観音像の種類と形態的特徴、その信仰についての読み物。
本書は、雑誌「大法輪」の特集を書籍化したもので、第一篇では観音像の種類とその形態的特徴が羅列的に述べられ、第二篇では、観音像で有名な寺の住職がその信仰や由来、エピソードについて1ページ程度ずつ寄稿している。
その構成から分かるように、この本は観音信仰について体系的にまとめたものではなく、観音像についての形態的知識、エピソードをやや散漫に束ねたものであって、ちょっと無味乾燥なところがある。
ところが、こういう宗教の本は無味乾燥にまとめた方が面白いというケースがままあって、「すごいんですよ」「霊験あらたかなんですよ」みたいなトーンで書かれるより、事実の羅列の方がずっと頭に入りやすい。
一番印象に残ったのは、沼 義昭(当時立正大学教授)の執筆する「マリア観音」の項。短いながら観音信仰の本質をえぐるような論考であり、蒙を啓かされる思いがした。
マリア観音とは、キリスト教の聖母マリアと観音が合体(習合)したものであり、かくれキリシタンが捕縛の手を逃れるために崇拝したものである。
ところで、仏教は男性原理が強い宗教であり、古来女性はそのままでは成仏できないとまで考えられて、女人変成(にょにんへんじょう)=女性が一度男性に生まれ変わって成仏するという思想まで生まれた。しかし一方で、人間は母性的な包まれるような慈愛も求めるものであるから、仏教においてもそういった包み込んでくれる存在が求められるようになり、やがてそれが観音信仰となっていった、というのである。その意味で、キリスト教におけるマリア信仰と非常に似通っているところがある。マリア信仰も、聖書には位置づけられない自然発生的な信仰であるが、観音信仰も元々の仏教にはその要素が希薄であった。マリア信仰と観音信仰には、女性原理の宗教的枯渇を満たすという共通の基盤があったのであり、この習合が起こったのも故なきことではなかった。
よって、観音像は(女性そのものでなくても)女性を思わせる形態が非常に多く、子授けや子育ての仏として信仰されてきたものが夥しい。多くの如来・菩薩が「人々を救ってくれる存在」とみなされてきたが、こと観音となると、例えば乳が出るとか、子どものない夫婦に子を授けるとか、女性にとっての切実で具体的な願いを聞き入れてくれる存在であった。こうしたことから、著者(沼)は、観音は「その本性がもともと一人の母神であったからと考えたい」としており、また「観音は海神として、水神として、山神として、その母性性において信仰されてきた」と述べる。
ちなみに、後で調べたところ沼は『観音信仰研究』という研究書を書いており、これは「観音を女神と位置付け、ギリシア神話やゲルマン神話などの女神と対比して論及した書」だそうである。そういう視点で改めて観音信仰を見直してみたいと思わされた。
事実の羅列であるだけに、かえって観音信仰について考えさせられた本。
2018年8月9日木曜日
2018年8月5日日曜日
「犀の角のように ただ独り歩め」
あなたの生き方に一番影響を与えた本は? と聞かれたら、『ブッダのことば』(中村 元 訳)と答えるかもしれない。
当時私は大学の一年生。郷里の鹿児島を離れ、姉と一緒に東京で生活していた。別段、人生に迷っていたとか、東京暮らしが不安だったとか、そういうことはなく、大学の勉強は楽しく、友人も出来、日々充実していたと思う。そんな私が、大学の近くにあった古本屋でひときわ古びていた『ブッダのことば』を手に取ったのは、どうしてだったのだろう。
読んで、衝撃を受けた。
まず、その美しい詩文に魅了された。当時の仏教は、書物を通じて伝えられたのではなく、口伝えされることによって広まった。であるから、その表現は平易で力強く、また美しくもあって覚えやすいものでなくてはならない。最初期の仏典(原始仏典)は、そういう美しい口承文学であった。
本書は、当時の言葉(パーリ語)から直接訳出されたものである。仏典=お経といえば漢訳で難解なものと思っていた私にとって、原典から訳出された美しく力強い詩文は、仏教のイメージを一変させるものであった。
そしてその思想も、後代のそれとは全く異なっていた。今になってみると、そこに表現されたものをまた違った角度で眺めることができると思うが、当時の私が読み取ったのは、「人は一人で生きてよいのだ」というメッセージであった。それを象徴する詩文が、「犀(さい)の角のように ただ独り歩め」である。私は、この詩文と出会った衝撃を一生忘れないであろう。
友達とわいわいガヤガヤしながら生きることが楽しみだと思っていた人間にとって、「犀の角のように ただ独り歩め」は強烈な刺激であった。当時の私は、友達とわいわいガヤガヤしながらも、我が道を歩むことを恥としない人間だったと自負するが、この言葉に衝撃を受けたところをみると、それを完全には肯定していなかったのかもしれない。この詩文は、私の人生の屋台骨のような存在になった気がする。
本書で原始仏典に興味を引かれた私は、同じ中村 元の『ブッダ最後の旅—大パリニッバーナ経』とか『ブッダの真理のことば、感興のことば』など岩波文庫で出ている一連のシリーズを読んだ。
そうした本を読むうち、私は訳者・研究者の中村 元の語り口にも魅了されていった。中村 元は、松江が生んだ世界的仏教研究者、比較思想学者であって、その緻密な文献学的手法とサンスクリット語、パーリ語の強力な語学力によって、仏教学に新たな地平を切り拓いた人物である。
私は、中村 元の手引きによって徐々に仏教に親しむようになった。
次に読んだのは、中村 元『仏典をよむ』シリーズだったと思う。このシリーズは『ブッダの生涯』 『真理のことば』『大乗の教え(上)』『大乗の教え(下)』で構成される全4巻(前田専学監修)。ラジオ放送の講座を元にしたものであり、非常に平易で親しみやすく、仏教の核心部分を大まかに理解するためによい本だった。万人にお勧めできる仏教の入門シリーズである。
ところが、こうなるともっとしっかり主要な経典を理解したくなるものである。原始仏典のあの清新な感動から仏教に入った身としては、大乗仏典は夾雑物が多すぎる野暮なものに感じていたのだが、勉強してみるとそうでもないと思い始めたのだ。
そこで手に取ったのが中村 元「現代語訳大乗仏典」という全7巻のシリーズ。こちらは(1)般若経典、(2)法華経、(3)維摩経・勝鬘経、(4)浄土教典、(5)華厳経・楞伽経、(6)密教経典・他、(7)論書・他、の構成である。
特に印象深かったのが『華厳経』。
華厳経というと、あの東大寺が華厳宗であることからもわかるように、古代日本において国家的経典とみなされた重要なものである。そこに表現された思想は、人生の悩みといった個人的な問題に応えるものというよりは、世界観を提示するというか、文明の在り方を示唆するようなスケールの大きなもので、古来華厳経に魅了されてきたものは多いのである。
一方で、こうした経典への興味とは別に、私が次第に心を傾けていったのが「禅」だった。といっても、私の禅に対する興味は最初がひねくれていた。禅が”Zen”になり、なにやら深遠な思想だと一知半解のまま称揚されていることに疑問を持ち、どちらかというと懐疑的興味から禅を知るようになったのである。
実際、『十牛図―自己の現象学』(上田閑照・柳田聖山)であるとか『無門関を読む』(秋月龍珉)などを読んでも、それなりに知的興奮はあるのだが、どこかピンと来なかった。当時の私は、こういう深遠ぶった(と私は思っていた)「禅」が、胡散臭いものに感じられたのだ。
そんな時には、やはり原典というものが力を発揮するもので『臨済録』(入矢義高 訳注)が私の禅理解をより前向きなものに変えてくれた気がする。『臨済録』は言わずとしれた臨済の言行録(弟子が記録したもの)で、「語録中の王」とも呼ばれる最も重要な禅書の一つである。
その内容は、「破天荒」の一言に尽きる!
