2024年8月18日日曜日

『バテレンの世紀』渡辺 京二 著

異国船来訪の一世紀を描く本。

明治維新前後には、大勢の西洋人が日本を訪れた。そして彼らは日本がまるでおとぎの国のようであることに驚いた。本書の著者渡辺京二はそれを『逝きし世の面影』に描き、外国人の視点から近世末の社会を投射した。

しかしそれは日本人と西洋人のファーストコンタクトではなかった。ファーストコンタクトというべき出会いは、戦国時代末にあった。本書は、このファーストコンタクトがどのような経過をたどったか、約一世紀間の出来事を詳しく述べるものである。

幕末における西洋人と日本人の出会いでもたらされたのは、大雑把にいえば「科学」であったが、戦国末での出会いにおいて、それは「キリスト教」であった。よって著者はこの一世紀を、バテレン(=宣教師、神父のこと。ポルトガル語に由来)の世紀と呼ぶ。

日本にまずやってきたのは、ポルトガル人たちであった。彼らはヨーロッパではいち早く「大航海時代」に突入したプレイヤーであり、その目的は当然に金儲けであった。彼らはアフリカで金(きん)や奴隷を獲得するため武力を使っていた。そしてそこには、キリスト教世界を拡大するという目的も存在していた。ローマ教皇は、ポルトガルが征服する土地の支配権を、異教徒を改宗させる権利も含めて承認した。ヨーロッパ人は、現地人は奴隷にしてでもキリスト教徒となる方が幸せなのだと考えていた。

ポルトガル人は、伝説的な東方のキリスト教の聖王「プレスター・ジョン」に出会うことをも期待して、徐々に交易の手を広げた。そしてインド洋を事実上支配するに至る。そこには、東洋の二大国である中国とインドが、ともに海上交易に無関心であったという事情があった。ポルトガルのアルブルケは1510年にインドのゴアを占拠してポルトガル領にし、さらにここを拠点にして翌年インドネシアのマラッカ(現在のシンガポールの近く)を陥落させた。南洋貿易の交通の要衝である。

もっとも、インド洋やインドネシアには、イスラム商人たちのネットワークが存在していた。それに対抗するため、ポルトガルは「カルタス制度」というものを使った。カルタスとは通行許可証であり、これを持っていない船は一方的に没収の対象としたのである。これはあまりに一方的かつ暴力的であったのでうまくいかなかったが、後に通行税を徴収する制度に改められ、ポルトガルはインド洋貿易から多くの利益を上げた。

ところで、15世紀には琉球王国が海外交易で栄えていた。琉球国をハブにして中国(明)や東南アジアとの交易が盛んに行われた。これが16世紀に入ると急速に終わりをつげ、その空隙に入り込んだのが倭寇とポルトガル人なのである。「ポルトガルを日本へ導いたのは倭寇集団(p.60)」だという。ポルトガルは、当初は明と正式な国交をひらくつもりであったが明に対等な国交という概念はなく、門前払いを食らい、明の水軍に放逐されてしまった。

1540年頃、ポルトガル人は寧波に近い舟山群島の一角、雙嶼(リャンポー)に定着した。ここは密貿易の基地で、ここへポルトガル人を案内したのは海賊の首領許棟だったという。この雙嶼のポルトガル人が中国船ジャンクに乗って日本へやってくるのである(なんと同じ船に倭寇の巨頭王直が乗っていた)。その年は記録によって違うが、1542年か43年である。ポルトガル人にとって日本は極めて有望な市場であった。なぜなら、この時代の日本はアジア最大の銀産出国で、中国の絹を持っていけば大儲けできたからだ。こうしてポルトガル人は「連年薩摩・大隅あるいは豊後の諸港を訪れるようになった(p.67)」。

中国にとっては海賊(倭寇)は好ましくなかったので、ポルトガル人がそれに代わることを期待してか、中国はポルトガル人のマカオ定住や交易を黙認した。胡椒貿易が頽勢へ向かう中、ポルトガルにとって日本はアジア経営のカンフル剤になる存在となった。

一方、1542年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルがゴアに到着した。イエズス会はその2年前にローマ教皇庁により認可されたばかりだった。イエズス会は、静かに瞑想にふける修道士の在り方とは全く違い、伝道活動にすべてをささげる軍隊的な布教組織であった。だが形ばかりの信者が増えても布教活動ははかばかしくなかった。そんな中、ザビエルはアンジロウという30代の薩摩士族の若者と出会い、その知識欲と怜悧さに魅せられ、「こんな若者がいる国なら」と日本布教を志した。

