「最近の神道史研究では、「神道」の語を厳密に定義してその成立を遅らせる傾向がある(p.iv)」が、本書では現代の神道に連続するものを広く神道と捉え、古代から現代までの神道を概説している。特に神社の歴史を包含していることが本書の特徴である。
「I 神道とは何か」(岡田莊司)では、神道とはそもそもどういうものかが述べられる。
神道とは、自然神を祀る素朴な信仰ではない。それは、国家の関与によって形作られたものである。神道の信仰に必要なものは修行ではなく、「神道は学問をとおしてのみ、その信仰を深めることができる(p.17)」とされたように、日本の歴史と国家の認識(特に『日本書紀』)と密接につながっていた。
そういう意味での最初の神道の完成期は、7世紀の律令制においてであるが、三輪山や石上神宮、宗像神社の沖ノ鳥島などに奉納された祭具を見ると、5世紀には日本列島の各地で共通性が見られ、神社成立の淵源はこの時期にありそうだ。
大神神社(三輪山)と出雲大社の祭神は、それぞれ大物主神(オオモノヌシ)と大己貴神(オオナムチ)であったが、これが国譲り神話によって同一視されるようになった。神社・神道は国家によって編成されたものなのだ。
ただ、システマティックな神社編成がなされるのは意外と後のことで、例えば延暦17年(798)に神宮司・神主らの終身制を改めて6年任期制を導入したことや、同年に神社を官幣・国幣に分けたこと、斉衡3年(856)に神主・禰宜・祝に把笏を許したこと、貞観年間(859~77)に神階制を導入して序列化を図ったことなどを踏まえると、8~9世紀が古代祭祀体制の完成期であろう。
古代の神は祟る神、おそろしい神であったが、これが懇ろに祀ることで恵みをもたらす神に変わる。その転換を担ったのが国家の祭祀であったといえる。だが、その中心を常に天皇が担ってきたわけではない。祈年祭は『延喜式』によれば年中最大の神事であったが、天皇の関与はなかったし、古代においては一般的に、天皇は神前まで入ることが制限されていたと考えられている。
神道・神社信仰史の大きな転換点は、平安中後期・摂関院政期(11~12世紀)で、この頃には人々の願いが個人化し、人々は自由に神を選んで神社に参詣するようになった。それまで国家と共同体の性格が強かった神道が「自由化」したのだ。またこの頃から、神道では心の在り方を重視する神道説が登場する。「心の清浄」「正直」「誠」などが強調された。
「II 神道の歴史」(笹生 衛、藤森 馨、小林宣彦、岡田莊司、西岡和彦、斉藤智朗)では、神道の歴史が述べられる。
「1 祭祀の誕生」では、古墳時代から7世紀の律令制祭祀の形成までが概観される。
豊富な考古資料が残される大神神社三輪山麓の祭祀遺跡群と宗像・沖ノ鳥島祭祀遺跡について概観する。沖ノ鳥の祭祀は4世紀に開始され、5世紀には鉄製品が奉納されるようになった。さらにはガラスなど美しく装飾された豪華な品がささげられた。10世紀初頭には沖ノ鳥島の祭祀は終焉を迎える。全国を見ても、9~10世紀には「祈年穀奉幣」など新たな形の祭祀が成立し、「十六社・二十二社奉幣」という中世へ続く祭祀制度に移行した。
三輪山では沖ノ鳥島のような組織的は発掘は行われていないが、4世紀前半に土師器が出土しており、5世紀になると須恵器と子持勾玉を使用した明確な祭祀の痕跡が確認できる。当初は山麓での祭祀が中心であったが、7世紀頃に大神氏が大規模な居宅を建設し、三輪山祭祀の司祭者としての地位が安定すると、祭祀の場は禁足地周辺へと固定化した。
次に古墳時代の埋葬品を見ると、4世紀には銅鏡と刀剣、鉄製の武器・農具、勾玉などの玉類が大量に副葬されるようになる。この時期は神信仰の大きな画期と考えられる。記紀神話で語られる神宝にはこの時代のイメージが投影されている。また5世紀には滑石製模造品を使用した祭祀が関東から東北地方南部まで波及するなど、様々な場所で一斉に共通性のある祭りの跡が確認できるようになった。5世紀中頃から後半には、須恵器・子持勾玉が祭祀に使用されており、これは三輪山祭祀と共通している。
