2023年3月16日木曜日

『武家の女性』山川 菊栄 著

幕末の水戸藩で、女性たちがどのように生活していたかを述べた本。

著者山川菊栄の母は、水戸藩の儒学者・青山延寿の娘千世であり、本書に述べられる話は菊栄が千世から聞いた思い出話である(他に、叔母や祖母(きく)の話も出てくる)。

きくの少女時代が烈公(徳川斉昭)が藩政を執っていた頃で、千世の時代が、幕末の動乱(水戸藩は天狗党の乱)に当たっている。しかし本書に描かれる女性たちの生活には、そうした政治的な事柄はほとんど影響を及ぼしていない。水戸藩は大変な混乱と対立の中にあったが、平生の生活は驚くほど平穏であった。

女性たちは、男たちが血で血を洗う凄惨な政争を繰り広げている間にも、食事を作り、服を繕い、年中行事をこなし、家を整えるという仕事を辛抱強く続けていた。いや、それは言われるまでもなく当たり前のことだ、と人はいうかもしれない。人間に衣食住は不可欠なのだから。でもその当たり前のことは、なかなか記録に残らず語られもしない。本書の価値は、そういう当たり前のことを実直に述べているところである。

それに、その話の内容は決して当たり前ではない。例えば、頭が禿げて髷ができなくなった武士は、つけ髷をしていた、とか。当時の武士の屋敷には普通雨戸はなかった、とか。こういうことはいわゆる「歴史」には出てこない話なのだ。

ただし本書にはちょっとだけ注意も必要である。それは、本書が母の思い出話を聞いて書いたものであることだ。自分が体験したものであればかなり信用できるが、母の少女時代の話であるから少し割り引いて考える必要があると思う。本書に不正確な部分があるとか、誇張や脚色があるとは思わないが、母と著者という二重のフィルターがかかっているということは留意すべきである。

ところで、著者の山川菊栄は、日本の婦人運動の先駆者であり、社会主義者として有名な山川均の妻である。 本書が刊行されたのは昭和18年という、太平洋戦争が差し迫ってきている時代であり、特に山川家は、夫均が人民戦線事件(共産党への弾圧であったが、社会主義者にまで対象が拡大された)で検挙され、一審で有罪判決、裁判が続いていた頃である。そういう緊迫した中で、母の思い出話という、一見悠長な題材で本を書いたのはなぜか。

もちろん、言論が弾圧される中で、婦人運動の理論的著作など著せる状態ではなく、その代わりに時局とは距離を置いたテーマで本を書いたという面はあるのだろう。だがこの非政治的な著作が、そこはかとなく「非暴力の抵抗」という相貌を帯びているような気がするのは私だけだろうか。

歴史に埋もれた平凡な「生活」を描いた出色の社会史。

 

2023年3月14日火曜日

『吉田神道の四百年—神と葵の近世史』井上 智勝 著

神道で有名な吉田家の近世史。

足利義満、豊臣秀吉、徳川家光といった天下人といえども、神祇に関することは直接手を下せず吉田家に依頼する必要があった。また徳川家康のブレーンの一人だった金地院崇伝は「神ならば吉田存ずべき儀」「吉田は神つかひにて」と述べ吉田家を重用した。武家政権は自ら宗教行為を行う部局を置かなかったから、民間の宗教一家である吉田家に頼ったのだ。

ではその吉田家とは何者であったか。本書は吉田家が生きてきた時代を振り返り、それを平易に述べたものである。なお本書は同著者の専門書『近世の神社と朝廷権威』が元になっているが、内容はかなり組み替えられている模様である。

まず前提として、吉田家は伝統的に高位の神道家だったのではない。吉田家は吉田神社の神職を世襲しており、歴史はあったが一神職の家系に過ぎなかった。その吉田家を「神つかい」にしたのが吉田兼俱(かねとも)である。彼は応仁の乱で被害をうけた吉田神社の復興を目論見、自邸内にあった「日本最上神祇斎場」こと「斎場所」を文明16年(1484)、吉田山に移設する。これは日本の全ての神を祀る神社の総本社だという。

これは名称からしてハッタリ的だが、兼俱は後土御門天皇からここが「神国第一之霊場」であるとのお墨付きを得た。さらに兼俱は、この全ての神を祀る「神様の百貨店(p.28)」に伊勢神宮の神が飛んできた(飛神明)と主張。伊勢神宮までも包摂した。伊勢側はこれに猛抗議し、兼俱を「神敵」と呼んだ。

古代律令制では、神祇行政と祭祀を行う「神祇官」という官庁があった。神祇官の長官(神祇伯)を世襲したのは白川家であったが、吉田家は「神祇管領長上」という「神祇伯と対等な席を占める(p.32)」役職を務めていた。応仁の乱で神祇官は焼失していたものの、兼俱は引き続き「神祇管領長上」を名乗り、あたかも神祇官の正式な長官のようにみせかけていた。

理論面でも、兼俱は「元本宗源神道」を喧伝した。「元本宗源神道」は神仏習合理論を否定した神道の純粋理論(唯一神道)である。それまでの神祇理論では神が仏教の従属的立場にあったが、それを否定したのは「日本思想史上のコペルニクス的転回(p.36)」であった。

こうして兼俱が吉田神社(と吉田山に設けられた斎場所)という装置と、元本宗源神道の理論をつくり、さらに「神祇管領長上」の権威を復活させたことで吉田家は日本一の神道ビジネス宗家となっていく。

神道ビジネスの商材となったのが「鎮札」や「宗源宣旨」、「神道裁許状」といったアイテムである。

このうち「鎮札」とは一種のお札で、例えば神木の伐採とか神社の土地の開発などによって、予想される神の怒り(祟り)を鎮めるもの。戦国時代以降、神への畏れが弱まり、かといって祟りも心配だった人々は、吉田の「鎮札」を求めた。社会の世俗化が却って吉田家を必要とした。

「宗源宣旨」とは、吉田家が与える神階の許状である。「正一位稲荷大明神」の「正一位」が神階にあたる。 神階の授与は本来は天皇により、「宣旨」とは天皇の発給する文書であるが、吉田家は「宗源宣旨」として神階の授与を行った。これは朝廷から正式な許可を得て行っていたのではないが、少なくとも霊元天皇はその効力を認めていた。

「神道裁許状」とは、装束の許可を中心として、祭礼日の変更、鳥獣の食用許可など、神職が必要とする様々な許可を与える書状である。これは兼俱没後に現れた。

この 「鎮札」「宗源宣旨」「神道裁許状」が揃ったのが兼俱の孫の兼右の頃で、これを使って兼右は神道の宗家としての吉田家を大成させた。

さらに兼右を継いだ兼見は、鋭敏な政治感覚で吉田家をさらに発展させる。彼は織田信長に取り入って吉田家を堂上公家に格上げさせた。さらに豊臣政権にも接近。天正18年(1590)、吉田家は神祇官「八神殿」を吉田山斎場所内に再興することを後陽成天皇から承認される。「八神殿」とは本来神祇官の中にあった天皇を守護する八柱の神霊を祀るものであったが、これが一神社の施設に過ぎない「斎場所」に再建された。こうして「斎場所」は「神祇官代」となって神祇官の代替施設と見なされていった。

また兼見は、死去した秀吉を「豊国大明神」にし、それを祭る「豊国社」を建立するという一連の過程をプロデュースした。兼見の孫の兼従(かねより)に豊国社の専属社家「萩原家」を興させ、さらに同社神宮寺の別当になったのが、兼見の実弟神竜院梵舜である。

この豊国社は、次に権力を握った家康によって縮小移転され、荒廃させられる。萩原兼従も失職。しかし家康は吉田家を必要とした。秀吉と同じように、死後、神となりたいという希望があったからだ。家康の死後に行われた家康を神として祭るための会議には、家康のブレーン金地院崇伝、天海(天台宗)に加え神竜院梵舜が参加した。

ところが会議では、天海の意見が通り、天台宗の山王一実神道の理論によって家康は「東照大権現」として祭られることとなった。吉田家の敗北だった。

ところで、萩原兼従には吉川惟足(これたり)という弟子がいた。彼は江戸の商人だったが商売よりも学問に励み、めきめきと頭角を現した。ちょうどその時、兼従は吉田家の人々と対立しており、年頃の奥義継承者がおらず困っていた。吉田家の奥義は一子相伝で伝えられていたから、高齢になっていた兼従が奥義を伝えずに死ねば吉田神道が断絶する。そこでひとまず惟足に吉田神道最高奥義「神籬磐境伝」が伝授された。吉田家と血縁のない、一民間人に最高奥義が伝授されたのは歴史の悪戯であろう。

吉田家の一門は当然にこの伝授に反発したが、惟足は各地に身分の高い弟子があり政治力が高く一門の人々も彼を排除できなかった。家康の十男徳川頼宣(和歌山藩主)や家光の異母弟の保科正之(会津藩主)は彼について神道を学んだ。こうした門人がいると、惟足がさらに重んじられるのも無理はない。彼は吉田家の継承者・兼連(かねつら)をもり立て、豊国社の復興にも力を尽くした。そして寛文12年、兼連に一応の奥義の伝授も行った。こうして吉田家は吉川惟足のおかげで厳しい時代を乗り切ることができた。

そしてもう一つ、惟足は保科正之を通じ、吉田家を飛躍的に発展させる働きをしていた。それが寛文5年(1665)、江戸幕府が制定した「諸社禰宜神主法度(神社御条目)」にあった一文である。そこでは、社人の装束について「吉田の許状をもってこれを着すべし」とされていた。吉田家の「神道裁許状」が、幕府によって公認されたのだ。

保科正之は、諸社禰宜神主法度によって吉田家を中核とした神道界の秩序化を企図したと考えられる。吉田家はもちろんこれを最大限に活用した。この法令の後には、「神道裁許状」の発給数が文字通り桁違いに増えた。

