本書の原著(『中世芸能を読む』)は、岩波セミナーで講義した速記録を加筆修正したもので、それを若干修正し4つのコラムを付け加えたのが本書である。
勧進
勧進は、近年様々な面で注目されている。中世、勧進聖は一種の企業体・商社のような集団を形成し、お金を集め、プロジェクトを行って、再配分していくような流れがあった。そのモデルになったのが重源の大仏再建である。意外だったのは重源が「南無阿弥陀仏」という名前を名乗っていることだ。阿弥号を持つハシリなのだ。
勧進の際、お金がちゃんとプロジェクトに投資されるという信頼がなければ金は集まらない。その信頼をつくったのは律僧だと著者はいう。戒律を厳粛に守るからお金にクリーンだったというのだ。一方、重源は律僧でなく、なぜ重源が信頼されたのか不明な面もあるという(やはり入宋三度が信用をつくっていたのかも)。
勧進の背景には、貨幣経済の進展もある。中国から大量の銭が入ってきたのだ。中世には徴税のシステムが脆弱で、小さな国家であったことも、勧進が重用される理由だった。融通大念仏会のような大規模な宗教イベントを勧進聖がプロデュースし、そこにはいろんな芸能者も集められた。金を集めるには人呼びが必要だからである。これが興行型勧進である。さらには勧進聖自身が芸能化していくことになった。なお、こうしたイベントでは、仏教的には正統ではない「亡者の供養のため」が目的として押し出されている。勧進の性質上、民衆の需要に沿った来世観になっているのが興味深い。
芸能化した勧進聖としては、まず「踊り念仏」の一遍と、踊る説教師の自然居士(じねんこじ)が注目される。彼らは身体的パフォーマンスを仏教に持ち込んだが、当然ながらこれは旧仏教(天台宗)から強く批判された(『天狗草紙』)。自然居士が、有髪だったというのは面白い。「ヒッピー的な禅者といっていい(p.48)」。
文保元年(1317)、勧進興行に猿楽が参加した最初の例が現れる(『嘉元記』)。そこでは法隆寺の神社(惣社)で法華八講(法華経を八座に分けて購読する法会)が行われ、合わせて猿楽の太夫が芸をしているのである。著者は、このように勧進興行に芸能が入っていって「宗教的な磁場からあぶり出され(p.52)」て成立したのが複式夢幻能だと考えている。勧進聖たちの話を踏まえた劇にすることで複式夢幻能が生まれたというのだ。また、その場はギャラもとてもよかったと考えられ、芸能の側はそれで活性化したと考えられる。
天皇
著者は能楽の成立を天皇制や国家との関係に注目して語っているが、あまり明快ではなく正直よくわからなかった。まず、触穢思想が取り上げられ、天皇を中心とする同心円状に穢れが排除されていたとする。天皇は清浄であらねばならなかったからである。では、能楽の元になった猿楽はどうであったか。著者は「芸能者としての猿楽もまた、穢れの側にいる存在と考えられていただろうと思います(p.84)」としているが、実ははっきりしない。
一応、天皇から遠ざけられていたと思われる猿楽が、どうして国家の芸能になり、能になっていったか。それを解く鍵は仮面にあると著者は考える。猿楽では仮面はなく、能になってから仮面劇となっている。この仮面は、修正会の追儺(ついな)から来ているのではないか。院政期には、法勝寺など大寺院が天皇によって建立され、そこで国家の行事として修正会が行われた。修正会は一週間ほど行われたが、その間には法会だけでなく様々なパフォーマンスがあったらしい。そこに芸能者が「呪師」として関与していたのである。最終日に行われる追儺は、悪鬼を追い払う儀式であるが、その悪鬼の役を務めたのがステータスの低かった猿楽であると推測される(詳細は「毘那夜迦考」)。
そして追儺は、法会の中で最も重要なパートであり、諒闇(天皇の喪中)でも行われていた。本来、穢れた賤民として天皇から最も遠ざけられるはずだった猿楽が、悪鬼を演じるために仮面をつけて国家の中枢に入り込んだことが、能の成立につながったというのである。ただし、同時代に朝鮮半島でも仮面戯が成立していることも視野に入れる必要がある。
連歌
中世は連歌の時代でもあった。上皇から庶民まで連歌に熱狂したのが中世である。連歌は5・7・5と7・7の句を繋いでいく芸能であるが、重要なのは場面の転換である。その基盤となったのは本歌取り。本歌の世界を単に踏まえるだけでなく、その意味をズラしたり読み替えたりして変換することで、新しい世界を構築するのが本歌取りであった。次々に場面を転換させていく面白さが連歌を成立させた。
しかし連歌は、なんでも句を継いでいけばいいというのではなく、宗匠が司り、また煩わし規則があり、宗匠が認めなければ句が却下された。連歌は当初こそ貴顕の人々の遊びであったが、そういうルールがあったからこそ、人々は身分の上下に捉われず、優れた句を認めるようになったのだろう。連歌の一大行事が「花の下(もと)連歌」と呼ばれる、枝垂桜の木の下で行われるお花見兼大連歌会である。これは一般大衆にも開かれた場で(一般ギャラリーからも自由に句を出してよかった)、しかも採用された句には懸賞がかけられた。「かなりいいものがかけられたに違いない(p.134)」という。
