2024年12月8日日曜日

『平安京と中世仏教——王朝権力と都市民衆』上川 道夫 著

平安時代末期の歴史を仏教史を軸として述べる本。

平安時代末期、平安京は仏教都市化した。それは、この時代の仏教が次第に葬祭を担い、追善供養が貴族たちの必須の営みとなったことによる。空也が諸国修行中にたくさんの死体を集めて火葬し、念仏で追善を行ったのはその先蹤だという。延喜2年(902)の醍醐天皇は仏式で葬送されており、貴族社会では浄土思想の広まりとともに仏式の葬送が広がってきていた。

しかし、庶民はどうであったか。慶滋保胤は『日本往生極楽記』に庶民の往生伝を一つも載せていない。この時代、度重なる飢饉によって京都はしばしば餓死者の遺体で充満した。非常に厳しい暮らしを余儀なくされていた人々にとって、仏教は何の意味もなかった。これが本書を通底する視点の一つである。

元来、平安京には東寺と西寺しかなく、寺院の建立が規制されていた。内裏には真言院が設けられ、また大極殿では仏事が営まれたことを考えると、平安京では国家の仏事を大寺院に任すのではなく、直接内裏で実施するプランだったように思われる。それが摂関期には、貴族の邸宅内に仏堂が設けられるようになった(例えば藤原実資の邸宅)。

本書には982年~1143年に建立された「平安時代の邸内仏堂」が表にまとめられており、これが非常に興味深い。これは「浄土教信仰を実践する」ためであったとされ、それに付属して僧房までも持つ邸宅もあった。僧侶の在り方も律令制の時代とは変わったのである。

京内に寺院が設立されていく発端として重要なのは、「源融(みなもとの・とおる)の邸宅河原院が、10世紀末に孫の天台僧仁康によって寺とされたこと(p.39)」である。これは厳密には京外であったが、京内の六条院に接しており、これと一体のものとして捉えられていた可能性がある。

京内寺院としては、因幡堂、六角堂(初見は『御堂関白記』長和6年(1017))、壬生地蔵堂(伝承では寛弘2年(1005)開基)の3つが建立された。これらは例外的な存在であることは間違いないが、小規模とはいえ京内に寺院が建立されたことは、それまでと違った傾向として注目される。

一方、京外には11世紀の始めから寺院が乱立した。革堂(こうどう)、法興院、世尊寺、河崎観音寺、京極寺、祇陀林寺、六波羅蜜寺、法成寺などが摂関期に建立された寺院である。なおこれらの多くが京の東側にあることは何か意味があるのかもしれない。

このように、摂関期の平安京の仏教はそれまでとは明らかに異なった傾向を持っていた。それを著者は「摂関期仏教」と呼ぶ。では、どうして新しい仏教が成長してきたのか。従来、それは浄土教信仰の発展によると言われてきた。しかしその背景として著者は東アジアの仏教の動向に注目する。

北宋は仏教を媒介として周辺国を従える意図を持っていたが、日本政府は奝然が持ち帰った北宋皇帝からの国書に返信せず、事実上北宋の従属要求を拒否した。そのために、日本仏教は中国仏教から距離を置き、むしろインド仏教との直結を模索したのだという(p.56)。

なお、北宋の覇権は盤石ではなく、遼に押され気味であった。そして1004年に結ばれた澶淵の盟では実質的に遼に屈するのである。なお、日本僧が憧れたのが中国大陸の北側にある五臺山であるが、摂関期になると関心が南方にある天台山の方にシフトしてくる。これはこうした東アジア情勢に対応したものだったかもしれない。

続く院政期では、受領(ずりょう)による仏教信仰が盛んになった。受領は下級貴族であるが、任地(荘園)に赴任するにあたって、仏教をバックにつけていた。それは職務心得というべき『国務条々』(『朝野群載』所収)の最後の条に「験者(げんざ)ならびに智僧侶一両人を随身すべき事」とあるのでも知れる(p.73)。この「験者」は何を意味しているのか不明だが、任地へ僧侶を一名伴わなくてはならないというのは、支配階級の人々が仏教に何を期待したのか示しているような気がする。

寛仁3年(1019)、女真族が日本に来寇した(刀伊の入寇)。日本はこれをなんとか防衛したものの、朝廷は神事・仏事による沈静化を図った。同年、藤原道長(入寇の直前に胸部の発作に不安を抱いて出家していた)は突然として阿弥陀堂を発願し、強引に造営を始めた。翌年にはこれが無量寿院(後の法成寺)として完成している。なお、これを受領たちに造営させた、というのが面白い。荘園支配の見返りに寺院を造営させたのである。

先ほど「日本仏教は中国仏教から距離を置き」と書いたが、決して人的交流がなくなったのではない。それどころか、入宋貿易のために商人の行き来は盛んだったから、それに付随する形で私的に入宋する僧侶は多く、成尋(じょうじん)、戒覚の二人は五臺山と天台山の両方を巡礼したし、明範(みょうばん)は商人僧として遼に密航している(処罰されたらしい)。明範の弟子の範俊は北宋や遼の密教を参照して新たな修法である「如法愛染王法」を白河院のために行っている。院政期仏教では、それまでの天台宗中心から、真言密教を重視する方向となった(特に醍醐寺・随心院・勧修寺などの小野流と仁和寺を中心とする広沢流)。

12世紀には、東アジアの国際情勢は一気に流動化し、遼が金に滅ぼされ、また北宋も金に滅ぼされた(1127年)。この宋金交代が白河院の最晩年にあたる。この中国王朝の滅亡にあたって、日本こそが仏教の中心たろうとする意欲をもって、仏都平安京の建設が進められたと著者は考える。

本書には大治元年(1126)~大治4年(1129)に造営・供養された仏塔・仏像などが年表でまとめられているが(p.93~99)、その仏事・造仏・造塔の多さはちょっと異常なほどである。それらの特徴として、第1に「仏像100体」「泥塔3万7100基」など、異様な数の多さで造仏・造塔がなされていること、第2に愛染明王像・孔雀明王像・不動明王像など真言密教の造仏(←画像なのか立体なのか不明)が中心であること、第3に女院出産の祈りとして非常な頻度でそれらが行われていること(特に大治4年)、第4にそれらの造仏にあたって「等身仏」として院や女院などとの強い結びつきが想定されること、が挙げられる。

大治4年の白河院の葬儀では、そうした院政期仏教の数を恃む思想が先鋭的に示されている。この葬儀について『中右記』には「絵像5470余体、生成仏5体、丈六107体、半丈六6体、等身3050体、三尺以下2930体、堂宇、塔21基、小塔44万6630余基、金泥一切経書写、このほか秘法修善は千万壇、その数を知らず(p.100)」と記されている。これはほとんど狂信的といえる。ここまでしなければならなかったのはなぜなのか、仏教そのものの変質も当然として、そこに期待されるものが変わっていると思われるのである。

院政期仏教の具体的な様相を見るため、本書では2つの切り口を用意している。(1)嘉保2年(1095)9月24日に堀河天皇の健康回復を祈って行われた仏事と、(2)永久元年(1113)の1年間における平安京の動きである。

(1)では、①大極殿での千僧読経、②内裏清涼殿の昼御座(ひのおまし)での『大般若経』供養、③清涼殿の二間(仏間)で新写した丈六の十一面観音像の供養、④渡殿(わたどの)での読経、⑤東対代廊で経典供養(1年かけて一切経の読経を行う仏事の開始)、⑥諸寺での読経と講説、⑧五畿七道諸国ので観音供養、⑨延暦寺での千僧御読経、⑩万僧供と丈六仏五体の造立などが行われた。天皇を中心として大規模な仏教イベントが一斉に行われたのである。

(2)では、白河院政の一年を仏教中心に見ている。これは量が膨大なので気になったところのみメモする。

1月:大極殿で御斎会(ごさいえ)、真言院で後七日御修法(ごしちにちのみしほ)が行われた。大極殿でも仏事が開催されるのに、わざわざ真言院がもうけられているのは何故なのか。なお御斎会は顕教、御修法は密教の修法によるもののようだ。

2月:院御所では孔雀経法が行われたり、仁和寺の行信法親王(白河上皇子息)に愛染王法を開始させたり、内裏で陰陽道の泰山府君祭を行ったりしている。いろいろな行法・修法が総動員された。孔雀経法は月蝕による災禍を払うため、愛染王法は病気平癒を祈ったものであるらしい。

3月:堀河天皇の遺骨を仁和寺山陵(後円教寺陵)に葬った。

閏3月:東寺長者の寛助が内裏で五壇法を行った。一方、白河法皇は仁王講、仁王経法を別に行わせている。これらはいずれも国王を外敵から守護する仏事だという。延暦寺大衆が大勢下山し、祇園社の神輿を院御所の北門に運んで結集した。

4月:興福寺大衆も上洛し、興福寺大衆・延暦寺大衆と武士が戦い撃退した。彼らは白河院のやり方に不満を抱いていた。

5-6月:京では様々な場所で盛大な仏事が行われた。白河院御所では、東寺長者寛助が大北斗法を修している。北斗七星に祈る新式の祈りであるらしい。

7月:白河院の指示で貴族らの分担によって『大般若経』600巻が書写された。この時代はこういう書写が非常に多い。天永4年が永久元年に改元された。改元の理由は、天変・怪異・疾病・兵革である。法成寺で恒例の盂蘭盆会が行われた。 

8月:寛助が内裏で五壇法、孔雀経法を別日に修し、さらに院御所でも孔雀経法を行った。その褒美として寛助は東寺の国家的位置づけを引き上げる申請を行い認められた。

10ー12月:引き続き数多くの仏事や神事が行われた。東寺の灌頂会が勅会とされ、また寛助は東寺定額僧を10人加えることを求めて認められた。東寺長者寛助の政治力によって、明らかに東寺の権威が引き上げられている。 

このように、嘉保2年は1年を通して、京都で膨大な仏事・神事が行われた。そんな中でも南都北嶺(特に興福寺・延暦寺)の大衆と朝廷とは対立していること、真言宗(特に東寺)との癒着が大きくなっていること、また新しい密教修法が活用されていることは注目される。

摂関期から院政期には、京都の町並みも目に見えて変化した。それを象徴するのが仏塔の乱立である。この頃、京都をとりまく寺院の塔を百以上巡る「百塔巡礼」が流行したことはその象徴である。

10世紀後半にすでに百寺巡礼があり、これは一日か二日で京都周辺の寺院を徒歩で巡るものであった。つまり徒歩で巡れる範囲にそれだけの寺があったことになる。これが12世紀後半に向けて、さらに塔が新築ラッシュを迎える。本書には白河治政(1083〜1128年)における造塔(小塔を含む)の事例が表でまとめられており、法勝寺八角九重塔は例外としても、造塔がブームになっていたことが明瞭である。

これらの中から、木造高層建築としての塔のみを見ると、法勝寺の他、尊勝寺の東西二塔、白河泉殿の三重塔、最勝寺の塔、円勝寺の三重塔(2基)と五重塔、上加茂社の東西二塔、鳥羽の三重塔と多宝塔二基、仁和寺観音院の塔がこの時代に建設されている。

