戦国時代後期、日本にキリスト教の宣教師たちがやってきた。そして日本では短期間に多くの(少なくとも十万人以上の)人たちがキリシタンになった。その一人に不干斎ハビアンがいた。彼は日本人キリシタンの知的リーダーであった。
彼は、神仏儒教とキリスト教を比較して、キリスト教こそ真実であると論証した『妙貞問答』を著した。ところがそれを書いてほどなく、彼は棄教し、今度はキリスト教は真実ではないとする『破提宇子(はだいうす)』という本を書いたのである。
本書は、この『妙貞問答』と『破提宇子』を読み解き、不干斎ハビアンの思想を「比較思想」として位置付けるものである。
ハビアンは、『破提宇子』こそ知られてはいたが謎の人物であった(明治政府はキリスト教対策のために同書を刊行した!)。ハビアンにいち早く注目したのは『広辞苑』で有名な新村出。新村が注目して後、大正6年に神宮文庫(元・林崎文庫)から『妙貞問答』の中下巻が発見され、さらに1972年には、吉田家旧蔵本に『妙貞問答』上巻が存在することを西田長男が発見した。またドイツ人キリシタン研究者フーベルト・チーリスクがハビアンの母が北政所(ねね)の侍女であったことを論証。こうした研究によって、比較的最近になってからハビアンがどういう人物であったのかがわかったのである。
それによれば、ハビアンは1565年頃、北陸のあたりで生まれた。彼は禅僧であったが1583年(天正11年)にキリシタンに入信し、大坂・高槻のセミナリオ(神学校)に入学した。翌年には「同宿」と呼ばれる教会の補佐役、1586年には正式にイエズス会のイルマン(平修道士)になり、大分の臼杵にあった修練院(ノビシアド)に移った。その年にイエズス会への入会を許され、1590年には長崎・加津佐のコレジオの学生となった。
ハビアンはイエズス会で頭角を現し、『キリシタン版平家物語』や『伊曾保物語』、『Buppo(仏法)』の制作・編纂に参加した。1603年(慶長8年)には京都の下京教会へ移り、教団のリーダー格として活動。1605年、ハビアンは『妙貞問答』を執筆。これは女子修道院のベアタス(女性の修道誓願者)たちのために書かれた教理書で、かなり話題になったらしい。翌年、ハビアンは林羅山と対面し論争している。
ところが1608年、ハビアンは44歳にしてひとりのベアタスとイエズス会を脱会し行方知らずとなった。その後、長崎奉行長谷川権六に協力してキリシタンの取り締まりに協力した。1619年、将軍秀忠と面談。反キリシタン政策を諮問するために呼ばれたのである。1620年、『破提宇子』を執筆。これは、長谷川権六(と末次平蔵)の求めに応じて幕閣もしくは秀忠に献上するために書かれたものらしい(ドミニコ会の史料による)。その翌年、ハビアンは長崎で死去した。
それでは、『妙貞問答』はいかなる本かというと、これは妙秀と幽貞という二人の尼僧が問答し(妙秀が問い、幽貞が答える)、宗教・宗派を比較してキリスト教を選び取るというもの。
まず上巻では仏教が批判される。その批判は「無や空に帰着するので救いがない(死ねば無になる)」「絶対者の概念がない。釈迦も諸仏も人間で造物主ではない」「全ての存在は自分の心が生み出したもの(なので真実がどこにもない)」に集約できる。
だが幽貞は、一方的に仏教を批判するのではなくて、いちいち諸派の教理を要約し、それに対して科学的・合理的観点から批判している。ここで倶舎宗や成実宗までが取り上げられているのは面白い。これらは庶民には縁が遠かったはずだが、どうやらハビアンは百科全書派的なところがあったらしい。
ちなみに浄土宗・浄土真宗への批判はちょっと強引だ。それらの宗派は後生に重点を置いているはずなのに、「死ねば無なのだから、後生はないのだ。結局は現世的だ」と変換している。これは批判のために教義を曲解したと考えられる。
中巻では儒教と神道がやり玉に挙げられる。ここでハビアンが儒教・神道について真摯に批判していることはそれだけで重要だ。神道は宣教師からは論ずるまでもないと思われていたからだ。神道については吉田兼倶の『唯一神道名法集』に基づいて、当たり前のことをありがたく見せているだけだという、身も蓋もないが核心を突いた批判をしている。
