2023年4月6日木曜日

『旅のなかの宗教—巡礼の民俗誌』真野 俊和 著

四国遍路を中心に日本における巡礼について述べた本。

巡礼とは、聖地に赴くことをいう。メッカ巡礼とか、エルサレム巡礼といったように。そして日本の場合、特定の目的地を持たず、神社仏閣を(しばしば当てもなく)巡る巡礼もある。

気軽に旅行に行けなかった近世以前の社会においては、旅はほとんど宗教的な目的のものに限られていた。そして同時に、宗教そのものが旅を通じて形作られてきた。聖たちはひたすらに歩き、遊行することそのものが修行の本質だと考えていた。だから巡礼は、日本の宗教の核心といってよい。 

そしてまた、定住し農業を営むことを基本とした日本において、そこからあぶれたものが頼ったのが旅でもある。旅は「もうひとつの生存様式(p.40)」であった。

旅に生きた人々には、空也、一遍のような高僧もいたが、「鉢叩き」「鉦打ち」といった半僧半俗の下級宗教者、「すたすた坊主」や「高野行人」のような乞食芸能者もいた。また「熊野比丘尼」「歌比丘尼」といった、春をひさぎつつ宗教的に漂泊した女性も決して少なくなかった。こうした人々は、生きるために旅をしていたのだ。

そして彼らの旅は、常に物乞いを伴っていた。それは糊口をしのぐために必要なものであると同時に、彼らの宗教の本質的部分でもあった。モノをもらって集めること自体に、聖性があったようなのだ。

また日本の巡礼には、古くは特に順路の定めがなかったが、やがて西国三十三観音、秩父三巡山観音、四国八十八箇所(以下「四国遍路」という)といった定型的な巡礼コースとそのやり方が確立していった。

なかでも四国遍路は、組織的に形成されたものではなく、民衆の側からの自然発生的な行為として産まれ、何らの教義的位置づけもなかった点で他の巡礼コースと異なる。どの寺が札所となりどの寺が番外札所となるか、といったことも正確な理由付けを与えることは難しい。それどころか、近代になるまで札所寺院では遍路を誘致することも、教理化することもなく、信者として扱うこともなかった。どちらかというと巡拝者は寺院にとって厄介者であった。よって「四国霊場には、ほとんどあらゆる宗教に共通してみられる、神・仏と人間との間の仲介役である神職・僧侶と信者たちという二元的な関係にもとづく宗教行為や宗教体験の一切が存在しない(p.61)」。

遍路の宗教的な核心は弘法大師信仰であり、遍路は弘法大師と直接に関係を結ぶための修行であった。遍路は「同行二人」(弘法大師と共に巡る)を標榜し、個別の寺院よりもそちらの方が重要な意味を持った。

では遍路はどうやって生まれたか。西国三十三観音などと比べ、遍路の起源は謎に包まれている。もちろん空海が開創したという伝説は事実ではない。どうやら遍路は、補陀落渡海の信仰と空海ゆかりの金剛頂寺(金剛定寺とも)の乞食(こつじき)が核となって出来上がったものらしい。早ければ11世紀後半、遅くとも平安時代末には、四国の海岸を回る信仰が成立した。遍路では寺院が先にできたのではなく、まず「道」が出来て、巡拝者たちの拠点として寺院が出来上がっていったというように考えられる。

四国遍路の祖とされる伝説的人物が「右衛門三郎」だ。彼は富と権力を持っていたが、托鉢の僧侶をすげなく打擲したため八人の子どもが次々と死に、乞食しながら巡礼して改心、大師の加持を得る(生まれ変わる)、といった伝説が伝わっている。現実には、この伝説が出来上がったのは四国遍路が成立した後のことだが、この伝説において既に大師と巡拝者とが直接関係を結ぶことが述べられているのが象徴的だ。