泥塔などの小塔の製作については、いちいち数えるのが煩わしいほどで、合計すれば何百万基と製作されている。

これらについて著者は、「泥塔を大量生産した目的は、白河上皇の「御息災安穏・増長宝寿」といった願いにあるという(p.151)」とし、また「造塔事業に力を注いだ白河院には、(中略)二つの意図があった。一つは自身の延命祈願である。もう一つは、I部第四章で述べたような、国際情勢を勘案した平安京の改造である(p.153)」と述べ、「塔の増築は、釈迦の遺跡を日本に据えるという意思の端的なあらわれであろう(同)」とする。確かに、銭弘俶八万四千塔の伝来など、大陸の造塔が刺激になっていることは間違いない(北宋や遼には法勝寺八角九重塔と同形の多層塔がいくつもあった)。

しかしそれにしても、造塔の異常なほどの多さはそれだけでは説明できないように思う。八角九重塔が一つでは十分でないのか。それだけの塔を造る意味はなんなのか。不思議に思った。

続いて新しい仏教を象徴するかのような秘密仏事「転法輪法」について、『覚禅鈔』に基づいて紹介している。この修法の元となる経典は中国から平安時代初期にもたらされたものであるが、この修法自体は12世紀に6回行われたことが記録に残っている。これはどうやら政敵の調伏法として行われたらしい。特に鹿ヶ谷事件のすぐ後に、後白河上皇が醍醐寺僧に命じて法住寺内裏にてこの修法を行わせているが、その実施責任者は後白河院の子、仁和寺宮守覚法親王であるというのも面白い。

この修法では、本尊を大輪明王(曼荼羅)として、転法輪筒という筒に依頼主の画像を入れ、その画像が調伏対象の「姓名」を踏みつけているようになっている。平たく言えば呪いの方法である。このような修法が最高権力者によって行われるというのは、時代の一断面として極めて興味深い。

最後に、このような新時代の仏教が民衆にどう受け取られていたのかという簡潔な考察がなされている。それを簡約すれば、豪壮な寺院の建立などは民衆にとってあまり意味はなかったが、御霊会や田楽運動を中心として、権力者の仏教とは違った形で民衆も主体的に仏教を求めていったのがこの時代である、ということである。そしてそうした民衆仏教の拠点は、地域共同体が支える里山の寺院となっていったという。

本書は全体として、摂関期から院政期の仏教を窺わせる数多くの具体的な事例が提示されており、いろいろと考えさせる。上のメモでは言及しなかったが平安京周辺の寺院の立地図なども見るだけで面白い。

ただし、院政期仏教の焦点となる院政と仏教の関わりについては、全体的にはよく分からなかった。また浄土信仰の展開において、院政期がどう位置づけられるのかについてもあまり言及されていない。どちらかというと、本書では院政と真言密教の深い繋がりを強調している。

摂関期・院政期の仏教がそれまでとは違ったものになっていったことを、様々な事例から述べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/12/blog-post.html
院政の展開を述べる本。制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

2024年12月5日木曜日

『院政 増補版——もうひとつの天皇制』美川 圭 著

院政の展開を述べる本。

本書は、後三条天皇から後嵯峨院政までを中心として、院政の展開を描くものである。ただし、院政という制度がテーマではあるが、平安期末から武家政権の成立、そして両統迭立の時代までの通史を朝廷(と幕府)の人間関係を軸に語っており、制度論ではない。

私が本書を手に取ったのは、日本史の中で院政期が手薄に感じていたことと、なぜ院政期には巨大な寺院が次々と建立されたのかという疑問があったからである。そして、なぜこの時代の為政者(上皇だけでなく将軍も)は出家したのかということも前々から不思議に思っていた。それは単に極楽往生を望んでいただけだったのか、それとも制度的に出家する意味があったのかどうか。ちなみに初の法皇(出家した上皇)となったのは宇多天皇である(昌泰2年(899年))。また、上皇(太上天皇)を「院」と呼ぶことは当たり前のようであるが、よく考えてみると「院号」というものは捉えどころがない。女性も院(女院)を名乗ったし、非常に高位の人の称号のようでいて、近世には修験者なども院号で呼ぶようになるのである。どうして上皇は「院」となったのだろうか。

結論を言えば、本書はこうした疑問にはほとんど答えてくれなかった。上述のように、本書の中心は「人間関係」であるからだ。巻末の人物索引には400名もの人名が掲げられている。大量の人物が登場し、主要な登場人物に限ってみても複雑な血縁関係で結ばれ、名前も似ている人が多いので、正直なところあまり頭に入らなかった部分がある。というわけで、本書の中心である「人間関係」は今回メモから外し、院政という政治形態についてまとめてみたい。

院政の前提となるのは摂関政治である。摂関政治とは、天皇の外戚(天皇の妻の実家)が摂政や関白を務め、ミウチで行う政治である。

摂関政治においては天皇の意志よりも外戚の意志が優先され、次期天皇の人事権も外戚に左右された。この背景には、藤原道長が多くの女子をもうけて4代にわたる天皇の中宮・女御を輩出したことがある。しかしその息子頼道は娘が一人しかなく、彼女は後冷泉天皇の皇后になったものの跡継ぎを生むことはなかった。その結果、摂関政治がゆきづまり、治暦4年(1068)、宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇として即位したのが後三条天皇である。

後三条天皇は新たな権力基盤を創出しようと意欲的な治政を進めたが、39歳の若さで譲位する。それは、「藤原氏出身の茂子(もし)を母にもつ皇太子貞仁(白河天皇)即位のあとに、藤原氏でない源基子が生んだ実仁を東宮とし、白河のあとに即位させる(p.30)」ためだったのではないかと著者はいう。院政の核には、皇位継承問題があるというのが著者の考えである。ただし後三条天皇は譲位からほどなくして亡くなってしまったため院政と呼ぶべきものは行われなかった。

白河天皇としては、異母弟の実仁に位を譲るよりは、自分の子に譲位したい。実仁は後に疱瘡で亡くなったが、まだその弟の輔仁がいた。そこで白河天皇は、わずか8歳の善仁を皇太子として、同日に譲位してしまうのである。この白河天皇の譲位、堀河天皇の即位をもって、白河院政の開始とされる。

摂関政治が自然消滅したのは、外戚が道長の嫡流に限定されて入内(じゅだい)できる家柄の女子が少なくなり、結果として外戚家の人間も減ったからである。摂関政治は、入内できる女子さえいればいいのではなく、摂関となりうる人間はもちろん、それを支えるミウチの公卿がいる。外戚家がチームとなって天皇を支えるのが摂関政治だとすると、入内できる女子の家柄が特定されてしまうとチームが組めなくなってしまい、摂関政治ができなくなるのである。

さらに、堀河天皇が若くして死去した後、堀河天皇の摂政を務めていた藤原忠実を、白河上皇は新帝鳥羽天皇の摂政に横滑りさせた。忠実は鳥羽天皇にとって外戚ではない。外戚ではない忠実が摂政になったことで摂関を世襲する家柄=摂関家が外戚とは独立に成立していくのである。忠実の家系としては、適齢の女子をみつけて入内させるより、摂関家として摂関の地位を独占することが優先されるから、むしろ外戚家の地位が高まらない方が有り難い。上皇・天皇の側としても、外戚家に全ての実権を握られるより、摂関家の権威を立てておいて比較的自由にできるほうがやりやすかったに違いない。こうして、摂関家と天皇家の利害が対立しつつもある面で一致したことによって院政が出現するのである。

院政は、上皇が執政することと思われがちであるが、実際には上皇が行政庁(太政官)を運営するのではない。やはり国政は太政官によって担われていた。これに対する上皇の関与は「非公式」であった。例えば朝廷の人事は「任人折紙」という非公式のメモによって事実上院がにぎっていた。

院には「院庁(いんのちょう)」という機関があり、かつてはこれが太政官に代わって政権を担ったと考えられていた。しかし院庁はあくまでも家政機関で、直接国政に関わる機能は持っていなかった。ではどうして非公式に太政官に介入したかというと、院司(院庁の職員)を主従的な関係によって把握することで従前の政治機構を掌握し、また院宣という私文書の発給が活用された。

院権力の確立に与ったと考えられているのが、寺社強訴である。院政期は寺社強訴が飛躍的に増加した時期であった。寺社強訴とは、寺社の権威をもって寺社の大衆(だいしゅ)が大勢で押しかけてくるデモのような団体行動である。寺社は大荘園領主であり、国家と利益相反していたと同時に、寺社や受領などと院の結びつきが事態を複雑化していた。要するにその原因の一端は院にもあった。そこで、寺社強訴に対する裁定が院御所で審議されるようになるのである。これをきっかけに、国政に関わる問題でも院御所での公卿会議が開催されるようになった。

また、院は独自の武力も持つようになる。所謂「北面の武士」である。その代表が平氏で、彼らは武力による奉仕だけでなく、荘園の寄進、造寺・造塔などによって院にとりいった存在であった。

また、院政の成立は荘園制と深い関係がある。 荘園の集積に早く取り組んだのは藤原忠実であった。そして荘園からの物品を集積する街として宇治が整備される。宇治は平等院を中心とした碁盤の目上の町並みとなり、藤原氏の「権門都市」となっていった。

一方の王家の方は、法勝寺の造営(1075)、有名な八角九重塔(1083)が白河天皇によって行われるなど白河(京の東に隣接する地域)に天皇家の御願寺群が造営されていった。こうした御願寺群の運営は、荘園を当てにするのではなく、国家的な給付としての封戸に基づくべきだというのが白河天皇の方針であったが、国司からの封戸納入の悪化によって荘園に頼らざるを得なくなり、院近臣をはじめとする院の周囲の人々の力で広大な領域型荘園が設定されていった。

ともかく、大荘園領主として藤原氏と王家が並び立つとその利益は相反する。藤原氏による荘園の集積を好ましく思わなかった白河上皇が藤原忠実を掣肘したのが、保安元年(1120)の忠実罷免事件である。

続く鳥羽院期に特に多くの荘園を設定して数々の御願寺を造営したのが藤原家成(摂関家ではなく末茂流)である。彼は「御願寺の造営を請け負って、その荘園が新たに必要となると、自分のもつ知行国での立荘を繰り返した(p.84)」。どうも、彼は立荘の名目として御願寺を使っていたような形跡がある。

ところで、院政の本質とは関係ないが、白河法皇(娘をなくして出家していた)が生前「わが崩後、荼毘礼を行ふべからず。早く鳥羽の塔中石間に納め置くべきなり」(『長秋記』)と命じていたのは興味深い。この塔とは鳥羽殿の三重塔である。鳥羽殿とは白河上皇が遊興の場として造営した京外の離宮であったが、鳥羽院政期には寺院と御所の両方が整備されて京外へ出た初めての「後院」(譲位後の御所)となり、また白河・鳥羽・近衛の3人の墓所ともなった。

