2024年12月27日金曜日

『鬼無鬼島』堀田 善衛 著(『新潮日本文学47 堀田善衛集』より)

土俗化したキリシタン信仰を描いた小説。

本書の舞台となっているのは、鹿児島にある「鬼無鬼島(きぶきじま)」という架空の島である。ところが、鹿児島の人が読んでみれば、これは甑島をモデルにしていることがすぐわかる。いやそれどころか甑島そのものだ。また、「上ノ池(かみのいけ)」というもう一つの小説の舞台は、これは薩摩半島の西南端の「野間池(のまいけ)」であることもすぐわかる(野間池は池ではなくて港の名前)。

小説の冒頭では、上ノ池が神話の土地であることが説明され、野間岳をモデルとした「上ノ嶽(かみのたけ)」にはニニギノミコトとともに媽祖神が祀られていることも語られる。この辺りは、もはやモデルというより現実そのままを説明している感じだ。つまり、この小説はフィクションなのだが、地名をわざとらしく別のものにしているだけで、まるっきり現実の土地が舞台になっているのである。このほかにも現実の地名や、ちょっとアレンジされた地名が登場する事例は枚挙にいとまがない。

この物語は、「鬼無鬼島」には「クロ宗」という、隠れキリシタンが土俗化した信仰が残っている、という設定で、それに反発しつつもそこに飲み込まれそうになっている主人公の青年と、「クロ宗」の指導者「サカヤ」という立場の男との対立を軸に語られる(サカヤ=sacredであるらしく酒屋とは無関係)。この「クロ宗」というのも創作ではなく、甑島にはそういう信仰が確かに残っていたのである。

しかも、この小説では集落の様子や「クロ宗」の儀式、人々の「クロ宗」への想いなどがあまりにもリアルに描写されていた。そのために、この小説に描かれた「クロ宗」を現実のものだと錯覚する人が続出したほどだ。とりわけ、「クロ宗」では信徒集団の危機に際し、死に瀕した人の生肝を抜いて信徒が食べるという秘儀があった、という設定は強い印象を与え、甑島への風評被害までもたらしたという。

そのためなのかもしれないが、カルト的な(?)人気を誇るこの作品は昭和32年(1957)に出版されて後、一度も復刊・文庫化されていない。なお私は本書を単行本ではなく『新潮日本文学47 堀田善衛集』で読んだ(そのほか、『堀田善衛全集 3』にも収録されている)。

この小説はちょっと悪魔的な部分がある「クロ宗」への興味から手に取られることが多い(ようだ)が、作者堀田善衛が描きたかったものは、もちろんそういうことではない。

本書は、「クロ宗」を描いているようでいて、それに国家神道を重ねて語るものだと私は思う。「サカヤ」の男も、村では密かに「山ノ天皇」と呼ばれている。「クロ宗」は、国家神道のミニ版であり、村の生活すべてを規定する見えない呪力なのだ。

では、「クロ宗」の教徒である村の住人は、「サカヤ」の指導によって狂信的な行動に駆り立てられているのか。戦中の日本のように。

これが実はそうではなく、「サカヤ」の男も、「クロ宗」なるものがすっかり土俗化した迷信に陥っていることは認識しながらも、「クロ宗」を求める村の人々の無言の圧力によって「サカヤ」を演じさせられているように感じている。もちろん「サカヤ」であることは安楽な暮らしを保証するが、その心中にはどこか空疎なものがある。

一方、それに反発する主人公の青年も、「クロ宗」なんてまやかしだと思いながらも、その根底に不気味なものを感じている。それは仏教であれ神道であれ、信仰というものの淵源をたどっていけばたどり着かずにはおれない、人間社会そのものの不気味さだ。

つまり本書は、天皇制とそれを支える神話が空疎であることを批判しつつ、しかしそれを存立させている基盤は、人々の土俗的な信仰や迷信、集落の掟・しきたりといった、決して明文化されることはない暗黒の力であることを述べているのである。

そして、この物語が終戦直後を舞台にしていることと、主人公とその恋人が長崎で原子爆弾の被害を間近に見たという経験を持っていることは、さらにこの設定に陰影を与える。国家神道が原子爆弾とマッカーサーで吹き飛び、国民を支える思想はどこにもなくなってしまった、というアノミー状態(無秩序で無統制な混乱)と、それをむしろ心地よく思う若者を登場させることで、それにもかかわらず原子爆弾・マッカーサーでも吹き飛ばせなかった土俗的なしがらみを一層強調するのである。

このように、この小説は暗喩をめぐらすことで、はっきりとは書いていないながら天皇制に対して根源的な批判を加えているように見える。しかし本書のテーマは天皇制そのものではなく、それを支え、それどころかそれを改変しさえする民衆の土俗的信仰・ムラ社会なのである。それは、遠藤周作の『沈黙』(1966)において宣教師フェレイラが言う有名な台詞を思い起こさせる。「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」というあれだ。まさにこの「クロ宗」は、キリスト教という苗がムラ社会で腐りながら生育した奇形の宗教なのだ。

このように、本書は土俗的信仰意識という暗黒の力を克明に描いたものではあるが、そういうテーマは横に置いても、小説としてめっぽう面白い。ハラハラするような展開はスピード感があり、ほとんど一気に読んでしまった。また、会話文に出てくるキツい鹿児島弁が「クロ宗」をとりまく人々の土俗的な雰囲気を強調するのに一役買っている。

小説として面白く、その含意は非常に深い。ぜひ文庫化していただきたい一冊だ。

2024年12月21日土曜日

『日本仏教史 第1巻 上世篇』辻 善之助 著(院政期抜粋)

平安後期の仏教史。

辻善之助『日本仏教史』(全10巻)は、日本仏教史の金字塔であり、戦前にまとめられたものでありながら、現在までこれを超えるものは出ていない。もちろん古い学説に基づいている部分は多く(特に顕密体制論以前であることは大きい)、読書には少し注意を要する。

また、本書は東京帝国大学の講義録を元にまとめられたものであるためか、編年的ではなく、トピック毎に章分けがされており、例えば平安時代後期の章にも奈良時代の話題が出てくる。

またその記述は羅列的かつ資料集的な部分があり、私は普段本書を事典のように使っている。だが最近、私は院政期の仏教に興味を持ち、関連する部分を通読することにした。該当部分は「第6章 平安時代後期」ではあるが、先述の通り本書では章分けは時代と完全には対応していないため、「第5章 平安時代中期」の「第4節 国民生活と仏教の融合」から(p.489以降)を読書メモの対象とする。これは本書のうちほぼ半分の分量である。

なお、本書は旧仮名遣い・旧字体が用いられており、また和暦とともに皇紀が併記されている(←とてもわかりにくい)が、本メモでの引用は新仮名遣い・新字体に改め、必要に応じ西暦を付記した。

第5章 平安時代中期

「第4節 国民生活と仏教の融合」では、平安時代には仏教が国民生活に根を下ろし、平安京では様々な仏事が貴族の生活に組み込まれたことを述べている。平安時代は遊戯が盛んだった時代だとし、仏事も一種の遊戯・遊興として貴族に受け取られていたと指摘している。

なお本節は平安時代中期についてではなく、平安時代全体について述べている(前述のとおり、本書は編年的ではない)。よって、いつから多くの仏事が修されるようになったのかは明確ではない。ここで著者は近畿地方で行われていた仏事を一年を通してまとめている。その中に後三条天皇が創建した円宗寺や堀川天皇の尊勝寺の仏事も掲載されており、院政期の内容も含まれている。

「第5節 僧侶の社会事業」では、飛鳥時代から平安末期に至るまでの僧侶の社会事業を述べている(何度もいうが、本書の記載は編年的ではないのである)。

ここでの社会事業は、(1)救済事業(弱者の保護など)、(2)温室(浴室)、すなわち風呂、(3)動物愛護、(4)交通土木事業の4つに大別される。

特に院政期の事項として注意されるのは、白河法皇の殺生禁断である。白河法皇は諸国から献上される魚貝を停止させ、また諸国において漁網を焼かせた。その数8823帖。狩猟の道を断つこと4万5300余所に及んだという。

「第6節 浄土教の発達」では、奈良時代から平安時代末期までの浄土教の展開について源信を中心に述べている。

著者は浄土教を仏教の日本化の「最も著しい例(p.549)」という。「即ち浄土教の発達は、仏教の日本的特色を帯びるようになった最も著明な現象である(同)」とする。

浄土教の普及において画期的な意味をもったのが源信の『往生要集』である。源信はこれを宋の商人周文徳に「異域に此の志あるを知らしめんと欲す」と託した。「仏教渡来後凡450年、その間に於て、我邦より仏書を彼に伝えた事は、聖徳太子の三教疏の外、往生要集あるのみである(p.554)」。さらに源信は因明論についての論述も宋に送って批評を乞うている。さらに長保5年(1003)には、天台の教義に関する27の疑問を僧寂照に託して宋の智礼法師に送った。これの返答が「唐決集」として残っているものであるが、これに源信は満足できなかった。当時の源信の学問は宋をしのいでいたということになる。「本邦仏学の隆盛、遥かに宋を凌いだ状況を見るに足るのである(p.561)」。

このように述べてから、本節では奈良時代からの浄土教の発達についてまとめている。最も浄土教が高揚したのはやはり平安時代で、源氏物語、栄花物語、紫式部日記などにも浄土教の影響が見られる。藤原道長は浄土教を忠実に実践し、一日に十何万遍もの念仏をした。なお庶民に対して浄土教を喧伝したのは空也(本書では「こうや」と読む)である。

次に、絢爛な浄土教美術を紹介し、中でも「浄土芸術に於て源信に匹敵すべきものとして、時代は稍降るが、為成がある(p.583)」という。宇治の平等院鳳凰堂の壁や扉に書いた浄土九品の図などの作者、詫磨(宅間)為成である。さらには彫刻でも定朝という天才が出た。

さらに、『往生拾因』を著した永観(ようかん)、融通念仏を称した良忍などに触れ、武士の浄土信仰や極楽願生歌(いろは47字+1字を歌の始めと終わりに置いて作った48の信仰の和歌)、後白河法皇撰の『梁塵秘抄』に見える浄土教的内容などを紹介している。

「第7節 時代の信仰」では、彌勒浄土と観音浄土の信仰を例によって飛鳥時代から遡って述べている。

まず、彌勒浄土については金峯山が彌勒出世の地であるという伝説などを紹介している。後朱雀天皇は兜率願生をなし、堀河天皇は彌勒上生を願った。そんな堀河天皇の遺髪が(天皇の希望ではなかったらしいが)高野山に納められたのは興味深い。

次に観音信仰については、平安時代には三十三観音が成立しており、また今昔物語第16巻は全40篇が観音に関する説話になっている。こちらもかなり人気があったようだ。後白河法皇の蓮華王院(三十三間堂)の千手千眼観音像一千体というのも、観音信仰がいかに盛んであったかの証左である。また観音の浄土へいくための補陀落渡海(熊野沖から出航)が考案されるなど、熊野信仰は極めて盛んになった。特に上皇等の熊野行幸は、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇・待賢門院等に見え、院政期の一大流行であった。とりわけ後鳥羽上皇は熊野行幸を30回以上行っており、今熊野社も建立した。

「第8節 信仰の形式化」では、信仰が型にはまったり数にこだわったりするような、形式を優先するものに変容していったことを述べる。

摂関期から院政期には、仏教だけでなく政治も文化も型にはまったような形式化が進んだ。「当時の信仰は、一方に於ては、弥陀の安養浄土に生まれんことを夢見つつ、尚此の世の安穏栄華を祈る(p.620)」もので、「当時の寺院は恰も今日に於ける劇場に類する(同)」。清少納言が枕草子で「説経師は顔よき」(説経師はイケメンがいい)と言っているのはその象徴だ。

また、平安時代には仏教が世俗化した。今に残る平安時代の寺院は多くが寝殿造であり、「寺が仏法修行の場所でなくて、持仏堂の如く、住宅の一つとなったことを示す(p.622)」。「即ち寺の建立は恰も別荘を設けるようなものである(同)」。

ここで藤原氏(北家中心)が建立した寺院が述べられているが、基経―極楽寺、忠平―法性寺、師輔―法華三昧堂、兼家―法興院、道長―浄妙寺・法成寺、頼通―平等院……など、ほぼ一世代に一寺院以上を建立しているのは、改めて見てみると異常だ。それは真摯な信仰の表れではなく、「藤原氏は、代々寺を建てたが、その多くは、住宅となり別荘となった(p.630)」ためだ。事実、道長は法性寺内の阿弥陀堂で療養しそこで亡くなっている。「かようにして、此時代の信仰は、表面には殊勝気に見ゆるものもあるが、其の裏面に入って見れば、甚だ浅薄なる形式的のもので(同)」あった。

それは、阿弥陀像に五色の糸を結ぶといった入滅の作法、焼身の流行(そのはじめは熊野那智山住僧応照だという(『本朝法華験記』))、頚くくり往生、入水往生といったものにも窺える。こうしたものは、命をかけているので形式的というには憚られるが、その実は名聞のために行われたと考えられるものも多い。

さらに、院政期には「数が多ければ信仰が深い(p.644)」と考える風が生じた。その極端な例が小塔供養である。保安3年(1122)、白河法皇が法勝寺に五寸塔30万基を供養したのを嚆矢として小塔供養が盛んに行われ、追って八万四千基の小塔を供養するのが流行した。鎌倉時代の建久8年(1197)にも戦没者供養の八万四千基の塔が供養されている。また僧侶の得度も多ければ功徳を積めるという考え方になり、鳥羽天皇の譲位前の保安3年(1122)に「一万人度者」が行われたことが石清水文書に見える。さらに寺への参詣、念仏、写経(一切経や大般若経の書写)、卒塔婆(建仁2年(1202)、宜秋門院が百万本の卒塔婆を供養した)、造像(摺仏)など、あらゆるものが数の多きを恃むようになった。

仁平元年(1151)、藤原定信は自筆で一切経を写し春日社に奉納しているがが、これには23年もかかったという。また安貞2年(1228)には筑前宗像の良祐が42年かけて一切経の書写を行っている。ただ、これらは形式といえばそれまでだが、かなりの努力を必要とし、数を恃む思想とはやや違った内実も感じる。

ちなみに写経にあたってはその料紙にも非常に凝り出し、お経が芸術作品になっていった。変わったものや手が込んだものに経を書く風潮はエスカレートし、しまいには蛤に経を書くものもあらわれた(蛤経)。「かくの如く、意匠を凝らし新奇の趣向を考えた結果、初めは信仰に趣味を含めていたものの、漸く堕落の傾向をたどり、遂に玩弄的となり、道楽になり、骨董的になった(p.680)」。読経が一種の芸能となっていたのもその傾向の一つとして位置付けられよう。

「第9節 俗信仰」では、陰陽道によって迷信的な信仰が広まったことを述べる。

平安時代には陰陽道が発達し、貴族たちは迷信・占いなどに捉われるようになった。承和の頃からは「もののけ」が跋扈するようになり、承和10年(843)にはもののけを攘うための仏事が大極殿と真言院で行われた(=もののけ対応は陰陽道だけでなく仏教も動員された)。村上天皇の時代に現れた藤原元方大納言の霊が『栄花物語』に描かれているが、それによれば、村上天皇の女御であった元方の娘生は皇子を生んだが、その皇子が立太子できなかったことを恨んで死後宮中に現れたという。「かの元方の大納言の霊いみじくおどろおどろしく、いみじきけはひにて、あへてあらせたてまつるべきけしきなし(p.698)」だった。

この「霊」が具体的に何だったかはよくわからないが、ともかく当時の人は「霊」を実体として感じていた。こういうもののけを退治する「高名にして効験著しき僧侶」を「げんざ」または「げんじや(験者)」と呼ぶのだという(=修験者とは別)。そういう「げんざ」がどうしてもののけを退治するのかというと、まずもののけを誰かに憑依させ、その後祈禱などをした。このようなもののけは、「一条天皇前後、道長全盛時代を中心とし、冷泉天皇・円融天皇から三条天皇・後一条天皇・後冷泉天皇の頃までに及ぶ(p.705)」。もののけは藤原氏の権力が低下するとともに消えた。権力闘争にともなって現れたのがもののけだったのである。

「第10節 修験」は、修験道の発達について述べる。ただし辻善之助の時代にはまだ修験道について本格的に研究されていなかったために、記述は概略的である。奈良時代の役行者伝説から始まり、源氏物語や枕草子に現れた修験道的な記述を振り返り、勅撰和歌集に載せられた和歌を列挙している。

第6章 平安時代後期

「第1節 造寺興盛」では、院政期における造寺の流行と貴族社会と仏教の近接について述べる。

後三条天皇は仁和寺の近傍に円宗寺(えんそうじ)を建立した(初めの名称は円明寺)。さらに延久5年(1073)、自らの皇子である仁和寺性信親王から戒を受けて法諱「金剛行」となった。この性信親王は「密教の大徳にましまし、屡々宮中に法を説き、孔雀経法を修すること21度に及んだという。世に弘法大師の再来といわれた(p.719)」らしい。

白河天皇が建立したのは法勝寺である。これは非常に豪華な寺で、十一間四面の阿弥陀堂、丈六阿弥陀像9体などてんこ盛りである。これは道長の法成寺さえ凌ぐもので「王家の氏寺」と呼ばれた(『愚管抄』)。特に永保元年(1081)に起工した八角九重塔はつとに有名である。なおこの寺院の造営は、成功(じょうごう)によって行われた。成功とは、経済的な奉仕の代わりに官位を与えるものである。この時代の寺院は成功によるものが多い。

法勝寺に続いて、白河の地に続々と寺院ができ六勝寺となった。すなわち堀川天皇の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、崇徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺、待賢門院の円勝寺である。その他建立された寺院堂宇の数はおびただしく、ここに掲げることは割愛する。なおその中に、永久年間(1113~18)に建立された内山永久寺が挙げられていないことが気になった。永久寺は戦前あまり注目されていなかったのだろうか。

つづいて鳥羽上皇も造寺造塔に熱心だったが、そこで大治4年(1129)に「祇園塔」なるものを供養しているのが目を引いた。祇園塔とは何だろうか。鳥羽上皇は鳥羽の地に成菩提院を造営しているが、ここに「白河院の遺骨を仁和寺香隆寺よりこの院に移し(p.737)」たというのは興味深い。またここは美福門院の御在所となった。このほか、法金剛院、得長寿院、宝荘厳院、勝光明院、安楽寿院(←五層の宝塔があった)などが造営されているが、これら4文字の名称には何か意味があるのだろうか。「〇〇寺」ではなく「〇〇〇院」になったのは、これらの寺院がそれまでの寺院とは異なるものであるという意識を感じさせる。

鳥羽法皇は鳥羽に離宮(鳥羽殿)を造営し、保元元年(1156)に崩御すると「此に葬り奉り、上に塔を建て、弥陀像を安ず(p.741)」。この近傍に平等王院・成菩提院・勝光明院・証金剛院・金剛心院等がある。

「第2節 高野山と覚鑁」では、平安時代中期に荒廃した高野山が皇室とのつながりで復興した次第を述べる。

鳥羽上皇の頃、堂塔の修営が行われたが、鳥羽上皇は高野山に行幸しており、また高野山に覚法法親王が住した。覚法法親王は白河天皇の第4皇子である。彼は法勝・尊勝両寺の検校・最勝寺長吏・仁和寺検校・円勝寺長吏・歓喜光院長吏を歴任し「高野御室」と称された。彼が行った堂塔供養のリストが掲載されているが、このリストはこの時代を象徴するものである。白河(三重塔・五重塔・三重塔)・法金剛院三重塔・鳥羽三重塔・高陽院七重塔など塔だけでもすごい数である。

このような状況で覚鑁が登場する。彼は鳥羽法皇と美福門院の帰依を受けた。ここでは覚鑁の伝記的事実が縷々述べられるが割愛する。

後に高野山では納骨が盛んになるが、ここで高野山西谷にあった菩提心院の事例は注目される。これは保元3年(1158)、八条院の御願として、美福門院が建立したものである。これに先立ち八条院は出家しており、保元元年に崩御した鳥羽法皇の菩提のために建立したのである。ここの本尊は大日如来像であるが、ここに八条院剃染の御髪を本尊胎中に納め、また、別に建立した阿弥陀堂に安置した阿弥陀如来像にも八条院の鬢髪を胎内に納めた。これはこの時代を象徴するものである。なお高野山は女人禁制であるため、美福門院自身は菩提心院に参詣できていない(!)のだが、美福門院自身も崩御後、その御骨は遺命により菩提心院に納骨された。「高野山に骨又は髪を納むる風習は、この頃より始まったもののようである(p.764)」。

「第3節 僧兵の原由」では、平安時代後期に至って僧兵が盛んになった様を述べる。

その理由は、まず寺院社会が世俗化したことが挙げられる。特に出身の家柄によって寺院社会での昇進が決定されるようになり、平安時代の半ば以降には極めて若年の者が僧綱に任じられるようになった。平安末に至っては僧綱の濫出が甚だしく、僧正が一度に五人任じられることもあった。「斯様にして、僧侶は一種の准貴族(p.773)」となった。そして寺院内に派閥が形成されて派閥の利益を優先するようになり、遂には武力に訴えることになって僧兵が出現した。…と本書は述べているが、僧侶の貴族化と僧兵の出現は直接には結びつかないように思った。やや論理の飛躍がある。

また僧兵の出現の一因に、得度の制度の紊乱もある。平安時代では、奈良時代に比べてかなり安易に得度が行われた。早くも延喜14年(714)に三善清行は「諸寺の年分及び臨時の得度者、一年内或は二三百人に及ぶ也。就中、半分以上は皆是れ邪濫の輩也(p.784)」と述べている。

なお僧兵は延暦寺の良源慈恵が始めたという説があるが、これは根拠が薄いという。良源の時に比叡山に勢いがあったので、良源を悪し様にいうものがあったらしい。だが「良源は悪僧の禁遏に努めこそしたれ、之を勧むる等のことは有るべき筈はない(p.783)」。

では僧兵たちは何を求め争ったか。それは(1)僧位僧官の叙任(座主や長吏などの不服。大衆にとって望ましくない人物が任命されたなど)、(2)荘園の問題、(3)寺院同士の権力闘争、の3つに大別できる。

僧兵たちの嗷訴ではしばしば神輿や神木が登場する。永保2年(1082)、熊野山の大衆が神輿を奉じて入洛して嗷訴したが、これが神輿入洛の始めである。これに倣って、春日神社の「神木」が興福寺僧徒によって入洛するようになった。春日神社は藤原氏の氏神であるから、こうなると藤原氏は皆謹慎して朝廷に出仕せず政治が停止する。そうして興福寺は無理な要求を通した。それでも要求が通らない時は、「放氏」した。放氏とは、興福寺の大衆が春日明神に告げて勘当する、つまり藤原氏から除名するというものだ。これは藤原氏にとって恐ろしいことだった。春日明神の神木の入洛は平安末までに8回あったという。(それにしても神木とは具体的に何を持ってきたのだろう。生えている神木を伐ったわけはないし…。)

一方、叡山の僧侶たちは日吉の神輿を舁ぎ出した。まずは嘉保2年(1095)、叡山の僧侶たちが日吉の神輿を山上中堂に遷した(神輿動座)。これは興福寺の神木に倣ったものらしい。また祇園の神輿は長治2年(1105)に入洛し、これが神輿入洛の始めである。次いで同年、日吉の神輿も入洛している(日吉の神輿は9回入洛した)。様々な勢力が要求を通すために行動がエスカレートしていった結果、神輿を入洛させるという形態になったようである。もちろん神輿を奉じない嗷訴はおびただしく、「其の主なもののみ数えて見れば、円融天皇天元4年(981)に始まり後奈良天皇天文18年(1549)に至るまで凡そ600年間に、無慮240項に及んで居る(p.795)」。

ここで本書にはその嗷訴年表が約30頁にわたって(!)掲載されている。

「第4節 悪僧神人の活動」では、寺院や僧侶が起こした様々な騒乱について述べる。

まずは延暦寺と三井寺(園城寺)の争いである。天台宗では、慈覚大師円仁の門流(延暦寺、山門)と智証大姉円珍の門流(三井寺、寺門)に分かれて争うようになった。延暦寺は三井寺を4回も焼き討ちした。

