2024年10月11日金曜日

『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注

往生のための理論書。

『往生要集』は、往生のためにはどうすればよいかを、仏典を縦横無尽に引用して論証した本である。この本を一読して感じることは、その圧倒的な学知である。仏典の引用は恐ろしいほど広範囲で、平安時代の仏教学のレベルの高さには驚愕するほかない。源信が圧倒的な学匠だったのは確かだとしても、これが理解されうる仏教界であったということだ。本書は石田瑞麿による詳細な訳注があるから私のようなものでもなんとか読むことができるが、もしなかったら意味をつかむことすら難しい。仏典についての該博な知識を前提にしなくては読むことすら困難なのが『往生要集』だ(例えば冒頭の「等活地獄とは、この閻浮提の下、一千由旬にあり(上p.12)」=閻浮提とか由旬とかを知っていることは前提だ)。

しかも、本書は源信の師、良源の死の前後5か月という短い時間に集中的に執筆されている。もちろん、それには周到な準備期間があったに違いないが、それにしても引用を書き写すだけでも大変な手間がかかったはずだ。とても5か月で書けるような本ではないのである。このような本がたった5が月で執筆されたことは、人類史的に稀有なことだ。

また、本書は10という数字にこだわって編集しており、全体を10章に分け、またその中でも随所で10の小項目に分けるなどしている。10という数字に意味があるのかどうかはともかくとして、綿密な構成の上に論証を書いているという雰囲気が強いのである。

以下、全10章について(とても内容を簡約することなど不可能なので)感じたことを中心にメモする。なお本来は「大文第一 厭離穢土」などと表記されるが、ここでは簡単に章番号を使う(『往生要集』は元来上中下の三巻であるが、以下のメモで(上p.117)などとするのは、岩波文庫の上下である)。

1.厭離穢土

『往生要集』といえば、この巻頭に置かれた地獄の描写が著名である。源信は多くの仏典から地獄の情報をまとめ、体系的に地獄の様子を明らかにした。それはダンテの『神曲』に比されることもあるが、『神曲』が政治的なムードがあるのに比べ、こちらは非政治的であり(具体的に誰が地獄に堕ちたとかは言わない)、また庶民的でもある。例えば「鹿を殺し鳥を殺せる者(上p.14)」が落ちる地獄とか(等活地獄の一部分)。そして妙に具体的な区分の地獄は、なんだか笑ってしまう。例えば「昔、羊の口・鼻を掩(ふさ)ぎ、二の(かわら)の中に亀を置きて押し殺せる者(上p.16)」が落ちる地獄(同じく等活地獄の一部分)などは、「そんなやついるの?」と誰でも感じるだろう。

こういう、妙に細かい区分の地獄もあれば、殺生・偸盗・邪淫(寺院では男色は女犯に比べ許容されていたが、男色も罪であり地獄に落ちる)などといった普通の区分ももちろんある。

そして、先ほどは殺生だったので地獄行きは納得できるが、「酒を売るに、水を加へて益せる者(上p.26)」とか「酒を以て人に与へ、酔はしめ已(おわ)りて、調(あざけ)り戯れ、これを弄び、かれをして羞恥せしめし者(同)」が落ちる地獄なんかは、「そこまで悪いの?」という気がする。割と微罪でも地獄に堕ちて長期間の刑罰を受けなくてはならないらしい。ともかく、いろいろなことで地獄行きになってしまうとなれば、これをなんとか避けなければならないと思うのが人情である。しかもこれは源信の独断ではなく、数々の仏典に縷々記述されていることなのである。

次に餓鬼道が説明される。地獄よりちょっとマシな世界だ。例えば「美食を独り占めしたもの(意訳)」がここに堕ちる。「陰涼しき樹を伐り、及び衆僧の園林を伐りし者(上p.50)」なども餓鬼道だ。地獄に落ちるほどではないが、自分本位なものがこちらへゆく。

畜生道、阿修羅道の説明は地獄に比べるとはるかに簡略である。源信はこの二つにあまり興味がなかったのか、それとも仏典にそもそもあまり書いていないのかは不明である(畜生道は皆がよく知っているから省略したのかもしれない。『日本霊異記』では畜生道に堕ちる人が多い)。人間道の説明はそれよりも丁寧だが、地獄よりはずっと短い。その要諦は、人間は不浄だ、ということに尽きる。

では天道はどうか。天道は人間道に比べればずっと寿命も長く、安楽な世界である。しかしそれでも、永遠の命ではない。結局死はやってくるのである。「この苦は地獄よりも甚だし(上p.70)」いと源信はいう。天道においても身は不浄であり、無常であり、苦は避けがたいのである。

しかしながら、当時の日本人が不老長寿や清浄性に憧れていたのかどうかは、本書からは窺えない。普通の人間にとっては天道は十分にパラダイスだと感じるところ、源信は「いやいや、天道じゃあまだ物足りないんですよ」という調子で説得しているような気配がある。

なお、この部分の論考の本筋ではないが「たとひ仏教に遇ふとも、信心を生ずることまた難し(上p.74)」という一文を指摘したい。私の『往生要集』を読む上での関心の一つは、この「信心」の扱いにある。「往生には信心が必須なのかどうか」を源信がどう考えていたのかを知りたいのだ。

2.欣求浄土

本章では一転して極楽浄土のすばらしさが喧伝される。それは、無限に心地よく、全てが思うままになる清浄な世界である。これもかなり具体的な描写で、「誰が見て来たんだ?」と思うような記載が多いが、当然ながら地獄の描写に比べて迫力は劣る。正直、やや退屈である。

ここでまた注目すべき記載がある。「もし[文殊の]名を受持し読誦することあらん者は、たとひ重障ありとも(中略)常に他方の清浄の仏土に生まる(上p.115)」としたり、「一念も[弥勒菩薩の]名を称する者は、千二百劫の生死の罪を除却し(同)」とある一方で、観世音菩薩は「わが名号に於て心を至して称念することあらん(上p.117)」 とある。前二者ではただ念じたり、名を称えるだけで効果があるのに、後者では「心を至して」という心の在り方が問題になっている。客観的な行動だけでなく、内面の在り方が問題になっているのである。

ともかく、これから論考していくのは、このすばらしい浄土にどうやって往くことができるか、ということである。

3.極楽の証拠

これまでの記述も、実は問答が基本になっていたのだが、本章は最初から問答である。その疑問はまず「十方に浄土があるのに、なぜ極楽(阿弥陀の浄土)だけを求めるのか」である。本書は、この種の問答が多いが、それらの問は鋭いものが多く(得てして答えよりも気が効いている!)、それが論考の都合上の源信の自問自答ではなく、切実な疑問であったことが窺える。

次の疑問は「弥勒の兜率天の方が阿弥陀の浄土よりいいのでは?」というものだ。当時は弥勒の兜率天の人気が高かったらしい。これらの問いは、私にとってはあまり興味の湧くものではないのでつぶさに読解していないが、その答えの要点は「阿弥陀の浄土は念仏によって行くことができるのだから、より行きやすい」ということに尽きるようだ。いかに素晴らしい浄土が他にあったとしても、行くことが非常に難しければ絵に描いた餅である。

4.正修念仏

本章では念仏のやり方について説明する。 当時、念仏は数をこなさなくてはならないという考えがあった。日常生活全てを犠牲にしなくては達成不可能なほど何万回も称えることが必要だというのだ。それを源信はきっぱり否定する。「多少を論ぜざるも、ただ誠心(じょうしん)を用てせよ(上p.153)」という。数の多い少ないではなく、がこもっているかどうかだという。

そして念仏のやり方というのは、作法というよりも心の在り方、もっと言えば世界認識の仕方に傾いている。念仏は身口意(しん・く・い)で行うが、意業(いごう)、すなわち心が大事だという。無量寿経の「要(かなら)ず発菩提心を須(もち)ふることを源となす(上p.159)」を引いて、「菩提心はこれ浄土の菩提の綱要(上p.160)」と述べる。

さらに荘厳菩提心経を引いて「菩提は即ちこれ心なり。心は即ちこれ衆生なり(上p.163)」だと、唯心論的な世界認識を述べる(正確に言えば「唯識」である)。さらに大智度論からは「心、清浄なることを得るは菩薩の教なり(上p.166)」として、心の清浄性が重要視されている。これらは、如来蔵思想(すべての衆生には如来としての性質が内在しているという思想)に基づいている。

ここで問があり「煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ応に意(こころ)に任せて感業を起こすべきや(上p.168)」という。如来像思想では、煩悩にまみれた衆生の実相が、即ち菩提であるという認識論的な観念があるが、だとすれば、ことさらに菩提を求める必要はなく、煩悩にまみれたまま、ほしいままに振る舞えばいいではないか、という当然の疑問だ。これに対し源信は、「煩悩と菩提は一体だが、水と氷、種と果実のように別の次元にあるのだから、同一視してはダメだ」といったことを述べている。

そして、凡夫は難しい修行・儀礼などを勤修することは難しいから浄土など願っても無駄ではないか、という問に対しては、「昇沈の差別はにありて、行にあらざること[なし](上p.171)」という。何をするかではなく、心が大事だというのだ。私などには、客観的に判定できる「行」の方が、捉えどころのない「心」よりもずっと簡単に感じるが、源信は心を用いることなら凡夫でもできるという。

しからば「いかにして心を用ふるや(上p.172)」というと、これも源信はいろいろ述べているが、結局は「無理にでも念仏をすることで心は変わっていく」ということのようである。しかし「凡夫は常途(じょうず=常日頃)に心を用ふるに堪へず(上p.175)」と問は言う。これは鋭い問いである。それに対し、源信ははぐらかしているような答えである。

そもそも、煩悩をなくすことができないから凡夫なのだ。どうやって心を用いるのか。長々とした議論があるが、その中で面白い理屈が表明されている。華厳経を引いて「菩提心も一切衆生のもろもろの煩悩の病を滅す(上p.186)」という。普通、煩悩を滅して菩提心に至る、と考えるのであるが、これは菩提心を起こしたら煩悩がなくなる、という逆転の論理なのだ。煩悩をなくすのは無理でも、一念の(常途ではなく!)菩提心を起こすだけならできる、という理屈だ。「もし智慧ある人、一念、道心を発(おこ)さば、必ず無上尊と成る(上p.188)」。ここで「智慧ある人」に限定されているのは気になるが、「一念」だけでよいなら、これは凡夫にも不可能ではなさそうである。

さらには、出生菩提心経を引き「寺を造ること(中略)またもろもろの塔を造ること須弥の如くせんも、道心の十六分に及ばず(上p.190)」という。

では、「願」(心)だけがあって、「行」がない場合はどうなるのか。これは仏典(浄土十疑論・大乗阿毘達磨雑集論)では「別時」(未来)に叶うとしている。これに対して源信は、ここでは仏典を一切引かずに「菩提心は無量の罪を滅するのだから、心で浄土を求めさえすればすぐに浄土へ行ける(意訳)」(上p.195)という。異常に仏典を引用する本書の中で、全く引用せずに考えを述べているのは注目される。

しかしこの答えへの反問が面白い。「大菩提心にもしこの力あらば、一切の菩薩は初発心より決定(けつじょう)して、応に悪趣に堕する者なかるべし(同)」というのだ。まさにその通りである。一念の菩提心を起こすだけで往生できるなら、「1.厭離穢土」で描かれたような地獄にいく者は誰もいない。この問に対し、源信は仏典を引くことができず「且(しばら)く愚管を述べたり」として自説を述べる。その要諦は、「ただ極楽を願うのは、自分の安楽を求めているだけだから自利の行であって菩提心ではない」ということである。これは大乗仏教の基本的考え(大乗とは、自らだけでなく広く人々を救うことを目的とする)ではあるが、苦し紛れの説明のようにも思う。問の方が答より鋭い。さらに例えば「一心に念仏すれば往生するならば、なぜ経典や論書では菩提の願を勧めているのか」といった問には真正面から答えていない。

このあたりは、念仏が内包する矛盾を鋭く突いた問答であって、明らかに源信側に論理的な弱さがある。それでも、自説の弱点をわざわざ突くような問を掲載し、論理的に弱くてもなんとか説明しようとする態度は、宗教者としてあっぱれとしかいいようがない。私は本書を読みながら源信のことが大好きになってしまった。

こうして心の問題を議論してから、次に念仏の具体的なやり方に話が進む。今では念仏といえば「南無阿弥陀仏」を称えることと決まっているが、この時代の念仏は、文字通り「仏を念じる」というイメージトレーニング的なもの(観想)がメインである(ただし称名念仏もある)。そこで何をイメージするかというと、初学者はまず色相(仏の外面的な姿)からである。よってここでは、阿弥陀仏がどういう姿であるかを非常に細かく説明している。

次に、少し抽象的なイメージに移る。これは天文学的(?)な世界観であったり、超越的なイメージである。仏の体がどうこうというならまだイメージができるが、仏の眉間にある白毫が「七百五倶胝六百万の光明あり。十方面に赫奕(かくやく)たること、億千の日月の如し(上p.236)」と言われても、なかなかイメージできないと思う。源信の勧めるイメージトレーニングは、かなり難しいというのが実感である。

少し救われるのは、こういう観想を「麁心にして(=心が集中していなくて)像を観ずるも(上p.242)」効果はあるとしていることだ。だがもちろん、源信は「念(おもい)を繋けて、仏の眉間の白毫相の光を観ずる(同)」ことを勧める。「心がこもっていなくても効果があるのだから、心を込めてすればもっと効果がある」という理屈だ。

なお、当時は浄土のありさまを観ずる修行が多かったが、源信はそれは進んだ段階の修行だとして、仏の姿を観ずることを勧めている。この「4.正修念仏」が『往生要集』の中心である。

5.助念の方法

前章で説明された念仏(観想念仏)は、なかなかに難しいものであった。この実施を助けるための種々の方策が本章に述べられる。例えば、花、暗室(気を散らさないため)、念珠、体の姿勢など、いろいろ整えることが大事だという。しかしそれらを全部整えて、さらに精神を集中して念仏を称えるとなると、普通の人にはかえって難しい。そこで「在家の人は念仏の行に堪へ難からん(上p.257)」という疑問になる。易行(やさしい行い)であるはずの念仏が、実は難しいのである。

これに対し源信は「もし世俗の人、縁務を捨て難くは、ただ常に念(おもい)を西方に繋けて、誠心(じょうしん)に応にかの仏を念ずる(同)」ことが大事だという。また「誠心」が出てきて、どうも議論が循環的になっているようだ。だったら、これまでの観想念仏の煩瑣な方法は必要ないのではないか。心なのか、行なのか、はっきりしない。

こう読者が思い始めた頃、源信は涅槃経を引いて「阿耨(あのく)菩提は信心を因となす(上p.260)」として「道を修するには信を以て首(はじめ)となす(同)」と述べる。やはり重要なのは心であり、しかも信じることだという。これは「4.正修念仏」でさんざん論議した心の問題と、似てはいるが少し違う。心の清浄さとかではなく、信じること、疑わないことが大事だというのは、精神集中などとは一線を画す認識ではないだろうか。初期仏教の頃から、煩悩をなくすとか菩提心といった、内面の陶冶が重視されてきたことは疑いないが、信じることによって救済が与えられるとする観念はそれと別種のものである。「心」と「信」のどちらを重視するかは、似ているようで違いは大きい。私には、源信は半ば意図的に「心」を「信」にすり替えていっているように思える

さらに源信は、なかなか実践が難しい念仏を継続して行うため、阿弥陀仏の功徳を説明する。仏がどんなに素晴らしいものかを理解すれば、念仏を継続したくなるだろうという配慮(!?)である。 ここでは当然に仏の救済力が強調されているが、その他にも自由に空を飛べる(上p.277)とか、万能の力がある(上p.279)とか、どんな障害があっても見通す千里眼がある(上p.283)とか、人の心が読める(上p.285)といった特徴があり、これらはほとんどキリスト教の神の全知全能に近い。特に人の心が読めるのは大事で、であればこそ「阿弥陀如来は必ずわが意業を知りたまふ(同)」のである。心で念仏しても阿弥陀仏にはお見通しなのだ。

そして全知であるから、「衆生は[仏を]見たてまつらずといえども、実に諸仏の前にあり(上p.295)」。仏は我々の行動や心をいつでも見ているのである。 この仏の能力は、心を重視する源信の論議の土台となっている。

次いで、念仏についての補助的な議論に移る。その中で華厳経を引いて「如来の自在力は、無量劫にも遇ふこと難し、もし一念の信を生ずれば、速かに無上道を証す(上p.307)」とあるのは気にかかる。 仏に遇うのは難しいが、一念の信だけで無上道に至れるというのは、どことなく詭弁的だ。また「4.正修念仏」では「一念、道心を発(おこ)さば(上p.188)」だったのが、ここでは「一念の」になっている。ここでも「心」から「信」の転換がある。

さらに議論は「戒」に移る。これは当時から大問題になっていたことである。念仏のみで往生できるならば、持戒は必要ない。だから念仏者は悪いことを平気でする、というのが反念仏(例えば興福寺)の主張だった。「興福寺奏状」(念仏者を批判するもの)は源信よりもっと後の時代だが、おそらくそうした批判を念頭に置かれて書かれているため、源信は持戒を必要なものと述べており、戒を破るものは地獄に落ちるとしている。

ここでクリティカルな問「仏を念ずれば罪を滅す。なんぞ必ずしも堅く戒を持(たも)たんや(上p.321)」が放たれる。念仏で往生できるなら、なんで持戒の必要があるのか? これへの返答は大変苦しい。要するに「念仏は確かに罪を滅するが、念仏がいつでもできるとは限らないじゃないか」というものだ。先ほど述べたように、源信の念仏は簡単なものではないからだ。念仏は易しいのか、難しいのか、源信の言説は揺れ動いているように見える。

続く議論も興味深い。煩悩への対処法について述べた後、「煩悩と菩提は一体であるという真理に思い致せ」(上p.327)としつつ、それでも煩悩によって生じた罪は懺悔(さんげ)によって消滅させるべきと言う。これに対する問がいい。「ただ仏を観念するに、既に能く罪を滅す。何が故ぞ、更に理の懺悔を修するや(上p.332)」。仏を観念すれば滅罪するのに、なぜわざわざ懺悔などしなければならないのか。こういう素直な、だが難しい疑問をしっかり掲載するのが源信の良心である。ちなみに、予想されるようにこの問への答えもずいぶん苦しい。正直に言うと私にはその回答の意味が摑みづらいのだが、どうも「いちいち懺悔せよとは言っていない。真実の道を歩みたかったら、悪いことをしたら懺悔したくなるじゃありませんか」ということらしい。

このあたりも鋭い質問ばかりで一問一答でここにメモしたいくらいである。源信の答えよりも、むしろ質問の鋭さの方に惹かれる(もちろん、質問を作っているのも源信なのだが!)。 例えば「懺悔をして罪がなくなるなら、なぜ経典には戒を犯したら懺悔しても三悪道の罪は免れないなどとあるのか」と経典との矛盾を突く部分(上p.326)など、源信自身の苦悩を表しているのかもしれない。これには「方便なのではないか」とやはり苦しい回答をしている。

次に、心を乱すものとしての魔について述べる。仏教では、悟りの道を邪魔するものとして悪魔(マーラ)が考えられたが、源信は魔を実体としてではなく心の在り方として捉えている。「閲叉(えっしゃ)・鬼神」といったものも議論には登場するが、結局は「魔界も仏界も及び自他の界も、同じく空・無相なり(上p.344)」なのだ。

そしてこれまでの議論をまとめた結論部分が来る。結局、往生の要はなにか? 源信は「大菩提(仏の悟りを得たいと願う心)」と「三業を護る(身体・口・心の行為を正しくする)」と「深く信じ、誠を至して、常に仏を念ずる」の3つだという(上p.347)。つまり源信の段階では、未だ念仏だけに頼るという考えではないのだ。しかしながら、「往生の業は念仏を本となす」(後に、法然が『選択本願念仏集』の劈頭に冠した言葉)。一番大切なのは念仏であり、念仏をする「心」には、「深く信ずる」と「誠を至す」と「常に念ずる」の3つが付随するべきだ、というのである。 

