2024年10月22日火曜日

『天皇の祭祀』村上 重良 著

天皇制を支える祭祀について述べる本。

国家元首としての天皇、そして天皇を神と見なす観念などを含む「国家神道」は、戦後にGHQの指導の下で解体されたが、その祭祀については天皇の私的な行為(内廷行為)ということで存続を許され、今でも行われている。だが、皇室祭祀は「天皇の私的な行為」どころか、「天皇の祭祀王権の基盤(p.iii)」であり、天皇制の核であるともいえる。

しかし大嘗祭がニュースになるくらいで、一般にはあまり知られていないのが皇室祭祀である。

本書はこの皇室祭祀の全貌を述べるものである。

まず、「天皇の宗教的権威は、イネの祭り新嘗祭に淵源している(p.1)」という。新嘗祭は古代から行われた稲の収穫祭であり、神に稲をささげるという役目を負った(別の面からいえば、ささげる権利を持った)のが天皇である。

新嘗祭は、古代においては11月下卯日(月に3回卯日があるときは中卯日)であった。これは、稲の収穫からは遅い。本書では、神嘗祭の方が先にあり、遅れて新嘗祭ができて、さらに冬至祭と複合したのではないかとしている。

新嘗祭の前日夜には天皇の鎮魂祭が行われる。これは宮中の綾綺殿(りょうきでん)で行われる、天皇の魂を神にする(霊力を高める)参列者のいない秘儀で、鎮魂祭の間は天皇は真床(まどこ:神聖な席)で追衾(おぶすま:神聖な寝具)をかぶって物忌みする。これは天孫ニニギの降臨の故事に基づくとされるが、実際にはこれを反映してニニギの神話がつくられたものとみられる。

新嘗祭は神嘉殿で行われる天皇の親祭(みずから行う祭)であり、天皇は他と違い純白の絹の装束を着て行う。その中心は、神饌の供進と直会(なおらい)である。

天皇の一代一回の新嘗祭が大嘗祭であるが、これは大極殿(平安時代以降は紫宸殿)の前庭に大嘗宮(悠紀殿・主基殿)が特別に建てられて行う。大嘗祭は天武天皇の時代から行われるようになったらしい。

ちなみに、皇位のしるしである三種の神器は、その由来がはっきりしない。それを語る神話は後世の作為であると見られる。伊勢神宮がもともと鏡を神体としていて、それから鏡が三種の神器のひとつとなった…というような流れが自然だが、実態は不明である。しかも、9世紀初頭には「本来の宝鏡、宝剣は天皇もとにはなく、皇位のしるしである鏡、剣は、宝鏡、宝剣の模造品であるという不自然な説明が定着(p.25)」した。ともかく、宮中の鏡は(模造品であれ)伊勢神宮の鏡と一体であるとされ、別殿にまつることとし、これを温明殿(うんめいでん)と呼び、また賢所(かしこどころ)、内侍所(ないしどころ)とも称した。

大嘗祭では、鏡と剣が用いられていたが、賢所の成立によって(?)、剣と玉を使うようになり(本書には理由が書いていない)、剣と玉はあわせて剣璽とされ、剣璽動座(天皇が一日以上の旅行をする際に剣璽を侍従が奉持する)も平安時代に始まったとされる。

ちなみにこの剣は、源平の争乱の壇ノ浦に安徳天皇とともに沈んでおり、後に伊勢神宮の神庫にあったものを代わりとした。宝剣の本体は熱田神宮に祀られているが、何人も見ることができない建前なので実態は不明。玉も古代以来宮中に伝わっているとされるが、それを納めた箱は天皇と言えども見ることができず実態は全くの不明である。

神祇制度は平安時代に完成を迎えたが、南北朝の動乱によって天皇の宗教的政治的権威は失墜し、皇室祭祀の多くが廃絶した。ただし、この南北朝動乱期に「三種の神器」の意義が強調されるなど、天皇制の理論化が起こっていることは面白い。

また興味深いことに、平安期から天皇・皇室の密教化が進んでいた。平安期には大内裏の中和院の西に「真言院」が設けられ、天皇のための御修法(みしほ)がさかんに行われた。承久の乱後には泉涌寺(真言宗)が皇室の菩提寺となり、天皇家の葬送は仏教式で行われた。さらに室町時代には、後土御門天皇が勅願随一の精舎として伏見に般舟(ばんじゅう)三昧院(天台宗)を開創し、禁裏道場として栄えた。

宮中には「お黒戸」と呼ばれる独立の建物が作られ、仏像を安置して歴代の天皇、皇后の位牌をまつった。このように、中・近世を通じて皇室は真言宗の檀家であり、天皇は仏式で葬られていた。

江戸時代には天皇は形式的なものとなって、叙任・叙位、元号の制定、作暦の3つの権限を持つにすぎず、これらも名目のみにとどまった。幕府は皇室を「禁中並公家諸法度」で統制したが、一方で門跡寺院の権威を認めるなど、天皇を頂点とした権威の仕組みを利用した。なお門跡は寺格化し、皇室が衰微した時期には、その付与は国師号の宣下などとともに有力な収入源となった。