後白河天皇の擁立にあたっては、本書に興味深い考察があるが「人間関係」の話なので割愛する。「保元の乱」で崇徳上皇と後白河天皇が対立し、また摂関家も分裂して主流側が壊滅した。勝者は後白河天皇だったが、権力基盤は脆弱で「家長不在の王権(p.114)」となった。こうした状態で政界の中心となったのが、旧鳥羽院の近臣たちである。なかでも最も活躍したのが信西(藤原氏傍流の出身で、身分の壁を打ち破るために出家していた)である。

後白河天皇は二条天皇に譲位したが、これは院政にはならない。後白河天皇は鳥羽法皇の王家領荘園をまったく継承できておらず、その大半を継承していたのが美福門院(鳥羽法皇の皇后)であったため、美福門院の下で信西が王家を取り仕切っていたのである。こうなると「反信西連合」が形成されざるを得ない。そうして起こったのが「平治の乱」である。

平治の乱では信西は脱出したものの自殺、後白河上皇は事実上の幽閉状態となり、そこで彼が頼ったのが平清盛であり、その結果として清盛は後に実権を得た。

そして後白河上皇は二条天皇と決別し、旧信西邸跡を中心として十町余の敷地を囲い込み、そこにあった墓地をわざわざ立ち退かせてつくったのが法住寺殿である。これは最初から自分の墓を造るつもりであっただろうという。

一方、二条天皇は永万元年(1165)に生まれてわずか7ヶ月(数え年2歳)の順仁(のぶひと:六条天皇)に譲位するが、二条上皇はその年の内に亡くなってしまった。後白河はこの状況で平清盛の妻の妹滋子に生ませた憲仁を8歳で即位させた。高倉天皇である。8歳の天皇と5歳の上皇。院政における天皇の意味するものを象徴的に表す光景だ。こうして二条の皇統が断絶して後白河の皇統が確立した。嘉応元年(1169)、後白河は出家し法皇となった。ちなみに前年の仁安3年(1168)には、その前年に太政大臣を退いた平清盛も出家している。

やがて後白河法皇と清盛は対立し、法皇は清盛への挑発を繰り返した。その結果、清盛は軍事力で法皇近臣を排除し、法皇を鳥羽殿に幽閉した。こうして後白河院政は停止される。軍事的に政権を樹立した清盛は、高倉院政を傀儡化することによって国政を担った(なお天皇は清盛と後白河の双方にとって孫である安徳天皇)。そして諸権門から逃れて清盛が全てを取り仕切る体制として福原遷都を断行した。

ここで面白いエピソードがある。「高倉上皇の夢の中に生母建春門院があらわれて、墓所のある京を離れたことに激怒したという噂(p.157)」があったそうだ(『玉葉』)。福原で高倉上皇が衰弱したため、 「万一のことがあるならば、後白河をその代わりとして院政を復活させるしかないと清盛は考え(p.159)」たというのも興味深い。なぜそうまでして院政にこだわったのか、そこがよくわからない。安徳天皇+摂政では十分でないという意識が間違いなくあったことになる。

ともかく、高倉天皇は僅か21年の生涯を終え、清盛の傀儡とはいえ後白河院政が復活した。そして清盛が亡くなると、その子宗盛は父とは違い優柔不断で、結局後白河に政権を全面的に返上する。こうして後白河院政が名実共に復活した。

ここまでが本書の約半分で、ここからは頼朝の挙兵、鎌倉幕府の成立といった話題になる。ただし、鎌倉幕府の動きは割愛し、院政に限って簡略にメモする。

後白河は頼朝と対立したが、後白河院政は頼朝が巧妙に牽制することによって存続した。そして法皇の没後、後鳥羽天皇が建久9年(1198)に僅か4歳の土御門天皇に譲位して、ここに後鳥羽院政が開始されるのである。この後鳥羽院政が、院政のピークである。国政の実権は幕府に握られながらも、後鳥羽上皇は遊興にふけった。「この時期の後鳥羽ほど、「自由」な上皇はいないのである(p.200)」。後鳥羽上皇の文化事業は非常に重要で、『新古今和歌集』の勅撰、管弦(琵琶)などは文化を通じて貴族を組織していくという新たなタイプの王権が創出した。

承久の乱では、後鳥羽上皇は冷静な判断力を失って討幕に先走った。これは朝廷対鎌倉幕府ではなく、あくまで上皇の挙兵であり、院方は圧倒的な劣勢だった。だが上皇としては延暦寺の僧徒が味方するものと踏んだらしい。ところが延暦寺も味方せず、追討宣旨の効果もなく後鳥羽は敗退した。

乱後、異例なことに多くの公卿が処刑され、後鳥羽と順徳の両上皇は隠岐と佐賀に流された(土御門天皇は自ら希望して土佐に流された)。ここで面白いのは、後鳥羽上皇が配流に先だって出家していることである。 なぜ配流の準備として出家したのか。

さらに面白いのは、戦後体制では、後鳥羽の同母兄ですでに出家していた守貞親王が後高倉法皇として院政を行っていることである。即位した経験のない後高倉法皇を担ぎ出して院政を執らせたのはなぜなのか。著者は「そのような院を置かねばならないほど、院政という政治形態が定着していたことを示す(p.227)」というが、それはそうとしても、実務上必要だったとしか考えられない。それがどのような実務であったのか、本書からは詳らかでない。

承久の乱で変わったのは、寺社の強訴に対する主体が院から幕府に移ったことである。これが院政の大きな曲がり角だったという。さらに皇位選定権においても、承久の乱後に即位した四条天皇の場合は幕府は介入できなかったが、四条天皇がわずか12歳で亡くなると、幕府の執権北条泰時は強硬に土御門天皇の皇子邦仁を押し、これが後嵯峨天皇として即位した。その後の皇位選定権は北条氏ににぎられることになる。院政を構成する重要な要素が、寺社の強訴への対処と皇位選定権であったが、このどちらもが形無しになったのである(実際、この時期は院政が行われていない)。

さらに、寛元4年(1246)、後嵯峨天皇は在位4年で4歳の皇子に譲位し院政を開始したが、摂関の人事権までも幕府に奪われる。こうして幕府の傀儡になってしまうかに見えた院政だったが、朝幕協調の路線になってきて風向きが変わる。それは所領関係の裁判において幕府と朝廷が連携して裁定することが重要だったからである。そこで幕府と朝廷の連絡を担当する関東申次が重要になり、受理窓口である伝奏制度や院の元で合議を行う院評定制も整えられた。こうした中で、幕府は後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を将軍として迎えるのである。このようにして、従前の非公式的かつ専制的な院政に代わって、制度化された院政が出現するのである。

文永9年(1272)に亀山天皇による親政が開始されると、「院評定制がそのまま内裏鬼間(おにのま)での議定制に継承され、議定の内容も議定衆の構成も、それまでの院評定と変わることがなかった(p.248)」。ということは、太政官を院庁が換骨奪胎し、院庁に行政機構が全て吸収されてしまったということになる。親政と院政は内容的に変わらないものになったのである。執政者が天皇であるか上皇であるかだけの違いになったということだ。

ここから本書は両統迭立について述べ、後醍醐の挙兵の経過を辿っている。さらに南北朝時代を経て、江戸時代になっても院政が行われていることを述べている。院政の最後は光格院政である。ただし、実質的な院政の最後は、足利義満が政務を指揮する体制ができた時だとしている。それから後の院政は、国政の実質を担っていないのである。

増補版で補われた「終章 院政とは何だったのか」では、院政の展開を改めて振り返って擱筆されている(本書全体の要約になっている)。

本書は全体として、院政がわかったような分からないような本である。それは、冒頭に書いたように制度論ではないからだと思う。院政を視点の中心に据えながらも歴史の展開を「人間関係」を軸に語っているので、その部分を理解するのに精一杯になってしまう。そして、院政の成立と深く関わっているのが荘園制であるが、本書では荘園制がごく簡単にしか解説されていないのも院政がわかりづらく感じる原因の一つだろう。

ただ、本書を読みながら、院政期というのが日本の歴史にとって画期的な意義を有していることが強く伝わってきた。院政期には、すでに中世社会の特質が先鋭的な形で表出しているのである。荘園制の拡大と所領紛争、武士の擡頭、寺社の変質などである。私は今まで院政期を古代から中世への中継ぎ的なものだと考えていたのだが、古代から中世へ脱皮するためのさなぎのような期間、大きな社会変動が起こった期間だと考えを改めた。

最後に、気になっていた院号について、こういう話があったのでメモしておく。 三条天皇の皇子敦明は、東宮を辞退して「小一条院」という院号が与えられている。本書ではこれは「上皇に準ずる待遇である(p.22)」としているが、院号にそういう意味があるのだろうか。院号の意味は別途追求してみたい。

制度論は弱いが、院政の展開を総合的に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/03/blog-post.html
荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。

2024年11月30日土曜日

『葬式仏教』圭室 諦成 著

仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。

日本では、葬式と言えば仏式と相場が決まっているが、日本に伝来した元来の仏教は葬式を行うものではなかった。それが葬式を行うようになった次第については、今では多くの研究が蓄積されている。本書はそうした研究の嚆矢となった、最も早くまとめられた葬式仏教論である(昭和38年(1963)の出版)。

なお、「葬式仏教」の語は、今では「葬祭だけを担う精神性を失った仏教」という批判の意を込めて使われることが多い。この語は本書によって広く知られるようになったのだが、実は本書ではそういう意味はなく、単に「葬式を担う仏教」という言葉として使われている。

ただし、「葬式仏教」に対する著者の見方は両義的だ。葬式を担うようになってはじめて仏教は民衆的なものとなりえた、という肯定的な評価をする一方で、はっきりとはそう書いていないものの、それが本来の仏教の在り方からは逸脱したものだという語気も感じられる。その背景に、著者は曹洞宗の僧侶でもあるということが関わっていそうである。

「第1部 政治と宗教」では、まずそもそも宗教とは何かが政治や国家との関連で述べられる。ここでは、神話が支配者にとって都合よく作為されたものであったことが糾弾されるような調子で主張されている。ここで著者が強調することは、宗教というものも作為の産物であるということだ。ここは葬式仏教を語る上ではあまり必要ないように思ったが、戦時中には宗教(国家神道)が為政者にいいように利用されたのだという怒りがこのような内容を書かせたのかもしれない。

さらに、神仏習合や本地垂迹説が触れられるとともに、僧侶や教団が世俗化・貴族化し堕落していったことが述べられる。著者はそれを「宗教として失格」とまで断じている。辻善之助の『日本仏教史』では、ことさらに近世仏教の堕落が強調されたのだが、本書ではさかのぼって平安仏教までが堕落していたとされている。

そして堕落した仏教界から抜け出たのが遁世僧と呼ばれる存在である。その先駆者として教信沙弥、空也、空阿弥陀仏などが取り上げられる。しかし遁世僧に対しても著者は批判的だ(!)。それは、(1)彼らの態度が逃避的でひたすら浄土往生のみに執心している、(2)苦行にこだわって、肉体的な苦痛に耐える以外の修行の形式を見出さなかった、(3)遁世するにも生活費は準備しなくてはならず、貧乏人には遁世者になれなかった、という理由からだ。遁世僧は総じて非社会的であったため、「社会不安がとりのぞかれると霧消すべき運命にあった(p.60)」。

