2016年6月25日土曜日

『現代焼酎考』稲垣 真美 著

焼酎蔵を巡りながら、焼酎の復権について考える本。

著者は、もともと焼酎を好んで飲む方ではなかったが、趣味の酒蔵巡りが高じて清酒の品評会の審査員などを務めるうち、焼酎の美味しさに気づいて全国各地の焼酎蔵を訪ね歩くようになった。本書は、その飲み歩きの中で考えたことをエッセイ風に述べる本である。

主な訪問地は沖縄(泡盛)、熊本の球磨地方(球磨焼酎)、種子島(芋焼酎)、南西諸島(黒糖焼酎)、八丈島(芋焼酎)。

酒造所を訪ね歩いているだけあって、製造法に関する具体的な記載がかなり多い。特に麹と蒸留に関して比較的詳しく述べているのが参考になった。ただし、蒸留については焼酎造りの核心の一つなので、図版などももう少しあった方がよかったと思う。どのような蒸留器を使って蒸留しているのかということはもっと注目されてよいことである。

また、イオン交換樹脂による不純物の除去については初めて知ったが、これの登場で焼酎から雑味が減ったということは焼酎史においてなかなか大きな出来事だと思った。

本書が書かれたのは80年代の第1次焼酎ブームのまっただ中である。

それまで焼酎は、安くてマズい酒という印象が強かった。ブランデーやウイスキーといった世界の他の蒸留酒は高級品に位置づけられているのに、同じ蒸留酒でも焼酎は不当に安酒という烙印を押されてきた。それは、実際に粗悪な焼酎が製造されてきたという事実もあるが、明治時代にできた酒造法に「焼酎とは清酒粕(清酒を醸造したときの搾り粕)を蒸留したもの」と規定され、そもそも余り物として製造されるものと規定されていたことの影響も大きいらしい。そのせいで焼酎の近代史はゆがめられ、我々は焼酎の真の姿を見失っていたのかもしれないと思わされた。

焼酎の来し方行く末を思う本。

2016年6月21日火曜日

『南のくにの焼酎文化』豊田 謙二 著

鹿児島の焼酎のあゆみを明治期から説く本。

著者の豊田謙二は福岡県立大学教授(専門は社会政策および地域づくり。執筆当時)。前職の鹿児島国際大学教授であったときに調査した内容を元に書いたのが本書のようだ。

本書は、南九州の焼酎文化そのものについてはさほど詳しく書いていない。むしろ、その焼酎文化が生まれた歴史的経緯に重きを置いていて、特に明治・大正期の酒税(酒造税)と税務署による酒造所の整理がその成立に大きな影響を及ぼしているという立場である。

酒造税は明治国家の税収の柱であったので、焼酎の税制を巡る国家と地域の対立は今では考えられないくらい鋭いものがあったらしく、著者は「西南の役が明治国家への[鹿児島の]最初の対決とすれば、税務当局との衝突は第二の対決とでも言えようか」と述べている。

私の興味を引いたのは、鹿児島の伝統的杜氏集団である黒瀬杜氏・阿多杜氏の動向をかなり詳しく追っていることで、その黎明から近年に至るまでの雰囲気を摑むことができた。黒瀬杜氏などはよく名前を聞くが、実際どれくらいの数が県内の酒造メーカーに行っていたのか知らなかったので、具体的な人数までわかり大変参考になった(これが、著者が鹿児島国際大学時代にやった調査に基づくものらしい)。

また、本書では奄美の黒糖焼酎についても1章が設けられている。私も知らなかったのだが、原則としてサトウキビで作る蒸留酒は税法上は「ラム」であるが、奄美に限っては、黒糖で作る蒸留酒を奄美振興の一環としてこれを「焼酎」として扱う特例措置がなされているということである。もちろん本土においても黒糖焼酎は造れるのだが、その際には「ラム」としての高い税金を支払わねばならないのである。

この他、近年の焼酎を巡る状況を主に統計面で辿り、宮崎県の焼酎の状況を紹介し、軽い提言みたいなものをして本書は終わっている。

本書は、焼酎のうんちく的なものはほとんど出てこず、一般には閑却されがちな税務当局の動きのような業界的なところを丁寧に追っており、業界史を繙くものとして好感を持った。編集は若干散漫なところがあり、話が飛びがちなのはちょっと気になったが全体としては読みやすい。