また幕府は、皇室祭祀の再興を後押しした。新嘗祭は東山天皇の1688年に225年ぶりに復活(この時は吉田家で行った!)。1740年には天皇(桜町天皇)の親祭による旧儀にほぼ復したものの、幕府の意向で神今式は省かれたままであった。ちなみに大嘗祭は新嘗祭復興の前年1687年。これも1738年、桜町天皇のときにはほぼ旧儀に復興した。

明治維新が起こると、政府は祭政一致国家を志向し神仏分離を行った。また天皇と神道を密接化させ、追って宮中の神仏分離を行い、「お黒戸」を泉涌寺へ移築した。また社寺の土地を取り上げる社寺上知令では、泉涌寺と般舟院の土地も取り上げられて(皇室の墓域まで官収された!)、両寺はたちまち衰微した。

一方、新たに設けられた神祇官に八神殿が設けられ、八神、天神地祇、歴代皇霊が祭られたが、神祇省への格下げに伴って歴代皇霊については賢所に移され、追って「神殿」が建築されることとなった。さらに神祇省の八神殿も廃止され、八神・天神地祇も「神殿」へ遷されることとなったが、1873年に皇居が炎上したため赤坂離宮の仮皇居に遷された。新神殿=賢所・皇霊殿・神殿という宮中三殿ができたのは明治22年(1889)である。

宮中三殿の後ろには綾綺殿、少し離れて横に神嘉殿があり、賢所を最高の中央神殿として体系づけられた。「皇居内に、このような整った形式の神殿を設けることは、古代天皇制以来の伝統にはない近代天皇制国家の創案であり、天皇の祭祀の拡充強化に見合う新機軸であった(p.67)」。

明治政府は祭祀にも新機軸をもたらした。天皇親祭の13の祭祀のうち、(1)新嘗祭のみは古代の皇室祭祀を受け継いでいたが、他は新たに制定された(あるいはアレンジされた)祭祀だった(以下、便宜のために番号を付ける)。

そのうち、新嘗祭以外で古くからあるのは(2)神嘗祭である。これは元来、皇室ではなく伊勢神宮の重儀であるが、伊勢神宮を重視する明治政府の政策によって、明治4年(1871)に宮中でも遥拝と賢所神嘗祭が行われることとなった。これは神宮と天皇が一体であることを国民に示すためであった(明治12年には、祭日を一か月ずらして10月17日に改めた)。

(3)元始祭:天孫降臨を祝う祭り。明治3年(1870)正月3日に八神殿で行われたものを定例化し、明治5年(1872)から元始祭の名称を用いた。賢所・皇霊殿・神殿で親祭が行われるのは皇室祭祀の中で元始祭のみであり、新嘗祭に次ぐ重要な祭典である。

(4)紀元節祭:神武天皇の即位を祝う祭り。明治6年の太陽暦採用にあたって神武天皇紀元が制定され、明治6年1月29日が旧暦元日だったことから紀元節祭が行われ、その後、2月11日に再設定されたが日程の根拠は詳らかでない。紀元節祭は皇霊殿で天皇が親祭するものであったが、昭和3年(1928)からは賢所・皇霊殿・神殿の親祭に改められた。

(5)神武天皇祭:現天皇が神武天皇に大孝をのべる祭りで、明治3年の祭日だった3月11日は神武天皇の命日とされる。その後2回日程が変わり明治7年(1874)からは4月3日となった。朝昼夕の3回、皇霊殿で天皇が親祭した。

(6)春季皇霊祭、(7)春季神殿祭、(8)秋季皇霊祭、(9)秋季神殿祭:当初、新政府は歴代天皇の祥月命日全てで祭典(正辰祭)を行ったが、天皇以下の式年祭と併せてあまりに数が多いので、明治11年(1876)にこれを廃止して春季・秋季の皇霊祭にまとめた(皇霊殿で行う)。これは国民に定着していた春秋の彼岸を皇室祭祀に直結する狙いがあったものとみられる。また、これに合わせて従来春分・秋分に行われていた天神地祇の祭りも神殿でとりおこなったため、同日に皇霊祭と神殿祭の2つの祭典が開催されることとなった。

(10)孝明天皇祭:先帝である孝明天皇の命日(太陽暦1月30日)の祭り。皇霊殿で天皇が親祭した。

(11)先帝以前三代の式年祭、(12)先后の式年祭、(13)皇妣たる皇后の式年祭(これら3つは皇霊殿で行う)

このほか、建前としては天皇が行うことになっているが賞典職が天皇に代わって奉仕し、天皇は拝礼のみを行うものとして、祈年祭・賢所御神楽・天長節祭・明治節祭・節折(よおり)・大祓がある。

明治政府は、復古を建前としていたから、祭祀のみならず諸儀式についても一応は復興を企図してはいたが、古制を廃止して新たな方式としたものが散見される。例えば即位式は陰陽道に基づく大旌(だいせい:いろいろな幢(とう)と旛(ばん))を廃して真榊にするとか、中国風の礼服袞冕(こんべん)を廃止するといったものである(特に礼服は天皇以下全て新たに定めた)。