その背景には、各地の神社を管理する人々からの需要もあった。各地で神社の代表をめぐる争いがあり、人々は自分の地位を確保してくれる権威を欲しがったからだ。吉田家が神社にとっての、寺院の本山のような立場(本所と呼ばれた)になり、吉田家は「地域を越えた絶対的・超越的な中心(p.144)」として機能した。そして、吉田家に祭祀権を認めてもらったのは、必ずしも名家に限らない。むしろ「既存の権威や秩序を打ち破り、あるいは新しい歩みを踏み出そうとする新時代の担い手たちに、吉田家のような新たな権威が渇仰され(p.149)」た。

なお1600年代の中頃から寛文年代までには、各地で神社の正統の確立を目指す運動が起こっている。

例えば、家康の九男徳川義直(名古屋藩主、保科正之の叔父にあたる)は、神社の正統(式内社と有名神社、その祭神)をまとめた『神祇宝典』を編纂。保科正之は、会津藩で正統でない神社を取り壊し、正統な神社(式内社など)を再建する整理を寺院整理とともに行った。水戸光圀も神社から仏教的なものを排除し、(神仏習合的である)八幡宮を破却する廃仏政策を行った。讃岐藩主・松平頼重(光圀の兄)は領内の神社整理を行い、由緒の調査を行った。岡山藩主・池田光政も神社の統廃合を進めた。こうした動きの背景には、神社の由緒や歴史に注目し、それを「あるべき姿」に戻そうとする趨勢が感じられる。そしてそれらの動きを顧問的な立場で支えたのが吉田家であった。

なお保科正之は、死後(寛文12年(1672))、自らの希望で「神」として祭られた。「土津(はにつ)」という霊社号は惟足が与えたものだった。その葬送は一切仏僧が関与しない、唯一神道の方式で挙行された。

こうして吉田家は、「諸社禰宜神主法度」と高い身分の弟子、各地の神道政策への後援などで盤石の地位を占めた。そしてその神道ビジネスは吉田家に莫大な収入をもたらした。しかしこうなると他の公家は面白くない。よって鷹司房輔は神道ビジネスが吉田家の独占になっている状態に風穴を開けるべく、法度の解釈に疑義を呈した。「諸社禰宜神主法度」では官位の執奏が吉田家に限るとは明確に書いていなかったことに目を付け、官位の執奏は他の公家も可能であると訴え、京都所司代に認めさせた。吉田家の独占は、他の公家には何のメリットもなかったのだから、他の公家もこれに同調した。

また吉田家の独占が崩れたことは、各地の神職にとってもチャンスだった。吉田家と結んで権威を手に入れた者がいたということは、そのために追い落とされた者もいたからである。そういう別の権威を欲したものの駆け込み寺になったのが白川家であった。白川家は18世紀の初めに、神学者臼井雅胤による改革があり、神道説や行法を整備して「伯家神道」とよばれる大系を整備した。この臼井雅胤の兄接伝は吉田家に破門されて冷や飯を食わされた側だった。

そして吉田家に強烈な異議申し立てが行われる。名古屋東照宮の神主吉見幸和は、綿密な考証によって吉田家の聖典『神道五部書』が偽書であることを暴いた。さらに吉田家に恨みを抱いていた伊勢神宮の権禰宜の子、出口延経は『弁卜抄』を著す。『弁卜抄』では、(1)吉田家の系図は捏造されたもの、(2)吉田家は神祇官の長官ではなく下級技術吏員、(3)神祇管領長上の職は吉田家の創作、(4)吉田家の綸旨・院宣はニセモノ、(5)斎場所の由緒は嘘、(6)宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書ではない、ということが信頼できる文献に基づいて論証されていた。『弁卜抄』は公刊はされなかったが吉田家の正統性に大きな打撃を与えた。また吉見幸和は『弁卜抄』に心酔し、それを漢字仮名交じりのわかりやすい文にした『増益弁卜抄俗解』を著した。

なおその背景には、徳川義直の『神祇宝典』以来の、「尾張名古屋の古代学」と呼ばれる実証的な学風が名古屋にあったことがあるという。

また朝廷の側からも吉田家の専横は都合が悪くなってきた。朝廷復古を目指すためには、吉田家が神道の唯一の権威であっては困る。反吉田家活動の中心は一条兼香・道香親子であった。道香は吉田山を「神祇官代」としては認めず、かつて八神殿にまつられていたというご神体を白川家に渡し、その邸内に八神殿を再興させた。

復古派の桜町天皇は元文3年(1738)、官位制度改革を行い官位の乱発を抑制。また寛延3年(1750)には一条兼香は桜町天皇の遺志として神職の任官を全て停止した。これはあまりに急進的であると幕府が反対して立ち消えになったが、兼香は吉田家による神職官位の乱発的な奏請を批判し、その根拠の提出を求めた。当然にそのような根拠はなかったため、神位宗源宣旨は元文5年(1740)以降連続してゼロになった。寛保3年(1743)には神位の獲得には必ず天皇の裁可が必要とされ、ここに吉田家の宗源宣旨はその存在意義を喪失した。

こうして吉田家の宗源宣旨が衰退した結果、新しい神階ビジネスが登場。例えば伏見稲荷社の「正一位稲荷大明神」ビジネス。これは諸国に祭神の分霊を勧請することで成り立った。また白川家も吉田家に代わって地位向上を目指していった。専業神職でない神社を管理する一般人(宮座・下級宗教者)を通信教育のような仕組みで門人にすることで支配下に取り込んでいった。当初は専門神職のみを相手にしていた吉田家も、これに対抗して一般人を取り込むようになり、吉田家と白川家の門人獲得競争が行われていった。

こうして、神職や神社に関わる一般人が吉田家や白川家を通じて朝廷と直接結びついていった。それは神社が朝廷・天皇の権威と直結し、天皇を中心とする神話の大系に組み込まれていったことを意味した。近世を通じ、元来は地域性豊かだった神社の祭神や由緒が中央の神話に基づくものに変更されるなど、神社の画一化が行われたのである。

本書は全体として、語り口が柔らかく平易であり、かなり専門的な話である吉田家の歴史を一般にもわかりやすく述べている。資料の引用が全て意訳によっていて、特に関西弁(京都弁?)の口語調なのは面白い。しかし話としての面白さを優先しているために、記述が編年的でなく時代が行ったり来たりしているのは少しややこしい。 

また吉田神道の教義内容の説明はほとんどなく、『神道五部書』なども説明されないのは物足りなかった。とはいえ、吉田兼俱からの吉田家の発展、江戸時代後期の白川家との競争など、時代ごとに焦点をしぼってクリアに吉田家の歴史を描いているのは有り難い。

ただし、本書はあくまで近世史であるために、吉田家が明治維新でどうなったのかは簡略的な説明しかない。私自身としてはここが一番興味があるところである。幕末には吉田家は平田国学と接近し、矢野玄道をその学頭に招くなど平田国学を取り込むような動きをみせるのだが、それについても本書には何も記載がなかった。このあたりのことは別途調べてみたいと思う。

平易かつ面白く吉田家の歴史的意義を理解できる良書。

 

2023年1月29日日曜日

『明治国家と宗教』山口 輝臣 著

明治時代の宗教と国家の関係について2つの側面から述べる本。

本書ではまず明治時代の宗教を巡る学説の成立史が顧みられる。村上重良・藤谷俊雄の国家神道を中心とする見解、神社非宗教論に基づく平野武の見解、そして国家神道=神社神道としてよりフラットに捉えた阪本是丸の見解が述べられ、少なくとも現在では「国家神道」という枠を取り払い、むしろ国家と宗教の関係を研究する方向へと進んできた。ではそもそも「宗教」とは何か。

こうして、明治時代に「宗教」がどう認識され、どう語られたかという第1部の主題が登場する。

さらにその応用編として「神社改正ノ件」と呼ばれる宗教政策がどのような影響をもたらしたか、という第2部の主題が考究される。第1の点は理念的な枠組みを考えるもので、第2の点は具体的に政策決定のプロセスを追っていくものであるが、この2点は無関係ではなく、「宗教」とは何かという理念的な枠組みが現実の宗教行政に大きな影響を及ぼしていた。

第1部 19世紀—宗教の生成/「国家と宗教」の制度化

「宗教」は、明治期に新しくできた言葉である。それがいかに構築されたか。まず、宗教という言葉は"religion"の翻訳語である。では"religion"がどのようなものとして認識されたかというと、これはとりもなおさずキリスト教のことであった。であるから、キリスト教を基本として「宗教」の概念が形作られた。本書では当時の様々な論客がどう「宗教」を語ったか、その語り方の分析を通じて「宗教」概念を剔抉している。

これを私なりにまとめると、第1に「宗教」は文明の一つの要素として語られた。後には宗教はむしろ後進的なものと見なされるが(c.f. マルクス「宗教は民衆のアヘンである」)、この頃の日本では「宗教」は文明を構築する土台であると考えられた。

第2に、仏教とキリスト教を対置して、どちらが文明の土台として適しているのか、という視点から「宗教」が語られた。そして少なくとも神道は「宗教」の体を成していないとされ、はなからその議論の範疇に入っていなかったということも指摘できる。 

大日本帝国憲法の制定においては、国教制定の検討もあった。伊藤博文は憲法調査のためベルリンのグナイストの講義を受けているが、グナイストは仏教を国教に制定するようアドバイスした。当時のヨーロッパでは国教は「信教の自由」に抵触しないものと考えられていた。一方、福沢諭吉は日本の文明化のため、キリスト教を国教に据えるべきではないかと考えた。もちろん元田永孚のような神道主義者はこれに強硬に反対。伊藤は国教自体に反対だったので、政府内で論争が起こった。森有礼や井上馨も宗教自由化の論陣を張った。

実はこんな中でも、キリスト教が公許されていたかどうかは曖昧だった。明治6年にキリスト教禁止の高札は除去されていたが、かといってキリスト教を容認するというはっきりとした表明もなかったからだ。外務卿・井上馨は対外的な問題からこれを公許するよう主張。一方、内務卿・山県有朋は、路線は同じながら、宗教の自由化や仏教の保護を検討した。