「誠を至す」と「常に念ずる」はいいとして、やはり「深く信ずる」が私には気になる。先ほどの議論では単に「信」だったのが、いつのまにか「深く信ずる」になっているのも、初めは圧倒的な学知による学術的な議論だったはずが、だんだん源信の「信仰」へと傾斜していっている感じがするのである。

「宗教」なんだから信仰は当たり前じゃないか、と人はいうかもしれない。だが当時の人は仏教を文明・科学として捉えていた(と思う)。それは重力の法則や化学反応のような、人の心とは関係なく存在する真理であった。重力の法則を信じていない人は、高い所から落ちません、というわけにはいかないのである。信じようが信じまいが、確乎として存在していたのが仏教の真理であった。

「往生」も、今では観念的なものであるが、当時の人は実証的に捉えていた。 死の際にかぐわしい香りが漂ったとか、天上から音楽が聞こえてきたとかいうことがあって初めて往生したとみなされた。「往生」のために必要なことも、心の在り方などではなく、例えば阿弥陀像から五色の糸を自分の手に結びつけるとか、西方に向かって端座するとか、臨終の際に大勢の僧侶を呼んで読経するといったような、様々なプロセスを踏むことが浄土への行きかたであると説かれていた(源信自身、次の「6.別時念仏」でこの方法については詳述している)。

それは、ちょっと変な例だが、洞爺湖への行き方、というようなものと似ている。まず飛行場へ行き、○○行きの飛行機に乗って、北海道についたら電車で…というように段階を踏めば、誰でも洞爺湖に着くことができるのである。洞爺湖への行き方を信じていなければ洞爺湖に行けない、ということであれば、真っ当な道案内とは言えないだろう。

ところが源信の主張は、意地悪に言えばそういうことだ。それは、洞爺湖への交通費は高額だから普通の人には行けない、だから違う行き方を考えよう、ということだったのかもしれない。彼は費用のかかる法事ではなく、心の在り方、「信じる力」によって往生する方法を編み出した(もちろん彼一人の独創ではなく、正確に言えば源信はそれを学究的に論証し体系づけた)。それは、交通費を出して交通機関を使い洞爺湖に行くことが当然(それ以外ない)と思っていた人々にとっては、眉唾物の手法であったに違いない。「本当にそんなことで往生できるとは思えない」というわけだ。

この疑いがあったからこそ、源信は「信」を強調するようになったのだろうと私は感じる。念仏による往生へ疑いを向ける人々に対して、源信は「信じなくてはこの方法は無効になるのですぞ」と諭しているのである。 しかし仏教が科学のような客観的真理であれば、信じる信じないは問題にならないはずだ。実際、時代は下るが念仏を突き詰めた一遍は「信不信を選ばず」(信じていようが信じていまいが念仏の力は同じ)と喝破している。

6.別時念仏

ここでは通常の念仏と、臨終の際の念仏をどのように行うかそれぞれ述べる。そこで源信は善導の書を引用して「阿弥陀経を誦すること十万遍を満たし、日別に仏を念ずること一万遍せよ(下p.15)」という。一日一万回念仏が必要だというのだ。これは「4.正修念仏」での主張と違う。やはり念仏は回数なのか? だが議論はまた「心」へ傾斜していく。

そして臨終の際については、先述の通り、往生に必要となるプロセスを事細かに説明している。もちろん、儀式的なところも多いが、それ以上に心の在り方もかなり詳細を極める。阿弥陀仏が来迎することを具体的にイメージしなさいということを中心に、10項目の具体的な心の持ち方・イメージを臨終の際に護持しなければならない。これらは死にかけた人にはとてもできそうもない。だが「臨終の一念は百年の業に勝る(下p.45)」として、まさに臨終の際の心が大事だと源信はいう。臨終の一瞬より、それまでの人生をどう生きたかの方が大事だと思うのは私だけだろうか。

ちなみに議論の本筋ではないが、臨終の場所に「酒・肉・五辛(ニラなどの香味野菜)を食せる人をあらしめるなかれ。(中略)(もしそういう人がいたら)即ち正念を失ひ、鬼神交乱し、病人狂死して、三悪道に堕せん(下p.32)」というのはずいぶん理不尽に感じた。こういうのを超克するのが念仏であるというのではなかったか。

7.念仏の利益(りやく)

ここでは念仏の7つの利益を説明する。これまでの議論でも念仏の利益は説明されているので繰り返しのような内容も多い。

7つの利益の筆頭が「滅罪生善」であるが、念仏をすると「九十六億那由他恒河沙微塵数劫(※非常に多いこと)の罪を除却せん(下p.55)」というのは気にかかる。念仏だけでこんなにも罪が消えるなら、念仏者が「いくら罪を犯しても大丈夫だ」と思うのもしょうがない。後の興福寺の言うとおりである。

その他の6つはいちいち挙げないが、途中「名号念仏」の利益の話が出てくるのが興味深い。先述の通り源信の念仏は難しいイメージトレーニングだが、「衆生は障(さわり)多ければ、観(※観想念仏)成就し難し。(中略)ただ専ら名字を称せよと勧めたまふ(下p.65)」。本当は観想念仏をすべきだが、それは普通の人には難しいので名号念仏でも十分効果があるという。

そしてまた心の問題が出てくるのだが、観仏経を引き「もし心を至して、(中略)仏の色身を観ぜば、当に知るべし、この人の心は仏の心の如くにして、仏と異ることなけん(下p.70)」という。観想念仏によってその人の心は仏と同じようになるというのは、面白い主張である。さらに法華経の偈を引いて「もし人、散乱の心もて、塔廟の中に入るも、一たび南無仏と称へんには、皆已に仏道を成ず(下p.73)」というのは、心の在り方がどうであれ、南無仏と称えるだけでいいというのだから、これまでの主張とずれる。次いで「いまだ菩提心を発(おこ)さざらんも、一たび仏の名を聞くことを得ば、決定して菩提を成ぜん(同)」というのも、どうも前半の議論と齟齬していると思う。

一方、観無量寿経を引き「心に仏を想ふ時は、(中略)この心、作仏す。この心、これ仏なり(下p.75)」と、心=仏と言う。さらに往生論の註を引き「心の外に仏なきなり(同)」、大集日蔵分を引き「諸仏如来も即ちこれわが心なり(下p.76)」と述べる。このあたりは唯心論的(唯識的)で、さっきの「散乱の心でもよい」という態度とはかなり異なる。源信の心に対する考えは揺れ動いているように見える。

ただし、心を込めて念仏するほうがいいというのは当然で、先述の「心を至し」は随所に出てくる。本書は多くの経典を引用するので、統一されないそれぞれの「心」の捉え方が本書にはたびたび表明される。だからこれは源信の考えが揺れ動いているのではなく、単に多様な考えが盛り込まれているだけなのかもしれない。

8.念仏の証拠

本章では、善行ではなく念仏を勧めるのはなぜかを説明する。それは、善行を勧めないというのではないが、少しの善行よりは一日でも念仏をする方が利益が大きいというものである。なお本章は他章に比べ極端に短い。

9.往生の所行

源信は、念仏さえすれば往生できると確信はしていない。よって本章では、読経、誦経など念仏以外に往生に役立つことを述べている。本章も他章に比べ極端に短い。

10.問答料簡

本章は全部が問答形式である。いわば「よくある質問」のようなQ&A集だ。この問答は、予定調和的なものではなく、実際に源信が直面していたものなのだろう。例えば経典間の矛盾を突く質問などは、その質問を掲載していること自体が面白い。

仏典は歴史的にいろんな人が形成に与ってきた。ということは、当然矛盾も多い。仏教ではそうした矛盾を「方便だ」としてあまり深刻に受け取らなかったのだが(どちらの方が正しいのか、というような議論はされなかった)、一歩離れて見てみると「二経、何が故に同じからざるや(下p.144)」という態度の方が自然である。

また、すでに別の箇所でも同様の問答があったことを述べたが、「一たび[仏の]名を聞くすらなほ成仏することを得といふ。いわんや暫くも称念する、なんぞ唐捐ならんや(下p.159)」、つまり「仏の名を聞くだけでも成仏できるなら、称名念仏は無駄では?」というような疑問はごもっともである。こういう問答は読んでいて楽しい。「生まれてこのかた悪事ばかりして一切善行を行わなかったものが、臨終の時にわずかに念仏しただけで罪が滅して浄土にいくなんておかしくないか?(意訳)」(下p.177)という疑問なども至極当然のものだろう。

これに対する源信の回答は、いろいろな事例を引いて説明しているが、論理的な反論には感じられない。最後に「念仏の功力も、これ[諸法の不可思議さ]に准じて疑ふことなかれ(下p.184)」 というのは、ちょっと逃げている感じがする。ただし、この時代には念仏によってあらゆる罪障が無効化されて往生できるとまでは考えられていない。

そして、ここでもまた心の問題は蒸し返される。「粗雑な心で念仏しても効果はあるのか(意訳)」(下p.197)ということに対しては、「例えば芽が出るなと願いながら種を播いても、芽が出るのと同じ(=大悲経の引用)(意訳)」(下p.198)という問答があったかと思うと、「この経の意の如くは、敬信を以ての故に、遂に涅槃を得るなり(下p.200)」と「やっぱり心が大事なんじゃないの?」と問うているのは面白い。それに対し源信は「諸法の因縁は不可思議なり。(中略)ただ応に信仰すべし。疑念すべからず(下p.201)」とやや逃げ腰である。

では、このように念仏を信じることで往生できるのであれば、むしろなぜ「信ずると信ぜざるとありや(下p.215)」というのが疑問になる。これに対する源信の答えはやや我田引水だ。それは「疑ひて信ぜざる者は、皆悪道の中より来たり(下p.216)」。要するに「信じない者は悪人」なのである。それは言い過ぎではないだろうか。

さらに「(阿弥陀の名号を)不信の者はいかなる罪報をか得るや(下p.218)」。これに対し、源信は称揚諸仏功徳経を引用し「五劫の中、当に地獄に堕ちて、具さにもろもろの苦を受くべし(同)」という。信じないだけで地獄行きとはちょっと腑に落ちない。それに、これは「1.厭離穢土」と矛盾する。そこにはあらゆる罪を犯したものの細かい地獄の描写があったが、「信じない者が堕ちる地獄」というものはなかったからだ。

そう言いながらも源信は、「もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修する者は、また往生することを得(下p.219)」という。疑いがあっても往生のためのプロセスを踏めば大丈夫だという。信じるのが大事なのか、そうではないのか、最後まで源信は揺れ動き、どっちともつかない。両論併記だ。

それは、「信」が源信にとって「学問」ではなく「信仰」だったからだと私は思う。源信にとって「信」は理屈ではないのだ。この長大な学究の塊『往生要集』をもってもしても、「信」は理論化できなかった。そういえばその名も源「信」だ。理論化はできなかったが、「信」は源信にとって心情的に外せないものであったことは確かだ。

このように本書は全体に重複・矛盾・一貫性のなさが見られる。ではその価値が低いかというともちろんそうではなく、経典から要点を抽出して念仏を理論化したことには歴史的な価値がある。そのうえ、本書の矛盾や一貫性のなさは、批判の対象というよりも、その後の議論の土台として機能した。ある意味では、本書はその不完全さが魅力なのかもしれない。それに百科全書的というか、取捨選択をせずに論考をまとめているため、いろんな角度から読むことができるのも本書の面白さである。私は「心」や「信」の問題に注目して読んだが、それは本当に限られた観点でしかなく、実際に読まなければ何が書かれているかわからない本だと言っても過言ではない。

ちなみに、これまでの私の書き方は、源信に対してずいぶん批判的に感じるだろう。だが先ほども述べたように、私は源信の書きぶりに非常に好感を持つ。『往生要集』から感じるのは、度外れた素直さだ。それはしばしば宗教の教祖が持つ強力な確信とか、信仰を喧伝するものが持つ狂信とは全く違う。『往生要集』という高峰がありながら、そこから独立した宗派が形成されなかったのも当然だと感じる。『往生要集』には、源信の迷いや苦悩がはっきりと残されている。いわば源信は等身大なのだ。等身大の人間が、このような巨大な論考を、素直な気持ちで書き記したことは奇蹟的だ。

念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

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2024年10月5日土曜日

『説経集(新潮日本古典集成)』室木 弥太郎 校注

中世の説経の代表的作品を収録した本。

説経とは、「説経節」「説経浄瑠璃」とも呼ばれる、中世後期から近世初期に盛んだった仏教的な口承文芸である。

説経は、安土桃山時代に単純な語りとして勃興し、江戸時代に入ると三味線の伴奏や人形の上演が加わった。それは「本地物」(神仏の本地(由来)を語る物語)の形式をとり、各地を旅する下級芸能者によって伝えられた。彼らはほとんど乞食同然で「簓乞食(ささらこじき)」とも呼ばれた。説経は本来ササラの伴奏を伴った語りであったからである。そして彼らは「蝉丸の宮」(大津市蝉丸神社)の祭礼に集まって神事に奉仕した。蝉丸の宮では、蝉丸伝説を述べた「御巻物抄」というものを作り、説経の人々に金と交換に下付した。それが彼らの身分証明書で、説経を語る免許のような役割を果たした。

江戸時代になると、説経は劇場で行われるようになり、最も盛んに演じられたが、劇場、三味線、人形などの要素は、人形浄瑠璃と同じであり、説経本来の意味合いが薄まった。また説経の担い手(だったはずの人々)は定住するようになり、口承文芸としての漂泊の性格も失われた。説教は後の芸能に大きな影響を与えたが、宮中などの権威と結びつかなかったためもあり、こうして説教はなくなった。

本書には代表的な6つの説経が収められている。それぞれの内容をまとめ、所感をメモする。

かるかや

信濃善光寺にある親子地蔵の由来を語る。筑前国の松浦党の総領、重氏は6か国を知行していたが、花見の際、未だ盛りにならぬ花が風で散ったのを見て遁世を決意する。長女はまだ3歳、妻は身ごもっていた。一門は止めたが重氏は出奔、比叡山の法然の下で出家した。こうして重氏は刈萱道心となった。その際、法然は親が来ても子が来ても決して会うなと固く誓わせた。

重氏は出奔にあたり、お腹の子が生まれ男児なら石童丸と名付けて出家させよと置手紙していた。果たして男児が生まれ、石童丸が13歳になった時、父に会いたいと母を口説き、姉を家に残して母と旅に出た。

二人は比叡山に赴いたが、刈萱は母と子が訪ねてくる夢を見て、女人禁制の高野山に逃げた後だった。二人も追って高野山に到着したものの、女人禁制の由来である弘法大師と母の物語を諄々と聞かされ母は入山を断念。石童丸は一人で高野山に入り、刈萱と偶然出会う。話を聞くうち、刈萱は石童丸が自分の子であることに気づくが、誓いのために自分が父であることを明かさず、「そなたの父はもう死んだ」と伝えた。

一方、高野山の麓で待っていた母は、なかなか戻らない石童丸を待ちかねて、心労がたたって亡くなってしまった。高野山から下りて来た石童丸は母が死去したことを知り「これは夢か現かや」と慟哭。再び高野山に登り、刈萱に菩提を弔うように依頼。刈萱も妻が死んだことを知り内心深く悲しんだが、やはり自分が重氏だとは明かさず妻を火葬にした。石童丸が一人で筑紫に戻ると、姉は母と石童丸を恋しい恋しいと思い詰めるあまりに死んでしまっていた。石童丸は「これは夢か現かや」と慟哭。もはや頼れるものをなくした石童丸は再び高野山に登り、刈萱の下で出家。二人はやがて別れたが、父が83歳、石童丸(改め道念)が63歳の時、同じ日同じ時刻に大往生を遂げた。この二人こそが善光寺に親子地蔵といわれて祀られているのである。

【所感】

「かるかや」は悲劇の連続である。その原因は父の出家にあるが、父の行動は一門からは非難されているものの、作中では立派な行いとして描かれている。すなわち往生至上主義的であり、現世の幸せは軽視されている。

石童丸が地蔵菩薩になったのは、「かやうにめでたきともがらをば、いざや仏になし申し、末世の衆生に拝ません(p.77)」と三世の諸仏が計らったからで、本地垂迹的(親子の本地が地蔵だったとか)ではない。いわば「人本仏迹」である。これは以下の物語でも共通している。

さんせう太夫

丹後の国の金焼(かなやき)地蔵の由来を語る。つし王丸とその姉安寿の父は、奥州54郡を治める判官だったが、咎を得て筑紫安楽寺に流罪となっていた。つし王丸は「安堵の御判」(赦免)を受けるため、姉・母・乳母を連れて朝廷へ旅立つ。だがその旅の途中、山岡の太夫は彼らをだまして船に乗せ、親子別々に売ってしまう。この時、母は姉には身代わりの地蔵菩薩を、弟には系図を渡していた。なお乳母は売られたことに悲観して船から身を投げ自害した。

姉弟はあちこちに転売され、結果的に丹後の国のさんせう太夫に買われ、奴隷として苦しい下働きする。 さんせう太夫には5人の息子がいたが、ことに三郎はひどく虐待した。二人はその虐待に耐え兼ね自害しようとしたが、同じく奴隷の境遇にあった「伊勢の小萩」に励まされ思いとどまる。

姉はさんせう太夫から逃亡しようと弟を誘うが、つし王は消極的。その話を盗み聞いた三郎は、罰として姉の額に十文字の焼き金を押した。さらに三郎は二人を浜の湯船の下に監禁して飢え死にさせようとした。だが三郎の兄、二郎が二人を憐れんで食事をひそかに持って行ってやったので二人は生きながらえた。そして姉は、地蔵が身代わりになってくれたおかげで自分に焼き金の跡がないことを知ると、弟に地蔵を預けて脱走させた。つし王が逃げたことを知った太夫は姉を拷問。だが姉はその行方を頑として言わずに絶命した。

つし王は追っ手から逃げ、姉から言われたとおりに寺に逃げこむ。ここの和尚が頼もしい人物で、追っ手の捜索を阻み、寺につし王はいないことを仰々しい起請文を宣べて誓う。太夫と太郎はその起請文に納得したが、三郎だけは怪しむ。ところがそれも金焼地蔵のおかげで事なきを得る。このあたりはスリリングである。

つし王は身分を明かし、和尚はそれを憐れんで、つし王を皮籠に入れて背負って都へ向かう。都に到着はしたが、和尚は出家の身では安堵の御判はもらえないからと別れを惜しみつつ丹後に帰った。残されたつし王は狭い籠に入れられていたからか腰が立たなくなっており、土車(土を運ぶ車=いざり車)に乗って宿送りで四天王寺に到着。四天王寺の石の鳥居で「えいやつ」と立ち上がると、俄かに若侍となり、四天王寺の高僧に奉公する。

一方、みかどの臣下に梅津の院という子のない大臣がいた。養子を求めて仏を拝むと四天王寺にゆけというお告げがあった。そこで四天王寺にゆき、百人の稚児若衆を見るがふさわしいものがいない。そして茶の給仕をしていたつし王に目が留まる。彼は額に米の相(?)があって瞳が4つあった(!?)のである。つし王を養子にし、風呂に入らせ装束を着せると並ぶものなき立派な若者になった。そして朝廷に上ったつし王は、ここぞと系図を取り出して、奥州54郡と日向の国、そしてつし王の望みで丹後5郡の安堵を受けるのである。

権力を手に入れたつし王は、まず命の恩人の和尚にお礼する。そして和尚から姉が殺されたことを知らされた。そこでつし王は、さも褒美を与えるような風でさんせう太夫を呼び出し、太夫を三郎に竹ののこぎりを引かせて首を切り処刑。続いて三郎も同様に処刑した。一方、太郎と二郎はつし王に情けをかけたことがあるため赦免し、また伊勢の小萩を姉にして迎えた。

さらに、つし王は蝦夷に売られていた母を見つけ出した。母は泣きつぶして盲目になっていたため、つし王が地蔵をその目に当てると、潰れていた両目がぱっちりと開いた。その後、山岡太夫も処刑。つし王の父も戻って一族は陸奥の所領に向かうのだった。

【所感】

姉安寿は脱走を企てたり、拷問を受けても口を割らなかったり終始行動的で意志の強い人物である一方、つし王の方はずっとされるがままであり、弱い人物として描かれる。さんせう太夫の下でのつらい下働きも、姉はなんとかこなそうと努力するが、つし王は境遇を嘆くのみで、主体的に動くことはない。つし王が唯一生き生きと主体性を発揮するのは、権力を手に入れてから復讐することだけである。