ザビエルの滞日は2年3か月で、うち約1年間は鹿児島にいた。島津貴久は最初こそ布教の許可を与えたが、ザビエルが異教排撃をするのを歓迎するはずがない。ザビエルは司祭トルレスらと京を目指し、その往還の道すがら平戸の松浦(まつら)隆信や山口の大内義隆と親交を結んだ。その頃の京は無政府状態だったのでなんら成果はなかったが、山口では盲目の琵琶法師ロレンソを得た。彼はフロイスによれば「日本で有したもっとも重要な説教師の一人(p.84)」である。またザビエルは豊後の大友義鎮(よししげ)と会い、ポルトガル国王との修好を望んでいることを知った。ザビエルは日本人に好感を持ち高く評価したが、トルレスに後事を託して日本を去った。

さらに1555年、ルイス・デ・アルメイダが日本での布教に参画した。彼は元商人で、イエズス会に2000クルザードの大金を寄附し、これが生糸貿易に投資されてイエズス会の日本での活動資金となった。このために日本のイエズス会は(他国でのあり方とは違い)貿易に深入りした。

イエズス会の当初の足掛かりは山口であったが、大内義長が毛利元就に敗北。次なる拠点は大友宗麟のいる豊後となった。さらにポルトガルの貿易の拠点だった平戸(長崎の西にある島)に血気逸るパードレのヴィレラが赴任。しかし彼は神社仏閣の仏像を破壊するなどしたため、領主大内隆信は教会を閉鎖させヴィレラを追放した。

この結果、イエズス会は新たな拠点を求めた。そして大村湾の横瀬浦(大村湾の入り口)を大村純忠から寄進され、その住民を全員キリシタンとした。1563年、純忠自身も受洗した。イエズス会の基本方針は、領主を改宗させその領民をまるごと改宗させるというものだった。これにより、イエズス会の日本の本拠地は横瀬浦となり、寂しい田舎港だった横瀬浦がポルトガルの対日貿易の重要拠点になるかに見えた。が、純忠が廃仏的行動をとり、養父純前の位牌を焼き捨てるなどしたことで家臣からの反発を買って失脚。横瀬浦はわずか1年で滅びた。一方、平戸ではポルトガル船の入港を希望していた。本来、ポルトガルの対日貿易とイエズス会の活動は別であるが、ポルトガル人にとっても教会は不可欠な施設であるため、事実上、イエズス会の拠点がポルトガルとの交易には必要だった。隆信はしぶしぶ教会の建立や司祭の駐在を認めた。イエズス会はポルトガルとの交易を左右する立場になっていたのである。

平戸を追放されたヴィレラはロレンソを伴って畿内布教に赴いた(説教を行ったのはロレンソ)。当時の京は法華宗が力を持っており、都市部での布教はうまくいかなかったが、奈良の結城山城守忠正、清原枝賢(しげかた)、高山飛騨守図書(高山右近の父)らが入信した。彼らは貿易の利ではなく、創造主の観念などキリスト教の教義に惹かれたらしい。これがきっかけになって堰を切ったように畿内国人層が改宗し、キリシタン武将が登場した。著者はその理由を「畿内の小領主層は切に戦国状況を生き抜く信仰を求めていたものと思われる(p.114)」としている。「彼らはこの新来の神の呪力を信じた(p.117)」。ただし朝廷では宣教師追放(デウスはらい)が決められ、追放されたルイス・フロイスは堺に潜伏することになる。

九州では大村純忠が復権し、大村に福田港を設けて再びイエズス会を後援するようになった。さらに純忠に臣従する長崎純影もキリシタンとなり、長崎が開港された。トルレスは口之津(島原半島の南)にいて、口之津の住民1200人を全てキリシタンにしていた。トルレスや宣教師は九州各地の領主から招聘されている。それは、キリスト教に惹かれたというより、貿易を求めてのことだったが、天草の天草鎮尚(しげひさ)は心の底からキリスト教に傾倒していたらしい。天草は最も安定したキリシタン領国となった。

1570年にはフランシスコ・カブラルがトルレスの後任の日本布教長として赴任。その1年後、トルレスは死去した。トルレスは多くの人々を感化し、敬愛された。「この人こそ日本開教の祖というべき存在(p.130)」である。ちなみにカブラルはトルレスとは逆に日本人を蔑視した。

