盆行事の地域差に注目して葬送の思想を民俗学によって明らかにしようと取り組む本。
本書は、2013年に開催された第9回歴博映像フォーラム「日本各地の盆行事と葬送墓制の最近の変化」における報告と討論を中心としてまとめたものである。私自身は、お盆の歴史的変遷に興味があったのだが、本書では主に地域的変異と現代の変容が取り上げられている。
「民俗研究映像「盆行事とその地域差」」(関沢まゆみ)では、盆行事の地域差が歴史的な変化を表していることを論証している。
私は鹿児島に住んでいるが、一昔前のお盆といえば、お墓に親族が集まって提灯を飾り、飲食をともにするなど遊興やお祭り的な要素があった。大きな墓地ではテキヤさんまで来ていた気がする。こうしたお盆は九州の他東北地方でも見られたという。これは、先祖の霊と飲食を共にして交流するというお盆である。ところが近畿ではお盆でもお墓参りすらしない。しかし何もしないのではなく、近畿のお盆は自宅で霊を迎える。そのためにオシャライサンという飾りをつくったり(但馬地方)、縁側や軒下に新仏・無縁仏を祀ったりする(奈良県)。これらの事例を整理してみると、盆行事には(1)墓地で飲食する=東北・九州、(2)墓参するが、墓地での飲食はない=中国・四国・関東など、(3)墓参はしないが、霊を先祖・新仏・無縁仏などと区別して祀る=近畿、の3つの類型があることが分かった。
古い習俗ほど周縁地域に残るという民俗学のセオリーでこれを考えてみると、最も古い習俗は(1)で、それを(3)が上書きしていったとみなすことができる。古代の記録を検証してみると、死者の遺骸を家屋敷の近くに埋葬することは普通で、墓を遠ざけていなかったことは明らかであるが、摂関期には死の穢れがやかましくなり、墓が作られないことも増えている。ところが室町時代には墓参りが行われるようになっていく。
このように「第1段階として8世紀から9世紀には先祖の遺骸と墓地を大切にする状態、第2段階として10世紀から12世紀には死の穢れを忌み避けて墓参をしない状態、第3段階として14世紀から15世紀以降は再び先祖の眠る墓地を重視して墓参をする状態、という3段階の大きな変化があった(p.26)」。さらにこうした変化と並行して、近畿地方では「先祖を本仏、死んだばかりの死者を新仏、無縁の亡者たちを餓鬼仏というように、三種類の霊魂に明確に区別するようになっ(同)」た。これは柳田国男がかつて『先祖の話』で概説したことを具体的な事例から論証するものである。
本章では次に、火葬化がもたらした盆行事の変化について滋賀県蒲生郡竜王町の事例から考察している。土葬時代には集落ごとにサンマイ(墓地)が営まれており、これは死穢忌避の意識からあまり墓参されることもなかった(それどころか石塔さえも設けない事例が近畿地方にはある)が、火葬時代になると広域の墓地となり、死穢忌避の観念が薄れているということである。
「葬儀は誰がするのか、してきたのか?」(新谷尚紀)では、葬儀の担当者の地域差を分析している。
まず本章では、日本民俗学の創立期を振り返り、民俗学がイギリスやドイツの「フォークロア」の翻訳学問ではなく、独自の伝統と方法論があったとし、これをさらに発展させて「伝承文化分析学」として確立していくべきだとする。この論述の中で「自分で柳田や折口をよく読まずに柳田や折口を否定する論調に伝言ゲーム的に追随し便乗した人たちがいたことも残念なことであった(p.55)」としていることは驚いた。確かに柳田・折口の研究は現代から見ると脇が甘いところがあるが(よくも悪くも文学的なのだ)、「よく読まずに」否定されていたとは意外だった。
次に話題が急に変わって、高度経済成長以降の葬送墓制習俗の変化について、特に葬儀を誰が担当するのかという点に注目して述べている。これまで、葬儀を誰がやるのかということは、「ただ漠然と地域社会の相互扶助によるものだろうという先入観によって見逃されていたように思われる(p.68)」と著者はいう。
こうして著者はいくつかの地域で実際に葬儀(特に埋葬)がどのような社会関係によって執り行われるかを、血縁・地縁・無縁(僧侶な葬儀業者など)を基軸に分析している。この分析は意外性に満ちている。詳細は省くが、埋葬・死体の焼却などは親しい人にお願いする以外ないと思い込んでいたが実はそうではない。もちろん、棺担ぎや火葬や埋葬は血縁者にお願いするという地域もある。ところが逆に、そうしたものは敢えて他人(血縁があってもタニンということにするという場合さえある)に任すという地域もあるのだ。これを分析してみると、元来は血縁者によって執行されていたが、葬儀は地縁が協力して行うものという観念が成長して徐々に変化したと考えられる。さらに近年では、これが無縁に移行していっていることは言うを待たない。著者は最後に、こうした変化を記述するのが日本民俗学=伝承分析学なのだと述べている。
「祖霊とみたまの歴史と民俗」(大本敬久)では、祖霊を迎える習俗とその概念について批判的に検証している。本章が私自身の関心の中心である。