そして下巻ではついにキリシタンが取り上げられる。その要諦は、「絶対者」の観念にある。これは神道や仏教では存在しないものだ(儒教には絶対的な観念として、一応「天」があると思うが、ハビアンは「天」=天道を太極と見なし、太極は人の心の動きに他ならないと唯心論的に理解している。これは少し偏った見方のように見える)。
ここで幽貞が、まず世界観の説明からしているのが面白い。彼女は、存在は(1)セル(存在)、(2)アニマベゼタチイハ(精魂)、(3)アニマセンチシハ(覚魂)、(4)アニマラシヨナル(理知を持つ存在=人間の魂)の4つに分けられるという。珍奇な用語を用いて科学的な世界観を説明しているのは、若干けむに巻いている感がなくもない。そして太陽や月は単なる存在(セル)であって神ではないとか、輪廻転生はないといった、合理的精神からの批判を行う。キリシタンは、ハビアンにとって科学的世界観と一体となった教えであった。もちろん宣教師の側でも、科学的知見を伝道に活用していたのである。
このように、幽貞の語るキリシタンは、神仏のような相対主義ではなくデウスという絶対者がおり、デウスへの信仰のみによって後生が保証される、つまり来世の救済はキリシタンしかありえないというものであった。ただし、仏教への批判は理路整然としているが、キリシタンの護教についてはやや一面的にも感じる。例えば、デウスが確かに存在するかどうか、といったことは全く疑われていない(ちなみに、神仏の存在も否定されているわけではない)。
このように、『妙貞問答』は護教書であるとはいえ、神仏儒教の教理を深く取り上げ、比較した上でキリシタンを選び取るという比較思想論であるともいえる。ハビアンは、キリシタンに触れることで日本の宗教を相対化し、俯瞰して見ることができたのだろう。そういう意味で、『妙貞問答』は良くも悪くも現代人的な視点で書かれたもののように思った。
ハビアンは、当時の第一級の知識人であった松永貞徳(日蓮宗布施不受派の信者でもあった)により林羅山と引き合わされた。羅山は家康に重用された儒者、一方のハビアンはイエズス会日本人修道士ではリーダー格ではあったがいわば新興宗教の広報担当者である。だから羅山は頭からハビアンをなめてかかっていたようである。二人の問答はここでも科学的世界観から始まり、羅山は地球が球体であるとは理にかなわないと自信満々に述べている。著者は「我々にとって、この世界が球体かどうか、といったことは単なる知識の相違なので、この際どちらでもいい(p.148)」と述べているが、新知識を受け入れる素地があったかどうかは重要であろう。
二人はそれなりに理知的な問答を交わしたが、羅山の言い分によれば理と体に関しては「ハビアンはこちらのいうことを理解できなかった」としている。理と体についての説明は割愛するが、羅山は儒教の用語で、ハビアンは仏教の用語でテクニカルタームを使って論争するので、話がかみ合わなかったようである。というより、羅山は初めから「論破」を目的としていた。そして論争後に一方的に勝利宣言したのである。
なお、著者によれば羅山はキリスト教が科学的知識を武器に布教されることにある種の胡散臭さを感じていたのではないかという。確かにキリシタンには、先述のように「アニマベゼタチイハ」のような用語でけむに巻くような部分がある。それに(羅山は科学的知識も認めなかったが)、科学的知識が正しかったとしても教義を裏付けるものとはならない。
羅山との論争の2年後、ハビアンは先述のとおり女性と駆け落ち。駆け落ちと同時に棄教したかどうかは定かではないが、著者はおそらく同時だろうという。ハビアン棄教の理由は様々に考察されているが本人が何も述べていないので不明というほかない。ただ、日本人を軽蔑し高慢な態度だった外国人宣教師たちにハビアンが反発していたのは確かである。
