2020年12月22日火曜日

『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著

倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。

倭寇と一口に言っても、時代も場所も様々であり、日本人も朝鮮人も中国人もおり、その目的も略奪から交易まで多様だった。そもそも、大陸では秀吉の朝鮮出兵も「倭寇」と見なされており、「倭寇」はカッチリとした歴史概念ではない。

広義に考えれば倭寇は日本と大陸の関係が生じてから20世紀に至るまで存在していたのであるが、本書では狭義の倭寇を叙述の対象とし、その活動が最も激しかった「14〜15世紀の倭寇」・「16世紀の倭寇」にフォーカスして述べる。

なおこの二つは、時代が違うだけでなく、その性質が全く異なるものであるため区分されている。人によっては「前期倭寇」「後期倭寇」と呼ぶこともあるが、この用語では連続したものの前期と後期に区分しているというイメージとなるということで本書では採用されていない。

14〜15世紀の倭寇

【高麗における倭寇】 高麗は、元の侵攻によって存亡の危機を迎え、空前の混乱状態となって警察・軍備もグダグダになった。すなわち、沿岸警備が疎かになり、この空隙を塗って倭寇の活動が急激に活発化したのである。1350年から高麗王朝が倒壊した1392年までの約40年間、倭寇は朝鮮半島を荒らし回った。

この頃の朝鮮半島の倭寇は、略奪行為が中心だった。倭寇は船数数百、兵数数千というような大軍で押し寄せ、騎馬隊までも引き連れていた。彼らは糧食を奪い、また人も掠って奴隷として売っていた。

もちろん、こうした不法行為に対して、朝鮮側は日本に対して抗議を行った。高麗時代はその効果は限定的であったが、李氏朝鮮が成立すると太祖李成桂は室町幕府に倭寇の禁止を要求する。足利義満はこれを受けて賊船を禁止し、また被虜人を送還して朝鮮との友好的な関係を樹立した。

さらに、李氏朝鮮は、それでも活動する倭寇には懐柔策を以て当たった。投降すれば土地や家財を与え、妻を娶らせ、また貿易の権利を与えて優遇するというものだった。倭寇(対馬、壱岐、松浦地方の人が多かった)はこれに続々と従った。こうして降伏した日本人は「投化倭人」などと呼ばれ、やがて朝鮮政府の中枢にまで入り活躍していく。

また、朝鮮は倭寇への懐柔策として日本の諸豪族に通商の許可を与えた。こうして朝鮮との貿易が活発化。ただしあまりに多くの豪族(の使節)が朝鮮に渡航してその接待が負担になったため後に貿易は制限する方向となった。ともかく、李氏朝鮮政府は、日本とちゃんとした外交関係を樹立し、倭寇として活動していたものを「投化倭人」や貿易商人へ変質させることで倭寇の猛威を収束させた。

【中国における倭寇】元と日本とは正式な国交はなかったものの、両国間で貿易は盛んに行われた。特に寺社の造営費用をまかなうために大寺院が貿易船を派遣した。また禅僧の往来も多かった。この時代、貿易を目的に渡航して、思うような成果が出ない場合に略奪を働いた場合が多かったらしいが、元代の史料はあまり残っていないので実態はよくわからない。

明代には、倭寇の活動はかなり激しくなる。その内容は、高麗の場合とほぼ同様であった(時代的にも同じ)。明の太祖洪武帝は、国際秩序の確立のためにも倭寇の問題を解決しなければならなかった。洪武帝は懐良親王に使節を送り、懐良親王を日本国王と認めて国交を開こうとしたが、懐良親王は今川了俊らに抑圧されその任を果たすことはなかった。

一方、この時期、明では洪武帝による功臣の粛清に関してもめ事があり、その余波によって日本との通交は断絶、また中国人民が海上に出ることを禁じた「海禁政策」を強行した。これにより諸外国との明との通交は朝貢一本に絞られることとなった。

足利義満は、征夷大将軍を譲り、剃髪して、国政の官職から離れてから、洪武帝没後の応永8年(1401)、明に使節を送り通商を求めた。彼は律令体制外にある一種の「自由人」として、日本国王として振る舞えた。明では義満を日本国王と認めて巨大な金印を送り、日本を中国中心の国際秩序(華夷秩序)に位置づけ倭寇の鎮圧を命じた。これに応じて義満は倭寇の取り締まりを行い、そのために倭寇の活動は下火となっていった。

義満死後、日明間の通交が断絶していた時期には、倭寇の船団が明の防衛によって全滅に近い被害を受けた「望海堝の戦い」があり、また朝鮮が倭寇の本拠地と見なした対馬を征伐する「応永の外寇」が起こった。幕府の取り締まりや、これらの戦いで15世紀には倭寇の活動は終わりを告げた。

それを埋め合わせるように、東シナ海では貿易が活発になっていく。明が海禁政策をとったことで、琉球が東南アジアとの中継貿易のハブとして栄えることとなった。また、幕府やその傘下の豪族(特に大内氏と細川氏)、堺の商人たちが綯い交ぜになって行われたのが明への朝貢の形をとった日明貿易である。応永8年(1401)[前出]から天文16年(1547)に至る約150年間に19回、遣明船が派遣された。

明の海禁政策は、中国の国民が海上に出ることを禁じた政策だが、多国間の貿易が盛んになる中で国家がこのような規制を行うことは無理があった。そのため、役人に賄賂を送って行う密貿易が盛んになっていき、15〜16世紀になると密貿易の方が主流になってしまった。

また、遣明船が入港していた寧波では、大内氏と細川氏の争いから「寧波の乱」が起こった。この結果遣明船は大内氏が独占したものの、大内氏の没落とともに遣明船は終止符を打つ。

