2025年10月20日月曜日

『日本造形史—用と美の意匠』水尾 比呂志 著

日本美術の歴史を、生活・宗教・作家の三側面から述べる本。

本書は、武蔵野美術大学での講義に基づいて著述した『日本美術史』を元として、武蔵野美術大学造形学部通信教育課程のテキストとして、タイトルを改めて補訂出版されたものである。

では「美術」から「造形」へのタイトル変更はどういった思想に基づくかというと、著者の美術への根本的な認識が「用」にあることにあるらしい。 著者は、「用」に即する「生活のための造形」があり、また精神的生活のための「用」として「宗教の造形」があり、またこれらの「用」から発展して「作家の造形」という「美術」が生まれたと考える。そのため、本書は「生活の造形」「宗教の造形」「作家の造形」という3部構成となっている。

「第1部 生活の造形」では、狩猟民、農耕民、王族、公家、武家、町衆、民衆の造形を語っている。生活の場面というよりは、生活スタイル・階級に即して関連の造形を語るという方法である。

「第2部 宗教の造形」は原始信仰、神道、顕教、密教、浄土教、禅という章立てである。ここで民間信仰がないのは少し気になる。

「第3部 作家の造形」では、画家、書家、彫刻家と工藝家、茶匠と花匠について語っている。第3部は、名の残っている人について語る部分である。

本書を網羅的にメモすることは骨が折れるので、以下気になったところや感じたことだけメモする。

先述のとおり、著者は「用」を最も重要に考え、民芸運動などを高く評価している。逆に言えば、「用」のない、純粋な美術品についてはやや辛口である(形式化しているなどと批判する)。しかし「用」のみで事足れるならばそもそも「美」など必要がない。これに対し著者は、「用」は重要であるが、「実用性は、ただに実用の機能の充足のみによって満たされるものではなく、心理的充足も大きな比重を占める(p.28)」という。つまり、心理的に充足させることも「用」の一つだとみている。よって「物心両面よりする実用性への志向(同)」が大事だという。

例えば縄文土器には様々な紋様が施されているが、実用性だけ考えれば紋様は不要だ。しかし紋様によって心理的にも充足する、と著者は捉える。一方、弥生土器では装飾が控えめになるが、これを著者は「(装飾が)器の機能に従属して、心理的快感を控え目に充たす、という工藝品の装飾の基本を守ったもの(p.46)」と捉える。これでは、結局は「どうやったら心は充たされるのか」という答えのない領域に造形の解明が押しやられるような気もする。

そもそも、著者がいうように心理的に充足させることも「用」の一つだとするなら、鑑賞のみを目的とした純粋な美術品だって十分に「用」を目的とすると言える。 このように「用」に「心理的充足」を含める著者の立場は論理的に堅牢でない。少し注意が必要だと思った。

面白い指摘が、屏風が大量に制作されたことがやまと絵の成立を促したということだ。日本では絵画も中国の影響が大きかったが、屏風が大画面であることが唐絵とは違うデザイン感覚をもたらしたという。また、巻物も横長の画面である上、時間的な遷移も表すため、「世界に稀な絵画形式と価値(p.85)」を生んだという。こうした、形態から内容の発展を跡づける考察は面白い。

茶の湯(本書では「茶道」の用語を使う)が日本人の美意識に与えた影響は大きい。それは批評や評価を伴い、造形の美を享受し論ずる美学が発達したためである。足利将軍の同朋衆能阿弥や相阿弥は唐物奉行として「君台観左右張記(くんだいかんそうちょうき)」を表したが、これの「中国の画家を上中下に分類した部分は日本最初の美術批評といえよう(p.105)」。

この「同朋衆」は、もともとは将軍の戦陣に従った僧や医者や伎藝者であったが、やがて「各種の能力に秀でた賤民が、世俗の身分を脱し、時宗に出家して将軍の側近に侍して造形や藝能の相談に参加(p.106)」したもので、能阿弥・藝阿弥・相阿弥の三阿弥、作庭者の善阿弥、花の立阿弥・文阿弥などが知られている。能の観阿弥・世阿弥も一種の同朋衆であろう。これら身分は低いが新しいセンスを持った人々が北山東山文化を作った。

なお、著者は中世の武家文化に対してはかなり辛口で、中世の武家は武具武器以外には独創的な文化を作っていないという。「武将の調度や服飾は、当時一般の流行を、豪華に贅を尽くして製作したものにすぎない(p.118)」と手厳しい。