この話は、金焼地蔵の由来を語るものであるが、妙なことにつし王に地蔵への信仰は全くないように見える。例えば近世のこういう話の場合は、地蔵への信心が強調されるであろう。ところがつし王は地蔵を都合のよい時に使うばかりで、全く信心はないのだ(姉もそうだ)。にもかかわらず、地蔵は常に姉弟を助ける。これは地蔵に守られる運命だったとしか言いようがない。

しんとく丸

信吉長者というたいへんな長者がいた。彼は子がなかったので、妻と清水寺に参って祈願すると、果たして本尊が夢枕に立った。本尊が語るには、長者の前世は山人(やまうど)、妻の前世は大蛇で、それぞれ生き物の命を奪った科で子がないのだという。夢からさめた長者は、供え物をたくさん準備し、本尊を「それでも子を授けなかったらこんなことをするぞ」と脅すような祈願をする。本尊は再び現れ、「その子が7歳になったら父か母に命にかかわる大事があるが望みをかなえよう」と述べ、玉のような男児しんとく丸(俊徳/新徳/身毒など)が誕生した。

しんとく丸は9歳になると寺に預けられ、学問にはげみ寺一番の学者となった。信吉は13歳になったしんとく丸を呼び戻し、天王寺で行われた宴でしんとく丸に舞を舞わせた。しんとく丸はそこで和泉の国の陰山長者の娘乙姫に一目ぼれ。そこで恋文をしたため、家来の仲光に託した。仲光は商人に変装して陰山長者の屋敷にゆき、恋文を女房たちに渡した。その恋文に書かれていることは女房たちにはさっぱり理解できなかったのでどっと笑ったところ、何事かと思った乙姫が出てきて、見事その謎かけのような恋文を解読し、返事を書いた。

信吉長者の家では乙姫からの手紙を歓迎し、幸せな気分になった母はつい「清水寺の本尊は命に関わる大事があるといったが何事も起こらなかった。本尊も嘘をつかれるのだ」と口走り、これが命取りの一言になった。本尊はちゃんと聞いていたのだ。すぐさま母に仏罰が下って死去した。そこで後妻が迎えられ、次郎が誕生。後妻は次郎を総領にするため、清水の本尊に祈願して「しんとく丸の命をとってください。でなければ人の嫌う病気にしてください」と呪詛し立木に釘を136本打った。

これによりしんとく丸は「人の嫌う病気」=癩病となり、両目は潰れた。そこで後妻は信吉長者に「一族に病者がいると噂になっているのでしんとく丸を捨ててください」とお願い。仲光がしんとく丸に「天王寺での説法を聴きに参詣しましょう」と誘い出し、天王寺の念仏堂にそのまま置き去りにした。こうして盲目で投げ出されたしんとく丸を清水の本尊は不憫に思い、夢枕に立って「熊野の湯に入れば治るぞ」とお告げした。しんとく丸は熊野目指して乞食しつつ旅したが、ある家に物乞いに入ると、なんとそこは乙姫の家であった。しんとく丸は恥をかいたことを悔やみ、恥をさらして生きながらえるよりもと死を望む。

一方、しんとく丸が来たことを後で知った乙姫は、「継母の呪いで病者となったしんとく丸が家に来たのは自らを訪ねてきたに違いない。にもかかわらず女房達がそれを笑って追い返したとは残念だ」としんとく丸を追って旅に出るようとする。もちろん父母は強く反対したが、乙姫は恋しさが募って床に伏し、死んでしんとく丸に会おうというので、さすがに父母も了承し、乙姫は順礼に身をやつして旅に出た。

乙姫はほうぼうを訪ね歩き、死のうと思いながら死ねずにいたしんとく丸と再会する。そして「夫婦」して清水寺へ行き祈願すると、ふたたび本尊が現れ「しんとく丸の病気は継母の呪いのせいであるから自分を恨むな。明日鳥箒でなでれば病は平癒する」と述べた。果たしてそのようにすると135本(ママ)の釘は全て抜けて元のしんとく丸に戻った

一方、信吉長者の屋敷では、呪いの報いが継母でなく父の信吉に現れ、その両目は潰れていた。そして身内も逃げて貧しくなり、丹波の国に流浪していた。

他方、陰山長者はしんとく丸が元通りになったという噂を聞き、しんとく丸と乙姫を迎え入れた。そしてしんとく丸は、「自分が目が見えなかった時に親切にしてくれたたくさんの人のおかげで今の自分がある」と多くの宝を7日間施行した。この施行のことを耳にした盲目の信吉は、息子のしんとく丸がやっているとは知らず、その施行を受けようと訪れる。こうしてしんとく丸と信吉は再会。しんとく丸は父を鳥箒でなでて、父も元通りとなった。しんとく丸は従者に命じて継母と次郎(弟)の首を斬らせ処分し、その後は父とともに母の供養をして幸せに暮らした。

【所感】

ここでも主体性を発揮するのは女性だ。乙姫は、しんとく丸が癩病の乞食になっているにもかかわらず、しんとく丸を愛し抜く。継子いじめと貴種流離譚を基調とし、乙姫の愛の力でしんとく丸が元に戻るのは、形式的には清水の本尊の霊験が舞台装置となってはいるが、人間主体のストーリーだ。本尊には主体性が希薄で、継母の呪いによってしんとく丸に消極的に不幸をもたらしている(それどころか私のせいではないとまで述べている)。「かるかや」や「さんせう太夫」のような、霊験や宿命を基調とした物語とは明らかに違う。本編は本地物でもない。

をぐり

美濃国墨俣(すみまた)の正八幡の由来を語る。大納言の二条兼家には子がなかった。そこで鞍馬寺の毘沙門天に祈願すると、果たして男児有若(ありわか)が誕生。有若が7歳になると寺で学問をさせ、有若は学問にはげみ寺一番の学者となった。有若が18歳になると呼び戻され、名を小栗と改めた。母は小栗に妻を娶らせたが、小栗はなんのかんのと難癖をつけて多くの女性を拒否。72人もの妻を離縁した。

誰を妻とも定められない小栗は、ある日なぐさみに横笛を吹いていると、それを聴いていたのが深泥池(みぞろがいけ)の大蛇。美しい音色に魅了された大蛇は、若く美しい女性に変化して小栗のもとに現れた。小栗もこの大蛇の女性が気に入って夜な夜な逢瀬を重ねた。ところが小栗と大蛇が通じているという噂がたち、兼家は小栗を勘当して、妻の所領常陸に流してしまう。

常陸では、小栗は多くの侍に見込まれて暮らしていたが、ある日諸国を回ったという商人後藤左衛門が訪れる。小栗はこの見聞の広い商人に「自分に相応しい女性がいるか」と聞いたところ、武蔵・相模両国の郡代、横山殿の照手(てるで)の姫は、日光山の申し子でたいへん美しくよかろうという。まだ見ぬ照手に恋してしまった小栗は後藤左衛門に恋文を託した。彼は早速横山殿の屋敷へ行き、拾ったものとして恋文を女房に渡す。その恋文に書かれていることは女房たちにはさっぱり理解できなかったのでどっと笑ったところ、何事かと思った照手が出てくると見事その謎かけのような恋文を解読し、返事を書いた。[※しんとく丸と全く同じ。よほど人気のあったエピソードなのだろう]

その返事には「一家一門は知らず、照手は領掌(了承)」とあった。一門が了承しなければ婿入り(嫁取り)はできないが、小栗は屈強な従者10人を引き連れて、たくさんの贈り物とともに屋敷へ向かい、強引に娶って照手を常陸へ連れて行った。横山殿とその5人の息子(照手の兄)は、小栗から照手を取り返す相談をし、三郎が謀略を考える。宴を催して、その余興と称して小栗を鬼鹿毛(おにかげ)という馬に乗せようというのだ。

鬼鹿毛は人間を食ってしまう恐ろしい馬だった。 さすがの小栗も尻込みしたが、鬼鹿毛に「乗せてくれるならお前の死後に黄金御堂を建てて馬頭観音として供養しよう」と説得。馬は小栗の額に米の字が3つ、瞳が4つあるのを見てただの人ではないと感じ、小栗を乗せた。小栗は鬼鹿毛を馬具なしで見事に乗りこなし、高度な曲馬さえ演じた。

そこで横山殿と三郎は、今度は小栗を毒殺しようとする。再び宴を催して小栗を呼んだ。照手は小栗が殺される夢を見たので小栗に忠告したが、小栗は「いかないわけにはいかない」と宴に参加。ただし、いくら勧められても酒は飲まなかった。ところが所領(武蔵・相模)を取らせようと酒を勧められたため、「所領を添えて勧められた以上は飲まないわけにはいかない」と酒を飲み、従者10人とともに毒殺された。

陰陽師の教唆によって、従者10人は火葬されたが小栗は土葬された。さらに横手殿は世間体を考えて照手も殺そうと兄たちを差し向けた。照手は小栗の死に悲嘆して死を受け入れ、自ら牢輿(ろうごし)に入って海(ゆきとせ浦)に沈もうとしたが、漁師たちによって助けられ、漁父(むらきみ)の太夫に養子として迎え入れられる。しかし姥(太夫の妻)はこれが気に入らないので、照手を勝手に売ってしまった。太夫はこの悪行を恥じて出家した。

照手は、様々な人に転売されて流浪し、 美濃国のよろづ屋という妓楼の主人に買われて「常陸小萩」と名付けられた。しかしあくまで夫に貞節たろうとする照手は身を売ること(売春)を絶対に承知しない。16人分の下仕事をすることを引き換えになんとか免除される。本来は16人分の仕事をすることは不可能だが、照手は念仏を支えに、千手観音の助けを得て、3年間仕事をこなした(照手は月日(日光山)の申し子である)。

一方、冥土に赴いた小栗と10人の従者は、閻魔大王に裁きを受ける。裁決は、小栗は大悪人であるから悪修羅道へ、10人の従者は巻き添えを食っただけなので娑婆へ戻そうというものだ。しかし従者は「我らと引き換えに小栗を娑婆へ戻してほしい」と閻魔に訴える。その忠義に感じ入った閻魔は11人を娑婆に戻すことにしたが、あいにく従者は火葬されており小栗だけが甦った。3年の月日が経っており、小栗は墓から這い出たものの、すっかり体は餓鬼のように弱っていた。ちょうどそこへ通りかかった藤沢(時宗、清浄光寺)の上人は、小栗の存在を横山一門に知られては一大事と、小栗の髪を剃り、「餓鬼阿弥陀仏」と名付けた。小栗の胸札を見ると、「この者を藤沢のめいとう上人の弟子にする。熊野本宮湯の峰に入らせよ」と閻魔大王自筆の御判がある。そこで上人は「この者を一引いたは千僧供養、二引いたは万僧供養」と書き添えた。

こうして土車での餓鬼阿弥陀仏の旅が始まった。上人はもちろん、多くの人が「えいさらえい」と土車を引き、餓鬼阿弥は旅をする。横山一門の人々も、それが小栗とは知らず照手の供養のために引いている。こうして餓鬼阿弥は照手の働くよろづ屋の前につく。それまではまるで人が引いているとは思われなく軽く動いたのに、なぜかよろづ屋の前では3日動かなかった。そして餓鬼阿弥を見た照手は激しく心を動かされる。小栗の供養のためになんとしてでも引きたくなった照手は、主人に3日の暇を乞う。主人は断ったが、照手は「主人夫妻の身の上に大事がある時は身代わりになるから」となんとか説得し、餓鬼阿弥の車を引く。餓鬼阿弥は半死半生で目も見えず耳も聞こえない。照手が引いたとは分からなかった。別れに際し、照手は「美濃国よろづ屋の常陸小萩が車を引いた。病から復したら一夜の宿を取らせます云々」と胸札に書き添えた。

さらに餓鬼阿弥の旅は続く。熊野に着くと、これからは車では進めない。大峰の山伏たちはかごを編んで、餓鬼阿弥を入れて背負って熊野本宮の湯の峰に到着。444日が経っていた。餓鬼阿弥が熊野の湯に浸かると徐々によくなり、49日目に元の小栗殿に戻った。熊野の権現は小栗を見て、山人(やまうど)に変化して二本の金剛杖(つえ)を与えた(小栗は山伏に変装した)。小栗は、父兼家の屋敷に乞食(こつじき)に訪れたが門前払いを喰らう。そこで名を明かすが父は小栗は死んだといい信用しない。父は「小栗ならば座敷から放った3本の矢を、一本は右手、一本は左手、もう一本は歯で受け止められるだろう」と言って前庭にいる山伏に矢を放つと、果たして小栗はその通りに矢を受け止めた。親子は再会を喜び、みかどの前へ参る。

みかどは「小栗ほどの大剛の者には所領を取らせよう」といいって五畿内5ヶ国の御判を取らせ、さらに小栗の希望で美濃国も取らせた。小栗は所領を分けると言って三千余騎の侍を集め、三千余騎とともに所知入りした。よろづ屋の主人は百人の遊女を集めて小栗をもてなそうとしたが小栗は興味を持たない。小栗は胸札で知った恩人、常陸小萩はいるかと尋ね、主人は小萩を出そうとしたが、小萩は客の前には出ないと断った。そこで主人は「かつて大事がある時は身代わりになる」との誓いを持ち出し、小萩もそれは道理だと承知。

小栗は小萩の身の上を訪ねるが、小萩はあくまでも素っ気ない。しょうがないので小栗は自分の身の上を話す。この話を聞き、小萩は涙を流して自分が照手の姫であることを明かす。小栗は、照手を使役したよろづ屋の主人を処刑しようとしたが、照手はかつて餓鬼阿弥の車を引くため3日の暇を許可した慈悲に免じて許されよと懇願。小栗はそれならばと逆に所領すら与えた。

さらに小栗は常陸の国へ7千騎で所知入りし、横山攻めと相成った。これを横山も迎え撃つ。ところが照手は、もし父母に攻め入るならば自分を殺してからにせよとこれも押し止めた。照手は父に手紙を書き、父は「七珍万宝の数の宝より、我が子に増したる宝はない」と感激して、黄金や鬼鹿毛を添えて降伏した。小栗は黄金は辞退して横山を宥免したが、三郎だけは処刑した。

その後、ゆきとせ浦で照手を売った姥を竹ののこぎりで首を斬って処刑し、太夫には領地を与えた。その後小栗殿は83歳まで長生きして大往生を遂げた。小栗は神として拝まれ正八幡になり、照手は「契り結ぶの神」(岐阜県墨俣町の町屋の結大明神)として祀られている。

【所感】

「をぐり」は、本書中で最もおもしろく、最も感動的である。また、そこには中世的でない新しい人間観がある。小栗は大蛇を妻にする異常な人間で、一門の了承を得ないで妻照手を迎える。妻も一門の意志とは関係なく、小栗を一途に愛する。ここには夫婦の結びつきを、男女間の愛情と捉える感覚がある。

照手の小栗への愛情、貞節を貫こうとする意志は異常と言えるほど強力である。また、餓鬼阿弥に心を動かされ、別れがたく感じる所は、小栗との宿命を示すご都合主義に過ぎないとしても、美醜を越えて人間を見る照手の人間性を示している。しかも彼女は父や遊女屋の主人を許す慈悲深い女性である。もしかしたら照手は、理想の妻として表象されているのかもしれない。だが、それは後の貞淑で従順な妻とは全然違う。照手は夫に従属しているのではない、強い意志を持った女性なのだ。「をぐり」を読んだものは、この理想の女性照手を誰しも好きになってしまうだろう。

この異常な男女をヒーロー・ヒロインにしたところに、新しい感覚が表れている。

「をぐり」は、3つの信仰が雑多に結びつけられている。日光山、時宗、熊野の3つである(最初に毘沙門もあるが話の筋に関係しない)。

あいごの若

権勢並ぶものなき二条蔵人の清平は、みかどの前で行われた宝比べで家宝「やいばの太刀・唐鞍(からくら)」で勝利する。その際、宝の貧弱さを侮辱された六条殿は怒って清平に討ち入りしようとするが、家来にいさめられて留まり、代わりに子比べを催すようみかどに進言する。ところが二条殿には子がないから負けが確定。5人も子がある六条殿は留飲を下げる。

さらに六条殿は、二条殿が讒言したと言って二条殿の屋敷に攻め込む。二条殿もそれを迎え撃つ格好を見せるが、仲裁するものが表れて事なきを得る。(この部分は説経にふさわしくない戦闘がメインで、後の挿入と見られるという。)

二条殿は妻と子がないことを嘆き、泊瀬山の観音に祈願すると、一度は断られたがさらに祈願を続け「その子が3歳になると夫婦のどちらかの命を取るがそれでもよいか」との観音の夢告があり、それを了承して男児愛護の若が誕生した。愛護の若は無事13歳まで成長する。そこで母が「神や仏も嘘をいうのだ」と漏らし、これが命取りになった。泊瀬山の観音はこれを聞いており、仏罰であえなく母は死去した。[※しんとく丸と全く同じ]

二条殿は後妻を迎えたが、この後妻が愛護の若を一目見ると恋してしまった。そこで謎かけのような恋文をしたため、侍女の月小夜(つきさよ)に託した。月小夜が若に手紙を渡すと、見事若は謎を解いたが[※しんとく丸やをぐりと同じ]、継母の恋慕に嫌悪する。

継母は懲りずに7通の恋文を書くが、若は月小夜に「この手紙を父に見せて継母を懲らしめよ」と伝える。もし父にこのことが露見すれば継母の命はない。一転して継母は若への復讐を決意。月小夜の夫は「やいばの太刀・唐鞍」を持ち出し商人に変装して二条殿に売りに行く。我が家の家宝が売られていることを不審に思った二条殿が商人を問いただすと、暮らしに困った愛護の若が家宝を勝手に売ってしまったこと(もちろん嘘)がわかった。

父は激怒し愛護をさんざんに打ちのめし、桜の古木に縛って釣り上げた。もはや若を慕うのは白手の猿(山王の使い)しかない。一方、冥途に赴いた母は、閻魔大王に裁きを受けていた。母は愛護が死に瀕しているのを何とか救おうと、閻魔に懇願。それを憐れんだ閻魔は、今ちょうど死んだものの体を借りて一時的によみがえらせることにする。しかし折よく死んだものがなく、いたちがちょうど死んだところだった。母はそれでもよいとお願いし、よみがえった。いたちになった母は、愛護の若を吊るした綱を噛み切り、猿と協力して若を助けた。

いたちの母は、「比叡山西塔の北谷の阿闍梨が自分の兄、若の伯父にあたる人だから訪ねよ」と言って消える。そこで若は屋敷を抜け出し、比叡山に上ろうとするが道もわからず途方に暮れる。そこで出会った細工(細工の工人)は若を憐れみ、比叡山に連れて行ってあげる。ところがその入り口に女人禁制、三病者禁制(癩病等)、細工禁制とあった。やむなくここで細工とは別れ、一人で阿闍梨を訪ねるが、阿闍梨の家来は怪しみ、阿闍梨自身も「二条殿の若が従者も連れず来るはずがない」と信用せず、若をさんざん打ちのめし門前払いする。若は山を下りるが、道に迷い、衣は引き破れ、3日間さまよう。

そこで出会った田畑の介の兄弟は若を憐れんで食べ物を恵んだ。ところが次に会った穴太(あなふ)の里の姥は、若が桃を盗んだとか麻を乱したとか言って若を打ちのめした。若はきりうが滝(飛龍滝)につくと、散る桜を見て世をはかなみ、小袖を脱いで恨み言をさまざまと書き留めてから身投げした。

辺りの法師たちが不審に思い、残された小袖を持って阿闍梨のところへ行くと、それが二条清平の若のものであるとわかった。そこで阿闍梨は二条殿へその小袖を持ってゆくと、二条殿は息子が滝へ身投げしたことを知って悲しんだ。[※清平は息子を殺そうとしていたのに筋が通らない]

さらに小袖の下褄(したつま)を見ると恨みの一筆があり、これまでの経緯が書いてある。そこでまず田畑の介兄弟に褒美を取らせた。また継母と月小夜を処刑。次にきりうが滝に行き、阿闍梨に祈らせると、滝つぼの水が天に昇って16丈の大蛇が現れた。大蛇は若の死骸を護っていたのである。清平は我が子の死骸に抱きつき、「我も共にゆかん」と池に飛び込んだ。阿闍梨、その弟子たちも池に飛び込み、ついで桃惜しみの穴太の姥、田畑の介の兄弟、手白の猿、細工夫婦までもが後を追って池に飛び込んだ。その数は108人だという。

