2020年11月23日月曜日

『荀子』常磐井 賢十 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

荀子の主要な思想。

荀子の時代、つまり紀元前300年前後は、戦国時代の末期であり、社会は乱れに乱れていた。それに先立つ春秋時代では、戦も名乗り合う一騎打ちのようなものが行われていたが、戦国時代には集団戦となり、殺し合いは大規模になった。だまし討ちや権謀術数、下剋上が横行し、社会の秩序は全く失われてしまっていた。

そんな中、斉という国では、学者を優遇して国都臨淄(りんし)の城門の一つである稷門のそばに邸宅を与え、大夫(家老)の待遇を与えて専ら学問に専念させた。そうして、鄒衍、田駢・淳于髠(じゅんうこん)、慎到などの英才が集まってきて当時の学問の中心となった。この集団を「稷下の学士」という。荀子はこのころ斉にやってきて「稷下の学士」に加えられ、3度もその首席に選ばれた大学者であった。

こういう環境の中で、荀子の思想は磨かれた。その思想の核心は「礼」である。

荀子は、人間には欲望があり、快楽を好み、利己的な存在であることを認める。であるから、そうした性情が何の規制も受けないとすれば、互いの欲望や利害が衝突し争いが起こらずにはおれない。よって「礼」に従って欲望を充足させることで秩序を守る必要があるのである。ここで注意すべきは、荀子は「欲望の充足」自体は否定していないということである。「礼」は何かを我慢することではなく、「欲望の充足」を目的としつつ、それをスマートに実現するものであるらしい。私は、「礼」は「作法」であると理解するのがよいのではないかと思った。

また、荀子は人間は誰しも生まれつきの能力は一緒だという。聖人も賤人も、持って生まれた能力に何の違いもない。しかし聖人は努力して能力を身につけ、賤人は努力することができないから結果として人間の違いが生まれるのである。よって優れた師に出会い、日々たゆまず学び、向上していくことが必要である。だから人間には環境こそ最も大事なものだという。荀子といえば「性悪説」が有名であるが(ただし、本編にはあまり「性悪」とはでてこない)、「性悪説」の行き着くところの結論として、環境や努力の重要性が力強く謳われているのである。

しかし、この思想から当然導かれるべき「人間の平等」が荀子にはない。荀子は階級の差別を肯定する。「誰しも生まれつきの能力は変わらない」といいながら、身分差別を肯定しているところが荀子の思想の不徹底な点である。全体的に、荀子の思想には新しい社会を建設していこうという気迫に乏しく、むしろ既存の社会の仕組みを肯定した上でそれをいかに平穏無事に運営させていくかという視点が強い。もちろん、これは読んでいて何か物足りない。しかし、荀子の時代は、戦国時代の中でも社会が非常に混乱していた時である。おそらく荀子には新しい時代を建設するよりも、社会秩序を維持したいという思いが強かったのだろう。

一方、荀子の思想にも革命的な点がある。それは、日蝕や月蝕、天災といったものを天意と認めず、単なる自然現象と考え、また占いを否定したことである。天は人治に相応して働くという「天人相関」の思想は伝統的に儒家の奉ずるところであったし、筮竹や亀卜によって天意を伺って政治を行なっていくのが古来のあり方だったが、荀子においてはこれが全く否定され、のちの法家へ続く道が開かれたのである。さらに全体的な立論の進め方においても帰納的に論拠を積み重ねていくことが多く、これは「科学的」といってもいい態度である。

しかしながら、荀子の思想には決定的な弱点がある。それは、彼の思想の核心である「礼」について、なんら批判的に検証していないことである。荀子はいつでも「礼」を根本に置く。では一体「礼」とは何であるか? 荀子はそれについて詳しく説明することはないのである。おそらくは、当時の人には「礼」とはこのようなものだ、ということが自明だったので詳らかに説明する必要を感じなかったのだろう。しかしこれは、当時の人の「常識」に頼った思想だと言わざるを得ない。

例えば、「礼論編」において、荀子は葬礼の重要さを力説している。儒家では父母の喪を足掛け3年(正確には25ヶ月)としており、これが長すぎるとの批判があり、特に墨子は葬礼を無意味だと論難した。これに対し、荀子は葬礼が社会秩序を維持するものであるとして擁護する。それの当否は措くとしても、どうしてその葬礼が成立したのか、3年の喪にどのような意味があるのか、そうしたことを検証せずに、無批判に旧来の習慣を肯定したことは不徹底であったと思う。常識に挑戦した墨子との大きな違いである。

とはいえ、荀子の生きた社会は、墨子や孟子の頃よりもずっと乱れていた。むしろこれまでの常識が通用しなくなってきた社会であった。為政者の質は落ち、その場しのぎの政策で民は疲弊していた。であるから、荀子には思想的一貫性よりも、社会秩序の維持を重視する傾きがあるのは無理からぬことである。

そして、そのような社会の様相は現代にも通ずるものがあり、特にその君主論は今にも十分に通用する。例えば荀子は言う。「聡明な君主は立派な人物を求めることに努力するのであるが、暗愚な君主は権勢を得ることに努力する」、「つまらぬ人物を重く用いて人民の上位において威光を振わせ、巧みに口実を設けて取るべきでないのに民衆から財貨をだまし取る。これが国を傷つけそこなう大災厄である」「聡明な君主は臣下と力を合わせることを好むが、愚かな君主は何もかも自分一人ですることを好むのである」、「君主の政治のしかたは、明るいのがよろしく、暗いのはよろしくない。開放的なのがよろしく、秘密的なのはよろしくない」云々。

なお、荀子の文章は論理的であるが、かなりくどくどしたところがあり、論旨の繰り返しも多く長ったらしい。人を説得せずにはおれない力強さはあるものの、大文章であるためそもそも『荀子』を読む人自体が少ないように思う。今の時代には向かない古典かもしれない。

本書は、『荀子』からその主要思想を伝える諸編を選んで日本語訳したもの。日本語訳自体はわかりやすいものの、注が語義の説明のみに留まり、簡単なのが残念である。もう少し解説的な部分もあれば理解の助けになったと思う。

思想の中心「礼」が弱点だが、乱世を生きる力強い思想の書。


【関連書籍の読書メモ】
『墨子』森 三樹三郎 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/19.html

古代に「有神論的功利主義」を説いた独創的思想家の書。


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