2023年7月5日水曜日

『徳川幕閣—武功派と官僚派の抗争』藤野 保 著

徳川幕府の草創期を、幕閣から読む本。

私は、老中、若年寄、奉行…といったような徳川幕府の統治機構が、幕末にどう崩壊していくのかに興味を持ち、そもそも幕府の機構とはどのようなものだったのかを知りたくて本書を手に取った。

だが、本書の中心は統治機構そのものというよりは、それらを担った人びとの権力闘争である。なにより、徳川幕府の草創期においては、制度があって人が任用されたのではなく、まず人があってそこに制度を作っていった。

では、その「人」はどう選抜されたか。まずは三河以来の譜代は最も重用された。秀吉から関東に転封させられた際も、有力な家臣を万石以上に封じて江戸の守りを固めているが、この際も三河譜代が優位を占めている。それら家臣団はやがて大名(万石以上)と旗本(万石以下)に分かれていった。この際に重要なことは、家康は転封を契機として、在地性の強かった家臣団と土地との結びつきを断ち切り、近世的な家臣団に編成したということである。

近世の封建制度が、中世のそれと大きく異なることは、家臣団編成という面から見れば、石高制という全国統一的な生産力・軍事力の指標があったことと、もう一つは土地との繋がりが断ちきられているということであったかもしれない。土地よりも、家康という主君に尽くすことが家臣団の存立基盤となったのだった(中世では主君はコロコロ変わる)。また家康の直系一門も幕府を支える有力基盤であった。彼らは家康から土地を与えられた、という意味では封建制であるが、それは土地というより一種の分権であって、土地は観念化されていたと見なせるかもしれない(本書にはそうは書いていないが)。

また関ヶ原の戦後処理において、豊臣系の外様大名に対しては大々的な改易・転封が行われた。没収総高は93名の632万4194石に上る。逆に40名の上級家臣を独立した大名に取り立て(譜代大名第一群)、万石以下の譜代家臣20名を追って大名に取り立てた(譜代大名第二群)。こうして慶長7年までに68名の徳川一門=親藩・譜代大名が作り出された。

慶長8年(1603)に家康は将軍になるが、この際に後陽成天皇から与えられた役職の全部は、「右大臣・征夷大将軍・源氏長者・淳和奨学両院別当」であった。源氏の棟梁としては前例に則ったものだろうが、「淳和奨学両院別当」まで律儀に(?)任じられていることが興味深い。

家康は将軍の地位にあることたった2年で秀忠に将軍職を譲る。これは下剋上の時代を終わらせ、徳川家の永久政権を天下に宣言するためであった。そのため家康は正嫡の区別を厳密にし、血の理論によって権力を継承する準備をしていた。こうして、駿府の家康と江戸の秀忠という二元政治が開始された。この二元政治は表面上は破綻しなかったが、幕閣の権力構造は複雑になった。なお家康は、譜代の家臣の他に、僧侶・学者・豪商・外国人(ウィリアム・アダムスなど)といった多様な家臣をブレーンにしていた。

こうした中でどのような権力闘争が展開されたかといえば、それは武功によって昇進したものたちと、官僚的な統治能力で抜擢されたものたちの争いであった(本書では武功派・吏僚派と表記)。当然ながら、太平の世においては武功はあまり意味をなさなかったので、武功派は徐々に排除されることになった。例えば武功派の重鎮・大久保忠隣(ただちか)は吏僚派の本多正信によって失脚させられ、改易させられた。

家康が亡くなり秀忠へ権力が移ると、幕政の中心は酒井忠世と土井利勝となった。 そして秀忠は、強力な大名統制を開始する。弟の松平忠輝の改易を皮切りに、41名の大名を改易した。さらに大名転封も強力に推し進めた。外様大名の転封は秀忠時代が最も多い。改易や転封が統制策として多用される点に、草創期の近世幕藩権力が中世のそれと大きく違うことが感じられる。また秀忠は、家康時代に重用された豪商グループを遠ざけ、譜代勢力による側近政治が行われるようになった。こうして、小姓組番頭(将軍の親衛隊長)→譜代大名→老職(後の老中)というルールが成立していった。

家光が将軍になると、酒井忠世と土井利勝は引き続き要職に留まったが、小姓として9歳から近習した松平信綱、阿部忠秋、三浦正次、13歳からの堀田正盛という幼なじみグループが側近となった。生まれながらの将軍家光は秀忠以上に大名を統制、外様大名の優遇を辞め、一門・譜代にも強権をもって臨み、49名の大名を改易した。なお、外様大名の転封が寛永年代を境に著しく減少したのは興味深い。一方、東海・畿内の譜代大名の転封・改易はさかんに行われていった。この結果、33名もの一門・譜代大名が取り立てられている。

幕閣機構については、大老・老中・若年寄といった組織が家光時代に確立し、幕閣の首脳は江戸周辺の譜代藩領に集中的に配置された。この時代は、転封が一種の人事異動のような役割になっていたようである。