次に、どのような人々が遍路を旅したか。遍路は苦行であるから、遍路に行かざるを得ないくらい追い詰められた人が遍路を歩いた。例えば、家から追われ故郷から追われた、寄る辺ない人々、病気になった人々といったものだ(病気も前世の業罰のためと考えられていた事情もある)。例えば「金比羅宮のあの長い石段の両側には、ほとんど一段ずつといってよいほどに、参拝客の喜捨をあてにした癩者たちが並んでいた(p.98)」。しかしともかく遍路を巡りさえすれば、なにがしかの喜捨を受け、とりあえず生きていけるという社会福祉のような意味もあった。

しかし辻堂や岩穴に寝起きする彼ら乞食遍路は、人々から嫌われ蔑まれた。それが戦前までの遍路のかなりの部分を占めていた。

なお本書では、巡礼者の事例として、遍路ではないものの野田泉光院の場合が詳述されている。しかし野田泉光院については別途読書メモに書いたことがあるのでここでは割愛する。

江戸時代初期の貞享4年(1687)、遍路の歴史にとって画期的な本『四国辺路道指南(みちしるべ)』が上梓された。作者は諸国を行脚する修行僧、宥弁真念。これによって四国霊場のまとまった案内が初めて公になった。札所の数や順序などもこの真念によるものだという説がある。ついで元禄2年(1689)、高野山の学僧石堂寂本は大著『四国遍礼霊場記』全7巻を出した。さらに翌元禄3年(1690)、真念は遍路の信仰説話集である『四国遍礼功徳記』上下巻を著した。彼は遍路屋を開設したり、標石の建立といった仕事もしている。真念の宗教は、「雑然とした、どちらかといえば完成度の低い要素を多分に含んでいた(p.118)」が、民衆宗教としての四国遍路の確立に大きな影響を及ぼした。

とはいえ、遍路を巡った巡拝者たちが、皆がみな切羽詰まった信仰を持っていたわけではなかった。その一例として、江戸時代後期の文政2年(1819)に四国遍路の旅に出た新井頼助の様子が詳しく紹介される。その旅は物見遊山のためだった。それは各地をついでに観光しつつ、木賃宿(米は持参でたきぎ代のみの宿)や善根宿(遍路を無料で泊まらせる宿)に泊り、のんきに札所を巡るものだった。それでも村に帰ると、「十日近くにわたって祝いの人びとが訪れ(p.131)」、四国遍路の成就を祝った。遍路の大部分は乞食で嫌われていた、ということと、遍路を終えた人への祝賀とが、同時に存在していた。

一方、哥吉という少年は11歳から14歳まで苦難に満ちた巡礼を行った。彼は養母とともに四国遍路に入った。村にいても食っていけないので、托鉢に頼って生きようとしたのだ。しかし途中で母と弟が死亡。哥吉は遍路を続け、途中である六部と出会い行動を共にする。ところが彼は親元に送ってやるといいながら、自分の巡礼につきあわせ、九州、西日本、東日本と巡ることになった。その六部が死んで哥吉はようやく故郷に帰った。無一文でも、親無しでも、遍路・巡礼に出れば生きていけたという実例だ。

大正時代、後に女性史の分野で名をなす高群逸枝は、24歳の時に四国遍路に出た。四国遍路を志した理由は明確にはわからないが、 彼女には「観音の申し子」として育てられた宗教的なバックボーンがあった。道すがら伊藤宮次という老人と出会い、この老人と同行してお修行=托鉢をしながら(実際には老人が托鉢して)遍路を歩いた。なお遍路には、一日に3軒ないし7軒、もしくは遍路中に21軒のお修行をしなければならないという不文律があった。彼女は不潔な遍路宿・木賃宿に苦しめられ、病気に冒された醜い遍路たちに言葉を掛けることもできず、「遍路旅へのそこはかとない憧れ」は打ち砕かれた。しかし彼女はその経験を「遍路愛」として昇華させた。

