2024年6月17日月曜日

『応仁の乱−戦国時代を生んだ大乱』呉座 勇一 著

応仁の乱を詳述する本。

始めに告白すると、私は本書を5%も理解していない。私は室町から戦国期は詳しくなく、本書の理解に必要な知識があまりなかったというのが最大の原因だ。

しかしながら、私でなくても本書の理解は骨が折れると思う。というのは、本書の登場人物はおびだたしく、またアレがあってコレがあって、その背景にはコレがあって…という事件や事情、付随する情報も大量に盛り込まれている。本書の価値はまさにそこにあって、通史では概説で済まされる応仁の乱を、一つひとつ丁寧に繙いて(しかも大量の史料を動員して!)いったことが玄人には評価されたのだろう。ところが私のような素人の場合、そのためにこそ本書は理解しがたい。本書は40万部を超えるヒットとなったそうだが、これほど難解な本がたくさんの人に読まれたというのは驚きである。

私が本書を手に取った理由は、応仁の乱の頃の興福寺に興味があったためである。本書は、マメな日記を書いていた興福寺の僧二人の視点で応仁の乱を語るものだからだ。

その二人とは、 『経覚私要抄』を書いた経覚と、『大乗院寺社雑事記』を書いた尋尊。彼らは当然ながら奈良にいた。応仁の乱は京を舞台にした乱なので奈良は少し遠いが、奈良(大和国)の動向も応仁の乱には関係しており、火種の一つでもあった。

興福寺の二大門跡寺院である一乗院と大乗院の下には多くの僧侶がいたが、そのうち下級の僧侶を「衆徒」という。そしてその上方が「六方」、下方が「官符衆徒(かんぷのしゅと)」といい、特に「官符衆徒」たちは、興福寺の膨大な荘園の荘官として実務に携わっていた。彼らは頭を丸めているだけで、実質は武士と変わりなかった。 また、春日神社の神人の「国民(こくみん)」も、実質的には武士(他国の「国人」)と同じだった。びっくりすることに興福寺は事実上の大和国の守護として扱われていた。

そして一乗院と大乗院はライバル関係にあり、激しい抗争を繰り広げていた。両門跡は武力を持つ衆徒や国民を味方に付けようと、競って恩賞(=土地)を与えた。結果、興福寺の荘園が衆徒・国民の手中に落ち、門跡による荘園支配が形骸化した。

そして衆徒・国民も、いくつかの派閥に分かれた。そして大和国では、親幕府的な一乗院方の筒井氏と反幕府的な大乗院方の越智氏との対立が軸となって紛争が起こっていた。なお大和といえば南朝・後南朝であるが、基本的に興福寺は幕府よりの立場である。

大和の紛争は、いわば興福寺の内輪もめなので、幕府にとっては介入したいものではなかった。だが、山城国守護の畠山満家は利害を有していたから、紛争に介入することを勧めた。これに応じた将軍足利義教は、一転して強硬な軍事介入を決定した。

しかしこの軍事介入は火に油を注ぐことになり、むしろ紛争が激化。なお、この戦いの中で筒井氏の僧侶(六方)である成身院光宣は幕府から筒井氏の総領と認められた。一方、興福寺の門主だった経覚は義教と不和になり罷免された。

しかし義教が暗殺されると、義教に冷や飯を食わされていた者たちが次々に復権し(特に畠山持国)、その勢いに乗って経覚は越智氏の力を借りて無理矢理門主に返り咲いた。 これにより、経覚は親越智、反筒井になった。こうなると、経覚と成身院光宣は対立せざるを得ない。そして幕府も越智氏寄りになり、光宣は幕府から討伐される側になった。こうして経覚(越智氏)と光宣(筒井氏)との一進一退の軍事行動が続いたが、持国に代わって細川勝元が管領に就任すると幕府の筒井氏討伐の意欲は減退した。この中で、興福寺の門主は尋尊へと移った。だがこれは平和的な委譲ではなく、軍事的な駆け引きの結果であったので、尋尊は門主として必要な引継を経覚から受けていなかった。

こんな中で畠山氏に後継者争いが起こる。新たに将軍になった足利義政は、優柔不断で状況に流されやすく、混乱に拍車がかかった。畠山氏は畠山義就(よしひろ)と政長に分裂。政長が管領になった。そして筒井氏と政長、越智氏と義就がそれぞれ結びついて抗争を誘発した。