当時、国家の宗教者制度である「教導職」は曲がり角を迎えていた。神官の教導職兼任の廃止や、教導職の存在意義の低下があり、教導職自体を廃止する趨勢になっていた。そもそも教導職の意義はキリスト教対策にもあったから、キリスト教公許がなされるなら教導職は不要となる。しかしそうなると教導職という制度を通じて国家と関係を樹立してきた神道勢力が困る。神社と寺院、国家のそれぞれの思惑が絡んで議論が錯綜。結局、関係者の合意が得られた点のみが成案となった。すなわち明治17年、教導職の廃止(太政官布達19号)、そしてそれまで教導職のみに認められていた葬儀を自由化した自葬の解禁(太政官布達20号)である。

これはキリスト教の公許まで踏み込んだものではなかったが、実質的にはキリスト教容認と近い効果を持った。同年、農商務卿で陸軍中将でもある西郷従道の長男従理がアメリカで客死し、ハリストス教会でその葬儀が執行されたのはその証左だ(従理は7歳でロシアに留学し、ロシア正教の洗礼を受けていた)。また教皇レオ3世の親書が明治天皇に奉呈された際、天皇は「耶蘇教徒ヲ保護スル他ノ臣民ト異ナルナカラン」と答え、未だ国内ではキリスト教の扱いを明確に変えたとは表明されていなかったものの、対外的にはキリスト教は保護の対象とされた。その後、外務省はこの方針を対内的にも貫徹させようとしたが、敢えて容認を表明すると軋轢を生じると反対されて挫折する。しかしながら、もはや「憲法における信教自由規定で公許は代用できる」との考えが広まり、キリスト教の扱い自体が焦点から外れていった。

一方、神社には逆風が吹いていた。太政官布達19号では、寺院には「管長制」が示されていたが、神社については何も打ち出されていなかったのである。明治4年には神社は国家の祭祀とされたものの徐々にその優遇は終わり、「明治17年末の時点では、神宮・官国弊社に国庫から経費・営繕費・神饌幣帛料が支出なされている以外、神社へ「公費」支出はできない状態となっていた(p.123)」。もちろん神道者たちはこれに不満を抱き、様々な運動を起こすことになる。彼らの要求は大まかに言えば2つあった。第1に、神社のみを取り扱う行政部局をもうけること(できるなら神祇官の再興)、第2に、神社へ国庫から支出すること、である。参議には大木喬任・佐佐木高行・山田顕義という神祇官設置論者も存在しており、これは無茶な要求ではなかった。

内務省はこうした中「神社改正ノ件」を提出。その内容は(1)神宮への支出は増額の上で継続するが、(2)官国幣社への支出は将来的に廃止、ただし10年間補助金を下付するのでその一部を貯蓄し、独立自営の体制を整えること、であった。内務省は官国幣社を「独立自営」できる存在にして国家から切り捨てようとした。しかしこれは閣内の反対も強く、三条実美太政大臣の預かり置きとなった。 

ところが明治18年末の内閣制度の創設で状況は変化。元田永孚は宮中顧問官に、大木喬任・佐佐木高行は閣外になり、「宗教家」森有礼が閣内へ。こうした状況で明治19年2月に「神社改正ノ件」は改めて提出される。官国幣社の増加に加え、別格官幣社制度でも官社が増加し、神社が国庫を圧迫しているとされ、また神社の存亡は人々の信仰に任すべきだとされた。そして「神社改正ノ件」は、(2)の補助金年限を15年に延長する修正などを経て可決。

予算から見ると「神社改正ノ件」は、明治17年の国庫支出を基準とし、それを超えないように国全体の神社費総額を決め、予算を神宮に重点的に配分して逆に官国幣社の予算を削減するという内容であった。では、官国幣社が15年間の補助金(保存金)の貯蓄によって「独立自営」の経営に移行するのは現実的だったかどうか。実は計算上でも7割の神社の慢性的な経営難が予想されていたのである。

このような中での大日本帝国憲法の制定。すでに「信教自由」は関係者の共有する路線であり、神道を国教にするなどありえないことであった。そして「宗教の自由」の規定によって、「宗教か否かということが、本格的に問題とされざるを得なくなってくる(p.153)」。宗教と非宗教では、保障される自由をはじめとして扱いが異なっていたからだ。

第2部 20世紀へ—宗教の変容/「国家と宗教」の転形

20世紀に入ると、日本での宗教の在り方は「宗教学」の影響を受けるようになる。宗教は行政的な扱いよりも学問の対象として規定された。本部では、姉崎正治、岸本能武太、加藤玄智の見解が触れられ、宗教の範囲が広がっていった次第が語られている。結果として、神社非宗教論は分が悪くなる。宗教学によれば、教義や教祖がなくても神社は宗教と見なせたからだ。

明治22年、憲法が発布されると、議会開設を見越して佐佐木高行、元田永孚、山田顕義らを中心にした神祇官設置運動が起こった。この頃、府県郷村社の神職が僧侶同然に扱われるのではという噂が流布していたから、神社勢力は逆風をはねのける必要を感じていた。こうして明治23年頃、神社のみを取り扱う行政部局=神祇院(神祇官)設置建議が提出される。ところが時を同じくして、内務省は「神社改正ノ件」による神社費から「共通臨時営繕費」を捻出させる案を閣議に提出。実質的な補助金の減額である。要するに、政府内では神社を特別扱いしようとする勢力と、神社の格下げを図る勢力が真っ向から対立していた。

格下げを図る勢力にとっても表立って神社への崇敬を否定することはできなかったが、神社派の主張の趣旨をくみ取りながらも、行政的な理屈でそれを「神祇局」へ格下げする案へ縮小させた。また「神社改正ノ件」の改定案に対して、佐佐木らはかえって予算を拡充する案を提出したり、明治初年に上地(土地の取り上げ)された土地(特に山林)を社寺に還付する運動を起こしたりしたが、こちらも行政的見地から実効策は矮小化していった。こうして議会開設前の神祇官設置運動と神社への予算拡充運動は挫折した。なお、神祇官への反対は神祇不敬と結びつけられていたが、明治天皇は神祇官設置に反対だったとみられる。また明治24年には元田、吉井友実が死去、山田は病気になりその後死去、ということで、政府内の神道派は弱体化した。

しかし憲法に基づいて議会が発足すると、神職たちは議会を通じた神祇官設置運動を開始した。神職たちがその代表を議会に送り込めば、議論はいくらでも可能なのだ。全国には大勢の神職がいたものの、最初のうちは落選議員もおり、議題も上程に至らなかった。よって第7議会まではさしたる成果がない。ただしそうした過程の中で、神祇官と天皇親祭論(天皇が祭祀をつかさどっているなら神祇官など不要)との調整、また神社が宗教でないなら内務省社寺局で神社が宗教として扱われていることとどう折り合いをつけるか、といった理屈が俎上にあげられ、整理されていった。

第8議会(明治27年~28年)が運動の転機となった。それまで紛糾していた国全体の予算問題の折り合いが付き、他の問題について議論する余裕が出たという事情もある。神社に関するものとして上地林問題、神祇官設置問題、古社寺保存問題が議論され、上地林、神祇官設置は否決されたものの、古社寺保存の予算は増額された。これは古社寺目当ての外国人観光客の落とすお金も期待されて成案を見たもので、古社寺との限定付きではあったがその経営の一助となった。そして第10議会(明治29~30年)では政府自ら「古社寺保存法」を提出し成立。これは「国家と特別な関係を有する古社寺という存在が法律で認められた(p.223)」ことに他ならなかった。

また、上地林問題については第13議会(明治31~32)で取り上げられる。そもそも社寺の土地を強制的に取り上げたこと自体が不当だとする論調で審議が始まり、「国有林野法」「国有土地森林原野下戻法」等が成立した。これは、上地された土地を必要に応じて社寺の境内に編入・払下・保管・下戻ができるようになったことを意味する。これが現実に社寺の経営を改善するかどうかは制度の運用次第であり、議論はそのような局面に移っていった。

一方、神祇官設置運動については、水面下で様々な運動があったがなかなか成果が出なかった。そして関係者は、条約改正との関係からも神祇官の速やかな設置は無理だと感じ、せめて神社専門の行政部局を設置することを第一歩にしたいと考えるようになった。こうして大隈重信内閣では「神社局」を設置する案が実現一歩手前までいったものの、大隈内閣の崩壊し実現に至らなかった。第13議会では大津淳一郎議員らが「神社と宗教との区域をはっきりすべきだ」として神社に関する特別官衙の設置を建議。これまでの運動が挫折した結果、神道派は最小限の目標に照準を定めるようになっていた。それは、神社を他の宗教とは違う存在にしたいということであった。よって神社非宗教論がクローズアップされてくる。しかし内務省の考えは、「社寺」は古社寺保存法など同一の法律で一括されていて何ら差しさわりはなく神社専門部局などいらない、というもので建議は否決された。

なお、内務省社寺局はそれなりに現場(神社・寺院)の希望を考慮した方針で行政を行っており、例えば寺格・僧爵構想(実現せず)など社寺の振興を図ってはいた。ただそうしたものは政府全体の方針とはなりえなかったのである。

政府全体として優先されたのは、対外的な問題である。条約改正の前提としてキリスト教を公許し、宗教を行政にしっかり位置づけることが必要だった。ついに明治32年、事実上キリスト教のみを対象とする宗教に関する省令が可決。こうしてキリスト教が行政の対象になると「社寺局」の名称変更は避けがたかった。そして寺院、神社、キリスト教…などではなく、それらを包括した宗教法案が求められ、山県内閣は同年これを提出した。

具体的には、この宗教法案は宗教団体を法人とするものであった(教会は社団法人または財団法人に、寺は財団法人に、ただし教派・宗派は法人になれない)。法案では宗教者に徴兵猶予を認めるなど宗教に対して優しい立場で作られており、世論はこれを歓迎したが、仏教諸派(32宗派)は仏教とキリスト教が同列に扱われたことを不服とし、議会が紛糾して否決された。