一方、高く評価されるのが近世の町衆文化である。京都の上層町衆は公家と結びつき、武将文化を「はるかに凌駕する質的な洗練(p.125)」をなしとげた。佗茶、琳派、そして個人としては俵屋宗達がその到達点だと考えているようだ。これは古典復興の成果であったというのが著者の考えである。近世町衆文化は「日本のルネサンス」であったものの、「ヨーロッパにおけるような近代的展開を遂げずに凋落した(同)」。 

なお「民衆の造形」については、民芸運動を重視する著者らしく類書に比べ詳細であるが、図版がほとんど掲載されていないのが残念である。 

ちなみに、私が本書を手に取るにあたって興味があったのは、こうした工芸の担い手の実態(社会的地位・身分)がどうであったか、ということである。例えば古代には官に直属する絵画工房「画工司(えだくみのつかさ)」が設けられ、正(かみ)・佑(すけ)、令史(さかん)の官職があり、画師4名、画部60名の組織であった。画師の長は笏を持つことが許されているなど、画家は必ずしも社会の低層にあったのではない(p.267)。

ただし著者は「作者の人格や身分は若干の例外を除いては、雑戸という賤民階級に属するものとされていた(p.62)」とする。どういう根拠でそういっているのかわからないが、彼らには官位がある以上賤民ではないように思う。とはいえ画工のアシスタントをしていたのは賤民なのかもしれない。

平安時代には、 画工司は画所(えどころ)に改められたが、画所に属さない官人で絵の上手いものが宮廷絵師になる事態が見られる。このあたりが面白い。絵の上手い下手は、ある程度はっきりわかるものであるために、高い身分だからといって師匠になれるわけでもないし、逆に画所のような機関に属していなくても、上手ければお願いされるようになるだろう。身分を超越する機能が芸術には備わっていると考えられる。

11世紀には、仏像彫刻の定朝は治安2年(1022)に仏師として初めて法橋に叙され、教禅という仏画の絵仏師は治暦4年(1068)に法成寺丈六薬師像百図を描いた功で、絵仏師として初めて法橋位を授けられている。法橋(ほっきょう)は僧位のひとつで、仏師や絵仏師が僧位を持つことは一見自然であるが、工芸家に僧位を与えることは後代に大きな影響をもたらした(連歌師や儒者や医師までが僧位をもらうようになる)。なぜすぐれた工人に僧位を与えたのか、ここに身分と芸術の関係を考えるキーがあると思う。

なお、定朝から独立した弟子の長勢は、法勝寺阿弥陀堂の造仏によって法印位に叙されている。なぜ定朝より上の法印に叙されたのか。それは出身階級に関係していたのかもしれないし、造仏の素晴らしさに基づくものだったのかもしれない。芸術の評価と社会的身分の関係がどうであったのか大変興味深いところである。

先に記した足利将軍の同朋衆が「○阿弥」という阿弥号を持っているのも身分との関係がある。つまり、彼らは出家することで世俗の身分を超越して将軍に近侍することが可能になったと思われるのである。とはいえ、それがなぜ時宗であったのかは別に考えなければならない問題である。なお、現在では何ら社会的地位がない人間を「内閣官房参与」(首相のブレーンのような立場)に任命することはあり得ないが、当時は時宗に出家しさえすればそれが可能になったのだと思えば、かえって今よりも社会的身分が流動的だったとも言える。

また、私は石工(いしく)に大きな興味を持っているが、本書ではほとんど石材工芸について触れていない。供養塔や墓石は言うに及ばず、石臼や挽き臼など生活用品も含め、石材工芸は近世以前の世界において大きな存在感がある。これを工芸史に含めていないのは残念だった。

このことを考えると、素材毎の工芸史を著述するとまた違った歴史が書けるのではないかと感じた。石工、金工、木工、織工…といった工芸の分野毎の歴史である。工芸史としては、むしろこちらの方が自然な記述スタイルであるようにも思う(なお、石工の他には織工について本書は手薄であり、特に近世の服飾はほとんど手つかずである)。

逆に言えば、石工、金工、木工、織工…といった分野毎でない、日本工芸史であるのが本書の価値であり、そのために記載されていない分野も多いのだが、日本の工芸や美術を手際よく通観するという意味では、読みやすく大変よくまとまっている本である。

「用」を基軸に日本の工芸・美術を通史的に見る良書。

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