1回目は、永保元年(1081)。これはそれまで三井寺の僧侶が天台座主に任じられたり、三井戒壇建立運動などでたまった不満があったところ、小さなトラブルが発展して叡山の僧兵が三井寺を襲ったものである。この時焼けたのは、堂院79か所、経蔵15所、塔婆2基、鍾楼6宇、神社4か所、僧房621、舎宅1493であったという。この時は7分の1燃え残ったが、追って叡山の僧徒は再び三井寺を焼き討ちしてことごとく残りを焼いた。

2回目は、保安元年(1120)。この時も延暦寺が三井寺側に鳥居を建てたという些細な問題から騒動に発展し、山徒は三井寺を全焼させた。

3回目は、保延6年(1140)。この時は三井の寺主慶仁の子が山門の下僧を殺害したことがきっかけで延暦寺が三井寺を攻め、堂塔僧房一宇を残さず全焼させた。

4回目は、長寛元年(1163)。三井寺から戒壇設立を求める訴訟があり、これが延暦寺を刺激した。朝廷では延暦寺の言い分を認めて、寺門の僧侶も山門で受戒するよう定めたが、これが実現するはずがない。こんな時に興福寺から横槍が入り、そもそも比叡山は興福寺の末寺であるから、三井の僧徒が延暦寺で受戒するのを停止し、延暦寺を興福寺の末寺と認めるよう朝廷に要請した。この状況に延暦寺は三井寺を襲って焼き討ちしたのである。

なお比叡山では仲間内での争いも多く、東西の両塔がしばしば合戦している。また座主と大衆の争いも多い。座主の人事は大衆の不満のタネであり、朝廷もそれを無視できなかった。

多武峰と叡山の争いも激しい(多武峰は叡山の末寺になっていた)。興福寺と多武峰の争いもあり、興福寺は多武峰を焼き払っている。寺院同士は対立していないところがないほどである。

先述のとおり興福寺と延暦寺も激しく争った。特に天永4年(1113)の争いは 延暦寺で出家した仏師法印円勢が清水寺の別当に補されたことを興福寺が不服としたことから争いが始まり(清水寺は興福寺の末寺だった)、延暦寺側が清水寺を破壊、さらに日吉の神輿で院御所に迫った。興福寺もこれに負けず、朝廷に入洛をちらつかせて不法を訴えた。板挟みになった朝廷は各社に奉幣して鎮圧を祈った。この時に石清水に納められた鳥羽天皇の宣命案に「獅子の身中の虫の自ら獅子を食うが如し」とあるのは有名である。さらに、東寺の寛助に命じて大徳威法を修し衆徒の鎮静を祈ったが、そのようなことに効果があるはずもない。この争いはついに両寺僧徒の直接の戦いとなり、結局それを鎮圧したのは武士である。

当然ながら白河上皇はこうした騒乱を好ましく思わず、強硬に取り締まりを行おうとしたが、「取締に方針が立たず、主義が一貫せず、朝には山徒の言に聴き、夕には南都の大衆の訴を容れる(p.871)」という調子だったから、有効な対策とはならなかった。このような僧兵の動乱に備えるために武士が抬頭したのも当然であろう。

嘉応元年(1169)、後白河上皇は薙髪し、園城寺で受戒した。これは先述の三井寺4度目の焼き討ちの後である。これは当然に興福寺を刺激し、大衆が蜂起して神輿を奉じて宮城に入り、神輿を建礼門の壇上に置き去りにした。これへの朝廷の対応はまったく方針の立たないもので、山徒の要求に従ったかと思えばそれを取り消すなど、混乱を助長している。

その他、悪僧神人の起こす騒乱は枚挙にいとまがなく、ここにいちいち記すのは煩わしいほどだ。そんな中から延暦寺の学徒と堂衆の対立の事例を述べる。これは治承2年(1178)から翌年にかけて起こった騒動である。「事の起りは、釈迦堂の堂衆に来乗房義慶という者があり、その所領が越中にあったが、其所へ学徒の叡俊という者が下向して、その所領を横領した(p.912)」ことである。ここで注目されるのは、堂衆が個人で所領を持っている人がいたこと、そして学徒(学侶)がその所領を横領していることである。ともかくこれをきっかけに学徒と堂衆が集団的に対立し合戦に至った。これは、前僧正明雲を天台座主に返り咲かせることで収まった。これは、平清盛が明雲と結託して、明雲を用いて山徒を抑えたためであろうという。

頼朝の挙兵後、山門寺門ともにこれに呼応するものがあると、平清房は三井寺を攻めてほとんど皆焼き払った。さらに重衡は南都を攻めて東大寺・興福寺を焼いた。「清盛にとっては、かくの如きは一向平気であったに相違ない(p.918)」。清盛は迷信的でなく、合理的思想の持主だったのである。ここで本書は擱筆されている。

最後に、これまでメモしたことを改めて振り返り、院政期を中心とした平安時代中期以降の仏教についてまとめておきたい。

まず、この時代には浄土教が非常に発展した。そしてその信仰は華美なもの、数量が莫大なもの、芸能的なものに傾き、遊興的な要素が強くなった。造寺造塔は非常に盛んになったが、それは寺院というより邸宅の要素が強い。またそれらは菩提寺の性格を強く持ち、納骨が寺院と強く結びついた。

平安時代前期までの朝廷は天台宗(延暦寺)との関連が深く、天台座主の叙任権も朝廷が引き続き持っていた。しかし次第に延暦寺の大衆が力をつけ(おそらくは独自の荘園などの経済基盤を持っていたためだろう)、朝廷が押し付ける座主を快く思わないようになった。一方、上層僧侶である学侶は大衆とは対立していたが、それでも朝廷に従順だったとはいいがたく、比叡山は混乱を極めた。その矛先が向かったのが三井寺(園城寺)であり、些細なトラブルから4度も焼き討ちをされたのは気の毒という他ない(なにしろほぼ20年ごとに焼かれている!)。

朝廷が、ままならない比叡山(天台宗)に代わって頼りにしたのが真言宗である。東寺や高野山を頼ったのははもちろん、天皇・上皇・女院たちはこぞって真言宗の御願寺を建立した。また高野山は、納骨を勧めることによって天台宗とは全く違う方向性で発展することになった。そして真言宗と朝廷とのつながりに一役買ったのが覚法法親王という白河天皇の皇子だったのはこの時代を象徴している。貴顕の人々は組織的に出家するようになり、出家の持つ意味は全く変わった。なお出家そのものではないが、定朝が仏師として初めて法橋という僧位をもらったのも、仏教の変質を示唆している。

このように、院政期は仏教史において大きなターニングポイントであった。辻善之助は、仏教が形式化して僧侶が堕落した、というように口を極めて批判しており、それは否めないにしても、大きな変革の時代の仏教として評価できる部分も大きいように思った。ただ、辻は批判的ではあっても、この部分の記述は非常に詳細であり、奈良以前の古代仏教が意外とあっさりした書きぶりなのとは対照的である。重要な時代であるという認識であったことは間違いない。

未だに価値を失わない、院政期仏教論の嚆矢。

※通常、本ブログでは書影を掲載しているが、本書は戦中に出版されたためなのか、函にも本にも表紙にあたる部分に一文字も書いていないため書影を掲載しなかった。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
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院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

『平安京と中世仏教——王朝権力と都市民衆』上川 道夫 著
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平安時代末期の歴史を仏教史を軸として述べる本。摂関期・院政期の仏教がそれまでとは違ったものになっていったことを、様々な事例から述べる良書。

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覚鑁(かくばん)についての唯一かつハンディな貴重な評伝。

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『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
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2024年12月8日日曜日

『平安京と中世仏教——王朝権力と都市民衆』上川 道夫 著

平安時代末期の歴史を仏教史を軸として述べる本。

平安時代末期、平安京は仏教都市化した。それは、この時代の仏教が次第に葬祭を担い、追善供養が貴族たちの必須の営みとなったことによる。空也が諸国修行中にたくさんの死体を集めて火葬し、念仏で追善を行ったのはその先蹤だという。延喜2年(902)の醍醐天皇は仏式で葬送されており、貴族社会では浄土思想の広まりとともに仏式の葬送が広がってきていた。

しかし、庶民はどうであったか。慶滋保胤は『日本往生極楽記』に庶民の往生伝を一つも載せていない。この時代、度重なる飢饉によって京都はしばしば餓死者の遺体で充満した。非常に厳しい暮らしを余儀なくされていた人々にとって、仏教は何の意味もなかった。これが本書を通底する視点の一つである。

元来、平安京には東寺と西寺しかなく、寺院の建立が規制されていた。内裏には真言院が設けられ、また大極殿では仏事が営まれたことを考えると、平安京では国家の仏事を大寺院に任すのではなく、直接内裏で実施するプランだったように思われる。それが摂関期には、貴族の邸宅内に仏堂が設けられるようになった(例えば藤原実資の邸宅)。

本書には982年~1143年に建立された「平安時代の邸内仏堂」が表にまとめられており、これが非常に興味深い。これは「浄土教信仰を実践する」ためであったとされ、それに付属して僧房までも持つ邸宅もあった。僧侶の在り方も律令制の時代とは変わったのである。

京内に寺院が設立されていく発端として重要なのは、「源融(みなもとの・とおる)の邸宅河原院が、10世紀末に孫の天台僧仁康によって寺とされたこと(p.39)」である。これは厳密には京外であったが、京内の六条院に接しており、これと一体のものとして捉えられていた可能性がある。

京内寺院としては、因幡堂、六角堂(初見は『御堂関白記』長和6年(1017))、壬生地蔵堂(伝承では寛弘2年(1005)開基)の3つが建立された。これらは例外的な存在であることは間違いないが、小規模とはいえ京内に寺院が建立されたことは、それまでと違った傾向として注目される。

一方、京外には11世紀の始めから寺院が乱立した。革堂(こうどう)、法興院、世尊寺、河崎観音寺、京極寺、祇陀林寺、六波羅蜜寺、法成寺などが摂関期に建立された寺院である。なおこれらの多くが京の東側にあることは何か意味があるのかもしれない。

このように、摂関期の平安京の仏教はそれまでとは明らかに異なった傾向を持っていた。それを著者は「摂関期仏教」と呼ぶ。では、どうして新しい仏教が成長してきたのか。従来、それは浄土教信仰の発展によると言われてきた。しかしその背景として著者は東アジアの仏教の動向に注目する。

北宋は仏教を媒介として周辺国を従える意図を持っていたが、日本政府は奝然が持ち帰った北宋皇帝からの国書に返信せず、事実上北宋の従属要求を拒否した。そのために、日本仏教は中国仏教から距離を置き、むしろインド仏教との直結を模索したのだという(p.56)。

なお、北宋の覇権は盤石ではなく、遼に押され気味であった。そして1004年に結ばれた澶淵の盟では実質的に遼に屈するのである。なお、日本僧が憧れたのが中国大陸の北側にある五臺山であるが、摂関期になると関心が南方にある天台山の方にシフトしてくる。これはこうした東アジア情勢に対応したものだったかもしれない。

続く院政期では、受領(ずりょう)による仏教信仰が盛んになった。受領は下級貴族であるが、任地(荘園)に赴任するにあたって、仏教をバックにつけていた。それは職務心得というべき『国務条々』(『朝野群載』所収)の最後の条に「験者(げんざ)ならびに智僧侶一両人を随身すべき事」とあるのでも知れる(p.73)。この「験者」は何を意味しているのか不明だが、任地へ僧侶を一名伴わなくてはならないというのは、支配階級の人々が仏教に何を期待したのか示しているような気がする。

寛仁3年(1019)、女真族が日本に来寇した(刀伊の入寇)。日本はこれをなんとか防衛したものの、朝廷は神事・仏事による沈静化を図った。同年、藤原道長(入寇の直前に胸部の発作に不安を抱いて出家していた)は突然として阿弥陀堂を発願し、強引に造営を始めた。翌年にはこれが無量寿院(後の法成寺)として完成している。なお、これを受領たちに造営させた、というのが面白い。荘園支配の見返りに寺院を造営させたのである。

先ほど「日本仏教は中国仏教から距離を置き」と書いたが、決して人的交流がなくなったのではない。それどころか、入宋貿易のために商人の行き来は盛んだったから、それに付随する形で私的に入宋する僧侶は多く、成尋(じょうじん)、戒覚の二人は五臺山と天台山の両方を巡礼したし、明範(みょうばん)は商人僧として遼に密航している(処罰されたらしい)。明範の弟子の範俊は北宋や遼の密教を参照して新たな修法である「如法愛染王法」を白河院のために行っている。院政期仏教では、それまでの天台宗中心から、真言密教を重視する方向となった(特に醍醐寺・随心院・勧修寺などの小野流と仁和寺を中心とする広沢流)。

12世紀には、東アジアの国際情勢は一気に流動化し、遼が金に滅ぼされ、また北宋も金に滅ぼされた(1127年)。この宋金交代が白河院の最晩年にあたる。この中国王朝の滅亡にあたって、日本こそが仏教の中心たろうとする意欲をもって、仏都平安京の建設が進められたと著者は考える。

本書には大治元年(1126)~大治4年(1129)に造営・供養された仏塔・仏像などが年表でまとめられているが(p.93~99)、その仏事・造仏・造塔の多さはちょっと異常なほどである。それらの特徴として、第1に「仏像100体」「泥塔3万7100基」など、異様な数の多さで造仏・造塔がなされていること、第2に愛染明王像・孔雀明王像・不動明王像など真言密教の造仏(←画像なのか立体なのか不明)が中心であること、第3に女院出産の祈りとして非常な頻度でそれらが行われていること(特に大治4年)、第4にそれらの造仏にあたって「等身仏」として院や女院などとの強い結びつきが想定されること、が挙げられる。

大治4年の白河院の葬儀では、そうした院政期仏教の数を恃む思想が先鋭的に示されている。この葬儀について『中右記』には「絵像5470余体、生成仏5体、丈六107体、半丈六6体、等身3050体、三尺以下2930体、堂宇、塔21基、小塔44万6630余基、金泥一切経書写、このほか秘法修善は千万壇、その数を知らず(p.100)」と記されている。これはほとんど狂信的といえる。ここまでしなければならなかったのはなぜなのか、仏教そのものの変質も当然として、そこに期待されるものが変わっていると思われるのである。

院政期仏教の具体的な様相を見るため、本書では2つの切り口を用意している。(1)嘉保2年(1095)9月24日に堀河天皇の健康回復を祈って行われた仏事と、(2)永久元年(1113)の1年間における平安京の動きである。

(1)では、①大極殿での千僧読経、②内裏清涼殿の昼御座(ひのおまし)での『大般若経』供養、③清涼殿の二間(仏間)で新写した丈六の十一面観音像の供養、④渡殿(わたどの)での読経、⑤東対代廊で経典供養(1年かけて一切経の読経を行う仏事の開始)、⑥諸寺での読経と講説、⑧五畿七道諸国ので観音供養、⑨延暦寺での千僧御読経、⑩万僧供と丈六仏五体の造立などが行われた。天皇を中心として大規模な仏教イベントが一斉に行われたのである。

(2)では、白河院政の一年を仏教中心に見ている。これは量が膨大なので気になったところのみメモする。

1月:大極殿で御斎会(ごさいえ)、真言院で後七日御修法(ごしちにちのみしほ)が行われた。大極殿でも仏事が開催されるのに、わざわざ真言院がもうけられているのは何故なのか。なお御斎会は顕教、御修法は密教の修法によるもののようだ。

2月:院御所では孔雀経法が行われたり、仁和寺の行信法親王(白河上皇子息)に愛染王法を開始させたり、内裏で陰陽道の泰山府君祭を行ったりしている。いろいろな行法・修法が総動員された。孔雀経法は月蝕による災禍を払うため、愛染王法は病気平癒を祈ったものであるらしい。

3月:堀河天皇の遺骨を仁和寺山陵(後円教寺陵)に葬った。

閏3月:東寺長者の寛助が内裏で五壇法を行った。一方、白河法皇は仁王講、仁王経法を別に行わせている。これらはいずれも国王を外敵から守護する仏事だという。延暦寺大衆が大勢下山し、祇園社の神輿を院御所の北門に運んで結集した。

4月:興福寺大衆も上洛し、興福寺大衆・延暦寺大衆と武士が戦い撃退した。彼らは白河院のやり方に不満を抱いていた。

5-6月:京では様々な場所で盛大な仏事が行われた。白河院御所では、東寺長者寛助が大北斗法を修している。北斗七星に祈る新式の祈りであるらしい。

7月:白河院の指示で貴族らの分担によって『大般若経』600巻が書写された。この時代はこういう書写が非常に多い。天永4年が永久元年に改元された。改元の理由は、天変・怪異・疾病・兵革である。法成寺で恒例の盂蘭盆会が行われた。 

8月:寛助が内裏で五壇法、孔雀経法を別日に修し、さらに院御所でも孔雀経法を行った。その褒美として寛助は東寺の国家的位置づけを引き上げる申請を行い認められた。

10ー12月:引き続き数多くの仏事や神事が行われた。東寺の灌頂会が勅会とされ、また寛助は東寺定額僧を10人加えることを求めて認められた。東寺長者寛助の政治力によって、明らかに東寺の権威が引き上げられている。 

このように、嘉保2年は1年を通して、京都で膨大な仏事・神事が行われた。そんな中でも南都北嶺(特に興福寺・延暦寺)の大衆と朝廷とは対立していること、真言宗(特に東寺)との癒着が大きくなっていること、また新しい密教修法が活用されていることは注目される。

摂関期から院政期には、京都の町並みも目に見えて変化した。それを象徴するのが仏塔の乱立である。この頃、京都をとりまく寺院の塔を百以上巡る「百塔巡礼」が流行したことはその象徴である。

10世紀後半にすでに百寺巡礼があり、これは一日か二日で京都周辺の寺院を徒歩で巡るものであった。つまり徒歩で巡れる範囲にそれだけの寺があったことになる。これが12世紀後半に向けて、さらに塔が新築ラッシュを迎える。本書には白河治政(1083〜1128年)における造塔(小塔を含む)の事例が表でまとめられており、法勝寺八角九重塔は例外としても、造塔がブームになっていたことが明瞭である。

これらの中から、木造高層建築としての塔のみを見ると、法勝寺の他、尊勝寺の東西二塔、白河泉殿の三重塔、最勝寺の塔、円勝寺の三重塔(2基)と五重塔、上加茂社の東西二塔、鳥羽の三重塔と多宝塔二基、仁和寺観音院の塔がこの時代に建設されている。

泥塔などの小塔の製作については、いちいち数えるのが煩わしいほどで、合計すれば何百万基と製作されている。

これらについて著者は、「泥塔を大量生産した目的は、白河上皇の「御息災安穏・増長宝寿」といった願いにあるという(p.151)」とし、また「造塔事業に力を注いだ白河院には、(中略)二つの意図があった。一つは自身の延命祈願である。もう一つは、I部第四章で述べたような、国際情勢を勘案した平安京の改造である(p.153)」と述べ、「塔の増築は、釈迦の遺跡を日本に据えるという意思の端的なあらわれであろう(同)」とする。確かに、銭弘俶八万四千塔の伝来など、大陸の造塔が刺激になっていることは間違いない(北宋や遼には法勝寺八角九重塔と同形の多層塔がいくつもあった)。

しかしそれにしても、造塔の異常なほどの多さはそれだけでは説明できないように思う。八角九重塔が一つでは十分でないのか。それだけの塔を造る意味はなんなのか。不思議に思った。

続いて新しい仏教を象徴するかのような秘密仏事「転法輪法」について、『覚禅鈔』に基づいて紹介している。この修法の元となる経典は中国から平安時代初期にもたらされたものであるが、この修法自体は12世紀に6回行われたことが記録に残っている。これはどうやら政敵の調伏法として行われたらしい。特に鹿ヶ谷事件のすぐ後に、後白河上皇が醍醐寺僧に命じて法住寺内裏にてこの修法を行わせているが、その実施責任者は後白河院の子、仁和寺宮守覚法親王であるというのも面白い。

この修法では、本尊を大輪明王(曼荼羅)として、転法輪筒という筒に依頼主の画像を入れ、その画像が調伏対象の「姓名」を踏みつけているようになっている。平たく言えば呪いの方法である。このような修法が最高権力者によって行われるというのは、時代の一断面として極めて興味深い。

最後に、このような新時代の仏教が民衆にどう受け取られていたのかという簡潔な考察がなされている。それを簡約すれば、豪壮な寺院の建立などは民衆にとってあまり意味はなかったが、御霊会や田楽運動を中心として、権力者の仏教とは違った形で民衆も主体的に仏教を求めていったのがこの時代である、ということである。そしてそうした民衆仏教の拠点は、地域共同体が支える里山の寺院となっていったという。

本書は全体として、摂関期から院政期の仏教を窺わせる数多くの具体的な事例が提示されており、いろいろと考えさせる。上のメモでは言及しなかったが平安京周辺の寺院の立地図なども見るだけで面白い。

ただし、院政期仏教の焦点となる院政と仏教の関わりについては、全体的にはよく分からなかった。また浄土信仰の展開において、院政期がどう位置づけられるのかについてもあまり言及されていない。どちらかというと、本書では院政と真言密教の深い繋がりを強調している。

摂関期・院政期の仏教がそれまでとは違ったものになっていったことを、様々な事例から述べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
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院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

2024年12月5日木曜日

『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著

院政の展開を述べる本。

本書は、後三条天皇から後嵯峨院政までを中心として、院政の展開を描くものである。ただし、院政という制度がテーマではあるが、平安期末から武家政権の成立、そして両統迭立の時代までの通史を朝廷(と幕府)の人間関係を軸に語っており、制度論ではない。

私が本書を手に取ったのは、日本史の中で院政期が手薄に感じていたことと、なぜ院政期には巨大な寺院が次々と建立されたのかという疑問があったからである。そして、なぜこの時代の為政者(上皇だけでなく将軍も)は出家したのかということも前々から不思議に思っていた。それは単に極楽往生を望んでいただけだったのか、それとも制度的に出家する意味があったのかどうか。ちなみに初の法皇(出家した上皇)となったのは宇多天皇である(昌泰2年(899年))。また、上皇(太上天皇)を「院」と呼ぶことは当たり前のようであるが、よく考えてみると「院号」というものは捉えどころがない。女性も院(女院)を名乗ったし、非常に高位の人の称号のようでいて、近世には修験者なども院号で呼ぶようになるのである。どうして上皇は「院」となったのだろうか。

結論を言えば、本書はこうした疑問にはほとんど答えてくれなかった。上述のように、本書の中心は「人間関係」であるからだ。巻末の人物索引には400名もの人名が掲げられている。大量の人物が登場し、主要な登場人物に限ってみても複雑な血縁関係で結ばれ、名前も似ている人が多いので、正直なところあまり頭に入らなかった部分がある。というわけで、本書の中心である「人間関係」は今回メモから外し、院政という政治形態についてまとめてみたい。

院政の前提となるのは摂関政治である。摂関政治とは、天皇の外戚(天皇の妻の実家)が摂政や関白を務め、ミウチで行う政治である。

摂関政治においては天皇の意志よりも外戚の意志が優先され、次期天皇の人事権も外戚に左右された。この背景には、藤原道長が多くの女子をもうけて4代にわたる天皇の中宮・女御を輩出したことがある。しかしその息子頼道は娘が一人しかなく、彼女は後冷泉天皇の皇后になったものの跡継ぎを生むことはなかった。その結果、摂関政治がゆきづまり、治暦4年(1068)、宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇として即位したのが後三条天皇である。

後三条天皇は新たな権力基盤を創出しようと意欲的な治政を進めたが、39歳の若さで譲位する。それは、「藤原氏出身の茂子(もし)を母にもつ皇太子貞仁(白河天皇)即位のあとに、藤原氏でない源基子が生んだ実仁を東宮とし、白河のあとに即位させる(p.30)」ためだったのではないかと著者はいう。院政の核には、皇位継承問題があるというのが著者の考えである。ただし後三条天皇は譲位からほどなくして亡くなってしまったため院政と呼ぶべきものは行われなかった。

