2024年6月13日木曜日

『江戸のコレラ騒動』高橋 敏 著

江戸時代の人々が、コレラにどう対処したか、特に神仏関係に注目してまとめた本。

幕末、日本には海外からもたらされたコレラが流行した。コレラは致死率が高く、治療法もなく、感染後から死亡までの時間も極めて短い恐ろしい病であった。当時は感染という現象自体が理解されていなかったから、まさに手の施しようがない災厄であった。人々ができたのは、神仏にすがることくらいだったのである。

本書は、人々がどう神仏にすがったのかを静岡県のいくつかの事例から描き、また江戸で人々がコレラを笑い飛ばした様子を述べている。なお幕末にコレラは何度か流行しているが、特に安政5年(1858)の流行(第3次パンデミー)では死者が多く、本書でもこの流行の事例が中心である。

1.桑原村の場合

東海道三島宿に近い、豆州田方郡桑原村では、弘化4年(1847)の善光寺大地震を受け、70両以上をかけて薬師堂の諸尊を彩色している。これが大地震への対応であったかはともかく、何らかの危機感の表れであると思われる。その後、地震や津波が相次ぎ、安政4年(1857)には「南無阿弥陀仏」の唯念名号碑が建立された。

そんな中、翌安政5年にコレラが流行する。周辺の三島宿では600人が死亡している。7月6日に将軍家定が死去したため(これはコレラではない)、鳴り物は禁止されていたが、村では鉄炮や鉦太鼓を打ち鳴らし、裸で氏神へ参詣し、老人は昼夜念仏を唱えた。しかしそれでも効果はないように見えた。

ところで、コレラは「アメリカ狐」として表象されていた。実際、コレラをもたらしたのは異人であり、コレラには「異」のイメージが付随されていた。そして病人が魘されている様子は狐憑きのように受け取られ、コレラが「アメリカ狐」となったのだ。鉄炮が打ち鳴らされたのも、狐除けの意味だろう。

2.大宮町の場合

浅間神社の門前町であった富士郡大宮町では、コレラの流行を受け、医師や代官がまずは対応を考えた。そこでは一世紀も前の処方箋(黒豆とか桑の葉、茗荷の根)を持ち出している。未知の感染症に対して「効きそうなことをとりあえずやってみる」という態度だ。さらに韮山代官(有名な江川英龍)の侍医は各種の薬草を集めるように指示している。しかしそれらの薬草はなかなか身近では集められないものばかりのように見受けられる。

一方、人々は、「廻り題目、送り神、大日如来・曼荼羅の御開帳、昼夜の鉄砲撃ち放し、道祖神祭、正月行事のやり直し等(p.71)」ありとあらゆる除災儀礼をおこなった。そんな中、コレラは「くだ狐」と受け取られ、狐に憑かれてうわごとを言ったものも出現した。この時、下田には異人・異国船が来ており、外来の脅威とコレラとが結びついて「千年モグラ」という異獣がコレラを広めているとされたりもした。

村では、これに対抗するためには、秩父三峯山(みつみねさん)の生(しょう)の御犬(=生きている犬)を借りてくる以外ないと相談がまとまった。その頃、コレラの脅威を逃れるために三峯山の御犬を求めて人々が殺到しており、本物の犬を借りられるどころではなく、そのカゲの御札(御幣)しか手に入れることはできなかった。御札でも禁忌や儀礼はやかましく設置にも手間がかかった。しかしその御札の効果は疑わしいものだったようだ。

3.下香貫村の場合

駿東郡下香貫村では、コレラに対抗するために吉田神社を勧請した。下香貫村でも地震や稲の不作で動揺していた折のコレラ来襲であった。ただし下香貫村では、近々の村や三島宿から恐ろしい話が聞こえてくるだけで、村自体では流行していない。だが村ではコレラ防御のためとして「吉田太元宮」を勧請しようと話がまとまるのである。

これは、近隣の村々でコレラ除けのお祭り騒ぎや神仏への祈願、牛頭天王信仰の中心社津島大社への参詣などが盛んに行われているにもかかわらず、その効果が一向に見られないことから考えられたものだろう。それらの地域的な神仏を超える、超越的な存在として吉田神社が認識されているのである。

村の代表者が京都へ行き、吉田神社の取次役に勧請を申し出ると、彼は事務的に金7両2分が必要だと言い放った。下香貫村が立てていた予算の実に30倍もの大金である。「吉田神社の対応は、コレラの厄災につけ込んだ祈祷料の略取(p.103)」に他ならなかった。彼らはやむなく金を払うと、「小箱」をいただいて帰路に就いた。道中、吉田神社勧請の小箱が通るという噂が流れ、群衆が拝ませてほしいと殺到しているのが興味深い。

