2023年12月13日水曜日

『天皇の即位儀礼と神仏』松本 郁代 著

天皇の即位儀礼の変遷とその意義を述べる本。

天皇の即位儀礼といえば、「即位式(+践祚儀)」とその後に行われる「大嘗祭」であるが、明治維新直前まではそれに加え「即位灌頂」という密教儀礼が行われた。本書は、この失われた「即位灌頂」を中心として天皇の即位儀礼について述べるものである。

このうち、即位式は令制以前にかさのぼる継承儀礼であり、大嘗祭は7世紀後半に天皇制とともに確立したものである。大嘗祭は、天皇を天照大神の子孫(皇孫)に位置づける神事で、「天孫降臨の再演(p.73)」として天皇自身がこれを行った(桜井好朗)。古代の即位式・大嘗祭においては、天皇の権威を支えたのは神だった。

しかし、桓武天皇以降は天皇の即位儀礼が「脱神話化(p.57)」していく。それは天皇の皇位継承が安定したものとなり、また先帝の意思に基づく譲位が常態となったことが影響しているという。

そして平安時代中期に即位灌頂が登場する。

即位灌頂の起源はインド国王の即位式にさかのぼるが、仏教儀礼としての灌頂は「正統な継承者となる」ために頭から水を灌ぐ儀式である(ただし天皇の即位灌頂では実際に水が灌がれることはなかった)。これはやがて琵琶や箏などの秘曲、和歌の奥義を授ける儀式にもなった。ともかく、秘説や秘伝を後継者に伝授する儀式が灌頂だったのである。

中国では、唐代に玄宗ら皇帝が灌頂を受け、また国内が混乱する中で皇帝が菩薩戒を受けており(皇帝菩薩)、皇帝への仏教的権威の付与がなされている。また日本でも空海が平城天皇・嵯峨天皇に戒を授け灌頂を行っているが(西本昌弘)、これはあくまで仏教儀礼として密教の奥義を伝授するものであった。

一方で、「皇位」は何者かが天皇に対し伝授するものではない。即位灌頂で天皇に伝授されたのは「印契(いんげい)」(両手指を組み合わせて仏を表現するもの)と「明(みょう)」(真言)の「即位印明」であった。そしてこれを伝授したのは基本的には摂関家であり、僧侶ではなかった。即位式において、天皇が摂関家から「即位印明」を与えられるのが即位灌頂だったのである。

そしてこの「即位印明」は、秘説として特別に伝授されるものであったが、口伝でありながら故実書や聖教に記載され、「公の秘説」として、ある程度の広がりをもって認知されていた。本書ではこの「公の秘説」がキーワードになっている。

初めて即位灌頂が行われたと推測されるのが後三条天皇(1068年即位)。後三条天皇に即位灌頂を行ったのは(摂関家ではなく)護持僧だった成尊(真言宗小野派)と考えられている。即位灌頂を自ら史料に残したのは伏見天皇(1288年即位)。伏見天皇は二条師忠から「金輪王躰金剛界大日印像」という印契を伝授されている。その後、二条家は即位印明を相伝していき、室町時代後期には二条家が「天下の御師範(p.97)」と号されることになった。 

なお、孝謙天皇の頃には即位に伴う仏教儀礼として「一代一度大仁王会」という法要が行われたこともあったし、玉体護持のためには仏教も大きく協力していた。後三条天皇の場合、「延暦寺・東寺・園城寺から代始護持僧がそれぞれ一名ずつ選ばれ、天皇の在位期間中、玉体護持のために普賢延命法、不動法、如意輪法を修す「三壇御修法」が修された(p.21)」。即位灌頂については、摂関家と距離があった後三条天皇が新たな天皇権威の創出を企図して行ったものと見られる。しかしそれが結果的には摂関家の方を仏教的に権威付ける結果となったのは皮肉というほかない。

ところで大嘗祭は後土御門天皇(1464年即位)以降は斎行されず、220年余り中絶した。これが再興されたのは霊元天皇の後を承けた東山天皇(貞享4年(1687)即位)の時である。ただし次の土御門天皇では大嘗祭は行われず、さらに次の桜町天皇の時に吉宗の協力で再び再興されている。

