が十分に展開しない。意地悪な言い方をすれば、著者のいう「漂泊」は単なるセンチメンタルな旅にすぎない。著者自身が「気楽なエッセー」と述べているのだから、「思想史」として批判するのはフェアではないとは思うが、思想を記述する堅牢な枠組みを設けた上で書けば、全然違ったものになったように感じられ、惜しまれる。

曖昧な枠組みで書いているため、漂泊を十分に書ききれなかった惜しい本。


2023年4月23日日曜日

『蘭方医桑田立斎の生涯』桑田 忠親 著

幕末を生きた蘭方医の伝記。

桑田立斎は、小児への種痘に取り組んだ蘭方医である。幕末には西洋医学がさかんに流入し、特に天然痘のワクチン「種痘」についてはかなり普及した。種痘の接種に取り組んだ蘭方医は多く、特に長与専斎は有名だ。そうした中で、本書の主人公の桑田立斎はそれほど有名な人物とはいえない。

立斎がやや独特だったのは、彼が小児科の開業医だったことと(当時「小児科」という概念があったのか不明であるが、本書では「小児科医」ということになっている)、幕命で蝦夷地(北海道)に行き種痘をしたこと、7万もの人に種痘をしたことである。

私は本書を2つの興味から手に取った。一つは、幕末の蘭方医がどんな存在だったか知りたかったこと、もう一つは、蘭方医がどんな髪型をしていたかということである。どうして髪型が気になるのかと訝しむ向きも多いだろうが、当時の髪型は社会的地位を示すものなのである。

ただし、本書は史料に基づいた評伝ではなく、桑田立斎を広く知ってもらうための小説である。よって、髪型のことも触れられてはいるが、それが事実なのかフィクションなのか判断がつかず、本書は私の興味に完全には応えてくれなかった。以下、髪型を踏まえつつ簡単にメモする。

桑田立斎は、文化8年(1811)、新発田藩の下級武士の次男、村松五八郎として生まれた。彼は明王院という地蔵菩薩を祀る寺院で生まれ地蔵菩薩のお弟子となっていたので、元服を過ぎても稚児髪を剃り落とした時のままの坊主頭であった。武士ではない、という徴(しるし)だろう。

ちなみにその頃、蘭方医の町医者(島田本道(竹斎))は総髪をしていた、とある。既に蘭方医の町医者がいた、ということ自体が興味深い。では蘭方医ではない医者(つまり漢方医の医者)は、どういう髪型をしていたか。医者は法橋とか法印といった僧侶としての位を持っていた(持っているものもいた)ので、剃髪していたようにも思うが本書には髪型の記載はなかった。

村松五八郎、改め村松和は蘭方医を志し、江戸に2度遊学する。しかし十分に西洋医学を学ぶことはできず、帰郷後、島田竹斎の蔵書に接して勉強した。ここには『西説内科撰要』18巻などがあった。西洋医学書は、維新前に漢訳され、少ないながら流通していた。

村松和は再度江戸に出て、蘭方医坪井誠軒の日習塾に入った。和はこの頃も坊主頭だったという。当時、江戸には戸塚静海、大月俊斎、竹内玄同、伊東玄朴ら蘭方医の大家がいた。彼らは幕府か諸藩に仕えて侍医となっていた。また高野長英、渡辺崋山、小関三英、鈴木春山らの尚歯会も西洋文明の積極的輸入を図っていたが、尚歯会は「蛮社の獄」で弾圧される。彼らは政治批判の廉によって捕縛されたが、西洋医学自体は弾圧の対象とはなっていない。

村松和は坪井誠軒の紹介で蘭方医桑田玄真の養嗣となり、32歳の時に深川西大工町に小児科医院を開業した。結婚して子どもを設けた後、嘉永2年に伊東玄朴から牛痘種痘の痘苗を分けてもらい、牛痘種痘を開始。それを機に立斎と号した。39歳の時である。

立斎は種痘を進めるために『済幼私説』『済幼問答』という小冊子、『牛痘発蒙』という本を出版。そして実際に多くの人びとに種痘を施した。また小児養育に関する本『愛育茶譚』や『宝ハ子ニ勝ル物無きの弁』という冊子も出版するなど、多くの啓蒙書・パンフレットを送り出した。立斎は、民衆に種痘を広めるための啓発活動に力を入れたのである。