柳田国男は『先祖の話』で、正月は先祖の霊を祀る日であるという説を提示した。しかしこれまでそれは実証されていない。東北地方から関東地方にかけて、年の暮れや正月に行う「みたまの飯」と言われる習俗などを鑑みても、正月に祀る魂は直近の死者であって「先祖」ではないようである。また、柳田は同書でお盆を祖先祭祀のキーとして考察しているが、お盆が祖先祭の性格を帯びて墓参を伴うようになったのは中世以降であり、柳田の祖先祭祀をめぐる説は再検証しつつ、より精緻化することが必要である。
まず、著者はケガレと穢(え)の観念について史料に基づいて正確な理解が必要であると述べ、次に本題として「みたま」の考察へと移る。正月は「みたま=御魂」を祀るものであったか。著者はこれを古記録を徴して考察している。
『蜻蛉日記』では天延2年(974)12月に「暮れはつる日(大晦日)」に「みたまなどみるにも」とある。
『小右記』には寛仁元年(1017)12月30日の記録に「次拝御魂(次ニ御魂ヲ拝ム)」の文字がある。同様の記録が前後の年の日記にないところを見ると、これは毎年祀る祖先の霊ではなくて、その年に亡くなった人の魂であった可能性がある。
『枕草子』40段には「師走のつごもりのみ時めきて、亡き人のくひもの(食物)に敷くにやと…」とあり、大晦日に直近の死者(←先祖を「亡き人」とは呼ばないだろう)に対して供物を備えていたことがわかる。
『後拾遺和歌集』(応徳3年(1086))(哀傷)の和泉式部の歌に「12月のつごもりの夜よみ侍りける。亡き人の来る夜と聞けど 君もなくわが住む宿や魂なしの里」とある。
『徒然草』第19段では、「晦日の夜」は「亡き人のくる夜とて、魂まつるわざは、この比(ころ)、都にはなきを、東の方には、なほする事にて有りしこそ…」といっている。すでに鎌倉時代には、大晦日に「亡き人」を祀る風習が廃れつつあったらしい。
『後撰集』(哀傷)には「亡き人の共にしかへる年ならは 暮ゆく今日は嬉しからまし」とあり、『詞華集』(冬)には、「霊まつる年の終わりになりにけり 今日にやまたもあはむとすらむ」とある。死者が大晦日に来るだけでなく、「会えるので嬉しい」という観念であったことが注目される。
こうした史料を踏まえると、古代末期から院政期にかけて大晦日に(直近の)死者の魂が帰ってくるという観念があり、それが鎌倉時代には希薄になって、やがてお盆に引き継がれたように思われる。
また本章では考察されていないが、ここでいう「亡き人=みたま」は、死亡から何年くらい大晦日に帰ってくると観念されたのだろうか? これらの歌が作られた時期には、一周忌は行われていたが三回忌の習俗は定着していない。ということは一年限りなのだろうか。いずれにしても、長い間定期的に帰ってくるということを示す史料はない。よって、この「みたま」は長い間祭祀が続けられるとされる「祖霊」とは異なるようだ。
では「みたま」と「祖霊」はどう異なるのか。『先祖の話』では、柳田国男は「みたま」の語を主に使用している。また柳田は「三種の精霊」として「先祖=定まって我家に祭るみたま」「新仏」「無縁」の3つを挙げている。どうも、民俗学の展開の中で「みたま」が「祖霊」に入れ替わっていったようだ。そもそも「祖霊」なる語は江戸時代には一般的でない。著者ははっきりとは述べていないが、「祖霊」がはっきりと定義されることなく、なんとなく使われるようになった曖昧な語であり注意が必要だとしているようだ。
ともかくも、柳田は「みたま」≒「先祖」と考えたが、柳田の理論では「先祖」が個別性を失った習合的な先祖の霊であるとしているため、二つの概念にはやや違いがある。つまり歴史的語彙としての「みたま」はまずは「新仏」を示すもので、そこから「先祖」に敷衍していった(あるいは「先祖」の概念が徐々に外延的に形成されていった)と思われる。これは中世以前の文献史料で「新仏」を表す「あらみたま」の用例が確認されないことでも傍証される。
「葬法と衛生概念」(小田島建己)では、土葬から火葬への移行を山形県の事例から考えている。
日本での葬法がほとんど火葬になったのは、明治以来の政策の影響があった。著者は明治7年に火葬禁止となったものの、短期間で解禁された経緯を略述し、「この一連の動きによって、葬法は行政が指導するものという基盤が形成された(p.124)」という。その後、明治8年にも「焼場」について内務省が達しを出しているが、火葬は「不潔」で好ましくないものと考えられていた。ところが明治10年以降にコレラがたびたび流行し、この死体処理として火葬が衛生的であると捉えられるようになる。明治13年にはコレラに罹患した遺体は火葬以外で処理することが禁止されている。
こうした歴史を踏まえつつ、著者は山形県内の墓地を詳しく取り上げ、近現代の墓がどのように立地し、また管理されているか、その葬法との関連を中心に考察している。土葬時代には死穢の観念があったが、火葬になると「もはや死穢の概念は不在で、衛生の概念が原理となっているようにも考えられる(p.138)」。さらに山形県では、葬儀の前に火葬を済ませておく「骨葬(こっそう)」が行われている。葬儀は遺体を前にして行うものという認識でいるとこれは奇異なのだが、山形では葬儀の完了は遺体を埋葬すること、という認識があり、火葬は死体を埋めるための前処理として捉えられたのではないかという。