一方、この時期にポルトガル商人たちが東シナ海を頻繁に訪れるようになった。明ではポルトガル商人たちを倭寇と同然に見なしたが、沿岸の住民たちは彼らと交易を望み、密貿易が行われるようになった。その中心が雙嶼(そうしょ:リャンポー)である。これは寧波の東方に浮かぶ島で、許棟(きょとう)の兄弟が仕切って一大貿易拠点となった。その傘下で活躍したのが有名な王直である。

しかし、嘉靖27年(1548)、雙嶼は大摘発によって潰滅させられた。許棟は捉えられ、王直は逃亡、賊徒は多数殺され、船は焼き払われた。これを主導したのが朱紈(しゅがん)という剛直な官僚であった。だが朱紈のこの強引なやり方は批判され、後に彼は自害し、その後海禁は緩むこととなった。

16世紀の倭寇

王直は以前から日本人と関係を持ち貿易を行っていたので、逃亡後、私貿易が出来る場所として五島、追って平戸を拠点とした。平戸での彼は二千人の部下を擁し、豪奢な屋敷に住んで王者さながらの生活を送った。彼は学問に明るく、とかく争いが起こりがちな密貿易における調停者としての資質にも優れていた。まさに王直は倭寇国の王であった。

また王直は、中国大陸においても舟山群島の瀝港(れきこう)を半ば黙認された形の密貿易拠点とすることに成功した。しかしやがて瀝港も明政府によって掃討され、潰滅してしまった。こうした摘発・攻撃を受けたことは、密貿易団の性格を変えていった。雙嶼時代は、不法行為ではあったが平穏に貿易が行われていたのであるが、雙嶼潰滅後の密貿易団は武装するようになり、海賊化していく。嘉靖32年(1553)、王直は倭寇の大船団を引き連れて中国沿岸を襲った。こうした劫掠は「嘉靖大倭寇」と呼ばれ嘉靖35年頃まで続いた。

なお、王直と同類の海賊の首領に、徐海、陳東、葉明がいた。このうち、徐海は日本では明山和尚と呼ばれて尊敬された人物で、大隅に縁があったようだ。陳東は、伝説では薩摩の領主の弟というが、その真偽はともかく薩摩人を多く部下に持っていた。嘉靖大倭寇は、現地住民や日本人、ポルトガル人などと協力しながら展開した反政府的な寇掠であった。なお「倭寇」といっても、この頃の倭寇の主体は中国人で日本人はそれほど多くなかった模様である。

一方、明では倭寇対策が重要な政策課題となった。しかし海防の責任者(総督)は次々に更迭され、指揮命令系統は混乱していた。そのために倭寇の活動が可能となったのである。嘉靖35年、そんな中で総督になったのが浙江巡撫 胡宗建である。彼は日本に使者(蒋洲、陳可願)を派遣し、王直に「もし帰国するなら、海禁を緩めて貿易を許可し、罪は問わない」と利を以て誘った。王直はこれを信じ帰国したが、王直の罪を許すべきでないという廷義によって、嘉靖38年(1559)斬首された。胡宗建は、結果的には王直を騙し討ちにしたことになる。

こうして王直が討伐されたことは、他の倭寇集団を弱めることになり、徐海の一党も潰滅。倭寇はその後もなくなったわけではないものの、かつてほどの勢いはなくなった。

そして明の隆慶元年(1567)、200年にわたった海禁令が解除され、中国人の海外渡航や貿易が許可されることとなった(ただし日本への渡航は引き続き禁止された)。こうして倭寇出現の根本原因が取り除かれたため、16世紀末には倭寇の活動はほぼ終熄した。

倭寇の大きな出現原因は、日中間の貿易が自由化されていなかったにも関わらず、互いに貿易の必要性は大きかったことであった。例えば、ちょうど日本は戦国時代で、鉄砲の火薬のために硝石を大量に必要としたが、日本では硝石が産出せず、中国から輸入するしかなかった。そのため非合法ルートの貿易が必要になるのである。その一つが倭寇だったように思われる(本書でははっきりそう書いてはいない)。

もちろん、生糸、水銀、古銭(日本には自国の鋳銭がなかった)、薬材なども日本の需要は大きかった。また『論語』『大学』『中庸』といった古書(古典)も重要な輸入品であった。

それに関して、ちょっと面白いのは、日本は朝鮮からたびたび「大蔵経」を輸入しているということである。高麗では元の侵略を避ける願を掛け、国家の総力を挙げて「高麗版大蔵経」六千数百巻を彫造していた。日本はこれを盛んに求め、康応元年(1389)から天文8年(1539)までの150年間に83回も「大蔵経」を求め、43部が渡来している。足利義持などは版木までも要求した(当然断られた)。なぜ日本は「大蔵経」をこぞって求めたのか興味が湧いた。

ところで、倭寇は中国人の間に日本人の凶暴な印象を与えたが、一方では、倭寇の時代を経たことで、中国の日本に対する認識が一新されたという副産物があった。それまでの中国には『魏志倭人伝』くらいしかまとまった日本の情報がなく、日本へも無関心であった。だがこの時代、中国は倭寇対策のために日本研究が盛んに行われ、日本に関する正確で具体的な情報がまとめられた。その主なものは次の通りである。

『日本国略考』(1523):定海薜俊(せつしゅん)による明代日本研究書の先駆。所収の日本地理図は中国における最古の日本地図。
『日本図纂』『籌海図編』(1561、1562):鄭若曾が蒋洲・陳可願に聞き取りし、また様々な取材と情報収集を経てまとめたもの。倭寇研究のバイブルとなり後の多くの日本研究の書物が『籌海図編』の記述を踏襲した。
『日本一鑑』(1565):豊後大友義鎮の下に滞在した鄭舜功の書。戦国時代の日本を知るうえでも優れた史料。日本人の美点を多く認め、中国人の日本人観を一変させた。
『日本風土記』(1592):侯継高『全浙兵制考』の付録。倭寇対策よりも、日本の事物を知ることを楽しんだ様子の書。