こうした活動が注目されたのか、彼は老中阿部正弘から幕命を受け、当時天然痘が流行していた蝦夷地に渡ってアイヌに種痘を施すことになった(深瀬洋春という江戸の蘭方医も同じ幕命を受けて蝦夷地に渡ったが、二人は別々に行動)。

アイヌへの種痘は狩り出して無理矢理接種するというようなものだったらしいが、立斎は人道的な方法によって行った。また立斎と助手などの一行は、箱館から十勝へ渡り、根室から国後島にまで行った。これは当時、立斎の養父桑田玄真の実子、関谷順之助が国後島(箱館奉行所国後出張所)で勤めていたからであった。なお蝦夷地行きから立斎は頭髪を生やすようになった、とされている。総髪になったのだろうか。

蝦夷地では、幕府から出た費用の他に200両ほどの私財も投じ、6400人に種痘を施した。江戸に帰還して安政5年(1858)には、江戸でコレラが大流行する。また同年、伊東玄朴らが種痘所を江戸に設置することを幕府に申請し認められた。これは蘭方医82人の醵金による私設の種痘所である。これは文久元年(1861)に西洋医学所と改称され、東京大学医学部につながっていくものである。

文久2年(1862)には、麻疹が江戸に大流行した。麻疹は天然痘以上に致死率が高かったので、江戸市中だけで26万人以上の人が亡くなった。「坂下門外の変や生麦事件よりも、全国的に大流行した麻疹のほうが、一般庶民にとって、はるかに身近な大事件だったのである(p.179)」。麻疹の治療にも立斎が必死で当たったことは言うまでもない。

立斎は、生涯で10万人に種痘を施すという目標を立てており、維新の混乱で江戸から避難する人が出る中でも医院を開き続けた。ところが種痘の注射を打とうとしたところ、注射器を握ったまま突然死した。慶応4年(1868)、享年58歳。生涯に種痘を施したのは約7万人であった。「幕末のジェンナー」と評される。

本書の著者、桑田忠親は立斎の子孫で(忠親の曾祖父が立斎)、本家に蔵されていた『桑田立斎年表』と『遺言状』という史料に基づいて、フィクションを適宜交えて本書を書いている。著者の専門は戦国時代から織豊時代、特に茶道の歴史について研究した。よって幕末を舞台にした本書は、専門から外れる。

先述の通り、蘭方医やその髪型についての情報は期待通りのものではなかったが、本書を読みつつ、幕末における西洋医学の受容について改めて興味が湧いた。さらには、それは洋学全体の受容の中でどのように位置づけられるのか。今後勉強してみたい。

 

2023年4月6日木曜日

『旅のなかの宗教—巡礼の民俗誌』真野 俊和 著

四国遍路を中心に日本における巡礼について述べた本。

巡礼とは、聖地に赴くことをいう。メッカ巡礼とか、エルサレム巡礼といったように。そして日本の場合、特定の目的地を持たず、神社仏閣を(しばしば当てもなく)巡る巡礼もある。

気軽に旅行に行けなかった近世以前の社会においては、旅はほとんど宗教的な目的のものに限られていた。そして同時に、宗教そのものが旅を通じて形作られてきた。聖たちはひたすらに歩き、遊行することそのものが修行の本質だと考えていた。だから巡礼は、日本の宗教の核心といってよい。 

そしてまた、定住し農業を営むことを基本とした日本において、そこからあぶれたものが頼ったのが旅でもある。旅は「もうひとつの生存様式(p.40)」であった。

旅に生きた人々には、空也、一遍のような高僧もいたが、「鉢叩き」「鉦打ち」といった半僧半俗の下級宗教者、「すたすた坊主」や「高野行人」のような乞食芸能者もいた。また「熊野比丘尼」「歌比丘尼」といった、春をひさぎつつ宗教的に漂泊した女性も決して少なくなかった。こうした人々は、生きるために旅をしていたのだ。

そして彼らの旅は、常に物乞いを伴っていた。それは糊口をしのぐために必要なものであると同時に、彼らの宗教の本質的部分でもあった。モノをもらって集めること自体に、聖性があったようなのだ。

また日本の巡礼には、古くは特に順路の定めがなかったが、やがて西国三十三観音、秩父三巡山観音、四国八十八箇所(以下「四国遍路」という)といった定型的な巡礼コースとそのやり方が確立していった。

