2024年7月2日火曜日

『橙書店にて』田尻 久子 著

橙(だいだい)書店を訪れるお客さんを描いたエッセイ。

私自身は行ったことがないが、熊本の街中に、橙書店という本屋兼喫茶店がある。ここは、故渡辺京二さんが主筆(みたいな立場)だった『アルテリ』という雑誌の編集室であり、各種の文化的な催しが行われるなど、熊本の文化の拠点のような書店である。

【参考】橙書店
https://zakkacafe-orange.com/

橙書店は、個人経営の小さな書店である。それが、どうして熊本の文化の拠点になったのだろうか。私はそれが知りたくて本書を手に取った。

しかし、本書は橙書店そのもののことは意外と書いていない。店主であり著者である田尻さんのプライベートなことや、経営についての考えなどもほとんど全くと言っていいほど書いていない。というのは、本書(の原著である晶文社版)は、編集者から「お客さんのことを書いてください」と言われて制作されたものだからだ。お客さんの話題以外があまり書いていないのはしょうがない。

しかし、私は橙書店そのものに興味がある。というわけで、本書に書いていないことに注意して、橙書店がなぜ文化の拠点となりえたのか考えてみたい。だが予め断っておくと、書いていない内容について読み解くのは本の読み方としては邪道である。当然ながら、本は書いてあることを味わうのが一番だ。

第1に、本書にはお金の話がほとんど出てこない。自営業者がエッセイを書くと、別に書きたくなくてもお金の話が出てくるものだ。お客さんのことがテーマであるにしても。だが本書で唯一あった金の話は、移転前の橙書店の家賃はかなり高くて支払いに苦労した、ということのみだった。

第2に、本書には「本が売れない」という話が全く出てこない。全国的に、本屋の経営は厳しく、本が売れないという話題には事欠かない。にもかかわらず、本書では本が売れた話しか出てこないのだ。橙書店では本がドンドン売れているということだろうか。もしかしたらそうなのかもしれない。しかしそうではない可能性の方が高い。

第3に、本書には社会や政治や世の中の風潮に対する非難がましい言葉が全く出てこない。橙書店は弱者に寄り添った選書がされているらしい(お客さんの一人が言っている)。水俣病患者とか、震災被害者とか、戦災者といったものに着目した本が選ばれているんだとか。著者の政治的志向といったことは本書に全く述べられていないが、現今の日本政府に不満がないわけがない。また、文化事業に取り組んでいる人はみな、「文化関係の予算が少ない」とか、「メディアが権力者寄りすぎる」とか、「みんなスマホばかり見ている」といった社会全般に対する不満やボヤキを抱いている。しかし、本書にはそうした不満やボヤキは一切ないのだ。もしかしたら、こうした記述は削除する編集方針だったのかもしれない。だが私には、著者が意図的にこうした言説を避けているように思われた。

第4に、本書にはお客さんへの感謝の言葉がない。これは一番意外だった。普通、店主がこういうエッセイを書くと、ことあるごとに「当店はお客様に恵まれて」とか「続けられたのもお客様のおかげ」といった文章を書いてしまう。ところが本書には一切これがない。上記1~3については、テーマがお客さんだから書かれていないのだろう、とも受け取れるが、これについては明らかに著者の人となりに基づいている。

では、著者はお客さんに感謝していないのか。これは本書を読むと明らかだが、著者は「店主」と「客」という枠組を全く意識していない(あるいは意識的に排除している)。要するに、「客」を「客」として見ていない。「店主は不愛想だ」といって憚らないのも、営業スマイルをしないからだと受け取れる。店主は、お客をあくまでも固有の名前(多くの場合それはあだ名)を持つ人として認識し、初対面でこそ「客」かもしれないが、すぐに それは「仲間」に変わってしまう。本書は「お客さんのことを書いてください」と言われて執筆されたものだが、実際には「客」ではなく「仲間」のことを書いている。だからわざわざ感謝の言葉など出てこないのである。

それが傍証されるのが、店主は年間300日は差し入れをもらう、という記述である。確かに店をしていると、意外なほど差し入れをもらう。しかし年間300日は異常だ。これは、お客さんの方も店主を「店主」としてではなく、「仲間」として認識している証である。

つまり、橙書店では「店主」と「客」ではない、「仲間」同士のサークルが形成されている。文化的な活動に不可欠なのが、この「サークル」なのだ。いかに見識の高い「文化人」が一人いたところで、文化は生まれない。文化の成長に必要なのは、日常に飽き足らない想いを抱いている人たちで構成されたサークルだ。橙書店には、それがある。

では、どうして橙書店にはそういうサークルが形成されたのだろうか。一番知りたい、この部分が本書ではわからない。店主田尻さんの人柄によるのはもちろんで、その分け隔てなさや面倒見の良さが効いていることは想像に難くないが、それだけでは説明が困難だ。

というわけで、ここからは完全に邪推の領域になるが、ちょっと思ったことを書いてみたい。

さて、先述の通り、本書には、いかにも書いてありそうなことが書いていないという不思議な特徴がある。だいたい、こういう書店の店主というのは変わり者であるのが定番なのに、変わり者を彷彿とさせる記述がほとんどないのも考えてみれば不思議だ。唯一それを感じたのは、喫茶店兼雑貨屋をやっていて、隣の空き物件で本屋をやったら面白いと考え、衝動的に物件を借りるところくらいである(その後、移転して現在の店舗になる)。スタッフにも一言も相談がなかったそうだから、これはなかなか変わっている。だがそれくらいなのだ。著者の変わり者エピソードは。

これらから示唆されるものは何か? それは、本書が極めて抑制的に書かれたということではないだろうか。つまり、自然体で書いたのではなく、何を書くべきで何を書くべきでないのか、著者は注意深く取捨選択しているのである。であれば、著者が「世間」というものに全幅の信頼を置かず、「確実に理解されるものだけ書いておこう」という慎重な姿勢で本書を執筆したということになる。

仮にそうだとして、「仲間」たちとの間でもそのような態度であるかはわからない。たぶん違うのだろう。だが本書から受ける印象では、著者は「仲間」たちとの間でさえ、いわば「名物店主」として自由気ままに放談している印象はない。大勢の「仲間」に囲まれ、刺激的な企画の渦中にありながらも、著者の心の奥底には「本当の私をわかってくれる人はいない」というような、そこはかとない孤独感があるように感じられる。

まさにその、そこはかとない孤独感こそが、人を引き付ける魅力になっている、ということなのかもしれない。なにしろ、文化の成長に必要なのはサークルであるが、そこに内心の孤独感がなければ、ただ騒いで終わりなだけの集まりになってしまうからである。

著者に物を書くのを勧めたのは渡辺京二さんだという。思ったことを何でもペラペラしゃべってしまう人に、渡辺京二さんが物を書くように勧めるとは思えない。そして、物を書くことは孤独を癒す。世界のどこかに、自分をわかってくれる人がいるかもしれないのだから。

読書メモなのに、内容を離れてずいぶん勝手な妄想を繰り広げてしまった。実際には全然違っていたらすみません。

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