観音像の種類と形態的特徴、その信仰についての読み物。
本書は、雑誌「大法輪」の特集を書籍化したもので、第一篇では観音像の種類とその形態的特徴が羅列的に述べられ、第二篇では、観音像で有名な寺の住職がその信仰や由来、エピソードについて1ページ程度ずつ寄稿している。
その構成から分かるように、この本は観音信仰について体系的にまとめたものではなく、観音像についての形態的知識、エピソードをやや散漫に束ねたものであって、ちょっと無味乾燥なところがある。
ところが、こういう宗教の本は無味乾燥にまとめた方が面白いというケースがままあって、「すごいんですよ」「霊験あらたかなんですよ」みたいなトーンで書かれるより、事実の羅列の方がずっと頭に入りやすい。
一番印象に残ったのは、沼 義昭(当時立正大学教授)の執筆する「マリア観音」の項。短いながら観音信仰の本質をえぐるような論考であり、蒙を啓かされる思いがした。
マリア観音とは、キリスト教の聖母マリアと観音が合体(習合)したものであり、かくれキリシタンが捕縛の手を逃れるために崇拝したものである。
ところで、仏教は男性原理が強い宗教であり、古来女性はそのままでは成仏できないとまで考えられて、女人変成(にょにんへんじょう)=女性が一度男性に生まれ変わって成仏するという思想まで生まれた。しかし一方で、人間は母性的な包まれるような慈愛も求めるものであるから、仏教においてもそういった包み込んでくれる存在が求められるようになり、やがてそれが観音信仰となっていった、というのである。その意味で、キリスト教におけるマリア信仰と非常に似通っているところがある。マリア信仰も、聖書には位置づけられない自然発生的な信仰であるが、観音信仰も元々の仏教にはその要素が希薄であった。マリア信仰と観音信仰には、女性原理の宗教的枯渇を満たすという共通の基盤があったのであり、この習合が起こったのも故なきことではなかった。
よって、観音像は(女性そのものでなくても)女性を思わせる形態が非常に多く、子授けや子育ての仏として信仰されてきたものが夥しい。多くの如来・菩薩が「人々を救ってくれる存在」とみなされてきたが、こと観音となると、例えば乳が出るとか、子どものない夫婦に子を授けるとか、女性にとっての切実で具体的な願いを聞き入れてくれる存在であった。こうしたことから、著者(沼)は、観音は「その本性がもともと一人の母神であったからと考えたい」としており、また「観音は海神として、水神として、山神として、その母性性において信仰されてきた」と述べる。
ちなみに、後で調べたところ沼は『観音信仰研究』という研究書を書いており、これは「観音を女神と位置付け、ギリシア神話やゲルマン神話などの女神と対比して論及した書」だそうである。そういう視点で改めて観音信仰を見直してみたいと思わされた。
事実の羅列であるだけに、かえって観音信仰について考えさせられた本。
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