南谷の大僧正は「このようなことは前代未聞だ」と愛護の若を山王権現とお祭りになった。こうして4月の申の日に山王祭が行われるようになったのである。(なお、本編は浄瑠璃風に六段になっている。)

【所感】

なんといっても、最後に108人もの人々が入水するラストが異常である(しかもともに入水する理屈は見出しがたい)。ストーリーに一貫性がなく、いろいろな話がコラージュ的に組み合わされている感じがする。継母が継子をいじめる話は多いが、恋慕することが契機となっているのも何か不自然だ。また山王権現は古くから祭られているものなのに、愛護の若が山王権現というのもよくわからない。

細工や田畑の介という身分の低いものが人間的で愛護の若を助ける一方、阿闍梨が何の助けにもならないなど、身分の高いものへの不信がそこはかとなく本編の底流にある。なお、後述するが道行(みちゆき)はこの時代極めて容易に描かれるのに、愛護の若では道に迷うなど移動に苦労するのが際立っている。

まつら長者

竹生島の弁財天の由来を語る。大和の国の壺坂に松浦(まつら)長者という並ぶもののない長者がいた。しかし子がないので泊瀬山に詣で、たくさんの財宝を供えて祈願をすると観音が夢枕に立ち子を与えようという。果たして玉を広げたように美しいさよ姫が誕生した。しかし長者は病を得て、法華経一部を形見にして、若くして死んでしまった。そのため急に家は零落し、家来たちも散り散りになり、母と娘だけが貧しく取り残された。二人は窮乏の中なんとか暮らしたが、父の十三年忌のためのお金がない。そこでさよ姫は自らを売って菩提を弔おうとし、春日明神に買い手が付くように祈願する。

その頃陸奥の国の安達の郡に、大きな池があって大蛇が住んでいた。その村の人たちは一年に一人ずつ見目よい姫を大蛇に生贄としてささげており、今年はごんがの太夫の番にあたっていた。そこでごんが太夫は生贄の娘を買おうと都に上ってきた。

太夫は高札を立てて女性を募り、それを見たさよ姫は心を動かされる。いつまでも応募がないので太夫は困っていたが、春日明神が老僧の姿で現れ、松浦長者の家にいる姫がちょうどよいと言って掻き消えた。そこで太夫が松浦長者の家に行くとさよ姫が出てきて、5日後に身売りすることが決まって代金を支払った。

母は当然にそのようなことを望まず、泣いてさよ姫をとどめようとしたが、すでにお金をもらっておりさよ姫も決心していた。そして5日後に太夫が現れ、無理やりにさよ姫を連れて行った。あまりの悲しみに母は狂い、両目を泣きつぶして奈良の都を迷い出た。一方、さよ姫はごんが太夫と陸奥への旅に出た。この道行は他の説経とはちょっと違う。さよ姫は慣れない旅路に疲れ、また道々の伝説を聞いて悲しみを新たにする。途中、疲れてどうしようもなくなったさよ姫は太夫に二、三日の逗留を乞い、最初は太夫は断って杖でさんざんに打ち付けたが、さよ姫が哀れになって結果的には逗留した。[※こういうエピソードは説経としては異例]

ごんが太夫の屋敷につくと、奥方には意外にも親切にもてなされたが、大蛇に供えられることが説明されさよ姫は愕然と泣き崩れる。やがて人身御供に供えられる日が来て、姫は大事に輿に入れられ池の大蛇にささげられ、村人は退散した。俄かに空が掻き曇り、16丈の大蛇が現れて姫を一口に飲もうとしたところ、さよ姫は少しも騒がずにしばらく待てといい、父の形見の法華経を取り出して高らかに読誦、さらに法華経を大蛇の頭に投げると12の角がはらりと落ちた。さらに法華経で体をなでるとうろこが次々に落ち、大蛇は貴婦人に姿を変えた。

貴婦人が語るには、私はこの池に住んで999年、これまで999人の人身御供を食べて来た。こうして法華経の力で成仏得脱できたことはありがたい。そもそも私もかつて継母に売られ、橋を架ける人身御供として奉げられたものなのだ。その時の恨みでこれまで人身御供を食ってきたが、その報いでうろこの下に9万9千の虫が棲み苦しかった。このように尊い姫に出会えたことは仏の引き合わせである、お礼に病気を治す如意宝珠を与えよう、と。また姫に望みを聞いたところ、大和の母に会いたいというので、大蛇は姫を頭に載せると[※貴婦人に変わったはずなのに不自然]池に飛び込み、刹那の間に大和へ移った。この大蛇は壺阪の観音として祀られている。

元の屋敷に戻ったさよ姫は、盲目となってさまよっていた母を探し出し、如意宝珠の力で両目を元通りとした。元のように奉公しようという人が次々現れ、ごんが太夫夫妻を呼び寄せて家臣として重用した。こうして松浦長者の家を復興させたさよ姫は85歳で大往生を遂げ、今は近江の国竹生島の弁財天として祀られている。

【所感】

さよ姫は不思議な人物である。父の菩提を弔うために自分を身売りするという強靭な意思を持ちながら、物語のほとんどで泣いてばかりいる。しかし大蛇を前にして人が変わったように凛々しくなり、法華経の力で大蛇を救済するのである。(なお、本編は浄瑠璃風に六段になっている。)

****

6編の説経を読んで一番心に残ったのは、なんといっても道行である。この6編には例外なく道行の場面がある。しかも複数あるものも多い。おそらく説経の原型には道行があるのだろう。道行とは、簡単に言えば旅の描写である。どこどこへ行って、次にどこどこへ行って、という地名の羅列である。そこに短い説明や伝説や、故事や言葉遊びなどがさしはさまれる。特徴的なのは、かなり長い旅路がいともたやすい様子で述べられることだ。中世末以降の人々は、いともたやすく旅をしていたことになる。(ただし、道行は古代からの伝統に則ったものだ。「まつら長者」での道行が妙に具体的で苦労エピソードが挟まれているのは、こちらの方が写実だという可能性もある。)

しかもその旅は、零落した乞食の境遇にあるものが行うのだ。今の旅行とは全然違う。それどころか、「さんせう太夫」と「をぐり」では、主人公は動けなくなっているのに、無一文でいざり車に乗って旅をするのである。沿道の善意によってである。当時、そのような境遇にある者へ慈悲を施すことが意味があることとして捉えられていたに違いない(それが厄介払いの要素を伴っていたとしてもである)。

このように説経でこともなげに旅ができているのは、説経師たちが旅から旅への生活をしていたことを反映しているのだろう。そして説経の基本的な筋が、富貴からの零落、継子いじめ、乞食の旅、盲目や病者、人身売買など、この世の辛酸を舐めるものばかりなのも、説経師たちが最下層の悲惨な暮らしを余儀なくされていたからなのだろう。

そして説経の最後は、自分を虐げたものへの復讐が多いことは、説経師ばかりでなく、それを聞く庶民の方でも世の中の不平等に対するうっぷんが溜まっていたことを示唆する。ただ、説経には、貧しいものが富貴の者を倒すという下剋上の要素は全くない。それどころか主人公はいつも富貴の家に生まれ、神仏の申し子として将来を約束されていたりする。その辛苦の物語は、いわばシンデレラ的なものだ。

また、説経には女性が積極的な役割を果たす物語が多い。宿命に抗おうとするのは女性であり、男性は受動的である。それは、説経師たちに女性が多かったということを示しているのかもしれない(だが絵巻物などでは男性が語っている)。

それから、大変興味深かったのは、御判とか赦免を求める際、説経では必ず都の朝廷・みかどへと向かうことだ。逆に将軍は全く出てこない。これは中世後期の、朝廷が有名無実化していた時代につくられた話であるにもかかわらず、将軍ではなく朝廷・みかどが実権を保持しているのだ。これは何を意味するのか。古い時代の記憶が呼び覚まされているのだろうか? それとも説経師たちにとって、朝廷・みかどの方が幕府よりも身近に感じられる理由があったのだろうか。

ちなみに、上述のあらすじを読めばわかる通り、説経は口承文芸としては結構長い。早口で演じても一編2時間くらいかかりそうだ。これを覚えて効果音(ササラ)を交えて演じるのは、相当な技量を要する。説教師は最下層の芸能民であったが、その技術をどこでどう身につけたのか。それとも中世の人々は、こういう長い話をすぐ覚えてしまうくらい記憶力がよかったのだろうか。

なお、歴史的な関心がなくても説経は話としてとても面白い。「小栗判官」や「山椒大夫」が日本人の共通知識となったのも納得だ。

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2024年10月2日水曜日

『不干斎ハビアンー神も仏も棄てた宗教者』釈 徹宗 著

不干斎ハビアンの評伝。

戦国時代後期、日本にキリスト教の宣教師たちがやってきた。そして日本では短期間に多くの(少なくとも十万人以上の)人たちがキリシタンになった。その一人に不干斎ハビアンがいた。彼は日本人キリシタンの知的リーダーであった。

彼は、神仏儒教とキリスト教を比較して、キリスト教こそ真実であると論証した『妙貞問答』を著した。ところがそれを書いてほどなく、彼は棄教し、今度はキリスト教は真実ではないとする『破提宇子(はだいうす)』という本を書いたのである。

本書は、この『妙貞問答』と『破提宇子』を読み解き、不干斎ハビアンの思想を「比較思想」として位置付けるものである。

ハビアンは、『破提宇子』こそ知られてはいたが謎の人物であった(明治政府はキリスト教対策のために同書を刊行した!)。ハビアンにいち早く注目したのは『広辞苑』で有名な新村出。新村が注目して後、大正6年に神宮文庫(元・林崎文庫)から『妙貞問答』の中下巻が発見され、さらに1972年には、吉田家旧蔵本に『妙貞問答』上巻が存在することを西田長男が発見した。またドイツ人キリシタン研究者フーベルト・チーリスクがハビアンの母が北政所(ねね)の侍女であったことを論証。こうした研究によって、比較的最近になってからハビアンがどういう人物であったのかがわかったのである。

それによれば、ハビアンは1565年頃、北陸のあたりで生まれた。彼は禅僧であったが1583年(天正11年)にキリシタンに入信し、大坂・高槻のセミナリオ(神学校)に入学した。翌年には「同宿」と呼ばれる教会の補佐役、1586年には正式にイエズス会のイルマン(平修道士)になり、大分の臼杵にあった修練院(ノビシアド)に移った。その年にイエズス会への入会を許され、1590年には長崎・加津佐のコレジオの学生となった。

ハビアンはイエズス会で頭角を現し、『キリシタン版平家物語』や『伊曾保物語』、『Buppo(仏法)』の制作・編纂に参加した。1603年(慶長8年)には京都の下京教会へ移り、教団のリーダー格として活動。1605年、ハビアンは『妙貞問答』を執筆。これは女子修道院のベアタス(女性の修道誓願者)たちのために書かれた教理書で、かなり話題になったらしい。翌年、ハビアンは林羅山と対面し論争している。

ところが1608年、ハビアンは44歳にしてひとりのベアタスとイエズス会を脱会し行方知らずとなった。その後、長崎奉行長谷川権六に協力してキリシタンの取り締まりに協力した。1619年、将軍秀忠と面談。反キリシタン政策を諮問するために呼ばれたのである。1620年、『破提宇子』を執筆。これは、長谷川権六(と末次平蔵)の求めに応じて幕閣もしくは秀忠に献上するために書かれたものらしい(ドミニコ会の史料による)。その翌年、ハビアンは長崎で死去した。

それでは、『妙貞問答』はいかなる本かというと、これは妙秀と幽貞という二人の尼僧が問答し(妙秀が問い、幽貞が答える)、宗教・宗派を比較してキリスト教を選び取るというもの。

まず上巻では仏教が批判される。その批判は「無や空に帰着するので救いがない(死ねば無になる)」「絶対者の概念がない。釈迦も諸仏も人間で造物主ではない」「全ての存在は自分の心が生み出したもの(なので真実がどこにもない)」に集約できる。

だが幽貞は、一方的に仏教を批判するのではなくて、いちいち諸派の教理を要約し、それに対して科学的・合理的観点から批判している。ここで倶舎宗や成実宗までが取り上げられているのは面白い。これらは庶民には縁が遠かったはずだが、どうやらハビアンは百科全書派的なところがあったらしい。

ちなみに浄土宗・浄土真宗への批判はちょっと強引だ。それらの宗派は後生に重点を置いているはずなのに、「死ねば無なのだから、後生はないのだ。結局は現世的だ」と変換している。これは批判のために教義を曲解したと考えられる。

中巻では儒教と神道がやり玉に挙げられる。ここでハビアンが儒教・神道について真摯に批判していることはそれだけで重要だ。神道は宣教師からは論ずるまでもないと思われていたからだ。神道については吉田兼倶の『唯一神道名法集』に基づいて、当たり前のことをありがたく見せているだけだという、身も蓋もないが核心を突いた批判をしている。

そして下巻ではついにキリシタンが取り上げられる。その要諦は、「絶対者」の観念にある。これは神道や仏教では存在しないものだ(儒教には絶対的な観念として、一応「天」があると思うが、ハビアンは「天」=天道を太極と見なし、太極は人の心の動きに他ならないと唯心論的に理解している。これは少し偏った見方のように見える)。

ここで幽貞が、まず世界観の説明からしているのが面白い。彼女は、存在は(1)セル(存在)、(2)アニマベゼタチイハ(精魂)、(3)アニマセンチシハ(覚魂)、(4)アニマラシヨナル(理知を持つ存在=人間の魂)の4つに分けられるという。珍奇な用語を用いて科学的な世界観を説明しているのは、若干けむに巻いている感がなくもない。そして太陽や月は単なる存在(セル)であって神ではないとか、輪廻転生はないといった、合理的精神からの批判を行う。キリシタンは、ハビアンにとって科学的世界観と一体となった教えであった。もちろん宣教師の側でも、科学的知見を伝道に活用していたのである。

このように、幽貞の語るキリシタンは、神仏のような相対主義ではなくデウスという絶対者がおり、デウスへの信仰のみによって後生が保証される、つまり来世の救済はキリシタンしかありえないというものであった。ただし、仏教への批判は理路整然としているが、キリシタンの護教についてはやや一面的にも感じる。例えば、デウスが確かに存在するかどうか、といったことは全く疑われていない(ちなみに、神仏の存在も否定されているわけではない)。

このように、『妙貞問答』は護教書であるとはいえ、神仏儒教の教理を深く取り上げ、比較した上でキリシタンを選び取るという比較思想論であるともいえる。ハビアンは、キリシタンに触れることで日本の宗教を相対化し、俯瞰して見ることができたのだろう。そういう意味で、『妙貞問答』は良くも悪くも現代人的な視点で書かれたもののように思った。

ハビアンは、当時の第一級の知識人であった松永貞徳(日蓮宗布施不受派の信者でもあった)により林羅山と引き合わされた。羅山は家康に重用された儒者、一方のハビアンはイエズス会日本人修道士ではリーダー格ではあったがいわば新興宗教の広報担当者である。だから羅山は頭からハビアンをなめてかかっていたようである。二人の問答はここでも科学的世界観から始まり、羅山は地球が球体であるとは理にかなわないと自信満々に述べている。著者は「我々にとって、この世界が球体かどうか、といったことは単なる知識の相違なので、この際どちらでもいい(p.148)」と述べているが、新知識を受け入れる素地があったかどうかは重要であろう。

二人はそれなりに理知的な問答を交わしたが、羅山の言い分によれば理と体に関しては「ハビアンはこちらのいうことを理解できなかった」としている。理と体についての説明は割愛するが、羅山は儒教の用語で、ハビアンは仏教の用語でテクニカルタームを使って論争するので、話がかみ合わなかったようである。というより、羅山は初めから「論破」を目的としていた。そして論争後に一方的に勝利宣言したのである。

なお、著者によれば羅山はキリスト教が科学的知識を武器に布教されることにある種の胡散臭さを感じていたのではないかという。確かにキリシタンには、先述のように「アニマベゼタチイハ」のような用語でけむに巻くような部分がある。それに(羅山は科学的知識も認めなかったが)、科学的知識が正しかったとしても教義を裏付けるものとはならない。

羅山との論争の2年後、ハビアンは先述のとおり女性と駆け落ち。駆け落ちと同時に棄教したかどうかは定かではないが、著者はおそらく同時だろうという。ハビアン棄教の理由は様々に考察されているが本人が何も述べていないので不明というほかない。ただ、日本人を軽蔑し高慢な態度だった外国人宣教師たちにハビアンが反発していたのは確かである。

そしてハビアンは『破提宇子』を書く。これはいわば『妙貞問答』の裏返しである。その主張を私なりにまとめると、(1)キリシタンは仏教の無や空の本質を理解していない。(2)仏教にも絶対の概念はあるし、キリストは人間にすぎなかった、(3)創造神話は神道や道教にもある、(4)人間の霊魂だけが特別だとする根拠はない、(5)デウスが全知全能なら、なぜわざわざアダムとエバに過ちを冒させたのか説明がつかない、(6)キリシタンは日本の風俗や文化を破壊する、といったところである。なお、『妙貞問答』は戯曲的形式で、二人の女性の会話として面白く読めるように工夫されているのに比べ、『破提宇子』は議論のみであり、話としての面白さはないがスピード感がある。

なお、ハビアン以外の反キリシタン論では、キリシタンでは先祖供養ができない(キリシタンに帰依しないで死んだ先祖は地獄に落ちるしかない)ということが問題になっていたが、ハビアンは個人の魂の救済を中心にキリシタンを見ており、先祖供養は眼中にない。

ともかく、ハビアンはキリシタンを通じて神仏儒を相対化するという手法を、キリシタンへと転用し、キリシタンすらも相対化したのだ。なおキリシタンの科学的知識は否定はしていない。そしてハビアンはキリシタンを捨てても、神仏儒に帰依するようになったというわけでもない。はっきりとは分からないが、ハビアンは現代の知識人と同じような無宗教的な状態になっていたように思われる。ただ、著者はハビアンが無宗教者になったとは考えない。彼は間違いなく宗教的な人物であった。ハビアンは権威に従うのではなく、思索によって自らの生きる道を選び取ろうとしていたのだろうという。

ところで面白いのは、ハビアンは『破提宇子』を「ハビアン(好菴)」名義で書いているということだ。棄教後もハビアンという洗礼名を使い続けるのはどうしてか。また神仏儒を否定し、キリスト教を持ち上げた『妙貞問答』は、ハビアンにとって消し去りたい歴史だったはずである。なのにハビアン名義で書いては、「あのキリスト教を持ち上げた男が、今度はキリスト教を否定しているのか。転向したのか」と思われるに違いない。だが論理的に考えれば、ハビアンはむしろ転向を誇示するためにハビアン名義を使ったのではないかと思われる。

つまり、あの『妙貞問答』を書いたハビアンが、今ではそれすらも超えて書いたのが『破提宇子』なのだ、と明示したかったということになる。こうした考察は本書ではなされていないが、もしそうだとすれば、ハビアンはかなり強靭な精神を持っていた人物だ。

なお、私は渡辺京二『バテレンの世紀』で、『破提宇子』について「立場はかなり単純な合理論にすぎなかった」としていたことに疑問を持って本書を手に取った。確かにハビアンの論理は現代人がキリスト教(や宗教全般)を批判するときのロジックとそれほど違いはないといえる。つまり、宗教である以上、合理的に突き詰めれば論理が破綻するのは当然なので(無矛盾な宗教体系はない!)、特別するどい指摘がなくても、「単純な合理論」で押し通しさえすれば批判ができるのだ。

だから渡辺ならずとも『破提宇子』を高く評価する者は多くないらしく、比較宗教論として価値がある『妙貞問答』に比べて『破提宇子』は一段下に扱われてきた。「単純な合理論」かどうかはともかく、『妙貞問答』が百科全書的な知識を下に科学的世界観の宣揚をしているのとは違い、新しい世界観の提示がなくキリシタンへの論難に終始しているのは思想書として迫力がない。だが釈徹宗は『破提宇子』は『妙貞問答』とセットにすることで稀有な比較思想書として評価できると主張する。先述の通り、ハビアンがあえて『妙貞問答』の著者であることを明示して世に問うたのが『破提宇子』だとすれば、それだけで凄みのある著作だろう。