さらに、実子のいなかった義政が弟(義視)を後継者に決めた後に、実子(のちの義尚)が誕生して、将軍権力を巡る事態も複雑化した。この頃の幕府には3つの政治勢力があり、それは(1)伊勢貞親を中心とする義政側近、(2)山名宗全をリーダーとする集団、(3)細川勝元をリーダーとする集団、であったが、この3つがせめぎ合うことで事態は二転三転し、どんどん混乱していった。

この状況で、山名宗全は畠山義就を利用した政権奪取を構想する。こうして文正元年(1466)、畠山義就は軍勢を率いて上洛し、千本釈迦堂に陣を構えた。その背後には山名宗全・斯波義廉がいた。対峙するのは管領の畠山政長。これを後援するのが細川勝元・京極持清である。このクーデターは短期的には成功し、畠山義就は政長に勝利した。ここで山名宗全は義就の勝利を確実にするために加勢したのだが、それが細川勝元を刺激。細川(東軍)・山名(西軍)の全面抗争に突入する。大和の内輪もめが雪だるま式に大きくなっていき、京都を舞台にした応仁の乱になったのだ。特に成身院光宣が政長を一貫して支援し、義就へ徹底抗戦したことは大きかった。「光宣が応仁の乱のキーマン(p.161)」である。

両軍の兵力は、東軍が16万騎、西軍が11万騎だという。西軍はクーデター勢力であり、幕府は当然ながら東軍寄りの立場である。義政は全面戦争を望んでいなかったが、一方の義視はめざましい軍功を立てようと張り切っていた。戦で名を上げて政権の基盤を作りたかったのだ。そのために停戦の努力は実を結ばなかった。そんな中で、大内政弘が3万人の大軍を引き連れて上洛。義政は両畠山を和睦させようとしていたが、もはや話は畠山の内紛では収まらない規模になっていた。

このような状況で、分が悪くなった足利義視は、あろうことか西軍に身を投じ、事実上、二人の将軍が併存することになった。西軍は幕府を模倣した政治機構を整えたので、これを「西幕府」という。これまで和睦の道を探ってきた義政も態度を一変させ、義視は「朝敵」となった。

応仁の乱は市街戦であった。陣は城砦化し、騎兵ではなく歩兵(足軽)が活躍するようになった。ゲリラ戦である。その背景には、都市の下層民が足軽となっていったという都市問題もある。

こうして京都が闘いの舞台となってしまったため、公家たちは各地に疎開した。特に奈良は興福寺の権威のおかげか戦場にならなかったため、尋尊の父・一条兼良らが疎開してきた。こうして興福寺の僧侶たちと摂関家の人々が交流したことは、文化的に意義があった。応仁の乱は11年も続いた大乱であるが、その間にも貴顕の人々は意外と豪遊している。

ここからの闘いの経過を記すのはやめておこう。というより私はあまり理解していない。重要な出来事のみ記す。(1)西軍の斯波義廉の下にいた朝倉孝景が東軍に寝返り、越前を平定した。これで京都への重要な補給路を東軍が押さえることになった。(2)南朝後胤の兄弟が蜂起し、西軍はそれを「南帝」として擁立した。彼らの素性は怪しく、西軍の中でも問題視されていた。(3)長引く戦いの中で、荘園からの年貢を確実に集めることが困難となり、荘園が有名無実化していった。(4)飢饉と軍事徴発による食糧不足の中、文明3年(1471)、京都では疱瘡が流行し、厭戦気分が高まった。

長引く戦いに士気は低下し、山名宗全と細川勝元はそれぞれ戦いの責任を取る形で隠居した。ここで、ちゃんとした終戦交渉が行われていればよかったものの、彼らは「政権を投げ出す形で辞任(p.187)」したため、「諸将は思い思いに戦闘を続け、大乱はだらだらと続いた(同)」。幕府の方では、義政が将軍職を義尚に譲ったこともあり、講和交渉を担ったのは義政の正室日野富子だった。

結果だけ述べれば、まず山名・細川の単独講和が実現。追って畠山義就、大内政弘らも次々に講和して陣を引き払った。義視(とその子義材(よしき))は同情的だった斎藤妙椿が引き取った。西軍はなし崩し的に解散。「11年にもわたる大乱は京都を焼け野原にしたただけで、一人の勝者も生まなかった(p.199)」。形式的には東軍が勝者ではあるが、その大将は隠居し、戦勝の成果もなかったのである。