葬式仏教の端緒を開いたのは、恵心僧都源信である。本書では彼の『往生要集』が詳しく紹介される。それが臨終に大きなウェイトを置いており、その実践として彼が二十五三昧講を組織したことが仏式の葬式を推し進める契機となった。

「第2部 葬式の展開」では、各宗派での葬祭の成立が述べられる。

まず葬祭や墓の民俗が概観される。そこには死霊を恐れて封じ込める意図と死者を悼む意図の両方が見られる。次に縄文時代からの葬法を振り返り、仏式以前の葬法がいかなるものであったか述べている。

まず天台宗の葬送について史料に基づいて述べているが、特に1036年の後一条天皇の葬式は興味深い。それは念仏→呪願→荼毘+念仏→土砂加持→骨を拾って寺に納骨、というものである。念仏僧が活躍していることとと、墳墓ではなく寺に納骨しているのが特徴的だ。天皇家は仏式の葬儀を最も早く受け入れており、ここでは御一条天皇以降の天皇の葬儀・納骨の例がまとめられている。

次に真言宗については、光明真言によるによる土砂加持と葬祭を述べている(しかしこれはむしろ律宗の特徴かもしれない)。真言宗では過去帳が重視され、また高野山では11世紀末から納骨の勧めが盛んになされるようになった。

次に浄土宗・浄土真宗。天台・真言に比べるとこれらは民衆に浸透するのがずっと早かった。『今昔物語』の「播磨国印南野において野猪をころした語」では、浄土教の葬祭が農村に浸透していた様子を窺うことができる。

次が禅宗である。中国の禅宗では、儒教の影響を強く受けて葬法を整備した。古い形は1103年に編纂された『禅苑清規』に見える。これでは「尊宿」と「亡僧」の葬法の2つを述べている(「尊宿」とは「仏法の真理を体得した僧」で「亡僧」とは「修行の途中で亡くなった僧」)。「禅宗の葬法が完成した12世紀は、中国の葬法のうえでも、そのピークの時期であった(p.122)」。この時期に司馬温公は仏教の葬祭を批判し、朱子は『文公家礼』を著して儒教の葬法を整備している。

さらに日本の禅宗での葬法を詳細に述べているが、日本の禅宗では僧侶だけでなく武家や庶民の葬法も担うようになっている。この中では、尊宿葬法で故人の肖像画を須弥壇の上にかける作法が興味深い(在家では棺の前に肖像画をかける)。これは現代の遺影の原型にあたるものだろう。ここで著者は面白い分析をしている。禅語録から座禅関係と葬祭関係のページ数を調べているのである。それによれば、臨済宗でも曹洞宗でも、13世紀には座禅関係が圧倒的だったのに、15世紀では葬祭関係が主になっているのである。禅宗は15世紀には葬式仏教になったのである。

「第3部 追善と墓地の発想」では、死者の冥福を祈る追善の仏事が徐々に肥大化していったさまを宗派ごとに述べている。

葬祭が魂をあの世に送るだけであれば墓は必要ないが、日本人はその魂がいつまでもどこかにとどまっていると感じ、ある程度の期間の祭祀を必要とした。つまり墳墓および追善のための法要や施設を設けたのである。その一つが五輪塔や宝篋印塔といった石塔である。

追善のための法要では、四十九日の仏事は10世紀頃から盛大に行われるようになり、百か日・一周忌・三年忌に加えて、様々な仏事が行われるようになった。平安時代ころには一周忌で終わっていたのが、鎌倉時代に入ると三年忌が行われるようになり、次第に追善は長期化した。

これは中国における仏事の長期化に対応していた。実は11世紀の中国では葬式・七七日・百か日・一周忌・三年忌という葬制が定まっていたのである。中国では偽経『十王経』に基づいて10回の仏事「十仏事」が確立していた。日本でも偽経『地蔵十王経』が創作された。これらにより、(1)初七日:秦広王、(2)二七日:初江王、(3)三七日:宋帝王、(4)四七日:五官王、(5)閻魔王、(6)六七日:変成王、(7)七七日:泰山王、(8)百カ日:平等王、(9)一周忌:都市王、(10)三年忌:五道転輪王、というように、追善の仏事とその主宰神が対応させられた。面白いのが、それぞれの仏事において「本来は地獄行きだが、追善の功徳によって次の王のところへ送られる」という先延ばしがなされることである。

さらに、12~14世紀頃には、七年忌、十三年忌、三十三年忌を加えて十三仏事となった。16世紀には、十七年忌、二十五年忌を加えて十五仏事という言葉も見えるようになる。しかし本来、仏教では中有の期間(49日)を過ぎれば転生して次の命となるはずで、こうした長期間にわたる仏事は仏教教理上では位置づけられない。光厳院が1332年の日記で「後嵯峨院以後代々すべてこのことなし。よって不審の間、由緒ならびに先例を忠性、憲守らに相たずぬ」としているのは面白い。こうした疑問に答えるために『地蔵十王経』が加工されて『十三仏抄』が15世紀ごろに偽作されているが、結局、なぜそうした偽経を作ってまで追善を長期化させたのかといえば、「信者の宗教心理をたくみに利用して、寺院がわが、追善の回数をふやしたまでのことである(p.173)」と著者は冷ややかだ。

ただ、そこには「信者の宗教心理」すなわち、死者を長く弔いたいという需要に基づいていたわけで、民衆の気持ちに寄り添っていたともいえる。さらに祥月と月忌が庶民の間でも一般化した。故人への仏事の回数はひどく増加したのである。

また、中世後期からは仏教は幼児の死に強い関心を持ち始めた。7歳までは死去しても仏事は行わないというのが普通だったのに、徐々に幼い子供にも仏事が必要であるとみなされ、「賽の河原和讃」(一重つんでは父のため…)も作られた。これは経典には全く根拠はない、民間信仰である。

このようになると、寺院経営は庶民の葬祭なくして成り立たなくなった。真宗では、念仏を唱えれば往生するという理念と追善とは両立せず、当初は追善を拒否していたが、蓮如に至って十王信仰を全面的に肯定し、追善の功徳を強調する「御文」を書いた。だがその中でも「三十三年なんどまでも、その追善をいたすことは、聖教のなかにあきらかなる説なしといえでも…」と書いているのは興味深い。蓮如としては追善に前向きではなかったが、それを求める庶民の要望に応えたいという気持ちがあったようだ。葬式仏教化は、仏教の庶民化でもあったのである。

ここで、日蓮宗と天台宗の庶民化について述べ、天台宗は特に庶民化が遅れたとしているが、その評価がまた辛辣である。曰く「天台宗は、その独自の葬法をすてて、浄土宗・真言宗・禅宗の葬祭儀礼のなかで、社会的に好評なものを採りいれて、あたらしい、ただし個性のない、万人向きの葬祭法をつくりあげた(p.188)」。

さらに流行した仏事として逆修と施餓鬼会が取り上げられる。特に施餓鬼会はなかなか類書では取り上げられない内容で面白い。施餓鬼会は平安時代から行われていたが、特に室町時代に追善の方法として流行した。施餓鬼棚の壇上に安置する位牌を「三界万霊牌」というが、三界の「霊」「幽霊」の冥福を祈るというのが仏教教理の上でどう位置付けられるのか謎だ。この頃、武将は戦争が終わるごとに大施餓鬼会を催しており、それは慈悲の心といううより「亡魂のたたりを封ずる呪術(p.198)」の面も大きい。敵味方を区別せずに供養するのも敵の死霊のたたりを恐れたからだと、いくつかの実例を引いて示している。その背景には、不遇な死に方をしたものは、必ずたたるという信仰があった。

さらに、盂蘭盆会、彼岸会について取り上げている。特に彼岸会は完全に日本製の仏事で、その初見は806年の崇道天皇のための仏事である。

「第4部 葬式仏教の課題」では、近世および近代の仏教がいかに展開したかが述べられる。

「葬式、仏事の普及版が一応完成したところで、1467年いわゆる応仁の大乱という、画期的大事件を迎えた(p.211)」。そして諸寺院は郷村に根を下ろし、農村の機構に深く浸透していったようである。寺院構成は「郷村の、自治的・惣的結合の確立過程に、照応する(p.257)」。

ここで本書では、宗派ごとの伝道についてまとめている。その詳細は割愛するが、要するにそうした運動の結果、1467年から1665年までの200年の間に、現在の寺院分布の大筋が出来上がったのだという。

次に近世~近代の寺院分布についてさまざまな史料によって述べている。ここで興味深いのは、別当寺(本書の見方では辻堂・神社などに寄生して成立した寺院)や山伏に注目しているところである。なお地域としては、東京、足利、会津、米沢、高山、能登、人吉が取り上げられる。これらの地域で、どんな寺院が建立されまた維持されたかを検証してみると、農民が仏教に求めていたものは、葬祭と治病だったということが言える。

江戸時代には檀家制度が作られ、全ての人はいずれかの寺院に所属させられることとなった。「宗門寺壇那請合の掟」は、檀那寺への奉仕を果たさなくてはならないという偽作の掟であるが、形式的に檀那寺に所属しなくてはならない以上の義務感を庶民に喧伝した。檀家制度には庶民から寺院が収奪するという弊害や、僧侶がその地位に安住して堕落するという問題が生じ、それらは様々に記録された。だが「この時代における堕落が、相対的にはなはだしかったと考えるよりも、何がゆえにそのことが、とくにこの時代に問題にされねばならなかったかを考えることが、問題の正しい提出の仕方であると思う(p.268)」として、著者は辻善之助の近世仏教堕落史観に修正を加えている。

さらに廃仏論(熊沢蕃山と中井竹山)と17世紀の廃仏を取り上げ、さらに吉田神道が葬祭を担うようになったことについて述べている。ここで天台宗・真言宗の寺院が中世末になると修験道の手に移り、山伏が神主化することで吉田神道に流れていくというシナリオが描かれている。神葬祭については、「儒葬祭の換骨奪胎にすぎない(p.282)」とこれも手厳しい。神葬祭の初見は1687年、吉田家から黒田肥前守京都留守居にあてた答申書にあり、実施の初見は1785年、寺社奉行が吉田家から許状を受けた神職などは神葬祭を行ってよろしいという寺社奉行の指令である。

さらに平田篤胤や廃仏毀釈について簡単に触れ、最後に明治維新後の檀家制度の廃止について述べているが、この部分は非常に簡略である。しかし「それから100年、葬祭宗教としての仏教の地位は、依然として牢固たるものである(p.291)」として擱筆している。