花の下連歌は1240年頃から百年ほど盛んに行われた。その場として重要なのが法勝寺や毘沙門堂である。ここで、世俗の身分がある程度無効化される寺院という場が新しい文化の揺籃の地となっていることは注目される。
花の下連歌が寺院で行われたのには、「花鎮め」の要素もある。桜の花びらが散る頃に疫神がまき散らされるため、それを鎮めるというものだ。そこには枝垂桜の下には冥界があるという意識がある。花の下連歌は、この冥界の霊たちを鎮めるための花見であり、どんちゃん騒ぎであり、芸能なのである。連歌の一座を構成する宗匠や連衆は、主に念仏聖だったことも注目される。14世紀からは、連歌の中心は北野神社に移ったが、北野天神を本尊としてその前で連歌会を催したのも怨霊鎮魂の意味があるのだろう。「連歌自体の面白さが呪術力をも生む(p.164)」。
なお、一揆(新しい社会結合)も連歌とのかかわりが深い。誰でも参加できる連歌が、徐々に人々のサークル(連歌講)とつながっていくのが面白い。逆ではないのだ。
禅
禅は、日本文化に大きな影響を与えた……とされているが、それは「考えられているようで、じつはあまりちゃんと考えられていないところでもある(p.171)」とし、著者はいわば試論として、禅と日本文化の関わりを述べている。
禅は、日本にとってかつてないインターナショナルなものだった。村井章介は、13世紀中頃からの約100年間を「渡来僧の世紀」と呼んでいるが、中国からエリート僧が来て、日本からも中国へ盛んに留学した。中国僧(例えば竺仙梵遷)も日本語を解し、また日本僧も中国語を話した。京都では従来の仏教の力が強く禅はストレートには入ってこなかったが、鎌倉へはかなり大量に入っていった。そして東国の武士たちはこれに強く影響されるのである。その一つの象徴が、禅宗風の遺偈を詠んで死ぬ人が多くなったことである。禅は日本人の新たな死のスタイルをさえもたらした。
禅と連歌にも関連がある…と著者はいうが、具体的にはっきりとはわからない。一瞬の勝負の連続という連歌の性質が禅と通じるところがある、ということのようだ。連歌は鎌倉でも流行した。
鎌倉で生まれた早歌(そうか)は、「日本の歌謡史上革命的な歌謡(p.214)」である。それまでの歌では母音を長く伸ばして詠唱していたのを、八拍子のリズムをとって一字一音で歌いこんでいくのが早歌である。これを演劇に取り込んでいったのが観阿弥であり世阿弥で、「早歌というベースがなければ能の謡も可能にならなかったというくらいの大きな革命(p.218)」である。ただし禅とのかかわりは不明である。
鎌倉では、闘犬と田楽が流行したのも注目される。田楽とはアクロバチックな身体芸である。また、闘犬については『太平記』では鎌倉の町に4、5千匹も犬がいたとされ、それは誇張としても、かなり多くの犬が飼われ、しかもそこには「錦を着たる奇犬」がいたというのだから面白い。この時代、早いスピードで行われる、派手な芸能が人気となっていったということだ。こういう趨勢がバサラ文化を生む。
禅といえば幽玄とか侘び寂びと思いがちだが、「禅は感覚的なレベルでも精神的なレベルでも、バサラのきらびやかでエキセントリックな、日本文化全体からすると異質な文化と思われている文化を支えていた可能性がある(p.225)」。
著者はこのように指摘するものの、禅と日本文化のかかわりについては、先述のように試論的であることを差し引いても、明快さに欠け、一面的であるように感じた。例えば茶については法華宗が大きな存在感があったし、芸能では阿弥衆のことは看過できない。禅が日本文化にインターナショナルな新しい要素をもたらしたことを強調するあまり、それ以外の要素が過度に捨象されているように感じた。
本書は全体として、講義の文字起こしであるため大変読みやすい。しかしそれだけに、記述はあまり論理的でない。、特に「天皇」と「禅」については話があっちにいったりこっちに行ったりしており、「結局どういうことだったんだろう」とわからなくなった。
ただ、そうはいってもいろいろ面白いことが述べられていて、特に芸能における法勝寺の重要性については蒙を啓かされた思いである。平安京遷都以降、国家仏教に懲りていたのか、天皇家は仏教と一定の距離を置いていたが、白河天皇はこの政策を転換し、巨大寺院を建立して六勝寺の先駆けとなった。これにより、天皇―寺院―一般民衆というクロスオーバーな場ができたのではというのが本書の面白い視点で、もしかしたら賤民が皇子を始祖として仰いだり、賤民的芸能民が朝廷とつながったりすることの淵源はこのあたりにあったのかもしれないと思った。
論理的一貫性はいまいちだが、読みやすく刺激的な講義録。
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