『十牛図』とか『無門関』がいかにも観念的というか、上品なものであるのに比べ、臨済は暴力的であり、行動的であり、実践的なのだ。例えば、有名な言葉にこういうのがある。
「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母にあったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ」
これを文字通り受け取れば、悟りというよりも大量殺人の勧めなのであるが、もちろんこの言葉はそういう意味ではない。ではどういう意味かというのは、まあ、原典に当たって確認していただきたい(参考:Wikipediaにもそれなりに面白く臨済のことが紹介されているのでお手軽に知りたい方はこちらを → 臨済義玄)。
日本の禅書で『臨済録』に匹敵するものというと、『盤珪禅師語録』がある。
盤珪は江戸初期の臨済宗の僧。厳しい修行の果てに、人は生まれながらにして必要なもの(精神的なものも含めて)は全て備わっているという悟りを得、それを平易な言葉で多くの人に優しく説いた。その精神は、臨済と通じ合っていると思う。本書は、盤珪の説法を弟子がメモしたものを元にしていて、盤珪の生き生きとした説法の様子が伝わってくる。
盤珪の特徴は、おのれの存在を徹底的に肯定するという臨済の基本路線を受け継ぎつつも、臨済のような韜晦な表現はせず、あくまでも平易に、人々によりそって明解な教えを説いたことで、その弟子は五万人もいたというから、歴代の禅師の中でも抜群に大きな存在であった。
一方、そういう立派な(?)禅僧とは違い、ひねくれていたのがあの有名な「一休さん」こと一休宗純である。
一休についてはわかりやすい入門書もあるが、私の場合、水上勉『一休』によって彼を知った。本書は、かなり取っつきにくい本である。一次資料からの引用が多いし、考証は微に入り細に入り、大まかに一休を分かればいいや、という向きは辟易するに違いない。しかし一休の魅力を伝えるには、そういう作業が必要なのだと思う。
社会派推理小説で有名な著者の水上勉は、実は臨済宗のお寺で修行していて、しかもその後仏教から離れた経歴を持つ。だから禅宗について詳しい一方、禅宗への批判的視点もあって、本書ではそのバランスが絶妙に調和している。
一休は、決して、立派な禅僧ではなかった。権力に反抗し、形式に堕した禅宗の実態を批判したが、 自身が清廉だったかというとそうでもない。いや、それどころか、人間の本当の姿を極める、などといって性愛の世界に溺れ、その上にそういう自分を完全に肯定することもできず、一生煩悩のままに生きたようなところがある。彼は貴族社会を批判したけれども、実際には内心貴族に憧れ、しかも憧れてしまう自分に苦しみながら、その苦しみを誤魔化すために魔の道へ入ってしまうひねくれた求道者であった。人は、彼を「風狂僧」と呼んだ。
私のハンドルネームの「風狂」は、実はこの一休宗純から来ていて、私はこのひねくれ者の一休に憧れるのである。
今まで、禅宗の中でも臨済宗の話ばかりが続いたので、曹洞宗のことについても触れておかなくてはならない。
曹洞宗と言えば、やはり巨大な存在が道元であって、即ち『正法眼蔵』がその思想の最高峰であろう。ところが、私は未だ『正法眼蔵』を通読せずにいる。原文はかなり難しいものなので、私は石井恭二の『現代文 正法眼蔵』を第1巻だけ読んだ(全4巻)。第2巻の途中で止まっているというのが正直な状況だ。
だが、その本は決してつまらないものではない。
それどころか、道元は、我が国では空海以来の大思想家であったというのがよくわかる。一般的には、道元は「只管打坐」、つまりひたすら座禅・瞑想をすることにより悟りの境地に至るという方法で有名だが、『正法眼蔵』を読むとそれは彼の思想の一面でしかないと感じる。座禅は思索の方法ではあるが、それが全てではないし、「どう思索するか」もまた重要である。本書は、落ちついているときにゆっくりと取り組みたい本である。
『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html
ところで禅宗というと、思想書そのものではないが、ここに紹介したい名著がある。それは『禅の歴史』(伊吹 敦)である。
本書は、禅をことさら神秘的・高遠なものと見ずに、極めてフラットな立場から禅の歴史を記述したもので、まずこのような態度で書かれた本が貴重である。そしてそのまとめ方も、大量の情報を手際よく整理し、あたかも高校の歴史の教科書のようにまとめている。
禅の歴史、というような専門的な事項が、高校の歴史の教科書レベルのわかりやすさでまとめられるだけでも相当に有り難いことであって、しかもそのまとめ方が無味乾燥(褒め言葉)と言ってもよいほど客観的である。
中国で生まれた禅が日本に渡り、また日本でも独自の発展を遂げるというその有様を、一切の虚飾なく、しかも大量の情報とともに、平易に学べる本は、おそらく本書以外にないであろう。
なお本書は禅の歴史の中でもいわゆる教理に限ったもので、文化史についてはほとんど触れられていない。著者は、禅の文化史についても本をまとめる予定ということなので、その本の完成を一日千秋の思いで待っているところである。
当時私は大学の一年生。郷里の鹿児島を離れ、姉と一緒に東京で生活していた。別段、人生に迷っていたとか、東京暮らしが不安だったとか、そういうことはなく、大学の勉強は楽しく、友人も出来、日々充実していたと思う。そんな私が、大学の近くにあった古本屋でひときわ古びていた『ブッダのことば』を手に取ったのは、どうしてだったのだろう。
読んで、衝撃を受けた。
まず、その美しい詩文に魅了された。当時の仏教は、書物を通じて伝えられたのではなく、口伝えされることによって広まった。であるから、その表現は平易で力強く、また美しくもあって覚えやすいものでなくてはならない。最初期の仏典(原始仏典)は、そういう美しい口承文学であった。
本書は、当時の言葉(パーリ語)から直接訳出されたものである。仏典=お経といえば漢訳で難解なものと思っていた私にとって、原典から訳出された美しく力強い詩文は、仏教のイメージを一変させるものであった。
そしてその思想も、後代のそれとは全く異なっていた。今になってみると、そこに表現されたものをまた違った角度で眺めることができると思うが、当時の私が読み取ったのは、「人は一人で生きてよいのだ」というメッセージであった。それを象徴する詩文が、「犀(さい)の角のように ただ独り歩め」である。私は、この詩文と出会った衝撃を一生忘れないであろう。
友達とわいわいガヤガヤしながら生きることが楽しみだと思っていた人間にとって、「犀の角のように ただ独り歩め」は強烈な刺激であった。当時の私は、友達とわいわいガヤガヤしながらも、我が道を歩むことを恥としない人間だったと自負するが、この言葉に衝撃を受けたところをみると、それを完全には肯定していなかったのかもしれない。この詩文は、私の人生の屋台骨のような存在になった気がする。
本書で原始仏典に興味を引かれた私は、同じ中村 元の『ブッダ最後の旅—大パリニッバーナ経』とか『ブッダの真理のことば、感興のことば』など岩波文庫で出ている一連のシリーズを読んだ。
そうした本を読むうち、私は訳者・研究者の中村 元の語り口にも魅了されていった。中村 元は、松江が生んだ世界的仏教研究者、比較思想学者であって、その緻密な文献学的手法とサンスクリット語、パーリ語の強力な語学力によって、仏教学に新たな地平を切り拓いた人物である。
私は、中村 元の手引きによって徐々に仏教に親しむようになった。
次に読んだのは、中村 元『仏典をよむ』シリーズだったと思う。このシリーズは『ブッダの生涯』 『真理のことば』『大乗の教え(上)』『大乗の教え(下)』で構成される全4巻(前田専学監修)。ラジオ放送の講座を元にしたものであり、非常に平易で親しみやすく、仏教の核心部分を大まかに理解するためによい本だった。万人にお勧めできる仏教の入門シリーズである。

そこで手に取ったのが中村 元「現代語訳大乗仏典」という全7巻のシリーズ。こちらは(1)般若経典、(2)法華経、(3)維摩経・勝鬘経、(4)浄土教典、(5)華厳経・楞伽経、(6)密教経典・他、(7)論書・他、の構成である。
特に印象深かったのが『華厳経』。
華厳経というと、あの東大寺が華厳宗であることからもわかるように、古代日本において国家的経典とみなされた重要なものである。そこに表現された思想は、人生の悩みといった個人的な問題に応えるものというよりは、世界観を提示するというか、文明の在り方を示唆するようなスケールの大きなもので、古来華厳経に魅了されてきたものは多いのである。
一方で、こうした経典への興味とは別に、私が次第に心を傾けていったのが「禅」だった。といっても、私の禅に対する興味は最初がひねくれていた。禅が”Zen”になり、なにやら深遠な思想だと一知半解のまま称揚されていることに疑問を持ち、どちらかというと懐疑的興味から禅を知るようになったのである。
実際、『十牛図―自己の現象学』(上田閑照・柳田聖山)であるとか『無門関を読む』(秋月龍珉)などを読んでも、それなりに知的興奮はあるのだが、どこかピンと来なかった。当時の私は、こういう深遠ぶった(と私は思っていた)「禅」が、胡散臭いものに感じられたのだ。
そんな時には、やはり原典というものが力を発揮するもので『臨済録』(入矢義高 訳注)が私の禅理解をより前向きなものに変えてくれた気がする。『臨済録』は言わずとしれた臨済の言行録(弟子が記録したもの)で、「語録中の王」とも呼ばれる最も重要な禅書の一つである。
その内容は、「破天荒」の一言に尽きる!
