2024年6月1日土曜日

『徳川思想小史』源 了圓 著

江戸時代の思想の流れを概説する本。

今でこそ江戸時代の思想史はたくさん刊行されているが、本書の原著が刊行された1973年には難解な専門書しかなく、思想の流れを全体的に摑める本がなかった。著者が徳川思想史の研究を始めたときも「まるで手探り状態だった」という。そこで著者がまとめたのが本書である。(なお著者は「徳川時代」の用語を使うが、私は「江戸時代」を使うので以下混在するがご容赦戴きたい。)

「序 徳川時代の再検討」では、思想史の背景となる江戸時代の特質が述べられる。それは「「封建的・近代的」という二重の原理から成り立った時代であった(p.21)」。社会の仕組みは封建的であったが、幕府の性格ははっきりと中央集権的であり、絶対主義国家の政府に近かった。また商品経済の進展は元来そこから距離を置いていた武士にとっても、それを認めなければ生活が成り立たないほどになっていた。しかし幕府の政策の大半は、日本の近代への歩みをくいとめるようなものであった。明治維新を待つまでもなく、江戸時代の社会の仕組みには矛盾が内包されていた。

「第1章 朱子学とその受容」では、江戸時代の学問の基調となった朱子学を述べる。家康が顧問のような立場で林羅山を重用したことで、朱子学は江戸時代のイデオロギーとなった。朱子学の宇宙論などは思弁的ではあったが、そこには「事物の理を究めることを通じて心を明らかにしていこうとする」部分があり、合理的な側面も持っていた。ただし、朱子学の人々は独創性に乏しく、江戸時代を通じて朱子学そのものの学問的な発展はなかった。

ここで著者は朱子学者として林羅山、山崎闇斎、貝原益軒、新井白石を取り上げて簡潔に述べている。山崎闇斎は、幼少の頃に比叡山に入れられたが、朱子学に傾いて蓄髪して儒者となった。彼は学問的というよりは精神論を喧伝し、「朱子学は一種のカテキズム(教義問答書)と化し(p.47)」た。貝原益軒は、朱子学者としては民衆の習俗と儒教道徳を接合しようとし、科学者としては画期的著作『大和本草』をまとめた。

「第2章 陽明学とその受容」では、陽明学とその影響を受けた者について述べる。陽明学は、朱子学が己の心の問題を閑却していることを問題視し、徹底的な唯心論の立場を取った。しかも心はそれ自体完全で、学問や経験でその良知を増すことはできないとした。こうした立場の帰結として、陽明学は科学的な発展には寄与せず、学派としても形成されなかった。だが、その精神性・行動性は「地下水のような仕方で浸透し」幕末の志士たちに大きな影響を与えた。

ここで紹介されるのは中江藤樹と熊沢蕃山である。中江藤樹は、忠ではなく孝を人倫の基本とするが、彼の孝は親へ仕えるということばかりでなく、人間の始祖への孝までも意味し、人々は「みな兄弟」とした。だが、その晩年になって陽明学のもつ行動性は失われ、内面的なものに沈潜していった。熊沢蕃山は藤樹の学問を受け継いだ人で、藤樹とは違って岡山藩の藩政という実務に携わったので士道即儒道の考えによって王道政治の実現を目指した。それは人民のための政治を志向するものであり、横井小楠の先駆となっている。

「第3章 古学思想の形成とその展開」では、古学思想がどのように形成され、どこが革新的だったのかを述べる。「古学思想は、徳川時代の儒学者たちの生みだしたものの中で最も独創的な思想の一つである(p.70)」。ここでは山鹿素行、伊藤仁斎、伊藤東涯、荻生徂徠の思想を辿っている。彼らは古代中国の教えが、仏教や老荘の影響がない真の儒教であり、そこに復古すべきだとして厳密な態度で古代中国研究を行った。

山鹿素行は、人間には欲望があることを肯定する新しい人間観を持ち、朱子学の思弁的な態度ではなく、経験主義的な立場を取った。ここに朱子学を乗り越える動きが生じた。伊藤仁斎は、『大学』を繰り返し読むうちにそれが孔子の遺書であるとする朱熹の説に疑問を抱き、綿密な文献批判によって孔子の遺書ではないことを明らかにした。また『中庸』にも異本からの挿入があることを明らかにした。これは朱子学の学問的土台をひっくり返すことだった。こうして仁斎は、論語と孟子から自己の学説を形成した。その中心は博愛主義であり、彼にとっての儒教は「愛の人間学」であった。儒教が政治思想であるより、学問や道徳や教育を重視する、ヒューマニズムの教えに変わっていった。