なお、大嘗祭は夜通し行うものであるが、先述の通り大嘗祭は天皇親祭で摂政や神祇官の代行は認められない。では年端もいかない幼主の場合はどうしたか。その場合、やはり摂政がある程度の代行をしたようである(5歳で即位した崇徳天皇の場合など)。大嘗祭はなかなか手間のかかる儀式であり、しきたりもうるさく、しかも天皇の他、摂関家と特定の采女以外は知りえない秘伝が多かったため、故実を蓄積し式を補佐する摂関家の役割が大きくなっていった。そして秘伝を相伝していることが摂関家の権威をさらに高める結果となった。即位印明はこうした相伝の一環となり、「天皇に近い立場で権力を維持するためのもの(p.117)」であった。

しかし即位印明が単なる摂関家の権威を演出する道具として創作されたものかというとそうでもない。それは様々な形で解釈され、関係づけられ、理論化されたものであった。そもそも経典に基づかない即位印明がどのようにして生まれ、発展させられたのか。本書ではそこで夢に着目する。慈円の夢、花園院の夢(の記録)が分析されているが、特に花園院は3度もかなり具体的な夢を見、結果として北野天神の夢想感得像をつくらせるとともに、「即位灌頂秘印」が天神から授けられた(とされた)。 

ところで、即位印明を相伝したのは二条家であったが、江戸時代になると五摂家にはその相伝を巡って相論が起こった。特に九条家は二条家に対抗し、歴代宝物や伝えられた神話を持ち出して相伝を主張。近衛家も関係文書の伝来を根拠に印明伝授を行う資格があると申し立てた。結果的には二条家により行われたが、二条家による伝授が正統とは決定されなかった。

このように、即位灌頂とそこで伝授される即位印明は、仏教儀礼というよりも摂関家の有職故実の世界にあったのだが、複雑なことに、即位儀礼そのものは寺院によって理論化・相承されていたのである(!)。例えば、東寺では大日如来からアマテラスを経て(!?)弘法大師に至る系譜が説かれ、神話と仏教的世界観が接続されたし、天台宗では法華経の偈自体に天皇の即位の正統性を読み込んだ。天皇の正統性を保証する「物語的機能」が即位灌頂の理論を通じて出来上がっていた。著者は寺家と摂関家は「一種の協働状態にあった(p.189)」という。

本書はさらに古代インド、タイの国王の即位灌頂について紹介し、その正統性を思想がどう支えたかを概観する。さらに仏教的世界観の中に天皇の存在を位置づける作業の一環として、仏教的世界観の認識が考察されている。その中心は須弥山である。仏教的な世界観の中心には須弥山があったが、その壮大な世界観において世界の王とされたのが金輪聖王(とそれを表す一字金輪)であり、天皇はそれらに擬された。金輪聖王とは、須弥山世界における4つの世界(四大洲)全てを統治しているとされる(我々の世界はその中の一つ南贍部洲)。

大嘗祭が天皇と神を一体化させる儀式であったとすれば、即位灌頂は天皇を仏教的世界観に位置づけて金輪聖王と一体化させる儀式であったといえる。

しかし、西洋の天文学が伝わると仏教的世界観に動揺が走る。そんな中で僧侶の普門円通は『天啓或問』を読んで旧来の須弥山説に疑問を持ち、それを科学的に解釈した『仏国暦象論』を著して地球説と地動説を批判。寛政年間には梵暦社を組織している。須弥山説は護法運動という政治的色彩を帯びて盛んに擁護された。「アジアのなかでも日本の須弥山論争は、17世紀から19世紀という長期に亘り、規模も儒者や国学者などの世俗的知識人をまきこみ、庶民にも影響を与えるなど大規模なもの(p.247)」であったが、事実によって否定されて仏教的世界観は崩壊。明治天皇の即位式では即位灌頂は廃止された(つまり明治維新前に廃止されている)。

ちなみに明治天皇の即位儀礼では、福羽美静の「思いつき」で地球儀が天皇の前に置かれた。これはたまたま調度品として利用できたことから置かれたという偶然の側面もあり、「新政府の構想を必ずしも正しく反映したものとはいえない(p.257)」が、結果的に仏教的世界観ではなく科学的世界観に立った君主として明治天皇をしつらえることになったのである。

全体として、本書はちょっと読みづらい。見慣れない用語が多く、時代が行ったり来たりする上に、著者の関心事項は非常に詳しく書いてある一方で、全体的な見取り図はあまり描かれないので、即位灌頂がどのようなものであったのか最後までよくわからなかった。