白河天皇としては、異母弟の実仁に位を譲るよりは、自分の子に譲位したい。実仁は後に疱瘡で亡くなったが、まだその弟の輔仁がいた。そこで白河天皇は、わずか8歳の善仁を皇太子として、同日に譲位してしまうのである。この白河天皇の譲位、堀河天皇の即位をもって、白河院政の開始とされる。

摂関政治が自然消滅したのは、外戚が道長の嫡流に限定されて入内(じゅだい)できる家柄の女子が少なくなり、結果として外戚家の人間も減ったからである。摂関政治は、入内できる女子さえいればいいのではなく、摂関となりうる人間はもちろん、それを支えるミウチの公卿がいる。外戚家がチームとなって天皇を支えるのが摂関政治だとすると、入内できる女子の家柄が特定されてしまうとチームが組めなくなってしまい、摂関政治ができなくなるのである。

さらに、堀河天皇が若くして死去した後、堀河天皇の摂政を務めていた藤原忠実を、白河上皇は新帝鳥羽天皇の摂政に横滑りさせた。忠実は鳥羽天皇にとって外戚ではない。外戚ではない忠実が摂政になったことで摂関を世襲する家柄=摂関家が外戚とは独立に成立していくのである。忠実の家系としては、適齢の女子をみつけて入内させるより、摂関家として摂関の地位を独占することが優先されるから、むしろ外戚家の地位が高まらない方が有り難い。上皇・天皇の側としても、外戚家に全ての実権を握られるより、摂関家の権威を立てておいて比較的自由にできるほうがやりやすかったに違いない。こうして、摂関家と天皇家の利害が対立しつつもある面で一致したことによって院政が出現するのである。

院政は、上皇が執政することと思われがちであるが、実際には上皇が行政庁(太政官)を運営するのではない。やはり国政は太政官によって担われていた。これに対する上皇の関与は「非公式」であった。例えば朝廷の人事は「任人折紙」という非公式のメモによって事実上院がにぎっていた。

院には「院庁(いんのちょう)」という機関があり、かつてはこれが太政官に代わって政権を担ったと考えられていた。しかし院庁はあくまでも家政機関で、直接国政に関わる機能は持っていなかった。ではどうして非公式に太政官に介入したかというと、院司(院庁の職員)を主従的な関係によって把握することで従前の政治機構を掌握し、また院宣という私文書の発給が活用された。

院権力の確立に与ったと考えられているのが、寺社強訴である。院政期は寺社強訴が飛躍的に増加した時期であった。寺社強訴とは、寺社の権威をもって寺社の大衆(だいしゅ)が大勢で押しかけてくるデモのような団体行動である。寺社は大荘園領主であり、国家と利益相反していたと同時に、寺社や受領などと院の結びつきが事態を複雑化していた。要するにその原因の一端は院にもあった。そこで、寺社強訴に対する裁定が院御所で審議されるようになるのである。これをきっかけに、国政に関わる問題でも院御所での公卿会議が開催されるようになった。

また、院は独自の武力も持つようになる。所謂「北面の武士」である。その代表が平氏で、彼らは武力による奉仕だけでなく、荘園の寄進、造寺・造塔などによって院にとりいった存在であった。

また、院政の成立は荘園制と深い関係がある。 荘園の集積に早く取り組んだのは藤原忠実であった。そして荘園からの物品を集積する街として宇治が整備される。宇治は平等院を中心とした碁盤の目上の町並みとなり、藤原氏の「権門都市」となっていった。

一方の王家の方は、法勝寺の造営(1075)、有名な八角九重塔(1083)が白河天皇によって行われるなど白河(京の東に隣接する地域)に天皇家の御願寺群が造営されていった。こうした御願寺群の運営は、荘園を当てにするのではなく、国家的な給付としての封戸に基づくべきだというのが白河天皇の方針であったが、国司からの封戸納入の悪化によって荘園に頼らざるを得なくなり、院近臣をはじめとする院の周囲の人々の力で広大な領域型荘園が設定されていった。

ともかく、大荘園領主として藤原氏と王家が並び立つとその利益は相反する。藤原氏による荘園の集積を好ましく思わなかった白河上皇が藤原忠実を掣肘したのが、保安元年(1120)の忠実罷免事件である。

続く鳥羽院期に特に多くの荘園を設定して数々の御願寺を造営したのが藤原家成(摂関家ではなく末茂流)である。彼は「御願寺の造営を請け負って、その荘園が新たに必要となると、自分のもつ知行国での立荘を繰り返した(p.84)」。どうも、彼は立荘の名目として御願寺を使っていたような形跡がある。

ところで、院政の本質とは関係ないが、白河法皇(娘をなくして出家していた)が生前「わが崩後、荼毘礼を行ふべからず。早く鳥羽の塔中石間に納め置くべきなり」(『長秋記』)と命じていたのは興味深い。この塔とは鳥羽殿の三重塔である。鳥羽殿とは白河上皇が遊興の場として造営した京外の離宮であったが、鳥羽院政期には寺院と御所の両方が整備されて京外へ出た初めての「後院」(譲位後の御所)となり、また白河・鳥羽・近衛の3人の墓所ともなった。

後白河天皇の擁立にあたっては、本書に興味深い考察があるが「人間関係」の話なので割愛する。「保元の乱」で崇徳上皇と後白河天皇が対立し、また摂関家も分裂して主流側が壊滅した。勝者は後白河天皇だったが、権力基盤は脆弱で「家長不在の王権(p.114)」となった。こうした状態で政界の中心となったのが、旧鳥羽院の近臣たちである。なかでも最も活躍したのが信西(藤原氏傍流の出身で、身分の壁を打ち破るために出家していた)である。

後白河天皇は二条天皇に譲位したが、これは院政にはならない。後白河天皇は鳥羽法皇の王家領荘園をまったく継承できておらず、その大半を継承していたのが美福門院(鳥羽法皇の皇后)であったため、美福門院の下で信西が王家を取り仕切っていたのである。こうなると「反信西連合」が形成されざるを得ない。そうして起こったのが「平治の乱」である。

平治の乱では信西は脱出したものの自殺、後白河上皇は事実上の幽閉状態となり、そこで彼が頼ったのが平清盛であり、その結果として清盛は後に実権を得た。

そして後白河上皇は二条天皇と決別し、旧信西邸跡を中心として十町余の敷地を囲い込み、そこにあった墓地をわざわざ立ち退かせてつくったのが法住寺殿である。これは最初から自分の墓を造るつもりであっただろうという。

一方、二条天皇は永万元年(1165)に生まれてわずか7ヶ月(数え年2歳)の順仁(のぶひと:六条天皇)に譲位するが、二条上皇はその年の内に亡くなってしまった。後白河はこの状況で平清盛の妻の妹滋子に生ませた憲仁を8歳で即位させた。高倉天皇である。8歳の天皇と5歳の上皇。院政における天皇の意味するものを象徴的に表す光景だ。こうして二条の皇統が断絶して後白河の皇統が確立した。嘉応元年(1169)、後白河は出家し法皇となった。ちなみに前年の仁安3年(1168)には、その前年に太政大臣を退いた平清盛も出家している。

やがて後白河法皇と清盛は対立し、法皇は清盛への挑発を繰り返した。その結果、清盛は軍事力で法皇近臣を排除し、法皇を鳥羽殿に幽閉した。こうして後白河院政は停止される。軍事的に政権を樹立した清盛は、高倉院政を傀儡化することによって国政を担った(なお天皇は清盛と後白河の双方にとって孫である安徳天皇)。そして諸権門から逃れて清盛が全てを取り仕切る体制として福原遷都を断行した。

ここで面白いエピソードがある。「高倉上皇の夢の中に生母建春門院があらわれて、墓所のある京を離れたことに激怒したという噂(p.157)」があったそうだ(『玉葉』)。福原で高倉上皇が衰弱したため、 「万一のことがあるならば、後白河をその代わりとして院政を復活させるしかないと清盛は考え(p.159)」たというのも興味深い。なぜそうまでして院政にこだわったのか、そこがよくわからない。安徳天皇+摂政では十分でないという意識が間違いなくあったことになる。

ともかく、高倉天皇は僅か21年の生涯を終え、清盛の傀儡とはいえ後白河院政が復活した。そして清盛が亡くなると、その子宗盛は父とは違い優柔不断で、結局後白河に政権を全面的に返上する。こうして後白河院政が名実共に復活した。

ここまでが本書の約半分で、ここからは頼朝の挙兵、鎌倉幕府の成立といった話題になる。ただし、鎌倉幕府の動きは割愛し、院政に限って簡略にメモする。

後白河は頼朝と対立したが、後白河院政は頼朝が巧妙に牽制することによって存続した。そして法皇の没後、後鳥羽天皇が建久9年(1198)に僅か4歳の土御門天皇に譲位して、ここに後鳥羽院政が開始されるのである。この後鳥羽院政が、院政のピークである。国政の実権は幕府に握られながらも、後鳥羽上皇は遊興にふけった。「この時期の後鳥羽ほど、「自由」な上皇はいないのである(p.200)」。後鳥羽上皇の文化事業は非常に重要で、『新古今和歌集』の勅撰、管弦(琵琶)などは文化を通じて貴族を組織していくという新たなタイプの王権が創出した。

承久の乱では、後鳥羽上皇は冷静な判断力を失って討幕に先走った。これは朝廷対鎌倉幕府ではなく、あくまで上皇の挙兵であり、院方は圧倒的な劣勢だった。だが上皇としては延暦寺の僧徒が味方するものと踏んだらしい。ところが延暦寺も味方せず、追討宣旨の効果もなく後鳥羽は敗退した。

乱後、異例なことに多くの公卿が処刑され、後鳥羽と順徳の両上皇は隠岐と佐賀に流された(土御門天皇は自ら希望して土佐に流された)。ここで面白いのは、後鳥羽上皇が配流に先だって出家していることである。 なぜ配流の準備として出家したのか。

さらに面白いのは、戦後体制では、後鳥羽の同母兄ですでに出家していた守貞親王が後高倉法皇として院政を行っていることである。即位した経験のない後高倉法皇を担ぎ出して院政を執らせたのはなぜなのか。著者は「そのような院を置かねばならないほど、院政という政治形態が定着していたことを示す(p.227)」というが、それはそうとしても、実務上必要だったとしか考えられない。それがどのような実務であったのか、本書からは詳らかでない。

承久の乱で変わったのは、寺社の強訴に対する主体が院から幕府に移ったことである。これが院政の大きな曲がり角だったという。さらに皇位選定権においても、承久の乱後に即位した四条天皇の場合は幕府は介入できなかったが、四条天皇がわずか12歳で亡くなると、幕府の執権北条泰時は強硬に土御門天皇の皇子邦仁を押し、これが後嵯峨天皇として即位した。その後の皇位選定権は北条氏ににぎられることになる。院政を構成する重要な要素が、寺社の強訴への対処と皇位選定権であったが、このどちらもが形無しになったのである(実際、この時期は院政が行われていない)。

さらに、寛元4年(1246)、後嵯峨天皇は在位4年で4歳の皇子に譲位し院政を開始したが、摂関の人事権までも幕府に奪われる。こうして幕府の傀儡になってしまうかに見えた院政だったが、朝幕協調の路線になってきて風向きが変わる。それは所領関係の裁判において幕府と朝廷が連携して裁定することが重要だったからである。そこで幕府と朝廷の連絡を担当する関東申次が重要になり、受理窓口である伝奏制度や院の元で合議を行う院評定制も整えられた。こうした中で、幕府は後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を将軍として迎えるのである。このようにして、従前の非公式的かつ専制的な院政に代わって、制度化された院政が出現するのである。

文永9年(1272)に亀山天皇による親政が開始されると、「院評定制がそのまま内裏鬼間(おにのま)での議定制に継承され、議定の内容も議定衆の構成も、それまでの院評定と変わることがなかった(p.248)」。ということは、太政官を院庁が換骨奪胎し、院庁に行政機構が全て吸収されてしまったということになる。親政と院政は内容的に変わらないものになったのである。執政者が天皇であるか上皇であるかだけの違いになったということだ。

ここから本書は両統迭立について述べ、後醍醐の挙兵の経過を辿っている。さらに南北朝時代を経て、江戸時代になっても院政が行われていることを述べている。院政の最後は光格院政である。ただし、実質的な院政の最後は、足利義満が政務を指揮する体制ができた時だとしている。それから後の院政は、国政の実質を担っていないのである。

増補版で補われた「終章 院政とは何だったのか」では、院政の展開を改めて振り返って擱筆されている(本書全体の要約になっている)。

本書は全体として、院政がわかったような分からないような本である。それは、冒頭に書いたように制度論ではないからだと思う。院政を視点の中心に据えながらも歴史の展開を「人間関係」を軸に語っているので、その部分を理解するのに精一杯になってしまう。そして、院政の成立と深く関わっているのが荘園制であるが、本書では荘園制がごく簡単にしか解説されていないのも院政がわかりづらく感じる原因の一つだろう。

ただ、本書を読みながら、院政期というのが日本の歴史にとって画期的な意義を有していることが強く伝わってきた。院政期には、すでに中世社会の特質が先鋭的な形で表出しているのである。荘園制の拡大と所領紛争、武士の擡頭、寺社の変質などである。私は今まで院政期を古代から中世への中継ぎ的なものだと考えていたのだが、古代から中世へ脱皮するためのさなぎのような期間、大きな社会変動が起こった期間だと考えを改めた。

最後に、気になっていた院号について、こういう話があったのでメモしておく。 三条天皇の皇子敦明は、東宮を辞退して「小一条院」という院号が与えられている。本書ではこれは「上皇に準ずる待遇である(p.22)」としているが、院号にそういう意味があるのだろうか。院号の意味は別途追求してみたい。

制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/03/blog-post.html
荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。

2024年11月30日土曜日

『葬式仏教』圭室 諦成 著

仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。

日本では、葬式と言えば仏式と相場が決まっているが、日本に伝来した元来の仏教は葬式を行うものではなかった。それが葬式を行うようになった次第については、今では多くの研究が蓄積されている。本書はそうした研究の嚆矢となった、最も早くまとめられた葬式仏教論である(昭和38年(1963)の出版)。

なお、「葬式仏教」の語は、今では「葬祭だけを担う精神性を失った仏教」という批判の意を込めて使われることが多い。この語は本書によって広く知られるようになったのだが、実は本書ではそういう意味はなく、単に「葬式を担う仏教」という言葉として使われている。

ただし、「葬式仏教」に対する著者の見方は両義的だ。葬式を担うようになってはじめて仏教は民衆的なものとなりえた、という肯定的な評価をする一方で、はっきりとはそう書いていないものの、それが本来の仏教の在り方からは逸脱したものだという語気も感じられる。その背景に、著者は曹洞宗の僧侶でもあるということが関わっていそうである。

「第1部 政治と宗教」では、まずそもそも宗教とは何かが政治や国家との関連で述べられる。ここでは、神話が支配者にとって都合よく作為されたものであったことが糾弾されるような調子で主張されている。ここで著者が強調することは、宗教というものも作為の産物であるということだ。ここは葬式仏教を語る上ではあまり必要ないように思ったが、戦時中には宗教(国家神道)が為政者にいいように利用されたのだという怒りがこのような内容を書かせたのかもしれない。

さらに、神仏習合や本地垂迹説が触れられるとともに、僧侶や教団が世俗化・貴族化し堕落していったことが述べられる。著者はそれを「宗教として失格」とまで断じている。辻善之助の『日本仏教史』では、ことさらに近世仏教の堕落が強調されたのだが、本書ではさかのぼって平安仏教までが堕落していたとされている。

そして堕落した仏教界から抜け出たのが遁世僧と呼ばれる存在である。その先駆者として教信沙弥、空也、空阿弥陀仏などが取り上げられる。しかし遁世僧に対しても著者は批判的だ(!)。それは、(1)彼らの態度が逃避的でひたすら浄土往生のみに執心している、(2)苦行にこだわって、肉体的な苦痛に耐える以外の修行の形式を見出さなかった、(3)遁世するにも生活費は準備しなくてはならず、貧乏人には遁世者になれなかった、という理由からだ。遁世僧は総じて非社会的であったため、「社会不安がとりのぞかれると霧消すべき運命にあった(p.60)」。

葬式仏教の端緒を開いたのは、恵心僧都源信である。本書では彼の『往生要集』が詳しく紹介される。それが臨終に大きなウェイトを置いており、その実践として彼が二十五三昧講を組織したことが仏式の葬式を推し進める契機となった。

「第2部 葬式の展開」では、各宗派での葬祭の成立が述べられる。

まず葬祭や墓の民俗が概観される。そこには死霊を恐れて封じ込める意図と死者を悼む意図の両方が見られる。次に縄文時代からの葬法を振り返り、仏式以前の葬法がいかなるものであったか述べている。

まず天台宗の葬送について史料に基づいて述べているが、特に1036年の後一条天皇の葬式は興味深い。それは念仏→呪願→荼毘+念仏→土砂加持→骨を拾って寺に納骨、というものである。念仏僧が活躍していることとと、墳墓ではなく寺に納骨しているのが特徴的だ。天皇家は仏式の葬儀を最も早く受け入れており、ここでは御一条天皇以降の天皇の葬儀・納骨の例がまとめられている。

次に真言宗については、光明真言によるによる土砂加持と葬祭を述べている(しかしこれはむしろ律宗の特徴かもしれない)。真言宗では過去帳が重視され、また高野山では11世紀末から納骨の勧めが盛んになされるようになった。

次に浄土宗・浄土真宗。天台・真言に比べるとこれらは民衆に浸透するのがずっと早かった。『今昔物語』の「播磨国印南野において野猪をころした語」では、浄土教の葬祭が農村に浸透していた様子を窺うことができる。

次が禅宗である。中国の禅宗では、儒教の影響を強く受けて葬法を整備した。古い形は1103年に編纂された『禅苑清規』に見える。これでは「尊宿」と「亡僧」の葬法の2つを述べている(「尊宿」とは「仏法の真理を体得した僧」で「亡僧」とは「修行の途中で亡くなった僧」)。「禅宗の葬法が完成した12世紀は、中国の葬法のうえでも、そのピークの時期であった(p.122)」。この時期に司馬温公は仏教の葬祭を批判し、朱子は『文公家礼』を著して儒教の葬法を整備している。

さらに日本の禅宗での葬法を詳細に述べているが、日本の禅宗では僧侶だけでなく武家や庶民の葬法も担うようになっている。この中では、尊宿葬法で故人の肖像画を須弥壇の上にかける作法が興味深い(在家では棺の前に肖像画をかける)。これは現代の遺影の原型にあたるものだろう。ここで著者は面白い分析をしている。禅語録から座禅関係と葬祭関係のページ数を調べているのである。それによれば、臨済宗でも曹洞宗でも、13世紀には座禅関係が圧倒的だったのに、15世紀では葬祭関係が主になっているのである。禅宗は15世紀には葬式仏教になったのである。

「第3部 追善と墓地の発想」では、死者の冥福を祈る追善の仏事が徐々に肥大化していったさまを宗派ごとに述べている。

葬祭が魂をあの世に送るだけであれば墓は必要ないが、日本人はその魂がいつまでもどこかにとどまっていると感じ、ある程度の期間の祭祀を必要とした。つまり墳墓および追善のための法要や施設を設けたのである。その一つが五輪塔や宝篋印塔といった石塔である。

追善のための法要では、四十九日の仏事は10世紀頃から盛大に行われるようになり、百か日・一周忌・三年忌に加えて、様々な仏事が行われるようになった。平安時代ころには一周忌で終わっていたのが、鎌倉時代に入ると三年忌が行われるようになり、次第に追善は長期化した。

これは中国における仏事の長期化に対応していた。実は11世紀の中国では葬式・七七日・百か日・一周忌・三年忌という葬制が定まっていたのである。中国では偽経『十王経』に基づいて10回の仏事「十仏事」が確立していた。日本でも偽経『地蔵十王経』が創作された。これらにより、(1)初七日:秦広王、(2)二七日:初江王、(3)三七日:宋帝王、(4)四七日:五官王、(5)閻魔王、(6)六七日:変成王、(7)七七日:泰山王、(8)百カ日:平等王、(9)一周忌:都市王、(10)三年忌:五道転輪王、というように、追善の仏事とその主宰神が対応させられた。面白いのが、それぞれの仏事において「本来は地獄行きだが、追善の功徳によって次の王のところへ送られる」という先延ばしがなされることである。

さらに、12~14世紀頃には、七年忌、十三年忌、三十三年忌を加えて十三仏事となった。16世紀には、十七年忌、二十五年忌を加えて十五仏事という言葉も見えるようになる。しかし本来、仏教では中有の期間(49日)を過ぎれば転生して次の命となるはずで、こうした長期間にわたる仏事は仏教教理上では位置づけられない。光厳院が1332年の日記で「後嵯峨院以後代々すべてこのことなし。よって不審の間、由緒ならびに先例を忠性、憲守らに相たずぬ」としているのは面白い。こうした疑問に答えるために『地蔵十王経』が加工されて『十三仏抄』が15世紀ごろに偽作されているが、結局、なぜそうした偽経を作ってまで追善を長期化させたのかといえば、「信者の宗教心理をたくみに利用して、寺院がわが、追善の回数をふやしたまでのことである(p.173)」と著者は冷ややかだ。

ただ、そこには「信者の宗教心理」すなわち、死者を長く弔いたいという需要に基づいていたわけで、民衆の気持ちに寄り添っていたともいえる。さらに祥月と月忌が庶民の間でも一般化した。故人への仏事の回数はひどく増加したのである。

また、中世後期からは仏教は幼児の死に強い関心を持ち始めた。7歳までは死去しても仏事は行わないというのが普通だったのに、徐々に幼い子供にも仏事が必要であるとみなされ、「賽の河原和讃」(一重つんでは父のため…)も作られた。これは経典には全く根拠はない、民間信仰である。

このようになると、寺院経営は庶民の葬祭なくして成り立たなくなった。真宗では、念仏を唱えれば往生するという理念と追善とは両立せず、当初は追善を拒否していたが、蓮如に至って十王信仰を全面的に肯定し、追善の功徳を強調する「御文」を書いた。だがその中でも「三十三年なんどまでも、その追善をいたすことは、聖教のなかにあきらかなる説なしといえでも…」と書いているのは興味深い。蓮如としては追善に前向きではなかったが、それを求める庶民の要望に応えたいという気持ちがあったようだ。葬式仏教化は、仏教の庶民化でもあったのである。

ここで、日蓮宗と天台宗の庶民化について述べ、天台宗は特に庶民化が遅れたとしているが、その評価がまた辛辣である。曰く「天台宗は、その独自の葬法をすてて、浄土宗・真言宗・禅宗の葬祭儀礼のなかで、社会的に好評なものを採りいれて、あたらしい、ただし個性のない、万人向きの葬祭法をつくりあげた(p.188)」。

さらに流行した仏事として逆修と施餓鬼会が取り上げられる。特に施餓鬼会はなかなか類書では取り上げられない内容で面白い。施餓鬼会は平安時代から行われていたが、特に室町時代に追善の方法として流行した。施餓鬼棚の壇上に安置する位牌を「三界万霊牌」というが、三界の「霊」「幽霊」の冥福を祈るというのが仏教教理の上でどう位置付けられるのか謎だ。この頃、武将は戦争が終わるごとに大施餓鬼会を催しており、それは慈悲の心といううより「亡魂のたたりを封ずる呪術(p.198)」の面も大きい。敵味方を区別せずに供養するのも敵の死霊のたたりを恐れたからだと、いくつかの実例を引いて示している。その背景には、不遇な死に方をしたものは、必ずたたるという信仰があった。

さらに、盂蘭盆会、彼岸会について取り上げている。特に彼岸会は完全に日本製の仏事で、その初見は806年の崇道天皇のための仏事である。

「第4部 葬式仏教の課題」では、近世および近代の仏教がいかに展開したかが述べられる。

「葬式、仏事の普及版が一応完成したところで、1467年いわゆる応仁の大乱という、画期的大事件を迎えた(p.211)」。そして諸寺院は郷村に根を下ろし、農村の機構に深く浸透していったようである。寺院構成は「郷村の、自治的・惣的結合の確立過程に、照応する(p.257)」。