なかでも四国遍路は、組織的に形成されたものではなく、民衆の側からの自然発生的な行為として産まれ、何らの教義的位置づけもなかった点で他の巡礼コースと異なる。どの寺が札所となりどの寺が番外札所となるか、といったことも正確な理由付けを与えることは難しい。それどころか、近代になるまで札所寺院では遍路を誘致することも、教理化することもなく、信者として扱うこともなかった。どちらかというと巡拝者は寺院にとって厄介者であった。よって「四国霊場には、ほとんどあらゆる宗教に共通してみられる、神・仏と人間との間の仲介役である神職・僧侶と信者たちという二元的な関係にもとづく宗教行為や宗教体験の一切が存在しない(p.61)」。

遍路の宗教的な核心は弘法大師信仰であり、遍路は弘法大師と直接に関係を結ぶための修行であった。遍路は「同行二人」(弘法大師と共に巡る)を標榜し、個別の寺院よりもそちらの方が重要な意味を持った。

では遍路はどうやって生まれたか。西国三十三観音などと比べ、遍路の起源は謎に包まれている。もちろん空海が開創したという伝説は事実ではない。どうやら遍路は、補陀落渡海の信仰と空海ゆかりの金剛頂寺(金剛定寺とも)の乞食(こつじき)が核となって出来上がったものらしい。早ければ11世紀後半、遅くとも平安時代末には、四国の海岸を回る信仰が成立した。遍路では寺院が先にできたのではなく、まず「道」が出来て、巡拝者たちの拠点として寺院が出来上がっていったというように考えられる。

四国遍路の祖とされる伝説的人物が「右衛門三郎」だ。彼は富と権力を持っていたが、托鉢の僧侶をすげなく打擲したため八人の子どもが次々と死に、乞食しながら巡礼して改心、大師の加持を得る(生まれ変わる)、といった伝説が伝わっている。現実には、この伝説が出来上がったのは四国遍路が成立した後のことだが、この伝説において既に大師と巡拝者とが直接関係を結ぶことが述べられているのが象徴的だ。

次に、どのような人々が遍路を旅したか。遍路は苦行であるから、遍路に行かざるを得ないくらい追い詰められた人が遍路を歩いた。例えば、家から追われ故郷から追われた、寄る辺ない人々、病気になった人々といったものだ(病気も前世の業罰のためと考えられていた事情もある)。例えば「金比羅宮のあの長い石段の両側には、ほとんど一段ずつといってよいほどに、参拝客の喜捨をあてにした癩者たちが並んでいた(p.98)」。しかしともかく遍路を巡りさえすれば、なにがしかの喜捨を受け、とりあえず生きていけるという社会福祉のような意味もあった。

しかし辻堂や岩穴に寝起きする彼ら乞食遍路は、人々から嫌われ蔑まれた。それが戦前までの遍路のかなりの部分を占めていた。

なお本書では、巡礼者の事例として、遍路ではないものの野田泉光院の場合が詳述されている。しかし野田泉光院については別途読書メモに書いたことがあるのでここでは割愛する。

江戸時代初期の貞享4年(1687)、遍路の歴史にとって画期的な本『四国辺路道指南(みちしるべ)』が上梓された。作者は諸国を行脚する修行僧、宥弁真念。これによって四国霊場のまとまった案内が初めて公になった。札所の数や順序などもこの真念によるものだという説がある。ついで元禄2年(1689)、高野山の学僧石堂寂本は大著『四国遍礼霊場記』全7巻を出した。さらに翌元禄3年(1690)、真念は遍路の信仰説話集である『四国遍礼功徳記』上下巻を著した。彼は遍路屋を開設したり、標石の建立といった仕事もしている。真念の宗教は、「雑然とした、どちらかといえば完成度の低い要素を多分に含んでいた(p.118)」が、民衆宗教としての四国遍路の確立に大きな影響を及ぼした。

とはいえ、遍路を巡った巡拝者たちが、皆がみな切羽詰まった信仰を持っていたわけではなかった。その一例として、江戸時代後期の文政2年(1819)に四国遍路の旅に出た新井頼助の様子が詳しく紹介される。その旅は物見遊山のためだった。それは各地をついでに観光しつつ、木賃宿(米は持参でたきぎ代のみの宿)や善根宿(遍路を無料で泊まらせる宿)に泊り、のんきに札所を巡るものだった。それでも村に帰ると、「十日近くにわたって祝いの人びとが訪れ(p.131)」、四国遍路の成就を祝った。遍路の大部分は乞食で嫌われていた、ということと、遍路を終えた人への祝賀とが、同時に存在していた。

