2024年6月30日日曜日

『底にタッチするまでが私の時間—よりぬきベルク通信1号から150号まで』木村 衣有子 編

新宿のカフェのフリーペーパーの選り抜き本。

新宿駅の地下に「BEER & CAFE BERG(ベルク)」というカフェ・バーがある。すごい人通りの中に、まるで岩礁のように存在している店である。このカフェには、『BERG通信』という一枚ものの毎月発行されるフリーペーパーがあるのだが、本書はこれの1号〜150号までの記事を編者が選り抜いたものである。

そこに掲載されているのは、ホンの一言の名言風なものから、見開きに改行のない文章がビッチリ詰まった記事までいろいろだが、だいたいはビッチリな記事である。

内容は、本書の前半は告知が多く、後半はエッセイ風なものが多い。どっちが面白いかというと、断然「告知」の方だ。何を告知しているかというと、例えば「ホットドッグのパンが変わりました」というようなものだ。

なんでそんなことをわざわざ告知しているのか。それは、ベルクが、味にこだわりがある店だからだ。そのパンは、東京中を探し回ってようやく見つけたものなのだ(美味しいパン屋は数あれど、卸してくれる店は少ない)。といっても、ベルクのコーヒーは一杯200円(+税)。ホットドッグは300〜400円くらい。ドトールといい勝負だ。それでも、ベルクは、提供する側が納得するものしか出したくないタイプの店なのだ。とはいえ、ベルクは一日に1200人もお客さんが来る、しかも狭っ苦しい店。だから、店側が「これこれこういう事情でパンを変えたんですよ」なんてことを、いちいちお客と話すような店ではない。だから、「BERG通信」に告知文が掲載されるのである。

これが、ただのお知らせといえばお知らせなのだが、なんというか、痛快なのだ。大企業のコマーシャルが、ただ印象を伝えるだけの空疎なものであるのとは違って、そこには、なぜこれを提供したいのか、という明確な意志と理由が書かれている。そして、今のSNSに溢れているような、キラキラ、前向き、耳障りのよいコトバとは全然違う、等身大の言葉で書かれている。それは、いわば「分かってくれる人にだけ分かればいい」というタイプの自分語り風なものとも違って、「ちゃんと伝えたい」という雰囲気が濃厚なのだ。それなのに真面目一辺倒ではなく、「遊び」がたっぷりなのだ。こんな健全な文章は、今の時代、なかなかお目にかかれるものではない。

その健全さを支えているのは、おそらくは、ベルクが完全に資本主義の中にいるからだ、と私は思う。

生き馬の目を抜く都会の競争の中で、ベルクは生き残っている店だ。それは、結局はBERGが資本主義のルールに則って勝負しているからだ。コーヒー一杯200円で、美味しいホットドッグを格安で提供できるのは、お客さんが1日に1200人来るからで、それを支えるサプライチェーンと店員のシフト体制と、経営があるからだ。その上で、お客さんに伝えたいことを書いているから、『BERG通信』には切実さがあるのだ。

世の中で話題になる多くの(小さな)店が、資本主義を懐疑的に見て、「大手とは違った枠組みで価値を提供したい」と思っている(時には、資本主義的な成功を見下している)のに対し、ベルクは大手と同じ土俵で勝負しようとしている。『BERG通信』の記事が単なる「店員のたわごと」にならない健全さがあるのは、たぶんそのおかげだ。

特に印象深かったのは「(お店は)お客様と業者さんとスタッフの共同創作みたいな所もある」という一節だ。ベルクの客は多く回転も速い。常連さんも多いが、店主と長々と話すような店ではない。それでも、価値を分かってくれるお客さんのことは、店はちゃんと分かっている。だからこういう言葉が出るのだろう。そして、そのお客さんに対して説明したいから、『BERG通信』が書かれている。店が客・業者・スタッフの共同創作なら、その紐帯を為しているのがこの『BERG通信』だといわねばならない。

東京には、グルメが山ほどいる。世界一いるのではないだろうか。だから、美味いものを提供しさえすれば、それを分かる客はいるだろう。だが、ベルクは「分かるやつだけ分かればいい」という斜に構えた態度はとらない。ベルクは、店の努力をちゃんとわかってもらいたいと思っている。ある意味、泥臭いのが『BERG通信』の魅力である。

これは、東京の一角の小さな店のフリーペーパーに掲載された、いわばチラシの文章を集めたものだが、小さな商売をやっている人間にはものすごく面白い(私も、田舎で小さなブックカフェを経営している)。 商売をしている以上、資本主義の仕組みからは逃れられないからだ。真っ向から資本主義に対決を挑み、大手とは違った戦い方をしているベルクという店は、応援せずにはいられない。

なお私は、大学進学で1990年代に上京しており、実はベルクにも数回行ったことがある。そこで食べたレバーペーストの美味しさは忘れられない。本書に掲載されている記事は、ちょうど私が東京にいた時代ものだったから、なおのこと面白く感じた。

ちなみに、本書はいわゆるインディー出版社から発行されているもので、ISBN番号もない。Amazonでも売っていないようだ。こういう本も、また侮れないものである。

★ベルクのオフィシャルショップで売っています。
https://berg.official.ec/items/54687433

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