ここで本書では、宗派ごとの伝道についてまとめている。その詳細は割愛するが、要するにそうした運動の結果、1467年から1665年までの200年の間に、現在の寺院分布の大筋が出来上がったのだという。

次に近世~近代の寺院分布についてさまざまな史料によって述べている。ここで興味深いのは、別当寺(本書の見方では辻堂・神社などに寄生して成立した寺院)や山伏に注目しているところである。なお地域としては、東京、足利、会津、米沢、高山、能登、人吉が取り上げられる。これらの地域で、どんな寺院が建立されまた維持されたかを検証してみると、農民が仏教に求めていたものは、葬祭と治病だったということが言える。

江戸時代には檀家制度が作られ、全ての人はいずれかの寺院に所属させられることとなった。「宗門寺壇那請合の掟」は、檀那寺への奉仕を果たさなくてはならないという偽作の掟であるが、形式的に檀那寺に所属しなくてはならない以上の義務感を庶民に喧伝した。檀家制度には庶民から寺院が収奪するという弊害や、僧侶がその地位に安住して堕落するという問題が生じ、それらは様々に記録された。だが「この時代における堕落が、相対的にはなはだしかったと考えるよりも、何がゆえにそのことが、とくにこの時代に問題にされねばならなかったかを考えることが、問題の正しい提出の仕方であると思う(p.268)」として、著者は辻善之助の近世仏教堕落史観に修正を加えている。

さらに廃仏論(熊沢蕃山と中井竹山)と17世紀の廃仏を取り上げ、さらに吉田神道が葬祭を担うようになったことについて述べている。ここで天台宗・真言宗の寺院が中世末になると修験道の手に移り、山伏が神主化することで吉田神道に流れていくというシナリオが描かれている。神葬祭については、「儒葬祭の換骨奪胎にすぎない(p.282)」とこれも手厳しい。神葬祭の初見は1687年、吉田家から黒田肥前守京都留守居にあてた答申書にあり、実施の初見は1785年、寺社奉行が吉田家から許状を受けた神職などは神葬祭を行ってよろしいという寺社奉行の指令である。

さらに平田篤胤や廃仏毀釈について簡単に触れ、最後に明治維新後の檀家制度の廃止について述べているが、この部分は非常に簡略である。しかし「それから100年、葬祭宗教としての仏教の地位は、依然として牢固たるものである(p.291)」として擱筆している。

冒頭に述べたように、本書は最も早くまとめられた葬式仏教論であるために、非常に粗削りな面がある。例えば、ある項目ではかなり細かい議論をしたかと思うと、別の項目では極めて概略的にしか述べられない。だが本書が執筆された時期には、こうした研究がまだほとんど蓄積されていなかったことを鑑みると、それはやむを得ないと思われる。それに著者は論文ではなく様々な史料を博捜して、努めて実証的に述べている。いちいち史料の記述にあたる必要があるため、細かい議論に立ち入る必要が出てくるのである。

また、本書では常に各宗派の動向に目配せがしてある。仏教と十把一絡げにするのではなく、常に宗派ごとに分析しようとするのは緻密な態度である。

そして驚かされるのは、本書の後に様々な研究者によって展開される葬式仏教論の論点が、すでにほとんど全て本書に盛り込まれていることだ。本書は小著でありながら視野が非常に広い。私はこの分野の本をそれなりに読んでいる方だが、本書には原点としての新鮮さを強く感じた。

葬式仏教論の嚆矢である名著。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post.html
仏教が葬式を担うようになった変化を描く。葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

『葬式と檀家』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post_21.html
檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

『日本葬制史』勝田 至 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/02/blog-post.html
日本の葬制史の概説。葬送史をまとめることで、死への考え方の変遷まで垣間見える労作。

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2024年11月16日土曜日

『出羽三山―山岳信仰の歴史を歩く』岩鼻 通明 著

出羽三山についての概説。

出羽三山とは、山形県のほぼ中央に位置する三つの山であり、修験道の修行の山として栄えた有名な霊場である。だが私にとって出羽三山は土地勘のない東北のことなので、どうも印象がボンヤリとしている。そこで手に取ったのが本書である。

出羽三山は、かつては月山(1984m)、羽黒山(414m)、葉山(1462m)の3つの山を指したが、近世以降は葉山に変わって湯殿山(1500m)が三山に加わった。三山の中で羽黒山だけが低山なのが特徴的だ。

月山の史料上の初見は早く、平安時代に編纂された法制書『新抄格勅符抄』に宝亀4年(773)のこととして、「月山神」に神封2戸を寄せられたとある。『日本三代実録』にもしばしば月山神が登場する。

羽黒山が登場するのは古代から中世への過渡期である。その縁起によれば、崇峻天皇の子供である蜂子皇子が能除大師として羽黒山を開いたという。ただし、これは朝廷からは認められていなかった説である(神仏分離後に認められた)。なお羽黒山は熊野信仰との密接なかかわりがあったらしく、羽黒山には熊野権現が勧請されたのだという(『羽黒山縁起』)。

湯殿山の信仰はちょっと変わっている。山そのものがご神体なのではなく、山中にある温泉の成分が凝固した赤茶けた巨岩がご神体だからである。神仏分離以前は「ご宝前」と呼ばれたそうだ。史料に現れるのは中世後期の戦国時代である。

葉山に代わって湯殿山が出羽三山に含まれるようになったのは、信仰上の変化とともに、峰入りのルート整備に関わる理由ではないかという。

中世の羽黒山は諸宗派から構成されていた。「山頂のご本社を取り巻く寺々は真言宗、五重塔の周囲と門前町の寺や坊は天台宗で、臨済宗の寺も二カ寺あり、念仏寺院も三カ寺(p.42)」あったという。「羽黒修験」と呼ばれる存在は、こうした寺にそれぞれ所属していたのか、あるいはこれらの寺と独立に存在していたのかよくわからないが、ともかく江戸幕府の政策で、修験と認められるためには「本山派」か「当山派」のいずれかに属さなくてはならなくなった。そこで羽黒山別当の天宥は、寛永18年に天台宗の天海に弟子入りし、羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した。こうして羽黒山は本山派・当山派とは別の独立した地方修験の山として公認された。

だがその統一によって、三山の内部の天台宗と真言宗との争論が勃発した。出羽三山には7つの登山口があり(八方七口)、それぞれを別当寺が管理していた。うち3つが天台宗で羽黒山、うち4つが真言宗で湯殿山を押さえていた。それらが、寛永・寛文の二度にわたって湯殿山の祭祀権をめぐって争論を行ったが、それを「両造法論」という。この結果、幕府は羽黒山と月山は天台宗側に、湯殿山には真言宗側に祭祀権を認めた。出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分割されたことになる。地理的には「月山・湯殿山」が一体で、羽黒山が離れているのにこのように分割されたのは非常に政治的だ。

羽黒山は寛永寺の末寺になったことで後ろ盾を得、天宥以降の別当は日光山輪王寺宮門跡が務めることになった。また文政6年(1823)には羽黒権現は式内社の伊氐婆(いでは)神社であると主張して「出羽神社羽黒山三所権現」に正一位の位階が贈られた。また開山の能除太子に「照見大菩薩」の諡号も贈られた。三山の中では一番低い羽黒山が出羽三山で一番の権威を持っていたようである。

明治維新後、庄内藩には神仏判然令が明治2年5月に伝えられた。羽黒山は出羽神社(現在の出羽三山神社)と改められたが、寺院や堂塔などは仏地として残された。また月山山頂は神社とするが胎内岩付近は仏地とすることなどが取り決められた。このあたりは簡潔にしか書いていないがどういう線引きだったのか興味深い。さらに明治6年には西川須賀雄が出羽神社の初代宮司として赴任してきた。西川は、「すでに復飾していた羽黒山内の清僧修験の院坊を破却して山内から追放した(p.49)」。

羽黒山には、妻帯せずもっぱら修行に勤しむ清僧修験と、妻帯して宿坊を営み参詣者の受け入れを行う妻帯修験がいた。このうち「清僧修験の院坊」とは何なのか、本書には詳らかでないが気になった。彼らの住居だろうか。西川は仏教徒に転じていた妻帯修験にも神道への転換を迫った。西川は赤心報国教会を組織し、これが宿坊と各地の信者のつながりを認めたため、かつての修験たちは次第に神道へと属していった。

神仏分離に対しては三山それぞれと八方七口ごとにいろいろな対応があった。まとめると以下の通りである(p.65)。なお以下のリストで、「手向」等は七口の名前であり正式には「手向口」などであるが、「口」は省略した。

羽黒山    手向(とうげ)    寂光寺(天台宗)→ 出羽三山神社
月山  肘折  阿吽院(天台宗) → 八幡神社
月山  岩根沢 日月寺(天台宗) → 出羽三山神社
月山・湯殿山 大井沢  大日寺(新義真言宗) → 湯殿山神社
月山・湯殿山 本道寺  本道寺(新義真言宗) → 湯殿山神社
湯殿山    七五三掛(しめかけ)    注蓮寺(新義真言宗)→ 注蓮寺
湯殿山    大網  大日坊(真言宗豊山派)→ 大日坊

大雑把に言えば、羽黒山・月山は神道化、湯殿山は仏教に留まったということになるが、羽黒山でも手向の300余りの宿坊のうち正善院のみは仏教寺院として残った(戦後、天台宗から独立して羽黒山修験本宗となった(p.54))。上のまとめはあくまで別当寺の対応であって、その下にあった多くの宿坊はそれぞれの判断を迫られたのである。なお三山の祭祀権は、近世まではそれぞれの別当寺が保持していたが、神仏分離以後には、羽黒山の三山神社に祭祀権が一括された(p.51)。

こうした経過から、出羽三山は神仏分離によって(神道に全部変わったのではなく)神道と仏教に分かれ、現在でも伝統的な修行「秋の峰」は神道側と仏教側に分かれてそれぞれ行われている。出羽三山の興味深いところは、まさにこの神道・仏教が分割・共存の道を選んだところであろう。

ところで手向の宿坊では、妻帯修験は「霞」という中世以来の縄張りと、「檀那場」という信者の開拓を行った地域を持っており、「霞」は東北地方に、「檀那場」は関東地方に広がっていた(なお、他の口の宿坊はどうだったのか記載がない)。妻帯修験にも、別当直参の「恩分」と「平門人」という二つの身分があった。「恩分は別当から霞を支配する免許状を与えられ、帯刀を許され、役職に任じられた(p.69)」。檀那場を開拓したのは「平門人」の方である。また「羽黒山では、清僧修験に院号、妻帯修験に坊号が与えられた(p.70)」。…とあるが、「羽黒山が与えた」というのは、実際誰が与えたのかよくわからなかった。

ここまでが本書の第1章で、第2章では近世から現代までの出羽三山の参詣の実態、第3章では羽黒修験の修行(近世以前および現在のもの双方)について述べている。ここで少し疑問なのは、出羽三山と「羽黒修験」の関係である。すでに述べた通り出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分かれていたのであるが、「湯殿修験」が別に存在したとは書いていない。「羽黒修験」は出羽三山で活動した修験者の総称なのか、それとも羽黒山を拠点としていた修験者を指すのか本書には詳らかでない。なお第3章の記載によれば、羽黒修験の修行は「月山・羽黒山」で行われており(主な舞台は月山)、湯殿山には登らないようだ。

なお、天台宗側(月山・羽黒山)と真言宗側(湯殿山)では参詣の装束が異なっており、両山の境界には「装束場」という場所があり、そこで装束を着替えたのだという(p.153)。ということは、修行の場所が完全に分離していたのではなく、装束を替えて両山を参詣する人が多かったということになる。修験者は持ち場があったに違いないが、参詣の人にとっては境界は形式的なものだったかもしれない。

第4章は出羽三山の観光案内的な地理の説明で、特に「湯殿月山羽黒三山一枚絵図」という幕末に印刷された絵図を紹介して、近世における出羽三山がいかに盛況していたかを述べている。なおこの図は、一応「三山」となっているが、天台宗側(つまり月山・羽黒山)しか描かれていない。これは天台宗側によって作成されたからなのか、「語らずの湯殿山(湯殿山については語ってはならないとするタブー)」のためなのか分からない。

第5章では湯殿山に残る即身仏について述べている。即身仏とは仏教の捨身的な修行によるミイラである。庄内地方には6体の即身仏があり、うち1体は湯殿山の注蓮寺にある。出羽三山の即身仏は、湯殿山の仙人沢で「一世行人(ぎょうにん)」と呼ばれる宗教者が、人々の苦しみを代わりに受け止める(代受苦)修行によって、生きたまま土中に埋められて成仏したものをいう。だが近世では即身仏についてはあまり注目されておらず、あくまでも一世行人の生きている時の活動を人々はありがたいと思っていたようだ。それが近代に入ると即身仏は信仰の対象になるようになった。そこには、出羽三山の祭祀権を失った湯殿山が、新たな信仰の対象を求めたためではないかという。

第6章では出羽三山の食文化について述べている。羽黒修験たちの入峰修行の際の食事は極めて質素であったが、一方で宿坊で参詣者に提供される食事は食べきれないほど豪華なものだった(もちろん高額な謝礼を払った)。参詣が遊興化していたことは食事の面からも明らかである。

本書は全体的に簡明で読みやすく、わかりやすい……といいたいところだが、一読した印象は平易ながら、メモを取りながら再読してみるとどうもよくわからない部分が多い。それは近世以前の修験者および修験道の在り方について、わかったようでわからない概念的な説明をしているからである。

例えば、「羽黒山別当の天宥が、寛永18年に羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した」という記載についても、まず「羽黒山別当」の意味がよくわからない。出羽三山には八方七口にそれぞれ別当寺があったという記述はあったが、羽黒山の別当とは具体的に何を指すのか(寂光寺別当のことかもしれない)。また「羽黒山を末寺にする」とは一体何か。具体的にはどの寺院が羽黒山の末寺になったのだろうか。そして、仮に羽黒山を代表する寺院(寂光寺)が天台宗になったとして、「羽黒山を天台宗に統一した」ということの意味もよくわからない。真義真言宗の寺院が現実に存在しているのに、羽黒山を天台宗に統一するということの意味はなんなのか。こうしたことが、本書では全く説明されない。他の項目についても推して知るべしである。

だが、これが本書の大きな瑕疵とはいえない。本書を手に取る人の多くは「出羽三山のことについて大まかに知りたい」という人だろうから、あまり細かい話に立ち入る必要はないだろう。とはいえ第1章はもう少し説明がないと、修験道の知識がある人以外には理解が困難だと思う。

それから、これは編集の方針かもしれないが、出羽三山のそれぞれをあまり区別せずに書いているのもわかりづらい原因のように思う。「月山・羽黒山」と「湯殿山」の二本立てにして記述した方が私にとってはわかりやすかった。

出羽三山の概説としては簡明で平易だが、修験道関係の記述は理解が難しい惜しい本。

【関連書籍の読書メモ】
『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_5.html
修験道史の研究状況を整理した本。「第8章 羽黒派」(高橋 充)では、羽黒派の歴史と研究状況をまとめている。

『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/07/1.html
幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。

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2024年11月12日火曜日

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)

日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。

本書は、日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるといっても過言ではない。その結論は「解説」で新谷尚紀が端正に要約している。曰く「人は死ねば子や孫たちの供養や祀りをうけてやがて祖霊へと昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って子や孫たちの家の繁盛を見守り、盆や正月など時をかぎってはその家に招かれて食事をともにし交流しあう存在となる。生と死の二つの世界の往来は比較的自由であり、季節を定めて去来する正月の神や田の神なども実はみんな子や孫の幸福を願う祖霊であった(p.734)」。

こうして書いてみると平凡なようだが、それまでの日本人は六道輪廻の仏教理論とか平田国学といったものしかあの世の理論を持っておらず、この一見平凡に見える理論は、柳田が収集した膨大な民俗資料から帰納してまとめられた、初めて文章化された「平凡な日本人が抱いていた信仰・あの世観」なのである。

柳田はこの本を、昭和20年、空襲警報が鳴り響く中で執筆した。このような本を戦争中の切迫した状況で執筆するとは驚きだが、そこには、特に戦死したものをどうやって祀るかという問題意識と、家の断絶への危惧があった。ここが出発点となったことは柳田の限界というか時代の制約であった。しかし、国家神道が最も国民生活を支配した時期に書かれたにもかかわらず、本書は国家神道の影響が慎重に排除されており、ほとんど時代を感じさせない普遍的な価値がある。なにしろ、幸か不幸か、戦争中は柳田の学問が最も充実した時期にあたっており、しかも柳田はこの著作に渾身の力を込めたのである。ちなみに執筆期間はたったの2か月だという。

本書は(というよりも柳田の著作のほとんどがそうであるが)、随筆とも論考ともつかない文体で書かれており、芋ずる式に考察が進んでいく。それははっきりとした結論を積み重ねるのではなくて、いわば飛び石のように様々な事例をまたいで進んでいく方法であり、ここにその論理を要約することは難しいが、できるだけ要点を抽出してみたい。(以下、メモの部分は柳田ではなく「著者」に統一した。)

まず、そもそも「先祖」とはだれか。例えば、藤原家は遡れば藤原鎌足の血筋となるが、鎌足を先祖としては祀らない。先祖とは遺伝的な祖先であるばかりでなく、他でもないその家の始祖となる人物でなくてはならない。言い換えれば、他の家では始祖として祀らない人物がその家の祀るべき先祖なのである。だから分家は本家の始祖は祀らない。本家の始祖を祀るということは、本家の特権なのである。

ところで、平民の間での重要な祭りは正月と盆である。では正月はどんな神様を迎える祭りであるのか。それは、一軒一軒に訪れる神として観念された。であれば歳神様は一国を統べる大神であったはずはない。一方で盆は先祖の霊を迎えるものである。この二つは、日ごろはどこか遠くにいる存在が、決まった日に訪れるという共通した構造を持ち、一方は神事、一方は仏事であるが構造上の一致は偶然とは思われない。そして一軒一軒を訪れ、それぞれの家ごとに幸福を与えてくれる神は、先祖の以外には考えられない。歳神様は先祖の霊ではないかというのが著者の推測である。

ではなぜ正月に先祖の霊を祀るか。正月と盆は一年をほぼ二分する季節の分かれ目であり、暦という生活を支配するものの象徴であったからであろう。先祖の霊を祀るならばその先祖の年忌(命日)に祭りをすればいいような話であるが、もちろん命日などわからない先祖は多く、また命日に祀ることにすると、「命日に祀る先祖」と「命日に祀らない先祖」という区別を生じることとなる。もちろん家の始祖からの先祖全ての命日で祭りをするということは可能であるが、時代を経るにつれて煩瑣になっていく。よって、個別の先祖を祀るのではなくて、死後一定の時間がすぎたら、それは「先祖」 の「みたま」というものにまとめてしまうということが合理的だったに違いない。そうして、個別的でない「先祖」の概念が形作られ、歳神様と習合してしまったのだろう。なお、正月の16日が先祖を拝む日となっている地方は多い。

ところで、日本では田の神は山の神が下ってきたものとされる。そして稲の生育を見守った後で冬には山に帰っていく。これは日本全体に普遍的に見られる観念である。しかも面白いことに、漠然と春に来て冬に去るのではなく、特定の日に迎えて、特定の日に送るという民俗行事があり、気候の違いにもかかわらずその日が全国でかなり共通している。ここにも祖先の霊を祀るのと同じ構造がある。

盆は仏教行事ではあるが、それは元来の仏教にあったものではない。そもそも、死んだら輪廻するというのが仏教の考えなのに、なぜ毎年その霊が帰ってきて供養を求めるのか、仏教教理では説明ができない。しからば盆とはいったい何なのか。これが「盂蘭盆」の省略とは信じがたいと著者はいう。

ここで著者は「盆」をその古訓から考察する。「盆」の古代での訓は「ホカイ」であったのではないかと推測される。そして「祀」の訓も「ホガル・マツル・イノル」であったという。では「マツリ」と「ホカイ」は同じものであったか。著者はその用法を検証し、「マツリ」は祀る者と祀られる者の関係で成立するのに対し、「ホカイ」はその周囲に「不特定の参加者」を持つものであったと考える。乞食が『倭名鈔』で「ホカイビト」とあるのもその意味がある可能性がある。

しからば「盆(ホカイ)」とは何か。著者は、素焼きの土器であったろうという。つまり盆とは、供物を素焼きの容器に入れて奉げる祭りであったことになる。「その字がはからずも盂蘭盆会の中にもあるところから、これが大いに行われたものあろうと私は想像している(p.116)」。ただしこの説の弱点は、盆は中世以前には「瓫」の文字を使っていることで、「瓫」の字が「ホカイ」と訓じた例はまだ見つかっていない。

なお「盆」は、『和名抄』には「缶(保度岐=ホトキ)」とあり、『字鏡』にも「盆」を「保止支=ホトギ」と訓じている。こうしたことから著者は「死者を無差別に皆ホトケというようになったのは、本来はホトキという器物に食饌を入れて祭る霊ということで、すなわち中世民間の盆の行事から始まったのではないか(p.118)」という。

むかしの日本人は外来語の「仏(ブツ)」に「ほとけ」の訓を与えたが、では「ほとけ」という和語はもともと何を表していたのか。これは著者に指摘されるまで私も考えたことのない問題だった。著者の推測をもう一度繰り返すと、(1)素焼きの器に食饌を入れて祖霊を祀る行事があり、その器を「ホトキ」といい、そうすることを動詞化して「ホカフ」、それが名詞化して「ホカイ」となった。(2)「ホトキ」によって祀られる霊が「ホトケ」であった。(3)それが仏と習合して、仏を「ホトケ」と呼ぶようになった、ということである。

ただし、この仮説は「仏」を「ほとけ」と訓じたことのわかる古い事例を集めて検証してみなくてはならないが、本書では推測に留まり、コーパス的な調査はなされていない。

先祖を祀る方法は、第1に墓、第2に盆棚、第3に仏壇、第4に神棚、第5に村の氏神がある。墓は永続的なものではなく、盆棚や仏壇も一応三十三回忌を以て「弔いあげ」として供養を終わりにする場合が多い。そうして抽象的な祖霊となったものを神棚に祀るという構造になっているのではないか。では「氏神」はどうなのか。個々の家に祀ったものと重複しているのではないか。この「氏神」に対する著者の説明はなんだか歯切れが悪い(正直、よくわからない)。氏神を祀ることが国家的政策だったからかもしれない。

ともかく、墓に埋葬した時点では「荒忌の穢れ」があるが、それが仏壇、神棚、氏神と進むにつれて清浄になってゆくということはいえるようである。

では、死んだ魂はどのような世界へいくのか。日本神話には「黄泉の国」があり、また仏教には六道輪廻がある。黄泉の国は現世と別にあるものであり、六道輪廻でも魂は生まれ変わったり地獄に落ちたりして、ともかく魂は個性を保ったまま現世にとどまっていることはない。しかし日本人は、先祖の霊がさほど遠くないところにとどまっていて、子孫の生活を見守っていると考えていたらしい。そして六道説などと妥協するために、魂は実は「魂魄(こんぱく)」の2つがあって、「魂」は冥途に行くが「魄」は現世に留まるなどと無理に考えたものもあったのである。

では「あの世」はどこにあるか。この問題は、黄泉の国や六道輪廻の理論のためにかえって閑却され続け、平田篤胤が考究するまで誰も考えてこなかった「新しい問題」だという。著者は様々な事例から「あの世」を抽出して考察しているが、第1に「霊は(国に)留まって遠くは行かぬと思ったこと(p.166)」と第2に「顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけでなしに(中略)招き招かれることがさまで困難でないように思っていたこと(同)」をその特徴を挙げている。

であれば、そこは具体的にどこなのか。どうやら日本人は、そういう魂がふわふわとそのあたりに漂っているとは考えていなかったらしい。しかしそれがどこなのか、はっきりと表明されたことはついぞなかった。ここで著者は4月8日の大祭に注目する。「『神社大観』や『明治神社誌料』の類を読んでみると、旧暦四月八日を大祭の日としていた神社は、郷社以上にも相応に数が多(p.172)」い。また、4月8日に山登りをする習慣がそれとは別にある。それは別の行事ではあるが、そこに共通の何かがあったのではないか。