これを対岸の火事のようにみていたのが全国神職会。そしてここぞとばかりに「神社局」の設置の運動を開始。そして意外なことに明治33年にすんなりと設置された。それは(1)神社局はもはや神祇官を想起せしめるものではなくなっていた、(2)内務省が局の新設に前向きだった、(3)いずれにせよ社寺局の名称変更が必要だった、という事情があったと考えられる。すなわち実際上は社寺局が「宗教局」と「神社局」に分割された。もともと小さい社寺局であったから、神社局は他の一課くらいの規模だった。しかしそれが宗教局と別に設けられたのには大きな意味があった。神職たちの希望通り、神社は宗教ではないということが行政機構の上で明確になったからだ。

そして神社局を勝ち取った神職たちは、その運動の結果として「神社局ー関係議員ー全国神職会」という神職の全国組織化と行政機構への組み入れを成し遂げた。これが宗派を超えて一枚岩になれなかった仏教とは違い、その後の神社をめぐる行政に大きな役割を果たしていくことなるのである。また神社局が中心となって「神社協会」が設立(明治35年)、直後には全国神職会は「神社局と方針を共に」することを規約に明記し、一種の御用団体となっていく。神職・関係議員はこうした基盤を整えた上で、「神社改正ノ件」の廃止に乗り出した。

それまでの間も、「神社改正ノ件」は種々の修正を加えられていた。神社は、予算不足で保存金の貯蓄が思うようにできず、将来の「独立自営」のためのお金を切り崩さざるを得なくなっていた。ということは補助金期間が終われば経営が行き詰まる。そうなると神社を「独立自営」に移行させようとする「神社改正ノ件」の元々の趣旨が崩壊する。よって補助金の増額が行われ、また経費・経常営繕費ー共通臨時営繕費ー永遠資本金(保存金)の比率も「50%ー15%ー35%」から「70%ー25%ー5%」とする改正が明治34年度から実施された。これは明らかに「独立自営」から遠ざかっており、政府もそれを認めていた。

神職・関係議員たちはこうした状況を逆手に取り、官国幣社の経費を国庫支弁にすること、府県郷村社の経費(神饌幣帛料)を府県郡市町村に負担させることの2点(「二大問題」)を議員立法で要求。内務省としても「独立自営」路線が破綻しているのは明らかなため、この法案が通過した方が都合が良かった。しかし府県郷村社はあまりに数が多いことから公費支出が現実的でない。そこで、神社合祀によって数を減らすことが論議されるようになるのである。ただしこれは当初は到底現実的でないと反対論が優勢で、全国神職会も財政難から十分な活動ができず「二大問題」は進展しなかった。

ところが、明治37年に省内最年少の水野錬太郎が神社局長に就任したことをきっかけに事態が動く。神社局は最小の局だったので、廃仏毀釈を知らない世代、明治元年生まれの水野が抜擢されたのだ。彼は「二大問題」を解決すべく議員立法ではなく政府として議案を提出した。そしてあっさりと保存金制度を終わらせ官国幣社の経費は国庫支弁となり、府県郷村社の神饌幣帛料を府県郡市町村から支出することが勅令で可能となった。まさに一瀉千里で「神社改正ノ件」のプランは瓦解した。ただしこの政策では、府県郡市町村から府県郷村社全てに強制的に支出しようとしたのではない。「神饌幣帛料ヲ供進スルコトヲ得」とし、共進する神社の指定は地方長官が行うこととした。

一見、これは神社を保護する政策かに見えたこれが、結果的には神社合祀、すなわち神社の大規模な合併運動を引き起こしたのである。すなわち、神饌幣帛料を地方政府が供進する神社は「独立自営」できるような重要なものに限られたから、その指定を受けることは神社を「選別」することであり、より広い氏子圏、経営基盤をもった選別に耐える神社を創出すべく弱小神社の合併をもたらしたのである。そして内務省も神社合祀を促進する政策を行い、神社合祀が国家レベルの政策として展開していった。

これは内務省としては「社寺合併」を謳っており寺院も対象としていたが、実際に合併が行われたのはほぼ神社である。この運動は地方改良運動と結びつけられ、地方局府県課長井上友一が就任して運動は頂点に達する。神社は「町村の民心結合の核」として編成し直された。これに最も反対したのは和歌山県選出代議士の中村啓次郎。彼は明確な神社宗教論に立ち、合祀は宗教心を損なうとして反対した。一方で、全国神職会も、大津淳一郎などの神道関係議員も神社合祀には内部の意見の違いなどから反対せず、神社の激減を拱手傍観した。

こうして、神社は「独立自営」を求められ国家から距離を置かれていた19世紀とは全く異なる存在となった。神社合祀という痛手はあったにしろ、国家・地方政府と明確に結びついた存在として他の「宗教」とは隔絶したものになったのだ。そして神道関係者たちは、改めて神祇官の再興と、神道を国教になぞらえることを希望するようになる。とはいえ、神社は宗教ではない、という建前でこれまで進んできた。神社が「国教」になったら、それは宗教なのか? 神社非宗教論は揺らいでいた。

一方、反目してきた宗教者たちは日露戦争の遂行を前に協調を図るようになった。そして内務官僚の床次竹二郎も各教の代表者を会同させることを計画。床次が明治45年に出した「私見」では「国民一般に、宗教を重んずるの気風を、興さしめんことを要す」として三教(仏教、神道、キリスト教)を協調させることを計画、政府と三教の代表での協力関係が確認された。明らかに国家と宗教との関係は変質していた。その変質の先にいわゆる「国家神道」があったのである。

本書全体を通じて、国家と宗教の関係のターニングポイントを一つ選ぶとすれば、内務省神社局が創設された時だろうと私は思う。これは行政機構上の小さな改組ではあったが、宗教局と神社局が分割され、神社が宗教ではないという解釈が行政機構の上で確認されたことは理念的にも大きかった。神社非宗教論は今から見れば詭弁に等しいが(当時でも詭弁だと見なす人は多かった)、その詭弁が歴史を動かす力になった。そして神社のみを扱う局ができたことは、神社のみに焦点をあてた政策の実行が自然と催され、明治初年とは違った形で神社が優遇されるきっかけになったのである。

本書に述べられるその経緯は、村上重良が『国家神道』で描いたものとはかなり異なっている(なお本書では「国家神道」の用語は慎重に避けられている)。村上重良は「国家神道」を明治初期の政策の延長線上に出現したものと捉えているが、本書ではそうではない。明治10〜20年代には国家はむしろ世俗的であった。神社勢力は国家から見放されつつあり、そのプランこそが「神社改正ノ件」であった。神社勢力はこれを挽回すべく関係者を総動員して予算面・組織面の改善を図ったがうまくいかなかった。こうして国家は宗教的なリベラル路線に進むかに見えた。しかし神社は宗教ではないという論理を押し通し続けた結果、明治33年「神社局」の創設にこぎ着け、そこから先は彼ら自身も意図しなかったほど神社は国家と親密な関係を樹立していくのである。

ただし本書ではよくわからなかったところもある。明治はじめに「神社は宗教ではない(国家の祭祀である)」と整理されたとき、神社における宗教的な部分は「教派神道」として分離されたが、教派神道は上述の動きにどう関連していたのか、あるいはしていなかったのか、本書には詳らかでない。そして教派神道が、神社非宗教論をどう見ていたのかも、ちょっと気になった。

本書は全体を通じて、議会議事録などを執拗なまでに丁寧に追い、成案を見なかったり、審議未了になったりした事項までも追求している。神社や神道を巡る水面下の動きが克明に描き出される様はエキサイティングですらあった。

世俗的になっていた国家が、どうして宗教的に揺り戻されていったのか。本書はそれを水面下の動きから解明した労作である。

 

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

2023年1月22日日曜日

『思想史講義【明治編Ⅰ】』山口 輝臣/福家 崇洋 編

明治時代をキーワードで読み解く本。

普通「思想史」というと、時代を代表する思想家の著述を取り扱う。明治初期だと、福沢諭吉や中江兆民といった人たちだろう。とこが本書はそういう切り口ではなく、時代を象徴する16のキーワードを概説する形で明治時代を語っている。そのキーワードと著者は次のとおりである。

「王政復古」清水光明、「祭政一致」山口輝臣、「公議」奈良勝司、「修史」佐藤大悟、「万国公法」川尻文彦、「征韓と脱亜」小川原正道、「自由民権」真辺将之、「政論」松田宏一郎、「郡県と封建」湯川文彦、「富国強兵」鈴木 淳、「文明開化」谷川 穣、「人種改良」横山 尊、「国語」安田敏朗、「自治」渡辺直子、「衛生」赤司友徳、「元気」高山大毅

またこのほか、8つのコラムがあり、短いながらも興味深い論点を提示している。そのタイトルと著者は次のとおりである。

「本願寺」辻岡健志、「アイヌ」マーク・ウィンチェスター、「琉球」草野泰宏、「亡命朝鮮人」茂木克美、「玄洋社」石瀧豊美、「新聞」寺島宏貴、「士族」内山一幸、「宣教師」藤本大士

 これらについてそれぞれメモを書いてしまうと長大になるので、以下私が気になったもののみ述べる。

王政復古:天保改革期、メディア環境は大きく変化した。この時期に出版統制が行われるのと並行し、実は規制が緩和されたのだ。天保13年(1842)「新板書物之儀ニ付御触書」で学術書に限り歴代将軍の事績などを記述することが可能になった。中井竹山『草茅危言』、荻生徂徠『政談』や歴史書(『日本外史』など)が公然と流通し、江戸時代の上皇の著作(後水尾天皇『当時年中行事』、霊元天皇『元陵御記』)なども出版される。こうして、政治論や歴史書を読みふけった世代が「復古」を目指す幕末の志士として活躍していくのである。

そして、そんな「政治の世代」だけでなく、実は幕府自身が「復古」を強調するようになっていた。安政期以降、幕府の政治文書で「寛永以前」が多用されるようになる。鎖国以前に返ることで開国を正当化したのである。将軍家茂も「質直之士風」に復古したいと述べている。久留米藩の真木和泉の献策「経緯愚説」にはすでに神武創業への言及もある。島津久光は「皇国復古」を掲げた。足利三将軍梟首事件の捨札にも「今や万事復古し、旧弊一新の時運」とあった。