ハビアンの生涯とその著作を実直に読み解いた本。

【関連書籍の読書メモ】
『バテレンの世紀』渡辺 京二 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/08/blog-post_18.html
異国船来訪の一世紀を描く本。少し読みにくいが大量の情報が盛り込まれた、教科書風のキリシタン史。

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2024年9月22日日曜日

『増補新版 日本神道史』岡田 莊司・小林 宣彦 編

日本の神道の歴史を古代から現代まで述べる本。

「最近の神道史研究では、「神道」の語を厳密に定義してその成立を遅らせる傾向がある(p.iv)」が、本書では現代の神道に連続するものを広く神道と捉え、古代から現代までの神道を概説している。特に神社の歴史を包含していることが本書の特徴である。

「I 神道とは何か」(岡田莊司)では、神道とはそもそもどういうものかが述べられる。

神道とは、自然神を祀る素朴な信仰ではない。それは、国家の関与によって形作られたものである。神道の信仰に必要なものは修行ではなく、「神道は学問をとおしてのみ、その信仰を深めることができる(p.17)」とされたように、日本の歴史と国家の認識(特に『日本書紀』)と密接につながっていた。

そういう意味での最初の神道の完成期は、7世紀の律令制においてであるが、三輪山や石上神宮、宗像神社の沖ノ鳥島などに奉納された祭具を見ると、5世紀には日本列島の各地で共通性が見られ、神社成立の淵源はこの時期にありそうだ。

大神神社(三輪山)と出雲大社の祭神は、それぞれ大物主神(オオモノヌシ)と大己貴神(オオナムチ)であったが、これが国譲り神話によって同一視されるようになった。神社・神道は国家によって編成されたものなのだ。

ただ、システマティックな神社編成がなされるのは意外と後のことで、例えば延暦17年(798)に神宮司・神主らの終身制を改めて6年任期制を導入したことや、同年に神社を官幣・国幣に分けたこと、斉衡3年(856)に神主・禰宜・祝に把笏を許したこと、貞観年間(859~77)に神階制を導入して序列化を図ったことなどを踏まえると、8~9世紀が古代祭祀体制の完成期であろう。

古代の神は祟る神、おそろしい神であったが、これが懇ろに祀ることで恵みをもたらす神に変わる。その転換を担ったのが国家の祭祀であったといえる。だが、その中心を常に天皇が担ってきたわけではない。祈年祭は『延喜式』によれば年中最大の神事であったが、天皇の関与はなかったし、古代においては一般的に、天皇は神前まで入ることが制限されていたと考えられている。

神道・神社信仰史の大きな転換点は、平安中後期・摂関院政期(11~12世紀)で、この頃には人々の願いが個人化し、人々は自由に神を選んで神社に参詣するようになった。それまで国家と共同体の性格が強かった神道が「自由化」したのだ。またこの頃から、神道では心の在り方を重視する神道説が登場する。「心の清浄」「正直」「誠」などが強調された。

「II 神道の歴史」(笹生 衛、藤森 馨、小林宣彦、岡田莊司、西岡和彦、斉藤智朗)では、神道の歴史が述べられる。

「1 祭祀の誕生」では、古墳時代から7世紀の律令制祭祀の形成までが概観される。

豊富な考古資料が残される大神神社三輪山麓の祭祀遺跡群と宗像・沖ノ鳥島祭祀遺跡について概観する。沖ノ鳥の祭祀は4世紀に開始され、5世紀には鉄製品が奉納されるようになった。さらにはガラスなど美しく装飾された豪華な品がささげられた。10世紀初頭には沖ノ鳥島の祭祀は終焉を迎える。全国を見ても、9~10世紀には「祈年穀奉幣」など新たな形の祭祀が成立し、「十六社・二十二社奉幣」という中世へ続く祭祀制度に移行した。

三輪山では沖ノ鳥島のような組織的は発掘は行われていないが、4世紀前半に土師器が出土しており、5世紀になると須恵器と子持勾玉を使用した明確な祭祀の痕跡が確認できる。当初は山麓での祭祀が中心であったが、7世紀頃に大神氏が大規模な居宅を建設し、三輪山祭祀の司祭者としての地位が安定すると、祭祀の場は禁足地周辺へと固定化した。

次に古墳時代の埋葬品を見ると、4世紀には銅鏡と刀剣、鉄製の武器・農具、勾玉などの玉類が大量に副葬されるようになる。この時期は神信仰の大きな画期と考えられる。記紀神話で語られる神宝にはこの時代のイメージが投影されている。また5世紀には滑石製模造品を使用した祭祀が関東から東北地方南部まで波及するなど、様々な場所で一斉に共通性のある祭りの跡が確認できるようになった。5世紀中頃から後半には、須恵器・子持勾玉が祭祀に使用されており、これは三輪山祭祀と共通している。

祭祀跡には紡績具やその石造模造品が出土していることを見ると、紡績具で作られる布帛(ふはく)類が祭りの場に供えられていたと推定できる。5世紀中頃までに鉄製武器・武具・農・工具、布帛類といった品々が神への捧げもののセットとして成立した。これらはいずれも最新の技術で作られたものであった。これらのうち、「布帛類、武器の弓矢、農具の鍬は、『延喜式』四時祭に記された祈年祭、月次祭で班たれる幣帛と共通し(p.90)」ており、これは令制祭祀の幣帛の原形・起源となっている。また同時期には、武人や巫女などの埴輪、馬形埴輪などの形象埴輪が作られるようになった。この時期に「神のイメージ」が形成された模様である。

6世紀から7世紀にかけては、地方色がある祭祀遺跡が各地にみられるようになり、7世紀中頃から後半にかけて、律令制神祇祭祀が成立する。そこで特徴的なのは人形(ひとがた)である。これは道教的な除災・除病の呪具であったらしい。律令制祭祀の骨格は「5世紀以来の歴史の中で形成された神観や祭祀形態をベースとして、道教信仰など新たな要素を加味しつつ、祭式と祭祀の場(社殿)、祭祀用具と制度整備が進行(p.98)」して形成された。

「2 律令国家と祭祀」では、律令国家の祭祀が概観される。

律令国家では、「神祇令」で国家が行う祭りが規定された。そこでは年間の常祀は13種19度ある。そのうち、2月の祈年祭、6・12月の月次祭において、百官が神祇官に参集して、中臣が祝詞を宣べ、忌部が幣帛を班(わか)つ「班幣(はんぺい)儀礼」が注目される。班幣儀礼を受けるのが「官社」であった。

また、6・12月の晦日の日に行われたのが大祓。定期的に全国から罪障を消除するための祭りで、全国から物品が奉納された。そこには「罪を消除するために物品を供出するという古代の祓の価値観(p.112)」がある。それはいまだ心の問題にはなっていなかった。

神社には朝廷から「神戸」という人(戸)や田が与えられるものもあった。神戸は公戸に比べると課役が軽かったらしく課役逃れのために神戸を称するものが増加する問題もあった。ただし寺封戸に比べると割り当ては非常に少なかった。

朝廷は祭祀を掌るものとして神祇官を置いたが、神祇伯の所掌には御巫(みかんなぎ)、つまり巫女があり、この頃は女性祭祀が行われていた。神祇官が成立するのは意外と遅く、持統天皇3年(689)の飛鳥浄御原令によってである。神祇官は百官の首官として位置付けられていたが、それは形式的なことで、神祇伯の官位相当は正四位以下であり、さほど地位は高くなかった。

神祇官は国家の祭祀を掌ったが、全国の神社を統括したわけではない。先述の班幣儀礼は、国家は幣物を準備するのみで、「ある面で間接的にしか神社とは関係していなかった(p.124)」ともいえる。年間常祀の13種の中で、三枝祭・鎮火祭・相嘗祭は班幣形式であり、これは「天皇は他氏族の祭神を直接祭ることができなかったため(p.127)」らしい。だが別の面から言えば、地方豪族の掌握に神社が使われたともいえよう。

逆に天皇親祭が行われたのは、月次祭の日の夜に行われた神今食(じんこんしき)、新嘗祭の夜の祭がある。これは皇祖天照大神のみを対象にした神饌をささげる祭りであった。この2つの祭りがともに夜に行われたことは意味がありそうだ。

天皇の祭祀と照応関係にあるのが伊勢神宮の祭祀である。神宮で神今食に対応するのが月次祭(←宮中祭祀の月次祭と同じ名称だが違う祭り)、新嘗祭に対応するのが神嘗祭である。神宮月次祭も神嘗祭も2日間行われる祭りで、昼は朝廷からの幣帛共進、夜(正確には宵と未明)は神饌の共進が中心であった。どうやら、祭りには宝物(幣帛)をささげるものと、神饌(神の食べ物)をささげるものの2系統があったようだ。

古代においては早くも神仏習合が進んだ。これは「中国の『高僧伝』『続高僧伝』に見られる中国の神と仏の神仏習合論がわが国に伝来したもの(p.146)」であった(吉田一彦)。

平安時代では、『延喜式』がまとめられた。すでに律令体制は崩壊していたが、その細則である格式によって神祇体制が確立された。特に「延喜式神名帳」に記された2861社の神社は「式内社」の社格を得て重視された。

「3 多様化する神道」では、平安時代から中世の祭祀が概観される。

平安時代初期、延暦17年(798)に全国の官社を二系統に分けた。すなわち神祇官から幣帛を直接受け取る官幣社と、国司から幣帛を受け取る国幣社である。またその直前には、雨ごいのために伊勢神宮はじめ畿内七道諸国の諸社に使いを発遣した。これが直ちに効果があったため、これを機に伊勢・名神奉幣は国家的事由の祈願として最高の方法として定着した。この奉幣を受ける神社として十六社・二十二社(後述)が定着。さらに全国の神々に神階を授与する制度が始まり、神々は格差社会を迎えることとなった。

諸社の恒例祭祀のいくつかは国家公的の性格が与えられ、春日祭や賀茂祭など14の祭が公祭として定着した。宇多朝では、天皇の代替わりに特定神祇に大神宝を奉献する「一代一度大神宝使」の制が開始された。これは全国の50社を対象としていた。これは後の一宮制成立に影響を与えた。なお宇多天皇は仁4年(888)の御記に「わが国は神国なり」と記している。宇多朝では新羅賊の襲来に際して公卿勅使の制も始まっている。

宇多天皇は、即位前に賀茂明神の神託を受けて、4月の賀茂祭のほかにもう一度祭祀を行うように求められた。これに応じて始まったのが賀茂臨時祭である。臨時と冠しているが、これは恒例行事となり、石清水臨時祭など他の神社にも拡大した。臨時祭より、さらに丁寧な天皇御願祭祀として行われたのが神社行幸である。だが天皇は神前まで進むことはできず、一方で上皇は直接神社に詣でることが可能だったため、神社行幸の意義は薄れ、後醍醐天皇の時に断絶した。

このような、国家との様々なつながりによって形成されたのが十六社・二十二社奉幣制である。これは「国家的大事に際して臨時奉幣の対象となった神社(p.162)」であり、いわば朝廷直轄の神社であった。十六社は、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉。これらは伊勢・住吉を除き全て山城・大和に偏重しており、天皇守護、王城鎮護等の性格が強い。

これに吉田・北野・広田社が加わり、さらに梅宮・祇園が追加された。やや時代が離れて最後に長暦3年(1039)、日吉が加わって二十二社となった。ただし日吉社の加列は確定せず、二十二社が固定化するのは永保元年(1081)である。二十二社奉幣では祈年穀奉幣がもっとも多く見られたが、12世紀初頭には諸国ごとに地域の神祇が編成されて一宮制が運用された。この背景には、10世紀から地域の諸社への国司の初任神拝・神宝奉献が盛んになったこともある。一宮制は中央が指揮して確立したものでなく、在庁官人や国人たちにより形成されたものであった。なお二十二社奉幣は宝徳2年(1450)で断絶し、再興することはなかった。

この時代の神道は神仏習合の影響を受け、神像が製作されるようになったり(伊勢神宮では遷宮後の心御柱を使って大日如来が刻まれた)、怨霊信仰、人霊信仰、熊野信仰など、仏教とも神道とも違う多様な信仰が生まれた。

思想面では、まずが取り上げられる。10世紀には、陰陽道の河臨祓(かりんはらえ)・七瀬祓が国家的祭法とされた。国家的なものから個人的なものまで祈禱が盛んになり、陰陽師が活躍した。僧侶も祈祷は担ったが、個人の家に神職が来て祈禱したということはないようだ。ところが平安末期になると伊勢神宮の権禰宜が各地に進出して、民間陰陽師が担ってきた祈禱を伊勢神宮信仰へと転換して担うようになった(→御師)。こうして「地域が限定された「閉ざされた神道」から「開かれた神道」へ、神道自由化の新たな時代(p.186)」を迎えた。

密教理論からは、『中臣祓訓解(くんげ)』が著され、両部神道が形成された。この影響を受けて伊勢祀官の間に伊勢流祓が形成される。この最古の祓本は建保3年(1215)の書写歴を持つ『中臣祓注抄』である。「陰陽祓・仏家祓から伊勢流祓が成立することと、両部神道から伊勢神道が形成されることは、ともに中世前期の、ほぼ同時期に展開している(p.190)」。なおこの時期には僧侶の伊勢参拝が盛んになり、また庶民層にも大神宮信仰が浸透していった。伊勢神道では「謹慎の心、正直の精神」が強調され、また神国思想が神道思想の核として論ぜられた。

中世後期から神道界の一大勢力となったのが吉田兼倶によって創始された吉田神道である。彼は足利義政・日野富子に取り入って土御門天皇大嘗会の執行に尽力した。応仁の乱で吉田社が焼失するなど被害を受けると、その経験をばねに儒教・仏教・道教・陰陽道を巧みに取り込んで新たな神道説を生み出し、その信仰霊場として(伊勢・式内社を一堂に取り込んだ(とされる))斎場所大元宮を創設、神道界の棟梁として全国の神職を統括する立場へとのし上がった。その神道説では「神即心、心即神」として個人の心に神性を認めることに特徴があった。

詳細は不明であるが、兼倶はその死去にあたって神道流の葬儀を行い、遺骸の上に霊社の神龍社が立てられ、神号を神龍大明神といった。ここに人霊を神として祀ることが始まり、遺骸に対する不浄観は軽減された。吉田神道では神の本源を人の中(心)に求めたので、人霊祭祀に積極的で、葬祭儀礼の整備が徐々に進んだ。

「4 理論化する神道とその再編」では、近世の宗教政策と神道思想が概観される。

織豊政権時代の天正13年(1585)、式年遷宮が政権の援助を受けて式年遷宮が123年ぶり(内宮)に再興された。また江戸幕府が成立すると、断絶していた朝廷祭儀が徐々に復興。正保3年(1646)の日光例幣使の発遣をきっかけに翌年に伊勢神宮への例幣使発遣を再興、貞享4年(1687)に東山天皇の大嘗祭が再興(222年ぶり)されている。

幕府は寺社奉行に寺社(寺院・神社)を統括させたが、寺社奉行所管に寺社奉行の諮問に答える「神道方」があり、これは吉川惟足(これたる)以降、吉川家が世襲した。なお惟足は吉田神道を学んでおり、その神道を吉川神道という。なお惟足は会津藩主保科正之に仕えてその政策に影響を与えた。

幕府は寛文5年(1665)、諸社禰宜神主法度を定めたが、これによって吉田家の神道裁許が公認されたことは、神社の独立を促す要因となった。ただし、「神職の進退は領主が許可し(p.210)」、「正式な神職身分の者は、武士と同等の身分と見なされ、上下(かみしも)着用や苗字帯刀が許された(同)」。すなわち、神職は吉田家から許状を受けたとしても身分支配は受けていない。また町人や農民は仮に神道許状を受けたとしても、領主は彼らを正式な神職身分とは認めず、離農・離壇は原則許可しなかった。

伊勢神宮に対しては、幕府は両宮に朱印地を安堵し、宇治(内宮側)・山田(外宮側)の自治都市にっ山場奉行を設置した。なお宮司家、神宮家(荒木田神主、渡会神主)は寺請証文を必要とせず、土地の課役もなかった。山田奉行は慶安元年(1646)に神宮周辺の寺院の新地建立を禁止し、その後火事で周辺の寺院が焼失した際にも復興させず代替地に移転させた。

江戸時代には、儒学が勃興し、儒家神道が神道研究の主流となった。林羅山の「理当心地神道」では神儒合一論に基づき、「天皇の心」に清明なる神が宿っているとした。羅山は『本朝神社考』などをまとめ、そこで説かれた廃仏論は仏教界に衝撃を与えた。儒家神道は伊勢神道にも影響を与えた(→後期伊勢神道)。

儒学者の山崎闇斎は、伊勢神道や吉田神道を渡会延佳や吉川惟足に学び、神道説を集大成するとともに、君臣の道を絶対化した垂加神道を唱えた。これは朝廷にも門人が多く、全国に影響を与えた。

一方、国学者たちは文学研究から百科全書的な研究を進めた。荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤により国学は完成し、特に平田篤胤の門人は幕末に大きな影響を与えた。

庶民の方では、享楽を伴う物見遊山的な参詣が盛んになるとともに、江戸では豪華さを競った曳き物(屋台や山車)が練り出したり、仮装行列を行うまさに「お祭り騒ぎ」の祭礼が行われるなど、信仰に遊興の要素が大きくなった。またガイドブックのような神社案内記や名所図会は旅行を通じて神道文化の普及に少なからず貢献した。

吉田神道に対抗して、江戸時代中期から白川家の神道・伯家神道が巻き返しを図った。白川家は明治後に教派神道として特立する教主や教団も配下にしていた。白川家は没後の篤胤に「神霊真柱大人(かむたまのみはしらうし)」の神霊号を与え、銕胤を白川家学師に任命するなど平田派と接近したが、気吹舎(篤胤の学舎)は白川家との連携を非現実的とみて吉田家との和睦を勧めた。

この他、上賀茂神社の烏伝神道、館林藩の井上正鐵の禊(みそぎ)教、黒住宗忠の黒住教など、様々な神道信仰が展開した。そして多様な神道を支える土台となったのが、神道研究であり、多くの研究書が陸続と著された。そうしたものの白眉が伴信友の『神社私考』や吉田家家老鈴鹿連胤(つらたね)の『神社覈録』である。さらに神道を総合的に捉えた研究書や史料集・事典類も著され、そうした成果が明治6年(1873)に栗田寛の『神祇志料』や『神祇志料附考』に至った。

「5 新たな神道体制の確立」では、明治以降の神道の変転が述べられる。

明治政府は祭政一致体制で出発し、神祇官やその神殿を復興させた。また明治3年(1870)には二十二社を中心とする29社の神社に神祇官から奉幣するようになったが、実質は伴わず、府藩県下での神社調査も進まなかったため、明治4年、廃藩置県に先立って神社を「国家の宗祀」とする布告と「官社以下定額・神官職制等規則」を定め、官幣・国幣社などの社格制度を整えた。さらに神祇官をなくして祭政の権を天皇に集中させる変更が行われるとともに、神祇官時代に設けられた八神・天神地祇・皇霊は宮中に遷されて現在の宮中三殿の原型が整えられた。

明治政府により、神道祭式はかなり変更を加えられ、または新しい祭式が整えられるとともに、官国幣社以下神社の統一的な祭祀・祭式が定められた。また神官の世襲が禁止されるなど神社に国家は強く容喙し、祭日も伝統的なものに変わって、天皇中心の新しい祭日が定められた。

こうした動きに先立って、神仏分離が行われており、それに刺激されて廃仏毀釈も起こっていた。また仏式に変わって神道式の葬祭が広く行われるようになった。

神祇官が廃止された後は、神祇官復興を求める運動が起こり、神祇官は再設置されなかったものの、神社を所轄する専門の官庁である神社局が設立された。地方庶民の精神的な中心として神社を据える「神社中心説」が内務省の井上友一によって唱えられ、神社は地方の中心と位置付けられたが、皮肉なことにこれが弱小神社を淘汰することにつながり、神社整理が行われた。なお、太平洋戦争中の昭和15年に神社局は拡充されて神祇院となった。ただし神祇院は神祇官のようなものではなく純粋な行政官庁であった。