一番よくわからなかったのは、即位灌頂がどこで、どのように行われたのかである。例えば、即位灌頂は誰が同席していたのだろうか。群臣が参列する中で行われたのか、それとも秘密の儀式であったのか。これは注意深く読めば書いてあったのかもしれないが、私は見つけることができなかった。君主の正統性を示す儀礼であれば群臣参列が普通であるが、密教儀礼であれば秘密の儀式が妥当である。どちらなのだろうか。

本書は即位灌頂についてまとめたほぼ唯一の概説書であり、その価値は高い。ただし、私自身その内容を十分に理解したとは言いがたい。

失われた天皇の即位儀礼「即位灌頂」を明らかにする労作。

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2023年12月6日水曜日

『延喜式』虎尾 俊哉 著

『延喜式』の概説書。

平安時代の神祇や禁忌を見ていくと、『延喜式』の大きな存在感に気付かされる。奈良時代が律令の時代だったとすれば、平安時代は『延喜式』の時代だったとも言えそうだ。この『延喜式』がどういうものか知りたくて本書を手に取った。

まず「式」とは何か。中国の法律は律・令・格・式の4つの法典で構成されていた。これは律=刑法、令=行政法、格=律令の補足法、式=施行規則である。現代日本に置き換えると、律令=法律、格=施行令(政令)、式=施行規則(省令)ということになるかもしれない。

中国では律令格式がまとめて制定されたのであるが、日本の場合、律令に比べて格式の制定は1世紀も遅れた。しかし格は必ずしもなくてもよいが、式(施行規則)がなければ律令の施行ができない。ではどうしたか。日本では施行規則が「もっぱら個々の単行法令として制定公布されていた(p.10)」。当時「令師」と呼ばれた明法家(みょうぼうか)たちが、『大宝令』の直後から必要な細則を制定する活動をしていたのである。それらの施行規則は、『八十一例』(81の条文)など次第に「例」としてまとめられるようになった。

しかしながら、体系的な施行規則である「式」は作成が困難で、長く編纂されることがなかった。それが遂に、延暦期に編纂されることになる。延暦期は、法典編纂の気運が高まった時代だったのである。

まず、延暦10年(791)に『刪定律令』24条、さらに時期は不明だが『刪定令格』45条、次に延暦11年(792)に『新弾令』83条、続いて延暦18年(799)までに和気清麻呂による『民部省例』20巻、その後延暦22年(803)に『延暦交替式』が撰上された。この時代に個々の法令の制定を超えた法典編纂が行われたのは、明法学の発達がその背景にある。

このような趨勢の中、桓武天皇は信頼する実務官僚の菅野真道に格式の編纂の命を下した。ところが、まもなく桓武天皇が崩御して事業は停滞。次の嵯峨天皇の時代、弘仁年間に編纂が再開され、弘仁11年(820)、格10巻、式40巻の『弘仁格式』が完成した。

こうして律令格式が遂に揃ったが、法令は絶えず改正し続けられるので、『弘仁格式』は早晩改正の必要があった。それが改正されたのが貞観年中で、これを『貞観格式』という。藤原良房が人臣初の摂政となって藤原氏独占の摂関政治が開始された時代である。しかしながら、『貞観格式』は、『弘仁格式』を廃止することなく、その編纂後の訂正・増補された事項のみをまとめたものであったので、『弘仁格式』と『貞観格式』は併存した。つまり、両方を見なければ法令の内容がわからないから、はなはだ不便だった。

そこで、延喜年間、醍醐天皇の治世に『弘仁式』と『貞観式』を統合させ(と本書にあるがおおそらく「格」もあわせて)、体系的な格式を編纂することが左大臣藤原時平に命じられた。この頃は、「延喜聖代観」に見られるように、後世から理想とされた時代であるが、実際には律令制が有名無実化していく末期にあり、最後の班田が行われるなど律令制の維持が試みられるも崩壊していった頃である。国史編纂も『日本三代実録』(延喜元年(901))を以て終了している。『延喜式』の編纂は、律令制の最後のあがきだったといえるかもしれない。醍醐天皇は式の編纂になみなみならぬ熱意があったという(醍醐天皇は自ら式に細かい修正意見を出しており、醍醐天皇の修正意見は『短尺草』という史料に見える)。