倭寇は、いろんな意味で中国・朝鮮と日本の間にあった存在だった。日中・日朝の関係が確立し、穏やかな交流が行われていれば存在し得なかった。いくら利が大きかったにしても、討伐されてしまえば意味はない。そこに彼らが存在する隙間があったからこそ、活動できた。軍事・防衛の隙間、交易の規制の隙間があったということだ。ということは、彼らを理解するためには、中国・朝鮮と日本の外交関係、そしてそれぞれの国の内政を理解しなくてはならない。その編み目がほころんだ部分に、倭寇の生きるフィールドがあった。だが、私にはその基本となる前提知識がないので、本書をしっかり理解できたのか心許ない。

明や李氏朝鮮の歴史、室町幕府の外交政策などを勉強してから、改めて本書を読んでみるとかなり理解が進むのではないかと思った。

倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

【関連書籍の読書メモ】
『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。倭寇が活躍した時代、薩摩ではまた別の形の密貿易が行われていた。

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2020年12月10日木曜日

『王法と仏法—中世史の構図』黒田 俊雄 著

仏教をキーにして中世社会を考察する論文集。

黒田俊雄は、「顕密体制論」によって中世(鎌倉・室町時代)の仏教の見方を一変させた。約50年前の話である。

鎌倉時代といえば、親鸞や一遍、日蓮や栄西といった「鎌倉仏教」の時代であると誰もが思っていた。ところが同時代資料を繙いてみれば、「鎌倉仏教」はあまり社会的影響力を持っていなかった。むしろ、天台宗と真言宗、そして荒廃していたとはいえ南都諸宗といった旧仏教=「顕密仏教」が国家と癒着して強大な権力を持ち、政治権力とは異なる原理の権門として機能していたことが明らかになった。これが「顕密体制論」の乱暴な要約である。本書は、この考えから書かれた論文をまとめたものであり、黒田史学のエッセンスに触れることができる本である。

以下、気になった論文についてメモする。

「王法と仏法」:中世より前の、平安時代の仏教は「鎮護国家」のための国家の下部機関的な意味合いが強い。ところが中世になると、仏教は独自の立場を築き、「王法と仏法は車の両輪である」というような「王法仏法相依論」が仏教側から盛んに言われるようになった。確かに顕密仏教は国家と癒着はしていたが、王法と仏法を同列に並べられるようになったところに、中世の仏教が獲得した力が象徴的に現れている。

 「日本宗教史上の「神道」」:近世以前には自立した宗教としての「神道」は存在しなかったことの論証。『日本書紀』にも既に「神道」の語は見えるが、それは「道教」を意味していたのではないかという指摘が面白い。その他、著者は時代毎の「神道」という語の用例を検討して、近世以前の「神道」は独立した宗教を意味していなかったことを示している。「神道」が仏教と対置される「日本の民族的宗教の名称」の意味が確立したのは、林羅山その他による「儒家神道」以降だという。

「「院政期」の表象」:院政期をどう見るか。院政期は、古い秩序が崩壊して新しい秩序へと移行するまでの混乱期であったのか、それともそれ自体が清新なエネルギーに満ちた躍動の時代であったのか。著者はいくつかの立場を比較検討して、公家・武家・大寺院などの権門が並立して一つの秩序をつくっていた多彩な時代であると結論づけている。政治権力の在り方があまりにもややこしく、これまで避けていた院政期について興味を持った。

「歴史への悪党の登場」:14世紀は「悪党の世紀」であった。悪党は既存の社会秩序からはみ出し、反権威的で、自由であるが地に根を下ろしたふてぶてしさがあった。著者は悪党を社会変動の申し子と見て、「悪党のやったことは(中略)いちがいに称讃できるようなものではない」としながらも、その存在を最大限に評価する。それは、古代以来の諸権威に抑圧されていた人びとの精神を解放する触媒となったのである。「悪党は、正義や愛や清潔や真理を掲げたのではなくむしろそれにどんでん返しをくらわせ」た。時代も場所も違うが、フランスのフランソワ・ヴィヨンが思い起こされる。

「中世における武勇と安穏」:中世は長く続く合戦の時代であったが、だからこそ人びとは平穏な暮らしを希求した。「安穏こそがこの世における至高・無上・究極の価値」だった。古代仏教が「欣求浄土」であるならば、中世仏教は「現世安穏、後生善処」に帰結する。生き残るために武勇を必要とすることは宿業と感ぜられ、武士たちが仏教を熱烈に必要とした。しかし農民を中心とする大多数の人びとは、平穏な暮らしを築こうとする活発な動きがみなぎっていたのであり、一揆もそういう視点から捉え直すことが必要である。

本書には、これら雑駁な論文が収められており、「黒田史学」のエッセンスとはいえ(というかエッセンスだからこそ)全体像が若干見えにくい。しかし、平雅行による巻末の解説「黒田俊雄氏と顕密体制論」が非常に明快で、参考になった。黒田史学を「武士中心史観からの脱却」と位置づけ、歴史学への貢献や今に残された課題をまとめて、さらに本書所収の論文について簡潔に紹介している。

やや専門的だが、今なお日本中世の社会の見方を再考させる力を持った論文集。

【関連書籍の読書メモ】
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html

中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

 