一方、哥吉という少年は11歳から14歳まで苦難に満ちた巡礼を行った。彼は養母とともに四国遍路に入った。村にいても食っていけないので、托鉢に頼って生きようとしたのだ。しかし途中で母と弟が死亡。哥吉は遍路を続け、途中である六部と出会い行動を共にする。ところが彼は親元に送ってやるといいながら、自分の巡礼につきあわせ、九州、西日本、東日本と巡ることになった。その六部が死んで哥吉はようやく故郷に帰った。無一文でも、親無しでも、遍路・巡礼に出れば生きていけたという実例だ。

大正時代、後に女性史の分野で名をなす高群逸枝は、24歳の時に四国遍路に出た。四国遍路を志した理由は明確にはわからないが、 彼女には「観音の申し子」として育てられた宗教的なバックボーンがあった。道すがら伊藤宮次という老人と出会い、この老人と同行してお修行=托鉢をしながら(実際には老人が托鉢して)遍路を歩いた。なお遍路には、一日に3軒ないし7軒、もしくは遍路中に21軒のお修行をしなければならないという不文律があった。彼女は不潔な遍路宿・木賃宿に苦しめられ、病気に冒された醜い遍路たちに言葉を掛けることもできず、「遍路旅へのそこはかとない憧れ」は打ち砕かれた。しかし彼女はその経験を「遍路愛」として昇華させた。

しかし遍路を歩いた巡拝者には、やはり最後にすがる信仰として旅に出たものが現代でも少なくない。事実、医師からも見放された難病が遍路で劇的に快癒したり、躄(いざり)が歩けるようになったりといった奇跡は、今でも続々と生みだされている。そしてそういう霊験にあずかることの出来た人々は、それを文章にして公開し、持ち物を奉納した(いざり車、ギプス、松葉杖等)。立江寺には、小指を切って奉納するという奇妙な風習まであったという。

そして、それらの霊験譚は乞食遍路によって各地に伝播され、四国遍路の名を高からしめたのだろう。四国遍路の霊験譚には、普通のはやり神や神社仏閣の場合とは違う特徴がある。それは、特定の寺院や本尊、特定の霊験に期待するのではなく、仮にある寺で霊験を得たとしても、遍路全体のおかげによるものと見なしていることだ。それは「多彩な状況のすべてを一挙に解決するオールマイティとしての、大師(p.191)」にすがることが遍路の本質であったからなのだろう。よって、現代でも霊験は生みだされてはいるが、それらには札所寺院側の関与の程度が希薄なのだ。四国遍路は特定の宗教的エリートによってではなく、民衆によって維持され再生産される霊場なのである。

他方、遍路を受け入れる民衆社会には、接待の文化があった。 巡拝者にお茶や果物を振る舞うことである。遍路は札所よりも、地域社会との関わりの方が深かった。接待にはいくつかの形態があり、遠方からの出張である「接待講」による組織的なものもあれば、個人的なもの、村全体で接待するものもある。

では村落社会は温かく遍路を迎えたかというと、これがなかなか複雑だった。先述の通り遍路は嫌われ蔑まれていた。だが遍路は、ある意味で敬われてもいた。村の人びとは彼らを接待することに意義を感じていた。それは単なる同情心ではなく、畏れに近かった。接待は、おそらくは巡拝者のもたらす災厄を避けるための供物だったのであろう。

また、巡礼は様々な人が交錯したから、文化の運搬も担っていた。四国には様々な文化が持ち込まれ、また全国各地へと広めてもいった。遍路には文化的価値があった。

しかしながら近代になると、遍路への風向きは悪くなる。明治9年、植木枝盛が主筆だった『土陽新聞』は、体系的かつ理路整然とした遍路排斥論を掲載した。これに先駆け、高知県は遍路を追放する禁令を出している。遍路を規制・管理下に置こうとするのは近世から始まっており、例えば天保4年(1833)の土佐国では「他国遍路の出入国の場所、領内の通過日数、順路の指定と脇道にそれることの禁止、呪的行為、勧進、托鉢等の禁止からはじまって、遍路に対する規制はさまざまな面にまでおよんでいた(p.224)」。反面、藩当局には遍路を保護する姿勢もあったのが興味深い。

