近世にはたくさんの流行(はやり)神が登場した。何かのきっかけで熱狂的な信仰を集め、しばらくするとそれが廃れてしまう。流行という、ありふれた現象のようであるが、神仏にそれが起こったということに近世の特色がある。それは「朝観音夕薬師、鰯の頭も信心から」という、中世とは異なった神仏の受け止め方が反映しているのである。
本書は、この流行神について近世の随筆等を膨大に渉猟して事例を探したものだ。それは「これもあるあれもある」式で、一つ一つはあまり深く考究されない。解説で小松和彦が「はっきりいって、宮田さんの本は、この本に限らず、スキだらけである(p.298)」と述べる通り、脈絡がないほどの事例の列挙がなされ、そこから何が言えるのか、わかったようでわからない。小松和彦の「問題解決のための文章ではなく、問題発見の文章なのである(p.291)」の言葉がぴったり当てはまる。
つまり、本書は「江戸のはやり神」の研究ノート的な本であり、大上段の結論はない。ところが、この本はなかなか鋭い指摘が随所で見られる本で、はっとさせられる部分が多い。
日本ではどこへ行っても八幡神や伊勢神が祀られ、稲荷社や恵比須社、お諏訪さんや祇園社がある。祀られている神仏にはかなりの共通性があるのだ。このうち、八幡、伊勢、諏訪、祇園は中世までに広まったものとみられるが、稲荷や恵比須は近世に広まった。私が本書を読む興味の一つは、こうした信仰がどのようにして広まり定着したのか、という点にあった。
流行神の発生は、おおむね次のような経過をたどる。(1)神仏が現れる。夢中の託宣、神仏が空中から飛来、海や川に流れつく、地中から掘り出されるなど。(2)病気が治るなど、何らかの奇蹟や奇瑞が起こる。ここに民間宗教者(特に山伏)の関与があることが多い。(3)祠堂等に祀られ、地域社会でその神仏が熱狂的に支持を集めて参詣が引きも切らなくなる。遠方の場合は講が組織される。(4)いつの間にかその熱狂は過ぎ去り、祠堂も忘れられる。ところが何かのきっかけで再び流行することもある。また流行から定着する場合もある。
本書ではまず、古峯信仰(栃木県の日光連峰にあり、火難除け)、愛宕信仰、恵比須信仰が取り上げられているが、このうち愛宕信仰については、特に若狭地方について分析している。若狭地方では、天文13年(1544)に愛宕を信仰していた人の娘に神が乗り移って託宣するなど、幾人かに夢告や託宣があった。そして地域の小高い丘や山に愛宕の祠が祀られ、またしばしばその丘が愛宕山と呼ばれた。そうした祭祀を主導したのは愛宕修験の山伏であった。彼らは愛宕講を組織し、またお盆の送り火と習合した愛宕の火祭りを唱導することを職能としていた。「修験の強力な宣伝を背景として流行神が伝播する事例は多(p.78)」い。
一方、修験とはあまり関係なく流行したのが福の神系で、本書では文化文政年間に流行した七福神詣でが取り上げられている。七福神の宝船は、「福徳が海のかなたからやってくる」という観念を表している。この点ですでに山とのつながりが深い修験とは色彩が異なる。大黒が民衆に親しまれたのは、大国主命の出雲信仰との習合と混同にあったという。また大黒舞が踊られた他、子(ね)の方角を司る神だとされ、干支の思想から甲子の日に祀ることになった。様々な情報が付加されてありがたさが強調され、また祀り方が出来上がったことにより広まったのであろう。エビスの場合は西宮戎社が全国的にその信仰を広めた。エビスは本来荒ぶる神であったが、西宮の戎舞の神人たちが福徳をもたらす神として広めた。エビスは主に商家において家毎に信仰された。
なお、吉田神道では人を神に祀ることが理論的に認められていたらしく、吉田神道の関与の下で貴顕の家(藩主など)の人が祀られるようになったケースもある。ただしそうした政治的権威での新しい神は爆発的に人気を集めることはないようだ。
疱瘡神の場合は流行の意味が明白だ。疱瘡(天然痘)が流行した時に祀られ、疱瘡がなければ祀る必要はないからだ。疱瘡神は、恐ろしい疫病をもたらす神であるはずなのにそれ自体は祟りを起こすような恐ろしいものとは表象されず、むしろ疱瘡神の来訪をめでたいとして丁寧にもてなして帰ってもらうというパターンが多いのは面白い。また病人が高熱にうなされていろいろと口走ったことが神がかり的とみなされて疱瘡神の託宣と解釈したのではないかという。