なお、大村純忠はキリシタンでありながら仏教徒として出家もしており、神仏とキリスト教の両方を信仰するのに矛盾を感じていなかった。これを憂慮したのがガスパル・コエリュである。彼は純忠へ領内の一切の偶像崇拝を禁止し、異教徒をなくするように勧告しした。イエズス会と一蓮托生になっていた純忠はやむなくこれを受け入れ、神奈仏閣に対する徹底的な迫害を実施した。純忠の家臣もすべて改宗を強制され、大村領は日本最初のキリシタン王国となった。ただ、このような神社の破壊行為はコエリュの独断ではなくイエズス会の根本方針であった。

1568年、信長が入京すると、堺に潜伏していたフロイスは一転して信長の厚遇を受けることになった。信長は自身はキリシタンではなかったが、宣教師に京都居住の朱印状を与えた。仏僧たちへ対抗させようという意図と、宣教師たちを国際社会の窓口として見ていたことが主な理由であったと考えられる。

1578年、大友宗麟がついに受洗する。彼は次男を先に受洗させており、キリシタンに敵意がある夫人を離縁し、さらに神社仏閣の破壊も行っていた。彼は貿易の利のためというより、心からキリスト教に惹かれていたらしい。さらに島原半島の有馬領では、有馬義貞が入信し、領民も競って受洗した。その子有馬晴信は一時キリシタンと距離を置いたが、次第に接近した。その頃巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが口之津に到着。ちょうど有馬領内で反乱が起こり、イエズス会は有馬晴信とともに籠城し物資を支援した。その籠城中に晴信は受洗している。

同時期、大村純忠はヴァリニャーノを通じて長崎をイエズス会に寄進している。その頃、龍造寺隆信の圧迫を受け臣従せざるを得なかった純忠は、龍造寺に奪われるよりはイエズス会に知行してもらった方がよいと考えたのである。ただし、後の史料によれば彼はバテレンに多額の借財を負っており、その返済のために長崎を譲ったとされる。なお、龍造寺隆信は貿易を夢見てイエズス会の領有を許した。

なお、ヴァリニャーノはイギリス生まれで哲学・物理も学んだ当代第一級のエリートで、日本のイエズス会の刷新を図った。例えば、彼は宣教師が日本語を学ばなければならないと考えた。だがもともと日本人を蔑視していたカブラルはこれに反発した。一方、これを歓迎したのが「ウルガン・バテレン」の名で親しまれたオレガンティーノである。彼は徹底した日本人びいきで、なんと安土城の一角に土地を与えられ、また安土城下に修道院を建てていた。オレガンティーノを中心として畿内では九州とは違った教勢となっていた。

1582年、ヴァリニャーノは日本巡察の任務を終えて離日。この時、九州のキリシタン大名の名代として4人の少年を伴っていた。天正少年使節である。だが、大名の名代というのはヴァリニャーノの作為であり、本当は下級の身分の少年だったようだ。この頃、日本のイエズス会は(生糸貿易の上りはあったが)資金が乏しく、少年使節の形で成果を見せることで本国からの支援を引き出そうとの目論みがあった。4人はヴァティカンで教皇グレゴリオ13世に謁見。これは最高の礼遇であった。これが契機となり、ローマでは人々が少年使節に熱狂。ヨーロッパ各国からも招待された。なお『天正遣欧使節記』は、少年たちの備忘日記を編纂したという形をとっているが、実際にはヴァリニャーノが書いたものであり、少年たちがヨーロッパをどう見たかは不明である。ただ、4人のうち3人は帰国後も信仰を守り抜いた。

信長が本能寺の変で斃れると、安土の修道院も破壊された。また畿内のキリシタン武将の所領は高山右近の高槻だけとなっていた。なお高槻では寺院の破却や領民の強制的な改宗はなく、穏和な形でキリシタン化が行われていた。右近のとりなしでオレガンティーノが秀吉を訪問すると、意外にも秀吉は彼らを歓待した。また、秀吉のスタッフには小西行長などキリシタンが元々含まれていたが、1585年頃、右近の働きで秀吉麾下の武将が続々と入信。蒲生氏郷や黒田官兵衛らである。

1586年、コエリュはオレガンティーノやフロイスを伴って秀吉に謁見。秀吉は最大限の歓待をし、雰囲気は和気藹々としたものだったが、通訳を務めたフロイスの言葉が禍根を残した。彼は秀吉の朝鮮出兵に話が及んだ時に、イエズス会の助力を依頼するがよい、(コエリョは九州の)「ほぼ全域を指揮下に置いているし、大型帆船をポルトガル人の操縦のもとに提供することができる(p.202)」と述べたのである。この発言のため、秀吉は「イエズス会が九州の諸大名に対し、相当の支配力をもっているらしい(同)」と警戒感を抱いたのである。