遍路を規制しながらも、同時に遍路の存在を是認していたのが近世であったが、近代になると旅人を受け入れる人びとの側の方の意識が変わり、「巡礼は乞食・物乞いにほかならない」と見なされていった。そして日本は「乞食を貧民として、社会脱落者として遇するしかできない社会(p.230)」となった。ここに近代的乞食観の形成の一端が窺える。

今でも四国遍路は盛況であるが、その点では近世までのあり方とは異なっているのである。

全体として、本書は四国遍路については歴史・習俗・社会的認知まで含め、多面的に記述しておりとてもわかりやすい。しかし「旅をする宗教」というテーマとしては、四国遍路のみに終始した観があり、やや物足りなくも感じた。巡礼・勧進・乞食に生きた宗教者は古来たくさん存在した。そういう巡礼する宗教のあり方の中で、四国遍路はどう位置づけられるのか、そういう疑問が浮かんでくる。

なお著者は、東京教育大学理学部数学科を卒業後、同大学院で日本史に転向している。私も数学科卒なので親近感を抱いた。本書は初の単著のようだ。

四国遍路を理解するための平易な良書。

【関連書籍の読書メモ】
『泉光院江戸旅日記——山伏が見た江戸期庶民のくらし』石川 英輔 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_21.html
日本を巡った山伏の旅日記。江戸時代のイメージが一変する、読んで楽しい日記の解説。

 

 

2023年4月2日日曜日

『開国と幕末の動乱(日本の時代史20)』井上 勲 編

幕末から明治維新までを通史とトピックで述べる本。

私は「開国」に興味があって本書を手に取ったが、本書では「開国」が真正面から扱われていない(むしろ同シリーズ『明治維新と文明開化(日本の時代史21)』の方が「開国」について述べている)。なお、私の言う「開国」とは西洋文明の流入と開港・貿易のことである。

さらには、「幕末の動乱」についても普通に考える幕末の動乱——安政の大獄、天狗党の乱、天誅の流行といったような——は、簡単にしか触れられない。「開国と幕末の動乱」という枠組みで書いてあるのは、井上 勲による冒頭の通史のみである。よって、本書はタイトルと内容に不一致があると言わざるを得ない。

では本書には何が書いてあるか。

一言で言えば、それは「幕末明治の横顔」である。通常の幕末維新史では取り上げられないニッチなテーマを盛り込んだのが本書である。

通史「開国と幕末の動乱』(井上 勲)では、ペリー来航から王政復古に至るまでの政治史を描いている。印象に残ったのは、近世社会の秩序が開国直後から緩んでいっていることだ。対アメリカ外交の方針について広く意見を聞いたのもそうだし、朝廷が幕府の人事にまで容喙したり、「戊午の密勅」を水戸藩士に手渡したりといったことも含まれる。形式面でも内容面でも、近世社会を支える枠組みが早くも形無しになっていた。

枠組みが流動していった結果、幕府が委任されていると考えられた「大政」の枠外に「国事」という、朝廷が最終決定権を持つ領域が形作られていった。また雄藩と呼ばれる外様の大藩は、その藩主が幕政から排除されていたため、「国事」に参画していこうとする意欲を持っていた。ここに、雄藩(有志大名)が幕府機構から離脱して直接朝廷と結びついていく構造があった。

雄藩の活動は、当初は公武合体運動として具体化し、次に尊皇攘夷運動へと進んだ。こうした活動の中で、藩を基盤とする身分格式は次第に無意味化した。京都の治安維持のため新設された「京都守護職」に就任した会津藩主松平容保が配下にしたのが新撰組だったが、彼らは会津松平氏の家臣ではなく浪士集団であった、ということにもそれが象徴されている。

長州勢力を朝廷から駆逐した「八月十八日の政変」後に設けられた参与会議では、徳川慶喜とともに有志大名が参与に任命された。既に徳川ー譜代・親藩ー外様といった格式秩序は失われ、有志大名は「朝廷と幕府の最高の政策決定に参加し得る権限(p.58)」を身につけた。しかし参与会議は話がまとまらずあえなく瓦解し、いわゆる一会桑政権が時局を担った。