しかし遍路を歩いた巡拝者には、やはり最後にすがる信仰として旅に出たものが現代でも少なくない。事実、医師からも見放された難病が遍路で劇的に快癒したり、躄(いざり)が歩けるようになったりといった奇跡は、今でも続々と生みだされている。そしてそういう霊験にあずかることの出来た人々は、それを文章にして公開し、持ち物を奉納した(いざり車、ギプス、松葉杖等)。立江寺には、小指を切って奉納するという奇妙な風習まであったという。

そして、それらの霊験譚は乞食遍路によって各地に伝播され、四国遍路の名を高からしめたのだろう。四国遍路の霊験譚には、普通のはやり神や神社仏閣の場合とは違う特徴がある。それは、特定の寺院や本尊、特定の霊験に期待するのではなく、仮にある寺で霊験を得たとしても、遍路全体のおかげによるものと見なしていることだ。それは「多彩な状況のすべてを一挙に解決するオールマイティとしての、大師(p.191)」にすがることが遍路の本質であったからなのだろう。よって、現代でも霊験は生みだされてはいるが、それらには札所寺院側の関与の程度が希薄なのだ。四国遍路は特定の宗教的エリートによってではなく、民衆によって維持され再生産される霊場なのである。

他方、遍路を受け入れる民衆社会には、接待の文化があった。 巡拝者にお茶や果物を振る舞うことである。遍路は札所よりも、地域社会との関わりの方が深かった。接待にはいくつかの形態があり、遠方からの出張である「接待講」による組織的なものもあれば、個人的なもの、村全体で接待するものもある。

では村落社会は温かく遍路を迎えたかというと、これがなかなか複雑だった。先述の通り遍路は嫌われ蔑まれていた。だが遍路は、ある意味で敬われてもいた。村の人びとは彼らを接待することに意義を感じていた。それは単なる同情心ではなく、畏れに近かった。接待は、おそらくは巡拝者のもたらす災厄を避けるための供物だったのであろう。

また、巡礼は様々な人が交錯したから、文化の運搬も担っていた。四国には様々な文化が持ち込まれ、また全国各地へと広めてもいった。遍路には文化的価値があった。

しかしながら近代になると、遍路への風向きは悪くなる。明治9年、植木枝盛が主筆だった『土陽新聞』は、体系的かつ理路整然とした遍路排斥論を掲載した。これに先駆け、高知県は遍路を追放する禁令を出している。遍路を規制・管理下に置こうとするのは近世から始まっており、例えば天保4年(1833)の土佐国では「他国遍路の出入国の場所、領内の通過日数、順路の指定と脇道にそれることの禁止、呪的行為、勧進、托鉢等の禁止からはじまって、遍路に対する規制はさまざまな面にまでおよんでいた(p.224)」。反面、藩当局には遍路を保護する姿勢もあったのが興味深い。

遍路を規制しながらも、同時に遍路の存在を是認していたのが近世であったが、近代になると旅人を受け入れる人びとの側の方の意識が変わり、「巡礼は乞食・物乞いにほかならない」と見なされていった。そして日本は「乞食を貧民として、社会脱落者として遇するしかできない社会(p.230)」となった。ここに近代的乞食観の形成の一端が窺える。

今でも四国遍路は盛況であるが、その点では近世までのあり方とは異なっているのである。

全体として、本書は四国遍路については歴史・習俗・社会的認知まで含め、多面的に記述しておりとてもわかりやすい。しかし「旅をする宗教」というテーマとしては、四国遍路のみに終始した観があり、やや物足りなくも感じた。巡礼・勧進・乞食に生きた宗教者は古来たくさん存在した。そういう巡礼する宗教のあり方の中で、四国遍路はどう位置づけられるのか、そういう疑問が浮かんでくる。

なお著者は、東京教育大学理学部数学科を卒業後、同大学院で日本史に転向している。私も数学科卒なので親近感を抱いた。本書は初の単著のようだ。

四国遍路を理解するための平易な良書。

【関連書籍の読書メモ】
『泉光院江戸旅日記——山伏が見た江戸期庶民のくらし』石川 英輔 著
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日本を巡った山伏の旅日記。江戸時代のイメージが一変する、読んで楽しい日記の解説。

 

 

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