祭祀跡には紡績具やその石造模造品が出土していることを見ると、紡績具で作られる布帛(ふはく)類が祭りの場に供えられていたと推定できる。5世紀中頃までに鉄製武器・武具・農・工具、布帛類といった品々が神への捧げもののセットとして成立した。これらはいずれも最新の技術で作られたものであった。これらのうち、「布帛類、武器の弓矢、農具の鍬は、『延喜式』四時祭に記された祈年祭、月次祭で班たれる幣帛と共通し(p.90)」ており、これは令制祭祀の幣帛の原形・起源となっている。また同時期には、武人や巫女などの埴輪、馬形埴輪などの形象埴輪が作られるようになった。この時期に「神のイメージ」が形成された模様である。
6世紀から7世紀にかけては、地方色がある祭祀遺跡が各地にみられるようになり、7世紀中頃から後半にかけて、律令制神祇祭祀が成立する。そこで特徴的なのは人形(ひとがた)である。これは道教的な除災・除病の呪具であったらしい。律令制祭祀の骨格は「5世紀以来の歴史の中で形成された神観や祭祀形態をベースとして、道教信仰など新たな要素を加味しつつ、祭式と祭祀の場(社殿)、祭祀用具と制度整備が進行(p.98)」して形成された。
「2 律令国家と祭祀」では、律令国家の祭祀が概観される。
律令国家では、「神祇令」で国家が行う祭りが規定された。そこでは年間の常祀は13種19度ある。そのうち、2月の祈年祭、6・12月の月次祭において、百官が神祇官に参集して、中臣が祝詞を宣べ、忌部が幣帛を班(わか)つ「班幣(はんぺい)儀礼」が注目される。班幣儀礼を受けるのが「官社」であった。
また、6・12月の晦日の日に行われたのが大祓。定期的に全国から罪障を消除するための祭りで、全国から物品が奉納された。そこには「罪を消除するために物品を供出するという古代の祓の価値観(p.112)」がある。それはいまだ心の問題にはなっていなかった。
神社には朝廷から「神戸」という人(戸)や田が与えられるものもあった。神戸は公戸に比べると課役が軽かったらしく課役逃れのために神戸を称するものが増加する問題もあった。ただし寺封戸に比べると割り当ては非常に少なかった。
朝廷は祭祀を掌るものとして神祇官を置いたが、神祇伯の所掌には御巫(みかんなぎ)、つまり巫女があり、この頃は女性祭祀が行われていた。神祇官が成立するのは意外と遅く、持統天皇3年(689)の飛鳥浄御原令によってである。神祇官は百官の首官として位置付けられていたが、それは形式的なことで、神祇伯の官位相当は正四位以下であり、さほど地位は高くなかった。
神祇官は国家の祭祀を掌ったが、全国の神社を統括したわけではない。先述の班幣儀礼は、国家は幣物を準備するのみで、「ある面で間接的にしか神社とは関係していなかった(p.124)」ともいえる。年間常祀の13種の中で、三枝祭・鎮火祭・相嘗祭は班幣形式であり、これは「天皇は他氏族の祭神を直接祭ることができなかったため(p.127)」らしい。だが別の面から言えば、地方豪族の掌握に神社が使われたともいえよう。
逆に天皇親祭が行われたのは、月次祭の日の夜に行われた神今食(じんこんしき)、新嘗祭の夜の祭がある。これは皇祖天照大神のみを対象にした神饌をささげる祭りであった。この2つの祭りがともに夜に行われたことは意味がありそうだ。
天皇の祭祀と照応関係にあるのが伊勢神宮の祭祀である。神宮で神今食に対応するのが月次祭(←宮中祭祀の月次祭と同じ名称だが違う祭り)、新嘗祭に対応するのが神嘗祭である。神宮月次祭も神嘗祭も2日間行われる祭りで、昼は朝廷からの幣帛共進、夜(正確には宵と未明)は神饌の共進が中心であった。どうやら、祭りには宝物(幣帛)をささげるものと、神饌(神の食べ物)をささげるものの2系統があったようだ。