帰村すると、見晴らしのよい地を社地と定めて社殿を建築して小箱を祀った。コレラに怯え念仏と題目ばかり聞こえていた村は「一転して一度に陽気が戻って蘇生の思いをなした(p.108)」。

4.深良村の場合

深良村は、箱根用水の駿河側出水門の村である。ここでもコレラに怯え、「家の門口に梶の葉、とうがらし、茗荷の白根、赤紙、線香、火縄を置くなど魔除けの呪術(p.112)」が総動員されたが安心はできない。そこで下香貫村と同様、「京都吉田様」を勧請する他ないと定まった。下香貫村とは違い、こちらではずいぶん下調べがついていたようで、深良村では費用もちゃんと定価を準備し、しかも飛脚便に代参の代行を託している。

彼らは2箇所に吉田神社の御鎮札を祠を建てて交互に祀り、かかった費用は30両以上だった。これはかなりの大金だと言わねばならない。

下香貫村と深良村の場合を見ると、吉田神社は殿様商売をしているようだが、実はそうでもなかった。というのは、この頃、吉田神社は挽回のために江戸に出張所を設け、東国・関八州への勢力拡大を図っていたからである。逆に、実はコレラと吉田神社への祈祷等の依頼とは相関関係がない。要するに、吉田神社のセールスが浸透しつつあった状態でコレラの流行があり、だったらコレラ対応として吉田神社を勧請してはどうか…という方向になったようだ。

なお、ここで本書では、吉田神社から神職としての官位をもらう事例を紹介している。この時、韮山代官の添え状が必要だというのが極めて興味深い。官位だからだろう。そして官位受領のために吉田神社に払ったお金だけでも63両。これに状況の交通費や宿泊費、装束のお金などをあわせると86両以上(銀と銭もある)となり、莫大なお金であった。吉田神社が殿様商売をしているように見えるのは、コレラ対応よりも神主の官位の方がビジネスの中心だったからに他ならない。

5.御宿村の場合

御宿(みしゅく)村は、深良村の近くである。御宿村では、村の豪農のリーダーシップでコレラ対策として三峯山の御犬を拝借した。拝借したのは御眷属6疋と大小のお札である。これが総額2両1朱と800文である。なお、この「御眷属6疋」は、生きている犬なのか、山犬(狼)なのか、何なのかよくわからない。

6.下田の場合

異国船が来た伊豆下田では、コレラの流行を受けて8月7日に騒ぎが起こった。下田の境が全て封じられて、禦ぎの儀礼が行われ、神主が祈祷を二夜三日続行した。そして14日になると町中が狂乱状態になる。若者は裸になって神社に参詣、鉄炮を打ち鳴らした。15日には、コレラの原因とされた狐の捜索活動が行われた。野狐を一匹撃ち殺したが、これは普通の狐のようだった。これらの動きの中心となったのは若者で、彼らは「異」のイメージを怖れていた。数々の流言が飛び交い、それは「洋夷の日本侵略の幻想となって帰結(p.154)」した。

7.江戸の場合

当時の江戸は、人口110〜120万人の世界最大の都市である(武家・僧侶・神官の数が正確に分からない)。そこに安政の大地震が襲い、そしてコレラが流行した。特に町人の人口密度は高かったので、コレラで大変な被害が出た。

このことは仮名垣魯文が金屯道人の名で書いた「頃痢記」で記録されている。それによれば、葬礼の棺は道々に溢れ、葬儀も火葬も間に合わないほどであった。人々はそれが「狐憑き」によるものだと考えたり、コレラ除けの呪術に頼ったりした。代表的なのは、八ツ手の木の葉(やくよけ)、みもすそ川の歌(まよけ)、にんにくの黒やき(ゑきよけ)の3つである。

このうち「みもすそ川の歌」とは、伊勢の五十鈴川で倭姫命が御裳(みも)を洗い清めたという故事に因んだもので「いかで我は みもすそ川の流くむ たれにたよらん ゑきれい(疫癘)のかみ」という歌である。これを門戸や軒先に貼るのだ。

「宿札(しゅくさつ)」も面白い。「仁賀保金七郎御宿」などと書いた札を門戸や軒先に貼るのである。これは、「ここは仁賀保金七郎が泊まっているからコレラさんはお引き取りください」という意味だ。仁賀保金七郎とは有名な狐憑きらしく江戸では疫病よけの人物として知られていたようだ。本書では他に4人の名前が挙げられている。