国民に対しては明治初めから教導職が国民教化運動を担った。当初は神道によるものだったがうまくいかなかったため神仏合同で行われ、しかしそれも真宗の反発によって終了した。

こうした神道の変転において重要なことは、神社は宗教ではないと整理されたことで、それによって信仰の自由と神道儀礼の強制は矛盾しないこととされたが、一方で神社の宗教的な部分は教派神道として切り離された。しかし神社の宗教・非宗教をめぐる「神社問題」が生じて仏教界も巻き込み論争となり、決着がつかないまま終戦を迎えた。

戦後は、GHQの指導「神道指令」により神道は国家の庇護を失い、神社は他の宗教と同じ「宗教法人」の扱いを受けるようになった。しかし神社の多くが「神社本庁」という包括宗教法人の下に編成されているのは、別個の法人で形成されている仏教の場合などとはずいぶん違う状況になっている。

「III 神社分布と神道の現在」(加藤直弥)では、現在の神社分布とその歴史的変遷を推測し、現在の神道に触れている。

神社本庁が平成2年(1990)から同7年にかけて行った「全国神社祭祀祭礼総合調査」の結果が興味深い。神社数が多いのはまず八幡、続いて伊勢、天神、稲荷、熊野、諏訪、祇園、白山、日吉の順。これらは歴史的経緯から全国一様ではなく、多い地域もあれば少ない地域もあるというまだら状の分布をしている。また、これらの神社の内部にもいろいろな系統があり、例えば八幡の場合は宇佐八幡宮と石清水八幡宮、そして鶴岡八幡宮の3系統が考えらえる(単純ではない)。

次に神社数の変動についてみると、まず明治末期からは神社合祀政策によって神社数が減り、明治39年から大正6年までで4割近くも減少した。ただし和歌山や三重など大幅に減った地域とそれほど減らなかった地域がある。戦後は、統計の信頼性(全神社が対象になっていないなど)は問題だが、一貫して神社数は減少している。なお、近世においては、神社数の著しい変化はなかったと考えられている。

遡って中世を見ると、神社の展開は荘園の存在に大きく影響されていた。荘園においては、神社の祭神を「庤(かんだち)、若宮、別宮、あるいは本社と同名の社を作って勧請し、その神社を荘園管理の拠点として(p.331)」いた。ただし絶対数はよくわからず、江戸時代よりは少なかった可能性が高い、という推測にとどまる。

さらに古代へと遡ると、中世よりは推計に使える史料は多く、約2万6000社ほどあったのではないかと思われる。別の推計では8000社ほどになるが、いずれにせよ神社の勧請が顕著になる中世よりは、神社の数が少なかったと思われる。

これらをまとめると、神社数は(1)明治末の神社整理政策では大きく減少しているが地域差がある、(2)幕末明治の神仏分離政策では神社数の大きな増加はない、(3)近世の神社分布は現在と似たようなものだった、(4)その分布の原型はおそらく中世末に形成されていた、となる。そしてその原型は、著名社の信仰を軸とするものであった。さらにその著名社は、平安時代末期の二十二社などが元になっている。つまり「神社信仰の基盤は、実は平安時代までの朝廷祭祀制度の整備により確立されていた(p.337)」といえる。

全体として本書は、濃密かつ非常にバランスがよい神道史となっている。神道以前である古墳時代の祭祀から記述しているのも参考になった。全体の位置づけがよくわからなかったのは、中世神道思想の展開の説明が「祓の信仰」から始まっている点で、祓の出現が唐突に感じた。祓については追って考えてみたい。

神道史の決定版。

【関連書籍の読書メモ】
『神道とは何か—神と仏の日本史』伊藤 聡 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/09/blog-post.html
神道の歴史を概観する本。中世神道を中心に、神道の多様な側面を描いた良書。

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2024年8月23日金曜日

『江戸のはやり神』宮田 登

近世に流行した神について述べる本。

近世にはたくさんの流行(はやり)神が登場した。何かのきっかけで熱狂的な信仰を集め、しばらくするとそれが廃れてしまう。流行という、ありふれた現象のようであるが、神仏にそれが起こったということに近世の特色がある。それは「朝観音夕薬師、鰯の頭も信心から」という、中世とは異なった神仏の受け止め方が反映しているのである。

本書は、この流行神について近世の随筆等を膨大に渉猟して事例を探したものだ。それは「これもあるあれもある」式で、一つ一つはあまり深く考究されない。解説で小松和彦が「はっきりいって、宮田さんの本は、この本に限らず、スキだらけである(p.298)」と述べる通り、脈絡がないほどの事例の列挙がなされ、そこから何が言えるのか、わかったようでわからない。小松和彦の「問題解決のための文章ではなく、問題発見の文章なのである(p.291)」の言葉がぴったり当てはまる。

つまり、本書は「江戸のはやり神」の研究ノート的な本であり、大上段の結論はない。ところが、この本はなかなか鋭い指摘が随所で見られる本で、はっとさせられる部分が多い。

日本ではどこへ行っても八幡神や伊勢神が祀られ、稲荷社や恵比須社、お諏訪さんや祇園社がある。祀られている神仏にはかなりの共通性があるのだ。このうち、八幡、伊勢、諏訪、祇園は中世までに広まったものとみられるが、稲荷や恵比須は近世に広まった。私が本書を読む興味の一つは、こうした信仰がどのようにして広まり定着したのか、という点にあった。

流行神の発生は、おおむね次のような経過をたどる。(1)神仏が現れる。夢中の託宣、神仏が空中から飛来、海や川に流れつく、地中から掘り出されるなど。(2)病気が治るなど、何らかの奇蹟や奇瑞が起こる。ここに民間宗教者(特に山伏)の関与があることが多い。(3)祠堂等に祀られ、地域社会でその神仏が熱狂的に支持を集めて参詣が引きも切らなくなる。遠方の場合は講が組織される。(4)いつの間にかその熱狂は過ぎ去り、祠堂も忘れられる。ところが何かのきっかけで再び流行することもある。また流行から定着する場合もある。

本書ではまず、古峯信仰(栃木県の日光連峰にあり、火難除け)、愛宕信仰、恵比須信仰が取り上げられているが、このうち愛宕信仰については、特に若狭地方について分析している。若狭地方では、天文13年(1544)に愛宕を信仰していた人の娘に神が乗り移って託宣するなど、幾人かに夢告や託宣があった。そして地域の小高い丘や山に愛宕の祠が祀られ、またしばしばその丘が愛宕山と呼ばれた。そうした祭祀を主導したのは愛宕修験の山伏であった。彼らは愛宕講を組織し、またお盆の送り火と習合した愛宕の火祭りを唱導することを職能としていた。「修験の強力な宣伝を背景として流行神が伝播する事例は多(p.78)」い。

一方、修験とはあまり関係なく流行したのが福の神系で、本書では文化文政年間に流行した七福神詣でが取り上げられている。七福神の宝船は、「福徳が海のかなたからやってくる」という観念を表している。この点ですでに山とのつながりが深い修験とは色彩が異なる。大黒が民衆に親しまれたのは、大国主命の出雲信仰との習合と混同にあったという。また大黒舞が踊られた他、子(ね)の方角を司る神だとされ、干支の思想から甲子の日に祀ることになった。様々な情報が付加されてありがたさが強調され、また祀り方が出来上がったことにより広まったのであろう。エビスの場合は西宮戎社が全国的にその信仰を広めた。エビスは本来荒ぶる神であったが、西宮の戎舞の神人たちが福徳をもたらす神として広めた。エビスは主に商家において家毎に信仰された。

なお、吉田神道では人を神に祀ることが理論的に認められていたらしく、吉田神道の関与の下で貴顕の家(藩主など)の人が祀られるようになったケースもある。ただしそうした政治的権威での新しい神は爆発的に人気を集めることはないようだ。

疱瘡神の場合は流行の意味が明白だ。疱瘡(天然痘)が流行した時に祀られ、疱瘡がなければ祀る必要はないからだ。疱瘡神は、恐ろしい疫病をもたらす神であるはずなのにそれ自体は祟りを起こすような恐ろしいものとは表象されず、むしろ疱瘡神の来訪をめでたいとして丁寧にもてなして帰ってもらうというパターンが多いのは面白い。また病人が高熱にうなされていろいろと口走ったことが神がかり的とみなされて疱瘡神の託宣と解釈したのではないかという。

疱瘡神そのものではないが、疱瘡除けの神として芋大明神があったと『耳袋』は記す。神奈川宿の本牧(横浜市中区)にあって芋大明神の池の水が疱瘡に効いたのだという。なお、山梨県西山梨郡では種痘後に疱瘡神を祀る習俗があったというのが興味を引いた。種痘と信仰は両立していたのだ。

このように、近世の民衆は様々な神仏を次々に拝んでいた。それは「神仏信仰の軽薄ぶりを示すものだが、一方では、庶民たちが絶えず救済を諸々の仏や神に求めていた証拠でもある。ということは、絶対帰依を受け入れられるような救済者の出現がなかったことを意味している(p.150)」。すなわち、様々な神仏が繁盛した背後には「救済観のむなしさ」があるのだ。この指摘は本書の中で一番ハッとさせられた。絶対的救済者としての阿弥陀仏を信仰する浄土真宗では種々の迷信を否定していることが思い起こされる。

つまり、人々は手当たり次第にすがれるものを探していた。例えば、眼病、歯痛、出産、虫よけといったものにそれぞれ専門の神仏が割り当てられ、どこそこの地蔵は何に効く、というように神仏の機能分化が甚だしかった。ような状態で、ひとたび奇蹟や奇瑞、祟りといったものであらたかな霊験が示されると、わっと人々がそこに殺到することになったのである。

実際、「近世初期から中期にかけて、幕藩体制がもっとも安定した時期とみられる寛文~元禄には、流行神、流行踊りの現象はほとんど見られていない(p.187)」。だからといって、流行神の現象を社会不安と直結させるわけにはいかないが(例えば、都市化の進展のような別の要素も考える必要がある)、社会不安が流行神を助長するということはいえる。そして社会全般の先行きが見えなくなると、眼病や歯痛のようなものではなく、人々はもっと大きな救済を必要とするに違いない。そしてそこには、潜在的な世直し・世直りの意識、終末観があった。だが幕末、人々が熱狂したエエジャナイカには具体的な救済者やユートピア実現の構想を欠いていたため、その運動はその場の熱狂だけで終わるよう運命づけられていた。

こうした流行神の系譜とは別に、近世では木食聖への信仰もあった。穀断ちをするなどの苦行を行い、各地を遍歴した聖である。彼らが厳しい修行を行い、また時に入定(自殺)すら行うことに人々は強い関心を示し、生仏として帰依した。しかし木食聖たちは現世の生活を精一杯送ることへのエールとはなったかもしれないが、やはり救済の世界観を持ち合わせておらず、その信仰は稔りあるものにはならなかった。

天理教や大本教といった例外はあるが、総じていえば江戸の流行神は人々の身近な願いが託されたものが多く、スケールの大きな信仰へ発展していったものは少ない。その背景として、流行神の多くが真に民衆の自然発生的な行為によって発生したのではなく、修験者を中心とした(あえて言えば小粒の)宗教家たちによって「プロデュース」されていたことが想起される。修験者たちは、民衆を煽動することによって儲けていた。今風にいえば「バズり」を期待していたのである。知識人たちが流行神を冷ややかに見ていたのは、それらが非科学的だからというだけでなく、それがビジネスに過ぎないと思っていたからなのかもしれない。

そして天理教や大本教といったものは、明らかにそうしたものとは異なった出自を持っている。それは個人の苦悩と救済へのやむにやまれぬ情熱に基づいており、少なくともその当初は全くビジネス的ではなかった。

そう考えると、近世に流行神が次々に出現し、例えば稲荷や恵比須が全国で祀られるに至ったのは、ビジネスの成功によるものといえるかもしれない。それは、全国どこへ行ってもファミリーマートとかセブンイレブンといったコンビニがあることと、たいして違わないことなのかもしれないのだ。

なお、本書には詳細な流行神関係年表が付属しており、これが非常に興味深く参考になる。

流行神から近世の神仏の特質を描き出す好著。

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※上記のメモはちくま学芸文庫版によるが、法蔵館文庫で復刊している。

2024年8月18日日曜日

『バテレンの世紀』渡辺 京二 著

異国船来訪の一世紀を描く本。

明治維新前後には、大勢の西洋人が日本を訪れた。そして彼らは日本がまるでおとぎの国のようであることに驚いた。本書の著者渡辺京二はそれを『逝きし世の面影』に描き、外国人の視点から近世末の社会を投射した。

しかしそれは日本人と西洋人のファーストコンタクトではなかった。ファーストコンタクトというべき出会いは、戦国時代末にあった。本書は、このファーストコンタクトがどのような経過をたどったか、約一世紀間の出来事を詳しく述べるものである。

幕末における西洋人と日本人の出会いでもたらされたのは、大雑把にいえば「科学」であったが、戦国末での出会いにおいて、それは「キリスト教」であった。よって著者はこの一世紀を、バテレン(=宣教師、神父のこと。ポルトガル語に由来)の世紀と呼ぶ。

日本にまずやってきたのは、ポルトガル人たちであった。彼らはヨーロッパではいち早く「大航海時代」に突入したプレイヤーであり、その目的は当然に金儲けであった。彼らはアフリカで金(きん)や奴隷を獲得するため武力を使っていた。そしてそこには、キリスト教世界を拡大するという目的も存在していた。ローマ教皇は、ポルトガルが征服する土地の支配権を、異教徒を改宗させる権利も含めて承認した。ヨーロッパ人は、現地人は奴隷にしてでもキリスト教徒となる方が幸せなのだと考えていた。

ポルトガル人は、伝説的な東方のキリスト教の聖王「プレスター・ジョン」に出会うことをも期待して、徐々に交易の手を広げた。そしてインド洋を事実上支配するに至る。そこには、東洋の二大国である中国とインドが、ともに海上交易に無関心であったという事情があった。ポルトガルのアルブルケは1510年にインドのゴアを占拠してポルトガル領にし、さらにここを拠点にして翌年インドネシアのマラッカ(現在のシンガポールの近く)を陥落させた。南洋貿易の交通の要衝である。

もっとも、インド洋やインドネシアには、イスラム商人たちのネットワークが存在していた。それに対抗するため、ポルトガルは「カルタス制度」というものを使った。カルタスとは通行許可証であり、これを持っていない船は一方的に没収の対象としたのである。これはあまりに一方的かつ暴力的であったのでうまくいかなかったが、後に通行税を徴収する制度に改められ、ポルトガルはインド洋貿易から多くの利益を上げた。

ところで、15世紀には琉球王国が海外交易で栄えていた。琉球国をハブにして中国(明)や東南アジアとの交易が盛んに行われた。これが16世紀に入ると急速に終わりをつげ、その空隙に入り込んだのが倭寇とポルトガル人なのである。「ポルトガルを日本へ導いたのは倭寇集団(p.60)」だという。ポルトガルは、当初は明と正式な国交をひらくつもりであったが明に対等な国交という概念はなく、門前払いを食らい、明の水軍に放逐されてしまった。

1540年頃、ポルトガル人は寧波に近い舟山群島の一角、雙嶼(リャンポー)に定着した。ここは密貿易の基地で、ここへポルトガル人を案内したのは海賊の首領許棟だったという。この雙嶼のポルトガル人が中国船ジャンクに乗って日本へやってくるのである(なんと同じ船に倭寇の巨頭王直が乗っていた)。その年は記録によって違うが、1542年か43年である。ポルトガル人にとって日本は極めて有望な市場であった。なぜなら、この時代の日本はアジア最大の銀産出国で、中国の絹を持っていけば大儲けできたからだ。こうしてポルトガル人は「連年薩摩・大隅あるいは豊後の諸港を訪れるようになった(p.67)」。

中国にとっては海賊(倭寇)は好ましくなかったので、ポルトガル人がそれに代わることを期待してか、中国はポルトガル人のマカオ定住や交易を黙認した。胡椒貿易が頽勢へ向かう中、ポルトガルにとって日本はアジア経営のカンフル剤になる存在となった。

一方、1542年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルがゴアに到着した。イエズス会はその2年前にローマ教皇庁により認可されたばかりだった。イエズス会は、静かに瞑想にふける修道士の在り方とは全く違い、伝道活動にすべてをささげる軍隊的な布教組織であった。だが形ばかりの信者が増えても布教活動ははかばかしくなかった。そんな中、ザビエルはアンジロウという30代の薩摩士族の若者と出会い、その知識欲と怜悧さに魅せられ、「こんな若者がいる国なら」と日本布教を志した。

ザビエルの滞日は2年3か月で、うち約1年間は鹿児島にいた。島津貴久は最初こそ布教の許可を与えたが、ザビエルが異教排撃をするのを歓迎するはずがない。ザビエルは司祭トルレスらと京を目指し、その往還の道すがら平戸の松浦(まつら)隆信や山口の大内義隆と親交を結んだ。その頃の京は無政府状態だったのでなんら成果はなかったが、山口では盲目の琵琶法師ロレンソを得た。彼はフロイスによれば「日本で有したもっとも重要な説教師の一人(p.84)」である。またザビエルは豊後の大友義鎮(よししげ)と会い、ポルトガル国王との修好を望んでいることを知った。ザビエルは日本人に好感を持ち高く評価したが、トルレスに後事を託して日本を去った。

さらに1555年、ルイス・デ・アルメイダが日本での布教に参画した。彼は元商人で、イエズス会に2000クルザードの大金を寄附し、これが生糸貿易に投資されてイエズス会の日本での活動資金となった。このために日本のイエズス会は(他国でのあり方とは違い)貿易に深入りした。

イエズス会の当初の足掛かりは山口であったが、大内義長が毛利元就に敗北。次なる拠点は大友宗麟のいる豊後となった。さらにポルトガルの貿易の拠点だった平戸(長崎の西にある島)に血気逸るパードレのヴィレラが赴任。しかし彼は神社仏閣の仏像を破壊するなどしたため、領主大内隆信は教会を閉鎖させヴィレラを追放した。

この結果、イエズス会は新たな拠点を求めた。そして大村湾の横瀬浦(大村湾の入り口)を大村純忠から寄進され、その住民を全員キリシタンとした。1563年、純忠自身も受洗した。イエズス会の基本方針は、領主を改宗させその領民をまるごと改宗させるというものだった。これにより、イエズス会の日本の本拠地は横瀬浦となり、寂しい田舎港だった横瀬浦がポルトガルの対日貿易の重要拠点になるかに見えた。が、純忠が廃仏的行動をとり、養父純前の位牌を焼き捨てるなどしたことで家臣からの反発を買って失脚。横瀬浦はわずか1年で滅びた。一方、平戸ではポルトガル船の入港を希望していた。本来、ポルトガルの対日貿易とイエズス会の活動は別であるが、ポルトガル人にとっても教会は不可欠な施設であるため、事実上、イエズス会の拠点がポルトガルとの交易には必要だった。隆信はしぶしぶ教会の建立や司祭の駐在を認めた。イエズス会はポルトガルとの交易を左右する立場になっていたのである。

平戸を追放されたヴィレラはロレンソを伴って畿内布教に赴いた(説教を行ったのはロレンソ)。当時の京は法華宗が力を持っており、都市部での布教はうまくいかなかったが、奈良の結城山城守忠正、清原枝賢(しげかた)、高山飛騨守図書(高山右近の父)らが入信した。彼らは貿易の利ではなく、創造主の観念などキリスト教の教義に惹かれたらしい。これがきっかけになって堰を切ったように畿内国人層が改宗し、キリシタン武将が登場した。著者はその理由を「畿内の小領主層は切に戦国状況を生き抜く信仰を求めていたものと思われる(p.114)」としている。「彼らはこの新来の神の呪力を信じた(p.117)」。ただし朝廷では宣教師追放(デウスはらい)が決められ、追放されたルイス・フロイスは堺に潜伏することになる。