これらの構想は、武家政権以前の朝廷中心の政治体制ということ以外は曖昧であったし、現実的には王政復古は行い難いとみなされていた(島津久光など)。それを意外な形で具体化したのが土佐藩の後藤象二郎で、彼は西欧をモデルとした二院制の議会を京都に設立することを「王政復古」としたのである。

祭政一致:祭政一致はなぜ王政復古の詔で掲げられたのか。これは祭祀と政治が一致するということであるが、その起源は何か。それは北畠親房の『神皇正統記』と見なすのが定説である。そこでは上古の中臣氏について述べた文脈でのことだったが、やがて拡大解釈されていく。特に「祭り」と「政(マツリゴト)」が同じ訓であることは決定的な論拠とされ、古代天皇制の特質と考えられるようになった。山崎闇斎の垂加神道でもそれが主張された。本居宣長は言葉の原意を探っていく考察の中で「天皇の政をマツリゴトとすることはあり得ない」との結論に至ったが宣長の説はあまり影響力を持たなかった。

明治維新で「神祇官」が復興されると一度は祭政一致体制となったが、それはすぐに修正され神祇官は廃止された。その後、神祇官を再興しようという運動が続いていくが、「祭政一致など憲法違反だ」「祭政一致は過去のものだ」と一蹴され、結局再興されることはなかった。

公論:ペリーの来航後、老中阿部正弘はその国書を公開して広く意見を求めた。これは専制的に運営されてきた幕府にとって異例のことで、以後人々は政治的議論を戦わせることになる。そして様々な階層の人々が自らの意見を建白の形で提出し「言路洞開」を求めた。しかし彼らはみんなで意見を出し合えばよい結論が出るはずだとのナイーヴなイメージを持っており、多様な意見をどう糾合するか、意見が対立したときにどうするかといった議論の仕方については関心が薄かった。また、薩摩藩の大久保利通が「衆議」を味方につけようとして、かえって衆議からしっぺ返しをくらったように、衆議は収拾がつかなくなる危険性を帯びていた。よって明治維新後は、期待された「公議所」も各藩の正論が衝突してうまくいかず早々に諮問機関に格下げされ、政権はむしろ全員一致主義に傾いていった。

万国公法:『万国公法』は、米国の著名な国際法学者ヘンリー・ホイートンの『国際法原理』が1864年に中国で翻訳出版されたもので、すぐに日本に伝わり幕末に開成所より翻刻された。勝海舟、横井小楠、坂本龍馬、中岡慎太郎が『万国公法』に言及しているが、広く読まれたのは間違いない。なお開成所版以外にも和訳、訓読本が各地で作られている(鹿児島では重野安繹が1870年に訳述)。『万国公法』は難解ながら原文に忠実な漢訳だったが、漢学者たちの理解を通してだったことで、万国公法は日本では「性法(理性によって自然に定まる法)」「天地の公道」「天理」として受け取られた(実際には違った)。あたかも「万国公法」が天理に基づいて行われる国際社会の秩序であり、そこへの参入が文明化であると。しかし外交の現実では「万国公法は弱国を奪ふ一道具」(木戸孝允)にすぎなかった。こうして国際社会への幻想「万国公法」は消えていった。

自由民権:自由民権運動は、民衆に根差した運動ではなく、むしろ国家主義を志向していた。「民撰議院設立建白書」には租税共議権の考えや民衆に参政権を与えよという主張があり、また各地で「私擬憲法草案」が作成されるなど、権利や自由の思想が広まっていなかったわけではない。「愛国公党」の出現は、政治に関して私的に団結することが重罪とされていた近世的桎梏の打破でもあった。しかしそれらの動きは、結局は国家に結びつくことを前提としたものだった。よってそれらは団結論=一大政党論を形成していく。ただし異なる政党が並立することを前提とした立憲改進党(大隈重信)の創設はそれらとは趣を異にした。

富国強兵:富国強兵は明治政府のスローガンの一つと思われているが、明治初年にはあまり使われていない。むしろ阿部正弘が「富国強兵之基本」と開国を捉えたり、太宰春台の『経済録』(1729)で富国強兵が主張されるなど、江戸時代から使われていた言葉である。また慶応元年(1865)には将軍家茂は列国に対して国を閉ざすために富国強兵を進めてきた、と朝廷に説明している。明治政府がこのような言葉を積極的に使わないのは当然だ。国民への教導運動を行った教導職たちも、積極的に富国強兵を説いた形跡はない。しかし次第にこの言葉は再定義されてゆく、福沢諭吉は『文明論之概略』で強兵の土台として富国を論じ、西村茂樹は「富国強兵説」という演説で富国強兵に道徳的・質実剛健な社会・風俗という意味を込め、文明開化と対置させた。こうして1880年代半ばには江戸時代からの言葉のイメージが払拭され、知識人も遠慮なくこの言葉が使えるようになった。

文明開化:文明開化は肉食、特に牛鍋によって表象された。角田米三郎は、肉を食うことが「復古」であり文明開化だとして100万頭の養豚事業を計画した。種豚証券を発行して金を集め、希望者に種豚を預けて飼育させ、育った豚を買い取って販売した利益を配当する、という構想だ。大真面目な事業だったが、予想以上に肉食が広がり豚肉の価格が下落したことで立ち消えになった。一方、佐田介石という西本願寺派の僧侶は「ランプ亡国論」など舶来品排斥運動で民衆に熱狂的に支持された。貧民には貧民なりの消費生活が維持されるべきであり、舶来品は経済構造を変えてしまうのでよくない、という主張だった。角田と佐田のやったことは正反対だったが、文明開化が庶民に及ぼす影響を考えた点では共通していた。

自治:「自治」は明治10~20年代に新鮮に映った言葉であった。人々は「自治」に期待した。当初(いわゆる新三法)の自治は、町村の領域を「私」とみなしていた。「私」の領域に国家が介入すべきでないから自治に任す、という論理だった。しかし1884年の改正で町村は国家の下請け機関的に扱われるようになる。一方で、旧幕以来、町村が自治的に運営されてきたことが発見され、井上毅は「地方自治制ノ意見」(1885)で「旧来町村ノ制ハ自治」であると断言した。ただし井上は自治の唱道者ではなく、府県制・郡制の導入にあたってはそれが自治機関にならないよう主張した。明治初期の政策担当者たちは、旧幕時代の「自治」を発見したことで、日本でも自治(立憲体制)が可能であると考えたようだ。

衛生:「衛生」という言葉を作ったのは、適塾出身で、オランダ人軍医ポンぺに学んだ長与専斎である。衛生はすでに明治前に始まっていた。その一例が種痘事業であり、嘉永2年(1849)以降に本格的に普及していった。開港以来、西洋医学が流入してくる中で、医療だけでなく公衆衛生を行政的に進める必要が日本人医者に痛感されていった。幕府医官らも西洋医学に基づく養生書を刊行しており、近世の衛生=養生思想の普及に一役買っている。またポンぺは幕府に対しても衛生行政の必要性を訴えた。薬事行政は漢方医の抵抗もありスムーズには進まなかったが、安政のコレラで幕府が認識を変えたこともあり、種痘事業は概ね順調に進んだ。

全体として本書は、明治時代を近世からの断絶と見るのではなく、むしろ近世からの連続と捉える視点で貫かれている。明治時代を表象するといっても過言ではない「富国強兵」が近世からの言葉であり、むしろ近世的な負の語感を払拭することで人口に膾炙するようになったとの指摘は驚きである。他にも、公論、万国公法、衛生といったものが実際には近世に淵源を持っていた。それどころか公論や万国公法は、幕末の方にその重点があり、明治後にはかえって後退していっているように感じられる。

なお「講義」を名乗っているだけあり、一つ一つの論考が読みやすい分量でまとまっており、論考の後ろにはさらに考えを深めるための参考文献とその解題が掲げられていてとても便利である。まさに大学の講義を受けているような感じを抱いた。

明治時代を多面的に再考する、読みやすい本。

2023年1月9日月曜日

『「文明論之概略」を読む』(上中下巻)丸山 真男 著

丸山真男による福沢諭吉『文明論之概略』の講義録。

著者丸山は、岩波書店の編集者に『文明論之概略』(以下『概略』)についての講義を依頼された。編集者たちによるそのテープ起こしを基にまとめなおしたのが本書である。本書の元となった講義は、『概略』を丸山が注釈しながら読んでいくというものであったから、本書には『概略』の本文はポイントのみしか載っていない。よって本書冒頭に、「本書は必ず『概略』のテキストを座右に置きつつ読むこと。『概略』を読まずに本書だけを読んで『概略』がわかった気になってはいけない」と口を酸っぱくして書いてある。

ところが、私は『概略』はもちろん所有しているものの、手間を惜しんでいちいち参照せず、本書だけを読んだ。よって本書の真面目な読者とはいえない。以下、邪道な読み方をしたことを前提として書く。

福沢諭吉の評価は割れている。一万円札の肖像になっているくらい有名で、また明治初期を代表する言論人であることは確かだ。しかし彼の言説を顧みてみれば、例えばアジアへの侵略を正当化する「脱亜論」や、朝鮮革命への裏からの関与に代表されるような国家主義との結託があり、高い評価が確定しているとは言えない。むしろ戦後は福沢批判の方が強勢だったかもしれない。そんな中で丸山真男は福沢諭吉を称揚し、擁護した。そんな丸山にしても、福沢の最高の仕事が『概略』であるとしているのは含みがある。明治10年までの福沢は啓蒙思想を代表する思想家とされてあまり批判はなく、評価が割れているのは晩年の福沢の方だからだ。やっぱり晩年の福沢は今ではちょっと評価できない、というのは確かのようだ。