2020年12月7日月曜日

『魔群の通過—天狗党叙事詩』山田 風太郎 著

水戸の天狗党の長征とその悲劇を描く小説。

天狗党とは、水戸藩の尊皇攘夷派のことである。よく知られているとおり、幕末、水戸藩には「水戸学」と呼ばれる国粋主義的な歴史学・政治哲学が生まれた。水戸学は、国学と合流し、尊王攘夷・倒幕運動の原動力になっていく。

徳川斉昭の擁立にも成功した天狗党は水戸藩政を一度は牛耳るが、安政の大獄によって弾圧され、佐幕の保守派(諸生党)の方が藩政の主導権を握るようになる。こうして藩政から遠ざけられた天狗党は、藩の首脳部はもちろん、攘夷を約束しながらいっこうにそれを実施しない政府にも不満を抱き、その一部が一種の示威行動として挙兵する。

ところが、この無謀な、というよりも本来は単なるデモンストレーションだった行動が、不思議な運命の悪戯によって、同調するつもりがなかった他の天狗党の面々をも巻き込んで一大内戦へと発展していく。幕末明治にかけて、時の政府に対抗して起こされた戦争は数多いが、純然たる藩内の内戦と呼べるものはこの「天狗党の乱」が唯一である。

しかも、この内戦は日本の歴史を通じて稀に見るほどの殲滅戦であった。水戸藩は、天狗党、諸生党の両派が親類縁者まで互いに殺し尽くして人材が払底した。明治政府の成立に果たした水戸藩の役割は決して小さくなかったにもかかわらず、結局政府に高官を輩出することがなかったのはこのためである。水戸藩の自滅を招いた戦い、それが「天狗党の乱」であった。

本書は、この内戦のうち、追い詰められた天狗党が、天皇と将軍徳川慶喜(水戸藩主徳川慶篤の弟にあたる)へ申し開きを行うため京都へ行軍したことを題材とした小説である。

天狗党約千人は、無用な戦を避けるために大変な難路を進んだ。例えば、真冬にもかかわらず軽装で登山して峠を越え、食料補給はその場しのぎだった。この行軍は甘い見込しかもたず、全く無計画的であったが、超人的な努力と、多くの人命を犠牲にして行われる。天皇と将軍は、きっと天狗党の衷心を理解してくれるだろう、という希望的観測だけを頼りにして。

この無謀な行軍には、諸生党の首魁級の係累である二人の美しい女性が、人質として同行させられていた。本書の小説的な中心は、この女性二人をめぐって若い主人公たちが揺れ動く模様であり、これはおそらく創作であるが非常に面白く読んだ。

ところで、天狗党の乱を書こうと思えば、どうしても水戸学や尊王攘夷運動ということを説明せずにはおれないはずなのに、実は本書にはそういうくだくだしい説明は一切ない。そういう背景は、何となく既知のものであるかのように端折って、すぐさま本題に入っていくその手法が、小説として大変うまくできている。

いや、実際のところ、天狗党にしろ諸生党にしろ、その元は思想闘争だったかもしれないが、挙兵直後から尊王とか攘夷といったことはどこかへ吹っ飛んでしまったようなのだ。例えば、戦後処理では、勝者である諸生党は天狗党を一気に352人も(!)死刑にする。その上、妻子までも斬首や永牢という重刑を加える。これなどは、戦国時代はいざ知らず、近世社会においては例を見ない凄まじいものである。これが「思想」闘争の結果と言えるか。

さらに、倒幕が進んで佐幕派の諸生党が没落し、天狗党の残党が息を吹き返すと、今度は彼らが諸生党の大粛清に乗り出す。その中心となったのが武田金次郎(天狗党の首謀者の一人武田耕雲斎の孫)であるが、彼は天狗党の乱で親類縁者が斬殺された復讐のため、修羅の道に入ってしまった人物だ。本書は、なぜ武田金次郎は修羅にならなければならなかったのか、を説明したものといえるかもしれない。そしてそれは、尊王攘夷のような思想には関係がなかった。

思想ではなく、血の応酬が本質だったのだ。

血の応酬であるがために、諸生党と天狗党は、お互いを滅ぼし尽くさずにはおれなかった。彼らのように、佐幕開国と尊王攘夷が藩論を二分した藩は多いが、その対立が内戦まで行き着いたのは水戸藩だけであり、その厖大なエネルギーの無駄遣いによって自滅した藩も水戸藩以外にない。

ところが本書の筋立てでは、この、傍から見ると狂っているようにしか見えない水戸藩が、実際には少数の過激派を除いてそれなりに穏当な道を選ぼうとしているのだ。しかし結果的には、水戸藩は破滅への道をひた走っていた。水戸藩が内戦まで行き着いた原因は、水戸の風土や思想、気質ではなく、混乱の時代の巡り合わせに過ぎなかった、と作者は考えているようだ。それが当を得たものなのか、私には判断できない。しかし、その内実、戦乱に参加したものの心理の描き方は非常にリアルに感じた。

「天狗党の乱」を通じ、対立がエスカレートして自滅まで至る人びとの愚かさを描いた傑作。

【関連書籍の読書メモ】
『フランス・ルネサンスの人々』渡辺 一夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post.html
フランスでルネサンス期に生きた12人の小伝。争いや失敗を避けることは十分可能なのに、破滅へと猛スピードで進んでしまう危険性に目を向けさせる本。※天狗党の乱とはもちろん無関係。

 

2020年11月23日月曜日

『ベートーヴェンの生涯』青木 やよひ 著

実証的な資料によって構成したベートーヴェンの伝記。

ベートーヴェンの生涯は、長く誤解されてきた。晩年の秘書であったアントン・シントラーによって偏見と誇張に満ちた最初の伝記が作られて以来、それに引きづられて非人間的な孤高の芸術家像が一人歩きするようになったからである。

ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』も(文学的価値は別として)その一つである。ロマン・ロランは、自身でもベートーヴェンについてかなり調べながら、ついにシントラーが歪めたベートーヴェン像を修正することができなかった。こうしたことから、ベートーヴェンは世紀末のウィーンの場末で生涯を過ごした「陰気で悲劇的な芸術家」であると考えられてきた。

そもそも、シントラーの伝記は真実のベートーヴェンを伝えるために書かれたものではなかった。彼はベートーヴェンが死ぬ前のたった3、4ヶ月秘書を務めただけなのに、あたかも長年ベートーヴェンに献身的に仕えたように書き、しかもベートーヴェンが残した300冊とも400冊ともいわれる『会話帳』(筆談に使った)の半数以上を無断で破棄し、残したものも自分に都合良く改竄しているのである。シントラーは、英雄的な芸術家の内面を知っている唯一の人物になれる、という誘惑に勝てなかったのだった。であるから、シントラーの伝記には信頼性は全くないのである。

そこで著者は、実証的な資料によってベートーヴェン像を再構成するという仕事をライフワークとし、50年に及ぶ研究の集大成として著したのが本書である(本書にはドイツ語版が存在し、そちらの方が本体のようだ)。

まず、本書を読んで従来のベートーヴェン像と違うと感じたのは、今の言葉でいえばベートーヴェンは発達障害っぽいところがあるということである。彼は、偏屈とか狷介であることとは違うのだ。例えば彼は、自分のルールに従って行動していたので、世間的にNGとされることが理解できなかった。世間のルールを無視したのではなくて、「暗黙のルール」が理解できなかったのである。例えば、ベートーヴェンは既婚者を含む女性と対等な友達づきあいをしようとした。しかし当時は求婚者として近づくのでなければ、女性と親しくしようとするのはNGだったのである(ついでに言えば、ベートーヴェンは惚れっぽかったようだ)。こういう、「暗黙のルール」にベートーヴェンは弱かった。

しかしそれは、移りゆく人びとの流行を全く無視することを可能とし、自らの内的な芸術性のみを信じることに繋がった。ベートーヴェンの音楽は、旧来の音楽家や聴衆には耳障りで狂気じみているように感じられたが、十分に訓練された耳を持った人や、新しい時代を求めていた民衆には熱狂的に迎えられた。モーツァルトも、若いベートーヴェンの演奏を聴いてその新しさに興奮している。

だが、ベートーヴェンが古い音楽を無視していたかというと事実は全く逆で、ベートーヴェンは独り立ちした後もいろいろな先生に教えを請い、音楽技術の習得に貪欲だった。また、自らのスタイルが確立してからもバッハのフーガの研究を行うなど、一生を通じて学び続けた人だった。 そして、聴衆が求める気軽な音楽がどういったものかを理解し、生活の糧のために大衆に受ける音楽を作ることも可能だった。そういう点が、自分の作りたい音楽を愚直に作るしかできなかった不器用なモーツァルトとの違いである。

本書は、従来のベートーヴェン像を修正するということを目的としているが、これまでの伝記の否定に傾いておらず、むしろ平易にベートーヴェンの伝記を記述することに努めている。著者はベートーヴェンの「不滅の恋人」がアントーニア・ブレンターノであることを初めて指摘し、それが後に証明されたが、そうしたこともくだくだしく書いておらず、全体的にスピード感があって非常に読みやすい。だが新書で300ページほどの小著でもあり、考察については弱い。

例えば、ベートーヴェンは創立されたばかりのボン大学に入学し哲学科で学んでいるが、なぜロクに中等教育を受けていない(らしい)ベートーヴェンが大学に入学したのか、といったことは突っ込んで書いていない。しかも哲学科を選んだのは何故なのか。

なお話が逸れるが、ベートーヴェンと同い年で哲学科の同級生だったのがアントン・ライヒャ(アントニーン・レイハ)である(後に音楽家として大成した)。ライヒャはベートーヴェンの生涯の友人(親友ではないにしても)の一人だった(はず)だが、本書にはライヒャとの交友についてほとんど書いていない。こういう部分は、既存の伝記を参照すれば十分だとの判断だと思う。本書は「ベートーヴェンの伝記の決定版!」みたいな気負いでは書かれておらず割と簡約である。それが長所でもあろう。

偉大な音楽家の真実の姿を平易に述べる、ベートーヴェン伝の新しい基本。


『荀子』常磐井 賢十 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

荀子の主要な思想。

荀子の時代、つまり紀元前300年前後は、戦国時代の末期であり、社会は乱れに乱れていた。それに先立つ春秋時代では、戦も名乗り合う一騎打ちのようなものが行われていたが、戦国時代には集団戦となり、殺し合いは大規模になった。だまし討ちや権謀術数、下剋上が横行し、社会の秩序は全く失われてしまっていた。

そんな中、斉という国では、学者を優遇して国都臨淄(りんし)の城門の一つである稷門のそばに邸宅を与え、大夫(家老)の待遇を与えて専ら学問に専念させた。そうして、鄒衍、田駢・淳于髠(じゅんうこん)、慎到などの英才が集まってきて当時の学問の中心となった。この集団を「稷下の学士」という。荀子はこのころ斉にやってきて「稷下の学士」に加えられ、3度もその首席に選ばれた大学者であった。

こういう環境の中で、荀子の思想は磨かれた。その思想の核心は「礼」である。

荀子は、人間には欲望があり、快楽を好み、利己的な存在であることを認める。であるから、そうした性情が何の規制も受けないとすれば、互いの欲望や利害が衝突し争いが起こらずにはおれない。よって「礼」に従って欲望を充足させることで秩序を守る必要があるのである。ここで注意すべきは、荀子は「欲望の充足」自体は否定していないということである。「礼」は何かを我慢することではなく、「欲望の充足」を目的としつつ、それをスマートに実現するものであるらしい。私は、「礼」は「作法」であると理解するのがよいのではないかと思った。