ここで著者は「賽(さい)の川原」に注目する。「さいの川原」は、川下ではなくなぜか山中に存在し、「地獄谷」のような地名も存在する。また、かつての常民は死者を山に葬っていたと思われる。とすれば、「さいの川原」はそういう墓所の名残ではないのか。つまり日本人は、「あの世」を漠然と山にあるものと観念していたのではないかというのが著者の推測である。

最後に著者は、日本人が最後の一念を重視する傾向、小さな子供が死んだ場合は生まれ変わりがあると思っていたこと、魂の若がえりの問題などに触れて擱筆している。

冒頭に述べたように、本書は日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるが、今ではやや批判的に触れられることが多い。このメモを読んだだけでも、その理由はわかると思う。第1に、日本人の信仰の多くが祖先祭祀に還元しうると著者は述べるが、その扱いが恣意的である。例えば祖霊である山の神もあるかもしれないが、自然信仰の山の神もたくさんあるだろう。第2に、日本全国でそれほどまでに家の構造が強固だったとは思われない。例えば私の住む南九州では、明治になるまで「氏神」など祀っていなかったようだし、百姓には公式には名字もなかったから家の観念が強固だったとは思えない。第3に、本書は膨大な民俗事例が引かれているが、歴史の史料は比較的参照されない。著者は民俗学は歴史の学問だと考えていたのだが、歴史が手薄なのだ。

このように、本書は随筆とも論考ともつかない体裁とも相まって批判は容易だ。しかし、だからといって本書の価値が低いということはもちろんない。著者自身も本書の脇が甘いことは十分に認識しながら、将来への課題としてまとめたものなのである。では、その後日本人の他界観が柳田國男以上に分析考究されたことがあったか。私はこういう分野を比較的読書しているが、未だ本書以上の論考は著されていないように思う。

日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

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2024年11月9日土曜日

『高野山信仰と霧島山信仰――薩摩半島域における修験道の受容と展開』森田 清美 著

薩摩半島における民俗文化を山岳信仰および修験道と関連させて述べる本。

本書では、紫尾山、冠岳、金峰山など、山岳を中心としてその周辺の民俗文化や神話・伝承を紹介している。

紫尾山では、石童丸物語が地元に実際にあった話として伝承されている。石童丸物語とは、「かるかや(刈萱)」として知られる説経物語で、本来の物語の場面は高野山(と比叡山)である。

紫尾山は「西州の高野山」と言われたというが、この石童丸物語が鶴田町や東郷町に残っており、「石堂山」という山もあるそうだ。東郷町(南瀬と斧淵)には、石童丸物語が人形浄瑠璃で伝わっている。

では、なぜ紫尾山周辺に石童丸物語が、史実として伝承されたのか。はっきりとは分からないが、著者は紫尾山には古くから熊野修験がやってきており、著者はその影響を重視している。高野聖もそこに関与していた可能性はあるが、むしろ熊野修験の関わりが大きいという(ただ、このあたりの根拠はよくわからない)。

本書ではあまり考察されていないが、仮に熊野修験や高野聖がやってきていたとして、なぜ石童丸物語が地元の史実として伝承されてきたのか、ということは不可解だ。彼らは熊野や高野山のありがたさを強調したはずで、紫尾山でそれを代用するとは思えないからだ。なお紫尾山には、高野山と同じく遺骨や毛髪などを山中に納める風習があったという(『三国名勝図絵』)。熊野修験や高野聖の直截の影響よりも、それが「民俗化」していったことを考えなければならないのかもしれない。

また紫尾山麓の「現王(げんのう)様」という不思議な信仰が紹介されている。これは本書中で最も興味深かった。現王様とは、さつま町泊野・白男川・二渡折小野、薩摩川内市旧高城町・吉川・長野などにみられる信仰である。現王様は、都から「泊野現王・津田万右衛門・笹野道清」といった三兄弟(あるいは三俣容良を加えた4兄弟、さらに折小野五郎七も加える場合もある)が下ってきて、田畠を切り開いたとか、超人的な力を持っていとかで、後に神として祀られた、とされる。それは農耕神というより狩猟神であったようだ。

この信仰の背景には、日光修験による狩猟民俗があったのではないかと著者は推測している。ただ、「(現王様は)現人神と呼ばれる霊験あらたかな人神という意味である(p.95)」などと速断しているようにも見受けられる。それは貴種を先祖とする伝説ではあっても、現王様には人神の要素は薄いように思った。また著者は東北のマタギ集団が来ていたのではと推測しているが、これも根拠はよくわからない。ところで知人に「現王園(げんおうぞの)さん」という人がいる。これは現王信仰とかかわりのある名前である。他の地域にはない独特な信仰がなぜ紫尾山麓にのみ見られるのか、不思議である。

冠岳と金峰山については、さまざまな史跡を紹介し、特に霧島山信仰と日向神話との関わりについて述べている。著者は、これらの地域が神話のふるさとであるということを主張しているのではないが、地域の神話や伝説に対して批判的でもない。具体的に言えば、「こういう神話がこの地域に残っていることは事実」として話を進めたがる。それは事実には違いないが、ではなぜ日向神話がそこに残っているのか、ということはあまり検証されない(というより本書の対象外である)。そして最後に、「こうした神話の伝播には修験者が関わっていたのかもしれない」というようにまとめている。

本書は全体として、修験道研究というよりは民俗学のフィールドワークの記録であり、そこに掲載されている事例はどれも興味深いが、それらを通じて何かがわかるというものではない。それは、民俗文化というものが、そもそもはっきりと開明できるような、理屈に基づいたものではないということを示しているのかもしれない。

【関連書籍の読書メモ】
『説経集(新潮日本古典集成)』室木 弥太郎 校注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_5.html
中世の説経の代表的作品を収録した本。「かるかや」についてはこちらのメモを参照。

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2024年11月2日土曜日

『島津氏——鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』新名 一仁・徳永 和喜 著

ポイントを押さえた島津氏の歴史。

本書は、帯では「専門家による「島津氏」通史の決定版」と銘打っているが、「はじめに」にも「あとがき」にも、本書が通史であるとは一言も書いていない。「はじめに」では、「長期にわたる同じ一族による支配の維持、政権との距離感、敗北後の危機回避など、七百年におよぶ島津氏の九州南部支配からは、現代においても学ぶべき点が多々あるのではないか。そうした観点から本書をお読みいただき(後略)(p.5)」とあるので、通史的に島津氏の支配の特質について述べることが目的ではあるが、通史そのものではないと理解できる。

本書では、島津氏の歴史を当主の治世を区切りとして記述している。章のタイトルも「第一章 島津忠久の治世——元暦二年(1185)〜嘉禄三年(1227)」などとなっている。

これを年表風に簡略化すると次のようになる(だいたい50年を1行として適宜間を入れた)。

┃第1章 島津忠久(1185〜1227)


┃第2章 島津貞久・氏久(1318〜1387)
┃第3章 島津元久・久豊(1387〜1425)
┃第4章 島津忠国・立久(1425〜1474)

┃第5章 島津忠良・貴久(1527〜1566)
┃第6章 島津義久・義弘(1566〜1599)
┃第7章 島津家久(1601〜1638)
┃第8章 島津光久(1638〜1687)


┃第9章 島津重豪(1755〜1787)

┃第10章 島津斉彬(1851〜1858)
┃第11章 島津久光(1858〜1869)

これを見ると、鎌倉時代後期と江戸時代中期の間が大きく、本書が通史ではないことは明らかだ。

なぜこんなことをくだくだしく書いているかというと、私は最初、本書を「通史」だと思って読み始めて途中で違和感を抱き、よく確認してみると著者たちはこれを通史であるとは言っていないことに気づき納得したからである。

なお、はっきりと明示されていないが、前半1〜6章は新名一仁が、後半7〜11章は徳永和喜が執筆しているようだ。以下前半と後半に分けてメモする。

前半は、鎌倉時代後期を欠いているとはいえ、通史といって差し支えない。それは、島津氏が薩隅日の三か国の守護として南九州を統治する過程を述べたものであり、またその後(義久・義弘の時代)は、その版図が九州全域にまで広がっていく次第を説明している。

初代の島津忠久は、近衛家の下家司(しもけいし)を独占的に継承していた惟宗家の出で、頼朝の御家人になると元暦2年(1185)に島津荘下司職に任じられた。その翌年には「島津荘地頭」と呼ばれており、やがて島津荘目代、押領使となって薩摩・大隅両国の「家人奉行人」に任じられ、後に日向国も兼務したようだ。これは後の守護のことらしいが、ここに薩隅日三か国支配の原型が見られる。

ただしその後「比企の乱」のため、島津荘の所職や守護職は剥奪された。追って忠久は「和田義盛の乱」で軍功を上げ薩摩方地頭職に任じられたものの(守護職にも復帰したとみられる)、大隅・日向の守護職は鎌倉幕府滅亡まで北条氏が相伝した。なお、この時代の守護職は、後のように領域的支配権は持っていない。

島津氏が再び薩隅日三か国の守護職を手に入れるのは約130年後で、島津貞久が鎌倉幕府滅亡の際に足利方についた軍功による。しかしこの時期の守護職もまだ領域的支配権はないので、領内には島津氏と敵対する在地勢力がたくさんあった。日本は南北朝時代へ突入し、南九州でも複雑な対立の構図となった。島津氏としては特に大隅の肝付兼重への対策が重要だった。

ちなみにこの時代(14世紀後半)、貞久は鎮西管領の斯波氏経に対し「島津氏は薩隅日三か国の支配権を領有している」と強く主張しているのが興味深い。次代の島津氏久は志布志での中国交易を重視し、志布志の宝満寺・大慈寺を庇護した。ここに島津氏の交易重視政策が形成された。同時に、倭寇もこの頃盛んになってくる。九州南部は倭寇の拠点の一つだった。中国との貿易を目指す幕府にとって倭寇の存在は迷惑であったが、そのために倭寇対策が政策課題となり、島津氏が貿易のキーとなっていくのが面白い。

九州探題今川了俊との抗争に勝利した島津氏は、薩隅日三か国の実効支配を幕府に認めさせ、氏久を祖とする奥州家が三か国の守護職を兼帯した。氏久を継いだのが子の元久(母は伊集院忠国の娘)。なお応永元年(1394)、石屋真梁(伊集院忠国の子)を開山として福昌寺が創建され、島津氏の菩提寺となった。奥州家は伊集院氏と深い関係にあった。

実子の男子が出家していた元久は、妹と伊集院頼久の間に生まれた初犬千代丸に家督を譲ることとしており一門も了承していたが、元久の異母弟久豊はこれに異を唱え、伊集院氏から元久の位牌を奪って守護所鹿児島を占拠し、また福昌寺を保護した。伊集院氏との抗争の後、久豊が権力を確立して足利義持から三か国の守護職に任じられた。こうして奥州家が守護職を相伝し「三州太守」と表現されるようになった。

久豊の長男、忠国の時代は、山東(宮崎県西都市)の伊東氏との関係が大きな政策課題となった。忠国の母は伊東祐安の娘だったが、伊東氏と対立するようになったのである。そうした状況で伊集院煕久が反島津方国人を糾合し一揆を起こした(国一揆)。忠国はこれを制圧できず和睦。伊東氏とも和睦していた。これを不服としたグループは忠国の弟持久を擁立し、忠国を隠居させた。持久は福昌寺で父久豊の十三回忌法要を行って家督相続を確かなものにしたかに見えたが、ここで「大覚寺義昭事件」が起こる。

ことの次第はこうである。足利義教の弟・義昭が京都から出奔。これが後南朝勢力と結ぶことを恐れた幕府はこれを探索したが見つからなかった。そんな中で義昭が義教追討の檄文を忠国方の樺山孝久(のりひさ)に発したため、樺山は幕府に通報。このため幕府は忠国に対して義昭追討を命じたのである。忠国は末吉に隠居中だったが、自派の武将に命じ嘉吉元年(1441)、日向国櫛間院の永徳寺を包囲させ義昭は切腹。これで幕府の信任を得た忠国は返り咲いた。一方、持久は北薩と南薩を治める薩州家を創始した。

一方、忠国の治世は安定せず、これに不安を覚えた嫡子立久と重臣は忠国を強制的に隠居させた。立久はアメとムチで経営を行い、伊東氏とも和睦して領国内を安定させた。この際に、相州家豊州家も創出され、「有力御一家・国衆を相互にけん制する体制(p.74)」が作られた。

一方、忠国の三男久逸(ひさやす)が、断絶した系統を養子となって引き継いだのが伊作家。伊作家は伊東氏との合戦に敗れ、また久逸の子善久が奴僕に殺害されて風前の灯となったが、その妻常盤が相州家の島津運久(ゆきひさ)に再嫁し、それによって善久の子忠良が伊作家・相州家を相続した。一方で、奥州家は忠昌が自害、その後嫡男の早世が二人続くなどして弱体化し、反島津勢力が蜂起した。

そうした状況を利用して、忠良は奥州家(島津忠兼=勝久)に自身の子虎寿丸(後の貴久)を養嗣子とすることを受け入れさせた。これは事実上のクーデターであった。薩州家の島津実久はそれを認めず、自らが「三州太守」を継承したと標榜してクーデターを仕返したが、忠良・貴久は薩州家を打倒。荒廃していた福昌寺の寺領を安堵し、「三州太守」として認められた。こうして貴久は奥州家当主として地位を確立させた。貴久はさらに在地勢力を次々と下して薩摩統一を実現した。

貴久の子供が、有名な島津四兄弟(義久義弘・歳久・家久)であり、義久・義弘の時代に島津氏は最強となった。彼らは大隅と日向を統一して、ここに「三州統一」が成し遂げられた。彼らの目標はあくまでも「三州統一」であったが、九州六か国の守護職と九州探題であった大友宗麟とのパワーバランスから、肥後の国衆から救援を求められ、また島津氏の重臣たちも外征に積極的だったため、北部九州に侵攻していくこととなった。特に龍造寺隆信を圧倒的少数で撃破した(沖田畷の戦い)ことで九州で島津一強となり、残すは大友氏との対決となったが、このタイミングで豊臣秀吉が九州へ征伐へ動いたため、島津氏はやむなく降服した。秀吉は、義久に薩摩国、義弘に大隅国、義弘の子の久保に日向国真幸院を安堵している。

秀吉は明らかに義弘を当主として扱ったが、義久を主君とする家臣団もおり、島津氏は分裂気味になった。さらに太閤検地では多くの家臣が減封となり不満が高まった。そんな中で独り勝ち状態だったのが伊集院幸侃(忠棟)であるが、義久の子忠恒(のちの家久)は伊集院幸侃を突如惨殺、追って子の伊集院忠真とその一族も誅殺した。なお、義弘は実際には家督は継承していないが、後の島津氏の公式見解では義久-義弘-忠恒と家督が継承されたことになっている。

ここからは後半である。前半とは打って変わって通史風の記述はなくなり、著者(徳永)の重視する事項を詳しく述べていくスタイルになる。島津家久と続く光久の時代については、交易の記述がほとんどである。

薩摩藩は琉球国を通じて南蛮(東南アジア)・中国と交易を行っていた。それは近世初期では自由貿易を志向しており、近畿の貿易商人にも支えられていた。この交易は薩摩藩を繁栄させ、島津領内では中国人が多く居住していた。もちろん島津氏自身も貿易を行い、島津氏は最大級の朱印船貿易家であった。また島津氏が取得した貿易の権利を民間に譲渡した場合もあり、これについて本書では「大迫文書」からその実態を考察している。

家久は慶長14年(1609)に琉球侵攻を行い、琉球国を属国にした。これは琉球の貿易権を薩摩藩の管理下に置くことが目的であった。琉球は中国の冊封体制に組み込まれながら、同時に薩摩藩にも隷属するという二重の支配を受けた。そのおかげで、薩摩藩は琉球の朝貢貿易を通じて中国の物品を入手することができたのである。

それは逆に言えば、中国への輸出品を入手する必要があったということだ。薩摩藩にとってこれは大きな負担でもあり、その費用を取り戻すためにも琉球口交易は必要だった。農地に恵まれない薩摩藩にとって琉球口交易は重要な財源でもあったが、その負担もまた大きかった。続く光久の時代も琉球口交易の確立に絞って記述されている。

ここから時代が一気に飛んで島津重豪の時代となる。重豪の時代には、薩摩藩の膨大な借金の整理が重要な政策課題となった。そんために抜擢されたのが調所広郷である。調所は様々な改革を行って借財の整理・減免・返済を行ったが、本書では特に琉球口交易の拡大が焦点となっている。

次の島津斉彬の時代では、斉彬の世界観とそれに基づく近代化政策が触れられる。特に西洋通事の養成の中で、唐通事の石塚崔高が紹介されているのは目を引いた。薩摩藩では蘭学から英学へ路線変更するが、そこで上野景範が比較的詳しく紹介される。上野景範は独断で上海に渡航して西洋にいこうとした人物である。本来脱藩の罪に問われるべきところ、彼は逆に薩摩藩開成所の句読師に抜擢されている。

島津久光の時代については、幕末史を足早にまとめ、その頃の薩摩藩の財政を支えた「琉球通宝」などの通貨鋳造事業について述べている。なお、通貨鋳造事業は「琉球通宝」は幕府から許可を得ているので「偽金」ではないが、「天保通宝」は許可を得ているのか得ていないのか定かでない(記録も関係者の証言も曖昧)。なお、ここでは幕府から鋳造許可を得た日付がどうであるのかなど、かなり細かい議論があり、この辺りは全く通史的ではない。

なお、著者には『偽金づくりと明治維新』(新人物往来社、2010)という前著があるが、不思議なことにこの本は本書では参照されていない(参考文献に挙げられていない)。もしかしたら旧説を改める意図があるのかもしれない。

本書は、前半と後半では良くも悪くも調子がだいぶ違う。私は前半は通史として読み、後半は薩摩藩論として受け取った。だが後半は、薩摩藩論だとしても特定事項に記述が偏っていることは否めず、わかったようなわからないような感じである。

一方前半は、島津氏が薩隅日三か国を統一する次第が端正にまとめられており、頭の整理に非常に役立つ。著者(新名一仁)はこれまで、戦国島津に関する本や論文を多数著しており、本書によってそれらの著作を俯瞰することができると思う。

前半を読んで改めて思ったことは次の3点である。

(1)島津氏にとって「三州太守」すなわち薩隅日三か国を統治するというのがアイデンティティとなっていた。大隅の肝付氏や、川内川流域の渋谷一族など、島津氏と対抗する勢力がなかったわけではないが、そうした「支配者としてのアイデンティティ」を持っていたのは島津氏だけだった。

(2)伊集院氏と島津氏の関係が興味深い。島津氏は多くの庶流・分家を持っていたが、中でも伊集院氏とは独特な関係があったように思われる。島津氏の菩提寺である福昌寺は実質的に伊集院氏が創建しており、伊集院氏の初犬千代丸は島津家の家督を狙える位置にあった(これは伊集院氏による乗っ取りのようにも見える)。そして戦国末には、伊集院幸侃は豊臣支配の矛盾を押しつけられる形で斬殺されるのである。伊集院氏から南九州・島津氏の歴史を見るとどうなるのか、興味が湧いた。

(3)福昌寺が、島津氏の家督継承に大きな役割を演じているらしい。歴代の島津家当主にとって、福昌寺の寺領を安堵し、またそこで先祖の法要を行うことが大きな意味があったように見受けられる。福昌寺は荒廃していた時期もあるので、常にそうであったとは限らないが、家督継承の正統性や権力基盤が弱い時期に担ぎ出されたのが福昌寺だった。菩提寺を正統性の源泉としていたのは他の戦国武将たちでも同じなのか、それとも島津氏の特質なのか、どちらなのだろうか。

 

【関連書籍の読書メモ】
『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/07/blog-post_11.html
鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名一仁)は渋谷氏との関係を軸として南北朝・室町期の島津氏の歴史を述べている。

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html
鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。

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2024年10月22日火曜日

『認識と超越<唯識> (仏教の思想4)』服部 正明・上山 春平 著

唯識(ゆいしき)とは何か述べた本。

かの玄奘がはるばるインドまで旅して求めたのが、アビダルマ哲学と唯識の本だったという。唯識はインドの仏教思想においてその到達点といえるものである。

しかし私は唯識はあまり日本の仏教に影響を与えていないと考え、これまでこれを知らずに済ませて来た。先日『往生要集』を読んで、本当に日本仏教に唯識があまり取り入れられていないのが検証する必要を感じ手に取ったのが本書である。

唯識の源流は『華厳経』の「三界唯心」の一文である。「三界はただ心なり」、これは鴨長明が『方丈記』の終わりにいう「夫(それ)、三界は只心ひとつなり」の元ネタである。世界に存在するのは心だけだという認識は、インドではどう発展していったか。

本書にはそれが丁寧に跡付けられているが、私にはよくわからなかったことも多いので、大まかにメモする。

紀元1世紀ごろに、インドではアビダルマ(論・哲学)が盛んになった。これは仏教的な哲学で、存在論である。アビダルマでは、存在するということを思弁的に考え、いくつもの存在の基本単位(原子のごときもの=法:ダルマ)を措定した。地水火風空といった物質(色)についてはもちろんのこと、アビダルマでは心理作用とか文章のようなものも法があるとみなした。物質のみならず現象にも、心とは独立して原因の元があると考えたのである。

一方で2世紀には、空思想がナーガルジュナ(龍樹)によって大成された。紀元後に述作されていた大乗仏典にはすでに空の思想が説かれていたが、これを精緻に理論化したのがナーガルジュナの『中論』である。空とは、この世の全ては相互依存的に存在しており、絶対的な実体はないとする思想である。

ところがすぐにわかる通り、これはあらゆるものに原子のごとき普遍の素(法)があると考えたアビダルマ哲学と矛盾する。そこで2~4世紀頃には、アビダルマ哲学を受け継ぎながら、その存在論を転換させ、空の理論を取り入れた認識論である唯識が『解深密教(げじんみっきょう)』において登場するのである。

これを受けて唯識思想を体系化したのが、マイトレーヤ(彌勒、ただし実在の人物ではない可能性が高い)であり、アサンガ(無着)・ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟であった。特に重要な著作としては、マイトレーヤの『瑜伽師地論』、アサンガ『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』、ヴァスバンドゥ『唯識二十論』・『唯識三十頌』が挙げられる。5世紀ごろまでに現れたこれらの著作が唯識の基礎を築き、6世紀にはこれを発展させるとともに、それらに対する注釈の形で理論が精緻化した。

そうした仕事をしたのが、例えばディグナーガ(陳那)、ティラマティ(安慧)、ダルマパーラ(護法)、パラマールタ(真諦)である。中でもダルマパーラの『成唯識論』は基本原典の位置づけが与えられ、法相宗の根本経典となった。なおこの頃に玄奘はインド旅行をした。さらに7世紀には、ダルマキールティ(法称)が出て認識論、論理学を発展させた(有形象唯識論)。この頃にインドを訪れたのが義浄である。

日本で唯識をはっきりと受け継いでいるのは法相宗である。法相宗大本山の興福寺には、有名な無着・世親像があるが、あれこそが日本における唯識のアイコン的なものであろう。

ではその思想はどのようなものだったか。

それを簡単に言うと、「この世界には実在するものは何もなく、それは幻のようなものである」ということである。これは西洋哲学でいえば、ソリプシズム(独我論)にあたる。もう少し正確に言えば、唯識派は、あらゆる外界の対象は実在せず、ただ表象とその認識だけがあると考えた。だから「唯識」なのである。

例えばここに牛が歩いているとする。だが唯識の考えでは、実際には牛は存在しない。ただ「牛が存在する」との認識だけがあるのである。さらに牛の前に大きな岩があったとしよう。唯識ではもちろん岩も存在しないが、牛は岩を避けて歩くであろう。存在しないはずの岩をわざわざ牛が避けるのはなぜか。またこの牛が視界から過ぎ去ったとする。もはや牛は認識されないので、存在しない。しかし、その先で別の人は存在していないはずの同じ牛を見ることになる。このように、明らかに牛も岩も存在しているように見える。どういうことか。

これに対し、『解深密教』ではアーラヤ識というものを考えた。アーラヤ識とは、「無限の過去世から、現象にかかわる心のはたらきの余習を蓄積しながら流れを形成している潜在意識(p.55)」である。つまり、誰かが牛を認識したことはアーラヤ識という識のアーカイブに記憶されているため、別の誰かもその牛を認識するのである。

ところで、単純な独我論では、世界で確実に存在しているのは自分(の心)であるとされる。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」といったように、外界の対象が全く幻に過ぎないとしても、それを知覚している自分というものは存在すると考えるほかない。では唯識では自己及び他者をどう考えるか。

唯識では、自己は識の集合体であると規定される。つまり識(認識作用)がまとまったものが人間である。もちろん他者もそうである。認識作用のみがあるのである。西洋哲学の独我論では、自己は存在したとしても他者は幻かもしれないと考えるのだが、インド哲学の特徴なのか、唯識では自己と他者は峻別されずに考察されている。本書では詳らかでないが、おそらくは生物は全て識の集合体と考えられているようである(もしかしたら無生物もそうかもしれない)。

では、牛という実体は何もないのに、なぜ我々は牛を認識するか。言い換えれば、アーラヤ識はどのような原理で我々に牛を認識させるか。細かい議論は省くが、アーラヤ識にはあらゆる現象の種のようなものが内包されており、その種が現勢化することで牛が認識される。ところで唯識に先行するサーンキヤ学派では、現象のすべては因果律に支配されていると考え、その根源に第一原因を考えた(新プラトン学派と全く同じである)。ところが唯識になるとアーラヤ識が因果律の体系であるとはみなされず、識は瞬間ごとに生成・消滅するとされる。アーラヤ識に因果律が内包されているのではなく、それはあくまで種が現勢化することで識を変化させる。

つまり識は、素朴には認識作用ではあるのだが、認識というのは対象があって初めて成り立つ。対象がないのに何を認識するのかというと、アーラヤ識によって識自体が変化するのみなのだ。これを「識の変化<パリナーマ>」という。

このように考えると、煩悩や輪廻といったものも、アーラヤ識によってある(ように見える)ものであるのは明らかだ。すなわち解脱とは、アーラヤ識の流れを断ち、アーラヤ識から自由になることに他ならない。それが真如の境地なのである。

これはずいぶん思弁的な観念論に見える。ところが実はそうではないのである。唯識派は観念論を弄んだ学者だったのではなく、瑜伽(ヨーガ)を実践していた人たちだったのだ。

彼らは、ヨーガによって深い瞑想に到達し、そこに真理の世界を見た。その実践から得られたことを理論化したのが唯識だったと考えられる。例えば、瞑想していると、如来や菩薩が現れ、いろいろ教えてくれたりする。そうしたものは虚妄であろうか? さらに深い瞑想に入っていくと、全宇宙の真理が溶解した光の世界などに到達するとされるが、それはただの幻覚なのだろうか?