この時に徳川慶喜が将軍後見職を辞して就いたのが、「禁裏守衛総督兼摂海防御御指揮」という新設の職である。「総督」とか「御指揮」という役職名が、幕府の旧来の機構からすでにはみ出していた。 慶喜は幕府と有志大名の双方から調停の役割を期待されたが、幕府と有志大名は対立していたのだから、結果的には板挟みにならざるを得なかった。そしてその板挟みの中で、長州藩が朝敵としてスケープゴートになっていく。

長州藩では、攘夷の戦争に備えて「武士ならびに農工商また猟師また神職・僧侶等を構成員とする軍事集団が編成されていた(p.67)」。ここでは幕府よりもずっと先鋭的に身分格式が崩壊していた。

時局の問題は、開国か攘夷か、長州をどうするか、という2点が大きかったが、第1の点は開国やむなしと時勢は収束した。あとはそれをどうやって正当化するかという手続き論だった。しかし長州問題については政争の末に分極化し、慶喜と薩摩藩がそれぞれの極に位置した。にもかかわらず、慶喜は極としての十分な権威を持っていなかった。14代将軍家茂が長州戦争の最中に死去しても、将軍職を固辞して受けなかったのもそのためだ。

慶喜は将軍就任の大義を得るため諸侯会議の開催を構想。20名の諸侯に上洛令が出された。そこでは「藩主ではないにもかかわらず指名された者が五名いて、徳川慶勝・鍋島斉正・山内豊信・伊達宗城・島津久光の有志大名がそれ(p.84)」であった。将軍ー藩主ー家臣という身分秩序は、ここでも形無しになっている。身分よりも実力がものをいう社会になっていた。しかし結果的には一人の有志大名も上洛せず、慶喜の権威は不完全なまま将軍となった。

慶喜は、直接手を下したわけではないが幕政を広範に改革し(慶応幕政改革)、積極的な外交を行った。パリ万博に参加し、徳川昭武を将軍名代としてヨーロッパに派遣。また慶喜は、松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光を招集して四侯会議を開催したが、長州問題で意見が折り合わずこれも瓦解した。幕府と有志大名の最終的な決裂であった。

極めて流動的な時局の中で、大政奉還と王政復古の政変があり、幕藩体制の統治機構の根幹が一括して精算された。だがこの王政復古とは、文字通りの復古ではなく、会議体の構築をそう呼んだに過ぎなかった。その会議体のトップが総裁・有栖川宮熾仁親王。「皇族ないし親王が、摂家を措いて朝廷の主宰者の地位に就くことは前例をみな(p.107)」かった。

徳川慶喜はこの体制から排除されていたが、辞官・納地を受け入れ、体制に参入しようとした矢先に鳥羽伏見の戦いが勃発し、討薩を表明。しかし直後に逃亡して戦線が瓦解、新政府はここに確立したのである。

「Ⅰ 幕末の「世直し」待望」(宮崎ふみ子)では、「世直し」「世直り」を求めた幕末の民衆宗教を取り上げる。幕末には、物価高騰、治安の悪化、災害、大地震、コレラなどが民衆を襲い、人々は社会の変革を希求した。当時の錦絵には、地震の化身であるナマズがかえって救済者として描かれているものがあるほどだ。では民衆は「世直し」後にはどのような世界を期待したか。本章では、不二道と黒住教、「ええじゃないか」を取り上げそれを考察している。

富士講の一種である不二道では「みろくの世」という理想世界が近づいているとしていた。そして「みろくの世」に近づくために肝要なのは「心」であるという、二宮尊徳・石田梅岩的な唯心論を説いた。その教義には幕府にとって危険な面はあまりなかったが、幕府は嘉永2年(1849)に富士講・不二道を「新義之異法」として禁止した。だがこの取り締まりは徹底されず、不二道はさほど打撃を受けなかった。

一方、黒住教は病気治しから初まり、吉田神道を援用して権威を得、太陽神としての天照大神への信仰を強調した。黒住教では「神代」「神世」が理想の世とされたが、それは「三千年の昔」の再来であり、大和風の文化が再興される時であった。

「ええじゃないか」は、伊勢神宮のお札等が降ったことををきっかけに起こった民衆の祝祭であるが、本章ではこのケーススタディとして三河国牟呂村、東海道藤沢宿の場合を取り上げて、その祭礼等がどのように行われたのかを分析している。その中で注目されるのは、藤沢宿で葬礼の仮装行列が行われていることで、これは明らかに伝統とは異なる要素である。また祝祭が20日間も続くことも異例だった。