最初に完成したのは『延喜格』で、延喜7年(907)に完成して翌8年には施行されている。ところが『延喜式』の方は翌9年に時平が死去したこともあって遅れ、最初の編纂委員のほとんどが死去して延長5年(927)、通算22年もかかって完成した。なお、『延喜儀式』と『延喜交替式』も編纂され、ここに律令格式・儀式・交替式が揃ったのである。

ところが『延喜式』は奏上後、ながく施行されることがなく、なんと40年後の康保4年(967)に至ってようやく施行された。なぜそのように長く放置されたか。一つには、『延喜式』は『弘仁式』と 『貞観式』を統合したもので新しく効力を持つ条文はほぼなかったので急ぐ必要がなかったのと、奏上後も修訂作業が必要であったためと考えられる。また式の規定そものが有名無実なものになっていたせいもある。

こうして放置されていた『延喜式』を改めて施行したのが村上天皇で、その背景には天徳4年(960)の内裏が全焼したとされる火災があると著者は考える。焼失した内裏の再建に活躍した藤原在衡こそ、『延喜式』の施行を主宰した人物だったのである。

次に、本書では『延喜式』の内容について行政組織ごとに簡単に紹介している。これは全部をメモするとかなり煩瑣になるので、気になった点のみ触れる。

『延喜式』には、遣唐使関係の規定が散見される。しかしすでに遣唐使は廃止されていたどころか、唐自体が亡んで存在していない(延喜7年滅亡)。にもかかわらず遣唐使関係の条文が残ったのは「『延喜式』の性格の一面をよく伝えているといわなければならない(p.96)」。『延喜式』の編纂は法令の制定である以上に文化事業なのである。 

『延喜式』の編纂にあたって、伊勢神宮から『儀式帳』が提出されており、その内容は(純粋に儀式敵な部分以外は)ほとんど『延喜式』に取り込まれた。

「祝詞式」(本書では『延喜式』の民部省の巻を「(延喜)民部式」などと略称しているので以下それに従う)は古い祝詞を伝える貴重な史料である。また「神名帳」(本書では「神名式」)は、神社の格を確定させる上で大きな影響があった。

「図書式」には、当時の行政機構が必要とする紙の必要量が規定されていて大変興味深い。またこれにより各官司の机上事務量の多寡を計ることが出来る。

一部の職名以外は、訓読される習いであった。例えば「図書式」は、「ずしょしき」ではなく「ふみのつかさ」と読む。しかし本メモでは訓読のルビは割愛する。

「大学式」で規定される大学の学生の定員は400人で意外と多い。

「民部式」の国郡一覧表は『倭名類聚抄』と並んで古代の地名を知るための最も基礎的な文献。 「民部式」には、課税を負担する子を5人育てればその父親の課税は免除されるという規定がある。「民部式」は、課税・収税・そのための帳面の作成など重要な規定が多い。しかし「こういう律令文書行政の形式がのこっていることは興味深いが、それが全く形式だけの遺存にすぎないことはいうまでもない(p.164)」。

「隼人式」には、隼人が特殊な任務を帯びていたことを伝えている。「この隼人式にかかげられた二十ヵ条の規定は、すべて隼人についての貴重な史料をいわなければならない(p.170)」。 

「弾正式」には、「京中で病人を家の外に遺棄することに対する取締り(p.196)」が規定されている。罰金刑を認めないで体刑とする上、それを隠匿したものも同罪とするという意外と厳しい規定である。

「左右京職」については、なぜ同じ組織を左京・右京にそれぞれおいたのが興味が湧いた(他に「左右近衛式」、「左右衛門式」、「左右兵衛式」、「左右馬式」なども)。そして同じように行政が整えられたのに右京が衰微したのはなぜなのだろうか。

ちなみに、兵庫寮は令政では左右二寮に分かれていたが、寛平8年(896)に左右二寮が合併されている。これによって兵器の作成・保管の業務が一元化された。これが普通の行政組織のあり方だと思う。左右に分けるのは本当に不思議だ。

……このように、『延喜式』の内容は厖大かつ多岐にわたるのであるが、制定の意義はいかなるものであったか。これについて著者は「論ずべきほどの意義は存しないといってよい(p.88)」と容赦ない。つまり律令が有名無実化する中にあって、その施行細則などあってもあまり意味はなかったのだ。

