本書は、『図説日本の仏教』全6巻(太田博太郎・中村元・濱田隆監修)で著者が書いた項目(主に各巻の思想の概説)を基に、若干書き足して再編集したものである。
本書は日本仏教史としてはかなり短く簡潔である。本文は350ページほどしかなく、しかも下の方は註になっているため、普通の文庫本に換算すると250ページ分くらいだと思われる。いきおい、日本仏教史を丁寧に叙述するというわけにはいかず、いくつかの重点を中心とした記述となっている。
古代仏教については、大乗仏典についての解説が重点。様々な内容を持つ大乗仏典がどのように成立したかが述べられ、中国での古訳・旧訳・新訳と、それらの仏典間を体系づける教相判釈などが述べられる。これは類書ではあまり触れられない部分である。日本では漢訳を翻訳することなく受容したため、思想体系の翻訳という難事業をスキップして仏教を受容することができたが、著者は「試行錯誤の過程を省くことができたことが、果たして日本の仏教にとって本当によいことだったのであろうか(p.71)」と問題提起している。
さらに『法華経』の方便思想が詳しく解説される。『法華経』では、相矛盾する教えを方便と位置付けることで、いくつかに分裂した仏教の考えを統合するとともに、信仰を護るための実践的な活動を鼓吹した。日本では天台宗で重んじられたことで、『法華経』は日本仏教の中心的な経典となり、法華経信仰は中国とは違った発展をすることになった。
平安時代の仏教は、密教がその中心となるが、「平安仏教は所詮、祈禱仏教であって、思想内容に乏しいと考え(p.87)」られていたものの、それに対して「果たしてそうであろうか(同)」と疑義を呈している。著者は最澄と空海の生涯に触れ、最澄については特に徳一(とくいつ)との論争内容と大乗戒壇の設置運動を記述している。大乗戒壇については「大乗仏教だから大乗の戒と、一見、当然の主張のようであるが、じつはインド以来、このような主張はなされたことがな(p.105)」いと指摘。そこには「真俗一貫」の平等主義があるという。
空海については、密教教理が比較的詳しく取り上げられる。仏教の教えの根本原理には「空」がある。全てのものに絶対の実体はないという思想だ。ところが「密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するのと根本的に異なっている(p.109)」と、思想的な転換を明確に指摘している。密教では、大日如来と一体化することで自我も絶対性を獲得できるとし、この立場を大乗をも超えた「金剛乗」と位置付けた。
また、大日如来との一体化「即身成仏」について曼荼羅と関係づけて説明されており、それによれば、「物質および精神の具体的・現象的事実の世界がそのまま根源的原理と認められ、それが大日如来の法身(本質的なあり方)とされるのである(p.113)」としている。それは「いわば一種の汎神論(汎仏論?)(同)」なのだ。なお個人的には、ここで物質のみならず精神についても真理の世界の現れとされていることに強い興味を覚える。このような現象的事実の世界を表したのが曼荼羅に他ならない。これは現象的事実を「空」をみなす従来の仏教と対立しているが、その対立が大きな問題となった形跡はない。
そうした対立が起こらなかったのは、そもそも日本人がそうした思想的な転回に無頓着であったか、あるいは空海の思想体系が巧妙だったか、その両方かであろう。空海は淳和天皇の勅命に応え大著『秘密曼荼羅十住心論』を著し、仏教の諸宗の教理を10段階に位置づけて説明した。ここでは凡夫が迷いの状態にある段階から、小乗や天台を経て密教の立場まで、全ての教えが包摂された。
このように空海は壮大な体系化を行い、また密教の呪術性は貴族から重宝されたため、天台宗でも密教を導入することが必要となり、円仁、円珍、そして安然によって台密(天台密教)は完成した。最澄は円教(円=完全な教え)としての天台宗を把握したが、これを密教化したのが円仁・円珍という「円」を名乗った僧侶だというのは皮肉めいている。
さらに、平安期の仏教については、末法と浄土について述べている。最澄の著とされる『末法灯明記』(実際にはだいぶ後の作である可能性が高い)は末法思想に影響を与えた。そこでは、末法の世では教えのみあって実践がないのだから戒は成り立たないとし、無戒の名ばかりの比丘を尊重しなければいけない、という開き直りのようなことが書かれている。このようなことが堂々と主張された時代の趨勢は興味深い。この救いのなさが、人々を阿弥陀仏の他力に向かわせたのであろう。
浄土思想の鼓吹者としては源信を取り上げ、その『往生要集』はやや詳しく内容を紹介している。またその実践としての念仏結社「二十五三昧会」を述べている。そして「大乗仏教の二つの流れ、すなわち、浄土教の他力救済的な側面と、般若系の仏教本来の流れにつらなる三昧の思想を結びつけようとする動き(p.149)」として般舟三昧(はんじゅざんまい)を位置づけている。ここで、著者は時間を遡って浄土教の成立について述べ、浄土教の日本への定着には円仁の五台山念仏の導入が大きな役割を果たしたとする。