九州では島津氏が九州を制圧する勢いになっていたが秀吉はこれを下し、豊後を大友義統に安堵、宗麟には日向を与えた(が宗麟は辞退した)。直後に大友宗麟は死去。またほどなくして大村純忠も死んだ。秀吉はキリシタンに好意的であったから、秀吉麾下の武将たちもキリスト教に関心を示していた。だが九州制圧の凱旋で箱崎に滞在していた時、突如として秀吉の態度は変わった。秀吉は高山右近に使者を送って棄教を迫り、右近がそれを拒否すると、秀吉は即座に右近から領地を剥奪して追放したのである。なぜ秀吉が変心したのかは全くの謎であるが、絶対君主であるはずの秀吉の命を右近が拒んだことは秀吉を大いに刺激したと考えられる。キリスト教は秀吉の全国支配とは相いれないものだったのだ。

秀吉はさらにコエリュに3か条の詰問状を突き付けた。その内容は(1)地方巡業で説教するのをやめろ、(2)牛馬を殺して食べるな、(3)日本人を奴隷にして海外に売るのはやめろ、の3つである。さらに秀吉は寺院の破壊を咎め、司祭らは全員20日以内に日本を退去すべしという通告を与えた。これが伴天連追放令である。1587年であった。

有馬領や天草では、追放令が出ても多くは様子見で、鳴りを潜めるだけだった。だが畿内・豊後では影響は深刻で、動揺が広がった。コエリュはこれに軍事的に対抗すべく、武器を集めるなど準備をしていたが、折あしく(折よく?)死亡。

そんな中、ヴァリニャーノが再来日する。彼はコエリュの計画をもみ消し、布教のためではなく「インド副王の使節」として、秀吉に平和裏に謁見した。なお、この時に同席していたのが、ロドリゲス・ツズことジョアン・ロドリゲスである。彼は日本で成人しており、ポルトガル語より日本語が得意で、後に日本語文典の研究を行い『日本大文典』『日本小文典』『日本教会史』などをまとめた。

ちなみにバテレン追放令の後、天草では出版事業が開始されており、『平家物語』や『伊曾保物語』がローマ字表記で出版されている。これは天草学林(コレジョ)で日本語を教えていた修道士不干斎ハビアンが問答体で再話したものだ。このような事業が追放令後に行われていることは注目される。社会の方でも、キリシタンへの逆風はなく、むしろポルトガル風ないしキリシタン風ファッションが流行してさえいた。

また、追放令では布教は禁止されていたが、キリスト教自体は禁止されていない。追放令下でも蒲生氏郷は信仰を堅持していたし、イエズス会は鳴りをひそめながらも活動を続け、キリスト教徒は徐々に増加していた。オレガンティーノによれば追放令後に増えた信者が4万人いたという。

ところがここで、スペインの植民地であるフィリピンが、フランシスコ会のペドロ・バウチスタを日本に送る。フランシスコ会は日本布教をイエズス会が独占しているのを快く思わず、秀吉に謁見して居住を認められると、公然とした布教活動を開始したのである。彼らはイエズス会士が修道服を着ずに和服を着ているのに衝撃を受け、殉教覚悟で堂々と活動を行った。

このような状況で、サン・フェリーペ号事件が起こった。スペイン船サン・フェリーぺ号が台風のため土佐に漂着したのである。秀吉は大量の積み荷を没収し、増田長政を派遣して取り調べさせた。その結果「スペインは宣教師を先兵として送りこんで侵略の足掛かり(p.234)」としていたことが分かった、というのである。これを聞き秀吉は激怒。バテレン追放令を再公布した。

イエズス会に同情を抱いていた石田三成のとりなしでイエズス会は対象から外されたが、バウチスタ以下フランシスコ会士や日本人のキリシタン合計26名が長崎で磔刑に処された(ただし名簿作成の手違いから3名のイエズス会士も含まれていた)。有名な「二十六聖人」である。

彼らにしてみればとんだとばっちりであったが、フランシスコ会士は異国の地で殉教することを名誉と考えていたし、それに宣教師が植民地支配の先兵となったというのは、あながち間違った情報ではなかった。一方、イエズス会では退去令を無視できなかったので、形だけ11名の会士をマカオに退去させた。しかし日本には大部分の会士が残っていた。