古代においては早くも神仏習合が進んだ。これは「中国の『高僧伝』『続高僧伝』に見られる中国の神と仏の神仏習合論がわが国に伝来したもの(p.146)」であった(吉田一彦)。
平安時代では、『延喜式』がまとめられた。すでに律令体制は崩壊していたが、その細則である格式によって神祇体制が確立された。特に「延喜式神名帳」に記された2861社の神社は「式内社」の社格を得て重視された。
「3 多様化する神道」では、平安時代から中世の祭祀が概観される。
平安時代初期、延暦17年(798)に全国の官社を二系統に分けた。すなわち神祇官から幣帛を直接受け取る官幣社と、国司から幣帛を受け取る国幣社である。またその直前には、雨ごいのために伊勢神宮はじめ畿内七道諸国の諸社に使いを発遣した。これが直ちに効果があったため、これを機に伊勢・名神奉幣は国家的事由の祈願として最高の方法として定着した。この奉幣を受ける神社として十六社・二十二社(後述)が定着。さらに全国の神々に神階を授与する制度が始まり、神々は格差社会を迎えることとなった。
諸社の恒例祭祀のいくつかは国家公的の性格が与えられ、春日祭や賀茂祭など14の祭が公祭として定着した。宇多朝では、天皇の代替わりに特定神祇に大神宝を奉献する「一代一度大神宝使」の制が開始された。これは全国の50社を対象としていた。これは後の一宮制成立に影響を与えた。なお宇多天皇は仁4年(888)の御記に「わが国は神国なり」と記している。宇多朝では新羅賊の襲来に際して公卿勅使の制も始まっている。
宇多天皇は、即位前に賀茂明神の神託を受けて、4月の賀茂祭のほかにもう一度祭祀を行うように求められた。これに応じて始まったのが賀茂臨時祭である。臨時と冠しているが、これは恒例行事となり、石清水臨時祭など他の神社にも拡大した。臨時祭より、さらに丁寧な天皇御願祭祀として行われたのが神社行幸である。だが天皇は神前まで進むことはできず、一方で上皇は直接神社に詣でることが可能だったため、神社行幸の意義は薄れ、後醍醐天皇の時に断絶した。
このような、国家との様々なつながりによって形成されたのが十六社・二十二社奉幣制である。これは「国家的大事に際して臨時奉幣の対象となった神社(p.162)」であり、いわば朝廷直轄の神社であった。十六社は、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉。これらは伊勢・住吉を除き全て山城・大和に偏重しており、天皇守護、王城鎮護等の性格が強い。
これに吉田・北野・広田社が加わり、さらに梅宮・祇園が追加された。やや時代が離れて最後に長暦3年(1039)、日吉が加わって二十二社となった。ただし日吉社の加列は確定せず、二十二社が固定化するのは永保元年(1081)である。二十二社奉幣では祈年穀奉幣がもっとも多く見られたが、12世紀初頭には諸国ごとに地域の神祇が編成されて一宮制が運用された。この背景には、10世紀から地域の諸社への国司の初任神拝・神宝奉献が盛んになったこともある。一宮制は中央が指揮して確立したものでなく、在庁官人や国人たちにより形成されたものであった。なお二十二社奉幣は宝徳2年(1450)で断絶し、再興することはなかった。
この時代の神道は神仏習合の影響を受け、神像が製作されるようになったり(伊勢神宮では遷宮後の心御柱を使って大日如来が刻まれた)、怨霊信仰、人霊信仰、熊野信仰など、仏教とも神道とも違う多様な信仰が生まれた。