荻生徂徠は、伊藤仁斎に影響を受けながら、東涯に自尊心を傷つけられ猛烈に仁斎批判を始めた。仁斎の「古義学」が孔子の教えの哲学的解明を目指すものであるのに対し、徂徠の「古文辞学」は先王の教えを文献学的方法によって明らかにするものである。彼はそのために「自分も中国の古代人とおなじ形の言語生活(p.90)」に入った。彼の言語を重視する研究方法は画期的である。そして彼の説く道は極めて政治的であった。それは、聖人の徳が云々というのではなく、政治を技術として見る感じが強い。彼は古代中国によって当時の社会を相対化し、社会を規範としてではなく、メカニズムとして捉える新しい社会観を持っていた。

「第4章 武士の道徳」では、武士のアイデンティティを儒教がどう支えたかを述べる。太平の世では、戦国的武士とは違う新しい武士の理想像が求められた。それは概ね武士を道義化すること、つまり仁愛無欲の洗練された存在に高めることであった。特に山鹿素行は「古学思想の形成者としてよりも、儒教の武教化の実践者、士道の鼓吹者(p.102)」であった。彼は武士の威儀を強調し、武士を士君子に仕立て上げようとした。

武士の道徳は、難問を内包していた。それは、仕えた君主が無道だったときにどうするか、という問題だ。あくまで君に仕えるのか、それとも諫言して聞き入れなければ去るべきか。江戸時代の現実では前者がほとんどであったが、儒教の理論では、当然、後者が採られるべきであり、山鹿素行も後者の立場だった。この問題を、君臣関係はギヴ・アンド・テイクの取引関係だとみなして海保青陵は軽々と乗り越えたが、一般には受け入れられがたかった。こうした未解決の問題はあったが、武士の在り方は「士道」としてさも確立したものがあるかのようにしつらえられ、幕末の志士や経世家が「士道」を強調していることは注目される。

「第5章 町人と商業肯定の思想」では、町人の思想を石田梅岩を中心に述べる。江戸時代には商業は発展し、町人が武士を超えるような力を持ったが、町人からは体制変革の思想は全く生まれなかった。それは町人は、幕藩体制に寄生することで経済的に成功していたからである。山片蟠桃は独創的な思想家であるが、そうした町人の立場を象徴している。

商業肯定の思想を初めて表明したのは、元武士で出家し曹洞宗に入った鈴木正三である。彼は正直に商売をすることで福徳が与えられると考え、利益の追求を肯定した。そして商業活動によって自然に菩提心が成就するとまで言っている。ただし正三の思想は人々には大きな影響はなかった。現実の町人に大きな影響を与えたのは正三より百年のちの石田梅岩である。

石田梅岩は、百姓の生まれで商家に奉公へ出、求道的な性格で儒者の講義を聞いてまわるうちに見性し、「赤ん坊みたいな状態になりきって(p.134)」、無料での講義を始めた。彼の思想は天人合一を基調とし、正直、倹約、勤勉などを強調するもので、これは心学と呼ばれる。その没後は手島堵庵によって心学運動は京坂地方で大きな社会勢力となった。さらに堵庵の門弟の中沢道二は関東一円と日本各地に心学運動を広めた。それは単なる質素倹約の教えではなく、実践的・行動的であって、間引きの減少に取り組んだり、困窮者の救済を図ったりした。ただし、社会変革の要素はなく、石田梅岩が身分制を肯定していたように、幕藩体制を内側から支える役割を強くしていったことも否めない。

「第6章 18世紀の開明思想」では、科学的思惟を身につけた人々について述べる。18世紀は第一次啓蒙時代と位置付けられる。富永仲基、三浦梅園、前野良沢、平賀源内、杉田玄白、司馬江漢、山片蟠桃らが次々に現れた。

彼らは、好奇心に満ち、実験して確かめ、伝統的な教えを懐疑した。彼らは経験的合理主義を身につけ、自国中心主義や中華主義を克服し、広く世界に目を向けていた。儒教はもはや真理探究の対象ではなくなっていた。それには皮肉にも(?)徂徠の仕事が影響している。

ここでは富永仲基、三浦梅園、山片蟠桃が取り上げられる。富永仲基は、儒教教育を受けて懐徳堂に学んだが、『説蔽』という幕府の教化政策に反するような本を書き、彼の師の三宅石庵は少年仲基を破門したという。仲基は若くして隠居し、個人教授や著作に従事、たった31歳で亡くなっている。彼は「儒教・仏教・神道のそれぞれが人間の知的努力によって歴史的に発展したものであることを文献学的に明らかにし(p.147)」、また比較文化論・比較国民性論を展開して、あらゆるものを相対化した。当時としては度外れて自由に思想した彼の場合も、「歴史」が社会を相対化する武器だったように思われる。

