辻善之助の『日本仏教史』において、近世の仏教は堕落していたとされ、それが通説となってきた。近世の仏教界は檀家制度に安住し、僧侶は戒律を守らず肉食妻帯し、思想的な発展もなかったのだと。しかしそれは一面的な見方だと今では修正が必要になっている。転機になったのはヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』だ。歴史を振り返れば戒律を守っていない僧侶はいつでもいたし、近世に仏教の学問的発展がなかったわけでもない。そこで近世の仏教について改めて総合的に捉えたのが本書である。
中世末期は、非常に宗教の力が強かった。浄土真宗(一向一揆)が約1世紀の間、加賀国に宗教国家を実現させたのはその象徴である。日蓮門流が京都の自治権を獲得したものそうである。よって強大な宗教勢力を打破することが近世の統一政権樹立にあたって必要であり、そのために近世では強力な宗教統制が行われた。
江戸幕府では本末制度が定められて、本山から末端寺院までが上下関係で結ばれ、本山を幕府が抑えるという形ができあがった。またキリシタン対策のために、民衆は必ずどこかの寺の檀家になるという寺壇制度が整えられた(仏式以外の葬祭は禁止された)。幕府の政策に直接影響を与えたわけではないが、鈴木正三がこの理念を非常に近い形で提示している。それは寺院を世俗社会に役立てようとする企てであった。
さらに幕府は、家康を神格化した。それには家康・秀忠・家光三代の師として権勢を振るった天海の影響が大きい。彼の影響で家康を天台宗の山王一実神道(日光中心の新しい山王神道)の形式で日光東照宮に祀るようになり、また寛永寺が仏教界の中心となった。なお日光東照宮に色濃い現世主義の基盤には、中世の本覚思想の影響があるのではないかと著者はいう。
近世は儒教の時代だと言われることがある。藤原惺窩や林羅山は禅寺を出て儒者になっており、仏教から儒教への流れがあったことは間違いない。しかし儒者は僧侶のような独自の集団をつくれず、また日本社会は儒教を全面的に受容してもいなかった。林羅山と松永貞徳(不受不施派の日蓮宗の在家信者)による儒仏の優劣を争った論争で、来世の問題が取り上げられているのは興味深い。儒教では祖先祭祀を重視するが、なぜ祖先祭祀が必要なのかという理由を突き詰めれば、死後の観念に行きつかざるを得ないからである。羅山は天海の山王一実神道に対抗して理当心地神道を唱え、『本朝神社考』を著わすなど、神道を神仏習合から解放するとともに天皇に結び付けようとした。
キリスト教への対応はどうか。日本人は戦国時代末にはキリスト教に好意的で、ザビエルもまた日本人に好感を持った。しかし特に地獄や創造神をめぐる日本人の疑問は宣教師たちにも手ごわいものであった。そんな中ハビアンの『妙貞問答』で仏教とキリスト教が比較されキリスト教が選ばれているのが面白い。そこでは、「仏教の立場に立つ以上、極楽であっても本当の実在ではない(p.72)」から後生の願いはむなしい。キリスト教の方が死後の幸せを実現できる、といった論法がとられている。ところが、その後の禁教政策もあり、キリスト教批判の書が多くなり、ハビアンも棄教した。
江戸幕府の成立時は、中国では明と清の交代期にあたっていた。明末は仏教復興の機運があった時代で、この時代の仏教が日本に直接入って来た。その中心となったのが隠元隆琦である。隠元はたびたび日本側からの招請を受け来日。宇治に黄檗山万福寺を建立し、黄檗宗(臨済宗の一派)を伝えた。万福寺は純中国風の寺院で、13代までは中国僧が住持を勤めた。黄檗宗は社会活動を重視し、また教学の振興を図った。近世仏教の多様な側面を支えたのは黄檗宗である。隠元は分かりやすく理路整然と教えを説いた。「娑婆・極楽は只当人の心念浄染(しんねんじょうぜん)の間にあり(p.83)」とする唯心主義的な教説は注目される。