また、荀子は人間は誰しも生まれつきの能力は一緒だという。聖人も賤人も、持って生まれた能力に何の違いもない。しかし聖人は努力して能力を身につけ、賤人は努力することができないから結果として人間の違いが生まれるのである。よって優れた師に出会い、日々たゆまず学び、向上していくことが必要である。だから人間には環境こそ最も大事なものだという。荀子といえば「性悪説」が有名であるが(ただし、本編にはあまり「性悪」とはでてこない)、「性悪説」の行き着くところの結論として、環境や努力の重要性が力強く謳われているのである。

しかし、この思想から当然導かれるべき「人間の平等」が荀子にはない。荀子は階級の差別を肯定する。「誰しも生まれつきの能力は変わらない」といいながら、身分差別を肯定しているところが荀子の思想の不徹底な点である。全体的に、荀子の思想には新しい社会を建設していこうという気迫に乏しく、むしろ既存の社会の仕組みを肯定した上でそれをいかに平穏無事に運営させていくかという視点が強い。もちろん、これは読んでいて何か物足りない。しかし、荀子の時代は、戦国時代の中でも社会が非常に混乱していた時である。おそらく荀子には新しい時代を建設するよりも、社会秩序を維持したいという思いが強かったのだろう。

一方、荀子の思想にも革命的な点がある。それは、日蝕や月蝕、天災といったものを天意と認めず、単なる自然現象と考え、また占いを否定したことである。天は人治に相応して働くという「天人相関」の思想は伝統的に儒家の奉ずるところであったし、筮竹や亀卜によって天意を伺って政治を行なっていくのが古来のあり方だったが、荀子においてはこれが全く否定され、のちの法家へ続く道が開かれたのである。さらに全体的な立論の進め方においても帰納的に論拠を積み重ねていくことが多く、これは「科学的」といってもいい態度である。

しかしながら、荀子の思想には決定的な弱点がある。それは、彼の思想の核心である「礼」について、なんら批判的に検証していないことである。荀子はいつでも「礼」を根本に置く。では一体「礼」とは何であるか? 荀子はそれについて詳しく説明することはないのである。おそらくは、当時の人には「礼」とはこのようなものだ、ということが自明だったので詳らかに説明する必要を感じなかったのだろう。しかしこれは、当時の人の「常識」に頼った思想だと言わざるを得ない。

例えば、「礼論編」において、荀子は葬礼の重要さを力説している。儒家では父母の喪を足掛け3年(正確には25ヶ月)としており、これが長すぎるとの批判があり、特に墨子は葬礼を無意味だと論難した。これに対し、荀子は葬礼が社会秩序を維持するものであるとして擁護する。それの当否は措くとしても、どうしてその葬礼が成立したのか、3年の喪にどのような意味があるのか、そうしたことを検証せずに、無批判に旧来の習慣を肯定したことは不徹底であったと思う。常識に挑戦した墨子との大きな違いである。

とはいえ、荀子の生きた社会は、墨子や孟子の頃よりもずっと乱れていた。むしろこれまでの常識が通用しなくなってきた社会であった。為政者の質は落ち、その場しのぎの政策で民は疲弊していた。であるから、荀子には思想的一貫性よりも、社会秩序の維持を重視する傾きがあるのは無理からぬことである。

そして、そのような社会の様相は現代にも通ずるものがあり、特にその君主論は今にも十分に通用する。例えば荀子は言う。「聡明な君主は立派な人物を求めることに努力するのであるが、暗愚な君主は権勢を得ることに努力する」、「つまらぬ人物を重く用いて人民の上位において威光を振わせ、巧みに口実を設けて取るべきでないのに民衆から財貨をだまし取る。これが国を傷つけそこなう大災厄である」「聡明な君主は臣下と力を合わせることを好むが、愚かな君主は何もかも自分一人ですることを好むのである」、「君主の政治のしかたは、明るいのがよろしく、暗いのはよろしくない。開放的なのがよろしく、秘密的なのはよろしくない」云々。

なお、荀子の文章は論理的であるが、かなりくどくどしたところがあり、論旨の繰り返しも多く長ったらしい。人を説得せずにはおれない力強さはあるものの、大文章であるためそもそも『荀子』を読む人自体が少ないように思う。今の時代には向かない古典かもしれない。

本書は、『荀子』からその主要思想を伝える諸編を選んで日本語訳したもの。日本語訳自体はわかりやすいものの、注が語義の説明のみに留まり、簡単なのが残念である。もう少し解説的な部分もあれば理解の助けになったと思う。

思想の中心「礼」が弱点だが、乱世を生きる力強い思想の書。


【関連書籍の読書メモ】
『墨子』森 三樹三郎 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19.html

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。


2020年11月11日水曜日

『増補 無縁・公界・楽』網野 善彦 著

日本の中世・近世に存在した「無縁の原理」について述べる本。

「無縁」とは、縁がないということではなく、もっと広く「俗世の主従関係・親族関係・貸借関係等から離れ、訴訟・紛争などが停止され、自律的な自治が行われる場」の性質を指す言葉である。

例えば「無縁所」とされた寺の場合、そこに駆け込むと、追っ手は捉えることができず、借金の取り立ては不可能になり、たとえ科人であっても誅罰されないのである。そういう場——ある種の「アジール(避難所)」が、その形態は様々であったが中世から江戸時代にかけて存在し続け、幕府の統治とは違った意味での「自由と平和」を実現する場となっていた。