思想面では、まず祓が取り上げられる。10世紀には、陰陽道の河臨祓(かりんはらえ)・七瀬祓が国家的祭法とされた。国家的なものから個人的なものまで祈禱が盛んになり、陰陽師が活躍した。僧侶も祈祷は担ったが、個人の家に神職が来て祈禱したということはないようだ。ところが平安末期になると伊勢神宮の権禰宜が各地に進出して、民間陰陽師が担ってきた祈禱を伊勢神宮信仰へと転換して担うようになった(→御師)。こうして「地域が限定された「閉ざされた神道」から「開かれた神道」へ、神道自由化の新たな時代(p.186)」を迎えた。
密教理論からは、『中臣祓訓解(くんげ)』が著され、両部神道が形成された。この影響を受けて伊勢祀官の間に伊勢流祓が形成される。この最古の祓本は建保3年(1215)の書写歴を持つ『中臣祓注抄』である。「陰陽祓・仏家祓から伊勢流祓が成立することと、両部神道から伊勢神道が形成されることは、ともに中世前期の、ほぼ同時期に展開している(p.190)」。なおこの時期には僧侶の伊勢参拝が盛んになり、また庶民層にも大神宮信仰が浸透していった。伊勢神道では「謹慎の心、正直の精神」が強調され、また神国思想が神道思想の核として論ぜられた。
中世後期から神道界の一大勢力となったのが吉田兼倶によって創始された吉田神道である。彼は足利義政・日野富子に取り入って土御門天皇大嘗会の執行に尽力した。応仁の乱で吉田社が焼失するなど被害を受けると、その経験をばねに儒教・仏教・道教・陰陽道を巧みに取り込んで新たな神道説を生み出し、その信仰霊場として(伊勢・式内社を一堂に取り込んだ(とされる))斎場所大元宮を創設、神道界の棟梁として全国の神職を統括する立場へとのし上がった。その神道説では「神即心、心即神」として個人の心に神性を認めることに特徴があった。
詳細は不明であるが、兼倶はその死去にあたって神道流の葬儀を行い、遺骸の上に霊社の神龍社が立てられ、神号を神龍大明神といった。ここに人霊を神として祀ることが始まり、遺骸に対する不浄観は軽減された。吉田神道では神の本源を人の中(心)に求めたので、人霊祭祀に積極的で、葬祭儀礼の整備が徐々に進んだ。
「4 理論化する神道とその再編」では、近世の宗教政策と神道思想が概観される。
織豊政権時代の天正13年(1585)、式年遷宮が政権の援助を受けて式年遷宮が123年ぶり(内宮)に再興された。また江戸幕府が成立すると、断絶していた朝廷祭儀が徐々に復興。正保3年(1646)の日光例幣使の発遣をきっかけに翌年に伊勢神宮への例幣使発遣を再興、貞享4年(1687)に東山天皇の大嘗祭が再興(222年ぶり)されている。
幕府は寺社奉行に寺社(寺院・神社)を統括させたが、寺社奉行所管に寺社奉行の諮問に答える「神道方」があり、これは吉川惟足(これたる)以降、吉川家が世襲した。なお惟足は吉田神道を学んでおり、その神道を吉川神道という。なお惟足は会津藩主保科正之に仕えてその政策に影響を与えた。
幕府は寛文5年(1665)、諸社禰宜神主法度を定めたが、これによって吉田家の神道裁許が公認されたことは、神社の独立を促す要因となった。ただし、「神職の進退は領主が許可し(p.210)」、「正式な神職身分の者は、武士と同等の身分と見なされ、上下(かみしも)着用や苗字帯刀が許された(同)」。すなわち、神職は吉田家から許状を受けたとしても身分支配は受けていない。また町人や農民は仮に神道許状を受けたとしても、領主は彼らを正式な神職身分とは認めず、離農・離壇は原則許可しなかった。
伊勢神宮に対しては、幕府は両宮に朱印地を安堵し、宇治(内宮側)・山田(外宮側)の自治都市にっ山場奉行を設置した。なお宮司家、神宮家(荒木田神主、渡会神主)は寺請証文を必要とせず、土地の課役もなかった。山田奉行は慶安元年(1646)に神宮周辺の寺院の新地建立を禁止し、その後火事で周辺の寺院が焼失した際にも復興させず代替地に移転させた。