疱瘡神そのものではないが、疱瘡除けの神として芋大明神があったと『耳袋』は記す。神奈川宿の本牧(横浜市中区)にあって芋大明神の池の水が疱瘡に効いたのだという。なお、山梨県西山梨郡では種痘後に疱瘡神を祀る習俗があったというのが興味を引いた。種痘と信仰は両立していたのだ。
このように、近世の民衆は様々な神仏を次々に拝んでいた。それは「神仏信仰の軽薄ぶりを示すものだが、一方では、庶民たちが絶えず救済を諸々の仏や神に求めていた証拠でもある。ということは、絶対帰依を受け入れられるような救済者の出現がなかったことを意味している(p.150)」。すなわち、様々な神仏が繁盛した背後には「救済観のむなしさ」があるのだ。この指摘は本書の中で一番ハッとさせられた。絶対的救済者としての阿弥陀仏を信仰する浄土真宗では種々の迷信を否定していることが思い起こされる。
つまり、人々は手当たり次第にすがれるものを探していた。例えば、眼病、歯痛、出産、虫よけといったものにそれぞれ専門の神仏が割り当てられ、どこそこの地蔵は何に効く、というように神仏の機能分化が甚だしかった。ような状態で、ひとたび奇蹟や奇瑞、祟りといったものであらたかな霊験が示されると、わっと人々がそこに殺到することになったのである。
実際、「近世初期から中期にかけて、幕藩体制がもっとも安定した時期とみられる寛文~元禄には、流行神、流行踊りの現象はほとんど見られていない(p.187)」。だからといって、流行神の現象を社会不安と直結させるわけにはいかないが(例えば、都市化の進展のような別の要素も考える必要がある)、社会不安が流行神を助長するということはいえる。そして社会全般の先行きが見えなくなると、眼病や歯痛のようなものではなく、人々はもっと大きな救済を必要とするに違いない。そしてそこには、潜在的な世直し・世直りの意識、終末観があった。だが幕末、人々が熱狂したエエジャナイカには具体的な救済者やユートピア実現の構想を欠いていたため、その運動はその場の熱狂だけで終わるよう運命づけられていた。
こうした流行神の系譜とは別に、近世では木食聖への信仰もあった。穀断ちをするなどの苦行を行い、各地を遍歴した聖である。彼らが厳しい修行を行い、また時に入定(自殺)すら行うことに人々は強い関心を示し、生仏として帰依した。しかし木食聖たちは現世の生活を精一杯送ることへのエールとはなったかもしれないが、やはり救済の世界観を持ち合わせておらず、その信仰は稔りあるものにはならなかった。
天理教や大本教といった例外はあるが、総じていえば江戸の流行神は人々の身近な願いが託されたものが多く、スケールの大きな信仰へ発展していったものは少ない。その背景として、流行神の多くが真に民衆の自然発生的な行為によって発生したのではなく、修験者を中心とした(あえて言えば小粒の)宗教家たちによって「プロデュース」されていたことが想起される。修験者たちは、民衆を煽動することによって儲けていた。今風にいえば「バズり」を期待していたのである。知識人たちが流行神を冷ややかに見ていたのは、それらが非科学的だからというだけでなく、それがビジネスに過ぎないと思っていたからなのかもしれない。
そして天理教や大本教といったものは、明らかにそうしたものとは異なった出自を持っている。それは個人の苦悩と救済へのやむにやまれぬ情熱に基づいており、少なくともその当初は全くビジネス的ではなかった。
そう考えると、近世に流行神が次々に出現し、例えば稲荷や恵比須が全国で祀られるに至ったのは、ビジネスの成功によるものといえるかもしれない。それは、全国どこへ行ってもファミリーマートとかセブンイレブンといったコンビニがあることと、たいして違わないことなのかもしれないのだ。
なお、本書には詳細な流行神関係年表が付属しており、これが非常に興味深く参考になる。
流行神から近世の神仏の特質を描き出す好著。
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※上記のメモはちくま学芸文庫版によるが、法蔵館文庫で復刊している。
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