冒頭に述べたように、本書は最も早くまとめられた葬式仏教論であるために、非常に粗削りな面がある。例えば、ある項目ではかなり細かい議論をしたかと思うと、別の項目では極めて概略的にしか述べられない。だが本書が執筆された時期には、こうした研究がまだほとんど蓄積されていなかったことを鑑みると、それはやむを得ないと思われる。それに著者は論文ではなく様々な史料を博捜して、努めて実証的に述べている。いちいち史料の記述にあたる必要があるため、細かい議論に立ち入る必要が出てくるのである。

また、本書では常に各宗派の動向に目配せがしてある。仏教と十把一絡げにするのではなく、常に宗派ごとに分析しようとするのは緻密な態度である。

そして驚かされるのは、本書の後に様々な研究者によって展開される葬式仏教論の論点が、すでにほとんど全て本書に盛り込まれていることだ。本書は小著でありながら視野が非常に広い。私はこの分野の本をそれなりに読んでいる方だが、本書には原点としての新鮮さを強く感じた。

葬式仏教論の嚆矢である名著。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『葬式仏教の誕生—中世の仏教革命』松尾 剛次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post.html
仏教が葬式を担うようになった変化を描く。葬式仏教の成立を広い視野でコンパクトにまとめた良書。

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/13.html
日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

『葬式と檀家』圭室 文雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post_21.html
檀家制度がいかにして生まれ、それが何をもたらしたか述べる本。近世の檀家制度成立をわかりやすくまとめた良書。

『日本葬制史』勝田 至 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/02/blog-post.html
日本の葬制史の概説。葬送史をまとめることで、死への考え方の変遷まで垣間見える労作。

★Amazonページ
https://amzn.to/3Zbil0Q

2024年11月16日土曜日

『出羽三山―山岳信仰の歴史を歩く』岩鼻 通明 著

出羽三山についての概説。

出羽三山とは、山形県のほぼ中央に位置する三つの山であり、修験道の修行の山として栄えた有名な霊場である。だが私にとって出羽三山は土地勘のない東北のことなので、どうも印象がボンヤリとしている。そこで手に取ったのが本書である。

出羽三山は、かつては月山(1984m)、羽黒山(414m)、葉山(1462m)の3つの山を指したが、近世以降は葉山に変わって湯殿山(1500m)が三山に加わった。三山の中で羽黒山だけが低山なのが特徴的だ。

月山の史料上の初見は早く、平安時代に編纂された法制書『新抄格勅符抄』に宝亀4年(773)のこととして、「月山神」に神封2戸を寄せられたとある。『日本三代実録』にもしばしば月山神が登場する。

羽黒山が登場するのは古代から中世への過渡期である。その縁起によれば、崇峻天皇の子供である蜂子皇子が能除大師として羽黒山を開いたという。ただし、これは朝廷からは認められていなかった説である(神仏分離後に認められた)。なお羽黒山は熊野信仰との密接なかかわりがあったらしく、羽黒山には熊野権現が勧請されたのだという(『羽黒山縁起』)。

湯殿山の信仰はちょっと変わっている。山そのものがご神体なのではなく、山中にある温泉の成分が凝固した赤茶けた巨岩がご神体だからである。神仏分離以前は「ご宝前」と呼ばれたそうだ。史料に現れるのは中世後期の戦国時代である。

葉山に代わって湯殿山が出羽三山に含まれるようになったのは、信仰上の変化とともに、峰入りのルート整備に関わる理由ではないかという。

中世の羽黒山は諸宗派から構成されていた。「山頂のご本社を取り巻く寺々は真言宗、五重塔の周囲と門前町の寺や坊は天台宗で、臨済宗の寺も二カ寺あり、念仏寺院も三カ寺(p.42)」あったという。「羽黒修験」と呼ばれる存在は、こうした寺にそれぞれ所属していたのか、あるいはこれらの寺と独立に存在していたのかよくわからないが、ともかく江戸幕府の政策で、修験と認められるためには「本山派」か「当山派」のいずれかに属さなくてはならなくなった。そこで羽黒山別当の天宥は、寛永18年に天台宗の天海に弟子入りし、羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した。こうして羽黒山は本山派・当山派とは別の独立した地方修験の山として公認された。

だがその統一によって、三山の内部の天台宗と真言宗との争論が勃発した。出羽三山には7つの登山口があり(八方七口)、それぞれを別当寺が管理していた。うち3つが天台宗で羽黒山、うち4つが真言宗で湯殿山を押さえていた。それらが、寛永・寛文の二度にわたって湯殿山の祭祀権をめぐって争論を行ったが、それを「両造法論」という。この結果、幕府は羽黒山と月山は天台宗側に、湯殿山には真言宗側に祭祀権を認めた。出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分割されたことになる。地理的には「月山・湯殿山」が一体で、羽黒山が離れているのにこのように分割されたのは非常に政治的だ。

羽黒山は寛永寺の末寺になったことで後ろ盾を得、天宥以降の別当は日光山輪王寺宮門跡が務めることになった。また文政6年(1823)には羽黒権現は式内社の伊氐婆(いでは)神社であると主張して「出羽神社羽黒山三所権現」に正一位の位階が贈られた。また開山の能除太子に「照見大菩薩」の諡号も贈られた。三山の中では一番低い羽黒山が出羽三山で一番の権威を持っていたようである。

明治維新後、庄内藩には神仏判然令が明治2年5月に伝えられた。羽黒山は出羽神社(現在の出羽三山神社)と改められたが、寺院や堂塔などは仏地として残された。また月山山頂は神社とするが胎内岩付近は仏地とすることなどが取り決められた。このあたりは簡潔にしか書いていないがどういう線引きだったのか興味深い。さらに明治6年には西川須賀雄が出羽神社の初代宮司として赴任してきた。西川は、「すでに復飾していた羽黒山内の清僧修験の院坊を破却して山内から追放した(p.49)」。

羽黒山には、妻帯せずもっぱら修行に勤しむ清僧修験と、妻帯して宿坊を営み参詣者の受け入れを行う妻帯修験がいた。このうち「清僧修験の院坊」とは何なのか、本書には詳らかでないが気になった。彼らの住居だろうか。西川は仏教徒に転じていた妻帯修験にも神道への転換を迫った。西川は赤心報国教会を組織し、これが宿坊と各地の信者のつながりを認めたため、かつての修験たちは次第に神道へと属していった。

神仏分離に対しては三山それぞれと八方七口ごとにいろいろな対応があった。まとめると以下の通りである(p.65)。なお以下のリストで、「手向」等は七口の名前であり正式には「手向口」などであるが、「口」は省略した。

羽黒山    手向(とうげ)    寂光寺(天台宗)→ 出羽三山神社
月山  肘折  阿吽院(天台宗) → 八幡神社
月山  岩根沢 日月寺(天台宗) → 出羽三山神社
月山・湯殿山 大井沢  大日寺(新義真言宗) → 湯殿山神社
月山・湯殿山 本道寺  本道寺(新義真言宗) → 湯殿山神社
湯殿山    七五三掛(しめかけ)    注蓮寺(新義真言宗)→ 注蓮寺
湯殿山    大網  大日坊(真言宗豊山派)→ 大日坊

大雑把に言えば、羽黒山・月山は神道化、湯殿山は仏教に留まったということになるが、羽黒山でも手向の300余りの宿坊のうち正善院のみは仏教寺院として残った(戦後、天台宗から独立して羽黒山修験本宗となった(p.54))。上のまとめはあくまで別当寺の対応であって、その下にあった多くの宿坊はそれぞれの判断を迫られたのである。なお三山の祭祀権は、近世まではそれぞれの別当寺が保持していたが、神仏分離以後には、羽黒山の三山神社に祭祀権が一括された(p.51)。

こうした経過から、出羽三山は神仏分離によって(神道に全部変わったのではなく)神道と仏教に分かれ、現在でも伝統的な修行「秋の峰」は神道側と仏教側に分かれてそれぞれ行われている。出羽三山の興味深いところは、まさにこの神道・仏教が分割・共存の道を選んだところであろう。

ところで手向の宿坊では、妻帯修験は「霞」という中世以来の縄張りと、「檀那場」という信者の開拓を行った地域を持っており、「霞」は東北地方に、「檀那場」は関東地方に広がっていた(なお、他の口の宿坊はどうだったのか記載がない)。妻帯修験にも、別当直参の「恩分」と「平門人」という二つの身分があった。「恩分は別当から霞を支配する免許状を与えられ、帯刀を許され、役職に任じられた(p.69)」。檀那場を開拓したのは「平門人」の方である。また「羽黒山では、清僧修験に院号、妻帯修験に坊号が与えられた(p.70)」。…とあるが、「羽黒山が与えた」というのは、実際誰が与えたのかよくわからなかった。

ここまでが本書の第1章で、第2章では近世から現代までの出羽三山の参詣の実態、第3章では羽黒修験の修行(近世以前および現在のもの双方)について述べている。ここで少し疑問なのは、出羽三山と「羽黒修験」の関係である。すでに述べた通り出羽三山は「月山・羽黒山」と「湯殿山」に分かれていたのであるが、「湯殿修験」が別に存在したとは書いていない。「羽黒修験」は出羽三山で活動した修験者の総称なのか、それとも羽黒山を拠点としていた修験者を指すのか本書には詳らかでない。なお第3章の記載によれば、羽黒修験の修行は「月山・羽黒山」で行われており(主な舞台は月山)、湯殿山には登らないようだ。

なお、天台宗側(月山・羽黒山)と真言宗側(湯殿山)では参詣の装束が異なっており、両山の境界には「装束場」という場所があり、そこで装束を着替えたのだという(p.153)。ということは、修行の場所が完全に分離していたのではなく、装束を替えて両山を参詣する人が多かったということになる。修験者は持ち場があったに違いないが、参詣の人にとっては境界は形式的なものだったかもしれない。

第4章は出羽三山の観光案内的な地理の説明で、特に「湯殿月山羽黒三山一枚絵図」という幕末に印刷された絵図を紹介して、近世における出羽三山がいかに盛況していたかを述べている。なおこの図は、一応「三山」となっているが、天台宗側(つまり月山・羽黒山)しか描かれていない。これは天台宗側によって作成されたからなのか、「語らずの湯殿山(湯殿山については語ってはならないとするタブー)」のためなのか分からない。

第5章では湯殿山に残る即身仏について述べている。即身仏とは仏教の捨身的な修行によるミイラである。庄内地方には6体の即身仏があり、うち1体は湯殿山の注蓮寺にある。出羽三山の即身仏は、湯殿山の仙人沢で「一世行人(ぎょうにん)」と呼ばれる宗教者が、人々の苦しみを代わりに受け止める(代受苦)修行によって、生きたまま土中に埋められて成仏したものをいう。だが近世では即身仏についてはあまり注目されておらず、あくまでも一世行人の生きている時の活動を人々はありがたいと思っていたようだ。それが近代に入ると即身仏は信仰の対象になるようになった。そこには、出羽三山の祭祀権を失った湯殿山が、新たな信仰の対象を求めたためではないかという。

第6章では出羽三山の食文化について述べている。羽黒修験たちの入峰修行の際の食事は極めて質素であったが、一方で宿坊で参詣者に提供される食事は食べきれないほど豪華なものだった(もちろん高額な謝礼を払った)。参詣が遊興化していたことは食事の面からも明らかである。