あまり顧みられない鹿児島の焼酎業界史を繙く真面目な本。

2016年6月8日水曜日

『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門』原口 虎雄 著

幕末の薩摩藩の財政改革を成し遂げた調所笑左衛門の実像を探る本。

幕末の薩摩藩は、他藩以上の慢性的な赤字財政に苦しんでいた。 参勤交代の過重な負担や幕府から命ぜられる大規模土木工事、そして農村の疲弊によって日本一の貧乏藩になりはて、その借金は500万両にも及んでいた。当時の経常収入がおよそ15万両と考えられており、年間利息の60万両すらも全く支払えない有様だった。

この崩壊した藩財政を立て直すため、島津重豪(しげひで)は調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)を抜擢する。調所は元は身分の低い武士で茶坊主(接待係)から重豪の秘書的な役目(御小納戸頭取)に取り立てられて栄進し、町奉行になっていた人物。御小納戸頭取は主君の意を汲んで各所に取次をするという仕事で、ここで調所は重豪に大変重用された。どうも、調所は人の感情の機微をよく理解し、様々なことに気が利いてことをうまく進める能力に長けていたらしく、英邁ではあったが苛烈で傲岸不遜な重豪に足りない部分を持っていたようだ。

調所は財政は全くの素人だったから最初は固辞したが、重豪からほぼ全権委任的な言質をとって家老となり財政改革に取り組んだ。重豪としては、自分の意を完璧に理解して、いわば「自分の分身」として物事を進められる人材として調所を抜擢したようである。

調所は自分が素人であるという自覚があったから、有能な人材を家格や身分の上下によらず積極的に登用して重役につけた。そして自分自身でも寸暇を惜しんで勉強と視察に励み、財政立て直しに邁進した。

薩摩藩は表向きは様々なことが統制されていたけれども、実際には「穴だらけの統制」であった。調所はこれを様々な面で厳しく取り締まり、 薩摩藩を本当の統制経済に変えていった。例えば出来高に応じて納税(年貢)の量が変動する制度があったが、これが悪用されているとして廃止し、一定の年貢へと変更している。しかしただ苛斂誅求を推し進めるだけでなく、調所は流通経路の徹底した合理化とともに旧習の打破にも努めた。

そして奄美の黒糖生産は全てを統制して自由貿易を禁止。藩の専売とするだけでなく島民には黒糖生産以外のほとんどの農業を禁止し、貨幣までも廃止してしまった。奄美の人にはひたすら黒糖のみを生産させ藩はそれを安く買いたたき、藩外に高くで売るという今日から見れば非人道的な貿易を行って暴利を得た。

しかし調所の改革のハイライトはなんといっても500万両の借金踏み倒しである。古い証文を認め替えるという名目で借金の証文を集めて焼き捨て(!)、上下貴賤の別を問わず全ての借金を勝手に「250カ年の無利子償還」へと書き換えてしまった。250年と言えば関係者は誰も生きていないどころか、子や孫でも生きていないわけだから、これは事実上の借金棒引きであった(ただし、旧藩債消滅の命令が発布される前年の明治4年までの間、250年割として律儀に少しずつ返済はした)。

どうしてこんな暴挙が可能であったのかはよくわからない。普通、このような勝手な借金棒引きが行われたら貸し主らから暴動がおきそうなものだが、さほどのことは起きなかった。根回しの周到な調所のことだから、要所で緻密な調整を行っていたのかもしれない。

調所の改革は重豪の死後も藩主斉興(なりおき)の下で進められた。斉興も調所をよく信頼し、持ち前の頑固で一徹な決断力によって調所の改革を断行させた。これにより日本一の貧乏藩だった薩摩藩の財政が徐々に好転し、普段の生活もままならない貧乏藩から対外的に売って出る雄藩へと変貌していく。明治維新において薩摩藩の活躍が甚だしかったのは、調所の改革の成果という側面が大きいのである。