江戸時代には、日本で初めて大蔵経が開版された。まずは天台宗の宗存が着手し、それを天海が上野の寛永寺に経局を設けて完成させた。民間では、隠元に学んだ鉄眼道光が大規模な募金活動を展開して資金を集めて完成させた。初刷は後水尾天皇に献上されている。この普及に力を尽くしたのが同じく黄檗宗の了翁道覚。彼は欲望を断つために男根を断ち、左の小指を叩き砕いたが、その痛みを抑えるために調合した薬(錦袋円)がヒット商品となった。彼はこの売上で鉄眼版を各宗の寺院に寄進したのである。そして大蔵経は死蔵されたのではなく、学問に活用された。
この他にも、妙心寺の道忠は中国語の俗語に通じて、理解が困難だった禅籍を正確に読み込んだ。これは荻生徂徠の古文辞学と通じる成果だった。卍元師蛮は通宗派的な『本朝高僧伝』をまとめた。
このように、「近世前半の仏教界はきわめて活気に満ちて、全国規模で大きな事業が起され、成果を挙げ(p.101)」た。特に印刷物の流通は、写本による口伝の継承よりも、公開された合理的な解釈が力を持つようになった。それにより批判的な仏教解釈もなされるようになる。
霊空光謙は本覚思想を批判した。東照大権現には、中世天台の檀那流の「玄旨帰命壇」の本尊である摩多羅神が家康とともに祀られているが、霊空はこれを『闢邪編』で批判。本覚思想でありのままを肯定するのは、善を勧め、悪を止む仏の教えと相容れないというのである。本覚思想の批判は広がりをもち、そこから浄土とは何かという問題も引き出された。
近世には、各宗派で戒律の復興運動が行われた。その中でも大きな問題となったのは天台宗の安楽律運動である。これは霊空光謙らが、最澄以来の大乗戒だけでなく、中国で正統とされた四分律も必要だとして政治的に運動したものである。権力闘争の末、安楽律派が勝利したが、こうした運動が行われた根底には「釈尊への復帰」がある。徳門普寂は宗派の枠にはまらず、小乗を再評価した南山律宗への復帰を唱えた。彼の主著『顕揚正法復古集』では仏教を歴史的に把握し、小乗に回帰することを志向した。
慈雲飲光(おんこう)も、「正しい作法に則った仏法に復古することの必要を痛感(p.117)」して、戒律復興に取り組み、また『梵学津梁』一千巻を著してサンスクリットの研究をまとめた。彼の十善戒は著名である。また、神道の研究も行っており、「雲伝神道」と呼ばれる独自の神道説を完成させた。
鳳潭僧濬(そうしゅん)は、「鉄眼、霊空という当代最新の仏教を学び、それをもとに先入観に捉われない独自の仏典解釈を展開した(p.120)」。それは中国華厳の系譜を検証し、第四、五祖を認めないというものだった。伝統的に認められた相承説を堂々と否定したのは画期的だ。なお、普寂は鳳潭の学問を受け継ぎつつも批判も加えている。
富永仲基は、教団外から仏教を研究して、各種の経典は釈尊が説いたものではなく、歴史的に形成されたものであるという画期的な説を提唱した(『出定後語』)。そして仲基は釈迦の教えの原形、つまり原始仏教を志向した。これは普寂と同様の考えであるが、普寂が大乗仏教も仏教と考えたのと違い、仲基は大乗仏教は仏教(釈迦が説いた教え)ではないという衝撃的な結論に至り、仏教の信仰の前提を壊した。
このような仏教の原点に帰ろうとする運動とは別に、世俗道徳を肯定する仏教も盛んになった。その先駆けになったのは鈴木正三で、彼は『万民徳用』で日常の暮らしがそのまま仏道修行であるとしている(「修行ノ為ニハ奉公ニ過タル事ナシ」)。近世中期には、盤珪永琢や白隠はわかりやすく庶民に禅の教えを説いた。彼らの教えは難しい仏教教理ではなく、世俗倫理や封建体制を前提とする善悪を基本とするものだった。真宗でも『妙好人伝』に代表される、模範となる篤信者が称揚された。仏教者から封建体制を乗り越える言説は現れなかった。