『十牛図』とか『無門関』がいかにも観念的というか、上品なものであるのに比べ、臨済は暴力的であり、行動的であり、実践的なのだ。例えば、有名な言葉にこういうのがある。
「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母にあったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ」
これを文字通り受け取れば、悟りというよりも大量殺人の勧めなのであるが、もちろんこの言葉はそういう意味ではない。ではどういう意味かというのは、まあ、原典に当たって確認していただきたい(参考:Wikipediaにもそれなりに面白く臨済のことが紹介されているのでお手軽に知りたい方はこちらを → 臨済義玄)。
日本の禅書で『臨済録』に匹敵するものというと、『盤珪禅師語録』がある。
盤珪は江戸初期の臨済宗の僧。厳しい修行の果てに、人は生まれながらにして必要なもの(精神的なものも含めて)は全て備わっているという悟りを得、それを平易な言葉で多くの人に優しく説いた。その精神は、臨済と通じ合っていると思う。本書は、盤珪の説法を弟子がメモしたものを元にしていて、盤珪の生き生きとした説法の様子が伝わってくる。
盤珪の特徴は、おのれの存在を徹底的に肯定するという臨済の基本路線を受け継ぎつつも、臨済のような韜晦な表現はせず、あくまでも平易に、人々によりそって明解な教えを説いたことで、その弟子は五万人もいたというから、歴代の禅師の中でも抜群に大きな存在であった。
一方、そういう立派な(?)禅僧とは違い、ひねくれていたのがあの有名な「一休さん」こと一休宗純である。
一休についてはわかりやすい入門書もあるが、私の場合、水上勉『一休』によって彼を知った。本書は、かなり取っつきにくい本である。一次資料からの引用が多いし、考証は微に入り細に入り、大まかに一休を分かればいいや、という向きは辟易するに違いない。しかし一休の魅力を伝えるには、そういう作業が必要なのだと思う。
社会派推理小説で有名な著者の水上勉は、実は臨済宗のお寺で修行していて、しかもその後仏教から離れた経歴を持つ。だから禅宗について詳しい一方、禅宗への批判的視点もあって、本書ではそのバランスが絶妙に調和している。
一休は、決して、立派な禅僧ではなかった。権力に反抗し、形式に堕した禅宗の実態を批判したが、 自身が清廉だったかというとそうでもない。いや、それどころか、人間の本当の姿を極める、などといって性愛の世界に溺れ、その上にそういう自分を完全に肯定することもできず、一生煩悩のままに生きたようなところがある。彼は貴族社会を批判したけれども、実際には内心貴族に憧れ、しかも憧れてしまう自分に苦しみながら、その苦しみを誤魔化すために魔の道へ入ってしまうひねくれた求道者であった。人は、彼を「風狂僧」と呼んだ。
私のハンドルネームの「風狂」は、実はこの一休宗純から来ていて、私はこのひねくれ者の一休に憧れるのである。
今まで、禅宗の中でも臨済宗の話ばかりが続いたので、曹洞宗のことについても触れておかなくてはならない。
曹洞宗と言えば、やはり巨大な存在が道元であって、即ち『正法眼蔵』がその思想の最高峰であろう。ところが、私は未だ『正法眼蔵』を通読せずにいる。原文はかなり難しいものなので、私は石井恭二の『現代文 正法眼蔵』を第1巻だけ読んだ(全4巻)。第2巻の途中で止まっているというのが正直な状況だ。
だが、その本は決してつまらないものではない。
それどころか、道元は、我が国では空海以来の大思想家であったというのがよくわかる。一般的には、道元は「只管打坐」、つまりひたすら座禅・瞑想をすることにより悟りの境地に至るという方法で有名だが、『正法眼蔵』を読むとそれは彼の思想の一面でしかないと感じる。座禅は思索の方法ではあるが、それが全てではないし、「どう思索するか」もまた重要である。本書は、落ちついているときにゆっくりと取り組みたい本である。
『現代文 正法眼蔵(1)』石井 恭二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/01/blog-post_20.html
ところで禅宗というと、思想書そのものではないが、ここに紹介したい名著がある。それは『禅の歴史』(伊吹 敦)である。
本書は、禅をことさら神秘的・高遠なものと見ずに、極めてフラットな立場から禅の歴史を記述したもので、まずこのような態度で書かれた本が貴重である。そしてそのまとめ方も、大量の情報を手際よく整理し、あたかも高校の歴史の教科書のようにまとめている。
禅の歴史、というような専門的な事項が、高校の歴史の教科書レベルのわかりやすさでまとめられるだけでも相当に有り難いことであって、しかもそのまとめ方が無味乾燥(褒め言葉)と言ってもよいほど客観的である。
中国で生まれた禅が日本に渡り、また日本でも独自の発展を遂げるというその有様を、一切の虚飾なく、しかも大量の情報とともに、平易に学べる本は、おそらく本書以外にないであろう。
なお本書は禅の歴史の中でもいわゆる教理に限ったもので、文化史についてはほとんど触れられていない。著者は、禅の文化史についても本をまとめる予定ということなので、その本の完成を一日千秋の思いで待っているところである。
2018年7月26日木曜日
『ラッセル教育論』バートランド・ラッセル著、安藤 貞雄 訳
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルによる教育論。
本書(の原書)は1926年に書かれており、日本でいえば戦前のものである。だが、今の社会においても十分に先進的な考え方で教育が語られており、時代を超えた普遍的な価値がある。
ラッセルは、あくまでも哲学者・社会活動家であって教育の専門家ではない。本書は、ラッセル自身が子育てを行う中で考え、学んだことをまとめたものであって、一種の体験談とみなせるかもしれない(事実、随所に自分の子どもはこうだった、という事例が出てくる)。しかしここに書かれていることは、何にせよ思索が行き届いており、「私の場合こうでした」というような安易な経験談に堕することなく、人間が育つということの本質まで考究した教育論が展開され、一種の人間論、社会論の趣さえある。
ラッセルの教育方針を一言でまとめれば、「自発性を育てる」ということである。かつては、子どもを罰し時に褒美を与え、強制によって「望ましい活動」に向かわせるようにすることが教育であると信じられてきた。いや、今の日本社会においてもこれが教育だと思っている「教育者」は多い。しかし、ラッセルは子ども自身が「学びたい、成長したい」という自発的な願望を持っていると考え、その願望をこそ「教育の推進力」としなければならないという。
そして、我々が育てたい人間像を「もっと想像力にあふれた同情心と、もっとしなやかな知性を持ち、ブルドッグ的な蛮勇をあまり信用せず、技術的な知識をもっと信用する人間」と置き、こうした人間を育てるために必要な教育を順を追って考えていくのである。特に幼児教育の重要性を強調していることが本書の特徴である。
「第1部 教育の思想」では、こうした教育の前提となる考え方が整理される。
「第2部 性格の教育」では、主に幼児期における教育の要諦について、「恐怖」「遊びと空想」「建設的な心」「真実を語ること」といったテーマ毎にまとめている。その考えは非常に現代的である。
例えば、「生まれたばかりの赤ん坊でも、将来この世でしかるべき地位を占める人間として、尊敬をもって扱うがいい」と述べ、決して赤ん坊をしかってはいけない、その後も非常に控えめにしなければならないとしている。これは当時としてはかなり過激な考え方だったのではなかろうか。 叱ることが教育だと理解していた人が多いのだから。
その他にもこういう文章がある。これらを読めば、いかにラッセルの教育思想が先進的であったかわかるだろう。
