2024年7月20日土曜日

『宗教以前』高取 正男・橋本 峰雄 著

近代以前の宗教意識を民俗から探る本。

本書は、「民俗から見た日本人の宗教意識」を考えた1967年のNHKの番組「宗教の時間」を基にまとめたものである。著者の二人は、番組では対談したのではないかと思うが、どんな番組であったのかは本書からはわからない。また、著者二人の担当部分が明確に分けられているわけではなく、全章が二人で書いた体裁になっている。

本書の前半は、様々な民俗を取り上げている。主なものを挙げると、(1)死穢を避けること、(2)女人(特に出産出産)を穢れたものとする意識、(3)名前のない神(土間の神)を祀る行為と名前のある神(座敷の神)を祀る行為の併存、(4)神仏習合などである。

特に強調されるのは(3)で、神道では神はとらえどころのないもの(=「神道不測」)であったとされ、より正確には、「土間の神」「座敷の神」に「天皇神」を加えた三重構造であったという。

次に、神道の基層にあるシャーマニズムが取り上げられる。日本の神はしばしば託宣し、それはシャーマンによって伝えられる。古代には託宣が頻発したため、国家は卜占によって託宣の虚実を判定したほどだ。中世になると託宣が見られなくなるのに代わり、夢想・夢告が多くなる。また中世には神仏の性格の違いが明確になり、「神仏の分業」の体制が成立したとする。

次に、産土神と祖先祭祀が取り上げられる。産土神は共同体の神であり、祖先は家の神である。家の者が死ぬと、その魂は一年の一定の時期に家に戻ってきて祭りを受けるという観念があった。しばらくたつと、その魂は固有の名前を失って漠然と「祖先」となった。私が興味を抱くのは、祖先祭祀は果たしてそんなに古い民俗なのだろうか、ということである。さらには、産土神への信仰と、祖先祭祀はどのような関係であったのだろうか。

祖先祭祀は家の形態と深い関係があることは言うまでもない。著者は「西日本の開発の古い地域には同族の組織はもともとなかったのではなかろうか(p.158)」と述べているが、同族組織がなければ当然祖先祭祀もない。また、祖先祭祀は父系の意識が強く、しばしば女性を排除した祭りが行われるが、「古い時代ほど女性が神祭に重要な役割を果たした(同)」ことを考えると、父系の祖先祭祀は後発の民俗であることは間違いない。

逆に、「父母双系出自を重視すれば(中略)、通婚範囲である一定地域、したがって村落全体に拡散する(p.159)」。小さな村なら、何代かさかのぼれば全員が親戚ということになってしまうかもしれず、産土神と祖先祭祀は一致するのである。これは極端な仮定であるが、祖先祭祀や産土神は自明なものではないのである。

また本書では、柳田国男の祖先崇拝の理論(『祖先の話』)を批判的に紹介している。その要点は「極端ないいかたをして一言でいえば、柳田氏は日本の神々すべてを祖霊に還元する(p.163)」が、一方で「日本人の古い宗教が家父長制的な「家」の観念から出発したものであるかは、きわめて疑問(p.165)」だということに尽きる。柳田国男の宗教観には、家の祭祀から国家の祭祀までがつながる国家神道的なものが濃厚だ。

さらに日本人の死生観が世界の諸宗教と比べられ、特に「祖先祭祀」「魂の不死/普遍・個」「輪廻」「顕幽交通」の4つの観点から分析されている。「日本の宗教の特異な点は、死者の霊魂のあの世での浄化を、生者がこの世から援助できるということであろう(p.195)」という指摘は面白い。ただ、これは厳密に言えば正しくないような気はする(例えば、チベット仏教にもあると思う)。そして著者は葬式仏教を積極的に評価するが、その死生観は現代の日本人にまともに受け取られていないとして、仏教は「家の宗教という外面的な宗教から必然的に個人の内面的な宗教に転換ないし回帰せねばならなくなっている(p.198)」という。

最後に、国家・科学・宗教の相互の関係が西欧社会(キリスト教社会)と対比しつつ整理される。しかしそれは歴史的にどうであったかということよりも、これからの宗教はどうあらねばならないか、ということが中心だ。ここは、同時多発テロやその後のイスラーム社会とキリスト教社会の反目などを知っている現代のわれわれからすると、ずいぶん理念的で楽観的な宗教の将来像と言わざるを得ない。

全体として本書は、(おそらく橋本による)哲学や宗教学の考察が展開されながらも、本格的な論考に入る前に話題が移ってしまうようなところがあり、なんだか消化不良な読後感がある。ただしヒントになるような事例が随所に盛り込まれているのが面白い。一番面白かったのは、本書冒頭に紹介される、著者(おそらく高取)が昭和34年に奈良県で老人に猪狩りについて聞き取りをしたエピソードだ。老人は猪の習性について理路整然と語りつつ、「弾丸が逸れたときはどうするのか」との質問に対して平然と「そのときは暦をみる」といい「猪は暦でふさがっている方角へ逃げるから、そちらへ先まわりしてもう一度マチウチしたらよい」と答えたのである。これはもちろん迷信だ。だが、老人の中では猪の習性に対する経験的知識と、暦云々の迷信的知識は矛盾したものではなかったのだ。これは日本人のかつての生活態度を濃厚に残しているといえる。

本書を読みながら一番気にかかったのは、「宗教」なる概念を自明のものとしているところである。日本人はかつて「宗教」という概念で神仏を見ていたのではないし、「宗教」と「科学」という別の体系があるとも認識してはいなかった。だからこそ、本書はタイトルに「宗教以前」を掲げているのである。そして「「宗教以前」は、いわゆる近代の宗教「以前」、前近代の宗教を意味している(p.26)」というが、「宗教以前」のなかに「前近代の宗教」という「宗教」が入っているのは、概念整理の結果とはいえ、いささかおかしい。

結局、「宗教以前」を取り扱うにあたり、「宗教」を自明なものとしていることが違和感の元にある。「日本人の民俗宗教」とはいったいどのような「宗教」なのか。このあたりのことを曖昧にして、西欧社会との対比を中心に民俗文化を分析しているので、何か地に足がつかないものを感じるのである。とはいえ、1963年に出版されたものであることを考えると、本書は当時としてはかなり多角的に民俗文化を捉えたものとして評価できる。先駆的と言って差し支えないであろう。名著とされるのもゆえなしとしない。

「宗教以前」の考察は少し物足りないが、日本の民俗文化を考え直すヒントに溢れた先駆的な本。

※引用のページ数は原著のNHKブックス版による。

【関連書籍の読書メモ】
『神道の成立』高取 正男 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.html
神道の成立過程を丹念に辿る本。神道成立前夜の動向を、細かい事実を積み重ねて究明した労作。

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