近世に排仏論も盛んになった。儒教の方で大きな問題になったのが、先述した来世の扱いで、新井白石は『鬼神論』で仏教の輪廻説を批判した。魂の輪廻では祖先崇拝、家の倫理は成り立たない。祖先の善悪が積み重なって子孫に及ぶ、と考えなければならないからだ。だが儒教ではどうしても死後の問題が曖昧であった。そこで平田篤胤は『鬼神新論』を著し、新たな霊魂観を提唱している。
一方、仏教側は排仏論に対抗し、神仏儒の調和を説いた。これは世俗倫理を前提とする反論である。また三教一致の典拠として『先代旧事本紀大成経』が用いられた。これは実は黄檗宗の潮音道海が神道家水野采女と制作した偽書であり、禁書となったにもかかわらず広く流布した。
ところで、こうした宗教界は外国人からどう見えていたか。エンゲルベルト・ケンペルはドイツ人の医師で、オランダ商館付の医師として長崎に5年間滞在した。その間の日本研究をまとめたのが大著『日本誌』である。この本の第三部には宗教についてまとめられているが、神道に関する記述が大部分を占め、仏教はあまり触れられていない。シーボルトの『日本』でも、やはり神道のほうが中心である。ただし、『日本』では土佐秀信の仏教図鑑『仏像図彙』のドイツ語訳が付録として収録されており、これは単なる翻訳を超えた学術的な成果である。これはシーボルトの助手ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンの仕事である。外国人は、仏教を認知しつつも、神道をより重要な宗教として認識していた。
しかし仏教の信仰には、意外と広がりがあった。『近世畸人伝』では貧困の中に自由な生き方をした僧・出家者がたくさん登場する。仏道修行をする女性も多く、本書では大奥で仏法を説き心の在り方を重視し形式的な参禅を批判した祖心尼、柳沢吉保の側室で我が子を三人失うという過酷な経験から実践的に禅を深めた橘染子が取り上げられている。
そのほか、民衆の間ではご利益を求めて多様な神仏が信仰され、巡礼・遍路も盛んになった。仏教とは違うが、近世には妖怪の存在がクローズアップされてくるのも面白い現象である。また旧来の宗教に飽き足らず、如来教や天理教など新しい宗教が幕末に起こってくるのも注目される。しかもそこに世界創造の最高神が措定されているのは、仏教にない考えが求められていることを示唆する。
造形については、鉈彫りの円空や、素朴な木喰などが注目される。また白隠や仙厓の自由な禅画など、民衆的で従来の枠にはまらない表現がなされるのが近世の特徴である。
これまで述べたように、近世の仏教は、封建制肯定の側面はあったが、ずっと停滞していたわけではない。しかしながら、幕末には次第に活力を失っていった。その代わりに勃興したのが、国学であり、それは時代を逆行する観がある霊魂論や神話を伴っていた。
本書は、おそらくは近世仏教の初めての概説書であり、それだけで価値が高い。しかし200ページ余りの小著に抑えるため、各事項についてはかなり簡潔にまとめている印象である。もう少し詳しく書いてほしかった項目は多い。特に後半は駆け足であったような気がする。また、辻善之助以来の近世仏教研究では、制度面が割と大きく取り上げられてきた。本書ではおそらくそこを意識的に捨象し、これまで看過されがちだった教学の面を大きく取り扱っている。例えば門跡寺院とか、触頭寺院のようなものは本書では取り上げられないが、門跡寺院に残された華麗な文化については記述があってもよかったかもしれない。
とはいえ、本書は興味深いことが盛りだくさんで、特に前半はたいへん参考になった。
近世仏教の世界を平易に案内する試論。
★Amazonページ
https://amzn.to/46bfgAE
0 件のコメント:
コメントを投稿