瑜伽行者たちは、現実の方がかえって虚妄であり、ヨーガの実践によって見られる世界の方に真如があると考えた。これが唯識の基本的な立場である。瞑想の時に見る世界は、何ら外界の対象が存在せず、瞑想が終わったら消えてしまう。しかし現実世界も似たようなものではないか、と彼らは考えた。むしろ、現実世界の流れ(アーラヤ識の作り出す流れ)を断ち切った世界にこそ、真実があると確信していた。

唯識は、一種の存在論・認識論であるが、観念的な哲学ではなく、むしろヨーガ理論であると考えた方がよいのである。実際、唯識の諸著作ではヨーガの実践によって得られる境地を10とか12に分けて細かく説明しているのである。

ただし、ディグナーガ=ダルマキールティの系統は、ヨーガの実践は遠のいて認識論・論理学の方向に進んでいる。

この世に実在するものは何もない、という思想は、世間的なものに執着しない態度を予想させる。例えば美女も美食も、実体は何もないのだから捉われるな、という態度である。しかし唯識ではそうは考えない。美女や美食を認識するという識(認識作用)こそが汚れであるとするのである。その識の働き(正確には、識を機能させているアーラヤ識)をヨーガの実践により断つことで煩悩をなくすのである。先述の通り自己も識の集合体であり、それを存立させているのもアーラヤ識である。ということは、アーラヤ識が断たれたら、自己も無になる。それが真如の境地なのである。

なお本書は、3部に分かれている。第1部が服部正明による唯識の概論、第2部が上山春平と服部の対談、第3部が上山による解説である。このシリーズは上山春平と梅原猛が仏教思想について繙くという構成をとっており、上山の専門は西洋哲学であるが、非専門家の立場から見た唯識が語られている。しかし意外と西洋哲学との対比や類比はなく、アビダルマからの思想的発展とヨーガとの関連を中心に述作されている。

ちなみに本書は唯識が日本にどう影響を与えたかはテーマの範囲外であるため述べられていないが、日本の法相宗が上述のような議論を盛んにしていたという話は聞かない。そもそも法相宗では唯識は「学問」であり、ヨーガの実践を伴っていなかった。ヨーガがなくては唯識の真の価値は発揮できなかっただろうと思う。

今でこそ唯識について述べた本はたくさん刊行されているが、本書の原著刊行の時点(昭和45年)では、本格的かつ平易に唯識を紹介した一般書としては貴重なものだったと思う。

唯識を思想的に平易に解説した良書。

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『天皇の祭祀』村上 重良 著

天皇制を支える祭祀について述べる本。

国家元首としての天皇、そして天皇を神と見なす観念などを含む「国家神道」は、戦後にGHQの指導の下で解体されたが、その祭祀については天皇の私的な行為(内廷行為)ということで存続を許され、今でも行われている。だが、皇室祭祀は「天皇の私的な行為」どころか、「天皇の祭祀王権の基盤(p.iii)」であり、天皇制の核であるともいえる。

しかし大嘗祭がニュースになるくらいで、一般にはあまり知られていないのが皇室祭祀である。

本書はこの皇室祭祀の全貌を述べるものである。

まず、「天皇の宗教的権威は、イネの祭り新嘗祭に淵源している(p.1)」という。新嘗祭は古代から行われた稲の収穫祭であり、神に稲をささげるという役目を負った(別の面からいえば、ささげる権利を持った)のが天皇である。

新嘗祭は、古代においては11月下卯日(月に3回卯日があるときは中卯日)であった。これは、稲の収穫からは遅い。本書では、神嘗祭の方が先にあり、遅れて新嘗祭ができて、さらに冬至祭と複合したのではないかとしている。

新嘗祭の前日夜には天皇の鎮魂祭が行われる。これは宮中の綾綺殿(りょうきでん)で行われる、天皇の魂を神にする(霊力を高める)参列者のいない秘儀で、鎮魂祭の間は天皇は真床(まどこ:神聖な席)で追衾(おぶすま:神聖な寝具)をかぶって物忌みする。これは天孫ニニギの降臨の故事に基づくとされるが、実際にはこれを反映してニニギの神話がつくられたものとみられる。

新嘗祭は神嘉殿で行われる天皇の親祭(みずから行う祭)であり、天皇は他と違い純白の絹の装束を着て行う。その中心は、神饌の供進と直会(なおらい)である。

天皇の一代一回の新嘗祭が大嘗祭であるが、これは大極殿(平安時代以降は紫宸殿)の前庭に大嘗宮(悠紀殿・主基殿)が特別に建てられて行う。大嘗祭は天武天皇の時代から行われるようになったらしい。

ちなみに、皇位のしるしである三種の神器は、その由来がはっきりしない。それを語る神話は後世の作為であると見られる。伊勢神宮がもともと鏡を神体としていて、それから鏡が三種の神器のひとつとなった…というような流れが自然だが、実態は不明である。しかも、9世紀初頭には「本来の宝鏡、宝剣は天皇もとにはなく、皇位のしるしである鏡、剣は、宝鏡、宝剣の模造品であるという不自然な説明が定着(p.25)」した。ともかく、宮中の鏡は(模造品であれ)伊勢神宮の鏡と一体であるとされ、別殿にまつることとし、これを温明殿(うんめいでん)と呼び、また賢所(かしこどころ)、内侍所(ないしどころ)とも称した。

大嘗祭では、鏡と剣が用いられていたが、賢所の成立によって(?)、剣と玉を使うようになり(本書には理由が書いていない)、剣と玉はあわせて剣璽とされ、剣璽動座(天皇が一日以上の旅行をする際に剣璽を侍従が奉持する)も平安時代に始まったとされる。

ちなみにこの剣は、源平の争乱の壇ノ浦に安徳天皇とともに沈んでおり、後に伊勢神宮の神庫にあったものを代わりとした。宝剣の本体は熱田神宮に祀られているが、何人も見ることができない建前なので実態は不明。玉も古代以来宮中に伝わっているとされるが、それを納めた箱は天皇と言えども見ることができず実態は全くの不明である。

神祇制度は平安時代に完成を迎えたが、南北朝の動乱によって天皇の宗教的政治的権威は失墜し、皇室祭祀の多くが廃絶した。ただし、この南北朝動乱期に「三種の神器」の意義が強調されるなど、天皇制の理論化が起こっていることは面白い。

また興味深いことに、平安期から天皇・皇室の密教化が進んでいた。平安期には大内裏の中和院の西に「真言院」が設けられ、天皇のための御修法(みしほ)がさかんに行われた。承久の乱後には泉涌寺(真言宗)が皇室の菩提寺となり、天皇家の葬送は仏教式で行われた。さらに室町時代には、後土御門天皇が勅願随一の精舎として伏見に般舟(ばんじゅう)三昧院(天台宗)を開創し、禁裏道場として栄えた。

宮中には「お黒戸」と呼ばれる独立の建物が作られ、仏像を安置して歴代の天皇、皇后の位牌をまつった。このように、中・近世を通じて皇室は真言宗の檀家であり、天皇は仏式で葬られていた。

江戸時代には天皇は形式的なものとなって、叙任・叙位、元号の制定、作暦の3つの権限を持つにすぎず、これらも名目のみにとどまった。幕府は皇室を「禁中並公家諸法度」で統制したが、一方で門跡寺院の権威を認めるなど、天皇を頂点とした権威の仕組みを利用した。なお門跡は寺格化し、皇室が衰微した時期には、その付与は国師号の宣下などとともに有力な収入源となった。

また幕府は、皇室祭祀の再興を後押しした。新嘗祭は東山天皇の1688年に225年ぶりに復活(この時は吉田家で行った!)。1740年には天皇(桜町天皇)の親祭による旧儀にほぼ復したものの、幕府の意向で神今式は省かれたままであった。ちなみに大嘗祭は新嘗祭復興の前年1687年。これも1738年、桜町天皇のときにはほぼ旧儀に復興した。

明治維新が起こると、政府は祭政一致国家を志向し神仏分離を行った。また天皇と神道を密接化させ、追って宮中の神仏分離を行い、「お黒戸」を泉涌寺へ移築した。また社寺の土地を取り上げる社寺上知令では、泉涌寺と般舟院の土地も取り上げられて(皇室の墓域まで官収された!)、両寺はたちまち衰微した。

一方、新たに設けられた神祇官に八神殿が設けられ、八神、天神地祇、歴代皇霊が祭られたが、神祇省への格下げに伴って歴代皇霊については賢所に移され、追って「神殿」が建築されることとなった。さらに神祇省の八神殿も廃止され、八神・天神地祇も「神殿」へ遷されることとなったが、1873年に皇居が炎上したため赤坂離宮の仮皇居に遷された。新神殿=賢所・皇霊殿・神殿という宮中三殿ができたのは明治22年(1889)である。

宮中三殿の後ろには綾綺殿、少し離れて横に神嘉殿があり、賢所を最高の中央神殿として体系づけられた。「皇居内に、このような整った形式の神殿を設けることは、古代天皇制以来の伝統にはない近代天皇制国家の創案であり、天皇の祭祀の拡充強化に見合う新機軸であった(p.67)」。

明治政府は祭祀にも新機軸をもたらした。天皇親祭の13の祭祀のうち、(1)新嘗祭のみは古代の皇室祭祀を受け継いでいたが、他は新たに制定された(あるいはアレンジされた)祭祀だった(以下、便宜のために番号を付ける)。

そのうち、新嘗祭以外で古くからあるのは(2)神嘗祭である。これは元来、皇室ではなく伊勢神宮の重儀であるが、伊勢神宮を重視する明治政府の政策によって、明治4年(1871)に宮中でも遥拝と賢所神嘗祭が行われることとなった。これは神宮と天皇が一体であることを国民に示すためであった(明治12年には、祭日を一か月ずらして10月17日に改めた)。

(3)元始祭:天孫降臨を祝う祭り。明治3年(1870)正月3日に八神殿で行われたものを定例化し、明治5年(1872)から元始祭の名称を用いた。賢所・皇霊殿・神殿で親祭が行われるのは皇室祭祀の中で元始祭のみであり、新嘗祭に次ぐ重要な祭典である。

(4)紀元節祭:神武天皇の即位を祝う祭り。明治6年の太陽暦採用にあたって神武天皇紀元が制定され、明治6年1月29日が旧暦元日だったことから紀元節祭が行われ、その後、2月11日に再設定されたが日程の根拠は詳らかでない。紀元節祭は皇霊殿で天皇が親祭するものであったが、昭和3年(1928)からは賢所・皇霊殿・神殿の親祭に改められた。

(5)神武天皇祭:現天皇が神武天皇に大孝をのべる祭りで、明治3年の祭日だった3月11日は神武天皇の命日とされる。その後2回日程が変わり明治7年(1874)からは4月3日となった。朝昼夕の3回、皇霊殿で天皇が親祭した。

(6)春季皇霊祭、(7)春季神殿祭、(8)秋季皇霊祭、(9)秋季神殿祭:当初、新政府は歴代天皇の祥月命日全てで祭典(正辰祭)を行ったが、天皇以下の式年祭と併せてあまりに数が多いので、明治11年(1876)にこれを廃止して春季・秋季の皇霊祭にまとめた(皇霊殿で行う)。これは国民に定着していた春秋の彼岸を皇室祭祀に直結する狙いがあったものとみられる。また、これに合わせて従来春分・秋分に行われていた天神地祇の祭りも神殿でとりおこなったため、同日に皇霊祭と神殿祭の2つの祭典が開催されることとなった。

(10)孝明天皇祭:先帝である孝明天皇の命日(太陽暦1月30日)の祭り。皇霊殿で天皇が親祭した。

(11)先帝以前三代の式年祭、(12)先后の式年祭、(13)皇妣たる皇后の式年祭(これら3つは皇霊殿で行う)

このほか、建前としては天皇が行うことになっているが賞典職が天皇に代わって奉仕し、天皇は拝礼のみを行うものとして、祈年祭・賢所御神楽・天長節祭・明治節祭・節折(よおり)・大祓がある。

明治政府は、復古を建前としていたから、祭祀のみならず諸儀式についても一応は復興を企図してはいたが、古制を廃止して新たな方式としたものが散見される。例えば即位式は陰陽道に基づく大旌(だいせい:いろいろな幢(とう)と旛(ばん))を廃して真榊にするとか、中国風の礼服袞冕(こんべん)を廃止するといったものである(特に礼服は天皇以下全て新たに定めた)。

天皇の祭祀のうちで最も重要な大嘗祭も、明治4年(1871)には初めて東京で行い、その際に「簡素を旨として、名目だけの古制は廃する(p.115)」こととした。この大嘗祭は、古式に擬した新儀であった。

新政府は、追って様々なことを天皇中心に作り替えた。一代一元制の採用、また元号を天皇の諡号にするということは、天皇が時を支配する観念を植え付けた。民衆の間では、年は干支で数える風習があったが、これを太陽暦の採用とともに廃止し、元号のみに一本化した。

また、休日(祝祭日)についても、伝統的な五節句と八朔(8月1日)を廃止し、皇室祭祀や行事に基づくものに変更した。「祝祭日の体系的設定は、天皇の祭祀を原基とする現人神天皇の存在を、国民の生活のすみずみにまで浸透させる役割を果たした(p.127)」。日の丸や「君が代」の制定も、外交上の必要性があったとはいえ、国家意識を国民に植え付ける一助となった。

さらに本書では、神社の再編成(近代社格制度の制定)、神社祭式の統一的制定(明治8年の「神社祭式」、明治40年の「神社祭式行事作法」、大正3年の「官国幣社以下神社祭祀令」)、勅使の派遣と奉幣の制度などに触れ、皇室神道と神社神道を直結させたことを述べている。

それに続き、皇室典範と大日本帝国憲法により、皇室の位置づけが法的にも強固になり、また天皇が軍を統帥するという、歴史的に異例の役目が与えられた。これに著者は「軍人天皇」という用語を与えている。「明治維新以前の天皇の属性であった祭司王という基本的性格にかわって、現人神がその属性となった(p.151)」。こうして天皇は、政治大権、軍事大権、祭祀大権の3つを備えることとなった。このような超越的な天皇の存在を国民に植え付けるため、教育勅語、御真影が大きな役割を果たしたことはいうまでもない。

一方、祭祀大権については皇室典範にも憲法にも規定はなかった。これが制定されたのは明治40年(1908)の「皇室祭祀令」で、先の13の親祭がここに規定された。続いて「登極令」、「摂政令」、「立儲令」、「皇室成年式令」などが次々と定められて皇室の儀礼制度は体系的に整えられた。

これらは、日本の敗戦によって全面的に改められ、天皇は政治大権、軍事大権も失った。当然、祭祀大権も否定されたが、天皇の私事として祭祀は続けられた。法的には天皇の祭祀は国民とは無関係となったのだが、今でも天皇が「国家の祭祀」を担っているとの観念は国民の間に根強い。その上、日本政府も祭祀を国家的なものにすることに力を入れた。

例えば昭和34年(1959)、明仁皇太子(現上皇陛下)の立太子にあたって神道儀礼である「賢所大前の儀」は国事として行われた。また翌年には、内閣総理大臣池田勇人は、八咫鏡について「皇祖が皇孫にお授けになった」など、神話的由来を国家として認める答弁書を出している。皇室祭祀についても、前述の13の親祭のうち、廃止されたのは紀元節祭のみであり、他はほぼ旧「皇室祭祀令」等の規定通りに行われている。

また、新嘗祭等には総理大臣以下が「私人として」参列し、「神社、寺院への勅使の差遣や、大師号、国師号等の宣下も、天皇の私事という名目で、戦前と同様に行われている(p.217)」。これら「私人」や「天皇の私事」は建前に過ぎず、天皇は今でも祭司王であり、それを国家として承認していることは「いささかも疑う余地がない(同)」。天皇の祭祀王の性格は、今でも生きているのである。

本書は全体として、象徴天皇制の下での祭祀を問題にしているが、私自身の興味は、純粋に天皇の祭祀の全貌をつかむことにあった。特に下線を付けたように、その祭祀がどこで行われるのかに着目してみたところ、皇霊殿と賢所に中心があることは明らかである。これは天皇の祭祀がはっきりと祖先崇拝に組み替えられたことを意味する。天皇の祭祀は、本来は天照大神と八神(神話の最初に出てくる主要な8柱の神)、天神地祇を祀るものであった。それらの祭祀をとりおこなったのが神嘉殿だったのだが、維新後の神嘉殿は脇役的なものになってしまった。

また、古代の祭祀と近代のそれとの大きな違いは、天皇が親祭する祭祀が著しく増大したということである。古代祭祀において天皇が親祭したのは、新嘗祭と年に2回の神今食(じんこんしき、かみいまけ)の3つしかなく、国家は各地の大社に幣帛を班つという間接的な祭祀を中心としていた。古代の班幣の祭りは、月次祭、祈年祭、三枝祭、鎮花祭など数多く、特に月次祭は重要なものであった。

明治維新は復古を旗印にはしていたが、祭祀に限ってみても古代への回帰の要素は少なく、新たな祭祀体系の創始を志向していたことは明らかである。そしてその変更点は、第1に天皇親祭、第2に皇祖信仰、第3に仏教的要素の除去、という3点に集約できるだろう。

天皇の祭祀を詳しく紹介した良書。

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

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2024年10月13日日曜日

『「戦後」を読み直す—同時代史の試み』有馬 学 著

本の再読によって戦後を歴史化しようと試みた本。

著者は「同時代を歴史として語る形式を見つけたいと考えてきた」という。

自分が過ごしてきた時代は、「歴史」ではなく「経験」であり、それをいくら客観的な「歴史」として語ろうと思っても、なかなか難しい。そこで著者は「後世の研究者に、その時代の日本社会を描くならこれがいい史料になると教えたくなるような本(p.6)」を「読み直すことを通して、「戦後」を再考(同)」しようとした。

これには少し説明を要するだろう。そこで本書にこういう説明があるわけではないが、私が括弧付きで使う「歴史」についてちょっと補足したい(本書では歴史を括弧付きで使っていない)。

最近の若者言葉に「黒歴史」という言葉がある。自分の恥ずかしい過去や、振り返って考えると恥ずかしくなる自分の作品などを表すネットスラングである。例えば若い頃に書いた詩や小説がそれに当たる。この言葉に「歴史」が入っているのは、なかなか鋭い言語感覚だ。詩やマンガを書いたのは自分でも、それをある程度の距離から離れて見ると、ダメすぎて目も当てられない…ということは、自らの「経験」を客体化、すなわち「歴史」化しているからだ。このように、「歴史」は、現象を「ある程度の距離から離れて見る」という作業が必要なのだ。

つまり、「経験」をそのまま語るだけでは決して「歴史」にならない。仮に源頼朝が鎌倉幕府を開いた時の自叙伝を書いていたとしても、それは第一級の史料ではあるが、そのものは歴史書ではない、というのと同じである。

そして「ある程度の距離から離れて見る」ということは、「歴史」は必然的にナマの「経験」からは変質したものとなる。それはあたかも、モザイク画は近くから見ると幾枚かのピースが無造作に並んだものであるが、遠くから見れば一枚の絵になるのと似ている。

であれば、自らの「経験」を「歴史」として語るにはどうしたらいいのか。著者は若い頃に読んだ、時代を象徴する本を再読するという手法を考案した。再読してみれば、かつてとは違った印象が得られる。なぜ違った印象になるのか、それは、「ある程度の距離から離れて見る」からに他ならない。すなわち、「経験」は、時間をかけて自らの中で変質しており、わずかに「歴史」化しているのである。

このように、いくつかの本について再読した時の印象の差異を細かく考察することで、自分の中にある「歴史」を抽出しようと試みたのが本書なのである。

なお、以下のメモで「著者」と書くときは、(取り上げられた本の著者ではなく)常に有馬学を指す。

第1章では、その本として小学校5、6年の国語の教科書が取り上げられる。「ぼくらの村」や「T・V・Aの話」といった題材が取り上げられるが、その要点は「綴方(つづりかた)教育」にある。綴方教育とは、「日常生活のありのままを書く」という一種の作文指導法である。「ぼくらの村」などは、まさにその綴方教育運動の中心を担っていた人たちによるものだった。しかしこれらを今見直してみると、国土計画と身近な改革によって社会が進歩していくという「ありのままイデオロギー(p.41)」に過ぎないように見える。

「日常生活のありのままを書く」指導を受けた(はずの)個別的な「経験」が、振り返ってみればありのままを書くという要素は極めて希薄で、それどころか国語の授業なのにイデオロギーを吹聴するものに過ぎなかったことが明らかになる。このようにして著者は「歴史」を語るのである。

それにしても、著者の記憶力は異常である。小学5、6年の国語で何を習い、何を思ったか、そんなことは漠然として覚えていないのが普通だ。私の世代で言うと、かなり印象的な宮沢賢治の“クラムボン”ですら、元のタイトル「やまなし」を覚えている人は僅かだし、カニたちがどうなったか記憶している人はほとんどいない(私もそうだ)。なのに著者は国語の教科書がどんな文章であったかを相当の精度で記憶している。本の再読という手法は、この記憶力の良さがものを言っている(=普通の人には不可能)。

第2章で取り上げるのは、むのたけじ『たいまつ十六年』と山口瞳『江分利満(えふりまん)氏の優雅な生活』である。

著者は若い頃『たいまつ十六年』を読んで魂をゆさぶられる体験をしたが、再読してみれば「イライラすることも少なくなかった(p.52)」。「黒歴史」と一緒である。なぜイライラするのか、それを細かく検証していくことが、「経験」がどう「歴史」に変質したかを探る作業となる。

『たいまつ十六年』は、反骨のジャーナリストむのたけしの自叙伝である。彼は農村のリアルを描き、社会矛盾を糾弾した。そしてその現実を変えるために日本共産党に入党し、政治家にもなった。いわば彼は「正義漢」なのだ。しかし著者が『たいまつ十六年』を読み直すと、「民族」よ団結し「独立」を勝ち取れ、のような主張には、当時から共感はしていなかったものの強い違和感があった。その主張は、(そうとは本書には書いていないが、)戦中のスローガンを変奏したものに過ぎなかったからではないか。

『江分利満氏の優雅な生活』は、サラリーマンという存在を活写した本である。戦前生まれの江分利満氏は、昭和30年代の社会をサラリーマンとして生きる。「優雅な生活」は反語であるが、それでも、どんどん豊かになっていった時代であり、サラリーマンを悲哀に満ちた存在などとは全然書いていない。だがその背景には、「個人の努力で豊かになったのではなくて、それは時代の趨勢に過ぎなかった」として、個人の人生に対する悪戦苦闘が無効化される風潮に対するそこはかとない反発があったように思える。「だって時代がよかったんでしょ?」そう言われれば終わり……なのか?