「子供は、わけがわかるようになり次第、親にもまた親なりの権利があること、また、自分も最大限の自由を持ってよいけれども、他の人にも自由を与えなければならないことを悟らなければならない」
「現在見られる学校競技は、競争の精神の権化にほかならない。もしもその代わりに協力の精神をとりたいのであれば、学校の競技に変化をもたらさなければならない」
「人にはみんな、この世で一定の場所を占める権利があるのだから、自分の当然の権利を擁護することを何か悪いことのように感じさせてはならない」
「私たちは、わが子が公平で、正直で、率直で、自尊心のある人間になってほしいと願っている。私一個としては、わが子が奴隷の技能で成功するよりも、むしろ、こういう性質をもって失敗するのを見たいと思っている」
「必要なのは、禁欲的な自己否定ではなく、知性と知識によて十分に啓発された本能をのびのびと豊かなものにすることである」
「ねたみを防ぐには、幸福によるほかないと思われる」
また、ラッセルは性教育についてもかなり進歩的である。性教育は幼児期における質問に率直に答えることによって行い、思春期を迎える前に終えてなければならないというのである。これは私自身、実行が難しいと感じるが、考えてみれば理に適ったやり方であると思う。
さらに、幼児教育を十分に行うには保育園が適切であることを述べている。それはただ子供が集団でいることで多くを学べるからではなく、普通の親が科学的な教育を施すことは難しいから、「愛に支配された科学」を実践する専門的機関によって幼児教育を果たすためである。
「第3部 知性の教育」では、幼児期から大学に至るまでの勉強についての考え方がまとめられている。ここでもラッセルの考え方は先進的であり、いわゆる詰め込み型教育が否定され、子どもの自発性にも基づいた学びが強調されている。勉強は、教科書に書いていることを鵜呑みに覚え込むのではなく、「考えることを教える」ものでなくてはならないし、また何を教えるかについても不断の検証をしなくてはならず、カリキュラムを時代に合わせて合理化していくことが必要という。ただし伝統的な教育のうち、文学作品の暗記については、「ことばの美しさに影響を与える」として薦められている。
一方で、日本の公教育の現状と、ラッセルのいた当時のイギリス上流階級における教育の状況が違いすぎるので、ちょっと話の間尺が合わないところがある。例えば、6歳になるまでに世界史を学ぶ準備をしておくとか、14歳以前に外国語としてフランス語とドイツ語をネイティブの教師によって学ぶべきだとか。しかしこうしたことは技術的な些末なことであって、ラッセル自身は貴族として家庭教師から初等教育を受けたけれども、決してそうした特殊事情は絶対化されず、現代の日本においても適用可能な学習の考え方が述べられている。
本書において、唯一ひっかかったところは「赤ん坊に、自分は大事な人間なんだという意識を与えてはならない」という一文だ。これは逆なんじゃないかと思ったが、これはよく読むと、要するに昔の貴族の子育てのように、乳母や下女をかしずかせて王様のように育てるのがよくないということであった。この他の点では、全く違和感を抱いたところがない。1929年の本であるにもかかわらず、例えば男女に平等に教育を施すべきであるとか、本書に述べられる教育思想は現代の我々の意識と異ならず、それどころか現代においても先進的な主張が多いということが驚異的である。
いや、予言してもよいが、ラッセルが提唱する教育法は、いつの世であっても先進的であり続けるだろう。これは悲観的な予言である。ラッセル自身が述べる通り、「思慮ある親は思慮ある子供を作る」のであるが、世の中が「思慮ある親」ばかりになるということは、ありそうもないからだ。
だがラッセルはそうしたニヒリズムに陥らない。あくまでも教育の力を信じ、彼が述べる理想的な教育によって育った自由な男女が新しい世界を作っていくことを信じるのである。「道は、はっきりしている。私たちは、その道をとろうとするほど十分にわが子を愛しているのか。それとも、私たちが苦しんできたように、わが子も苦しむままにしておくのか」
「もしも、その気があるならば、私たちは、この黄金時代を一世代のうちに生みだすこともできないわけではない」
教育こそが、素晴らしい世界を作る唯一の鍵である。
本書(の原書)は1926年に書かれており、日本でいえば戦前のものである。だが、今の社会においても十分に先進的な考え方で教育が語られており、時代を超えた普遍的な価値がある。
ラッセルは、あくまでも哲学者・社会活動家であって教育の専門家ではない。本書は、ラッセル自身が子育てを行う中で考え、学んだことをまとめたものであって、一種の体験談とみなせるかもしれない(事実、随所に自分の子どもはこうだった、という事例が出てくる)。しかしここに書かれていることは、何にせよ思索が行き届いており、「私の場合こうでした」というような安易な経験談に堕することなく、人間が育つということの本質まで考究した教育論が展開され、一種の人間論、社会論の趣さえある。
ラッセルの教育方針を一言でまとめれば、「自発性を育てる」ということである。かつては、子どもを罰し時に褒美を与え、強制によって「望ましい活動」に向かわせるようにすることが教育であると信じられてきた。いや、今の日本社会においてもこれが教育だと思っている「教育者」は多い。しかし、ラッセルは子ども自身が「学びたい、成長したい」という自発的な願望を持っていると考え、その願望をこそ「教育の推進力」としなければならないという。
そして、我々が育てたい人間像を「もっと想像力にあふれた同情心と、もっとしなやかな知性を持ち、ブルドッグ的な蛮勇をあまり信用せず、技術的な知識をもっと信用する人間」と置き、こうした人間を育てるために必要な教育を順を追って考えていくのである。特に幼児教育の重要性を強調していることが本書の特徴である。
「第1部 教育の思想」では、こうした教育の前提となる考え方が整理される。
「第2部 性格の教育」では、主に幼児期における教育の要諦について、「恐怖」「遊びと空想」「建設的な心」「真実を語ること」といったテーマ毎にまとめている。その考えは非常に現代的である。
例えば、「生まれたばかりの赤ん坊でも、将来この世でしかるべき地位を占める人間として、尊敬をもって扱うがいい」と述べ、決して赤ん坊をしかってはいけない、その後も非常に控えめにしなければならないとしている。これは当時としてはかなり過激な考え方だったのではなかろうか。 叱ることが教育だと理解していた人が多いのだから。
その他にもこういう文章がある。これらを読めば、いかにラッセルの教育思想が先進的であったかわかるだろう。
「子供は、わけがわかるようになり次第、親にもまた親なりの権利があること、また、自分も最大限の自由を持ってよいけれども、他の人にも自由を与えなければならないことを悟らなければならない」
「現在見られる学校競技は、競争の精神の権化にほかならない。もしもその代わりに協力の精神をとりたいのであれば、学校の競技に変化をもたらさなければならない」
「人にはみんな、この世で一定の場所を占める権利があるのだから、自分の当然の権利を擁護することを何か悪いことのように感じさせてはならない」
「私たちは、わが子が公平で、正直で、率直で、自尊心のある人間になってほしいと願っている。私一個としては、わが子が奴隷の技能で成功するよりも、むしろ、こういう性質をもって失敗するのを見たいと思っている」
「必要なのは、禁欲的な自己否定ではなく、知性と知識によて十分に啓発された本能をのびのびと豊かなものにすることである」
「ねたみを防ぐには、幸福によるほかないと思われる」
また、ラッセルは性教育についてもかなり進歩的である。性教育は幼児期における質問に率直に答えることによって行い、思春期を迎える前に終えてなければならないというのである。これは私自身、実行が難しいと感じるが、考えてみれば理に適ったやり方であると思う。