本書では『概略』の注釈であるからその内容を一つひとつ解説していくが、私は「真面目な読者」ではないので網羅的にメモすることはせず、まず全体的な印象を述べる。

その印象を一言でいえば、「ものすごく現代的」ということに尽きる。まずその調子が、丸山も言う通り「嘲弄的」であり、あたかも「俺の言うことが理解できないやつはバカ」とでもいいたげな様子である。そして本書冒頭の「議論の本位を定めること」というのが非常に今っぽかった。これは、「これから〇〇のために何が必要かを議論しますので、本題に入る前に交通整理をしましょう」という話である。当時の議論は各々が勝手に自己主張するようなものであったので、福沢は議論が錯綜しないようにその土台を厳密に構築したのである。それは理解できる。しかしながら、このような議論の整理を厳密にすれば、どのような議論でも正当化できるような気がしてしまった。もちろん福沢は、今から見て無茶な主張をしているわけではない。それどころか、今から見ても十分に通用するような先進的議論をしている。例えば「異論を認めること」とか「人々の自由こそ社会が発展する基盤」といったようなことである。しかしそういう主張をするために、周到に反論をつぶしながら最後に嘲弄的な様子で畳みかけるのが、良くも悪くも実に今っぽい。

では『概略』の目的とするものは何か、それは「ヨーロッパの文明」を日本に導入することである。なぜそれが必要かというと、日本が国際社会の中で独立を保っていくためには「ヨーロッパの文明」が不可欠だから(と福沢は考えた)である。しかし福沢は、西洋文明を絶対視していない。彼は2度アメリカに行き、またヨーロッパも幕臣として歴訪していた。であるから、西洋文明が額面通りに受け取れないものであることはよく承知しており、手放しで西洋礼賛したわけではない。それどころか自由や独立を喧伝しているヨーロッパ人が中国人を犬のように扱っているのを見て、文明の美名のもとに隠された実態を知っていたのである。さらに福沢は一人ひとりの資質は日本人の方が優れているとさえ考えていた。それでも日本では社会の仕組みが悪いため、一人ひとりが優れていても社会全体としてはその能力が発揮できず停滞していると福沢はいう。だから、西洋文明には悪いところもあるが、そのよいところを取り入れて社会を改良していこうではないか、というのが福沢の考えなのだ。

ではそもそも「文明」とは何か。これが本書で展開される「文明論」である。といっても福沢がいう「文明」は、ガス灯とか牛鍋のようないわゆる「文明開化」で持てはやされたものではなく、文明を動かす力、文明の基となる人々の精神の方を取り上げる。具体的には、福沢はフランスのギゾー『ヨーロッパ文明史』とイギリスのバックル『イギリス文明史』を大きく援用して「文明」を語る。なお本書ではギゾーがいうには…のようにいちいち出典が明らかにされない。また福沢はギゾーらに準拠しながらも、日本の状況に巧みに置き換え、わかりやすい比喩を挟みつつ説明している。これは今でいえば剽窃になるかもしれないが、かなりこなれたアレンジだと思った。そしてそのアレンジには、儒教の古典が縦横に引用される。もともと福沢は適塾で学んでおり儒学を極めていた。にもかかわらず福沢は儒教にはあまり価値を置いていない(というか辛辣に批判する)。それなのに古典から自由に引用しているのが意外でもあり、また当時の学術的な知の在り方を窺わせるものでもある。

そこで展開される文明論は、統治形態、つまり政治機構の歴史が中心である。彼は日本の歴史を批判的に検証し、いわば「歴史観」をひっくり返す。そして福沢は、有徳なものが統治すれば世が治まるという儒教的な統治論を否定し、人民の考えこそが歴史を動かす力であり国家の基本であるという、一種の民主主義を述べる(明治維新も、門閥政治の打破を目指した人民による革命だと福沢は見ていた)。しかし福沢は多数決とか世論といったものの危険性をよくわきまえていた。だからこそ、国家が発展するためには一部の指導者層だけが道理をわかっているのではだめで、世の中の多くが発展を目指して動かなくてはならない。そのために福沢は『概略』を著して「衆論」を主導しようとしたのだった。

江戸時代には徒党を組んで議論をすること自体が禁じられており、日本には政治に関する民衆の議論そのものがなかった。福沢はこれからの世は「衆論」を興すことが重要だとし、そのための出版の自由、演説による大勢への訴え、議論の習慣、そしてその基盤となる学問の重要性などを訴えるのである。一方で、福沢が全く歯牙にもかけなかったのが道徳、徳の問題である。当時は維新直後のアノミー状態が続いていて、道徳的頽廃が進んでいた。ところが福沢は(伝統的な)徳は、尊重すべきだけれども(としつつも福沢は伝統的な徳を明らかにバカにしており、あまり尊重している様子はない)、文明とは別の問題、として切り捨てている。当時としては「徳義」は政治的に重要な眼目だったにもかかわらずだ。

宗教についても似たような考えで、当時の多くの開明派が西洋文明の基盤にはキリスト教があると考えていたのに、福沢は「宗教などどれも似たようなもの」と述べ、宗教全般に対して冷めた目を向ける(ある意味神仏を擁護する)。文明の導入はあくまで智愚に関することで善悪とは関係ない、というのだ。この辺りもクールな現代人的であると思った。さらに政治権力がその正統性を宗教に負うことを批判的に捉え、「現代ではかつては鬼神のせいだとされていたことが科学で解明されてきているのだから、信仰が失われるのも当然だ」と科学万能論的無神論を主張する。そして宗教にとらわれるよりも、精神の自由の方が大事だ、というのである。当時としては異端な主張だ。

そして宗教や徳ではなく、社会のルールの方を精緻化し、政治を技術的な問題に落とし込もうというのが福沢の考えだ。人々を統治する・人々が統治されるための、合理的なやり方を開発していこうというのだ。つまり福沢の議論は「法治主義」を貫く。しかし、その後の日本は法治主義を十分に発達させることなく、国家の運営が国民一人ひとりの個人規範に埋め込まれていく「徳義の社会」になったのは周知のとおりである。

こうして文明論を語った福沢は、『概略』後半に日本の問題へと切り込んでいく(『概略』第9章 日本文明の由来)。福沢は日本の歴史を顧みて、そこに「権力の偏重」という大きな問題があると見る。「権力の偏重」とは、あらゆるものに上下関係が設定され、上のいうことは絶対、下には偉そうにふるまう、というように、対等な関係がないことをいう。これは極言すれば、社会のすべては治者に責任があるということだ。だからこそ福沢は「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」というのである(『学問のすゝめ』第4編)。例えば太平洋戦争終結時に連合国軍は、日本人はあれほど狂信的な戦いを続けたのだから政府が降服しても国民は自発的なレジスタンスが続くに違いない、と予想していた。ところが現実には政府が降服したら連合国軍のいうことが絶対、というように国民がすっかり変わってしまった。これは日本人には国を作っていくのが自分たちだという自覚がなく、単に上に従っているだけだという象徴である。要するに日本人は政府の奴隷に過ぎない。そして日本人は上への従順だけがあって、横の連帯意識がない。日本では「独立市民等の事は夢中の幻に妄想したることもある可からず(下巻p.117)」。これも今の日本にそのまま当てはまることだろう。

次に福沢は「日本文明」の具体的なあり方を検討する。最初は宗教だ。そこで福沢が神道をたった4、5行で片付けているのが面白い。明治8年の段階でも神道は全く重要なものとみなされていなかったようだ。そして日本の仏教は俗権(政治権力)に寄生して存在してきたと一蹴している。なお文明史を述べるところでは、ヨーロッパでは宗教(教皇)と王権(俗権)が分離したことが強調されているが、それがここの伏線になっている。

次に学問である。儒学は一種の御用学問であり、日本の歴史を通じて学問はついに民衆のものとなることなく、政治権力に奉仕するものに過ぎなかった。江戸時代には、民衆が自主的に学び、また政治権力と距離を置いた儒学の系譜が生まれたが、明治以降にはかえって教育が政府によって人々を支配する道具となっていったのは皮肉である。

さらに支配階級であるところの武士(のエートス)に筆は進む。福沢は自分自身もかつて武士であったが、『概略』では武士のエートスのマイナス面ばかりを強調している。それは要するに「上にへつらい、下に威張る」だけで存在自体が社会の停滞の一因だった、というものだ。

このように論じて、「日本は古来、文明を進めるために必要な一国の体をなしていない(下巻p.171)」と福沢は断じる。ではどうすればいいか。これについて福沢は具体的な処方箋を提示しない。それは「概略」の議論の範囲を超えたものだからだ。しかし福沢は日本の改革を人々の気質を変えようとするより、むしろ理財(経済)面の発展に託していたようだ。要するに「これからの社会は武士的であるより商人的で行こう」というようなことだろう。「「品行」「ディグニティ」「敢為活撥の気象」を具えた「ミドル・クラス」が成長することこそ、彼の畢生の念願だった(下巻p.200)」。

しかし彼は次章(第10章 自国の独立を論ず)で、金儲け万能主義を批判する。品行なき商業はむしろ害悪であると福沢は考えた。では日本はどうしたらいいのか。福沢はこの結論にあたる章で、尊王論的国体論、聖人の道、キリスト教立国論、万国公法論、攘夷論・軍事的ナショナリズム論、鎖国復活論を一つひとつ取り上げ、否定していく。そして現実の外交(福沢の用語では「外国交際」)が「禽獣の道」であることを自覚しながらも、西洋列強と並ぶ国際社会(西洋的国家システム)へ入っていくほかない、と断言するのである。そのために必要な条件は、日本が「主権国家」であり「国民国家」であることだ。

19世紀の世界で「主権国家」として西洋的国家システムに入りえたものは、東アジアでは日本しかない。「日本を西洋の属国にしない」というような曖昧な表現ではなく、明確にその条件を述べた点で、福沢はやはり慧眼だったといわねばならない。ただし先述の通り、どうやってそれを実現するかの議論は「概略」の範疇を越える。だがこうして文明を論じてきた『概略』は、その総括として日本の「独立」をパセティック(悲壮)に主張するのである。そして国の独立を達成するために必要なのが、全国民の「国民としての自覚」であり、「独立自尊の精神」ということになる。それは外国交際は、よくも悪くも必然的に国民全員の精神に影響を及ぼしていくからで、特に外国人がその非情な論理で日本を蹂躙していく(と福沢は予想した)ことで、日本人は否応なく奮起せざるを得ないだろう、というのだ。