「ええじゃないか」で謳われた「世直し」は、生活条件の改善を求めていた。しかし「ええじゃないか」は心情的にはそれを基調としながらも、その要求を正面から掲げることはせず、祝祭の中に日常性から逸脱することで消極的にそれを表現した。

なお「ええじゃないか」は伊勢神宮のお札をきっかけにすることが多かったが、おかげ参り(伊勢参宮)に行くことは少なく、人々は近隣の名社に参詣した。多くの人が手近に神社参詣を楽しむことができるようになっていたから、伊勢神宮の重要性は低下していた。「ええじゃないか」を伊勢信仰や天照大神信仰に短絡的に結びつけることはできない。

明治維新後、為政者たちは幕末の庶民信仰に類似した形式と内容で、宗教的色彩を帯びつつ民衆を告諭した。明治維新は民衆が求めていた「世直し」そのものであるとしつらえたのである。しかしそこでは、真の要求であった生活条件の改善は置き去りにされており、神話の世の中が具現化したということだけが謳われていた。

「Ⅱ 動乱の時代の文化表現」(延広 真治) は、本書中異色の論考。文久以降の舌耕文芸(講談・落語・浮世草子・歌舞伎などの大衆文芸)における怪談話についてその変遷を詳細にまとめている。ところが、怪談話の内容に深入りしているために、それが「動乱の時代」とどう結びつくのか全くわからない。本編は完全に「文芸史」の範疇である。

本編では「怪談牡丹灯籠」に先行する怪談話を分析。それは、「幽霊が恨みを晴らすために現れるがお札が貼ってあって家へ入れない。そこに第三者が通りかかり、幽霊がお札を剥がすことを依頼。その人物によりお札が剥がされて幽霊が対象者を呪い殺す」といった基本的な筋を持つ。そこで私が気になったのは、この「お札」が「二月堂の牛王(のお札)」である話がとても多いということである。二月堂とは明示されなくても「牛王」であることが多い。どうやらこの頃の家には、戸口に戸守(とまもり)と呼ぶお札が貼ってあり、その代表が「二月堂の牛王」であったらしい。

二月堂とは、言うまでもなく東大寺二月堂(お水取りが行われている場所)。それで私はかつて二月堂には牛王こと牛頭天王が祀られていたのかと思ったが、(以下、読書メモの範疇を超えるが)調べてみるとそうではないらしい。普通には「牛王のお札」とは「牛王宝印」のことで、熊野の牛王が有名であるが、二月堂でも「牛玉(ごおう)刷り」というお札があり、今でも作られているということである。

「Ⅲ 「武威」の国—異文化認識と自国認識」(池内 敏)では、近世の日本人が、自国をどのような国として認識したかが述べられる。まず為政者の側では、将軍を「日本国大君」と対外的に呼ばせたのが注目される。これは実質的には対朝鮮の自国認識であった。日本は自らを小中華に位置づけ、朝鮮はそれになびく国と見なしていた。

それは朝鮮との交流窓口であった対馬においてもいえる。対馬は異文化衝突の現場でもあったが、それがやがて「優れた日本」と「劣った朝鮮」との問題であると捉えられるようになり、外交交渉においても朝鮮を武威でもって押さえつけることへの憧憬すらも表明された。日本は、朝鮮よりも武力のある強い国でなければならなかった。そういう為政者の態度は民衆にも共有されていたものと見られる。

また、「武威」の国として重要な神話が神功皇后三韓征伐であり、歴史的事実として秀吉の朝鮮侵略があった。ただし神功皇后の神話の流布は、常に朝鮮への蔑視や武威の強調に力点があったのではないということにも注意が必要である。

「武威」は自国認識としては広く共有されていたと見られるが、現実の日本は長く武力行使することはなく、その統治も江戸時代中頃からは「礼」に基づくものに変質し、「武威」は観念的なものになっていた。それでも「武士」は武力の現実・限界を感じていたようだ。幕末には、むしろ国家運営から排除されてきた人々の方が、対外危機に際して好戦的な意見を持ち、武力行使を願望していたのである。

