本書はなかなか変わった本である。幕末を生きた博徒、竹居安五郎、黒駒勝蔵、勢力富五郎、水野弥三郎といったほぼ無名の人物の動向をひたすらに追いつつ、まるで講談や任侠物のような調子で彼らを描いている。しかも、筆致は学術的であるにもかかわらず明確な学術的主張は見当たらない。著者は博徒の生き方に魅せられて、それを再現するために本書を書いたのかもしれない。
私自身は、幕末の治安と博徒の取り締まりに興味があって本書を手に取った。幕末は非常に治安が悪くなった時期であるとともに、人の移動が激しくなった時期でもある。それまでは関所で通行手形を確認していたのが、幕末はその枠組みがあまり働いていない形跡がある。博徒はいろんなところに移動していたのだが、どういった取り締まりを受けていたのか知りたくなったのである。
本書には「無宿」がたくさん出てくる。竹居安五郎も無宿だ(=竹居村無宿安五郎)。無宿とは人別帳から除外された人のことで、今風に言えば無戸籍者ということになるが、人別帳から除外といっても「無宿」として登載されるので完全に無戸籍というわけでもない。彼らは何らかの罪を犯した罰として人別帳から除外された。
人別帳から除外されると、町人とか百姓とかの枠組みから外れ、まともな仕事に就くことができなくなる。そこで彼らは博徒(=今風に言えばヤクザ)となり、裏社会で生きることになったのである。江戸時代の法制はあまり更正のことを考えていなかったので、こういう仕組みで博徒が次々と生みだされることになった。特に19世紀に入ってからは無宿が多く生みだされ、流人になったものも増大した。
安五郎も、最初から無宿だったのではなく、竹居村の名門中村家の出であったが、新島(伊豆大島の南)に流された一人であった。「19世紀の世情、特に関東の世相は無宿者なくして語れな(p.127)」い。
ところで博徒は、どうやって生活の糧を稼いだのだろうか。それは当然博奕なのだが、博奕は巻き上げる対象がなくては仲間内で金が回るだけである。ではどこからお金が流れてきたのか。本書にはそういう体系的考察はないが、それを窺わせるのが韮山代官江川英龍の台場建設である。
黒船が来航すると、幕府は海防のための台場を沿岸に築造し、そこに据え付ける大砲を鋳造するための反射炉を建設することとした。これの責任者に抜擢されたのが、韮山代官の江川英龍である。この工事の実態が興味深い。台場築造では工事請負人が入札されているのだ。かつての幕府であれば、こうした大規模普請は諸藩にやらせるところである。ところが台場築造は、幕府直轄事業として、多額の予算を割いて実行したのである。
この工事には5000人ともいわれる多くの労働力が必要になったが、それをどうやって調達したか。実は、この人足の調達・動員に博徒が関わっていた。幕府・代官としても、納期内に工事を終わらせることが先決で、人足の出自などにこだわっている場合ではなかった。この工事に関わった博徒・間宮久八は莫大な金を稼いだという。
つまり博徒たちは、現代のヤクザがそうであるように、大規模開発工事にともなう浮動労働力の差配によって金をもうけていたのである。こうした工事は終わってしまえば労働力はお払い箱になるから、長期雇用はできない。その場限りの仕事に動員をかけるのが、博徒の「本業」のひとつであった。
であるから、博徒の親分、例えば竹居安五郎は、ただの荒くれものではなく、強力なリーダーシップを持つ切れ者であった。彼の実兄中村甚五郎も、争論の絶えない村をまとめる実力者(名主)であり、無宿者の増加によって治安が悪くなってきた村で「郡中取締役」に任命されて治安警察権を代行してさえいた。しかしその裏の顔は博徒の巨魁であり、大親分として君臨していた。今でいえば警察とヤクザが裏で癒着していたようなものである。
ところで、幕末には水滸伝が流行する。それも中国の水滸伝をモデルにつくられた日本版の水滸伝である。その背景には、無宿者、博徒、侠客の躍動があった。本書には、関東を荒らしまわった博徒の親方・勢力富五郎を関東取締役が捕らえるための大規模な捜索と抗争が描かれているが、これを「嘉永水滸伝」と呼ぶ。彼らは関東一円を移動しているが、関所などはどのようにしていたのだろうか。むしろ、「支配」によって管轄が分断された体制こそが、彼らが活躍する土台であったのかもしれない。
もちろん、ヤクザと同じく博徒同士も抗争した。「嘉永水滸伝」の第二幕は、博徒間の大喧嘩である。台場築造に活躍した間宮久八は、この抗争の主役の一人であった。彼の敵対勢力である無宿幸次郎らは幕府に処分され処刑されたが、なぜか久八はおとがめなしで後に台場に関わるのである。彼らは、殺す、奪う、盗む、脅かすは当たり前の犯罪まみれの集団であったのに、おとがめなしで幕府の工事に携わったのはどういうわけか。やはり、裏では幕府とアウトローとの共存関係があったと考えざるを得ないのである。
幕末が差し迫ってくると、博徒たちは尊攘運動にも関わるようになる。竹居安五郎の弟分だったのが黒駒勝蔵で、彼は安五郎亡き後に博徒たちのリーダーになった。彼も生家は名主を勤める小池家の次男であり、いわば中間層の出身。彼は尊攘運動にかかわるようになり、指名手配されていたにもかかわらず、2年も経たないうちに官軍先鋒の赤報隊に参加していた(正式な隊員ではない)。
勝蔵の盟友で、やはり博徒の巨魁だったのが水野弥三郎。彼も医師の子に生まれた中間層で、博徒となって大親分にのし上がった。彼は新選組の裏方を務め、赤報隊にもかかわった。彼は博徒ではなく、草莽の勤王のつもりであった。しかし赤報隊は「偽官軍」扱いされ、弥三郎が村々をめぐって請書までとった「年貢半減令」は新政府にとって迷惑な存在になってしまう。弥三郎は「勤王の志これある趣相聞き」と、まるで褒美でもくれるような調子で東山道鎮撫惣督府執事から呼び出され、不意打ちで斬罪梟首の判決を受けた。彼は、新政府のために走り回った自分をだまし討ちする処罰に絶望して自死した。
また黒駒勝蔵も明治4年に、微罪(赤報隊からの脱退)を問われて捕らえられ斬罪に処された。博徒たちを裏で動員していたことが新政府にとって都合が悪く、彼らは歴史から消されたのかもしれない。
幕末のアウトローを始めて学術的に取り上げた労作。
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