さらに、幼児教育を十分に行うには保育園が適切であることを述べている。それはただ子供が集団でいることで多くを学べるからではなく、普通の親が科学的な教育を施すことは難しいから、「愛に支配された科学」を実践する専門的機関によって幼児教育を果たすためである。
「第3部 知性の教育」では、幼児期から大学に至るまでの勉強についての考え方がまとめられている。ここでもラッセルの考え方は先進的であり、いわゆる詰め込み型教育が否定され、子どもの自発性にも基づいた学びが強調されている。勉強は、教科書に書いていることを鵜呑みに覚え込むのではなく、「考えることを教える」ものでなくてはならないし、また何を教えるかについても不断の検証をしなくてはならず、カリキュラムを時代に合わせて合理化していくことが必要という。ただし伝統的な教育のうち、文学作品の暗記については、「ことばの美しさに影響を与える」として薦められている。
一方で、日本の公教育の現状と、ラッセルのいた当時のイギリス上流階級における教育の状況が違いすぎるので、ちょっと話の間尺が合わないところがある。例えば、6歳になるまでに世界史を学ぶ準備をしておくとか、14歳以前に外国語としてフランス語とドイツ語をネイティブの教師によって学ぶべきだとか。しかしこうしたことは技術的な些末なことであって、ラッセル自身は貴族として家庭教師から初等教育を受けたけれども、決してそうした特殊事情は絶対化されず、現代の日本においても適用可能な学習の考え方が述べられている。
本書において、唯一ひっかかったところは「赤ん坊に、自分は大事な人間なんだという意識を与えてはならない」という一文だ。これは逆なんじゃないかと思ったが、これはよく読むと、要するに昔の貴族の子育てのように、乳母や下女をかしずかせて王様のように育てるのがよくないということであった。この他の点では、全く違和感を抱いたところがない。1929年の本であるにもかかわらず、例えば男女に平等に教育を施すべきであるとか、本書に述べられる教育思想は現代の我々の意識と異ならず、それどころか現代においても先進的な主張が多いということが驚異的である。
いや、予言してもよいが、ラッセルが提唱する教育法は、いつの世であっても先進的であり続けるだろう。これは悲観的な予言である。ラッセル自身が述べる通り、「思慮ある親は思慮ある子供を作る」のであるが、世の中が「思慮ある親」ばかりになるということは、ありそうもないからだ。
だがラッセルはそうしたニヒリズムに陥らない。あくまでも教育の力を信じ、彼が述べる理想的な教育によって育った自由な男女が新しい世界を作っていくことを信じるのである。「道は、はっきりしている。私たちは、その道をとろうとするほど十分にわが子を愛しているのか。それとも、私たちが苦しんできたように、わが子も苦しむままにしておくのか」
「もしも、その気があるならば、私たちは、この黄金時代を一世代のうちに生みだすこともできないわけではない」
教育こそが、素晴らしい世界を作る唯一の鍵である。
2018年7月21日土曜日
『神道の成立』高取 正男 著
神道の成立過程を丹念に辿る本。
我々が普通に知っている「神道」は、明治政府によって作りかえられたものであるし、それ以前から続く両部神道、垂加神道、吉田神道などは、それぞれ神道の一流派ではあるが、それ自身が「神道」そのものであるとは言い難い。ではそれらの元になった「神道」はどのようなものであったかというと、これがなかなか難問である。
というのは、神道には明確な教義が存在せず、儀礼と儀式の体系の方こそ本体であるからだ。また古来の神祇信仰がそのまま神道となったのではなくて、古代国家の確立にあたって必要となった儀礼や儀式が、自然発生的な神祇信仰を援用する形で整備されたというのが実際のところである。
では、その儀礼と儀式はどのように成立したのだろうか、儀礼や儀式も時代によって移ろっていくものであるから、これが「神道の完成」という一時点を指定できるものでもないが、本書は奈良末から平安初期を一つの画期として神道の成立を述べるものだ。
「第1章 本来的な世俗的宗教」では、神道が俗権と対峙することなく、むしろ俗権と寄り添う形で発展したことが述べられる。
「第2章 神仏分離の論拠」では、平安時代の神仏分離が述べられ、神道が自覚されていく過程に於いて、道鏡政治への反発があったことが推測される。平安時代には、既に仏事と神事を混淆してはいけないという暗黙の了解があったようであるが、称徳天皇と道鏡による仏教政治が行われる中で神仏習合が進められた。ところが神護景雲4年(770年)に称徳天皇が薨ずると、この反動として一種の揺り戻し、復古的な政策が進められる。大中臣貴麻呂らによって伊勢神宮とその周辺で仏教色の排除が行われたのだ。
これは、それまで慣習として伝承されていた神道の祭儀を、改めて見直す契機となった。仏教に対抗するために、ただの伝承で済ますのではなく、それを理論化して改めて価値を与える作業が必要だったからである。これが神道の成立に大きな影響を及ぼした。
また本章では、寝殿・清涼殿の成立過程についてかなり詳しく述べ、それが儀式においていかなる意味を持っていたかを推測している。
「第3章 神道の自覚過程」では、桓武天皇が延暦4年に交野で天神を祀った背景を考察し、「天地にむかってこの国の秩序の樹立を訴えるひとつの思想的な実験」と位置づけている。さらに獣肉の禁忌や墓制の変遷を概観して、平安初頭以来「死の忌み」については庶民は意外と無頓着で、神経質であったのは中央政府の側であったことが結論づけられる。
しかし儒教や陰陽道、そして仏教の強い影響を受けていったことで、吉凶・陰陽の対比や仏教由来の浄・不浄の対比感が加わり、禁忌意識の肥大が始まったのである。神道は極端に禁忌意識、穢れの意識が強い宗教と思われがちだが、元来はそうではなく、むしろ仏教の影響によって禁忌意識が高まったという指摘は面白い。
「第4章 浄穢と吉凶、女性司祭」は、それまでの章で取りこぼした話題をやや散発的に取り上げている。例えば、貴族たちは肉親の墓参りをほとんどしなかったどころか、しばしばその墓がどこにあるのかすら知らなかった、という事実から古代の墓制・祖先崇拝を考察している。元来の神道では先祖崇拝の意識が非常に薄かったということだ。著者によれば、むしろ先祖崇拝は仏教の影響で醸成されたものではないかという。
また神道の成立時期に女性司祭(禰宜(巫女)、斎祝子(さいご)など)が後退していることも興味深い。元来の神祇信仰では女性が大きな役割を果たしていたのに、伝来の祭儀が再解釈され、儀式が整備されるにつれて神事における女性の地位が低下していったのである。これについては著者は立ち入って考察していないが非常に示唆的な現象である。
本書では神道成立の時点をおよそ平城天皇の即位あたりに置いている。平城天皇は即位にあたって年号を大同と改めたが、様々な理由からこれは貴族らから安易に過ぎるという批判が出された。それが神道による禁忌意識の成熟を象徴するものだというのである。そして神道が仏教と対峙する宗教として独立していく過程については、「聖武期から称徳期の仏教政治に対する一種の反作用として、儒教や道教の排仏論を援用した神祇信仰の昂揚がはかられ、多くの禁忌の架上と増幅がはじまって、貴族の心をとらえた結果」とまとめられている。
本書は論文を元に書かれたものであり、日本書紀や日本後紀などの一見些末な記事から当時の神道の特質を考察していくという地道な研究方法も相まって、ちょっと難解な本である。正直言うと、私もその全てを理解したとは言い難いが、ところどころにヒントとなるようなことが書いてある豊穣な本だ。
神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。
★Amazonページ
https://amzn.to/3zYAwgZ