ところがいざ財政が黒字化してくると、苛烈な緊縮策と統制の厳格化への反動が起こらざるを得ない。調所は徹底的な能力第一主義で人材を登用したから、その人材は清廉潔白の徒とはいえず、汚職もかなりあったようだ。調所は仕事さえできれば素行には目をつぶった。調所自身は仕事一徹で公明正大だったらしいがこうした部下の評判は甚だ悪く、次第にアンチ調所派が形成されてくる。

その首魁が島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬は嫡子でありながら40歳になっても家督を譲られず、その原因の一つが調所らの妨害工作にあると斉彬派は考えた。斉彬が藩主になれば、曾祖父の重豪ゆずりの蘭学趣味や蕩尽癖によってせっかく立て直した財政がまた傾くおそれがあるということで、斉興と調所には斉彬の登場をできるだけ遅くしたいとの思惑があったのは事実のようだ。

そこで斉彬は奇手に出る。調所は幕府からは禁じられていた琉球との貿易を民間の業者に秘密裏に行わせて莫大な利益を生みだしていたが、斉彬はあろうことかこれを幕府の家老阿部正弘に密告したのである。薩摩藩自体を危殆にさらす可能性もある密告であった。これをうけて調所は幕府から取り調べにあう。まさか斉彬が密告したとは知らない調所は、薩摩藩が禁を犯したということで処分されることを案じ、罪を自分一人で負って真相をうやむやにするため、ついに服毒自殺したのである。しかし実際には、斉彬と阿部との間には「薩摩藩は処分しない」という密約が裏では交わされていた。全ては調所を失脚させるためのシナリオだったのである。

明治維新を進める大きな力となった斉彬の敵対勢力であったということで、調所笑左衛門は正当に評価されていない、と著者は嘆く。そのためこの一書をものしたということだ。出版は1966年(昭和41年)。その甲斐あってか、近年ではかなり調所の仕事は見直され、薩摩藩が雄藩として飛躍する基礎をつくった人物として評価が定まっているように見受けられる。

本書を読むと、反感の嵐の中で改革を断行した調所の人格と振る舞いにも興味が湧く。藩主(斉興)と時期藩主(斉彬)の対立にも巻き込まれ、素行のよくない部下にも振り回されつつ、非常に温厚に穏便に、そして驚くほど精力的に仕事を進めたという。

財政再建の大業を成し遂げながら非業の死を遂げた調所広郷を知る好著。

【関連書籍】
『島津重豪』芳 即正 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/03/blog-post_21.html
薩摩藩が雄飛する基礎をつくった型破りの藩主、島津重豪(しげひで)の初の本格的評伝。500万両の借金が正当な条件によるものではなく高利による不当なものであったことを論証している。


2016年5月19日木曜日

『植物の体の中では何が起こっているのか』嶋田 幸久・萱原 正嗣 著

植物の体のしくみについてわかりやすく説明する本。

本書は、植物学者の嶋田幸久の話に基づいてサイエンス・ライターの菅原正嗣がまとめたものであり、教科書的な本である。教科書的といってもつまらないという意味ではなく、ところどころ面白いトピックがちりばめられ、飽きずに通読できる。

主な内容は、光合成、植物ホルモン、生活環(植物の一生)であり、特に光合成の話が丁寧に記述されているように感じた。また、著者の嶋田は植物ホルモンを専門にしているため、植物ホルモンの話は研究のトリビア(どのように発見されたかといった挿話)まで含めて大変興味深く読めた。

本書を読んで若干疑問に感じたのは、「動かない植物が生きていくためのしくみ」という副題がついていながら、それに対応する話題提供が少ないのではないかということだ。例えば、植物の免疫機構については全く触れられていない。これは植物病理学という学問分野の話だが、意図的に避けたのか、ボリュームの関係で削ったのかどちらだろう。

また、害虫を避けるための仕組みについてもほとんど触れられていない。動かない植物は何も対策がなければ食べられ放題になるが、実際にはそのようなひどい被害を受けることは少ない。なぜ虫に全部食べられないのかという説明はして欲しいと思った。

植物病理学について書かれていないのは残念だが、その他の点では堅実に勉強できる無難な本。

2016年5月10日火曜日

『かくれた次元』エドワード・ホール著、日高敏隆・佐藤信行 訳

人間の空間利用について考察する本。

隣に座っている人と話すときと、2メートルくらい離れた人と話すときは口調も使う語彙も異なったものになる。普段あまり意識されることはないが、人と人との距離やどれくらい混み合っているかは、我々の行動を強く規定している。著者は、人間が相手との距離に応じてその行動を変化させることをプロクセミックスという(本書には明確な定義がないが著者が提唱する)概念を用いて考察する。