「Ⅳ 徳川の遺臣—その行動と論理」(井上 勲)では、徳川の遺臣について述べている。

まず、「遺臣」とは何か。遺臣とは、王朝交代が激しかった中国で、前王朝に仕え、現王朝に仕えることをよしとしなかった人々である。とすれば、形式上であれずっと天皇が統治してきた日本には遺臣はいない。水戸藩の「大日本史」の「隠逸伝」でも、俗世間から遠ざかった隠者が語られるだけで、遺臣は登場しない。ところが徳川は、朝廷とは別に王朝と呼ぶに足る機構を持っていた。よって幕府の崩壊に伴い「遺臣」が生まれることとなった。

大政奉還後に朝廷が諸侯に上洛を命じた時、朝廷に従うことを潔しとしなかった諸侯は官位を返上しようとした。官位が無ければ朝廷とは関係がなく、上洛令に応える必要はないからだ。官位返上の嘆願書を出した譜代大名は94名もいた。しかし頼るべき徳川慶喜は、新政府軍の攻撃を受ける前に自ら権力を解き、彼らをほとんど見捨てた。新政府に恭順の態度を取ったからである。徳川の臣であろうとした人々は、梯子を外された恰好になった。幕府に殉じて自刃した川路聖謨(としあきら)は間違いなく遺臣である。

また、新政府に反発した諸藩は奥羽列藩同盟を結成。蝦夷地に「徳川の一族を迎えて君主とし、遺臣による政治体を構築(p.252)」しようと夢想した。遺臣であろうとした人々の最後の夢であった。

幕府に殉じなかった旧幕臣は、新しい時代をそれぞれに生きた。旧幕臣や朝敵とされた藩の士族にキリスト教徒が多かったことは注目される。世の中の波に乗れなかった人々が、キリスト教に惹かれたのだ。例えば奥野昌綱がそうである。

一方、旧幕臣であった成島柳北は朝野新聞主宰して言論人になり、文明開化の世の中を批判的に見た。同じく福沢諭吉は、新しい世の中を批判的に見ながらも、流れに棹さした。福沢諭吉は「士族の精神」の振起を期待しながらも、西郷を擁護した「丁丑公論」、勝海舟の江戸城無血開城を批判した「痩我慢の説」を筐底に蔵し続けたのである。福沢の死後これらが公刊されると、「痩我慢」を続けていた旧幕臣にとっても、新政府で栄達した旧幕臣にとっても、これは明治維新をどう見るかという問題提起となった。

「Ⅴ 明治維新とアジアの変革」(山室 信一)では、 明治維新がアジアの国々にどう見られたのかを述べている。

明治維新は、アジアの国々にとって自らの変革のお手本と捉えられた。中国での洋務運動でも日本の経験は参照された。しかし暦法や服制など、生活文化までも西洋を盲目的に真似したのは批判されている。

さらに日清戦争後には、旧体制を変革するためにより真摯な関心が明治維新に寄せられ、黄遵憲の『日本国志』が大きな影響を与えた。特に康有為は日本に学び、『日本政変考』を編んで光緒帝に進呈。康有為は明治維新の経過を自らの都合のいいように改竄して皇帝に報告し、それが受け入れられ「百日維新」が実されたが、西太后によるクーデターにより頓挫した。ただしその中で教育の重要性は普遍的だったので、日本への留学や日本書の翻訳はその後も続けられた。

一方孫文にとっては、明治維新はお手本でありながらも、その神権政治などは受け入れがたかった。むしろどうして革命(明治維新)を起こすような人物が生まれたかという、教育や思想、精神の方に関心があり、西郷隆盛は革命家であると同時に日本の象徴として受け取られた。しかし日本があからさまに中国を蚕食するようになると、明治維新は批判の対象となっていった。

 

全体として、先述したように、本書は「開国と幕末の動乱」という自ら設定したテーマから逸脱した論考が多い。特にⅣとⅤは維新後を扱っており、論考自体の質はともかくとして、本書に掲載することは適当ではなかったと思う。

その上、全体を通じて浮かび上がってくるものがあるかというと、そうでもなく、構成が散漫であると言わざるを得ない。かなり自由に書いた論考の集成だ。せめて「開国と幕末の動乱」という時代の枠組みを守って書いて欲しかった。編集の井上勲自身が維新後を中心とした論考(Ⅳ)を書いているので、自由な編集方針だったのだろうが残念だ。

幕末明治の横顔を様々な角度から書いた論考集。