九州では大村純忠が復権し、大村に福田港を設けて再びイエズス会を後援するようになった。さらに純忠に臣従する長崎純影もキリシタンとなり、長崎が開港された。トルレスは口之津(島原半島の南)にいて、口之津の住民1200人を全てキリシタンにしていた。トルレスや宣教師は九州各地の領主から招聘されている。それは、キリスト教に惹かれたというより、貿易を求めてのことだったが、天草の天草鎮尚(しげひさ)は心の底からキリスト教に傾倒していたらしい。天草は最も安定したキリシタン領国となった。

1570年にはフランシスコ・カブラルがトルレスの後任の日本布教長として赴任。その1年後、トルレスは死去した。トルレスは多くの人々を感化し、敬愛された。「この人こそ日本開教の祖というべき存在(p.130)」である。ちなみにカブラルはトルレスとは逆に日本人を蔑視した。

なお、大村純忠はキリシタンでありながら仏教徒として出家もしており、神仏とキリスト教の両方を信仰するのに矛盾を感じていなかった。これを憂慮したのがガスパル・コエリュである。彼は純忠へ領内の一切の偶像崇拝を禁止し、異教徒をなくするように勧告しした。イエズス会と一蓮托生になっていた純忠はやむなくこれを受け入れ、神奈仏閣に対する徹底的な迫害を実施した。純忠の家臣もすべて改宗を強制され、大村領は日本最初のキリシタン王国となった。ただ、このような神社の破壊行為はコエリュの独断ではなくイエズス会の根本方針であった。

1568年、信長が入京すると、堺に潜伏していたフロイスは一転して信長の厚遇を受けることになった。信長は自身はキリシタンではなかったが、宣教師に京都居住の朱印状を与えた。仏僧たちへ対抗させようという意図と、宣教師たちを国際社会の窓口として見ていたことが主な理由であったと考えられる。

1578年、大友宗麟がついに受洗する。彼は次男を先に受洗させており、キリシタンに敵意がある夫人を離縁し、さらに神社仏閣の破壊も行っていた。彼は貿易の利のためというより、心からキリスト教に惹かれていたらしい。さらに島原半島の有馬領では、有馬義貞が入信し、領民も競って受洗した。その子有馬晴信は一時キリシタンと距離を置いたが、次第に接近した。その頃巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが口之津に到着。ちょうど有馬領内で反乱が起こり、イエズス会は有馬晴信とともに籠城し物資を支援した。その籠城中に晴信は受洗している。

同時期、大村純忠はヴァリニャーノを通じて長崎をイエズス会に寄進している。その頃、龍造寺隆信の圧迫を受け臣従せざるを得なかった純忠は、龍造寺に奪われるよりはイエズス会に知行してもらった方がよいと考えたのである。ただし、後の史料によれば彼はバテレンに多額の借財を負っており、その返済のために長崎を譲ったとされる。なお、龍造寺隆信は貿易を夢見てイエズス会の領有を許した。

なお、ヴァリニャーノはイギリス生まれで哲学・物理も学んだ当代第一級のエリートで、日本のイエズス会の刷新を図った。例えば、彼は宣教師が日本語を学ばなければならないと考えた。だがもともと日本人を蔑視していたカブラルはこれに反発した。一方、これを歓迎したのが「ウルガン・バテレン」の名で親しまれたオレガンティーノである。彼は徹底した日本人びいきで、なんと安土城の一角に土地を与えられ、また安土城下に修道院を建てていた。オレガンティーノを中心として畿内では九州とは違った教勢となっていた。

1582年、ヴァリニャーノは日本巡察の任務を終えて離日。この時、九州のキリシタン大名の名代として4人の少年を伴っていた。天正少年使節である。だが、大名の名代というのはヴァリニャーノの作為であり、本当は下級の身分の少年だったようだ。この頃、日本のイエズス会は(生糸貿易の上りはあったが)資金が乏しく、少年使節の形で成果を見せることで本国からの支援を引き出そうとの目論みがあった。4人はヴァティカンで教皇グレゴリオ13世に謁見。これは最高の礼遇であった。これが契機となり、ローマでは人々が少年使節に熱狂。ヨーロッパ各国からも招待された。なお『天正遣欧使節記』は、少年たちの備忘日記を編纂したという形をとっているが、実際にはヴァリニャーノが書いたものであり、少年たちがヨーロッパをどう見たかは不明である。ただ、4人のうち3人は帰国後も信仰を守り抜いた。

信長が本能寺の変で斃れると、安土の修道院も破壊された。また畿内のキリシタン武将の所領は高山右近の高槻だけとなっていた。なお高槻では寺院の破却や領民の強制的な改宗はなく、穏和な形でキリシタン化が行われていた。右近のとりなしでオレガンティーノが秀吉を訪問すると、意外にも秀吉は彼らを歓待した。また、秀吉のスタッフには小西行長などキリシタンが元々含まれていたが、1585年頃、右近の働きで秀吉麾下の武将が続々と入信。蒲生氏郷や黒田官兵衛らである。

1586年、コエリュはオレガンティーノやフロイスを伴って秀吉に謁見。秀吉は最大限の歓待をし、雰囲気は和気藹々としたものだったが、通訳を務めたフロイスの言葉が禍根を残した。彼は秀吉の朝鮮出兵に話が及んだ時に、イエズス会の助力を依頼するがよい、(コエリョは九州の)「ほぼ全域を指揮下に置いているし、大型帆船をポルトガル人の操縦のもとに提供することができる(p.202)」と述べたのである。この発言のため、秀吉は「イエズス会が九州の諸大名に対し、相当の支配力をもっているらしい(同)」と警戒感を抱いたのである。

九州では島津氏が九州を制圧する勢いになっていたが秀吉はこれを下し、豊後を大友義統に安堵、宗麟には日向を与えた(が宗麟は辞退した)。直後に大友宗麟は死去。またほどなくして大村純忠も死んだ。秀吉はキリシタンに好意的であったから、秀吉麾下の武将たちもキリスト教に関心を示していた。だが九州制圧の凱旋で箱崎に滞在していた時、突如として秀吉の態度は変わった。秀吉は高山右近に使者を送って棄教を迫り、右近がそれを拒否すると、秀吉は即座に右近から領地を剥奪して追放したのである。なぜ秀吉が変心したのかは全くの謎であるが、絶対君主であるはずの秀吉の命を右近が拒んだことは秀吉を大いに刺激したと考えられる。キリスト教は秀吉の全国支配とは相いれないものだったのだ。

秀吉はさらにコエリュに3か条の詰問状を突き付けた。その内容は(1)地方巡業で説教するのをやめろ、(2)牛馬を殺して食べるな、(3)日本人を奴隷にして海外に売るのはやめろ、の3つである。さらに秀吉は寺院の破壊を咎め、司祭らは全員20日以内に日本を退去すべしという通告を与えた。これが伴天連追放令である。1587年であった。

有馬領や天草では、追放令が出ても多くは様子見で、鳴りを潜めるだけだった。だが畿内・豊後では影響は深刻で、動揺が広がった。コエリュはこれに軍事的に対抗すべく、武器を集めるなど準備をしていたが、折あしく(折よく?)死亡。

そんな中、ヴァリニャーノが再来日する。彼はコエリュの計画をもみ消し、布教のためではなく「インド副王の使節」として、秀吉に平和裏に謁見した。なお、この時に同席していたのが、ロドリゲス・ツズことジョアン・ロドリゲスである。彼は日本で成人しており、ポルトガル語より日本語が得意で、後に日本語文典の研究を行い『日本大文典』『日本小文典』『日本教会史』などをまとめた。

ちなみにバテレン追放令の後、天草では出版事業が開始されており、『平家物語』や『伊曾保物語』がローマ字表記で出版されている。これは天草学林(コレジョ)で日本語を教えていた修道士不干斎ハビアンが問答体で再話したものだ。このような事業が追放令後に行われていることは注目される。社会の方でも、キリシタンへの逆風はなく、むしろポルトガル風ないしキリシタン風ファッションが流行してさえいた。

また、追放令では布教は禁止されていたが、キリスト教自体は禁止されていない。追放令下でも蒲生氏郷は信仰を堅持していたし、イエズス会は鳴りをひそめながらも活動を続け、キリスト教徒は徐々に増加していた。オレガンティーノによれば追放令後に増えた信者が4万人いたという。

ところがここで、スペインの植民地であるフィリピンが、フランシスコ会のペドロ・バウチスタを日本に送る。フランシスコ会は日本布教をイエズス会が独占しているのを快く思わず、秀吉に謁見して居住を認められると、公然とした布教活動を開始したのである。彼らはイエズス会士が修道服を着ずに和服を着ているのに衝撃を受け、殉教覚悟で堂々と活動を行った。

このような状況で、サン・フェリーペ号事件が起こった。スペイン船サン・フェリーぺ号が台風のため土佐に漂着したのである。秀吉は大量の積み荷を没収し、増田長政を派遣して取り調べさせた。その結果「スペインは宣教師を先兵として送りこんで侵略の足掛かり(p.234)」としていたことが分かった、というのである。これを聞き秀吉は激怒。バテレン追放令を再公布した。

イエズス会に同情を抱いていた石田三成のとりなしでイエズス会は対象から外されたが、バウチスタ以下フランシスコ会士や日本人のキリシタン合計26名が長崎で磔刑に処された(ただし名簿作成の手違いから3名のイエズス会士も含まれていた)。有名な「二十六聖人」である。

彼らにしてみればとんだとばっちりであったが、フランシスコ会士は異国の地で殉教することを名誉と考えていたし、それに宣教師が植民地支配の先兵となったというのは、あながち間違った情報ではなかった。一方、イエズス会では退去令を無視できなかったので、形だけ11名の会士をマカオに退去させた。しかし日本には大部分の会士が残っていた。

1598年、秀吉が死去して家康が実権を握ったことは、イエズス会には明るい兆しとなった。家康はロドリゲスと面会し、追放令をすぐに撤回することはできないが、いずれ定住が許可されるだろうと答えている。だが家康は内心ではキリスト教を嫌悪しており、貿易を促進したい気持ちから消極的に認めていたにすぎなかった。

そして17世紀に入ると、日欧交流は新たな段階を迎えた。これまでのポルトガルによる長崎貿易+イエズス会の布教という単純な構図に、スペインとの交渉、フランシスコ会・ドミニコ会の参画、オランダ・イギリスとの貿易という要素が付け加わった。オランダ・イギリスはキリスト教布教には関心はなく、またスペイン・ポルトガル(当時、両国は同じ王権)との対立を日本に持ち込んだ。

さらに日本人自身も、朱印船貿易によって東南アジアへ進出しており、倭寇的な日本人はマニラへ定住していた。当時はルソンが金を産出しており、フィリピンは重要な交易拠点だった。松浦鎮信にはフィリピン征服の野望があったという。江戸時代初期に海外へ出た日本人の延べ人数は10万人を下らず、7000~1万人が南洋に定住したのではないかという。

1606年、家康は日本司教ルイス・セルケイラを引見、さらに翌年にはイエズス会日本準管区長フランシスコ・パシオも引見。家康は貿易に対するイエズス会の影響力を認識し、その活動を容認したのである。

イエズス会は相も変わらず財政上の問題を抱えていたし、スペイン系修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会)との抗争も本格化した。それまでローマ教皇から認められていた日本布教の独占権が1611年に解除されてしまったからである。さらにオランダは露骨にポルトガル船を略奪するようになり、スペインはスペインで(ポルトガルと共同の王権ではあったが)日本とメキシコとの貿易を目論んで策動した。この頃、日本としては貿易の利を求めただけなのだが、国際貿易をめぐる複雑な構図の中、追放令によるグレーゾーン的な状態もあり、いろいろなゴタゴタが起こった。結果的に、日本とスペインとの関係は実質的に断絶。布教抜きで商売だけしてくれるイギリス・オランダの方が日本にとって都合がよかった。

ここで、岡本大八事件が起こった。大八は家康の寵臣本田正純の家臣で、有馬晴信に口利きをして多額の金品を受け取っていたのである。これが明らかになって1612年に彼は火刑に処された。彼はパウロという洗礼名を持つキリシタンであった。一方、包囲された晴信には切腹の上意が伝えられたが、自殺はカトリック教会が厳禁している。そこで晴信は家臣に自分を斬首するように命じたのである。家康は、晴信が自分の命よりも教会の教えに従ったことを重大視し、駿府家臣団の取り調べを行った。そしてキリシタンと判明したもののうち棄教を肯んじなかったもの14名を追放した。家康の膝元で、家康の命より教会に従うものが14名もいたのだ。この年、駿府・江戸・京都など天領における禁教が発令された。追って禁令5か条が出て、大名領でも禁教を行うよう求めた。

だがこの禁令は徹底を期すものではなく、イエズス会は存続を認められていたし、大坂の教会は豊臣秀頼に保護されていた。イエズス会はこの年も前年並みの4500人に受洗しており、禁令があまり影響を与えていないことが見て取れる。

一方、有馬晴信の子直純は岡本大八事件の後に襲封を認められており、幕府に対して忠誠を示すため自ら棄教し、また家臣・領民に棄教を迫った。だが棄教したものは少なく、禁教を徹底することはできなかった。棄教しなかった家臣3名は火刑に処されたが、処刑場は聖なる殉教を見物しようという2万人の群衆に取り囲まれ、彼らは遺体を聖遺物として持ち去った。家康は1613年、改めて全国を対象とする禁教令を発し、宣教師の国外追放を命じた。また金地院崇伝の「伴天連追放文」が将軍秀忠の名のもとに布告された。これは、これまでの禁教令よりもかなり実効的なものであった。高山右近も追放された。だが意外なことに禁教下でも修道会の勢力争いが激しく行われている。

同年(1613年)、元漂流者で幕臣になっていたウィリアム・アダムズ(三浦按針)の仲立ちもあり、イギリスとの国交が開けた(平戸商館)。イギリスは略奪を主とするオランダとは違って真面目に商売をしようとしていたが、家康はもはや貿易を盛んにする意欲を失っており、海外でのいさかいに巻き込まれることの不利を強く感じていた。1616年に家康が死去すると海外との交易を平戸・長崎に制限する法令が出た。

宣教師やキリシタンはマカオに追放されたが、マカオでもゴタゴタが起こっていた。パシオを引き継いだ日本準管区長のカルヴァーリョは日本人を嫌い、日本の風俗になじもうとしなかった。そういう彼が行き場を失った日本人(イエズス会士)の面倒を見なくてはならなかったのだから、彼らを扶養したくなかったのも無理はない。彼は会士の大量解雇・除籍を行った。

日本では、宣教師たちを追放はしたものの、キリシタンに対する嫌悪感などはなかったようで、役人から民衆に至るまでキリシタンに同情的で、あまり厳しい取り締まりはなかった。キリシタンの拠点であった長崎でも、積極的に宣教師を捕縛してはいない。ところが1618年、末次平蔵政直が長崎代官に就任すると宣教師追補が激化した。彼はもともとイエズス会系の信者であったがすでに棄教していた。1619年には京都でも53人の信徒が火刑に処された。明らかにキリシタンへの空気が変わっていた。大村でも1622年、火刑25人、斬首30人の「元和の大殉教」が起こった。

だが例外の地域が二つあった。島原と東北である。島原は、元は有馬領であったが、有馬直純は領内のキリシタン対策に手を焼いて転封を願い出て1616年に板倉重政に与えられていた。重政は領民へ配慮し、宣教師も黙認してキリシタンを野放しにしていた。イエズス会司祭ペトロ・パウロ・ナバロを処刑した時も、できれば処刑はしたくないと寛容な態度を見せている。結果的には彼は火刑に処されたが、その後は弾圧はなかった。しかし将軍家光からキリシタン対策の手ぬるさを叱責されると一転して苛酷な迫害が始まった。次々に宣教師が火刑に処され、また日本人のキリシタンは穴吊りの拷問によって棄教を迫られた。こうしてキリシタンたちは東北や蝦夷地へ逃亡していくのである。

オランダは、公然と海賊行為を行っていたが、台湾にゼーランディアと称する城砦を築き、貿易の拠点として整備した。こうして1625年からオランダの対日輸出は急増し、オランダによる貿易が盛んになった。一方で、イギリスは平戸商館を置いていたものの、中国から生糸を輸入することが思うようにできず、大きな損失を計上して1623年には撤退した。

このような状況で、長崎代官の末次平蔵は台湾の領有を企図して策動し、オランダ船とオランダ人を抑留するという事件を起こした。このために日蘭関係はこじれ、1609年に設立されていた平戸商館も活動を停止したが、1630年に彼が死んで事件は解決し、平戸商館での貿易も正常化した。

1635年、幕府は日本人の海外渡航禁止と海外在住者の帰国を禁止した。このため朱印船貿易が停止。その穴を担ったのはポルトガル船による委託貿易であった。しかし幕閣はポルトガル人を嫌うようになっていた。度重なる禁令にもかかわらず執拗に宣教師を送り込んできたからである。宣教師たちは、迫害が厳しいほどやりがいもある、という考えで全く布教を辞めるつもりがなかった。為政者たちは、狂信的な宣教師たちに辟易していた。

そしてついに、寛永14年(1637)10月、「島原半島の松倉領で、突如として旧キリシタンが蜂起し、即座に天草がそれに呼応(p.377)」した乱が起こった。この乱について述べた史料は多いが、意外と当事者の証言は少なく、謎が多い。乱のきっかけは、北有馬村・南有馬村の15名をキリシタンとして役人が捕らえたことであった。その地域の住民はもうキリスト教を棄教していたはずであったが、キリシタンに立ち返ったものが大勢出ていた。彼らは仲間が捕らえられたことに刺激され、「役人、僧侶、神官をことごとく殺せ」と蜂起したのである。

キリシタン立ち返りの起点の一つが、天草(大矢野)四郎の存在だった。彼は「生まれながらの才智」があり、「天人」「天使」として扱われていた。彼はキリシタン5人によって「バテレンの予言」の通り現れたと持ち上げられ、奇跡を起こしたと吹聴された。また、寛永11年(1634)以来、連年の凶作や島原藩の収奪によって農民が追い詰められていたことも乱の背景にあった。

なお、本書ではこの蜂起軍を「一揆」と呼称しているが、この時代の「一揆」とは契約に基づく集団の運動であり、蜂起軍が言葉の素直な意味での「一揆」であったのか、それとも偶発的な暴動だったのか本書には明確に書いていない。かなり早い段階で天草の参加があったことを鑑みると、それなりの計画性があったようには思われる。なお、「一揆」というと、この時代には「起請文」という神仏に誓うタイプの契約書が作成されるのがふつうである。しかしキリシタンが神仏に誓うはずはなく、契約書が作成されたとしてどのようなものだったのか興味深い。

近隣の諸藩は幕府の指示なく隣国に派兵してはいけないという規定のため手出しできず、幕府も地方の小反乱という意識しかなかったため対応が遅れた。その間に蜂起軍は島原の「原(はる)城」に立てこもった。その数3万7000人(といわれるが2万数千人が実数だという)。その翌日、幕府から派遣された板倉重昌が到着。直ちに原城を包囲した。

記録によれば、城の中では「持ち口をよくかためる者は天上へゆき、さもなくば地獄に落ちる」と触れ回っていた。ここで露骨に軍事と宗教が結び付けられていることは注目される。一方、包囲軍の士気は上がらず、しびれを切らした板倉重昌が自ら塀に手をかけたところ狙撃されて死んだ。蜂起軍はかなりの鉄砲を持っていた。幕府は本腰を入れてを編成包囲軍し、その数は10万に達した。

この状態で、城の中と外で矢文によりやり取りが行われたがその内容もまた興味深い。蜂起軍は年貢の減免など生活改善要求は一切なく、「ただ宗旨に従いたいだけだ」というのだ。だが、通説では「島原の乱はキリシタン蜂起の形だが、実質的には領主の苛政に対する反乱だった」とされてきた。なぜそのように変換されたのか。それにはオランダの存在が鍵になっている。オランダ平戸商館長クーケルバックは幕府の要請を受けて、なんとオランダ船を原城に派遣し(原城は海沿いにある)、砲撃したのである。オランダはヨーロッパではキリスト教徒迫害に加担したと批判されたが、彼らは「これは宗教戦争ではなく、領主の苛政に反抗した農民一揆だ」と強調したのだ。

確かに松倉領では苛政が行われていたらしい。だが蜂起軍が年貢や課役に対する不平など一切言っていないことを見ると、これが信仰を求めた宗教戦争であったことは疑いの余地はない。農民は、最初から死ぬためにことを起こしたようなところがある。なお著者は、「島原・天草一揆を農民一揆か、宗門一揆かと問う(p.418)」のはそもそもナンセンスだという。