天皇の祭祀のうちで最も重要な大嘗祭も、明治4年(1871)には初めて東京で行い、その際に「簡素を旨として、名目だけの古制は廃する(p.115)」こととした。この大嘗祭は、古式に擬した新儀であった。

新政府は、追って様々なことを天皇中心に作り替えた。一代一元制の採用、また元号を天皇の諡号にするということは、天皇が時を支配する観念を植え付けた。民衆の間では、年は干支で数える風習があったが、これを太陽暦の採用とともに廃止し、元号のみに一本化した。

また、休日(祝祭日)についても、伝統的な五節句と八朔(8月1日)を廃止し、皇室祭祀や行事に基づくものに変更した。「祝祭日の体系的設定は、天皇の祭祀を原基とする現人神天皇の存在を、国民の生活のすみずみにまで浸透させる役割を果たした(p.127)」。日の丸や「君が代」の制定も、外交上の必要性があったとはいえ、国家意識を国民に植え付ける一助となった。

さらに本書では、神社の再編成(近代社格制度の制定)、神社祭式の統一的制定(明治8年の「神社祭式」、明治40年の「神社祭式行事作法」、大正3年の「官国幣社以下神社祭祀令」)、勅使の派遣と奉幣の制度などに触れ、皇室神道と神社神道を直結させたことを述べている。

それに続き、皇室典範と大日本帝国憲法により、皇室の位置づけが法的にも強固になり、また天皇が軍を統帥するという、歴史的に異例の役目が与えられた。これに著者は「軍人天皇」という用語を与えている。「明治維新以前の天皇の属性であった祭司王という基本的性格にかわって、現人神がその属性となった(p.151)」。こうして天皇は、政治大権、軍事大権、祭祀大権の3つを備えることとなった。このような超越的な天皇の存在を国民に植え付けるため、教育勅語、御真影が大きな役割を果たしたことはいうまでもない。

一方、祭祀大権については皇室典範にも憲法にも規定はなかった。これが制定されたのは明治40年(1908)の「皇室祭祀令」で、先の13の親祭がここに規定された。続いて「登極令」、「摂政令」、「立儲令」、「皇室成年式令」などが次々と定められて皇室の儀礼制度は体系的に整えられた。

これらは、日本の敗戦によって全面的に改められ、天皇は政治大権、軍事大権も失った。当然、祭祀大権も否定されたが、天皇の私事として祭祀は続けられた。法的には天皇の祭祀は国民とは無関係となったのだが、今でも天皇が「国家の祭祀」を担っているとの観念は国民の間に根強い。その上、日本政府も祭祀を国家的なものにすることに力を入れた。

例えば昭和34年(1959)、明仁皇太子(現上皇陛下)の立太子にあたって神道儀礼である「賢所大前の儀」は国事として行われた。また翌年には、内閣総理大臣池田勇人は、八咫鏡について「皇祖が皇孫にお授けになった」など、神話的由来を国家として認める答弁書を出している。皇室祭祀についても、前述の13の親祭のうち、廃止されたのは紀元節祭のみであり、他はほぼ旧「皇室祭祀令」等の規定通りに行われている。

また、新嘗祭等には総理大臣以下が「私人として」参列し、「神社、寺院への勅使の差遣や、大師号、国師号等の宣下も、天皇の私事という名目で、戦前と同様に行われている(p.217)」。これら「私人」や「天皇の私事」は建前に過ぎず、天皇は今でも祭司王であり、それを国家として承認していることは「いささかも疑う余地がない(同)」。天皇の祭祀王の性格は、今でも生きているのである。

本書は全体として、象徴天皇制の下での祭祀を問題にしているが、私自身の興味は、純粋に天皇の祭祀の全貌をつかむことにあった。特に下線を付けたように、その祭祀がどこで行われるのかに着目してみたところ、皇霊殿と賢所に中心があることは明らかである。これは天皇の祭祀がはっきりと祖先崇拝に組み替えられたことを意味する。天皇の祭祀は、本来は天照大神と八神(神話の最初に出てくる主要な8柱の神)、天神地祇を祀るものであった。それらの祭祀をとりおこなったのが神嘉殿だったのだが、維新後の神嘉殿は脇役的なものになってしまった。

また、古代の祭祀と近代のそれとの大きな違いは、天皇が親祭する祭祀が著しく増大したということである。古代祭祀において天皇が親祭したのは、新嘗祭と年に2回の神今食(じんこんしき、かみいまけ)の3つしかなく、国家は各地の大社に幣帛を班つという間接的な祭祀を中心としていた。古代の班幣の祭りは、月次祭、祈年祭、三枝祭、鎮花祭など数多く、特に月次祭は重要なものであった。

明治維新は復古を旗印にはしていたが、祭祀に限ってみても古代への回帰の要素は少なく、新たな祭祀体系の創始を志向していたことは明らかである。そしてその変更点は、第1に天皇親祭、第2に皇祖信仰、第3に仏教的要素の除去、という3点に集約できるだろう。

天皇の祭祀を詳しく紹介した良書。

【関連書籍の読書メモ】
『国家神道』村上 重良 著
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国家神道の本質を描く。国家神道を考える上での基本図書。

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