本書は全体的に簡明で読みやすく、わかりやすい……といいたいところだが、一読した印象は平易ながら、メモを取りながら再読してみるとどうもよくわからない部分が多い。それは近世以前の修験者および修験道の在り方について、わかったようでわからない概念的な説明をしているからである。

例えば、「羽黒山別当の天宥が、寛永18年に羽黒山を東叡山寛永寺の末寺にして天台宗に統一した」という記載についても、まず「羽黒山別当」の意味がよくわからない。出羽三山には八方七口にそれぞれ別当寺があったという記述はあったが、羽黒山の別当とは具体的に何を指すのか(寂光寺別当のことかもしれない)。また「羽黒山を末寺にする」とは一体何か。具体的にはどの寺院が羽黒山の末寺になったのだろうか。そして、仮に羽黒山を代表する寺院(寂光寺)が天台宗になったとして、「羽黒山を天台宗に統一した」ということの意味もよくわからない。真義真言宗の寺院が現実に存在しているのに、羽黒山を天台宗に統一するということの意味はなんなのか。こうしたことが、本書では全く説明されない。他の項目についても推して知るべしである。

だが、これが本書の大きな瑕疵とはいえない。本書を手に取る人の多くは「出羽三山のことについて大まかに知りたい」という人だろうから、あまり細かい話に立ち入る必要はないだろう。とはいえ第1章はもう少し説明がないと、修験道の知識がある人以外には理解が困難だと思う。

それから、これは編集の方針かもしれないが、出羽三山のそれぞれをあまり区別せずに書いているのもわかりづらい原因のように思う。「月山・羽黒山」と「湯殿山」の二本立てにして記述した方が私にとってはわかりやすかった。

出羽三山の概説としては簡明で平易だが、修験道関係の記述は理解が難しい惜しい本。

【関連書籍の読書メモ】
『修験道史入門』時枝 務・長谷川 賢二・林 淳 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post_5.html
修験道史の研究状況を整理した本。「第8章 羽黒派」(高橋 充)では、羽黒派の歴史と研究状況をまとめている。

『維新の衝撃 近代日本宗教史第1巻』(島薗 進、末木 文美士、大谷 栄一、西村 明 編)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/07/1.html
幕末から明治10年代くらいまでを中心とした日本宗教史。「第5章 近代神道の形成」(三ツ松誠)では、西川須賀雄を取り上げて近代神道の形成過程を追っている。

★Amazonページ
https://amzn.to/3YOX24N

2024年11月12日火曜日

『先祖の話』柳田 國男 著(柳田國男全集13)

日本人の最も大きな信仰が先祖崇拝だったことを述べる本。

本書は、日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるといっても過言ではない。その結論は「解説」で新谷尚紀が端正に要約している。曰く「人は死ねば子や孫たちの供養や祀りをうけてやがて祖霊へと昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って子や孫たちの家の繁盛を見守り、盆や正月など時をかぎってはその家に招かれて食事をともにし交流しあう存在となる。生と死の二つの世界の往来は比較的自由であり、季節を定めて去来する正月の神や田の神なども実はみんな子や孫の幸福を願う祖霊であった(p.734)」。

こうして書いてみると平凡なようだが、それまでの日本人は六道輪廻の仏教理論とか平田国学といったものしかあの世の理論を持っておらず、この一見平凡に見える理論は、柳田が収集した膨大な民俗資料から帰納してまとめられた、初めて文章化された「平凡な日本人が抱いていた信仰・あの世観」なのである。

柳田はこの本を、昭和20年、空襲警報が鳴り響く中で執筆した。このような本を戦争中の切迫した状況で執筆するとは驚きだが、そこには、特に戦死したものをどうやって祀るかという問題意識と、家の断絶への危惧があった。ここが出発点となったことは柳田の限界というか時代の制約であった。しかし、国家神道が最も国民生活を支配した時期に書かれたにもかかわらず、本書は国家神道の影響が慎重に排除されており、ほとんど時代を感じさせない普遍的な価値がある。なにしろ、幸か不幸か、戦争中は柳田の学問が最も充実した時期にあたっており、しかも柳田はこの著作に渾身の力を込めたのである。ちなみに執筆期間はたったの2か月だという。

本書は(というよりも柳田の著作のほとんどがそうであるが)、随筆とも論考ともつかない文体で書かれており、芋ずる式に考察が進んでいく。それははっきりとした結論を積み重ねるのではなくて、いわば飛び石のように様々な事例をまたいで進んでいく方法であり、ここにその論理を要約することは難しいが、できるだけ要点を抽出してみたい。(以下、メモの部分は柳田ではなく「著者」に統一した。)

まず、そもそも「先祖」とはだれか。例えば、藤原家は遡れば藤原鎌足の血筋となるが、鎌足を先祖としては祀らない。先祖とは遺伝的な祖先であるばかりでなく、他でもないその家の始祖となる人物でなくてはならない。言い換えれば、他の家では始祖として祀らない人物がその家の祀るべき先祖なのである。だから分家は本家の始祖は祀らない。本家の始祖を祀るということは、本家の特権なのである。

ところで、平民の間での重要な祭りは正月と盆である。では正月はどんな神様を迎える祭りであるのか。それは、一軒一軒に訪れる神として観念された。であれば歳神様は一国を統べる大神であったはずはない。一方で盆は先祖の霊を迎えるものである。この二つは、日ごろはどこか遠くにいる存在が、決まった日に訪れるという共通した構造を持ち、一方は神事、一方は仏事であるが構造上の一致は偶然とは思われない。そして一軒一軒を訪れ、それぞれの家ごとに幸福を与えてくれる神は、先祖の以外には考えられない。歳神様は先祖の霊ではないかというのが著者の推測である。

ではなぜ正月に先祖の霊を祀るか。正月と盆は一年をほぼ二分する季節の分かれ目であり、暦という生活を支配するものの象徴であったからであろう。先祖の霊を祀るならばその先祖の年忌(命日)に祭りをすればいいような話であるが、もちろん命日などわからない先祖は多く、また命日に祀ることにすると、「命日に祀る先祖」と「命日に祀らない先祖」という区別を生じることとなる。もちろん家の始祖からの先祖全ての命日で祭りをするということは可能であるが、時代を経るにつれて煩瑣になっていく。よって、個別の先祖を祀るのではなくて、死後一定の時間がすぎたら、それは「先祖」 の「みたま」というものにまとめてしまうということが合理的だったに違いない。そうして、個別的でない「先祖」の概念が形作られ、歳神様と習合してしまったのだろう。なお、正月の16日が先祖を拝む日となっている地方は多い。

ところで、日本では田の神は山の神が下ってきたものとされる。そして稲の生育を見守った後で冬には山に帰っていく。これは日本全体に普遍的に見られる観念である。しかも面白いことに、漠然と春に来て冬に去るのではなく、特定の日に迎えて、特定の日に送るという民俗行事があり、気候の違いにもかかわらずその日が全国でかなり共通している。ここにも祖先の霊を祀るのと同じ構造がある。

盆は仏教行事ではあるが、それは元来の仏教にあったものではない。そもそも、死んだら輪廻するというのが仏教の考えなのに、なぜ毎年その霊が帰ってきて供養を求めるのか、仏教教理では説明ができない。しからば盆とはいったい何なのか。これが「盂蘭盆」の省略とは信じがたいと著者はいう。

ここで著者は「盆」をその古訓から考察する。「盆」の古代での訓は「ホカイ」であったのではないかと推測される。そして「祀」の訓も「ホガル・マツル・イノル」であったという。では「マツリ」と「ホカイ」は同じものであったか。著者はその用法を検証し、「マツリ」は祀る者と祀られる者の関係で成立するのに対し、「ホカイ」はその周囲に「不特定の参加者」を持つものであったと考える。乞食が『倭名鈔』で「ホカイビト」とあるのもその意味がある可能性がある。

しからば「盆(ホカイ)」とは何か。著者は、素焼きの土器であったろうという。つまり盆とは、供物を素焼きの容器に入れて奉げる祭りであったことになる。「その字がはからずも盂蘭盆会の中にもあるところから、これが大いに行われたものあろうと私は想像している(p.116)」。ただしこの説の弱点は、盆は中世以前には「瓫」の文字を使っていることで、「瓫」の字が「ホカイ」と訓じた例はまだ見つかっていない。

なお「盆」は、『和名抄』には「缶(保度岐=ホトキ)」とあり、『字鏡』にも「盆」を「保止支=ホトギ」と訓じている。こうしたことから著者は「死者を無差別に皆ホトケというようになったのは、本来はホトキという器物に食饌を入れて祭る霊ということで、すなわち中世民間の盆の行事から始まったのではないか(p.118)」という。

むかしの日本人は外来語の「仏(ブツ)」に「ほとけ」の訓を与えたが、では「ほとけ」という和語はもともと何を表していたのか。これは著者に指摘されるまで私も考えたことのない問題だった。著者の推測をもう一度繰り返すと、(1)素焼きの器に食饌を入れて祖霊を祀る行事があり、その器を「ホトキ」といい、そうすることを動詞化して「ホカフ」、それが名詞化して「ホカイ」となった。(2)「ホトキ」によって祀られる霊が「ホトケ」であった。(3)それが仏と習合して、仏を「ホトケ」と呼ぶようになった、ということである。

ただし、この仮説は「仏」を「ほとけ」と訓じたことのわかる古い事例を集めて検証してみなくてはならないが、本書では推測に留まり、コーパス的な調査はなされていない。

先祖を祀る方法は、第1に墓、第2に盆棚、第3に仏壇、第4に神棚、第5に村の氏神がある。墓は永続的なものではなく、盆棚や仏壇も一応三十三回忌を以て「弔いあげ」として供養を終わりにする場合が多い。そうして抽象的な祖霊となったものを神棚に祀るという構造になっているのではないか。では「氏神」はどうなのか。個々の家に祀ったものと重複しているのではないか。この「氏神」に対する著者の説明はなんだか歯切れが悪い(正直、よくわからない)。氏神を祀ることが国家的政策だったからかもしれない。

ともかく、墓に埋葬した時点では「荒忌の穢れ」があるが、それが仏壇、神棚、氏神と進むにつれて清浄になってゆくということはいえるようである。

では、死んだ魂はどのような世界へいくのか。日本神話には「黄泉の国」があり、また仏教には六道輪廻がある。黄泉の国は現世と別にあるものであり、六道輪廻でも魂は生まれ変わったり地獄に落ちたりして、ともかく魂は個性を保ったまま現世にとどまっていることはない。しかし日本人は、先祖の霊がさほど遠くないところにとどまっていて、子孫の生活を見守っていると考えていたらしい。そして六道説などと妥協するために、魂は実は「魂魄(こんぱく)」の2つがあって、「魂」は冥途に行くが「魄」は現世に留まるなどと無理に考えたものもあったのである。