これは「概略」の議論をあまりに単純化しているとしても、この論理展開では福沢が考えたのが「国家の運営が国民一人ひとりの個人規範に埋め込まれていく「徳義の社会」」と相似形の社会だったとみなされてもしょうがない。『概略』のこの結論は、福沢が後年批判されることになる国家主義が明治8年の段階ですでに胚胎していたという兆候なのかもしれない。全体的には人々の自由や平等、独立を標榜しつつ、それが奇妙に国家の目的へと統合されていくのが私の『概略』の印象だ。もちろん、人々の力を総動員しなくては日本は独立を保てなかったのだ、というのは事実だろう。しかし福沢はついに「国家など知ったことか」とは言わなかった。「国家」は人間が生きていくための装置でしかない、といったドライな認識を示しながら、やはり「国家」の側から人間を捉えたのが福沢の限界であり、それが後年になって批判されることになった淵源であろう。

しかしながら『概略』の議論は、様々な面で現代的であり、いまだに有効な主張がたくさんある。率直に言って、今の日本ですら、福沢が理想とした社会・国民の資質に全く到達していない(=文明化されていない)。福沢の皮肉屋で嘲弄的な調子には品のなさを感じるが、彼は狙って偽悪的に叙述し、人々の奮起を促している(ような気がする)。「反論できるものなら反論してみろ」と福沢が言っているようだ。そして21世紀の日本人も、福沢に反論できるとは思えないのでる。

なお本書は口頭での講義を基にしたものであるため、初版上巻は事実関係の間違いがとても多く、著者丸山真男は本書を公刊したことを後悔したくらいである。読むならば第2版以降をお勧めする(なお初版中巻に上巻の正誤表がついている)。

『文明論之概略』講義の稀有な記録。


2023年1月7日土曜日

『女人禁制』鈴木 正崇 著

女人禁制とは何かを多角的に述べる本。

日本では、女性が入ってはならないとされてきた山などの聖域がある。これは近年は女性差別の文脈から批判にされされるようになった。一方で、そうした山を信仰してきた人たちは、「これは女性差別ではなく伝統であり信仰」とそれに反論してきた。男女平等と伝統や信仰が相いれない時はどうしたらいいのか。本書はそうした二項対立を超えるため、そもそも女人禁制とは何かを考究するものである。

「女人禁制への視角」では、女人禁制の現状が概説される。女人禁制が大きな変化を被ったのは明治5年、政府が「女人結界」を廃止した際である。これは博覧会に女性を含む外国人を招くため、霊山(京都)の女人結界が邪魔になった政府が場当たり的に廃止したものであった。さらに同年、修験宗が廃止されたことで山岳信仰は大きな変化を受ける。今では女人禁制の山は大峯山と後山(岡山県美作市)しかない。

では近世では女人禁制はもっと多かったのか。これがそう単純ではない。女人禁制の祭りとして有名なのは京都の祇園祭(の山鉾巡行)であるが、実は近世までは女性が参加していた。ここでの女人禁制は「創られた伝統」である。もっと時代をさかのぼれば、女性はむしろ祈祷や神事の中核であり、古代文献には女人禁制という用語自体がない。だが近世に神事から女性を排除する動きがあったのは事実で、吉田神道は神子(みこ)を不浄なものとして祭祀の場から排除した。「女人結界」の用語も近世初期の仮名草子から頻出するようになる。また神道だけでなく、大相撲、酒造り、トンネル工事にも女人禁制は残っている。

「大峯山の現状」では、女人禁制の焦点となっている大峯山の複雑な経緯が述べられる。修験道の聖地大峯山は、神仏分離令や修験宗廃止令によって明治初期に変貌させられ、護持院(山上本堂の管理をする寺院の総称)、地元の吉野・洞川(どろがわ)、八嶋役講(信徒集団)の三者が女人禁制の山上ヶ岳を共同管理している。この山上ヶ岳は、昭和21年にアメリカ人女性が登攀しようしたことをきっかけに、女人禁制を破ろうとする女性が相次いだ。しかし総じてそれは売名を目的とたもので、かえって女性が道具に使われていた(男性にそそのかされた行為であった)。

そんな中で異色なのは酒井秀子の場合だ。彼女は両親から「大日如来の申し子」として育てられ、長じて「八大教」という宗教を立ち上げた。また醍醐寺三宝院から修験道大僧正の位も得ている。女性初の快挙であった。彼女は信仰心から大峯山を目指し(山上ヶ岳ではなく)大日山(稲村ヶ岳)へ登攀した。稲村ヶ岳への登山は女性の大峯山修行のコースとして後に定着した。

また昭和41年にこの地域が国立公園に編入されたことをきっかけに、観光コースとの兼ね合いから女人禁制の区域が昭和45年に縮小された。また女性信者の受け皿を作る必要もあり、様々な面で徐々に女人禁制は緩められた。

そして2000年、大峯山の女人禁制を解禁しようという修験教団の動きがあったが、禁制に批判的な奈良県教職員組合の女性教諭らが山上ヶ岳に無断で登頂して大問題となる。解禁への地元の反対も渦巻く中で事態が混迷し、結局解禁は先送りされた。大峯山が、女人禁制によって特別な場所になっていることは確かだ。

「山と女性」では、なぜ山が女人禁制となるのか、その基盤をより広い視野から探っている。女人禁制の山がある一方で、そうでない山があるのはどうしてか。例えば熊野はそうではなく、熊野比丘尼は熊野信仰の中核を支えていた。柳田国男は、女人結界の伝説によく登場するトランニ(都藍尼)という女性を巫女を指す古代の一般名詞だと推定した。尼は山の神の顕現であると考えられる。

高野山の伝承では、弘法大師の母も登場し、また女人禁制を確立した山の近くには、開山に関わった僧の母の伝承(廟や祠)が数多く見受けられる。仏教に母子の結びつきを重要なものとする考えが導入された影響と考えられる。女人禁制の山で多くの場合伝承されているのは、女性が登ろうとした際に怪異な現象が起きてそこから先に行けなかった、というものだ。僧の母の場合もそれが多い。こうして女性を排除することで山の聖性や怪奇の力が強調されたのである。しかもそれは、ここから先は行ってはダメという明確な境界をもって主張された。つまりその境界性・神聖性の確立に女性の存在が一役買っているのである。

「女人結界」では、女人結界の成立と歴史についてまとめている。女人結界の始まりは平雅行の9世紀後半説と、西口純子の11世紀後半説がある。ただ用語としてはともかく、9世紀後半には実質的には存在していたと考えられるという。また女人結界の理由は不邪淫戒に基づくもの(女性を遠ざけるため)という。しかし古代の僧尼令では男女の戒律は対称に設定されていたのに、なぜ女性に対する規制だけが突出したか。それには尼寺が消滅したことが原因であると牛山佳幸は考えた。尼は正式な受戒ができなかったこともあり、官僧から尼を締め出す方針がとられ、10世紀ごろまでに尼寺は激減した。これと並行して、仏典にある女人罪業観と触穢思想とが融合して女性の不浄観が生み出されたと考えられる。そして修行の場を清浄に保つためとして女人結界が生まれたのである。

このプロセスには陰陽師の活躍が一役買っていたかもしれないが、やはり大きいのは修験道である。修験道の山での修行には性的な要素も豊富に含まれる。そのための女人禁制という意味も大きい。修験道の成立には、山を異界と見る平地民・農耕民の世界観と、山を活動の場にする狩猟民の世界観がそれぞれ影響を与えている。狩猟民は血を穢れと思わず、女性の血の障りも気にしない。かつては山で活躍する巫女もいた。女性が不浄なものとみなされて排除された…というような単純なものではなく、修験道は女性原理(胎内くぐり、生まれ変わりなど)を取り入れる形でその儀礼を発達させ、であるがゆえに女性を遠ざけることになったのかもしれない。

「仏教と女性」では、仏教の教義における女性の位置づけが改めて考証される。法華経には女性には五障があり垢穢(くえ)の身だから成仏できないとされている。しかしこれが仏教伝来の際には強調されていない。「五障三従」といった女性差別的な文言が教説の中で定着していくのは9世紀後半の摂関期からである。「律令制下の家父長制原理がしだいに確立して貴族社会に浸透して、貴族女性の政治的地位が低下したことがあり、これに穢れ観の肥大化が加わったとみるのがほぼ定説(p.144)」である。

しかしその動向は直線的ではなく、女人往生思想もあった。特に一遍は男女問わず極楽往生を説いている。また道元は女人結界を痛烈に批判し、男女を区別すること自体を拒否した。

女性の不浄観の確立に一役買ったのは、偽経(中国で作られたお経)の『血盆経』である。室町時代、15世紀頃に伝来し、江戸時代に写本が流布した。ここでは血の穢れのために女性が「血の池地獄」に落ちるとし、その影響で出産で亡くなった女性が苦しむと考えられるようになった。これは女性の生物学的特徴そのものを、さらには出産をも罪と見なす女性差別的な経典というほかない。しかし仏典が女性の罪と不浄を説くからこそ、女性は仏教に救いを求める必要があった。『血盆経』は女性の護符となったし、芦峅(あしくら)寺の「布橋灌頂会」は女性の極楽往生を確定させるものとして多数の女性信者が集まり莫大な収入をもたらした。

「穢れ再考」では、女人結界の基盤である「穢れ」が再考される。「神聖と不浄は表裏一体(p.169)」である。「穢れ」の成立は、「神聖」の確立でもある。古代には汚れの観念ははっきりしたものでなく、それが確立するのは9世紀あたりで、神=清浄が強調されるとともに、女性の穢れ(月経、出産)が規制されるようになった。これは日本に限ったことではなく血の穢れの規制や女人禁制は世界中に存在する。なお明治5年には政府が産褥の規制を解き、明治6年には「自今混穢ノ制被廃候事」として「制度的に産穢など触穢に関するものを廃止(p.184)」している。

さらに本書では、民俗学や文化人類学を使って「穢れ」を定義する試みがされているが、私にはピンとこなかった。

最後に、「男女平等と伝統が相反する場合にはどうしたらよいか」ということについて本書を読んで感じたことを述べたい。まず、そこでいう「伝統」とはいつの話なのかということだ。近世なのか中世なのか、はたまた近代なのか。それとも「皆が伝統だと思っているもの」なのか。それについて共通理解を得ないことには話が進まない。