そしてハビアンは『破提宇子』を書く。これはいわば『妙貞問答』の裏返しである。その主張を私なりにまとめると、(1)キリシタンは仏教の無や空の本質を理解していない。(2)仏教にも絶対の概念はあるし、キリストは人間にすぎなかった、(3)創造神話は神道や道教にもある、(4)人間の霊魂だけが特別だとする根拠はない、(5)デウスが全知全能なら、なぜわざわざアダムとエバに過ちを冒させたのか説明がつかない、(6)キリシタンは日本の風俗や文化を破壊する、といったところである。なお、『妙貞問答』は戯曲的形式で、二人の女性の会話として面白く読めるように工夫されているのに比べ、『破提宇子』は議論のみであり、話としての面白さはないがスピード感がある。
なお、ハビアン以外の反キリシタン論では、キリシタンでは先祖供養ができない(キリシタンに帰依しないで死んだ先祖は地獄に落ちるしかない)ということが問題になっていたが、ハビアンは個人の魂の救済を中心にキリシタンを見ており、先祖供養は眼中にない。
ともかく、ハビアンはキリシタンを通じて神仏儒を相対化するという手法を、キリシタンへと転用し、キリシタンすらも相対化したのだ。なおキリシタンの科学的知識は否定はしていない。そしてハビアンはキリシタンを捨てても、神仏儒に帰依するようになったというわけでもない。はっきりとは分からないが、ハビアンは現代の知識人と同じような無宗教的な状態になっていたように思われる。ただ、著者はハビアンが無宗教者になったとは考えない。彼は間違いなく宗教的な人物であった。ハビアンは権威に従うのではなく、思索によって自らの生きる道を選び取ろうとしていたのだろうという。
ところで面白いのは、ハビアンは『破提宇子』を「ハビアン(好菴)」名義で書いているということだ。棄教後もハビアンという洗礼名を使い続けるのはどうしてか。また神仏儒を否定し、キリスト教を持ち上げた『妙貞問答』は、ハビアンにとって消し去りたい歴史だったはずである。なのにハビアン名義で書いては、「あのキリスト教を持ち上げた男が、今度はキリスト教を否定しているのか。転向したのか」と思われるに違いない。だが論理的に考えれば、ハビアンはむしろ転向を誇示するためにハビアン名義を使ったのではないかと思われる。
つまり、あの『妙貞問答』を書いたハビアンが、今ではそれすらも超えて書いたのが『破提宇子』なのだ、と明示したかったということになる。こうした考察は本書ではなされていないが、もしそうだとすれば、ハビアンはかなり強靭な精神を持っていた人物だ。
なお、私は渡辺京二『バテレンの世紀』で、『破提宇子』について「立場はかなり単純な合理論にすぎなかった」としていたことに疑問を持って本書を手に取った。確かにハビアンの論理は現代人がキリスト教(や宗教全般)を批判するときのロジックとそれほど違いはないといえる。つまり、宗教である以上、合理的に突き詰めれば論理が破綻するのは当然なので(無矛盾な宗教体系はない!)、特別するどい指摘がなくても、「単純な合理論」で押し通しさえすれば批判ができるのだ。
だから渡辺ならずとも『破提宇子』を高く評価する者は多くないらしく、比較宗教論として価値がある『妙貞問答』に比べて『破提宇子』は一段下に扱われてきた。「単純な合理論」かどうかはともかく、『妙貞問答』が百科全書的な知識を下に科学的世界観の宣揚をしているのとは違い、新しい世界観の提示がなくキリシタンへの論難に終始しているのは思想書として迫力がない。だが釈徹宗は『破提宇子』は『妙貞問答』とセットにすることで稀有な比較思想書として評価できると主張する。先述の通り、ハビアンがあえて『妙貞問答』の著者であることを明示して世に問うたのが『破提宇子』だとすれば、それだけで凄みのある著作だろう。
ハビアンの生涯とその著作を実直に読み解いた本。
【関連書籍の読書メモ】
『バテレンの世紀』渡辺 京二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/08/blog-post_18.html
異国船来訪の一世紀を描く本。少し読みにくいが大量の情報が盛り込まれた、教科書風のキリシタン史。
★Amazonページ
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