江戸時代には、儒学が勃興し、儒家神道が神道研究の主流となった。林羅山の「理当心地神道」では神儒合一論に基づき、「天皇の心」に清明なる神が宿っているとした。羅山は『本朝神社考』などをまとめ、そこで説かれた廃仏論は仏教界に衝撃を与えた。儒家神道は伊勢神道にも影響を与えた(→後期伊勢神道)。
儒学者の山崎闇斎は、伊勢神道や吉田神道を渡会延佳や吉川惟足に学び、神道説を集大成するとともに、君臣の道を絶対化した垂加神道を唱えた。これは朝廷にも門人が多く、全国に影響を与えた。
一方、国学者たちは文学研究から百科全書的な研究を進めた。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤により国学は完成し、特に平田篤胤の門人は幕末に大きな影響を与えた。
庶民の方では、享楽を伴う物見遊山的な参詣が盛んになるとともに、江戸では豪華さを競った曳き物(屋台や山車)が練り出したり、仮装行列を行うまさに「お祭り騒ぎ」の祭礼が行われるなど、信仰に遊興の要素が大きくなった。またガイドブックのような神社案内記や名所図会は旅行を通じて神道文化の普及に少なからず貢献した。
吉田神道に対抗して、江戸時代中期から白川家の神道・伯家神道が巻き返しを図った。白川家は明治後に教派神道として特立する教主や教団も配下にしていた。白川家は没後の篤胤に「神霊真柱大人(かむたまのみはしらうし)」の神霊号を与え、銕胤を白川家学師に任命するなど平田派と接近したが、気吹舎(篤胤の学舎)は白川家との連携を非現実的とみて吉田家との和睦を勧めた。
この他、上賀茂神社の烏伝神道、館林藩の井上正鐵の禊(みそぎ)教、黒住宗忠の黒住教など、様々な神道信仰が展開した。そして多様な神道を支える土台となったのが、神道研究であり、多くの研究書が陸続と著された。そうしたものの白眉が伴信友の『神社私考』や吉田家家老鈴鹿連胤(つらたね)の『神社覈録』である。さらに神道を総合的に捉えた研究書や史料集・事典類も著され、そうした成果が明治6年(1873)に栗田寛の『神祇志料』や『神祇志料附考』に至った。
「5 新たな神道体制の確立」では、明治以降の神道の変転が述べられる。
明治政府は祭政一致体制で出発し、神祇官やその神殿を復興させた。また明治3年(1870)には二十二社を中心とする29社の神社に神祇官から奉幣するようになったが、実質は伴わず、府藩県下での神社調査も進まなかったため、明治4年、廃藩置県に先立って神社を「国家の宗祀」とする布告と「官社以下定額・神官職制等規則」を定め、官幣・国幣社などの社格制度を整えた。さらに神祇官をなくして祭政の権を天皇に集中させる変更が行われるとともに、神祇官時代に設けられた八神・天神地祇・皇霊は宮中に遷されて現在の宮中三殿の原型が整えられた。
明治政府により、神道祭式はかなり変更を加えられ、または新しい祭式が整えられるとともに、官国幣社以下神社の統一的な祭祀・祭式が定められた。また神官の世襲が禁止されるなど神社に国家は強く容喙し、祭日も伝統的なものに変わって、天皇中心の新しい祭日が定められた。
こうした動きに先立って、神仏分離が行われており、それに刺激されて廃仏毀釈も起こっていた。また仏式に変わって神道式の葬祭が広く行われるようになった。
神祇官が廃止された後は、神祇官復興を求める運動が起こり、神祇官は再設置されなかったものの、神社を所轄する専門の官庁である神社局が設立された。地方庶民の精神的な中心として神社を据える「神社中心説」が内務省の井上友一によって唱えられ、神社は地方の中心と位置付けられたが、皮肉なことにこれが弱小神社を淘汰することにつながり、神社整理が行われた。なお、太平洋戦争中の昭和15年に神社局は拡充されて神祇院となった。ただし神祇院は神祇官のようなものではなく純粋な行政官庁であった。
国民に対しては明治初めから教導職が国民教化運動を担った。当初は神道によるものだったがうまくいかなかったため神仏合同で行われ、しかしそれも真宗の反発によって終了した。