そして摂関期末から院政期にかけては、弥勒信仰・地蔵信仰・観音信仰・法華信仰・山岳信仰・神仏習合など、末法観を背景に多様な信仰が展開されており、著者はこの時代を「日本の宗教史上きわめて注目される時代(p.157)」としている。
さらに著者が重視するのが、この時代に形成された本覚思想である。「本覚」とはもともと『大乗起信論』に出てくる言葉で、「衆生に内在する悟りの本性」を意味し、「仏性」や「如来蔵」と類似する。「本覚」は、院政期頃に「仏性」にかわって多用されはじめ、内容も「「本覚」が単なる内在的な可能性ではなく、現実に悟りを開いている、という意味に転化してしまう(p.158)」。そして逆に、修行して悟りを求めること(=始覚門)は低次元の考えであるとまでみなされるようになった。
また、良源が書いたとされる『草木発心修行成仏記』に述べられているように、日本の仏教では山川草木悉有仏性の説が広まった。草木成仏説は中国でも見られたが、それは仏(空)の立場からみると全世界は平等に心理そのものであり、衆生と草木の区別はないというものであった。ところが『草木発心修行成仏記』では、「一本一本の草や木がそれぞれそれ自体で完結し成仏している(p.171)」とするものになっている。より実在論的なのだ。
本覚思想は、本書の中心をなすものである。日本の仏教思想は、インドはもちろん中国のそれとも異なっているが、その独自性の核心にあるのが本覚思想であると著者はみなしている。しかし従来、本覚思想はあまり注目されてこなかった。その一因は本覚思想が著述ではなく口伝法門(師匠から弟子への秘密の口伝え)によって伝えられたことである。
なお、天台宗では本覚思想が本門思想と結びついた。本門思想とは、『法華経』の本門(後半)を究極的な真理と見なすもので、天台宗では本門を具体的な事実性の段階と見なした。迹門(前半)が抽象的な真理とされたから、これは理念・理論より事実・現実を重視する考えになっているわけである。天台宗では止観(心を静めて観想する)を重視したが、やがて「天真独朗の止観」を主張するようになった。これは「凡夫のあるがままの日常の心を、そのまま本来的に真実で(天真)他に汚されずに輝いている(独朗)悟りの姿と観ずること(p.183)」である。
しかしこうなると、修行も不要となり、なるがまま主義、あるがまま主義へと堕する危険性を帯びていた。「本覚思想は仏教思想として行き着くところまでいって自己崩壊(p.190)」した。そんな中で、仏教の在り方に対する再定義が必要になり、本覚思想は新しい思想を生み出す媒介となったと著者はいう。鎌倉仏教の発生にも、本覚思想は大きく影響しているという。
鎌倉仏教については、意外とあっさりとした記述である。黒田俊雄の顕密体制論に基づいた見方で、3期に分けて述べている。
第1期が12世紀後半から13世紀始めの承久の乱まで。ここでは法然と栄西が取り上げられる。建久9年(1198)には、それぞれの主著、法然『選択本願念仏集』と栄西『興禅護国論』が著された。彼らはともに弾圧さらながらも教えを説いたが、栄西は権力に接近し、法然はあくまで在野を貫いた。この他、この時期には重源・貞慶・俊芿・慈円らが活躍している。
第2期は承久の乱以後の執権政治期。ここでは明恵、親鸞、道元が取り上げられる。明恵は『摧邪輪』を著し、法然の専修念仏を批判した。悟りを求める心(菩提心)がないのに、阿弥陀仏を信じて念仏すれば救われるというのはおかしいと。彼は菩提心を重視し、仏光観(毘盧遮那・文殊・普賢や理法を書いた上段と、菩提心を鼓吹する文章を下段としたものを観想の対象とするもの)の実践と思想を円熟させた。親鸞と道元は、本覚思想と向き合い、それを乗り越えた。親鸞は悟りの世界をあくまで浄土に置き、そこに至るためには念仏という実践が必要だとし、一方、道元は修行そのものが悟りだとした。どちらも、本覚思想の「なすがまま・あるがまま」だけではダメだとしたのである。
第3期は、13世紀後半以後の社会的変動期。ここでは日蓮、一遍、叡尊、忍性が取り上げられる。日蓮は本門を絶対視するとともに、護法の実践を重視した。一遍は全てを捨て去って念仏のみに身をゆだねた。そして叡尊・忍性は戒律の復興運動に身を投じる。それぞれが、本覚思想の「なすがまま・あるがまま」とは全く異なる地平を切り開いているのである。
室町期になると禅宗、特に五山派が興隆し、また日蓮宗は町衆文化をはぐくむ役割をするが、この時期については本書は極めて簡潔で短い記述である。
近世仏教については、類書に比べるとかなり肯定的に述べている。著者は近世仏教堕落論への再考を促し、「他の思想潮流に主流の座を明け渡し(p.242)」たとしながらも、仏教界にも活気があったとする。