「無縁」をまとっていたのは「場」だけではない。例えば遍歴する芸能民・職人には、関所の自由通行を認められ、課役から自由なものが多く見受けられる。どうやら芸能と「無縁」には深い関係があるようだ。また「禁裏供御人(天皇・朝廷に山海の特産物や工芸品などを納めた人)」はこうした特権の発生に関わっていると見られる。さらに「女性」も「無縁」的であったかもしれないと示唆されている。

一方、寺の全てが「無縁所」だったわけではない。大名や家臣の氏寺のようなものは普通「無縁所」にならなかったし、「無縁所」になるためには古跡であるといった条件もあったようだ。

「無縁」は時代が下ると「公界(くがい)」という言葉でも表されるようになる。幕府の統治から外れた人を「公界者」と呼び、自治都市は「公界」と呼ばれた。さらに追って、こうした場は「楽(らく)」とも呼ばれる。「楽市場」とは、営業権の自由だけでなく、地子・諸役免除の場でもあった。

もちろん、公権力にとってはその力が及ばない「無縁所」などは好ましくなかったので、そこに圧力を加えてその特権を排除していくことが多かったのであるが、しかし一方で公権力は法制的に「無縁所」を追認していることもまた一般的であった。公権力を無効化する「無縁」の力は、公権力にとってやっかいなものだったように思うものの、必ずしも敵対的な関係ではなかったのである。

本書は、こうした「無縁」の様々な事物について、史料の片言隻句から推測していく、という微証の積み重ねの本である。よって、体系的な「無縁」の考察というより、「無縁」の世界を垣間見るとでもいうか、考察の入り口となるような論考である。ところが「無縁の原理は人類史に普遍的に存在する」といった大雑把な言明が飛び出してきたり、学問的にはやや脇が甘い点もあって、本書の初版発表時には、批判も多く寄せられた。

そこで著者が主要な批判に対して「補注」の形で応え、若干の論考を補ったのが書名の「増補」の意味である。 しかしながら、著者の立論は「補注」を含めてもあまり堅牢ではない。様々な微証はそれなりに豊富だが、まるで跳び石のようにあちこちに散らばっており、文字通り一筋縄ではいかない。私も、何か「無縁」についてわかったような、わからないような、狐につままれたような気分になってしまった。

そんなわけで、あまり明確に理解してはいないが、私なりに「無縁」の意味について述べてみる。

まず、中世(鎌倉・室町)の公権力は、「将軍—御家人」の主従制を基本的な統治原理としていた。特に鎌倉幕府は、公権力全てを掌握したのではなくて、法務局(土地の登記)と裁判所(紛争の解決)と軍事指揮権のみを保持した”半”公権力であった。 御家人というのは、将軍から土地を認定(安堵)されたことによって主従関係を持ったもので、今風に言えば法務局で登記してもらった人が御家人なのである。では土地を安堵されていない人(非御家人)と、公権力との関係はどうであったか。

例えば、裁判において御家人と非御家人が係争したとき、非御家人に不利な判決が出がちだったかというとそうでもないらしい。それに軍事指揮権は土地の給付とは名目上は関係なく、朝廷から委任された惣追捕使といった役職から発せられる権能だった(しかし実際に戦に動員されたのは御家人のみ)。「御成敗式目」でも、「御家人の場合はこうする、御家人でない場合はこうする」といった規定があるから、鎌倉幕府は確かに非御家人も統治していた。ただしそれは、主従関係で結ばれた統治ではなかったから、曖昧な部分を残した統治であった。

では、そもそも土地を持たない職人とか商人といったものは、鎌倉幕府の中でどのように位置づけられるのだろうか。裁判が起これば幕府に従わなくてはならなかったが、そうでなければ幕府の統治外の存在だったと言える。鎌倉幕府は法務局と裁判所と軍事以外の面では、明確な権能がないのである。幕府とは、形式上、朝廷から行政権の一部を付託されて成立していて、全統治権を保持しているわけではなかったから、統治権に隙間が大きかった。

私の理解では、「無縁」とはそういう「統治権の隙間」のことではないかと思う。大名や家臣の氏寺が「無縁所」にならなかったのは、主従制の中に組み込まれた存在だったからであろう。こういう場は幕府にはちゃんと統治権があるのである。芸能民・職人のような、(土地を安堵されないため)御家人になる可能性がない者が「無縁」的であるのもそういう理由であろう。

してみれば、「無縁」が存在し得たのは、統治権が未確立で、非中央集権的な封建社会であったからだという単純なことになる。著者がある種のロマンティズムをもって語っている「無縁」を、こういう統治権の面から理解するのは無粋なことかもしれないし、これだけで説明できることでもない。何しろ、「無縁所」で断たれるのは、公権力との関係だけでなく、婚姻関係など親族関係や金の貸借関係まで含まれる。つまり今で言えば民法も無効化される。公権力が保証しなくても自然発生的に認められていた(に違いない)民法まで無効化されるのが「無縁」の不思議なところである。

しかも、幕府はそういう統治権の隙間をしぶしぶながら認めて、そこに幕府とは異なる統治原理の別世界を建設するのを許していた。こういう考察をしていくと、結局「中世における幕府の統治権とは何か」という話になってきて、「無縁」とはちょっと違う話になってくる。しかし私が本書を読んで思ったのは、「無縁」の基盤となった法制的なものは何かということと、「非御家人から見る中世の歴史」はどんなものなんだろうか、ということだった。

「無縁」の世界という沃野を切り拓いた、荒削りだが触発されるところも多い論考。

【関連書籍の読書メモ】
『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html

中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。非御家人の一大勢力であった寺社の中世史。
中世の申し子とも言える寺社勢力を通じて当時の社会の内実を考えさせる良書。

 