ここで著者は、「高度経済成長」という大文字の「歴史」に、個人的な「経験」から微妙な修正を迫ろうとする。それは、「サラリーマン」が高度経済成長という波に乗った存在として「歴史」的に位置づけられることへの異議申し立てであるような気がする。

第3章では、『暮しの手帖』、特にその中の「ほくさんバスオール」という移動型簡易シャワー付お風呂と、アラジンの「ブルーフレーム」(ストーブ)の検証記事が取り上げられる。高度経済成長の中で、たくさんの商品が粗製濫造された。それらを評価し、買うべきもの・買わないべきものを見極める指針となったのが『暮しの手帖』である。

これを読み直すことで見えるのは、『暮しの手帖』は一見冷徹に商品を評価するようでありながら、「その商品で満足せざるを得ない層」への配慮が働いていた、ということだ。今見れば明らかなその配慮が、逆に昭和30〜40年代の「歴史」を物語っていた。

ところで、『暮しの手帖』の花森安治は、戦中にはプロパガンダ広告を手がけていた(大政翼賛会宣伝部)のは有名で、それはほとんど『暮しの手帖』のスタイルを予言している。それは「ぜいたくは敵だ」のような言い切りの短いスローガン型ではなく、読者に語りかけ、考えさせるコピーである。

本書の主張とは少し違うが、著者の語る『暮しの手帖』から、私は「消費社会」に向けた方向性を感じた。昭和30〜40年代に『暮しの手帖』を読んでいた家庭は、「賢い買い物」をしようとしていた。『暮しの手帖』は「賢い消費者」になるための雑誌だった。賢い消費者は粗悪品を買わず、無駄遣いをせず、暮らしを美しく整える。しかし「消費者」であることそのものに欲望(つまり無駄遣い)が内包されていたのではないか。

著者は「ブルーフレーム」を皆が欲しがったのは、暖房器具が欲しいという実利的な理由より、「青い炎が美しい」という情動の方が先立っていたのではないかという。いかに「賢い消費者」であっても、それは「消費者」であることから免れない。消費者は製品を「評価」する。そこに、生産と消費を分離する現代社会の溝がある。消費者は、商品を評価する側に立っていながら、あくまで受け手にすぎないのである。そして『暮しの手帖』が「消費者」を創り出したことは、皮肉なことに「高度経済成長」の先の「大量消費社会」を準備したように思われる。

第4章では、萩元晴彦ほか『お前はただの現在にすぎない—— テレビになにが可能か』と小林信彦『テレビの黄金時代』を取り上げ、テレビについて考察している。

ここで著者は、ラジオをどう聞いていたかとか、自分の家にテレビが来た日、のような回想をやや丁寧に述べている。もちろん本書は同時代史を語る試みなので、本章以外にも回想は多い。ところが本章では、「こんなことを並べていてもきりがない? その通りだろう(p.131)」とか、「どうでもいい話をくり返しているように思われるかもしれないが、私はこういった些末な事情も、いやそれこそが、メディア体験を構成する要素だと思っている(p.138)」と言い訳(?)しているのが面白い。

というのは、著者はそれらを個人的な「経験」にすぎないと思っているのだが、我々から見るとそれこそが「歴史」なのだ。つまり著者が「こんなこと」とか「どうでもいい話」と思っていることは、この場合には「源頼朝の自叙伝」みたいな一級史料なのである(と私には見える)。にもかかわらずなぜ著者は読者がそう見なさないと思っているのか。それは逆説的だが、著者にとってその時代がまさに「経験」であって、未だ「ある程度の距離から離れて見る」ことができていないからに思われる。こういう些末なエピソードこそ、「ある程度の距離から離れて見」なくては、「歴史」としての重要性がわからないのではないか。

『お前はただの現在にすぎない』は、テレビ放送が開始してからわずか10年ほどで、業界人がテレビの本質に迫りつつあったことを示し、また『テレビの黄金時代』は、その頃からたった10年でテレビの黄金時代が終焉したことを述べる。テレビの黄金時代は1961年〜71年(あまく見て73年)だという。

黄金時代が終わったとはどういうことなのか、本書からは詳らかでないが、要はテレビの前に釘付けになる時代が終わったということなのだろう。高度経済成長のお陰で、人々はテレビという虚構の世界に夢を見るだけでは飽き足らなくなり、現実の楽しみ(私は「レクリエーション」という言葉を使いたい)に興じるようになっていた。テレビは「夢」ではなく、「日常」を描く装置になっていく。

第5章では、関川夏央『ソウルの練習問題—— 異文化への透視ノート』と『別冊宝島39 朝鮮・韓国を知る本』を取り上げる。

まず告白すると、私は韓国について全く無知である。だから、本章については正直なところよく分からなかった。『ソウルの練習問題』は、関川夏央がイデオロギー抜きに、韓国の普通の街と普通の人と出会った記録である。この「イデオロギー抜き」というところが重要で、それまでは韓国を語る時に何らかのイデオロギーが必ず混入するものだったのである(←このことすら私は知らなかった)。

関川はそれを意識的に排除して、いわば「体当たりで」異文化に接する。こういう態度は当時として画期的だったという。人は、何らかの枠組みを持って社会を見ている。では「韓国を見る枠組み」を取っ払ったら何が見えるか。それが「練習問題」なのである。そして『朝鮮・韓国を知る本』も、『練習問題』と同時期に出された本で、似た態度で書かれている。

しかしその内容より、私には気になったことがある。それは例えば「この本のPART 1は「同世代の韓国人たち」である。しかし「同世代の(北)朝鮮人たち」という章はないのだ(「朝鮮・韓国を知る本」だよ!)(p.165)」とか、「私ははじめて目にしたとき、『練習問題』と並んで『知る本』を画期的な本だと思い、その出現に感動した。がっかりさせて申し訳ないが、事実だから仕方がない。そう、当時はこのくらいで感動できたのですよ(p.166)」といった書きぶりだ。

前者の「「朝鮮・韓国を知る本」だよ!」というツッコミや、「当時はこのくらいで感動できたのですよ」という言葉が示すのは何か? 著者はなぜ「今から見ればレベルが低くても、そんな時代だったんです」という時代の弁明をしているのか? 世代がずっと下の私なら「当時としては画期的だった」の一言で済ますようなことを、いちいち著者は「そんな時代だったんです」と付け加える。それはまさに、著者がその時代を生きた人で、その時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができず、いちいち弁明したくなってしまうからだと私は思う。面白いことに、本書は後半になるにつれ、この種のことが多くなる。著者は「経験」を「歴史」として語ろうとしながら、その時代を完全には客体化できないということなのか。

その意味するところはともかく、これは読んでいる方としては面白い。このようなことを付け加えたくなるのは、著者が紛れもなく同時代人であることを物語っているからだ。

第6章では、辻豊・土崎一『ロンドンー東京5万キロ—— 国産車ドライブ記』と徳大寺有恒『間違いだらけのクルマ選び』を取り上げる。

『間違いだらけのクルマ選び』は他の本とちょっと違う。それは単発の本ではなく、1976年からほぼ毎年刊行されたのだ。これでクルマを巡る価値観がどう変わったかを検証できる。その要点は、当初はオリジナリティも実用性もない(のに無駄な装飾は多い)と酷評されていた国産車だが、その刊行の終点あたり(80年代後半)には、オリジナリティはなくとも、安く完成度が高いものならばよい、と肯定的に変化したということである。そして徳大寺は「普通グルマ」という「車のことなど忘れていられる」というありふれた財としての車が理想のものだという評価へ落ちつくのである。

私には、その価値観は大きく変わったようには思わないが(というのは、実用性を第一に考えるという点で徳大寺は一貫している)、同時代を生きた著者はそこに微妙な差異を読み取る。それは、「昔の国産車は、ユーザーの要望に応じて無駄な装飾を付けていたわけで、そこにはユーザー側の責任も大きかった。今の車は、ユーザーの要望に応じて実用一点張りになっている。ユーザーの要望に応えるという意味では同じだが、今のユーザーの要望は健全になっている」というような、(製品ではなく)ユーザーへの評価の変化が伴っているとみるからだ。

要するに、資本主義・大量消費社会ではユーザーとメーカーには一種の共謀関係が成立するが、 それが成熟してくると悪くないところへ落ちつく、ということなのだろう。『間違いだらけのクルマ選び』は、ユーザーとメーカーとの共謀関係が、どう変化し落ちついていったかを、その共謀関係からは一歩引いたところにいた徳大寺が克明に記録した本だと言えるのである。

ところでここでも、著者の「時代の弁明」が私には面白い(←意地悪な読者である)。『ロンドンー東京5万キロ』は、朝日新聞の企画で国産車(トヨペット・クラウン)でロンドンから東京まで走破するドキュメントであるが、「連載の開始にあたって掲載された社告のような記事(一面だぜ!)(p.212)」は、「「辺地」だの「めずらしい風物」だの、営業部の筆になるとしてももう少し洗練された表現を望みたいというのは、こんにちの目である(同)」と著者は述べる。

前半、括弧内で「一面だぜ!」というのは、おどけてツッコミを入れているようであるが、反面では「こんな企画でも一面で取り上げられる時代だったんですよ」という照れ隠しだと見えなくもない。さらには「…のは、こんにちの目である」というが、 わざわざそんなことを言わなくても普通の乗用車でロンドンから東京まで走破する(しかも当時は今と比べものにならない悪路続きなのだ)というのは今から見ても十分にすごいし、表現に時代を感じるというのは当たり前ではなかろうか。

このように、同時代を生きた著者だからこそ、言葉の端々に「当時のことは割り引いて見なければならない」という(しばしば過剰な?)抑制を働かせている痕跡がある。これはやはり、その時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができていないことを示唆している。章が進むにつれ(すなわち時代が進むにつれ)、「歴史」を語ろうと努めていた著者は、いつのまにか「時代の弁明人」になっていくのである。このスタンスの微妙な変化は、私にとって極めて興味深い。

終章では、山田風太郎『戦中派不戦日記』・『滅失への青春——戦中派虫けら日記』を取り上げる。 

これらは、山田風太郎が戦後に刊行した、自身の戦中(および戦後直後)の日記である。本書(『「戦後」を読み直す』)は、「かつて私が読んだ本をかなりの時間を距てて再読することで、その間の時間的距離の測定を試み、それを通して私自身が生きた時代を歴史としてとらえ直すという、かなり面倒でひねくれたもの(p.231)」であるが、これらの本は、再読しても印象が変わらなかったという。

本書の方法論からは、再読した時の印象の差異によって「時代的距離の測定」を行うのであるが、本書の場合は「なぜ今になっても読後感が変わらないのか」ということを考えることで「歴史」を述べようとする。その答えがはっきり書いているわけではないが、それは山田風太郎が「等身大の日記」を残しているからではないだろうか。

「不戦日記」と銘打ってはいるが、山田風太郎は反戦派ではなかったし(かといって戦争翼賛でもない)、当時の若者が書く妙に立派な文章とも違って、だらしなくダメなのだ。数学の試験が空襲警報によって中止された時には「大東亜戦争は余のこの日のために勃発したるにあらずやと感涙にむせぶ(p.251)」とまで書いている。これぞ青春の身勝手さである(笑)。

こんな「等身大」さは、きっと時代を超越している。イデオロギーや消費の在り方や、メディアとの付き合い方や外国への向き合い方といったものは、時代につれて変わっていく。だが「等身大」の若者は、どんな時代でも似たようなものなのだ。著者はこういう風に『戦中派不戦日記』を読むわけではない。だが私にはそんな風に理解する方がしっくりくる。

ところで本章のキーワードの一つは「自註」である。中井英夫の戦中日記『彼方より』が、戦後に中井自身の註記を付して刊行されていることに触れ、「戦後の註記こそは、(中略)私たちがそれだけの時間を経て読むことに自覚的であるべきことを促すものである(p.255)」という。

中井はどんな註記を施しているかというと、例えば少年航空兵を軽蔑して「要は彼らにただ黙って死なせることだ」、などと嘯いている戦中の日記に対し、「このいい方は、いま書き写しながらも不愉快である。(中略)その彼をも職業軍人として見ていたのかと思うと、心の狭さが情けないが、ともかくもこのとき、私は軍人を憎むことにけんめいだったのである(p.254)」と自註した。中井にとって、この日記は「黒歴史」だったのかもしれない。それに自註を付して刊行したことは、中井の強靱な精神を窺わせる。中井は自らの「経験」を、自註を付すことで「歴史」にしたのだ。

本書は全体として、たいへん緻密である。著者は「経験」を掘り起こすとともに、取り上げる本が歴史的にどう位置づけられるか考究する。一方、私は、著者のその考察が、私の感覚とどう乖離しているかを見ることで著者の「戦後」を感じた。著者にとっては「戦後」は、自らの「経験」と相即不離にあるが、1982年生まれの私にとって「戦後」は最初から「歴史」なのだ。だから著者が語ろうとする「戦後」と私の中での「戦後」の差異を微細に測定すれば、「経験」が「歴史」に変わろうとする力学を感じ取ることができるはずだ。少なくとも理論的には。

その作業の一部が、著者の「時代の弁明」に注目することであった。もちろんこれは本書への向き合い方としてはひねくれている。

だが著者が自分で「かなり面倒でひねくれたもの」だと言うとおり、本書も一筋縄ではいかない本だ。正直にいって、著者が「再読」という方法論で描いた「歴史」とはなんなのか、私には読解できなかった。というのは、私には本書を読解するために必要な戦後史の知識が欠如しているのだ。

とはいえ大雑把にまとめれば、戦後の「歴史」とは、「高度経済成長に続いて大量消費社会が確立し、その背後に平和憲法と国際協調主義があった」というものだろう。一方で、個人の「経験」には、高度経済成長も大量消費社会もなく、平和憲法も国際協調主義もなかった、というのが本書の言いたいことの一つ(のごく一部)だ。しかし、それが「高度経済成長」や「大量消費社会」という「歴史」のキーワードを修正するものであるかというとそうではない。

モザイクのピース一つひとつには「高度経済成長」などはないのだが、モザイクを離れて見てみればやっぱり「高度経済成長」が見えるからだ。では本書は「戦後」を読み直して、何を見たのか。著者はそこに大上段の結論を持ち出さない。それはむしろ(本書の主張とは真逆だが)、自分が生きた時代を「歴史」にされること(歴史家としては「「歴史」にしなくてはならないこと」)への弁明であるのではないだろうか。

弁明という言葉が言い過ぎなら、それを著者に倣って「自註」と呼ぼう。著者は後半になるにつれて「時代の弁明人」になると書いたが、それは時代から「ある程度の距離から離れて見る」ことができないというよりも、「経験」に自註を付けることによってそれを「歴史」化しようとする、著者の苦闘の跡だったのかもしれない。中井英夫がそうだったように。

著者も「私たちは中井の自註に代わるものを自分で創るしかないのである(p.256)」という。 

本書は、戦後史の見方に大きな変更を迫るものではないが、同時代を生きたものとして、それにせめて自分なりの註を付けさせてくれという静かな要求をしている本なのかもしれない。その弁明・自註にこそ、私は「経験」のリアル、「歴史」のリアルを感じるのである。  

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2024年10月11日金曜日

『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注

往生のための理論書。

『往生要集』は、往生のためにはどうすればよいかを、仏典を縦横無尽に引用して論証した本である。この本を一読して感じることは、その圧倒的な学知である。仏典の引用は恐ろしいほど広範囲で、平安時代の仏教学のレベルの高さには驚愕するほかない。源信が圧倒的な学匠だったのは確かだとしても、これが理解されうる仏教界であったということだ。本書は石田瑞麿による詳細な訳注があるから私のようなものでもなんとか読むことができるが、もしなかったら意味をつかむことすら難しい。仏典についての該博な知識を前提にしなくては読むことすら困難なのが『往生要集』だ(例えば冒頭の「等活地獄とは、この閻浮提の下、一千由旬にあり(上p.12)」=閻浮提とか由旬とかを知っていることは前提だ)。

しかも、本書は源信の師、良源の死の前後5か月という短い時間に集中的に執筆されている。もちろん、それには周到な準備期間があったに違いないが、それにしても引用を書き写すだけでも大変な手間がかかったはずだ。とても5か月で書けるような本ではないのである。このような本がたった5が月で執筆されたことは、人類史的に稀有なことだ。

また、本書は10という数字にこだわって編集しており、全体を10章に分け、またその中でも随所で10の小項目に分けるなどしている。10という数字に意味があるのかどうかはともかくとして、綿密な構成の上に論証を書いているという雰囲気が強いのである。

以下、全10章について(とても内容を簡約することなど不可能なので)感じたことを中心にメモする。なお本来は「大文第一 厭離穢土」などと表記されるが、ここでは簡単に章番号を使う(『往生要集』は元来上中下の三巻であるが、以下のメモで(上p.117)などとするのは、岩波文庫の上下である)。

1.厭離穢土

『往生要集』といえば、この巻頭に置かれた地獄の描写が著名である。源信は多くの仏典から地獄の情報をまとめ、体系的に地獄の様子を明らかにした。それはダンテの『神曲』に比されることもあるが、『神曲』が政治的なムードがあるのに比べ、こちらは非政治的であり(具体的に誰が地獄に堕ちたとかは言わない)、また庶民的でもある。例えば「鹿を殺し鳥を殺せる者(上p.14)」が落ちる地獄とか(等活地獄の一部分)。そして妙に具体的な区分の地獄は、なんだか笑ってしまう。例えば「昔、羊の口・鼻を掩(ふさ)ぎ、二の(かわら)の中に亀を置きて押し殺せる者(上p.16)」が落ちる地獄(同じく等活地獄の一部分)などは、「そんなやついるの?」と誰でも感じるだろう。

こういう、妙に細かい区分の地獄もあれば、殺生・偸盗・邪淫(寺院では男色は女犯に比べ許容されていたが、男色も罪であり地獄に落ちる)などといった普通の区分ももちろんある。

そして、先ほどは殺生だったので地獄行きは納得できるが、「酒を売るに、水を加へて益せる者(上p.26)」とか「酒を以て人に与へ、酔はしめ已(おわ)りて、調(あざけ)り戯れ、これを弄び、かれをして羞恥せしめし者(同)」が落ちる地獄なんかは、「そこまで悪いの?」という気がする。割と微罪でも地獄に堕ちて長期間の刑罰を受けなくてはならないらしい。ともかく、いろいろなことで地獄行きになってしまうとなれば、これをなんとか避けなければならないと思うのが人情である。しかもこれは源信の独断ではなく、数々の仏典に縷々記述されていることなのである。

次に餓鬼道が説明される。地獄よりちょっとマシな世界だ。例えば「美食を独り占めしたもの(意訳)」がここに堕ちる。「陰涼しき樹を伐り、及び衆僧の園林を伐りし者(上p.50)」なども餓鬼道だ。地獄に落ちるほどではないが、自分本位なものがこちらへゆく。

畜生道、阿修羅道の説明は地獄に比べるとはるかに簡略である。源信はこの二つにあまり興味がなかったのか、それとも仏典にそもそもあまり書いていないのかは不明である(畜生道は皆がよく知っているから省略したのかもしれない。『日本霊異記』では畜生道に堕ちる人が多い)。人間道の説明はそれよりも丁寧だが、地獄よりはずっと短い。その要諦は、人間は不浄だ、ということに尽きる。

では天道はどうか。天道は人間道に比べればずっと寿命も長く、安楽な世界である。しかしそれでも、永遠の命ではない。結局死はやってくるのである。「この苦は地獄よりも甚だし(上p.70)」いと源信はいう。天道においても身は不浄であり、無常であり、苦は避けがたいのである。

しかしながら、当時の日本人が不老長寿や清浄性に憧れていたのかどうかは、本書からは窺えない。普通の人間にとっては天道は十分にパラダイスだと感じるところ、源信は「いやいや、天道じゃあまだ物足りないんですよ」という調子で説得しているような気配がある。

なお、この部分の論考の本筋ではないが「たとひ仏教に遇ふとも、信心を生ずることまた難し(上p.74)」という一文を指摘したい。私の『往生要集』を読む上での関心の一つは、この「信心」の扱いにある。「往生には信心が必須なのかどうか」を源信がどう考えていたのかを知りたいのだ。

2.欣求浄土

本章では一転して極楽浄土のすばらしさが喧伝される。それは、無限に心地よく、全てが思うままになる清浄な世界である。これもかなり具体的な描写で、「誰が見て来たんだ?」と思うような記載が多いが、当然ながら地獄の描写に比べて迫力は劣る。正直、やや退屈である。

ここでまた注目すべき記載がある。「もし[文殊の]名を受持し読誦することあらん者は、たとひ重障ありとも(中略)常に他方の清浄の仏土に生まる(上p.115)」としたり、「一念も[弥勒菩薩の]名を称する者は、千二百劫の生死の罪を除却し(同)」とある一方で、観世音菩薩は「わが名号に於て心を至して称念することあらん(上p.117)」 とある。前二者ではただ念じたり、名を称えるだけで効果があるのに、後者では「心を至して」という心の在り方が問題になっている。客観的な行動だけでなく、内面の在り方が問題になっているのである。

ともかく、これから論考していくのは、このすばらしい浄土にどうやって往くことができるか、ということである。

3.極楽の証拠

これまでの記述も、実は問答が基本になっていたのだが、本章は最初から問答である。その疑問はまず「十方に浄土があるのに、なぜ極楽(阿弥陀の浄土)だけを求めるのか」である。本書は、この種の問答が多いが、それらの問は鋭いものが多く(得てして答えよりも気が効いている!)、それが論考の都合上の源信の自問自答ではなく、切実な疑問であったことが窺える。

次の疑問は「弥勒の兜率天の方が阿弥陀の浄土よりいいのでは?」というものだ。当時は弥勒の兜率天の人気が高かったらしい。これらの問いは、私にとってはあまり興味の湧くものではないのでつぶさに読解していないが、その答えの要点は「阿弥陀の浄土は念仏によって行くことができるのだから、より行きやすい」ということに尽きるようだ。いかに素晴らしい浄土が他にあったとしても、行くことが非常に難しければ絵に描いた餅である。

4.正修念仏

本章では念仏のやり方について説明する。 当時、念仏は数をこなさなくてはならないという考えがあった。日常生活全てを犠牲にしなくては達成不可能なほど何万回も称えることが必要だというのだ。それを源信はきっぱり否定する。「多少を論ぜざるも、ただ誠心(じょうしん)を用てせよ(上p.153)」という。数の多い少ないではなく、がこもっているかどうかだという。

そして念仏のやり方というのは、作法というよりも心の在り方、もっと言えば世界認識の仕方に傾いている。念仏は身口意(しん・く・い)で行うが、意業(いごう)、すなわち心が大事だという。無量寿経の「要(かなら)ず発菩提心を須(もち)ふることを源となす(上p.159)」を引いて、「菩提心はこれ浄土の菩提の綱要(上p.160)」と述べる。