我々が普通に知っている「神道」は、明治政府によって作りかえられたものであるし、それ以前から続く両部神道、垂加神道、吉田神道などは、それぞれ神道の一流派ではあるが、それ自身が「神道」そのものであるとは言い難い。ではそれらの元になった「神道」はどのようなものであったかというと、これがなかなか難問である。
というのは、神道には明確な教義が存在せず、儀礼と儀式の体系の方こそ本体であるからだ。また古来の神祇信仰がそのまま神道となったのではなくて、古代国家の確立にあたって必要となった儀礼や儀式が、自然発生的な神祇信仰を援用する形で整備されたというのが実際のところである。
では、その儀礼と儀式はどのように成立したのだろうか、儀礼や儀式も時代によって移ろっていくものであるから、これが「神道の完成」という一時点を指定できるものでもないが、本書は奈良末から平安初期を一つの画期として神道の成立を述べるものだ。
「第1章 本来的な世俗的宗教」では、神道が俗権と対峙することなく、むしろ俗権と寄り添う形で発展したことが述べられる。
「第2章 神仏分離の論拠」では、平安時代の神仏分離が述べられ、神道が自覚されていく過程に於いて、道鏡政治への反発があったことが推測される。平安時代には、既に仏事と神事を混淆してはいけないという暗黙の了解があったようであるが、称徳天皇と道鏡による仏教政治が行われる中で神仏習合が進められた。ところが神護景雲4年(770年)に称徳天皇が薨ずると、この反動として一種の揺り戻し、復古的な政策が進められる。大中臣貴麻呂らによって伊勢神宮とその周辺で仏教色の排除が行われたのだ。
これは、それまで慣習として伝承されていた神道の祭儀を、改めて見直す契機となった。仏教に対抗するために、ただの伝承で済ますのではなく、それを理論化して改めて価値を与える作業が必要だったからである。これが神道の成立に大きな影響を及ぼした。
また本章では、寝殿・清涼殿の成立過程についてかなり詳しく述べ、それが儀式においていかなる意味を持っていたかを推測している。
「第3章 神道の自覚過程」では、桓武天皇が延暦4年に交野で天神を祀った背景を考察し、「天地にむかってこの国の秩序の樹立を訴えるひとつの思想的な実験」と位置づけている。さらに獣肉の禁忌や墓制の変遷を概観して、平安初頭以来「死の忌み」については庶民は意外と無頓着で、神経質であったのは中央政府の側であったことが結論づけられる。
しかし儒教や陰陽道、そして仏教の強い影響を受けていったことで、吉凶・陰陽の対比や仏教由来の浄・不浄の対比感が加わり、禁忌意識の肥大が始まったのである。神道は極端に禁忌意識、穢れの意識が強い宗教と思われがちだが、元来はそうではなく、むしろ仏教の影響によって禁忌意識が高まったという指摘は面白い。
「第4章 浄穢と吉凶、女性司祭」は、それまでの章で取りこぼした話題をやや散発的に取り上げている。例えば、貴族たちは肉親の墓参りをほとんどしなかったどころか、しばしばその墓がどこにあるのかすら知らなかった、という事実から古代の墓制・祖先崇拝を考察している。元来の神道では先祖崇拝の意識が非常に薄かったということだ。著者によれば、むしろ先祖崇拝は仏教の影響で醸成されたものではないかという。
また神道の成立時期に女性司祭(禰宜(巫女)、斎祝子(さいご)など)が後退していることも興味深い。元来の神祇信仰では女性が大きな役割を果たしていたのに、伝来の祭儀が再解釈され、儀式が整備されるにつれて神事における女性の地位が低下していったのである。これについては著者は立ち入って考察していないが非常に示唆的な現象である。
本書では神道成立の時点をおよそ平城天皇の即位あたりに置いている。平城天皇は即位にあたって年号を大同と改めたが、様々な理由からこれは貴族らから安易に過ぎるという批判が出された。それが神道による禁忌意識の成熟を象徴するものだというのである。そして神道が仏教と対峙する宗教として独立していく過程については、「聖武期から称徳期の仏教政治に対する一種の反作用として、儒教や道教の排仏論を援用した神祇信仰の昂揚がはかられ、多くの禁忌の架上と増幅がはじまって、貴族の心をとらえた結果」とまとめられている。
本書は論文を元に書かれたものであり、日本書紀や日本後紀などの一見些末な記事から当時の神道の特質を考察していくという地道な研究方法も相まって、ちょっと難解な本である。正直言うと、私もその全てを理解したとは言い難いが、ところどころにヒントとなるようなことが書いてある豊穣な本だ。
神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。
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2018年7月19日木曜日
『長距離走者の孤独』アラン・シリトー著、丸谷才一/河野一郎 訳
シリトーの第一短編集。
表題作『長距離走者の孤独』の主題は、「大人の気に入る人間になんて、なってやるもんか」である。主人公スミスは盗みの罪によって感化院に入れられ、クロスカントリーの選手に見込まれる。その大会において、スミスは一位でゴール手前まで来るものの、所長のために1位を獲りたくないという反抗心からわざとスピードを落とし2位になった。
本作はこのスミスの心理を、クロスカントリーの息づかい、疾走のリズムを用いて丁寧に描写していくものであり、痛々しいまでの反抗心が鮮やかに表現されている。
問題となっているのはスミス曰く「誠実」さである。大人のまやかしの世界を拒絶しているスミスは、どうしようもない札付きのワルで、ウソつきだが、彼なりの論理で、大人の世界の虚構を見破っており、自分はそこに「誠実」に勝負しようと挑むのである。といっても、何かを変えようということはない。それは出口のない抵抗、抵抗のための抵抗なのだ。
その閉塞感は、本書に収録された多くの短編にも共通している。それは若さゆえの出口のなさだけではなく、戦争に翻弄される下層民の悲しさもある。戦争はこれらの短編のメインテーマではないが、それは通奏低音のように常に鳴り響いている。そして舞台はいつも下層民の、その日暮らしの生活だ。
私が非常に心に残ったのは、『漁船の絵』という作品。これはある夫婦が一度は別居状態になりながら、短い期間心の交流のようなものを取り戻すという筋書きのもの。心理描写はあっさりとしていて、別居中の奥さんとのよそよそしい会話もしごく簡潔であるが、主人公の心情が手に取るように伝わってくる。不思議なリアリズムと言うほかない。人生のはかなさ、悲しさといったものを感じさせる作品だ。
底辺の生活を共感の眼差しで描写した傑作短編集。
表題作『長距離走者の孤独』の主題は、「大人の気に入る人間になんて、なってやるもんか」である。主人公スミスは盗みの罪によって感化院に入れられ、クロスカントリーの選手に見込まれる。その大会において、スミスは一位でゴール手前まで来るものの、所長のために1位を獲りたくないという反抗心からわざとスピードを落とし2位になった。
本作はこのスミスの心理を、クロスカントリーの息づかい、疾走のリズムを用いて丁寧に描写していくものであり、痛々しいまでの反抗心が鮮やかに表現されている。
問題となっているのはスミス曰く「誠実」さである。大人のまやかしの世界を拒絶しているスミスは、どうしようもない札付きのワルで、ウソつきだが、彼なりの論理で、大人の世界の虚構を見破っており、自分はそこに「誠実」に勝負しようと挑むのである。といっても、何かを変えようということはない。それは出口のない抵抗、抵抗のための抵抗なのだ。
その閉塞感は、本書に収録された多くの短編にも共通している。それは若さゆえの出口のなさだけではなく、戦争に翻弄される下層民の悲しさもある。戦争はこれらの短編のメインテーマではないが、それは通奏低音のように常に鳴り響いている。そして舞台はいつも下層民の、その日暮らしの生活だ。