ともかく、土葬から火葬への移行は「思想を背景にしていないからこそ、短期間の内に火葬へと迅速に移行できた(p.141)」という。それは「死者観念や死生観の変化によってもたらされたのではなく、行政上の意図や衛生の問題とも絡みながら進行してきた(同)」のである。
「自動車社会化と沖縄の祖先祭祀」(武井基晃)では、自動車社会化が祭祀の在り方を変えてきたことを述べている。
沖縄の葬儀と清明祭(一族の墓をめぐってご馳走を食べる祖先祭祀)は、自動車社会化にともなってその在り方が変わってきた。例えば、かつては体力のある若者だけが祖先祭祀を担っていたのが、自動車が普及したことによって一族全員が移動して祭祀に参加できるようになった、というようなことである。しかしこのことは、「一族の中心である年寄りが祖先祭祀に直接参加できるなら、自分たちはいいや」というような調子で、若者の参加が低調になりつつあるという一因にもなっている。
沖縄の祖先祭祀について疎いので詳細は割愛するが、祭祀の在り方が自家用車の所持のような死生観や思想とは関係なものに大きく影響を受けているということは非常に重要な視点だと思った。
「列島の民俗文化と比較研究」(小川直之)は、上述の発表および研究映像(当然ながら本書には収録されていない)に対するコメントである。
詳細は割愛するが、列島文化の多様性を改めて認識し、地域ごとの比較を行うなど民俗研究をより精緻化していかなければならないと述べている。
「討論」は、関沢まゆみが司会者となり、上述の発表者がパネラーとなって討論を行った記録である。気になったところのみ記す。
大本敬久は、盆行事が行われるようになったのが摂関期であること、「盆棚」などは鎌倉以前の記録には見えないことを述べ、家の盆行事と寺院での盂蘭盆会は分けて考えた方がよいことを主張している。
小川直之は、「日本から東アジア、そして東南アジア、南アジアにかけて、飲食物を通して死者の霊魂や神々の霊や精霊たちとの交流がはかられるという習慣が非常に広範囲に存在(p.219)」すると述べている。関沢まゆみによれば、フランスなどでは死者に食べものは供えないとし、お墓に食べものをお供えするというようなことはないという。言われてみれば、死者は実際には飲食ができないわけで、飲食物を供えるというのは当たり前の習慣ではない。これはハッとする指摘だった。
新谷直紀は、相互扶助による葬式の方法が確立したのは17世紀後半から18世紀前半にかけてであり、それほど古いものではないことを指摘している。よって、高度経済成長期以降に激変している葬式の習俗についても、伝統の破壊というような観点で見ない方がよいと感じた。
本書には全体として、ここにメモした以外にも柳田国男『先祖の話』が多く登場している。『先祖の話』は慧眼に満ちた名著であるが、体系的に日本全体の祖先祭祀をまとめたものではなく、柳田の主張に沿う事例を並べて祖先観を構築したものという性格がある。このため、従来「柳田の主張を鵜呑みにしてはいけない」という批判も多かった。確かに、柳田の主張は現在から見るとやや一面的であった部分もある。そんなわけで、名著とは言われながらも、柳田の主張を真正面から検証しようという研究は意外と行われず、「扱いに注意が必要な通説」というような中途半端な位置づけのまま長く放置されていた。
このフォーラムに集った研究者たちはこうした状況を遺憾とし、柳田の主張を真正面から受け止め、それを現在の民俗学によって検証しようとしているように見える。列島文化は多様であり、盆行事一つとっても、大きな地域差が見受けられる。それは、関沢や新谷が述べるように歴史的な変遷を跡づけている場合もあるし、小田島が述べるように行政の指導によってもたらされたものである場合もある。そして武井が述べるように、自動車社会化のような、死生観とは関係の内社会変化によってもたらされた場合もある。こうした地域差を精緻に研究することで、祖先観の根源にせまり、柳田の研究を発展させようというのが本書の研究者たちの基本的認識のようである。
なお、本フォーラムの本来の価値は、お盆ひとつとっても地域ごとに大きな差があることが映像で明解に示されることにあったと思われるが(各地の平時のお墓の写真がいくつか掲載されているが、それだけで面白い)、フォーラムにおける研究映像報告の部分は本書にはほんの少ししか記述されていないため、結果として本書はやや理念的・図式的な考察がメインになっているように思われる。映像を見ることができれば、違った感想を持ったかもしれない。
盆行事を改めて民俗学の俎上に載せ、研究の最前線をまとめた講座的な本。
【関連書籍の読書メモ】
『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。
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