さらに荘厳菩提心経を引いて「菩提は即ちこれ心なり。心は即ちこれ衆生なり(上p.163)」だと、唯心論的な世界認識を述べる(正確に言えば「唯識」である)。さらに大智度論からは「心、清浄なることを得るは菩薩の教なり(上p.166)」として、心の清浄性が重要視されている。これらは、如来蔵思想(すべての衆生には如来としての性質が内在しているという思想)に基づいている。

ここで問があり「煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ応に意(こころ)に任せて感業を起こすべきや(上p.168)」という。如来像思想では、煩悩にまみれた衆生の実相が、即ち菩提であるという認識論的な観念があるが、だとすれば、ことさらに菩提を求める必要はなく、煩悩にまみれたまま、ほしいままに振る舞えばいいではないか、という当然の疑問だ。これに対し源信は、「煩悩と菩提は一体だが、水と氷、種と果実のように別の次元にあるのだから、同一視してはダメだ」といったことを述べている。

そして、凡夫は難しい修行・儀礼などを勤修することは難しいから浄土など願っても無駄ではないか、という問に対しては、「昇沈の差別はにありて、行にあらざること[なし](上p.171)」という。何をするかではなく、心が大事だというのだ。私などには、客観的に判定できる「行」の方が、捉えどころのない「心」よりもずっと簡単に感じるが、源信は心を用いることなら凡夫でもできるという。

しからば「いかにして心を用ふるや(上p.172)」というと、これも源信はいろいろ述べているが、結局は「無理にでも念仏をすることで心は変わっていく」ということのようである。しかし「凡夫は常途(じょうず=常日頃)に心を用ふるに堪へず(上p.175)」と問は言う。これは鋭い問いである。それに対し、源信ははぐらかしているような答えである。

そもそも、煩悩をなくすことができないから凡夫なのだ。どうやって心を用いるのか。長々とした議論があるが、その中で面白い理屈が表明されている。華厳経を引いて「菩提心も一切衆生のもろもろの煩悩の病を滅す(上p.186)」という。普通、煩悩を滅して菩提心に至る、と考えるのであるが、これは菩提心を起こしたら煩悩がなくなる、という逆転の論理なのだ。煩悩をなくすのは無理でも、一念の(常途ではなく!)菩提心を起こすだけならできる、という理屈だ。「もし智慧ある人、一念、道心を発(おこ)さば、必ず無上尊と成る(上p.188)」。ここで「智慧ある人」に限定されているのは気になるが、「一念」だけでよいなら、これは凡夫にも不可能ではなさそうである。

さらには、出生菩提心経を引き「寺を造ること(中略)またもろもろの塔を造ること須弥の如くせんも、道心の十六分に及ばず(上p.190)」という。

では、「願」(心)だけがあって、「行」がない場合はどうなるのか。これは仏典(浄土十疑論・大乗阿毘達磨雑集論)では「別時」(未来)に叶うとしている。これに対して源信は、ここでは仏典を一切引かずに「菩提心は無量の罪を滅するのだから、心で浄土を求めさえすればすぐに浄土へ行ける(意訳)」(上p.195)という。異常に仏典を引用する本書の中で、全く引用せずに考えを述べているのは注目される。

しかしこの答えへの反問が面白い。「大菩提心にもしこの力あらば、一切の菩薩は初発心より決定(けつじょう)して、応に悪趣に堕する者なかるべし(同)」というのだ。まさにその通りである。一念の菩提心を起こすだけで往生できるなら、「1.厭離穢土」で描かれたような地獄にいく者は誰もいない。この問に対し、源信は仏典を引くことができず「且(しばら)く愚管を述べたり」として自説を述べる。その要諦は、「ただ極楽を願うのは、自分の安楽を求めているだけだから自利の行であって菩提心ではない」ということである。これは大乗仏教の基本的考え(大乗とは、自らだけでなく広く人々を救うことを目的とする)ではあるが、苦し紛れの説明のようにも思う。問の方が答より鋭い。さらに例えば「一心に念仏すれば往生するならば、なぜ経典や論書では菩提の願を勧めているのか」といった問には真正面から答えていない。

このあたりは、念仏が内包する矛盾を鋭く突いた問答であって、明らかに源信側に論理的な弱さがある。それでも、自説の弱点をわざわざ突くような問を掲載し、論理的に弱くてもなんとか説明しようとする態度は、宗教者としてあっぱれとしかいいようがない。私は本書を読みながら源信のことが大好きになってしまった。

こうして心の問題を議論してから、次に念仏の具体的なやり方に話が進む。今では念仏といえば「南無阿弥陀仏」を称えることと決まっているが、この時代の念仏は、文字通り「仏を念じる」というイメージトレーニング的なもの(観想)がメインである(ただし称名念仏もある)。そこで何をイメージするかというと、初学者はまず色相(仏の外面的な姿)からである。よってここでは、阿弥陀仏がどういう姿であるかを非常に細かく説明している。

次に、少し抽象的なイメージに移る。これは天文学的(?)な世界観であったり、超越的なイメージである。仏の体がどうこうというならまだイメージができるが、仏の眉間にある白毫が「七百五倶胝六百万の光明あり。十方面に赫奕(かくやく)たること、億千の日月の如し(上p.236)」と言われても、なかなかイメージできないと思う。源信の勧めるイメージトレーニングは、かなり難しいというのが実感である。

少し救われるのは、こういう観想を「麁心にして(=心が集中していなくて)像を観ずるも(上p.242)」効果はあるとしていることだ。だがもちろん、源信は「念(おもい)を繋けて、仏の眉間の白毫相の光を観ずる(同)」ことを勧める。「心がこもっていなくても効果があるのだから、心を込めてすればもっと効果がある」という理屈だ。

なお、当時は浄土のありさまを観ずる修行が多かったが、源信はそれは進んだ段階の修行だとして、仏の姿を観ずることを勧めている。この「4.正修念仏」が『往生要集』の中心である。

5.助念の方法

前章で説明された念仏(観想念仏)は、なかなかに難しいものであった。この実施を助けるための種々の方策が本章に述べられる。例えば、花、暗室(気を散らさないため)、念珠、体の姿勢など、いろいろ整えることが大事だという。しかしそれらを全部整えて、さらに精神を集中して念仏を称えるとなると、普通の人にはかえって難しい。そこで「在家の人は念仏の行に堪へ難からん(上p.257)」という疑問になる。易行(やさしい行い)であるはずの念仏が、実は難しいのである。

これに対し源信は「もし世俗の人、縁務を捨て難くは、ただ常に念(おもい)を西方に繋けて、誠心(じょうしん)に応にかの仏を念ずる(同)」ことが大事だという。また「誠心」が出てきて、どうも議論が循環的になっているようだ。だったら、これまでの観想念仏の煩瑣な方法は必要ないのではないか。心なのか、行なのか、はっきりしない。

こう読者が思い始めた頃、源信は涅槃経を引いて「阿耨(あのく)菩提は信心を因となす(上p.260)」として「道を修するには信を以て首(はじめ)となす(同)」と述べる。やはり重要なのは心であり、しかも信じることだという。これは「4.正修念仏」でさんざん論議した心の問題と、似てはいるが少し違う。心の清浄さとかではなく、信じること、疑わないことが大事だというのは、精神集中などとは一線を画す認識ではないだろうか。初期仏教の頃から、煩悩をなくすとか菩提心といった、内面の陶冶が重視されてきたことは疑いないが、信じることによって救済が与えられるとする観念はそれと別種のものである。「心」と「信」のどちらを重視するかは、似ているようで違いは大きい。私には、源信は半ば意図的に「心」を「信」にすり替えていっているように思える

さらに源信は、なかなか実践が難しい念仏を継続して行うため、阿弥陀仏の功徳を説明する。仏がどんなに素晴らしいものかを理解すれば、念仏を継続したくなるだろうという配慮(!?)である。 ここでは当然に仏の救済力が強調されているが、その他にも自由に空を飛べる(上p.277)とか、万能の力がある(上p.279)とか、どんな障害があっても見通す千里眼がある(上p.283)とか、人の心が読める(上p.285)といった特徴があり、これらはほとんどキリスト教の神の全知全能に近い。特に人の心が読めるのは大事で、であればこそ「阿弥陀如来は必ずわが意業を知りたまふ(同)」のである。心で念仏しても阿弥陀仏にはお見通しなのだ。

そして全知であるから、「衆生は[仏を]見たてまつらずといえども、実に諸仏の前にあり(上p.295)」。仏は我々の行動や心をいつでも見ているのである。 この仏の能力は、心を重視する源信の論議の土台となっている。

次いで、念仏についての補助的な議論に移る。その中で華厳経を引いて「如来の自在力は、無量劫にも遇ふこと難し、もし一念の信を生ずれば、速かに無上道を証す(上p.307)」とあるのは気にかかる。 仏に遇うのは難しいが、一念の信だけで無上道に至れるというのは、どことなく詭弁的だ。また「4.正修念仏」では「一念、道心を発(おこ)さば(上p.188)」だったのが、ここでは「一念の」になっている。ここでも「心」から「信」の転換がある。

さらに議論は「戒」に移る。これは当時から大問題になっていたことである。念仏のみで往生できるならば、持戒は必要ない。だから念仏者は悪いことを平気でする、というのが反念仏(例えば興福寺)の主張だった。「興福寺奏状」(念仏者を批判するもの)は源信よりもっと後の時代だが、おそらくそうした批判を念頭に置かれて書かれているため、源信は持戒を必要なものと述べており、戒を破るものは地獄に落ちるとしている。

ここでクリティカルな問「仏を念ずれば罪を滅す。なんぞ必ずしも堅く戒を持(たも)たんや(上p.321)」が放たれる。念仏で往生できるなら、なんで持戒の必要があるのか? これへの返答は大変苦しい。要するに「念仏は確かに罪を滅するが、念仏がいつでもできるとは限らないじゃないか」というものだ。先ほど述べたように、源信の念仏は簡単なものではないからだ。念仏は易しいのか、難しいのか、源信の言説は揺れ動いているように見える。

続く議論も興味深い。煩悩への対処法について述べた後、「煩悩と菩提は一体であるという真理に思い致せ」(上p.327)としつつ、それでも煩悩によって生じた罪は懺悔(さんげ)によって消滅させるべきと言う。これに対する問がいい。「ただ仏を観念するに、既に能く罪を滅す。何が故ぞ、更に理の懺悔を修するや(上p.332)」。仏を観念すれば滅罪するのに、なぜわざわざ懺悔などしなければならないのか。こういう素直な、だが難しい疑問をしっかり掲載するのが源信の良心である。ちなみに、予想されるようにこの問への答えもずいぶん苦しい。正直に言うと私にはその回答の意味が摑みづらいのだが、どうも「いちいち懺悔せよとは言っていない。真実の道を歩みたかったら、悪いことをしたら懺悔したくなるじゃありませんか」ということらしい。

このあたりも鋭い質問ばかりで一問一答でここにメモしたいくらいである。源信の答えよりも、むしろ質問の鋭さの方に惹かれる(もちろん、質問を作っているのも源信なのだが!)。 例えば「懺悔をして罪がなくなるなら、なぜ経典には戒を犯したら懺悔しても三悪道の罪は免れないなどとあるのか」と経典との矛盾を突く部分(上p.326)など、源信自身の苦悩を表しているのかもしれない。これには「方便なのではないか」とやはり苦しい回答をしている。

次に、心を乱すものとしての魔について述べる。仏教では、悟りの道を邪魔するものとして悪魔(マーラ)が考えられたが、源信は魔を実体としてではなく心の在り方として捉えている。「閲叉(えっしゃ)・鬼神」といったものも議論には登場するが、結局は「魔界も仏界も及び自他の界も、同じく空・無相なり(上p.344)」なのだ。

そしてこれまでの議論をまとめた結論部分が来る。結局、往生の要はなにか? 源信は「大菩提(仏の悟りを得たいと願う心)」と「三業を護る(身体・口・心の行為を正しくする)」と「深く信じ、誠を至して、常に仏を念ずる」の3つだという(上p.347)。つまり源信の段階では、未だ念仏だけに頼るという考えではないのだ。しかしながら、「往生の業は念仏を本となす」(後に、法然が『選択本願念仏集』の劈頭に冠した言葉)。一番大切なのは念仏であり、念仏をする「心」には、「深く信ずる」と「誠を至す」と「常に念ずる」の3つが付随するべきだ、というのである。 

「誠を至す」と「常に念ずる」はいいとして、やはり「深く信ずる」が私には気になる。先ほどの議論では単に「信」だったのが、いつのまにか「深く信ずる」になっているのも、初めは圧倒的な学知による学術的な議論だったはずが、だんだん源信の「信仰」へと傾斜していっている感じがするのである。

「宗教」なんだから信仰は当たり前じゃないか、と人はいうかもしれない。だが当時の人は仏教を文明・科学として捉えていた(と思う)。それは重力の法則や化学反応のような、人の心とは関係なく存在する真理であった。重力の法則を信じていない人は、高い所から落ちません、というわけにはいかないのである。信じようが信じまいが、確乎として存在していたのが仏教の真理であった。

「往生」も、今では観念的なものであるが、当時の人は実証的に捉えていた。 死の際にかぐわしい香りが漂ったとか、天上から音楽が聞こえてきたとかいうことがあって初めて往生したとみなされた。「往生」のために必要なことも、心の在り方などではなく、例えば阿弥陀像から五色の糸を自分の手に結びつけるとか、西方に向かって端座するとか、臨終の際に大勢の僧侶を呼んで読経するといったような、様々なプロセスを踏むことが浄土への行きかたであると説かれていた(源信自身、次の「6.別時念仏」でこの方法については詳述している)。

それは、ちょっと変な例だが、洞爺湖への行き方、というようなものと似ている。まず飛行場へ行き、○○行きの飛行機に乗って、北海道についたら電車で…というように段階を踏めば、誰でも洞爺湖に着くことができるのである。洞爺湖への行き方を信じていなければ洞爺湖に行けない、ということであれば、真っ当な道案内とは言えないだろう。

ところが源信の主張は、意地悪に言えばそういうことだ。それは、洞爺湖への交通費は高額だから普通の人には行けない、だから違う行き方を考えよう、ということだったのかもしれない。彼は費用のかかる法事ではなく、心の在り方、「信じる力」によって往生する方法を編み出した(もちろん彼一人の独創ではなく、正確に言えば源信はそれを学究的に論証し体系づけた)。それは、交通費を出して交通機関を使い洞爺湖に行くことが当然(それ以外ない)と思っていた人々にとっては、眉唾物の手法であったに違いない。「本当にそんなことで往生できるとは思えない」というわけだ。

この疑いがあったからこそ、源信は「信」を強調するようになったのだろうと私は感じる。念仏による往生へ疑いを向ける人々に対して、源信は「信じなくてはこの方法は無効になるのですぞ」と諭しているのである。 しかし仏教が科学のような客観的真理であれば、信じる信じないは問題にならないはずだ。実際、時代は下るが念仏を突き詰めた一遍は「信不信を選ばず」(信じていようが信じていまいが念仏の力は同じ)と喝破している。

6.別時念仏

ここでは通常の念仏と、臨終の際の念仏をどのように行うかそれぞれ述べる。そこで源信は善導の書を引用して「阿弥陀経を誦すること十万遍を満たし、日別に仏を念ずること一万遍せよ(下p.15)」という。一日一万回念仏が必要だというのだ。これは「4.正修念仏」での主張と違う。やはり念仏は回数なのか? だが議論はまた「心」へ傾斜していく。

そして臨終の際については、先述の通り、往生に必要となるプロセスを事細かに説明している。もちろん、儀式的なところも多いが、それ以上に心の在り方もかなり詳細を極める。阿弥陀仏が来迎することを具体的にイメージしなさいということを中心に、10項目の具体的な心の持ち方・イメージを臨終の際に護持しなければならない。これらは死にかけた人にはとてもできそうもない。だが「臨終の一念は百年の業に勝る(下p.45)」として、まさに臨終の際の心が大事だと源信はいう。臨終の一瞬より、それまでの人生をどう生きたかの方が大事だと思うのは私だけだろうか。

ちなみに議論の本筋ではないが、臨終の場所に「酒・肉・五辛(ニラなどの香味野菜)を食せる人をあらしめるなかれ。(中略)(もしそういう人がいたら)即ち正念を失ひ、鬼神交乱し、病人狂死して、三悪道に堕せん(下p.32)」というのはずいぶん理不尽に感じた。こういうのを超克するのが念仏であるというのではなかったか。

7.念仏の利益(りやく)

ここでは念仏の7つの利益を説明する。これまでの議論でも念仏の利益は説明されているので繰り返しのような内容も多い。

7つの利益の筆頭が「滅罪生善」であるが、念仏をすると「九十六億那由他恒河沙微塵数劫(※非常に多いこと)の罪を除却せん(下p.55)」というのは気にかかる。念仏だけでこんなにも罪が消えるなら、念仏者が「いくら罪を犯しても大丈夫だ」と思うのもしょうがない。後の興福寺の言うとおりである。

その他の6つはいちいち挙げないが、途中「名号念仏」の利益の話が出てくるのが興味深い。先述の通り源信の念仏は難しいイメージトレーニングだが、「衆生は障(さわり)多ければ、観(※観想念仏)成就し難し。(中略)ただ専ら名字を称せよと勧めたまふ(下p.65)」。本当は観想念仏をすべきだが、それは普通の人には難しいので名号念仏でも十分効果があるという。

そしてまた心の問題が出てくるのだが、観仏経を引き「もし心を至して、(中略)仏の色身を観ぜば、当に知るべし、この人の心は仏の心の如くにして、仏と異ることなけん(下p.70)」という。観想念仏によってその人の心は仏と同じようになるというのは、面白い主張である。さらに法華経の偈を引いて「もし人、散乱の心もて、塔廟の中に入るも、一たび南無仏と称へんには、皆已に仏道を成ず(下p.73)」というのは、心の在り方がどうであれ、南無仏と称えるだけでいいというのだから、これまでの主張とずれる。次いで「いまだ菩提心を発(おこ)さざらんも、一たび仏の名を聞くことを得ば、決定して菩提を成ぜん(同)」というのも、どうも前半の議論と齟齬していると思う。

一方、観無量寿経を引き「心に仏を想ふ時は、(中略)この心、作仏す。この心、これ仏なり(下p.75)」と、心=仏と言う。さらに往生論の註を引き「心の外に仏なきなり(同)」、大集日蔵分を引き「諸仏如来も即ちこれわが心なり(下p.76)」と述べる。このあたりは唯心論的(唯識的)で、さっきの「散乱の心でもよい」という態度とはかなり異なる。源信の心に対する考えは揺れ動いているように見える。

ただし、心を込めて念仏するほうがいいというのは当然で、先述の「心を至し」は随所に出てくる。本書は多くの経典を引用するので、統一されないそれぞれの「心」の捉え方が本書にはたびたび表明される。だからこれは源信の考えが揺れ動いているのではなく、単に多様な考えが盛り込まれているだけなのかもしれない。

8.念仏の証拠

本章では、善行ではなく念仏を勧めるのはなぜかを説明する。それは、善行を勧めないというのではないが、少しの善行よりは一日でも念仏をする方が利益が大きいというものである。なお本章は他章に比べ極端に短い。

9.往生の所行

源信は、念仏さえすれば往生できると確信はしていない。よって本章では、読経、誦経など念仏以外に往生に役立つことを述べている。本章も他章に比べ極端に短い。

10.問答料簡

本章は全部が問答形式である。いわば「よくある質問」のようなQ&A集だ。この問答は、予定調和的なものではなく、実際に源信が直面していたものなのだろう。例えば経典間の矛盾を突く質問などは、その質問を掲載していること自体が面白い。

仏典は歴史的にいろんな人が形成に与ってきた。ということは、当然矛盾も多い。仏教ではそうした矛盾を「方便だ」としてあまり深刻に受け取らなかったのだが(どちらの方が正しいのか、というような議論はされなかった)、一歩離れて見てみると「二経、何が故に同じからざるや(下p.144)」という態度の方が自然である。

また、すでに別の箇所でも同様の問答があったことを述べたが、「一たび[仏の]名を聞くすらなほ成仏することを得といふ。いわんや暫くも称念する、なんぞ唐捐ならんや(下p.159)」、つまり「仏の名を聞くだけでも成仏できるなら、称名念仏は無駄では?」というような疑問はごもっともである。こういう問答は読んでいて楽しい。「生まれてこのかた悪事ばかりして一切善行を行わなかったものが、臨終の時にわずかに念仏しただけで罪が滅して浄土にいくなんておかしくないか?(意訳)」(下p.177)という疑問なども至極当然のものだろう。

これに対する源信の回答は、いろいろな事例を引いて説明しているが、論理的な反論には感じられない。最後に「念仏の功力も、これ[諸法の不可思議さ]に准じて疑ふことなかれ(下p.184)」 というのは、ちょっと逃げている感じがする。ただし、この時代には念仏によってあらゆる罪障が無効化されて往生できるとまでは考えられていない。

そして、ここでもまた心の問題は蒸し返される。「粗雑な心で念仏しても効果はあるのか(意訳)」(下p.197)ということに対しては、「例えば芽が出るなと願いながら種を播いても、芽が出るのと同じ(=大悲経の引用)(意訳)」(下p.198)という問答があったかと思うと、「この経の意の如くは、敬信を以ての故に、遂に涅槃を得るなり(下p.200)」と「やっぱり心が大事なんじゃないの?」と問うているのは面白い。それに対し源信は「諸法の因縁は不可思議なり。(中略)ただ応に信仰すべし。疑念すべからず(下p.201)」とやや逃げ腰である。

では、このように念仏を信じることで往生できるのであれば、むしろなぜ「信ずると信ぜざるとありや(下p.215)」というのが疑問になる。これに対する源信の答えはやや我田引水だ。それは「疑ひて信ぜざる者は、皆悪道の中より来たり(下p.216)」。要するに「信じない者は悪人」なのである。それは言い過ぎではないだろうか。

さらに「(阿弥陀の名号を)不信の者はいかなる罪報をか得るや(下p.218)」。これに対し、源信は称揚諸仏功徳経を引用し「五劫の中、当に地獄に堕ちて、具さにもろもろの苦を受くべし(同)」という。信じないだけで地獄行きとはちょっと腑に落ちない。それに、これは「1.厭離穢土」と矛盾する。そこにはあらゆる罪を犯したものの細かい地獄の描写があったが、「信じない者が堕ちる地獄」というものはなかったからだ。

そう言いながらも源信は、「もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修する者は、また往生することを得(下p.219)」という。疑いがあっても往生のためのプロセスを踏めば大丈夫だという。信じるのが大事なのか、そうではないのか、最後まで源信は揺れ動き、どっちともつかない。両論併記だ。

それは、「信」が源信にとって「学問」ではなく「信仰」だったからだと私は思う。源信にとって「信」は理屈ではないのだ。この長大な学究の塊『往生要集』をもってもしても、「信」は理論化できなかった。そういえばその名も源「信」だ。理論化はできなかったが、「信」は源信にとって心情的に外せないものであったことは確かだ。

このように本書は全体に重複・矛盾・一貫性のなさが見られる。ではその価値が低いかというともちろんそうではなく、経典から要点を抽出して念仏を理論化したことには歴史的な価値がある。そのうえ、本書の矛盾や一貫性のなさは、批判の対象というよりも、その後の議論の土台として機能した。ある意味では、本書はその不完全さが魅力なのかもしれない。それに百科全書的というか、取捨選択をせずに論考をまとめているため、いろんな角度から読むことができるのも本書の面白さである。私は「心」や「信」の問題に注目して読んだが、それは本当に限られた観点でしかなく、実際に読まなければ何が書かれているかわからない本だと言っても過言ではない。

ちなみに、これまでの私の書き方は、源信に対してずいぶん批判的に感じるだろう。だが先ほども述べたように、私は源信の書きぶりに非常に好感を持つ。『往生要集』から感じるのは、度外れた素直さだ。それはしばしば宗教の教祖が持つ強力な確信とか、信仰を喧伝するものが持つ狂信とは全く違う。『往生要集』という高峰がありながら、そこから独立した宗派が形成されなかったのも当然だと感じる。『往生要集』には、源信の迷いや苦悩がはっきりと残されている。いわば源信は等身大なのだ。等身大の人間が、このような巨大な論考を、素直な気持ちで書き記したことは奇蹟的だ。

念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

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