2020年11月23日月曜日

『ベートーヴェンの生涯』青木 やよひ 著

実証的な資料によって構成したベートーヴェンの伝記。

ベートーヴェンの生涯は、長く誤解されてきた。晩年の秘書であったアントン・シントラーによって偏見と誇張に満ちた最初の伝記が作られて以来、それに引きづられて非人間的な孤高の芸術家像が一人歩きするようになったからである。

ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』も(文学的価値は別として)その一つである。ロマン・ロランは、自身でもベートーヴェンについてかなり調べながら、ついにシントラーが歪めたベートーヴェン像を修正することができなかった。こうしたことから、ベートーヴェンは世紀末のウィーンの場末で生涯を過ごした「陰気で悲劇的な芸術家」であると考えられてきた。

そもそも、シントラーの伝記は真実のベートーヴェンを伝えるために書かれたものではなかった。彼はベートーヴェンが死ぬ前のたった3、4ヶ月秘書を務めただけなのに、あたかも長年ベートーヴェンに献身的に仕えたように書き、しかもベートーヴェンが残した300冊とも400冊ともいわれる『会話帳』(筆談に使った)の半数以上を無断で破棄し、残したものも自分に都合良く改竄しているのである。シントラーは、英雄的な芸術家の内面を知っている唯一の人物になれる、という誘惑に勝てなかったのだった。であるから、シントラーの伝記には信頼性は全くないのである。

そこで著者は、実証的な資料によってベートーヴェン像を再構成するという仕事をライフワークとし、50年に及ぶ研究の集大成として著したのが本書である(本書にはドイツ語版が存在し、そちらの方が本体のようだ)。

まず、本書を読んで従来のベートーヴェン像と違うと感じたのは、今の言葉でいえばベートーヴェンは発達障害っぽいところがあるということである。彼は、偏屈とか狷介であることとは違うのだ。例えば彼は、自分のルールに従って行動していたので、世間的にNGとされることが理解できなかった。世間のルールを無視したのではなくて、「暗黙のルール」が理解できなかったのである。例えば、ベートーヴェンは既婚者を含む女性と対等な友達づきあいをしようとした。しかし当時は求婚者として近づくのでなければ、女性と親しくしようとするのはNGだったのである(ついでに言えば、ベートーヴェンは惚れっぽかったようだ)。こういう、「暗黙のルール」にベートーヴェンは弱かった。

しかしそれは、移りゆく人びとの流行を全く無視することを可能とし、自らの内的な芸術性のみを信じることに繋がった。ベートーヴェンの音楽は、旧来の音楽家や聴衆には耳障りで狂気じみているように感じられたが、十分に訓練された耳を持った人や、新しい時代を求めていた民衆には熱狂的に迎えられた。モーツァルトも、若いベートーヴェンの演奏を聴いてその新しさに興奮している。

だが、ベートーヴェンが古い音楽を無視していたかというと事実は全く逆で、ベートーヴェンは独り立ちした後もいろいろな先生に教えを請い、音楽技術の習得に貪欲だった。また、自らのスタイルが確立してからもバッハのフーガの研究を行うなど、一生を通じて学び続けた人だった。 そして、聴衆が求める気軽な音楽がどういったものかを理解し、生活の糧のために大衆に受ける音楽を作ることも可能だった。そういう点が、自分の作りたい音楽を愚直に作るしかできなかった不器用なモーツァルトとの違いである。

本書は、従来のベートーヴェン像を修正するということを目的としているが、これまでの伝記の否定に傾いておらず、むしろ平易にベートーヴェンの伝記を記述することに努めている。著者はベートーヴェンの「不滅の恋人」がアントーニア・ブレンターノであることを初めて指摘し、それが後に証明されたが、そうしたこともくだくだしく書いておらず、全体的にスピード感があって非常に読みやすい。だが新書で300ページほどの小著でもあり、考察については弱い。

例えば、ベートーヴェンは創立されたばかりのボン大学に入学し哲学科で学んでいるが、なぜロクに中等教育を受けていない(らしい)ベートーヴェンが大学に入学したのか、といったことは突っ込んで書いていない。しかも哲学科を選んだのは何故なのか。

なお話が逸れるが、ベートーヴェンと同い年で哲学科の同級生だったのがアントン・ライヒャ(アントニーン・レイハ)である(後に音楽家として大成した)。ライヒャはベートーヴェンの生涯の友人(親友ではないにしても)の一人だった(はず)だが、本書にはライヒャとの交友についてほとんど書いていない。こういう部分は、既存の伝記を参照すれば十分だとの判断だと思う。本書は「ベートーヴェンの伝記の決定版!」みたいな気負いでは書かれておらず割と簡約である。それが長所でもあろう。

偉大な音楽家の真実の姿を平易に述べる、ベートーヴェン伝の新しい基本。


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