しかしながら、法令としての価値はそうであっても、文化事業としての価値、古いしきたりや社会の様相を記録する意味での価値はとても大きかった。

『西宮記』(源高明)や『北山抄』(藤原公任)には『延喜式』が引用されているし、後三条天皇時代の関白藤原教通は車(牛車であろう)に必ず『延喜式』を携帯したという。院政期においても藤原頼長は『延喜式』を1年以上かけて読了している。これは法令そのものより故実への関心で読まれているように見受けられるが、もちろん明法家も『延喜式』を研究した。令宗允亮(よしむね・ただすけ)の『政事要略』、藤原通憲(この人は明法家ではないが)の『法曹類林』などで『延喜式』は研究・利用された。

中世にも引き続き『延喜式』は参照の対象となり、室町時代には特に「神名帳」が唯一神道の興隆と結びついて注目された。卜部兼俱の『神祇式神名帳頭注』はその代表的なものである。

このように『延喜式』は決して無意味な法令だったのではなく、「延喜の聖代」を伝える重要な文献・権威・規矩としての役割を果たした。『太平記』には、「あら見られずの延喜式や」との言葉が見え、『延喜式』が「かた苦しさや儀式ばったことの代名詞(p.224)」として否定的意味で使われており、こういう用法があったこと自体、『延喜式』が広く知られた傍証である。

近世になると、徳川家康は幕府の法制を整備するための資料として、古書の蒐集と謄写を命じたが、これによって多くの古書が湮滅を免れた。『延喜式』も一部の欠巻がありながらも謄写され、後に他の写本がみつかって慶安元年(1648)に遂に完本が公刊された。さらに、松江藩主松平斉恒・斉貴親子の努力によって雲州本と呼ばれる周到な校訂本が文政11年(1828)に完成した。

また個別研究としては、特に祝詞・神名・諸陵の各式の研究が盛んに行われた。中でも賀茂真淵の『祝詞考』は「祝詞式」に対する初めての本格的研究であり、本居宣長、平田篤胤と研究が進められ、鈴木重胤の『祝詞講義』に至って最高潮に達した。「神名帳」については伴信友の『延喜式神名帳考証』が著名である。

明治維新後は、大学南校の法科で『延喜式』が必読書の一つとされるなど、明治維新の復古主義に支えられて重んじられ、現代でも歴史研究の対象・基礎文献として利用されている。しかしながら、戦後は『延喜式』を直接の対象とする研究論文はあまり見られず、そんな中で宮城栄昌の『延喜式の研究』は最初の総合的研究として価値が高い。

本書は全体として、『延喜式』の世界を平易に概観しており、『延喜式』について知りたくなったら先ず手に取るべき本として推奨できる。というよりも、本書以外に『延喜式』の概説書はないといってもいい。本書の公刊は1964年で約60年ほど前になるが、未だ本書を越える本は登場していないのかもしれない。

ところで、本書は3度も増補されており(書き換えではなく、追記が3つ付いている)、研究の進展によって改訂の必要がある箇所もいくつか存在し、著者自身が「○○頁から○○頁は全面的に改訂の必要がある」などと追記で書いている(それなら改訂してほしかったところだ)。そろそろ『延喜式』の最新の研究をまとめた概説書が出てもよいと思う。

本書を読んで思ったのは、『延喜式』は律令制が有名無実化していく中で最後に作られた、ということが逆説的だがその命脈を保つのに役だったということだ。なにしろ『延喜式』は施行されたその時に、すでに法令としての役割をほとんど担っていなかった。よって、『延喜式』は改訂されることなく、不朽の法典になったのである。また、『延喜式』は律令のような国家の根幹に関わる法典でなく、施行規則であったことも重要だった。律令は形無しになれば意味がなくなるが、施行細則の場合、儀式のやり方、神社のランク、祝詞の文言といった細かい内容は、いつまでも無意味にならないからだ。『延喜式』は、律令国家の置き土産として長く日本社会に影響を及ぼしたのである。

有職故実の世界に大きな影響を及ぼした『延喜式』を知るための必読書。

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2023年11月29日水曜日

『江戸を歩く—近世紀行文の世界』板坂 耀子 著

近世の紀行文についてのエッセイ的な本。

著者は近世の紀行文を専門とする研究者であるが、本書は学術的なような、エッセイのような、なんともいえない不思議な本である。一応、近世紀行文の世界を案内するという目的はあるものの、各章はかなり散漫なテーマになっていて、少なくとも体系的な近世紀行文の案内ではない。