ところで寛永10年、家康からのブレーン・金地院崇伝が死ぬと、寺社行政が幕閣へとうつることとなり、寛永12年に譜代大名の安藤重長、松平勝隆、堀利重の3名が寺社奉行に任命された。最初から3名任命されているのが興味深い。他、町奉行、勘定奉行が(それまであった制度を整える形で)家光の時代に整備され、三奉行の制度が確立した。さらに代官支配の仕組みについても、幕府の直轄領に統一した法令を発布し、人別帳を作成させるなど実態の把握に努め、奉行から五人組に至る一貫した支配系列が成立した。なお寛永19年(1642)の「土民仕置覚」や翌20年の「郷村御触」などこの時期に百姓支配の諸法令が立て続けに出たのは、寛永19年の大飢饉によるもので、百姓を土地に縛り付け、(農業ではない)商品作りなどを禁じて農業のみに専念させる政策が行われたためである。

また寛永年代には、徐々に貿易統制が強化され、寛永10年の第一次鎖国令(奉書船以外の日本船の海外渡航、海外在留日本人の帰国を禁じた)を皮切りに、 寛永13年の第四次鎖国令(ポルトガル人の子孫および混血児の追放、文通の禁止)によって鎖国体制に入っていった。島原の乱を経ての寛永16年には、第五次鎖国令(ポルトガル船の来貢を全面的に禁止)を発布し、鎖国体制が一応完成。こうして、貿易を担っていた豪商の力は弱まり、幕政への参与する機会もなくなった。それにより内政・外交の全てにわたって幕府権力は老中へと一本化された。

もうひとつ、寛永年代に整えられたのが参勤交代の制度。 寛永11年には譜代大名の妻子の江戸在住を定め、さらに武家諸法度の改訂によって、諸大名の自発的意志によって行われていた参勤を制度化した。またこの改訂で、幕府の軍役体系が整備された。これにより大名・旗本の石高ごとの保有兵力=家臣団数の最小規模が定められ、参勤交代も軍役の一つとして位置づけられた。参勤交代は西ヨーロッパの封建制には見られない幕藩体制独自の制度であった。

家光が48歳で病死すると、将軍は幼い家綱が継ぎ、保科正之が家綱の補佐(元老)となって、老中・若年寄たちの集団指導体制となった。しかし強い個性と指導力を持った家光の死去によって幕閣のパワーバランスが崩れた。そして、大名の改易・転封を強行してきた武断主義的な幕政への批判、旗本の困窮、牢人問題などが絡み合い、ようやくにして幕政は文治主義へと移行していくのである。その嚆矢となったのは、末期養子の制度の緩和であったが、続いて武家諸法度の改正によって、保科正之の主張により殉死が禁止され、追って大名証人制が廃止された(寛文の二大美事と呼ばれる)。

さらに寛文6年(1666)、旗本諸役人に対する役料の支給制度が創設される。それまで「幕府に対する旗本の勤務は、すべて知行・俸禄のあてがい(御恩)に対する奉公としておこなわれ、それが封建的主従関係の基本をなすもの(p.207)」であったが、この改革によって幕府はいよいよ本格的に封建官僚制になっていった。

酒井忠清が大老になる頃には(はじめて大老の名称が使われた)、幕閣の構成が完成し、またそれを担う譜代大名も特定の家に固定されていった。大名改易・転封は著しく減少して領国が固定化し、寛文4年(1664)、「寛文朱印状」が諸大名に一斉に交付された。これに応じ諸大名も地方知行から俸禄制に切り替え、初期検地に匹敵する大規模な寛文・延宝検地を実施した。こうして幕府機構と諸大名、そして身分制秩序が固定化し、全体として幕藩権力機構が確立したのだった。

このような中、農村においては百姓が二極化し、小作人が生じるようになった。幕府は地主—小作関係を認め、小作農民を分付(ぶんづけ)の形で登録・把握した。これは地主制の基点となるものだった。また代官も基盤となる土地から遊離させられ、幕府の徴税官・農政官としての代官の地位に組み替えられた。このように、農村の封建制は中世のそれとは異なる原理により始めていることが注目される。

酒井忠清の手腕には見るべきものはなかったが、幕府権力の確立によって手中にした強権によって「下馬将軍」とあだなされた。これは外様大名の池田光政によって批判され、綱吉が将軍職を継ぐと、綱吉と側近の堀田正俊は忠清に「ゆるゆる養生せよ」と申し渡し、失脚させた。ここから再び幕閣構成は見直され、新しい段階に入っていくが、ここで本書は擱筆されている。

全体を通じて、私の知りたかった徳川幕府の統治機構の内実(例えば、各組織の根拠法、所掌、定員、役料、家格など)はあまり書いていなかったが、近世幕藩権力の特質を幕閣から描くという視点は面白く読んだ。特に、大名の改易・転封の多さは幕末ばかり学んでいる身としては驚いた。草創期の幕藩権力はあきらかに中世的な封建制からはみ出ており、寛永頃には中央集権的な国家権力が完成しているように思われる。だがそれが幼将軍家綱の下で揺り戻しされ、寛文頃に近世的な封建制として再編成されるのである。

徳川幕府における幕政を担った人びとの政争を通じ近世幕藩権力の確立を描く良書。

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