確かに日本では、女性を不浄なものとする価値観が仏教や修験道、陰陽道といった様々な方向から形作られてきた。今から考えると女性差別としか言えない教えがあったのだ。それが日本の伝統なんだといえばその通りだ。しかし近世までの「伝統」は、日本人はほとんど捨て去ったというのも事実である。今ではチョンマゲをしている人は誰もいない。女人禁制だってごく限られた場所だけに残っている。それは絶滅寸前の動物のような、保護しなければならない存在だろうか。それとも根絶するべき存在だろうか。本書はこの点に関しては慎重に中立的な立場を貫いている。

しかし本当の伝統ならばともかく、「皆が伝統だと思っているもの」であった場合は、伝統を墨守する意味はあんまりないのは自明であり、そういうケースが多いのである。

女人禁制を歴史・思想から中立的に考える貴重な本。

【関連書籍の読書メモ】
『仏と女(シリーズ 中世を考える)』西口 順子 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_21.html
仏教における女性のあり方を考える論文集。中世仏教の女性のあり方を様々な事例から紐解く真面目な本。


2023年1月6日金曜日

『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修

徳川家の女性たちを描く本。

徳川将軍家の中心が、将軍その人であることは言うを待たない。ではその奥方や娘たちは歴史に何の役割も果たさなかったかというとそうでもない。特に幕藩権力の成立期、そして幕末という、権力の不安定な時期には女性の存在が非常に重要だったのである。本書は江戸初期と幕末を生きた徳川家の女性の生涯を述べるものである。

伝通院お大の方(杉本苑子):伝通院こと無量山寿経寺に眠るのが、徳川家康の母・お大の方である。お大の方の系図は極めて複雑である。彼女は水野忠政の娘で松平広忠に嫁いだが、当時の婚姻は合従連衡の政略の手段であるから、その系図をちゃんと説明しようと思ったらとても簡単にはいかない。ともかく彼女は戦国時代を生き抜くための駒として、自分の幸せと関係なく離縁と結婚を受け入れなければならなかった。それでも彼女は平穏に一生を終えたから幸せな方であった。

築山殿(西村圭子):築山殿は家康の正室であるが、38歳で夫の命令によって息子の信康とともに殺害された。家臣団の中での織田派と反織田派の対立の犠牲になったのが二人で、全ての矛盾が築山殿と信康に押しつけられたのだった。築山殿は今川氏の一族(関口氏)の出で、今川氏と松平氏の協力関係の中で家康と結婚、嫡男信康を生む。信康はわずか9歳で信長の娘徳姫と結婚。この頃の婚姻は国政そのものであった。信康は長じては戦に天賦の才能を見せ、家康の信頼も厚かった。ところが信長は、突然「信康が武田勝頼に内通している」として殺害するよう家康に命じた。おそらくはそれは事実ではなく、信康が邪魔になった信長は、娘を嫁がせているにもかかわらず、というか嫁がせているからこそ排除する必要を感じ、家康にこの非情な命令を行ったのである。信康が狂気の性格であったというのは作り事なのだろう。しかしこれが信長の独断だったかというとそうではなく、これは築山殿・信康・石川数正に対してお大の方・酒井忠次・大久保忠世という、家臣団分裂の政争の結果でもあった。

英勝院(安西篤子):徳川家康には2人の正室と15人の側室があった。英勝院太田氏お梶の方は側室の一人で家康の末子市姫の母、家康最晩年の側室である。お梶は家康に寵愛され、関ヶ原の合戦に共をしたほどで、家康は戦勝後にお梶を「お勝」と改めさせた。どうやらお勝は野心家であったらしく、自ら望んで家康の側室であることを選んだようだ。家康の死後はただちに仏門に入り英勝院となった。そして家光の許しを得て鎌倉に英勝寺を建立。実母に愛されなかった家光は他の老女に母の面影を求めたのか、英勝院への気遣いは並一通りではなかった。英勝院が病を得ると懇ろに看病させ、幼い家綱を見舞いにやらせ、また自らも見舞った。英勝寺は今でも鎌倉唯一の尼寺である。

千姫(新免安喜子):千姫は徳川秀忠の長女である。婚姻が政治であり、縁組みは本人の希望など顧みる余裕などなかった時に、千姫は自分の選んだ相手と結婚した。当時としては奇跡的なことである。であるから千姫の事績には虚像がつきまとう。美しく、奔放で、悪女という虚像である。彼女を巡る系図も例によって複雑であるが、要するに彼女は豊臣秀頼に嫁いだ。しかし家康が豊臣家を滅ぼすときに、彼女は強制的に離縁させられる。一方的な離縁であったために彼女は縁切寺である満徳寺に一時入れられた。ちなみに彼女は秀頼の庶子を養女にして命を助け、鎌倉の東慶寺に入れている。後の天秀尼である。彼女は秀頼との離縁後、本多忠刻に恋して結ばれた。しかしせっかく生まれた男子は夭折。正室といえども男子を生まなくてはその地位は確立しない。よって江戸城へ戻らされた。竹姫は大奥のあるじとなったが、その後落飾して天寿院となり、家光の死後は徳川宗家の最長老となって陰の実力者となって手腕を振るった。

東福門院和子(水江漣子):東福門院こと徳川和子は徳川秀忠の娘で、後水尾天皇に嫁いだ女性である。幕藩権力を確立するため、彼女は後水尾天皇に14歳で入内させられた。武家の娘を女御に迎え入れるのは平清盛の娘徳子以来のことで、後水尾天皇は抵抗したという。入内に際して幕府から贈られた進物も莫大で、権勢は朝廷を圧倒していたから、後水尾天皇としても承知するほかない。秀忠が京都に入るにあたっては、公家たちも這いつくばって迎えた。そして和子は待望の皇子高仁を生んだがわずか3歳で死去。次の皇子も生まれてすぐ亡くなった。後水尾天皇は幼い興子に譲位。約860年ぶりの女帝である。なお後水尾天皇が譲位したのには、紫衣事件が影響したとみられる。紫衣事件とは、元和以来、主な寺院の住持の出世したり紫衣を与えられて任官昇進をするときに幕府の事前の許可を得て天皇が綸旨を下すことになっていたのを、朝廷はそれを無視して勝手に綸旨を与えており、それを寛永4年に幕府が無効だと宣言し、綸旨を没収した事件である。これによって大徳寺の沢庵宗彭らは流罪となった。幕府としては大寺院と朝廷との直接的な関係を断ち切ろうとし、後水尾天皇を中心とする朝廷はそれに抵抗したということになる。ともかく中宮和子は後水尾天皇の譲位によって東福門院となった。後水尾天皇は上皇になってかえって多くの女性と子をもうけたが、東福門院との関係は冷え切ったものではなかったことは確実だ。そしてそれは千洞御所を中心に宮廷文化が花開く時代でもあり、東福門院は王朝文化復興に大きな役割を果たした。

天璋院(来水明子):天璋院こと篤姫は、徳川第13代将軍家定の御台所(正室)である。彼女は徳川幕府最後の十数年、実質的に江戸城の女主人であった。彼女は薩摩藩島津家の出で、島津斉彬の養女となり、さらに近衛家の養女となって将軍家に輿入れした。これは薩摩がゴリ押ししたのではないが、当時一橋慶喜の擁立を図っていた薩摩は、篤姫を通じて大奥工作をする腹づもりだったと見られる。しかし慶喜擁立が失敗し、結婚後わずか2年で夫家定だ死去。未亡人となった篤姫は天璋院となった。皮肉なことに薩摩藩は幕府と敵対していくが、江戸城の無血開城にあたっても篤姫の存在は斟酌されたに違いない。しかし天璋院は徳川家を離れること無く、最後まで徳川家の夫人として生き、明治16年に死んだ。

和宮(田中澄江):和宮は、公武合体の象徴として徳川第14代将軍家茂に嫁いだ皇女である。直宮と将軍との結婚は、霊元天皇の皇女八十宮の7代将軍家継との婚約以来であった(家継が夭折したため実際には結婚していない)。和宮はすでに有栖川熾仁と婚約しており、孝明天皇も難色を示したが、幕府は朝廷の権威を借りるため、かなり強引に和宮との婚儀を進めた。であるだけに、この婚礼は幕府の威信をかけて莫大な資金が投入された。一方で、婚礼に際して江戸でも御所風にすることという条件があったにもかかわらず、いざ和宮が江戸城に入ってみれば武家風であり、和宮の意向は通らなかった。ただ一つ救いだったのは、夫家茂が和宮を愛し、夫婦の間はむつまじかったということである。それでも和宮は身長がたった4尺しかなく強健でなかったためか二人の間には子供は生まれなかった。幕府が倒れると和宮は京都へ帰り、明治10年に脚気衝心で亡くなった。

通読してみて面白かったのは、「天璋院」と「和宮」の章の比較である。幕末、幕府に送り込まれながら、その母体が反幕的になっていったという点で天璋院と和宮には共通項が多い。夫に早くに先立たれたのも同じである。しかし維新後には、天璋院はあくまでも徳川側を貫いたのに対して、和宮は幕府をすぐに見限り京都へ帰ってしまった。こうしたことから、「天璋院」の方では和宮はいやいやながら幕府に嫁ぎ、ついに婚家に染まらなかった情の薄い女だと描かれる。一方「和宮」では、運命に翻弄されながらも筋を貫いたいじらしい女性として描かれる。一体どちらが実態に近いのだろうか。「天璋院」では「和宮がいかにも夫思いの優しい妻であったかのように言いなすのは、どれもみな明治も後半の、天皇制全盛の時代になってから作られた美談であり、神話である(p.205)」と一蹴する。おそらくこちらが真実なのだろう。

ところで和宮には一つ不思議な点がある。和宮の死体には左手の手首から先がなかったのだ。公武合体の象徴であればこそ、和宮は恨みを買うに足りる存在だった。おそらくそれは兇徒によって傷つけられたものなのだろう。

徳川幕府を女性から見る好著。