1598年、秀吉が死去して家康が実権を握ったことは、イエズス会には明るい兆しとなった。家康はロドリゲスと面会し、追放令をすぐに撤回することはできないが、いずれ定住が許可されるだろうと答えている。だが家康は内心ではキリスト教を嫌悪しており、貿易を促進したい気持ちから消極的に認めていたにすぎなかった。

そして17世紀に入ると、日欧交流は新たな段階を迎えた。これまでのポルトガルによる長崎貿易+イエズス会の布教という単純な構図に、スペインとの交渉、フランシスコ会・ドミニコ会の参画、オランダ・イギリスとの貿易という要素が付け加わった。オランダ・イギリスはキリスト教布教には関心はなく、またスペイン・ポルトガル(当時、両国は同じ王権)との対立を日本に持ち込んだ。

さらに日本人自身も、朱印船貿易によって東南アジアへ進出しており、倭寇的な日本人はマニラへ定住していた。当時はルソンが金を産出しており、フィリピンは重要な交易拠点だった。松浦鎮信にはフィリピン征服の野望があったという。江戸時代初期に海外へ出た日本人の延べ人数は10万人を下らず、7000~1万人が南洋に定住したのではないかという。

1606年、家康は日本司教ルイス・セルケイラを引見、さらに翌年にはイエズス会日本準管区長フランシスコ・パシオも引見。家康は貿易に対するイエズス会の影響力を認識し、その活動を容認したのである。

イエズス会は相も変わらず財政上の問題を抱えていたし、スペイン系修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会)との抗争も本格化した。それまでローマ教皇から認められていた日本布教の独占権が1611年に解除されてしまったからである。さらにオランダは露骨にポルトガル船を略奪するようになり、スペインはスペインで(ポルトガルと共同の王権ではあったが)日本とメキシコとの貿易を目論んで策動した。この頃、日本としては貿易の利を求めただけなのだが、国際貿易をめぐる複雑な構図の中、追放令によるグレーゾーン的な状態もあり、いろいろなゴタゴタが起こった。結果的に、日本とスペインとの関係は実質的に断絶。布教抜きで商売だけしてくれるイギリス・オランダの方が日本にとって都合がよかった。

ここで、岡本大八事件が起こった。大八は家康の寵臣本田正純の家臣で、有馬晴信に口利きをして多額の金品を受け取っていたのである。これが明らかになって1612年に彼は火刑に処された。彼はパウロという洗礼名を持つキリシタンであった。一方、包囲された晴信には切腹の上意が伝えられたが、自殺はカトリック教会が厳禁している。そこで晴信は家臣に自分を斬首するように命じたのである。家康は、晴信が自分の命よりも教会の教えに従ったことを重大視し、駿府家臣団の取り調べを行った。そしてキリシタンと判明したもののうち棄教を肯んじなかったもの14名を追放した。家康の膝元で、家康の命より教会に従うものが14名もいたのだ。この年、駿府・江戸・京都など天領における禁教が発令された。追って禁令5か条が出て、大名領でも禁教を行うよう求めた。

だがこの禁令は徹底を期すものではなく、イエズス会は存続を認められていたし、大坂の教会は豊臣秀頼に保護されていた。イエズス会はこの年も前年並みの4500人に受洗しており、禁令があまり影響を与えていないことが見て取れる。

一方、有馬晴信の子直純は岡本大八事件の後に襲封を認められており、幕府に対して忠誠を示すため自ら棄教し、また家臣・領民に棄教を迫った。だが棄教したものは少なく、禁教を徹底することはできなかった。棄教しなかった家臣3名は火刑に処されたが、処刑場は聖なる殉教を見物しようという2万人の群衆に取り囲まれ、彼らは遺体を聖遺物として持ち去った。家康は1613年、改めて全国を対象とする禁教令を発し、宣教師の国外追放を命じた。また金地院崇伝の「伴天連追放文」が将軍秀忠の名のもとに布告された。これは、これまでの禁教令よりもかなり実効的なものであった。高山右近も追放された。だが意外なことに禁教下でも修道会の勢力争いが激しく行われている。

同年(1613年)、元漂流者で幕臣になっていたウィリアム・アダムズ(三浦按針)の仲立ちもあり、イギリスとの国交が開けた(平戸商館)。イギリスは略奪を主とするオランダとは違って真面目に商売をしようとしていたが、家康はもはや貿易を盛んにする意欲を失っており、海外でのいさかいに巻き込まれることの不利を強く感じていた。1616年に家康が死去すると海外との交易を平戸・長崎に制限する法令が出た。