蜂起軍からはほとんど脱落者はなかったが、これは勝つ見込みのない籠城戦であった。入念に計画されたものではなく、物資も乏しかったからだ。それにもかかわらず蜂起軍は善戦し、包囲軍には大きな被害があった。攻め手側の戦死者だけで、1130名もいるのだ。落城は翌年(1638)の2月。蜂起軍はほとんど皆殺しだった。

1639年、ポルトガル船の来航を禁ずる老中奉書が出され、貿易はオランダに集約された。こうしてオランダは日本の生糸需要を一手に引き受ける形となり、「1640年には22万9000斤という、幕末に至る商館史上最高額を達成(p.371)」した。しかし家光は1639年、「奢侈禁止令」を出し、社会階層のほとんどで絹の着物を禁止した。「当時の日本人は身分の上下を問わず、華美な絹織物を競って着用(p.428)」しており、それが貿易の土台となっていた。奢侈禁止令はこの土台を壊した。

さらに、幕府はオランダ商館にキリスト生誕年が記されていると難癖をつけて破壊させ、平戸から長崎の出島に移転させた。1642年と43年、イエズス会は2度の日本宣教団を送った。イエズス会は日本から手を引くつもりであったが、イタリア人神父のアントニオ・ルビノの強い意志から出たことだという。これが結果的に最後のイエズス会の来日になった。こうして「バテレンの世紀」は終わった。

著者が強調するのは、この時代には日本には大勢の外国人がおりインターナショナルな雰囲気であったこと、西欧と日本には文明の程度は同じくらいだったこと、よって幕府には外国からの軍事的侵略は全く恐れていないこと、いわゆる鎖国によってこの西欧とのファーストコンタクトの記憶が意図的に抹殺されたことなどである。宣教師たちは、絶対神デウスを教え、日本の神仏はそれに劣る存在であるとした。そしてデウスさえ承認すれば洗礼に値するとしていた。それはかなり切り詰めたキリスト教にならざるを得なかった。例えば隣人愛の観念などは教えられていたのだろうか。

宣教師たちがキリスト教を単純化して伝えたのは、彼らのほとんどが日本語ができなかったという事情も大きかった。結果的に、キリスト教を肯定するにしろ否定するにしろ、単純な議論にしかならなかったと著者はいう。さらに「もし宣教師たちに十分な時間が与えられ、スコラ哲学的思考の訓練が日本に根づいたら、どんな展開が見られたことか(p.446)」と述べるが、これはちょっと一面的な見方ではないだろうか。日本では仏教を通じてかなり高度な観念操作の議論があったからだ。

私の本書を読むうえでの関心は、日本人はキリスト教をどのように受容あるいは反発したのか、という点にあったが、本書はこの思想的対決については極めて簡潔にしか書いていない。ハビアンの『妙貞問答』(キリスト教擁護の本)と『破提宇子(はだいうす)』(棄教後にキリスト教を否定した本)についても「立場はかなり単純な合理論にすぎなかった(p.446)」と手厳しい。

本書には詳らかでないが、当時の日本人のキリスト教に対する「素朴な疑問」は、宣教師たちをかなり困らせている。キリスト教の本質を突いた議論を日本人はしていたようである。にもかかわらず、そうした議論が深まらなかったとすれば、日本人がスコラ哲学的思考ができなかったからというより、宣教師の日本語力不足こそが問題であったのだと思う。

またもう一つの私の興味は、キリシタンはなぜ火刑にされるのか、という点にあった。管見の限り、それまで日本には火刑という処刑法はない。本書の記載によるかぎり、初めて火刑されたのは岡本大八事件の大八であり、1612年のことである。彼はキリシタンであったがその罪状はキリシタンであることではなく、収賄なのである。となれば極刑であるとしても「打ち首・獄門」が適当だ。にもかかわらずなぜ彼は火刑に処されたか。

そこには宣教師たちの教唆があったとしか考えられない。ヨーロッパの刑法でも火刑は通常の刑罰となっていないと思う。火刑が用いられたのは魔女裁判など宗教裁判だったのではないだろうか。私は、キリシタンの処刑を行うに際して、ほかならぬ宣教師たちこそが火刑という手段を用いることを求めたのだと思う。つまり宣教師たちは、宣教師たち自身やキリシタンの処罰を「殉教」にしつらえることでその死に特別な意味を付与した

火刑は、キリスト教を「邪教」と見なし、その信者を残虐に処罰する方法として広まったと言われることもあるが、板倉重政がナバロを火刑に処した場合を考えるとそれは妥当ではない。板倉重政はナバロに同情的で、残虐に殺したいとは全く思っていないのである。にもかかわらずなぜナバロは火刑に処されたか。「キリシタンは火刑」という観念に従ったまでともいえるが、であったにしてもあえて残虐に処刑するために火刑を選択したということは考えられないのである。

さらにさかのぼれば、最初の大規模な殉教事件である「二十六聖人」が磔刑に処されていることは注目される。なぜ彼らは斬首ではなく磔刑だったのか。それは、宣教師たちが自らをキリストになぞらえ、磔刑をあえて望んだとするのが自然だ。でなければ、代官たちが磔刑などというものを実施するはずがないのである。

彼らの少なくとも一部は、殉教に対する熱烈な気持ちを持って日本に来ていた。極端に言えば、殉教が目的だったようなところがないとはいえない。特に追放令以降は、迫害されるのがわかっているのに来日しているのだ。それを宗教的熱情ということは可能だが、反面では狂信であるともいえる。その意味では、宣教師たちも宗教の犠牲者なのである。

本書はあくまでも「詳しい通史」であるので、あまり一つの内容に深入りしない。特に元は雑誌の見開き1ページの連載だったそうなので、込み入った内容を語ることはできなかったのだろう。文字数を減らすためであろうと思うが、いろいろな用語が定義されずに、または意味が説明されずに使われていることが多い。例えば「バテレン」や「パードレ」が何を示すのかはどこにも説明がないと思う。

またところどころに地図が挿入されており、巻末に簡潔な年表があることで理解はしやすいはずだが、意外なことになかなかすんなりとは頭に入らなかった。多くの事項を手際よくまとめるために、大著であるにもかかわらずかなり簡略化された記載となった箇所があったためかもしれない。これも見開き1ページの連載の副作用かと思う。

少し読みにくいが大量の情報が盛り込まれた、教科書風のキリシタン史。

【関連書籍の読書メモ】
『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_22.html
倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

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2024年8月9日金曜日

『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』末木 文美士 著

日本仏教史を、思想を中心として述べる本。

本書は、『図説日本の仏教』全6巻(太田博太郎・中村元・濱田隆監修)で著者が書いた項目(主に各巻の思想の概説)を基に、若干書き足して再編集したものである。

本書は日本仏教史としてはかなり短く簡潔である。本文は350ページほどしかなく、しかも下の方は註になっているため、普通の文庫本に換算すると250ページ分くらいだと思われる。いきおい、日本仏教史を丁寧に叙述するというわけにはいかず、いくつかの重点を中心とした記述となっている。

古代仏教については、大乗仏典についての解説が重点。様々な内容を持つ大乗仏典がどのように成立したかが述べられ、中国での古訳・旧訳・新訳と、それらの仏典間を体系づける教相判釈などが述べられる。これは類書ではあまり触れられない部分である。日本では漢訳を翻訳することなく受容したため、思想体系の翻訳という難事業をスキップして仏教を受容することができたが、著者は「試行錯誤の過程を省くことができたことが、果たして日本の仏教にとって本当によいことだったのであろうか(p.71)」と問題提起している。

さらに『法華経』の方便思想が詳しく解説される。『法華経』では、相矛盾する教えを方便と位置付けることで、いくつかに分裂した仏教の考えを統合するとともに、信仰を護るための実践的な活動を鼓吹した。日本では天台宗で重んじられたことで、『法華経』は日本仏教の中心的な経典となり、法華経信仰は中国とは違った発展をすることになった。

平安時代の仏教は、密教がその中心となるが、「平安仏教は所詮、祈禱仏教であって、思想内容に乏しいと考え(p.87)」られていたものの、それに対して「果たしてそうであろうか(同)」と疑義を呈している。著者は最澄と空海の生涯に触れ、最澄については特に徳一(とくいつ)との論争内容と大乗戒壇の設置運動を記述している。大乗戒壇については「大乗仏教だから大乗の戒と、一見、当然の主張のようであるが、じつはインド以来、このような主張はなされたことがな(p.105)」いと指摘。そこには「真俗一貫」の平等主義があるという。

空海については、密教教理が比較的詳しく取り上げられる。仏教の教えの根本原理には「空」がある。全てのものに絶対の実体はないという思想だ。ところが「密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するのと根本的に異なっている(p.109)」と、思想的な転換を明確に指摘している。密教では、大日如来と一体化することで自我も絶対性を獲得できるとし、この立場を大乗をも超えた「金剛乗」と位置付けた。

また、大日如来との一体化「即身成仏」について曼荼羅と関係づけて説明されており、それによれば、「物質および精神の具体的・現象的事実の世界がそのまま根源的原理と認められ、それが大日如来の法身(本質的なあり方)とされるのである(p.113)」としている。それは「いわば一種の汎神論(汎仏論?)(同)」なのだ。なお個人的には、ここで物質のみならず精神についても真理の世界の現れとされていることに強い興味を覚える。このような現象的事実の世界を表したのが曼荼羅に他ならない。これは現象的事実を「空」をみなす従来の仏教と対立しているが、その対立が大きな問題となった形跡はない。

そうした対立が起こらなかったのは、そもそも日本人がそうした思想的な転回に無頓着であったか、あるいは空海の思想体系が巧妙だったか、その両方かであろう。空海は淳和天皇の勅命に応え大著『秘密曼荼羅十住心論』を著し、仏教の諸宗の教理を10段階に位置づけて説明した。ここでは凡夫が迷いの状態にある段階から、小乗や天台を経て密教の立場まで、全ての教えが包摂された。

このように空海は壮大な体系化を行い、また密教の呪術性は貴族から重宝されたため、天台宗でも密教を導入することが必要となり、円仁、円珍、そして安然によって台密(天台密教)は完成した。最澄は円教(円=完全な教え)としての天台宗を把握したが、これを密教化したのが円仁・円珍という「円」を名乗った僧侶だというのは皮肉めいている。

さらに、平安期の仏教については、末法と浄土について述べている。最澄の著とされる『末法灯明記』(実際にはだいぶ後の作である可能性が高い)は末法思想に影響を与えた。そこでは、末法の世では教えのみあって実践がないのだから戒は成り立たないとし、無戒の名ばかりの比丘を尊重しなければいけない、という開き直りのようなことが書かれている。このようなことが堂々と主張された時代の趨勢は興味深い。この救いのなさが、人々を阿弥陀仏の他力に向かわせたのであろう。

浄土思想の鼓吹者としては源信を取り上げ、その『往生要集』はやや詳しく内容を紹介している。またその実践としての念仏結社「二十五三昧会」を述べている。そして「大乗仏教の二つの流れ、すなわち、浄土教の他力救済的な側面と、般若系の仏教本来の流れにつらなる三昧の思想を結びつけようとする動き(p.149)」として般舟三昧(はんじゅざんまい)を位置づけている。ここで、著者は時間を遡って浄土教の成立について述べ、浄土教の日本への定着には円仁の五台山念仏の導入が大きな役割を果たしたとする。

そして摂関期末から院政期にかけては、弥勒信仰・地蔵信仰・観音信仰・法華信仰・山岳信仰・神仏習合など、末法観を背景に多様な信仰が展開されており、著者はこの時代を「日本の宗教史上きわめて注目される時代(p.157)」としている。

さらに著者が重視するのが、この時代に形成された本覚思想である。「本覚」とはもともと『大乗起信論』に出てくる言葉で、「衆生に内在する悟りの本性」を意味し、「仏性」や「如来蔵」と類似する。「本覚」は、院政期頃に「仏性」にかわって多用されはじめ、内容も「「本覚」が単なる内在的な可能性ではなく、現実に悟りを開いている、という意味に転化してしまう(p.158)」。そして逆に、修行して悟りを求めること(=始覚門)は低次元の考えであるとまでみなされるようになった。

また、良源が書いたとされる『草木発心修行成仏記』に述べられているように、日本の仏教では山川草木悉有仏性の説が広まった。草木成仏説は中国でも見られたが、それは仏(空)の立場からみると全世界は平等に心理そのものであり、衆生と草木の区別はないというものであった。ところが『草木発心修行成仏記』では、「一本一本の草や木がそれぞれそれ自体で完結し成仏している(p.171)」とするものになっている。より実在論的なのだ。

本覚思想は、本書の中心をなすものである。日本の仏教思想は、インドはもちろん中国のそれとも異なっているが、その独自性の核心にあるのが本覚思想であると著者はみなしている。しかし従来、本覚思想はあまり注目されてこなかった。その一因は本覚思想が著述ではなく口伝法門(師匠から弟子への秘密の口伝え)によって伝えられたことである。

なお、天台宗では本覚思想が本門思想と結びついた。本門思想とは、『法華経』の本門(後半)を究極的な真理と見なすもので、天台宗では本門を具体的な事実性の段階と見なした。迹門(前半)が抽象的な真理とされたから、これは理念・理論より事実・現実を重視する考えになっているわけである。天台宗では止観(心を静めて観想する)を重視したが、やがて「天真独朗の止観」を主張するようになった。これは「凡夫のあるがままの日常の心を、そのまま本来的に真実で(天真)他に汚されずに輝いている(独朗)悟りの姿と観ずること(p.183)」である。

しかしこうなると、修行も不要となり、なるがまま主義、あるがまま主義へと堕する危険性を帯びていた。「本覚思想は仏教思想として行き着くところまでいって自己崩壊(p.190)」した。そんな中で、仏教の在り方に対する再定義が必要になり、本覚思想は新しい思想を生み出す媒介となったと著者はいう。鎌倉仏教の発生にも、本覚思想は大きく影響しているという。

鎌倉仏教については、意外とあっさりとした記述である。黒田俊雄の顕密体制論に基づいた見方で、3期に分けて述べている。

第1期が12世紀後半から13世紀始めの承久の乱まで。ここでは法然と栄西が取り上げられる。建久9年(1198)には、それぞれの主著、法然『選択本願念仏集』と栄西『興禅護国論』が著された。彼らはともに弾圧さらながらも教えを説いたが、栄西は権力に接近し、法然はあくまで在野を貫いた。この他、この時期には重源・貞慶・俊芿・慈円らが活躍している。

第2期は承久の乱以後の執権政治期。ここでは明恵、親鸞、道元が取り上げられる。明恵は『摧邪輪』を著し、法然の専修念仏を批判した。悟りを求める心(菩提心)がないのに、阿弥陀仏を信じて念仏すれば救われるというのはおかしいと。彼は菩提心を重視し、仏光観(毘盧遮那・文殊・普賢や理法を書いた上段と、菩提心を鼓吹する文章を下段としたものを観想の対象とするもの)の実践と思想を円熟させた。親鸞と道元は、本覚思想と向き合い、それを乗り越えた。親鸞は悟りの世界をあくまで浄土に置き、そこに至るためには念仏という実践が必要だとし、一方、道元は修行そのものが悟りだとした。どちらも、本覚思想の「なすがまま・あるがまま」だけではダメだとしたのである。

第3期は、13世紀後半以後の社会的変動期。ここでは日蓮、一遍、叡尊、忍性が取り上げられる。日蓮は本門を絶対視するとともに、護法の実践を重視した。一遍は全てを捨て去って念仏のみに身をゆだねた。そして叡尊・忍性は戒律の復興運動に身を投じる。それぞれが、本覚思想の「なすがまま・あるがまま」とは全く異なる地平を切り開いているのである。

室町期になると禅宗、特に五山派が興隆し、また日蓮宗は町衆文化をはぐくむ役割をするが、この時期については本書は極めて簡潔で短い記述である。

近世仏教については、類書に比べるとかなり肯定的に述べている。著者は近世仏教堕落論への再考を促し、「他の思想潮流に主流の座を明け渡し(p.242)」たとしながらも、仏教界にも活気があったとする。

ただしキリスト教との思想対決、排仏論など、仏教界には当時から批判の目が注がれていた。「もともと超世俗主義の立場をとる仏教には、かえって世俗に対して厳しい倫理性が欠けていた(p.252)」こともあり、体制側の思想となってしまっていたことは否めない。そして民衆は、体制の枠に収まらない思想を持ちつつあったのである。さらに、富永仲基や山片蟠桃は合理的な思想から仏教の理屈に合わない点を批判した。しかし、仏教界はそうした批判へ真正面から応えていない。これは近世仏教の限界であった。

しかし、仏教界が停滞していたわけではない。戒律の復興運動や教学の振興が図られている。それでも体制に従順だったことは否定できない。浄土真宗ではひたすら無欲で従順な人物を「妙好人」として称揚した。近世後半に新宗教が次々と生まれてくるのは、既成教団への物足りなさがあったに違いない。

ここで著者は「仏教土着」と題して、日本の仏教の受容のされ方について考察している。その要点を述べれば、日本の仏教はまず「葬式仏教」であったということと、「先祖供養」と習合したということである。葬式も先祖も、元来の仏教ではそれほど中心的なものではなく、特に先祖に至っては輪廻転生を前提とする限り仏教とはきわめて遠い存在なのである。にも拘わらず、日本仏教ではこの二つが仏教の流布に大きく与っている。なお、著者は「葬式仏教」を肯定的に(とは言いすぎでも一概には否定できないというような調子で)述べている。

以上が本書の通史部分であるが、さらに「神と仏」と題した章が設けられている。これは、本書の元となった『図説日本の仏教』全6巻に『神仏習合と修験』の巻があったことと対応している。本章は神仏習合論として優れている。近世には本地垂迹観念が人間中心に変化しているという指摘などは鋭いと思った。また、神道理論を育てたのは本地垂迹を中心とする仏教思想であったということも明快に示しており、そこで慈遍の『豊葦原神風和記』の内容が紹介され、特に原初の純粋性に神道の優位性を見ているという指摘が面白かった。その先に天皇論が位置づけられてくるのである。

続いて修験道について述べられているが、教科書風で簡潔な記載である。

終章は「日本仏教への一視角」と題し、それまでと違って「ですます体」で書かれている。ここでは、日本仏教への研究方法や向き合い方が述べられる。最後に、遠藤周作の小説『沈黙』で、宣教師フェレイラが言う台詞が紹介されているのが面白い。それは「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。(中略)我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」というものだ。要するに、日本は外来の宗教を自分風に換骨奪胎してしまうということなのだ。「仏教の根は果たして腐らずに長らえることができたのでしょうか(p.364)」「日本人として外来の思想・宗教を受け入れるということはどういうことなのか。仏教はあまりに日本の中に溶け込んでいるように見えるだけに、よりいっそう強く、かつ慎重に問い直さなければならないのでしょうか(p.366)」と本書を結んでいる。

最後に丁寧な文献案内と仏教史年表が付属しており、特に文献案内は大変参考になる。

全体として、本書はとても読みやすい。日本仏教の通史としては、最も読みやすいと思う。また「本覚思想」を中心に据えて日本仏教思想を読み解くという試みは、独創的で、説得的でもある。ただし、冒頭にも書いたように短い著作であるために捨象されたものは多く、特に室町時代の禅宗と近世の修験道はほとんど全く記述されていない。また、読みやすくはあるのだが、短くまとめるために丁寧な説明がない部分がある。大まかな日本仏教の流れを知った上で読む方が面白い本だと思う。

本覚思想をキーにして日本仏教への再考を促す名著。

【関連書籍の読書メモ】

『日本宗教史』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_14.html
古代から現代に到る日本宗教史を概観する本。「<古層>の形成・発見」はピンと来ないが、日本宗教史の詩論として価値ある本。

『中世の神と仏(日本史リブレット32)』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/06/32.html
中世の神仏の在り方を概説した本。神仏習合から神道理論が育っていたことを簡潔に示す、これ以上ないほどの概説書。 

『近世の仏教―華ひらく思想と文化』末木 文美士 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/07/blog-post_17.html
近世の仏教の概説。近世仏教の世界を平易に案内する試論。

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