ただしキリスト教との思想対決、排仏論など、仏教界には当時から批判の目が注がれていた。「もともと超世俗主義の立場をとる仏教には、かえって世俗に対して厳しい倫理性が欠けていた(p.252)」こともあり、体制側の思想となってしまっていたことは否めない。そして民衆は、体制の枠に収まらない思想を持ちつつあったのである。さらに、富永仲基や山片蟠桃は合理的な思想から仏教の理屈に合わない点を批判した。しかし、仏教界はそうした批判へ真正面から応えていない。これは近世仏教の限界であった。
しかし、仏教界が停滞していたわけではない。戒律の復興運動や教学の振興が図られている。それでも体制に従順だったことは否定できない。浄土真宗ではひたすら無欲で従順な人物を「妙好人」として称揚した。近世後半に新宗教が次々と生まれてくるのは、既成教団への物足りなさがあったに違いない。
ここで著者は「仏教土着」と題して、日本の仏教の受容のされ方について考察している。その要点を述べれば、日本の仏教はまず「葬式仏教」であったということと、「先祖供養」と習合したということである。葬式も先祖も、元来の仏教ではそれほど中心的なものではなく、特に先祖に至っては輪廻転生を前提とする限り仏教とはきわめて遠い存在なのである。にも拘わらず、日本仏教ではこの二つが仏教の流布に大きく与っている。なお、著者は「葬式仏教」を肯定的に(とは言いすぎでも一概には否定できないというような調子で)述べている。
以上が本書の通史部分であるが、さらに「神と仏」と題した章が設けられている。これは、本書の元となった『図説日本の仏教』全6巻に『神仏習合と修験』の巻があったことと対応している。本章は神仏習合論として優れている。近世には本地垂迹観念が人間中心に変化しているという指摘などは鋭いと思った。また、神道理論を育てたのは本地垂迹を中心とする仏教思想であったということも明快に示しており、そこで慈遍の『豊葦原神風和記』の内容が紹介され、特に原初の純粋性に神道の優位性を見ているという指摘が面白かった。その先に天皇論が位置づけられてくるのである。
続いて修験道について述べられているが、教科書風で簡潔な記載である。
終章は「日本仏教への一視角」と題し、それまでと違って「ですます体」で書かれている。ここでは、日本仏教への研究方法や向き合い方が述べられる。最後に、遠藤周作の小説『沈黙』で、宣教師フェレイラが言う台詞が紹介されているのが面白い。それは「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」というものだ。要するに、日本は外来の宗教を自分風に換骨奪胎してしまうということなのだ。「仏教の根は果たして腐らずに長らえることができたのでしょうか(p.364)」「日本人として外来の思想・宗教を受け入れるということはどういうことなのか。仏教はあまりに日本の中に溶け込んでいるように見えるだけに、よりいっそう強く、かつ慎重に問い直さなければならないのでしょうか(p.366)」と本書を結んでいる。
最後に丁寧な文献案内と仏教史年表が付属しており、特に文献案内は大変参考になる。
全体として、本書はとても読みやすい。日本仏教の通史としては、最も読みやすいと思う。また「本覚思想」を中心に据えて日本仏教思想を読み解くという試みは、独創的で、説得的でもある。ただし、冒頭にも書いたように短い著作であるために捨象されたものは多く、特に室町時代の禅宗と近世の修験道はほとんど全く記述されていない。また、読みやすくはあるのだが、短くまとめるために丁寧な説明がない部分がある。大まかな日本仏教の流れを知った上で読む方が面白い本だと思う。
本覚思想をキーにして日本仏教への再考を促す名著。
【関連書籍の読書メモ】
『日本宗教史』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_14.html
古代から現代に到る日本宗教史を概観する本。「<古層>の形成・発見」はピンと来ないが、日本宗教史の詩論として価値ある本。
『中世の神と仏(日本史リブレット32)』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/06/32.html
中世の神仏の在り方を概説した本。神仏習合から神道理論が育っていたことを簡潔に示す、これ以上ないほどの概説書。
『近世の仏教―華ひらく思想と文化』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/07/blog-post_17.html
近世の仏教の概説。近世仏教の世界を平易に案内する試論。
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