宣教師やキリシタンはマカオに追放されたが、マカオでもゴタゴタが起こっていた。パシオを引き継いだ日本準管区長のカルヴァーリョは日本人を嫌い、日本の風俗になじもうとしなかった。そういう彼が行き場を失った日本人(イエズス会士)の面倒を見なくてはならなかったのだから、彼らを扶養したくなかったのも無理はない。彼は会士の大量解雇・除籍を行った。

日本では、宣教師たちを追放はしたものの、キリシタンに対する嫌悪感などはなかったようで、役人から民衆に至るまでキリシタンに同情的で、あまり厳しい取り締まりはなかった。キリシタンの拠点であった長崎でも、積極的に宣教師を捕縛してはいない。ところが1618年、末次平蔵政直が長崎代官に就任すると宣教師追補が激化した。彼はもともとイエズス会系の信者であったがすでに棄教していた。1619年には京都でも53人の信徒が火刑に処された。明らかにキリシタンへの空気が変わっていた。大村でも1622年、火刑25人、斬首30人の「元和の大殉教」が起こった。

だが例外の地域が二つあった。島原と東北である。島原は、元は有馬領であったが、有馬直純は領内のキリシタン対策に手を焼いて転封を願い出て1616年に板倉重政に与えられていた。重政は領民へ配慮し、宣教師も黙認してキリシタンを野放しにしていた。イエズス会司祭ペトロ・パウロ・ナバロを処刑した時も、できれば処刑はしたくないと寛容な態度を見せている。結果的には彼は火刑に処されたが、その後は弾圧はなかった。しかし将軍家光からキリシタン対策の手ぬるさを叱責されると一転して苛酷な迫害が始まった。次々に宣教師が火刑に処され、また日本人のキリシタンは穴吊りの拷問によって棄教を迫られた。こうしてキリシタンたちは東北や蝦夷地へ逃亡していくのである。

オランダは、公然と海賊行為を行っていたが、台湾にゼーランディアと称する城砦を築き、貿易の拠点として整備した。こうして1625年からオランダの対日輸出は急増し、オランダによる貿易が盛んになった。一方で、イギリスは平戸商館を置いていたものの、中国から生糸を輸入することが思うようにできず、大きな損失を計上して1623年には撤退した。

このような状況で、長崎代官の末次平蔵は台湾の領有を企図して策動し、オランダ船とオランダ人を抑留するという事件を起こした。このために日蘭関係はこじれ、1609年に設立されていた平戸商館も活動を停止したが、1630年に彼が死んで事件は解決し、平戸商館での貿易も正常化した。

1635年、幕府は日本人の海外渡航禁止と海外在住者の帰国を禁止した。このため朱印船貿易が停止。その穴を担ったのはポルトガル船による委託貿易であった。しかし幕閣はポルトガル人を嫌うようになっていた。度重なる禁令にもかかわらず執拗に宣教師を送り込んできたからである。宣教師たちは、迫害が厳しいほどやりがいもある、という考えで全く布教を辞めるつもりがなかった。為政者たちは、狂信的な宣教師たちに辟易していた。

そしてついに、寛永14年(1637)10月、「島原半島の松倉領で、突如として旧キリシタンが蜂起し、即座に天草がそれに呼応(p.377)」した乱が起こった。この乱について述べた史料は多いが、意外と当事者の証言は少なく、謎が多い。乱のきっかけは、北有馬村・南有馬村の15名をキリシタンとして役人が捕らえたことであった。その地域の住民はもうキリスト教を棄教していたはずであったが、キリシタンに立ち返ったものが大勢出ていた。彼らは仲間が捕らえられたことに刺激され、「役人、僧侶、神官をことごとく殺せ」と蜂起したのである。

キリシタン立ち返りの起点の一つが、天草(大矢野)四郎の存在だった。彼は「生まれながらの才智」があり、「天人」「天使」として扱われていた。彼はキリシタン5人によって「バテレンの予言」の通り現れたと持ち上げられ、奇跡を起こしたと吹聴された。また、寛永11年(1634)以来、連年の凶作や島原藩の収奪によって農民が追い詰められていたことも乱の背景にあった。