ところで、公儀はこれにどう対応したか。驚いたことに、幕府法令においてもコレラ関係はわずか2件しか収録されておらず、幕末の動乱の中で幕府はコレラにまで手が回っていなかったことが明白である。とはいえ幕府が何もしなかったわけではない。幕府は、まず8月は一日ごとの死亡者数を調査・公表した。死者があまりに膨大に喧伝されたため、実数を知らせたのである。また、9月には御救米(おすくいまい)を配布した。対象者は町方人口の約半数にも上った。

このような状態にあった江戸では、コレラに震え上がって萎縮した…と思いきや、奇妙なことに「笑いと洒落で沸いて(p.215)」いた。コレラをネタに、あらゆる言葉遊びが動員された。例えば「流行三幅対」は脚韻を踏んだ3つを並べる遊び。 「いそがし 穴ほりの寺男/うとし 遠くの親類/ひまなし おんぼう(←火葬人)」といった具合。

「いそがしいねへ・ひまだねへ番付」はコレラ流行で忙しくなった人と暇になった人のランキング(?)。「いそがしいねへ」の「大利(大儲け)」は「火葬三昧場」で「潤益」が「早桶屋職人」などなど。「ひまだねへ」の「大息」は「水道の水汲み」(←江戸には上水道が巡らされており、それを利用した水汲み(水の販売)があった)、「二八」は「夜蕎麦商人」などなど。感染の正確な概念はなかったはずだが、疫病の流行で飲食関係が敬遠されるのは江戸時代でも同じであった。

「ないづくし、ある物尽し」は、コレラ流行でなくなったもの、溢れたものを並べるもの。ないものは「やまいの流行 止めがない/ひとときコロリであっけがない/とむらい昼夜とぎれがない…」。あるものは「かどぐち木の葉が下げてある/まじないおふだが貼ってある/ほどこし薬をたすもある/きつねの噂が所々にある…」などなど。

「厄除狂歌集」は、戯れ歌でコレラを送ってやれとの趣向。「職人の手間は下れど  芸人と 米の相場は いよ上がったり」、「借金を しゃばへ残して おきざりや 冥土の旅へ ころりかけおち」。もはや「死んだ者勝ち」である。

 三十六歌仙の名歌をパロディにしてコレラを笑い飛ばす歌も作られた。「てんぢ天わう(天智天皇) あきれたよ 鍼や 薬のまもあらで ただころころと人は逝きつつ」これは勿論、百人一首にも採られている「秋の田の かりほのいほの苫を粗み わが衣手は 露に濡れつつ」のもじりである。こんな感じで、コレラでパニックになっているとは思えないほど、現実を笑い飛ばしているのである。現代だったら「不謹慎!」と炎上するところである。

面白いのは、それほど死者が出ていない駿河国の人々がコレラ除けに神仏にすがっている一方で、文字通り死者が町に溢れている江戸の人々は、それほど神仏にすがっていないことである。もちろん、江戸でも怪しげな呪術は盛んに行われた。「かどぐち木の葉が下げてある」のだから。御犬を借りた人たちも多かったかもしれない。だが多くの人々は、そういうことをしながらも、それらを「気休め」としか思っていなかった節がある。現実にそれらに一切の効き目がないことを見ていたからだろう。

そして、江戸がそのような災厄の最中にある中、公儀が何の役にも立たないことが露呈した。もちろん江戸時代は、民主的な今の世の中とは違い、政府(公儀)は人民のために存在していたのではない。それでも、御救米を支給したことは、政府は仁政を施さねばならないという観念があったことを示唆している。医者はもちろん、以前からの神仏は全く頼りにならず、もちろん公儀も頼りもならない。なすすべなく、人はコロコロと死んでいく。このような状況で、人々はどんな感覚になったのだろうか。コレラを狂歌で笑い飛ばしながらも、そこにはある種の「思想的転換」があったような気がしてならない。

なお本書は、2005年に出版されたものが、新型コロナの流行を受けて2020年に文庫化して復刊したものである。本書に描かれる事例は、ある意味で馬鹿馬鹿しいものばかりだが、令和の世の中でも、コロナ禍で馬鹿馬鹿しいことがたくさん行われたのを見ると、いつの世の中も人々のやっていることは変わらない、とつくづく思った。もちろんそれはいいことではないが、馬鹿馬鹿しいことをやりながらも、庶民は力強く生きているということも、今も昔も変わらないかもしれない。

安政のコレラ騒動を通じて、当時の人々のリアルな息吹を感じる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『博徒の幕末維新』高橋 敏 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/07/blog-post_10.html
幕末維新期における博徒の動向を追った本。幕末のアウトローを始めて学術的に取り上げた労作。

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