では「あの世」はどこにあるか。この問題は、黄泉の国や六道輪廻の理論のためにかえって閑却され続け、平田篤胤が考究するまで誰も考えてこなかった「新しい問題」だという。著者は様々な事例から「あの世」を抽出して考察しているが、第1に「霊は(国に)留まって遠くは行かぬと思ったこと(p.166)」と第2に「顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけでなしに(中略)招き招かれることがさまで困難でないように思っていたこと(同)」をその特徴を挙げている。

であれば、そこは具体的にどこなのか。どうやら日本人は、そういう魂がふわふわとそのあたりに漂っているとは考えていなかったらしい。しかしそれがどこなのか、はっきりと表明されたことはついぞなかった。ここで著者は4月8日の大祭に注目する。「『神社大観』や『明治神社誌料』の類を読んでみると、旧暦四月八日を大祭の日としていた神社は、郷社以上にも相応に数が多(p.172)」い。また、4月8日に山登りをする習慣がそれとは別にある。それは別の行事ではあるが、そこに共通の何かがあったのではないか。

ここで著者は「賽(さい)の川原」に注目する。「さいの川原」は、川下ではなくなぜか山中に存在し、「地獄谷」のような地名も存在する。また、かつての常民は死者を山に葬っていたと思われる。とすれば、「さいの川原」はそういう墓所の名残ではないのか。つまり日本人は、「あの世」を漠然と山にあるものと観念していたのではないかというのが著者の推測である。

最後に著者は、日本人が最後の一念を重視する傾向、小さな子供が死んだ場合は生まれ変わりがあると思っていたこと、魂の若がえりの問題などに触れて擱筆している。

冒頭に述べたように、本書は日本人の信仰を考察する際に必ず参照されるが、今ではやや批判的に触れられることが多い。このメモを読んだだけでも、その理由はわかると思う。第1に、日本人の信仰の多くが祖先祭祀に還元しうると著者は述べるが、その扱いが恣意的である。例えば祖霊である山の神もあるかもしれないが、自然信仰の山の神もたくさんあるだろう。第2に、日本全国でそれほどまでに家の構造が強固だったとは思われない。例えば私の住む南九州では、明治になるまで「氏神」など祀っていなかったようだし、百姓には公式には名字もなかったから家の観念が強固だったとは思えない。第3に、本書は膨大な民俗事例が引かれているが、歴史の史料は比較的参照されない。著者は民俗学は歴史の学問だと考えていたのだが、歴史が手薄なのだ。

このように、本書は随筆とも論考ともつかない体裁とも相まって批判は容易だ。しかし、だからといって本書の価値が低いということはもちろんない。著者自身も本書の脇が甘いことは十分に認識しながら、将来への課題としてまとめたものなのである。では、その後日本人の他界観が柳田國男以上に分析考究されたことがあったか。私はこういう分野を比較的読書しているが、未だ本書以上の論考は著されていないように思う。

日本人のあの世観を初めて文章化した名著中の名著。

★Amazonページ
https://amzn.to/4fowgHu

2024年11月9日土曜日

『高野山信仰と霧島山信仰――薩摩半島域における修験道の受容と展開』森田 清美 著

薩摩半島における民俗文化を山岳信仰および修験道と関連させて述べる本。

本書では、紫尾山、冠岳、金峰山など、山岳を中心としてその周辺の民俗文化や神話・伝承を紹介している。

紫尾山では、石童丸物語が地元に実際にあった話として伝承されている。石童丸物語とは、「かるかや(刈萱)」として知られる説経物語で、本来の物語の場面は高野山(と比叡山)である。

紫尾山は「西州の高野山」と言われたというが、この石童丸物語が鶴田町や東郷町に残っており、「石堂山」という山もあるそうだ。東郷町(南瀬と斧淵)には、石童丸物語が人形浄瑠璃で伝わっている。

では、なぜ紫尾山周辺に石童丸物語が、史実として伝承されたのか。はっきりとは分からないが、著者は紫尾山には古くから熊野修験がやってきており、著者はその影響を重視している。高野聖もそこに関与していた可能性はあるが、むしろ熊野修験の関わりが大きいという(ただ、このあたりの根拠はよくわからない)。

本書ではあまり考察されていないが、仮に熊野修験や高野聖がやってきていたとして、なぜ石童丸物語が地元の史実として伝承されてきたのか、ということは不可解だ。彼らは熊野や高野山のありがたさを強調したはずで、紫尾山でそれを代用するとは思えないからだ。なお紫尾山には、高野山と同じく遺骨や毛髪などを山中に納める風習があったという(『三国名勝図絵』)。熊野修験や高野聖の直截の影響よりも、それが「民俗化」していったことを考えなければならないのかもしれない。

また紫尾山麓の「現王(げんのう)様」という不思議な信仰が紹介されている。これは本書中で最も興味深かった。現王様とは、さつま町泊野・白男川・二渡折小野、薩摩川内市旧高城町・吉川・長野などにみられる信仰である。現王様は、都から「泊野現王・津田万右衛門・笹野道清」といった三兄弟(あるいは三俣容良を加えた4兄弟、さらに折小野五郎七も加える場合もある)が下ってきて、田畠を切り開いたとか、超人的な力を持っていとかで、後に神として祀られた、とされる。それは農耕神というより狩猟神であったようだ。

この信仰の背景には、日光修験による狩猟民俗があったのではないかと著者は推測している。ただ、「(現王様は)現人神と呼ばれる霊験あらたかな人神という意味である(p.95)」などと速断しているようにも見受けられる。それは貴種を先祖とする伝説ではあっても、現王様には人神の要素は薄いように思った。また著者は東北のマタギ集団が来ていたのではと推測しているが、これも根拠はよくわからない。ところで知人に「現王園(げんおうぞの)さん」という人がいる。これは現王信仰とかかわりのある名前である。他の地域にはない独特な信仰がなぜ紫尾山麓にのみ見られるのか、不思議である。

冠岳と金峰山については、さまざまな史跡を紹介し、特に霧島山信仰と日向神話との関わりについて述べている。著者は、これらの地域が神話のふるさとであるということを主張しているのではないが、地域の神話や伝説に対して批判的でもない。具体的に言えば、「こういう神話がこの地域に残っていることは事実」として話を進めたがる。それは事実には違いないが、ではなぜ日向神話がそこに残っているのか、ということはあまり検証されない(というより本書の対象外である)。そして最後に、「こうした神話の伝播には修験者が関わっていたのかもしれない」というようにまとめている。

本書は全体として、修験道研究というよりは民俗学のフィールドワークの記録であり、そこに掲載されている事例はどれも興味深いが、それらを通じて何かがわかるというものではない。それは、民俗文化というものが、そもそもはっきりと開明できるような、理屈に基づいたものではないということを示しているのかもしれない。

【関連書籍の読書メモ】
『説経集(新潮日本古典集成)』室木 弥太郎 校注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_5.html
中世の説経の代表的作品を収録した本。「かるかや」についてはこちらのメモを参照。

★Amazonページ
https://amzn.to/48LURDU

2024年11月2日土曜日

『島津氏——鎌倉時代から続く名門のしたたかな戦略』新名 一仁・徳永 和喜 著

ポイントを押さえた島津氏の歴史。

本書は、帯では「専門家による「島津氏」通史の決定版」と銘打っているが、「はじめに」にも「あとがき」にも、本書が通史であるとは一言も書いていない。「はじめに」では、「長期にわたる同じ一族による支配の維持、政権との距離感、敗北後の危機回避など、七百年におよぶ島津氏の九州南部支配からは、現代においても学ぶべき点が多々あるのではないか。そうした観点から本書をお読みいただき(後略)(p.5)」とあるので、通史的に島津氏の支配の特質について述べることが目的ではあるが、通史そのものではないと理解できる。

本書では、島津氏の歴史を当主の治世を区切りとして記述している。章のタイトルも「第一章 島津忠久の治世——元暦二年(1185)〜嘉禄三年(1227)」などとなっている。

これを年表風に簡略化すると次のようになる(だいたい50年を1行として適宜間を入れた)。

┃第1章 島津忠久(1185〜1227)


┃第2章 島津貞久・氏久(1318〜1387)
┃第3章 島津元久・久豊(1387〜1425)
┃第4章 島津忠国・立久(1425〜1474)

┃第5章 島津忠良・貴久(1527〜1566)
┃第6章 島津義久・義弘(1566〜1599)
┃第7章 島津家久(1601〜1638)
┃第8章 島津光久(1638〜1687)


┃第9章 島津重豪(1755〜1787)

┃第10章 島津斉彬(1851〜1858)
┃第11章 島津久光(1858〜1869)

これを見ると、鎌倉時代後期と江戸時代中期の間が大きく、本書が通史ではないことは明らかだ。

なぜこんなことをくだくだしく書いているかというと、私は最初、本書を「通史」だと思って読み始めて途中で違和感を抱き、よく確認してみると著者たちはこれを通史であるとは言っていないことに気づき納得したからである。

なお、はっきりと明示されていないが、前半1〜6章は新名一仁が、後半7〜11章は徳永和喜が執筆しているようだ。以下前半と後半に分けてメモする。

前半は、鎌倉時代後期を欠いているとはいえ、通史といって差し支えない。それは、島津氏が薩隅日の三か国の守護として南九州を統治する過程を述べたものであり、またその後(義久・義弘の時代)は、その版図が九州全域にまで広がっていく次第を説明している。

初代の島津忠久は、近衛家の下家司(しもけいし)を独占的に継承していた惟宗家の出で、頼朝の御家人になると元暦2年(1185)に島津荘下司職に任じられた。その翌年には「島津荘地頭」と呼ばれており、やがて島津荘目代、押領使となって薩摩・大隅両国の「家人奉行人」に任じられ、後に日向国も兼務したようだ。これは後の守護のことらしいが、ここに薩隅日三か国支配の原型が見られる。

ただしその後「比企の乱」のため、島津荘の所職や守護職は剥奪された。追って忠久は「和田義盛の乱」で軍功を上げ薩摩方地頭職に任じられたものの(守護職にも復帰したとみられる)、大隅・日向の守護職は鎌倉幕府滅亡まで北条氏が相伝した。なお、この時代の守護職は、後のように領域的支配権は持っていない。

島津氏が再び薩隅日三か国の守護職を手に入れるのは約130年後で、島津貞久が鎌倉幕府滅亡の際に足利方についた軍功による。しかしこの時期の守護職もまだ領域的支配権はないので、領内には島津氏と敵対する在地勢力がたくさんあった。日本は南北朝時代へ突入し、南九州でも複雑な対立の構図となった。島津氏としては特に大隅の肝付兼重への対策が重要だった。

ちなみにこの時代(14世紀後半)、貞久は鎮西管領の斯波氏経に対し「島津氏は薩隅日三か国の支配権を領有している」と強く主張しているのが興味深い。次代の島津氏久は志布志での中国交易を重視し、志布志の宝満寺・大慈寺を庇護した。ここに島津氏の交易重視政策が形成された。同時に、倭寇もこの頃盛んになってくる。九州南部は倭寇の拠点の一つだった。中国との貿易を目指す幕府にとって倭寇の存在は迷惑であったが、そのために倭寇対策が政策課題となり、島津氏が貿易のキーとなっていくのが面白い。