なお、本書ではこの蜂起軍を「一揆」と呼称しているが、この時代の「一揆」とは契約に基づく集団の運動であり、蜂起軍が言葉の素直な意味での「一揆」であったのか、それとも偶発的な暴動だったのか本書には明確に書いていない。かなり早い段階で天草の参加があったことを鑑みると、それなりの計画性があったようには思われる。なお、「一揆」というと、この時代には「起請文」という神仏に誓うタイプの契約書が作成されるのがふつうである。しかしキリシタンが神仏に誓うはずはなく、契約書が作成されたとしてどのようなものだったのか興味深い。

近隣の諸藩は幕府の指示なく隣国に派兵してはいけないという規定のため手出しできず、幕府も地方の小反乱という意識しかなかったため対応が遅れた。その間に蜂起軍は島原の「原(はる)城」に立てこもった。その数3万7000人(といわれるが2万数千人が実数だという)。その翌日、幕府から派遣された板倉重昌が到着。直ちに原城を包囲した。

記録によれば、城の中では「持ち口をよくかためる者は天上へゆき、さもなくば地獄に落ちる」と触れ回っていた。ここで露骨に軍事と宗教が結び付けられていることは注目される。一方、包囲軍の士気は上がらず、しびれを切らした板倉重昌が自ら塀に手をかけたところ狙撃されて死んだ。蜂起軍はかなりの鉄砲を持っていた。幕府は本腰を入れてを編成包囲軍し、その数は10万に達した。

この状態で、城の中と外で矢文によりやり取りが行われたがその内容もまた興味深い。蜂起軍は年貢の減免など生活改善要求は一切なく、「ただ宗旨に従いたいだけだ」というのだ。だが、通説では「島原の乱はキリシタン蜂起の形だが、実質的には領主の苛政に対する反乱だった」とされてきた。なぜそのように変換されたのか。それにはオランダの存在が鍵になっている。オランダ平戸商館長クーケルバックは幕府の要請を受けて、なんとオランダ船を原城に派遣し(原城は海沿いにある)、砲撃したのである。オランダはヨーロッパではキリスト教徒迫害に加担したと批判されたが、彼らは「これは宗教戦争ではなく、領主の苛政に反抗した農民一揆だ」と強調したのだ。

確かに松倉領では苛政が行われていたらしい。だが蜂起軍が年貢や課役に対する不平など一切言っていないことを見ると、これが信仰を求めた宗教戦争であったことは疑いの余地はない。農民は、最初から死ぬためにことを起こしたようなところがある。なお著者は、「島原・天草一揆を農民一揆か、宗門一揆かと問う(p.418)」のはそもそもナンセンスだという。

蜂起軍からはほとんど脱落者はなかったが、これは勝つ見込みのない籠城戦であった。入念に計画されたものではなく、物資も乏しかったからだ。それにもかかわらず蜂起軍は善戦し、包囲軍には大きな被害があった。攻め手側の戦死者だけで、1130名もいるのだ。落城は翌年(1638)の2月。蜂起軍はほとんど皆殺しだった。

1639年、ポルトガル船の来航を禁ずる老中奉書が出され、貿易はオランダに集約された。こうしてオランダは日本の生糸需要を一手に引き受ける形となり、「1640年には22万9000斤という、幕末に至る商館史上最高額を達成(p.371)」した。しかし家光は1639年、「奢侈禁止令」を出し、社会階層のほとんどで絹の着物を禁止した。「当時の日本人は身分の上下を問わず、華美な絹織物を競って着用(p.428)」しており、それが貿易の土台となっていた。奢侈禁止令はこの土台を壊した。

さらに、幕府はオランダ商館にキリスト生誕年が記されていると難癖をつけて破壊させ、平戸から長崎の出島に移転させた。1642年と43年、イエズス会は2度の日本宣教団を送った。イエズス会は日本から手を引くつもりであったが、イタリア人神父のアントニオ・ルビノの強い意志から出たことだという。これが結果的に最後のイエズス会の来日になった。こうして「バテレンの世紀」は終わった。

著者が強調するのは、この時代には日本には大勢の外国人がおりインターナショナルな雰囲気であったこと、西欧と日本には文明の程度は同じくらいだったこと、よって幕府には外国からの軍事的侵略は全く恐れていないこと、いわゆる鎖国によってこの西欧とのファーストコンタクトの記憶が意図的に抹殺されたことなどである。宣教師たちは、絶対神デウスを教え、日本の神仏はそれに劣る存在であるとした。そしてデウスさえ承認すれば洗礼に値するとしていた。それはかなり切り詰めたキリスト教にならざるを得なかった。例えば隣人愛の観念などは教えられていたのだろうか。