三浦梅園は、「徂徠の回避してきた問題を解決すべく(p.164)」現れた。すなわち、宇宙や自然をどうとらえるかという問題だ。彼は、幼いころから「いいかげんな説明では満足できない少年(p.167)」であり、物事を知っていると思われている人がその実何もわかっていないことを発見した。彼は書物を妄信する態度を改め、自然を師とすべきだと考えた。彼の懐疑的精神はデカルトを思わせる。そして彼は「聖人と称し仏陀と号するももとより人」と醒めた見方で絶対的な価値基準から自由に論理的思考を広げた。

山片蟠桃は、懐徳堂に学び、中井竹山・履軒・麻田剛立などについて学んだ最高の知識人である。彼はあらゆるものに合理的思惟のメスを入れ、神代や霊魂などについても徹底して合理主義で解釈した。特にその無鬼論(無神論)は、「啓蒙主義の中の最も重要な要素の一つである宗教的側面の啓蒙の最もすぐれたもの(p.177)」である。彼は「格物致知」を大切にし、朱子学の合理的側面を成長させた第一次啓蒙時代を代表する思想家である。

では、当時の啓蒙思想は明治以降のそれ(第二次啓蒙時代)と何が違うか。第1に、そこには平等な社会をつくろうとする意識がなく、第2に、彼らの著作は公刊されておらず、広く影響力を持ったとは言えないことだ。

「第7章 経世家の思想と民衆の思想」では、思想家が経済とどう向き合ったかを述べる。江戸時代は、幕府・藩・武士が経済的に困窮せざるをえない構造的な問題があった。すなわち幕府の仕組みは、経済の発展がないという前提で構築されたものだったのである。江戸時代の後半には、知識人はこの矛盾に取り組むことになった。徂徠の弟子の一人、太宰春台は経済の安定が道徳の維持にも重要だとみなして、特産物の奨励など「富国強兵」を説いている。これは後の藩専売制につながった。一方、中井竹山は参勤交代の廃止や国替の廃止、藩の負債に応じて公役を免除するなどの経済対策を考案して『草茅危言』としてまとめ松平定信に提出している。

一方、海保青陵は「徂徠とはちがって、徳川社会の基本的矛盾は、商業資本を肯定し、商業的社会・経済的機構を伸ばすことによって解決されると考えた(p.188)」。彼は幕府の機構すらも経済的な契約関係として理解し、武士を商業社会に参画させようとした。

本多俊明は、農民を困窮から救うには開国が唯一の方法であることを指摘した。自由競争による貿易が相互を利すると考えたのだ。彼は日本の閉鎖的な社会を問題視し、日本は開かれた貿易国家になるべきと考えていた。

それと真逆だったのが、八戸の田舎にいた安藤昌益。彼は「いっさいの権力組織を否定し」「無政府主義・平等主義」の自給自足社会を理想とした。それは支配することもされることもない万人が平等のユートピア社会なのだ。

二宮尊徳は、独特の天の概念を持っていた。他の思想家が天を善とみなしたのとは逆に、尊徳は何事も天に任せれば皆荒地となってしまう、と極めて農民の実感に即した理解を示し、人道(人間の作為)を重視した。彼は勤労や計画性を重視し、後の生活改善運動につながるような側面を持っていた。

「第8章 国学運動の人々」では、国学を形作った人々の思想を述べる。ここでは契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤が取り上げられる。これら国学の系譜の主流とされる人は、直線的に学説を発展させたわけではない。例えば、荷田春満は国粋主義的で浸透を重視したが、春満を頼って江戸に出た賀茂真淵の場合は、春満とは違って詩の律動・万葉の調べを重視した。彼らは実証的に言葉の意味を解明する荻生徂徠の方法論を使いつつも、理性よりも感情の発露を重んずる点では共通していた。

本居宣長は、先師の説を乗り越えながら一歩一歩真理に近づいていくという学問観を身につけていた。これは今から見ると当たり前だが、師の継承が学問と思われていた時代としては異例な見解だった。 宣長は王朝文化を日本文化の精華と見なし、その女性的な「物のあはれ」を称揚した。「物のあはれ」は文学を評価する時の価値基準であるとともに道徳的基準でもあった(「物のあはれ」を知る人がすばらしい)。こうした価値観から予想されるとおり、彼は変革を望まず、現状肯定的な生き方をした。