こうした神道の変転において重要なことは、神社は宗教ではないと整理されたことで、それによって信仰の自由と神道儀礼の強制は矛盾しないこととされたが、一方で神社の宗教的な部分は教派神道として切り離された。しかし神社の宗教・非宗教をめぐる「神社問題」が生じて仏教界も巻き込み論争となり、決着がつかないまま終戦を迎えた。
戦後は、GHQの指導「神道指令」により神道は国家の庇護を失い、神社は他の宗教と同じ「宗教法人」の扱いを受けるようになった。しかし神社の多くが「神社本庁」という包括宗教法人の下に編成されているのは、別個の法人で形成されている仏教の場合などとはずいぶん違う状況になっている。
「III 神社分布と神道の現在」(加藤直弥)では、現在の神社分布とその歴史的変遷を推測し、現在の神道に触れている。
神社本庁が平成2年(1990)から同7年にかけて行った「全国神社祭祀祭礼総合調査」の結果が興味深い。神社数が多いのはまず八幡、続いて伊勢、天神、稲荷、熊野、諏訪、祇園、白山、日吉の順。これらは歴史的経緯から全国一様ではなく、多い地域もあれば少ない地域もあるというまだら状の分布をしている。また、これらの神社の内部にもいろいろな系統があり、例えば八幡の場合は宇佐八幡宮と石清水八幡宮、そして鶴岡八幡宮の3系統が考えらえる(単純ではない)。
次に神社数の変動についてみると、まず明治末期からは神社合祀政策によって神社数が減り、明治39年から大正6年までで4割近くも減少した。ただし和歌山や三重など大幅に減った地域とそれほど減らなかった地域がある。戦後は、統計の信頼性(全神社が対象になっていないなど)は問題だが、一貫して神社数は減少している。なお、近世においては、神社数の著しい変化はなかったと考えられている。
遡って中世を見ると、神社の展開は荘園の存在に大きく影響されていた。荘園においては、神社の祭神を「庤(かんだち)、若宮、別宮、あるいは本社と同名の社を作って勧請し、その神社を荘園管理の拠点として(p.331)」いた。ただし絶対数はよくわからず、江戸時代よりは少なかった可能性が高い、という推測にとどまる。
さらに古代へと遡ると、中世よりは推計に使える史料は多く、約2万6000社ほどあったのではないかと思われる。別の推計では8000社ほどになるが、いずれにせよ神社の勧請が顕著になる中世よりは、神社の数が少なかったと思われる。
これらをまとめると、神社数は(1)明治末の神社整理政策では大きく減少しているが地域差がある、(2)幕末明治の神仏分離政策では神社数の大きな増加はない、(3)近世の神社分布は現在と似たようなものだった、(4)その分布の原型はおそらく中世末に形成されていた、となる。そしてその原型は、著名社の信仰を軸とするものであった。さらにその著名社は、平安時代末期の二十二社などが元になっている。つまり「神社信仰の基盤は、実は平安時代までの朝廷祭祀制度の整備により確立されていた(p.337)」といえる。
全体として本書は、濃密かつ非常にバランスがよい神道史となっている。神道以前である古墳時代の祭祀から記述しているのも参考になった。全体の位置づけがよくわからなかったのは、中世神道思想の展開の説明が「祓の信仰」から始まっている点で、祓の出現が唐突に感じた。祓については追って考えてみたい。
神道史の決定版。
【関連書籍の読書メモ】
『神道とは何か—神と仏の日本史』伊藤 聡 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/blog-post.html
神道の歴史を概観する本。中世神道を中心に、神道の多様な側面を描いた良書。
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