私が非常に心に残ったのは、『漁船の絵』という作品。これはある夫婦が一度は別居状態になりながら、短い期間心の交流のようなものを取り戻すという筋書きのもの。心理描写はあっさりとしていて、別居中の奥さんとのよそよそしい会話もしごく簡潔であるが、主人公の心情が手に取るように伝わってくる。不思議なリアリズムと言うほかない。人生のはかなさ、悲しさといったものを感じさせる作品だ。
底辺の生活を共感の眼差しで描写した傑作短編集。
2018年7月6日金曜日
『連環記』幸田 露伴 著
幸田露伴、最晩年の中編。
慶滋保胤(かもの/よししげの・やすたね)という実在の人物の人生を軸にして、保胤に関わった様々な人間の有様をあたかも玉が連なるように述べてゆく作品である。
それは、史伝のようでもあるし、随筆のようでもある。小説というにはフィクションの要素が少ないけれども、伝記のように忠実に保胤の人生を辿るものではなく、割合に自由に書かれている。作品の素材は伝統的なものであるが、形式としては既存の小説の分類にはうまくあてはまらない。
このように書くと、何か捉えどころのない作品のように思うかも知れない。でもこれは、実際にはぐいぐいと引き込まれてしまう本だ。それというのも、露伴の文体が冴え渡り、磨き抜かれているからである。
そこには、露伴若書きの『五輪塔』がそうであったような、名文・美文をものしてやろうという気負いも脱し、時にはくだけた姿も見せながら和漢を駆け巡る縦横無尽・自由自在な文体が展開されている。
それは、どことなく南方熊楠の、『十二支考』のあの天衣無縫の文体を思い起こさせる。しかし熊楠の文体がまるで龍のように天空にうねるものだとすれば、露伴のそれはあたかも仙境にあるかのように激しいところがなく、いうなれば自然体なのである。漢文や日本古典の重厚な知識を基盤にしつつも、取っつきにくさがなくスッと入ってくる。
ただし岩波文庫旧版(冒頭画像は新版)では、ルビがほとんどないため、若い人には少々難しい漢字があり読むのに苦労するかもしれない。だが無駄に難しい漢字が使われているわけではないので、その難解さも心地よい気がする。
本書は、露伴の到達した言語世界の精華である。
【関連書籍】
『五重塔』幸田 露伴 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_20.html
幸田露伴の若き日の傑作中編小説。
慶滋保胤(かもの/よししげの・やすたね)という実在の人物の人生を軸にして、保胤に関わった様々な人間の有様をあたかも玉が連なるように述べてゆく作品である。
それは、史伝のようでもあるし、随筆のようでもある。小説というにはフィクションの要素が少ないけれども、伝記のように忠実に保胤の人生を辿るものではなく、割合に自由に書かれている。作品の素材は伝統的なものであるが、形式としては既存の小説の分類にはうまくあてはまらない。
このように書くと、何か捉えどころのない作品のように思うかも知れない。でもこれは、実際にはぐいぐいと引き込まれてしまう本だ。それというのも、露伴の文体が冴え渡り、磨き抜かれているからである。
そこには、露伴若書きの『五輪塔』がそうであったような、名文・美文をものしてやろうという気負いも脱し、時にはくだけた姿も見せながら和漢を駆け巡る縦横無尽・自由自在な文体が展開されている。
それは、どことなく南方熊楠の、『十二支考』のあの天衣無縫の文体を思い起こさせる。しかし熊楠の文体がまるで龍のように天空にうねるものだとすれば、露伴のそれはあたかも仙境にあるかのように激しいところがなく、いうなれば自然体なのである。漢文や日本古典の重厚な知識を基盤にしつつも、取っつきにくさがなくスッと入ってくる。
ただし岩波文庫旧版(冒頭画像は新版)では、ルビがほとんどないため、若い人には少々難しい漢字があり読むのに苦労するかもしれない。だが無駄に難しい漢字が使われているわけではないので、その難解さも心地よい気がする。
本書は、露伴の到達した言語世界の精華である。
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幸田露伴の若き日の傑作中編小説。
2018年6月28日木曜日
『重野安繹と久米邦武—「正史」を夢みた歴史家』松沢 裕作 著
近代日本における最初の歴史家ともいうべき重野安繹(やすつぐ)と久米邦武の小伝。
重野安繹と久米邦武というと、明治政府が行った修史事業の中心的メンバーであったにも関わらず言論弾圧によって政府を去り、修史事業も頓挫したことで有名だ。しかしこの二人がどういった人物だったのかはよく知らなかった。特に重野については薩摩藩出身の人物であるのにこれまでなんとなく人物像は知らないで済ませてきた。そこで手に取ったのが本書である。
重野が歴史に登場するのは薩英戦争においてである。重野は漢学を修めた昌平黌(江戸幕府の最高学府)での人脈や学殖を買われ、薩英戦争の戦後処理の首席交渉官のような立場に抜擢される。その後、家庭の事情などから自ら政治の表舞台から去り、島津久光の命により「皇朝世鑑」という歴史書の編纂に携わった。明治維新後には政府に出仕し、明治8年には太政官正院修史局副長となって歴史家としての本格的な活動をスタートさせた。
一方、重野より一回り下の久米邦武は、佐賀藩において学者として活躍していたが、その名が知られるようになったのは明治維新後、岩倉使節団に随行してその記録『特命全権大使米欧回覧実記』を書き上げたことによる。彼は経済的なことにもかなり関心があったようで、文明比較論的な視座とともに当時はあまり顧みられなかった統計情報についても気配りしている。
この2人はその学識が認められ、長松幹(つかさ)、川田剛、小河一敏(おごう・かずとし)、などとともに明治政府の修史事業に携わることとなった。この事業は拡大や縮小を経て二転三転しながら進められたが、最終的には明治10年に「修史館」となり、重野と対立していた川田を追放して重野が主導権を得、ついに重野は「大日本編年史」の執筆に着手する。そしてその右腕になったのが久米であった。
この事業は、国家権力によって正史を編む、というものだった。よって、史料の収集も権力を背景に半ば強制的に行い、各地から大量の一次資料が収集された。これは強権的な側面もあったが、一次資料に基づく歴史の記述という日本の実証的歴史研究の出発点にもなり、この資料群は後に東京大学史料編纂所に引き継がれている。なお修史事業は明治21年に帝国大学に移管され、明治24年には史誌編纂掛となる。
重野は当初、漢学者として漢文による伝統的な史書を執筆することを考えていたようだ。ところが、実際に集められた史料を付き合わせてみると、従来『太平記』などで流布し歴史だと思われていたことが必ずしも事実ではないらしいという部分が目についてきた。重野は伝統的な史書の構成を批判してむしろ西洋の歴史学に範を取り、厳密な考証による歴史記述を志向していく。
そして明治20年台前半には、『太平記』の記述が事実ではないこと、特に楠木正成の忠臣児島高徳(たかのり)が実在の人物ではないことを主張してこれが問題となり、やがて重野は新聞などで「抹殺博士」なるあだ名で呼ばれることになる。国民道徳の重要な材料であった楠木正成の歴史が事実でないと主張することは、不道徳なことだとみなされたのである。
一方、久米は元来挑発的な論文を発表するきらいがあったが、そんな中、明治24年の「神道は祭天の古俗」という論文が大問題となった。この論文で久米は、神道は古代人類に普遍的に見られる原始的祭祀の一種であるとした。これは現代から見ると当然のことであるし、当時としても発表当初は学術誌に掲載されたこともあり問題視されなかった。
しかし田口卯吉というジャーナリストによって『史海』という一般誌に挑発的に紹介されたことで久米のもとには脅迫的な反論が届くようになる。久米は論文を撤回したが騒ぎはそれで収まらず、内務省はこの論文が発表された『史学会雑誌』と『史海』を発禁処分とした。さらに久米は辞表を提出して帝国大学文科大学教授と史誌編纂委員を依願免職した。これが有名な「久米邦武筆禍事件」(本書では「久米事件」と表記)である。