九州探題今川了俊との抗争に勝利した島津氏は、薩隅日三か国の実効支配を幕府に認めさせ、氏久を祖とする奥州家が三か国の守護職を兼帯した。氏久を継いだのが子の元久(母は伊集院忠国の娘)。なお応永元年(1394)、石屋真梁(伊集院忠国の子)を開山として福昌寺が創建され、島津氏の菩提寺となった。奥州家は伊集院氏と深い関係にあった。

実子の男子が出家していた元久は、妹と伊集院頼久の間に生まれた初犬千代丸に家督を譲ることとしており一門も了承していたが、元久の異母弟久豊はこれに異を唱え、伊集院氏から元久の位牌を奪って守護所鹿児島を占拠し、また福昌寺を保護した。伊集院氏との抗争の後、久豊が権力を確立して足利義持から三か国の守護職に任じられた。こうして奥州家が守護職を相伝し「三州太守」と表現されるようになった。

久豊の長男、忠国の時代は、山東(宮崎県西都市)の伊東氏との関係が大きな政策課題となった。忠国の母は伊東祐安の娘だったが、伊東氏と対立するようになったのである。そうした状況で伊集院煕久が反島津方国人を糾合し一揆を起こした(国一揆)。忠国はこれを制圧できず和睦。伊東氏とも和睦していた。これを不服としたグループは忠国の弟持久を擁立し、忠国を隠居させた。持久は福昌寺で父久豊の十三回忌法要を行って家督相続を確かなものにしたかに見えたが、ここで「大覚寺義昭事件」が起こる。

ことの次第はこうである。足利義教の弟・義昭が京都から出奔。これが後南朝勢力と結ぶことを恐れた幕府はこれを探索したが見つからなかった。そんな中で義昭が義教追討の檄文を忠国方の樺山孝久(のりひさ)に発したため、樺山は幕府に通報。このため幕府は忠国に対して義昭追討を命じたのである。忠国は末吉に隠居中だったが、自派の武将に命じ嘉吉元年(1441)、日向国櫛間院の永徳寺を包囲させ義昭は切腹。これで幕府の信任を得た忠国は返り咲いた。一方、持久は北薩と南薩を治める薩州家を創始した。

一方、忠国の治世は安定せず、これに不安を覚えた嫡子立久と重臣は忠国を強制的に隠居させた。立久はアメとムチで経営を行い、伊東氏とも和睦して領国内を安定させた。この際に、相州家豊州家も創出され、「有力御一家・国衆を相互にけん制する体制(p.74)」が作られた。

一方、忠国の三男久逸(ひさやす)が、断絶した系統を養子となって引き継いだのが伊作家。伊作家は伊東氏との合戦に敗れ、また久逸の子善久が奴僕に殺害されて風前の灯となったが、その妻常盤が相州家の島津運久(ゆきひさ)に再嫁し、それによって善久の子忠良が伊作家・相州家を相続した。一方で、奥州家は忠昌が自害、その後嫡男の早世が二人続くなどして弱体化し、反島津勢力が蜂起した。

そうした状況を利用して、忠良は奥州家(島津忠兼=勝久)に自身の子虎寿丸(後の貴久)を養嗣子とすることを受け入れさせた。これは事実上のクーデターであった。薩州家の島津実久はそれを認めず、自らが「三州太守」を継承したと標榜してクーデターを仕返したが、忠良・貴久は薩州家を打倒。荒廃していた福昌寺の寺領を安堵し、「三州太守」として認められた。こうして貴久は奥州家当主として地位を確立させた。貴久はさらに在地勢力を次々と下して薩摩統一を実現した。

貴久の子供が、有名な島津四兄弟(義久義弘・歳久・家久)であり、義久・義弘の時代に島津氏は最強となった。彼らは大隅と日向を統一して、ここに「三州統一」が成し遂げられた。彼らの目標はあくまでも「三州統一」であったが、九州六か国の守護職と九州探題であった大友宗麟とのパワーバランスから、肥後の国衆から救援を求められ、また島津氏の重臣たちも外征に積極的だったため、北部九州に侵攻していくこととなった。特に龍造寺隆信を圧倒的少数で撃破した(沖田畷の戦い)ことで九州で島津一強となり、残すは大友氏との対決となったが、このタイミングで豊臣秀吉が九州へ征伐へ動いたため、島津氏はやむなく降服した。秀吉は、義久に薩摩国、義弘に大隅国、義弘の子の久保に日向国真幸院を安堵している。

秀吉は明らかに義弘を当主として扱ったが、義久を主君とする家臣団もおり、島津氏は分裂気味になった。さらに太閤検地では多くの家臣が減封となり不満が高まった。そんな中で独り勝ち状態だったのが伊集院幸侃(忠棟)であるが、義久の子忠恒(のちの家久)は伊集院幸侃を突如惨殺、追って子の伊集院忠真とその一族も誅殺した。なお、義弘は実際には家督は継承していないが、後の島津氏の公式見解では義久-義弘-忠恒と家督が継承されたことになっている。

ここからは後半である。前半とは打って変わって通史風の記述はなくなり、著者(徳永)の重視する事項を詳しく述べていくスタイルになる。島津家久と続く光久の時代については、交易の記述がほとんどである。

薩摩藩は琉球国を通じて南蛮(東南アジア)・中国と交易を行っていた。それは近世初期では自由貿易を志向しており、近畿の貿易商人にも支えられていた。この交易は薩摩藩を繁栄させ、島津領内では中国人が多く居住していた。もちろん島津氏自身も貿易を行い、島津氏は最大級の朱印船貿易家であった。また島津氏が取得した貿易の権利を民間に譲渡した場合もあり、これについて本書では「大迫文書」からその実態を考察している。

家久は慶長14年(1609)に琉球侵攻を行い、琉球国を属国にした。これは琉球の貿易権を薩摩藩の管理下に置くことが目的であった。琉球は中国の冊封体制に組み込まれながら、同時に薩摩藩にも隷属するという二重の支配を受けた。そのおかげで、薩摩藩は琉球の朝貢貿易を通じて中国の物品を入手することができたのである。

それは逆に言えば、中国への輸出品を入手する必要があったということだ。薩摩藩にとってこれは大きな負担でもあり、その費用を取り戻すためにも琉球口交易は必要だった。農地に恵まれない薩摩藩にとって琉球口交易は重要な財源でもあったが、その負担もまた大きかった。続く光久の時代も琉球口交易の確立に絞って記述されている。

ここから時代が一気に飛んで島津重豪の時代となる。重豪の時代には、薩摩藩の膨大な借金の整理が重要な政策課題となった。そんために抜擢されたのが調所広郷である。調所は様々な改革を行って借財の整理・減免・返済を行ったが、本書では特に琉球口交易の拡大が焦点となっている。

次の島津斉彬の時代では、斉彬の世界観とそれに基づく近代化政策が触れられる。特に西洋通事の養成の中で、唐通事の石塚崔高が紹介されているのは目を引いた。薩摩藩では蘭学から英学へ路線変更するが、そこで上野景範が比較的詳しく紹介される。上野景範は独断で上海に渡航して西洋にいこうとした人物である。本来脱藩の罪に問われるべきところ、彼は逆に薩摩藩開成所の句読師に抜擢されている。

島津久光の時代については、幕末史を足早にまとめ、その頃の薩摩藩の財政を支えた「琉球通宝」などの通貨鋳造事業について述べている。なお、通貨鋳造事業は「琉球通宝」は幕府から許可を得ているので「偽金」ではないが、「天保通宝」は許可を得ているのか得ていないのか定かでない(記録も関係者の証言も曖昧)。なお、ここでは幕府から鋳造許可を得た日付がどうであるのかなど、かなり細かい議論があり、この辺りは全く通史的ではない。

なお、著者には『偽金づくりと明治維新』(新人物往来社、2010)という前著があるが、不思議なことにこの本は本書では参照されていない(参考文献に挙げられていない)。もしかしたら旧説を改める意図があるのかもしれない。

本書は、前半と後半では良くも悪くも調子がだいぶ違う。私は前半は通史として読み、後半は薩摩藩論として受け取った。だが後半は、薩摩藩論だとしても特定事項に記述が偏っていることは否めず、わかったようなわからないような感じである。

一方前半は、島津氏が薩隅日三か国を統一する次第が端正にまとめられており、頭の整理に非常に役立つ。著者(新名一仁)はこれまで、戦国島津に関する本や論文を多数著しており、本書によってそれらの著作を俯瞰することができると思う。

前半を読んで改めて思ったことは次の3点である。

(1)島津氏にとって「三州太守」すなわち薩隅日三か国を統治するというのがアイデンティティとなっていた。大隅の肝付氏や、川内川流域の渋谷一族など、島津氏と対抗する勢力がなかったわけではないが、そうした「支配者としてのアイデンティティ」を持っていたのは島津氏だけだった。

(2)伊集院氏と島津氏の関係が興味深い。島津氏は多くの庶流・分家を持っていたが、中でも伊集院氏とは独特な関係があったように思われる。島津氏の菩提寺である福昌寺は実質的に伊集院氏が創建しており、伊集院氏の初犬千代丸は島津家の家督を狙える位置にあった(これは伊集院氏による乗っ取りのようにも見える)。そして戦国末には、伊集院幸侃は豊臣支配の矛盾を押しつけられる形で斬殺されるのである。伊集院氏から南九州・島津氏の歴史を見るとどうなるのか、興味が湧いた。

(3)福昌寺が、島津氏の家督継承に大きな役割を演じているらしい。歴代の島津家当主にとって、福昌寺の寺領を安堵し、またそこで先祖の法要を行うことが大きな意味があったように見受けられる。福昌寺は荒廃していた時期もあるので、常にそうであったとは限らないが、家督継承の正統性や権力基盤が弱い時期に担ぎ出されたのが福昌寺だった。菩提寺を正統性の源泉としていたのは他の戦国武将たちでも同じなのか、それとも島津氏の特質なのか、どちらなのだろうか。

 

【関連書籍の読書メモ】
『日向国山東河南の攻防—室町時代の伊東氏と島津氏』新名 一仁 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/07/blog-post_11.html
鎌倉から室町までの日向国山東河南の歴史について、島津氏と伊東氏の関係を軸に語る本。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。「第2章 南北朝・室町期における渋谷一族と島津氏」(新名一仁)は渋谷氏との関係を軸として南北朝・室町期の島津氏の歴史を述べている。

『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著 
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/12/blog-post_20.html
島津義久・義弘を中心とした歴史書。戦国末の薩摩の歴史書としては、現時点で最良唯一の平易な良書。

『海洋国家薩摩』徳永 和喜 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html
鎖国体制の中でも薩摩が東アジア世界と繋がっていたことを述べる。薩摩の海洋・貿易政策を考えるために参考になる本。

★Amazonページ
https://amzn.to/40u0qVm