2020年11月6日金曜日

『法華経』(現代語訳大乗仏典2)中村 元 著

法華経のエッセンス。

本書は仏教学者・比較宗教学者の中村元が折々にまとめた法華経(サンスクリット+漢文)の重要な部分の現代語訳とその解説を基本として、足りない部分を東方研究会 (中村が残した研究団体)[の堀内伸二]が補筆したものである。

よって本書は法華経の全文ではなく、そのエッセンスの解説である。

法華経はアジア諸国で「諸経の王」として重視された経典であり、日本の文化にも巨大な影響を与えてきた。これは紀元1〜2世紀の北西インド、クシャーナ王朝で編纂されたと見られ、特に韻文の部分が早くに成立した。この韻文(ガ—ター)はサンスクリット語でもパーリ語でもない言語(ガーター・ダイアレクト)で書かれている。

『法華経』は中国に伝えられると鳩摩羅什の翻訳を含め3種の翻訳が作られた。それほど中国人は『法華経』に深い影響を受けたということになる。特に天台大師智顗(ちぎ)は『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』という古典的な大作(三大部)を残し、これは日本にも大きな影響を与えた。

日本でも聖徳太子が『法華義疏』を著しているように、『法華経』は仏教伝来当初から重んじられ、天台宗が『法華経』を根本経典としたことから、天台宗を母体として生まれた諸派もまたこれを最も基本的な経典の位置づけとした。このように甚大な影響力を持った経典は他になく、『法華経』はまさに「諸経の王」である。

その内容であるが、まず冒頭(序品)の場面の壮大さはちょっと度肝を抜かれる。釈尊が何万人もの菩薩たちの前で教えを説き、その光で全世界を照らす場面である。このオープニングには、『法華経』の巨大な包容力がある世界観が表現されている。

具体的な思想については、長大なお経なのでとてもまとめられるものではない。そこで以下に気になった点だけ記す。

第1に、「一乗の思想」。悟りに至る方法・教えにはいろいろあるが、それは最終的には帰一する。大乗仏教は小乗仏教(上座部仏教)を批判していたのだが、『法華経』では小乗すら包摂する。仏は偉大な慈悲を持っているので、「南無仏」と唱えるだけでもみな救われる。

第2に、ストゥーパ(塔)崇拝の勧め。ストゥーパ(舎利=ブッダの遺骨を崇拝するための施設)は、仮に子供が戯れに作ったものであっても仏に救ってもらえるという。これは信仰心の有無を問題にしていないようで非常に気になる部分である(時衆の「信不信をえらばず」を想起させる)。塔崇拝の勧めは、日本では諸々の塔(五輪塔とか宝篋印塔とか)の造営に大きな影響を与えたと思う。

第3に、「回向の思想」。経典を読誦する功徳は他の人に「回らし向け」ることができて、それによってやがて全ての人がさとりを開くことができる(→普回向文「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」)(化城喩品)。

第4に、経典そのものを聖なるものと見なす思想。『法華経』をたもつ者は、そのまま如来であるとし、経典をたった一つの語句だけでも読誦し、書写し、記憶し、拝み、供養(伎楽や花で荘厳する)することは無上の功徳がある。言うまでもなく、この思想は日蓮宗に強く受け継がれた(法師品)。

第5に、 「久遠(くおん)の本仏」の思想。歴史的存在としての釈尊は既に入滅しているが、実は仏は永遠の昔(久遠)に悟りを開いており、それが方便のため人間として生まれて教えを説いたものであって、仏の本質は永遠不滅のもの(常住不滅)だという思想である。要するに、仏の教えは特定の人物によって説かれた「歴史的な」ものではなく、「永遠の」ものである(如来寿量品)。

第6に、観音崇拝の思想。『法華経』第25章「観世音菩薩普門品」は、『観音経』として独立して尊ばれた。これによれば観世音菩薩は、ちょっと礼拝したり、念じるだけでも、ただちに現れて災いを取り除き、いかなる苦境からをも我々を救ってくれるのだという。また我々の理解力や立場に応じて35の身に姿を変えて教えを説いてくれる(一般的に「三十三身」と呼ばれる)。『法華経』は主人公のようなものが登場しないお経であるが、観世音菩薩は法華経の精神を具現化したアイコン的存在といえる。

このように、『法華経』は様々な思想が盛り込まれており、ある種の編纂物のような趣がある経典である。こうした性格からか、著者は『法華経』を「宥和の思想」であるとまとめている。『法華経』においては、アレはダメだこれはダメだといった規制的な文言は全くといっていいほど出てこず、いかなる方法によっても、ほんの僅かな信心しかなくとも、仏の偉大な慈悲によって皆救われるという、包容力のある思想が展開しているのである。

しかし、『法華経』を至高のものとみなした日蓮宗が他宗排斥的になったのは皮肉なことだ。

なお、中村元の訳注・解説は大変丁寧で、非常にわかりやすい。本書では、漢訳を単なる翻訳と見なさず、一つの創造物として扱い、サンスクリット原文とほぼ等しい比重(むしろ漢訳の方が基本の部分も多い)で紹介している。 それは、日本では漢訳によって『法華経』が受容されているから、日本の思想との接続が考慮されているのである。

しかし、漢文の読み下し文は、伝統的な訓じ方に従っていない部分が多い(らしい)。それは伝統的な読み下し文が、意味が不明瞭になったり、日本語として体を成さないことがあるからで、著者は「そもそも漢文の読み下し自体に無理がある」との立場である。そこで本書では伝統にとらわれない合理的な読み下しが選択されている。これは『法華経』を聖典としている方々からすれば容認できかねることかもしれないが、元来の意味を正確に理解できるようになるのだからいいことだと思う。

壮大な世界観を持った「宥和の思想」の経典のわかりやすい解説。