本書は大まかに4つの内容で構成される。

第1に、動物の世界における個体距離について。動物は増えすぎて適切な個体距離(すなわち縄張り)が保てなくなると、正常な行動ができなくなる。破滅的な行動や病気が多発するこの状態を「シンク」と呼び、これに陥ると個体数が激減する。増えすぎた動物が減るという現象は、餌の不足というような外的な要因で起こるのではなく、仮に餌が十分であったとしても「空間の不足」によって引き起こされるのである。

「シンク」はつがい行動や出産、子育てに顕著である。混みすぎの状態にある動物は、正常につがいを形成することができず、攻撃的な行為を繰り返したり、巣作りをしっかりと行えなかったりする。さらに子どもを産んでも育児が途中で放棄されることもある。ネズミであっても、出産や子育ての一時期には「プライバシー」が必要なのだ。だから増えすぎた状態でも、清潔で小さな箱を用意して積み重ね、「プライバシー」を確保できる空間を作ってあげれば「シンク」は起こらないという。

第2に、人間の生物学的な認知機能(五感)と距離認識について。人間も動物である以上、動物的な個体認識の基盤からは逃れることはできない。ここでは、人間が距離をどのように知覚するかということの機械論的な説明をしている。そうした説明の後、人間における距離の意味について考察を深めていく。例えば、近すぎる距離が「威圧」または逆に「親密さ」を表すということは、文化が違っても共通している。このように、人と人との距離は関係性を表す強力なサインでもある。

著者は人と人との距離を4種類に分けてそれぞれを考察する。(1)密接距離、(2)個体距離、(3)社会距離、(4)公衆距離の4つである。この4つの距離における行動の変化の探求がプロクセミックスの主要な内容である。ただし、これらの距離は確定的なものではなく、文化によってかなりの程度幅がある。手が触れ合うことを嫌う文化もあれば、見知らぬ人とでも肩を寄せ合う文化もあり、距離が持つ社会的意味は文化次第なのである。

第3に、異なる文化における距離の扱いの違いについて。アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、アラブ、日本という異なる文化圏において、人と人との距離や空間の広がりがどのように異なったものとして認識されているかを述べている。この部分は、著者の主張がどの程度妥当なのか私には判断することができない。例えば、アメリカでは通りに名前がつくのに、日本では通りには名前がつかず交差点につく、というような指摘は面白い。確かに日本では道路は「県道○号線」のような味気ない記号で呼ばれるが、交差点には特色ある名前がついている。でもそれが日本人とアメリカ人の空間知覚の違いに起因するものかどうかはよくわからない。

第4に、それまでの話を踏まえ、これからの都市と文明のあり方について遠望している。我々は増えすぎ、都市は混みすぎている。このままでは「シンク」が起こるかもしれない。「シンク」を避けるためには、様々な工夫が必要だ。そこで著者は「未来の都市計画の趣意書」という提言を行っている。

我々は、都市や家々といったものは、文化の表現だと思いがちである。しかし著者によればそれは最大級の過ちだという。「人間とその延長物はいっしょになって、一つの相互に関連しあったシステムをつくり上げている」のである(p.259)。すなわち、都市や家々は我々が作ったものであるが、逆に都市や家々が我々を作ってもいるのである。その2つは分離できない一体のものだ。

「人間の存在と行為は事実上すべて空間の体験と結びついている」(p.249)ことを様々な面から論証する本。

【関連書籍の読書メモ】
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/08/f.html
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書。狭すぎる住居で暮らすことは、衛生上も、精神面でもよくなく、人びとの住宅事情が現在の大混乱のふかい原因、真の原因だとしている。


2016年4月14日木曜日

『人はなぜ花を愛でるのか』日高 敏隆・白幡 洋三郎 編

地球研(総合地球環境学研究所)が企画して人間文化研究機構が開催したシンポジウムに基づいた本。

本書では、動物行動学者の日高 敏隆(地球研の所長)が出した「人はなぜ花を愛でるのか」というテーマに基づいて、様々な分野からその答えを考えるヒントとなる事例が提出されている。大まかな内容は以下の通り。