この事件には東京大学総長加藤弘之も積極的には擁護せず、それどころか重野ですら沈黙を守った。この時点で、修史事業は危殆に瀕していたといえよう。そして明治26年、井上毅は修史事業を抜本的に改革する案を閣議に提出。修史事業は肝心の歴史書はいつまでも出来あがらず、編纂委員は考証ばかりに力を注いでいる、と批判し、事実上歴史書の編纂を諦めるものであった。
こうして重野と久米は修史事業から去った。重野はそれでも引き続き一人の歴史学者として活動し続けた。重野は依然として漢学の大家であり、初代史学会長として歴史学会の重鎮であった。晩年には81歳という高齢でヨーロッパへの視察旅行にも旅だった。そして死の直前まで『国史綜覧』という編年体史書の編纂を続け、「大日本編年史」の夢を追い続けていた。
久米もまた旺盛な執筆活動を続けた。立教大学や東京専門学校(→早稲田大学)で教鞭を執り、『日本史学』『日本古代史』『南北朝時代史』などを出版した。だが久米の歴史記述は後世の史学からみると考証が甘く、やがて柳田国男らから批判された。
ちなみに頓挫した修史事業は、収集した史料の編纂と刊行のみが続けられた。今も東京大学で続けられている『大日本史料』『大日本古文書』である。しかし収集した史料はいかなる名目でも一切外部に漏洩してはならず、個人の論説の発表は制限された。「久米邦武筆禍事件」の再来を恐れていたのだ。重野や久米がいささか無頓着に学問の自由を謳歌したのとは違い、やがて国家が学問をも手中に収める時代がやってくるのである。
近代日本にとって「歴史観」が問題となった最初のケースについて生き生きと知れる良書。
【関連書籍】
『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post_23.html
明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧についての論考集。
いかにして言論の自由が失われていったか克明に知らされる良書。
重野安繹と久米邦武というと、明治政府が行った修史事業の中心的メンバーであったにも関わらず言論弾圧によって政府を去り、修史事業も頓挫したことで有名だ。しかしこの二人がどういった人物だったのかはよく知らなかった。特に重野については薩摩藩出身の人物であるのにこれまでなんとなく人物像は知らないで済ませてきた。そこで手に取ったのが本書である。
重野が歴史に登場するのは薩英戦争においてである。重野は漢学を修めた昌平黌(江戸幕府の最高学府)での人脈や学殖を買われ、薩英戦争の戦後処理の首席交渉官のような立場に抜擢される。その後、家庭の事情などから自ら政治の表舞台から去り、島津久光の命により「皇朝世鑑」という歴史書の編纂に携わった。明治維新後には政府に出仕し、明治8年には太政官正院修史局副長となって歴史家としての本格的な活動をスタートさせた。
一方、重野より一回り下の久米邦武は、佐賀藩において学者として活躍していたが、その名が知られるようになったのは明治維新後、岩倉使節団に随行してその記録『特命全権大使米欧回覧実記』を書き上げたことによる。彼は経済的なことにもかなり関心があったようで、文明比較論的な視座とともに当時はあまり顧みられなかった統計情報についても気配りしている。
この2人はその学識が認められ、長松幹(つかさ)、川田剛、小河一敏(おごう・かずとし)、などとともに明治政府の修史事業に携わることとなった。この事業は拡大や縮小を経て二転三転しながら進められたが、最終的には明治10年に「修史館」となり、重野と対立していた川田を追放して重野が主導権を得、ついに重野は「大日本編年史」の執筆に着手する。そしてその右腕になったのが久米であった。
この事業は、国家権力によって正史を編む、というものだった。よって、史料の収集も権力を背景に半ば強制的に行い、各地から大量の一次資料が収集された。これは強権的な側面もあったが、一次資料に基づく歴史の記述という日本の実証的歴史研究の出発点にもなり、この資料群は後に東京大学史料編纂所に引き継がれている。なお修史事業は明治21年に帝国大学に移管され、明治24年には史誌編纂掛となる。
重野は当初、漢学者として漢文による伝統的な史書を執筆することを考えていたようだ。ところが、実際に集められた史料を付き合わせてみると、従来『太平記』などで流布し歴史だと思われていたことが必ずしも事実ではないらしいという部分が目についてきた。重野は伝統的な史書の構成を批判してむしろ西洋の歴史学に範を取り、厳密な考証による歴史記述を志向していく。
そして明治20年台前半には、『太平記』の記述が事実ではないこと、特に楠木正成の忠臣児島高徳(たかのり)が実在の人物ではないことを主張してこれが問題となり、やがて重野は新聞などで「抹殺博士」なるあだ名で呼ばれることになる。国民道徳の重要な材料であった楠木正成の歴史が事実でないと主張することは、不道徳なことだとみなされたのである。
一方、久米は元来挑発的な論文を発表するきらいがあったが、そんな中、明治24年の「神道は祭天の古俗」という論文が大問題となった。この論文で久米は、神道は古代人類に普遍的に見られる原始的祭祀の一種であるとした。これは現代から見ると当然のことであるし、当時としても発表当初は学術誌に掲載されたこともあり問題視されなかった。
しかし田口卯吉というジャーナリストによって『史海』という一般誌に挑発的に紹介されたことで久米のもとには脅迫的な反論が届くようになる。久米は論文を撤回したが騒ぎはそれで収まらず、内務省はこの論文が発表された『史学会雑誌』と『史海』を発禁処分とした。さらに久米は辞表を提出して帝国大学文科大学教授と史誌編纂委員を依願免職した。これが有名な「久米邦武筆禍事件」(本書では「久米事件」と表記)である。
この事件には東京大学総長加藤弘之も積極的には擁護せず、それどころか重野ですら沈黙を守った。この時点で、修史事業は危殆に瀕していたといえよう。そして明治26年、井上毅は修史事業を抜本的に改革する案を閣議に提出。修史事業は肝心の歴史書はいつまでも出来あがらず、編纂委員は考証ばかりに力を注いでいる、と批判し、事実上歴史書の編纂を諦めるものであった。
こうして重野と久米は修史事業から去った。重野はそれでも引き続き一人の歴史学者として活動し続けた。重野は依然として漢学の大家であり、初代史学会長として歴史学会の重鎮であった。晩年には81歳という高齢でヨーロッパへの視察旅行にも旅だった。そして死の直前まで『国史綜覧』という編年体史書の編纂を続け、「大日本編年史」の夢を追い続けていた。
久米もまた旺盛な執筆活動を続けた。立教大学や東京専門学校(→早稲田大学)で教鞭を執り、『日本史学』『日本古代史』『南北朝時代史』などを出版した。だが久米の歴史記述は後世の史学からみると考証が甘く、やがて柳田国男らから批判された。
ちなみに頓挫した修史事業は、収集した史料の編纂と刊行のみが続けられた。今も東京大学で続けられている『大日本史料』『大日本古文書』である。しかし収集した史料はいかなる名目でも一切外部に漏洩してはならず、個人の論説の発表は制限された。「久米邦武筆禍事件」の再来を恐れていたのだ。重野や久米がいささか無頓着に学問の自由を謳歌したのとは違い、やがて国家が学問をも手中に収める時代がやってくるのである。
近代日本にとって「歴史観」が問題となった最初のケースについて生き生きと知れる良書。
【関連書籍】
『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post_23.html
明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧についての論考集。
いかにして言論の自由が失われていったか克明に知らされる良書。
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