宣教師たちがキリスト教を単純化して伝えたのは、彼らのほとんどが日本語ができなかったという事情も大きかった。結果的に、キリスト教を肯定するにしろ否定するにしろ、単純な議論にしかならなかったと著者はいう。さらに「もし宣教師たちに十分な時間が与えられ、スコラ哲学的思考の訓練が日本に根づいたら、どんな展開が見られたことか(p.446)」と述べるが、これはちょっと一面的な見方ではないだろうか。日本では仏教を通じてかなり高度な観念操作の議論があったからだ。

私の本書を読むうえでの関心は、日本人はキリスト教をどのように受容あるいは反発したのか、という点にあったが、本書はこの思想的対決については極めて簡潔にしか書いていない。ハビアンの『妙貞問答』(キリスト教擁護の本)と『破提宇子(はだいうす)』(棄教後にキリスト教を否定した本)についても「立場はかなり単純な合理論にすぎなかった(p.446)」と手厳しい。

本書には詳らかでないが、当時の日本人のキリスト教に対する「素朴な疑問」は、宣教師たちをかなり困らせている。キリスト教の本質を突いた議論を日本人はしていたようである。にもかかわらず、そうした議論が深まらなかったとすれば、日本人がスコラ哲学的思考ができなかったからというより、宣教師の日本語力不足こそが問題であったのだと思う。

またもう一つの私の興味は、キリシタンはなぜ火刑にされるのか、という点にあった。管見の限り、それまで日本には火刑という処刑法はない。本書の記載によるかぎり、初めて火刑されたのは岡本大八事件の大八であり、1612年のことである。彼はキリシタンであったがその罪状はキリシタンであることではなく、収賄なのである。となれば極刑であるとしても「打ち首・獄門」が適当だ。にもかかわらずなぜ彼は火刑に処されたか。

そこには宣教師たちの教唆があったとしか考えられない。ヨーロッパの刑法でも火刑は通常の刑罰となっていないと思う。火刑が用いられたのは魔女裁判など宗教裁判だったのではないだろうか。私は、キリシタンの処刑を行うに際して、ほかならぬ宣教師たちこそが火刑という手段を用いることを求めたのだと思う。つまり宣教師たちは、宣教師たち自身やキリシタンの処罰を「殉教」にしつらえることでその死に特別な意味を付与した

火刑は、キリスト教を「邪教」と見なし、その信者を残虐に処罰する方法として広まったと言われることもあるが、板倉重政がナバロを火刑に処した場合を考えるとそれは妥当ではない。板倉重政はナバロに同情的で、残虐に殺したいとは全く思っていないのである。にもかかわらずなぜナバロは火刑に処されたか。「キリシタンは火刑」という観念に従ったまでともいえるが、であったにしてもあえて残虐に処刑するために火刑を選択したということは考えられないのである。

さらにさかのぼれば、最初の大規模な殉教事件である「二十六聖人」が磔刑に処されていることは注目される。なぜ彼らは斬首ではなく磔刑だったのか。それは、宣教師たちが自らをキリストになぞらえ、磔刑をあえて望んだとするのが自然だ。でなければ、代官たちが磔刑などというものを実施するはずがないのである。

彼らの少なくとも一部は、殉教に対する熱烈な気持ちを持って日本に来ていた。極端に言えば、殉教が目的だったようなところがないとはいえない。特に追放令以降は、迫害されるのがわかっているのに来日しているのだ。それを宗教的熱情ということは可能だが、反面では狂信であるともいえる。その意味では、宣教師たちも宗教の犠牲者なのである。

本書はあくまでも「詳しい通史」であるので、あまり一つの内容に深入りしない。特に元は雑誌の見開き1ページの連載だったそうなので、込み入った内容を語ることはできなかったのだろう。文字数を減らすためであろうと思うが、いろいろな用語が定義されずに、または意味が説明されずに使われていることが多い。例えば「バテレン」や「パードレ」が何を示すのかはどこにも説明がないと思う。

またところどころに地図が挿入されており、巻末に簡潔な年表があることで理解はしやすいはずだが、意外なことになかなかすんなりとは頭に入らなかった。多くの事項を手際よくまとめるために、大著であるにもかかわらずかなり簡略化された記載となった箇所があったためかもしれない。これも見開き1ページの連載の副作用かと思う。

少し読みにくいが大量の情報が盛り込まれた、教科書風のキリシタン史。

【関連書籍の読書メモ】
『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_22.html
倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

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