「はじめに」(日高敏隆)では、本書の基調となる問題意識が説明され、それに対する日高氏なりの考えが提出されている。曰く「花は自分の気持ちを伝えてくれるような気がしていたのではないか。」

「第1章 先史美術に花はなぜ描かれなかったのか」(小川  勝)では、洞窟絵画に花の表現が一切存在しないことを指摘している。

「第2章 六万年前の花に託した心」(小山 修三)では、ネアンデルタール人の墓に花が手向けられていたかもしれないという事例について考察している。

「第3章 花を愛でれば人間か」(大西 秀之)では、人類の進化の歴史を簡単に振り返り、そもそも「花を愛でたかどうか」を確認するのは難しい問題だとしている。

「第4章 メソポタミア・エジプトの文明と花」(渡辺 千香子)では、実利的側面が中心のメソポタミアにおける花の扱いと、象徴や宗教的な価値が中心のエジプトにおけるそれを比較している。

「第5章 人が花に出会ったとき」(佐藤 洋一郎)では、花が人の身近な存在となったのは、「里」が誕生した約1万年前くらいのことだったろうと推測している。森林が中心の世界では花は目立たない。人が手を入れる草地が出来てからたくさんの花が存在するようになった。

「第6章 花をまとい、花を贈るということ」(武田 佐知子)では、日本では花を贈る文化がなぜあまり一般的ではないのかという問いから出発し、古代社会において花を頭につける習慣があったことをやや詳しく論じて、日本では花は下賜されるものだったのではないかと推測している。

「第7章 花を詠う、花を描く」(高階 絵里加)では、主に絵画(西洋絵画、東洋絵画)に登場する花についていろいろと紹介している。

「第8章 花を喰らう人びと」(秋道 智彌)では、花食の事例について紹介している。

「第9章 花を観賞する、花を育てる」(白幡 洋三郎)では、日本の変化咲きアサガオを紹介し、花を栽培しまた観賞する文化について考察している。

全体を通じ中尾 佐助『花と木の文化史』がたびたび参照されており、同書の内容をそれぞれの専門分野から補強するような論考が多い。また、「人はなぜ花を愛でるのか」という問いへの考察としては、同書で既に述べられていることを超える知見は残念ながらほとんどない。

ただ心に残ったのは、花は自分の気持ちを伝えるものだという日高氏の指摘と、花は他者との関係を取り持つ道具として使われてきたのではないかという白幡氏の指摘である。つまり、花は人と人との間に情緒を媒介してきた。花がなぜ情緒を媒介するのかということはさておき、これが山や海、岩や巨木といった他の自然物と花との大きな違いだと思う。

本書では、ほとんど「人はなぜ花を愛でるのか」という問いに答えられていないが、花と情緒の結びつきを考えてゆくことが、この問いへのより深い考察に導いてくれるような気がする。

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2016年4月13日水曜日

『花と木の文化史』中尾 佐助 著

人間が観賞用の花と木の栽培をどのように発展させてきたかを概観する本。

本書は「花と木の文化史」という大変広大なテーマを標榜するが、実際に書かれているのはほとんどが品種改良の歴史である。すなわち、人間が花や木とどう付き合ってきたかということの全体像を提示するものではなくて、植物学者の著者らしく、具体的な栽培品種に注目してその来歴を解き明かしつつ、その背景にある花と木の文化について考察するものである。

本書は4部構成となっている。

第1部では、人間はなぜ花を美しいと感じるのかという難しい問いから出発し、文化的な美意識の発展について考察している。

第2部では、世界の花の歴史を概観する。世界には2つの花文化の中心があった。すなわち、中国を中心とする東洋と、エジプトやバビロニアからローマ、西ヨーロッパへと至る西洋である。文明は世界のあちこちで起こったが、本格的な花の栽培・育種がされたのはごく一部しかない。花は観賞以外の実利的な目的がないために、高度に文明が発展すれば必ず栽培されるというものでもないのである。例えば、大変高度な文明を築き上げた古代ギリシアは花の栽培という点ではさほど見るべきものがなかった。