なお、畠山義就の軍勢は河内に移動して、そこで大暴れした。大乱の続きである。ここで義政が朝廷に対し畠山義就治罰の綸旨を発給してもらっているが、この発給先が興味深い。東大寺・興福寺・金峯山・多武峰・高野山・根来寺・粉河寺の衆徒と伊勢国司北畠政郷(まささと)へ綸旨が出ているのである。これは、東軍がまだ京都に駐留しているため動かせず、朝廷の影響下にある寺社勢力と公家大名の軍事力を活用しようとしたのだという。

結局、畠山義就は河内を平定し「河内王国」を築いた。さらに義就の矛先は大和に向かった。その頃、筒井氏は越智氏・古市氏との抗争に敗れ没落していた。

乱後の室町幕府では、寺社本領返還政策が取られた。武家勢力が寺社から奪った領地を返還させるものであるが、これは結果的に幕府の勢力下の領地を増やすものであった。そして幕府の懸案「河内王国」であるが、これを討伐しようとした畠山政長は義就に押されていた。この局面を打開したのは、意外なことに武将ではなく、南山城の国人(地元武士)であった。彼らは「国一揆」を結成し、両畠山軍に撤退要求を突きつけ成功させた(「山城国一揆」)。 山城国の国人たちは自治を行い、その自治機関は「惣国」と呼ばれた。こうして義就は南山城を撤退し、それによって赦免された。ここに応仁の乱の戦後処理は終了した。

幕府の方では、義政が政権を投げ出す形で義尚に権力が集中し、幕府権力は一応は一本化した。しかし義尚は25歳にして死去してしまった。酒の飲み過ぎかもしれないという。そのため、次の将軍として足利義材に白羽の矢が立った。日野富子も義材を支持。富子の妹の子だったからである。義材の将軍就任は時間の問題となり、父である義視が幕府の実権を握った。応仁の乱は何だったのか、という展開だ。

ところが、日野富子と義視・義材親子は「小川殿の相続問題」を巡って急速に悪化。これは、元々細川勝元が所有していた邸宅「小川殿」が、義政の隠居所となって活用されていたのを、義政・義尚の死去に伴って細川政元に返還しようとしたところ辞退されたため、清晃(義政の兄の息子)に譲ったという問題である。一見、何の問題もないが、「小川殿」は今や「将軍御所」と認識されていた。これを将軍になってもおかしくない清晃に譲ることの意味は小さくない。この事件がきっかけで日野富子と義視・義材は敵対関係になったが、追って義材は将軍に就任した。

そして明応2年(1493)、足利義材は権力基盤の確立もあり、河内国へ畠山基家を平定しに出陣したところ、驚天動地の事態が起こった。「京都に残留していた細川政元が日野富子・伊勢定宗と示し合わせて挙兵し、清晃を将軍に擁立したのである(p.243)」。これを「明応の政変」という。これに多くの大名は靡き、義材は捉えられたものの逃亡。「二人の将軍」が並び立つ事態になり、これが一代では解決せず、常態化していくのである。

かつては応仁の乱が戦国時代の幕開けとなったと見なされてきたが、最近では明応の政変こそがその転換点になったというのが定説である。応仁の乱は政治的にも無意味な争いなのだ。

だが応仁の乱に歴史的な意味がなかったわけではない。応仁の乱がもたらしたのは、守護在京制の崩壊である。応仁の乱まで、守護は京都に居住していた。ところが応仁の乱で支配体制が弛緩することで、京都に居住していては年貢が進貢されなくなった。領国を実力で支配する必要が生じたのである。明応の政変で守護在京制は完全に崩壊。「京都中心の政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まるのである(p.261)」。

そして守護たちが領国に下ったことは、貴族たちも下向していくことを後押しした。貴族たちは京都で困窮したため、知己である守護たちを頼って地方へ向かったのである。これにより京都の文化が地方へ伝えられ、多様な文化が花開くことになった。

なお興福寺の領地大和国では混乱が続いたが、大永2年(1521)に筒井氏・越智氏ら四氏の盟約が結ばれようやく安定した。彼らが最初から抗争していなかったら、応仁の乱は全く違うものになっていただろう。いや、もしかしたら起こらなかったかもしれないのだ。

素人には通読が困難だが、応仁の乱を描き尽くした労作。

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