一方の平田篤胤は、宣長の古代研究の中でも手薄な宗教面を狂信的なまでにクローズアップした。ところが面白いことに、彼は宣長が否定した儒教道徳を取り入れている。しかも彼はマテオ・リッチの伝えるキリスト教の情報をも使って自らの思想を喧伝した。彼には歴史の発展性や伝説の多元性の観念はなかったが、いろいろな史料を自らの都合のよいように使ったのである。篤胤の学問は幕末に大きな影響を与えたものの、そこに変革思想は内在していない。

「第9章 幕末志士の悲願」では、幕末の志士に影響を与えた思想を述べる。幕末には、思想が「国際政治—国内政治—経済の問題を統合的に捉えるような視角(p.250)」を持つようになった。だが昌平黌の儒者たちは、もはや思想的生命を失いかけていた。この時期の思想を担ったのは、むしろすぐれた田舎武士であった。彼らは儒学や兵学を修め、また洋学や国学にも取り組んだ。そして現実の問題に対処していこうとする実学的思想や現実主義的な態度を持っていた。彼らは思想と行動が結びついていた。

そういう志士たちに大きな影響を与えたのが後期水戸学である。水戸学では、攘夷論や経世論を統合した理論を作り、その結論はナショナリスティックな方向へ向かった。会沢正志斎の『新論』は、個別の議論は尖鋭なものではないが、全体として人々を鼓舞した。彼が喧伝した特に重要な概念に「国体」がある。

一方で、儒教的教養から出発しながら、西洋の優秀性を認めて開国を主張するようになったのが佐久間象山、横井小楠、吉田松陰などである。彼らの合理性の根っこには兵学・軍事技術があったようだ。佐久間象山がナポレオン、ピョートル大帝を理想の君主として賞讃しているのは象徴的だ。横井小楠は、列国と平和的貿易を行って独立を保つ道を考えた。彼は堯舜の世を共和政治・ワシントンと重ね合わせた。吉田松陰は師の象山よりはるかに実践的で尊王だった。そして象山の悩まなかった名分論に悩み、天皇の臣下であると自らを規定することでそれを乗り越えた。彼は「天の思想と天皇とを直結させる後期水戸学の思想を批判し、わが国の神話にもとづいて、天皇は太陽神である天照大神を嗣ぐもの(日嗣)であるから絶対である(p.283)」とし、一種の平等思想である「一君万民思想」が形成された。しかし維新を実行したものたちはここまで思想が純化しておらず、彼らが目指したのは天皇を中心として統一され、公論が活かされる民族国家であった。

「終章 幕末から明治へ」では、明治維新後の思想的課題が簡単に整理される。明治時代を主導した明六社の知識人たちは、すでに幕末において西洋に目が開かれており、福沢諭吉『西洋事情』、加藤弘之『立憲政体略』などが書かれていた。彼らは明治維新を知的には準備していたが、幕藩体制を打倒する運動は何一つしていないのが面白い。

本章では、維新後、近代化を成し遂げるために格闘した人々の思想が触れられているが、当然ながら本書は「徳川思想小史」なので、あくまで概略的である。

全体として、本書は非常にバランスがいい。私はこの種の本をいくつか読んでいるが、これまでで最も読みやすく、引っかかるところがないと感じた。もちろん、あまり編年的でないとか、年表がないとか、いろいろ不満に思う部分はあるが、江戸時代の思想史の概説としての嚆矢であることを思うとそれらの点は割り引いて考えるべきだ。本書には、著者が大上段に掲げたテーマのようなものはなく、ある意味では教科書風に淡々とまとめているのだが、記述は生き生きしており決して退屈しない。

なお、著者の源了圓については、本書の内容とは全く関係ないところで興味を持っている。それは、彼が戦時中に薩摩半島に配属され、「薩南海岸」で終戦を迎えていることだ。それがどこなのかわからないが、私の今住んでいるあたりのどこかなのだろう。著者はそこでどんな体験をしたのか、機会があれば調べてみたい。

簡にして要を得た、読んで面白い江戸時代の思想史。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の思想史—人物・方法・連環』田尻 祐一郎 著
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江戸時代のさまざまな思想を紹介する本。「政治思想史」としては非常に手際よくまとまっており、取っつきにくい江戸の思想家に親しむのにはちょうどよい本。

『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著
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江戸時代から明治維新に至るまでの、日本の政治思想の変遷を辿る本。明治維新を理解する上での基礎となる日本儒学が辿った近世史を、深く面白く学べる本。

『近世日本の学術—実学の展開を中心に』杉本 勲
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/07/blog-post.html
近世日本の学術の展開を、思想に注目して読み解く本。近世学術と儒学の関係を解き明かした労作。

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