さらに第2部では、いわゆる大航海時代におけるプラント・ハンターの活躍について述べている。花卉園芸文化の発展には異国趣味的なものが意外と大きな役割を果たしており、有用植物の探索と相まって園芸文化の大発展が起こったのが大航海時代である。当時の航海では博物学者も同乗して各地の植物が熱心に検分された。その情熱は、今となってはちょっと想像できないほどである。

第3部では、中国から受け継いだ花卉園芸文化を非常に高度に発展させた日本の花卉栽培の歴史について述べる。日本の花卉園芸は、室町時代以降独自の発展を遂げ、特に江戸時代に至って当時世界最高の水準に達した。桜や椿といった高木性の花木の品種改良は当時の世界で類を見ないことで、他にも専門の園芸業者・植木業者の出現は世界に先駆けており、庶民にまで花の栽培が広まっていた裾野の広さも注目される。日本の誇るべき歴史であろう。

そうした園芸文化の極北として、日本人は現在「古典園芸植物」と呼ばれているものを生みだした。例えば、マツバラン、イワヒバ、オモトといったものである。これらは派手な花が咲くわけでもなく、その奇異な外観を楽しむという非常に地味なものでその観賞には文化的な素養を要し、いわば抽象芸術的なものである。こうした植物は今では細々と栽培されているに過ぎず、世界的にもその価値が認められていないが、日本の花卉園芸文化の到達点を示すものである。

一方で、多種多様な園芸用の品種改良がされながら、日本では育種の原理、すなわち遺伝学の理論が全く存在しなかった。日本(中国でも)の品種改良では、なんと人工交配が全く行われなかったのである。江戸時代にはアサガオの育種が非常なる流行を見たが、実質的にはメンデルの遺伝の法則が使われていながら、それが名人芸的な「秘伝」となり理論化されなかった。他方西洋では、メソポタミアの時代から既に植物の有性生殖の原理が知られており、これが西洋と東洋の花卉園芸文化の相違の一つである。

第4部では、栽培植物ではなく、自然の花と木の景観への観賞ガイドである。自然の中に存在する美しいものを選抜・育種してできあがったのが園芸植物なわけなので、本来は栽培植物による景観の方が自然の景観よりも美しいはずである。しかし著者は植物学者らしく、自然の植生の美に惹かれており、世界各地にある植生の美のスポットを紹介して本書を終えている。

全体を通じてみて、世界史的な花卉園芸文化の到達点は19世紀にあるように感じた。西洋においても、プラントハンターの活躍(その中心は18世紀かもしれないが)や植物学への熱の入れようを考えると、その最高潮は19世紀である。有用植物の探索という実利的な側面があったにせよ、新しい土地での見なれない植物をよく理解したいという文化的営為を強く感じさせられる。日本では、江戸後期から明治にかけて花卉園芸文化は世界最高の水準に達し、多様な品種改良とその観賞態度は簡単に理解できないところまで行き着いた。

翻って現在の花卉園芸文化を考えると、もちろん技術的には長足の進歩を遂げており比較にならないほどだが、異国の土地・植生・気候などへの興味や理解、一見地味な植物にもその美しさを見いだす観賞態度などは、逆に退化しているように感じる。わかりやすい美しさを持った花だけが表面的にだけ持てはやされていないか。つまり花卉園芸文化が悪い意味で大衆化してしまっていないかと思わされた。

現代の遺伝学による新しい品種改良について触れることもできたはずなのに、著者がそれをせずに最後は自然の植生の美について述べたのは象徴的である。人間は不可能と言われた青いバラを作り出すことができた。だが、それを観賞する文化の方が育っていなくては「青いバラすごいねー」という一瞬の話題性だけのことである。花卉園芸文化というのは、ただキレイな品種を求めるコンテスト的なものであっては虚しいのだ。

観賞用の花と木の品種改良の歴史をコンパクトにまとめつつ、それを観賞する人間の態度の方も考えさせられる好著。

【関連書籍】
『人はなぜ花を愛でるのか』日高 敏隆・白幡 洋三郎 編
(読書メモ)https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/04/blog-post_14.html
地球研(総合地球環境学研究所)が企画して人間文化研究機構が開催したシンポジウムに基づいた本。 中尾佐助が『花と木の文化史』で述べたことをより探究する話が多い。

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