それでは、著者の強調するポイントはどこにあるか。あえて本書の主張を一つ掲げるとすれば、「近世の紀行文というと、芭蕉の『おくのほそ道』以外は面白くないと思われているが、決してそうではない」ということである。

近世は、旅がとてもやりやすくなった時代である。そのため、「都から出発した旅人が鄙の淋しさやわびしさに耐えつつ、自己の孤独を抱いて歩きつづける(p.70)」というような、それまでの紀行文の枠組みは現実的でなくなった。そもそも紀行は都会から出発し地方を巡るもの、ということ自体が思いこみであり、近世には都会の案内記(としての紀行文)もたくさん著された。

そして、かつての紀行文は「歌枕」を巡るものだったが、近世では軍記物に描かれた「名所」(特に古戦場)がクローズアップされてくる。都会の人が頭の中で勝手に作った「歌枕」とは違い、歴史の証人としての「名所」は、地元の人にも大事にされ、伝説を付加させつつ観光地化した。つまり近世の人々は、歴史に強い興味を持ち、「名所」を通じて歴史に親しんだのである。本書で最も心に残った点はここである。

また、かつての紀行文はしばしば美しい文章そのものを目的にしていたが、近世の紀行文は、もちろんそういう作品もあるものの、多くはルポルタージュ的だ。特に、旅先で出会った珍しい話や変わった話を書き留め、伝達することに力が割かれた。その中におよそ事実とは思われない虚構(伝奇)が入り込むことも多いが、これは「そういう伝奇を聞いたことは事実」という形のルポなのだ。

一方で、美しい風景の描写などはほとんどないのも近世の紀行文の特色である。「あまり巧みな名文で花に限らず美景を描写すると、全体の雰囲気を壊すし、目立ちすぎて醜いという意識すら、あるのではないか(p.174)」と著者は言う。

ところで、近世以前の人々は神仏を素朴に信じていたと思いがちだが、実はそうでもない。「幕府の役人たちが薬草を採取する時の紀行文、いわゆる採薬記類などを見ていて感じるのは、この時代の人たちが時には現代の私たちよりよほど大胆に、迷信を拒否するということである(p.191)」という記述は目を引いた。わざと禁忌を犯して何事もなかったことを書いていたりするのである。そこには素朴な「懐疑的精神」があったのだ。

本書は最後に、紀行文に使われるいくつかの文体を整理している。記録文体や雅文体は、紀行文の一つの型をなしており、それらに沿って書く限り駄作にはならない、と言っているのが面白い。つまり近世の紀行文は、型が生みだされるくらい、大量に書かれたのだ。ちなみに雅文体を完成させたのは国学者たちだった。なお、『おくのほそ道』の歴史的な存在感とは逆に、『おくのほそ道』は同時代にはあまり影響を与えず、俳文体の紀行文自体が少ないというのは意外だった。『おくのほそ道』は、近世紀行文学の中では変わり種のようである。

本書は先述の通り、学術書でもエッセイでもない不思議な本で、突然著者のプライベートの話題が差し挟まれるかと思うと、慣れた人でないと読みこなせない紀行文の引用が長々と続くこともあり、読んでいるとなんだか「名物教授」に付き合わされているような気がした。全体的には平易だが、紀行文の引用はやや不親切なところがある(語義の注釈がほしい)。本書は近世紀行文の入門編でもなく、かといって研究書でもなく、その位置づけがよくわからないが、多分本人の気の向くままに書いたものなのだろう。

近世紀行文学を著者のエッセイも交えて紹介する、不思議な雰囲気の本。

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2023年11月24日金曜日

『穢と大祓』山本 幸司 著

穢(けがれ/え)の歴史的事実を明らかにする本。

古代から中世にかけて、穢は大きな問題になった。「様々な規則や禁忌が存在し(p.10)」人々の行動を煩わしいまでに支配していた。

穢とされた人は、神事に参加出来なかったし、参内もできなかった。また神事の場所が穢となった場合は神事自体がしばしば延期され、または変更された。しかも穢は本人・場所だけでなく、そこに触れた人にも「伝染」した。

『延喜式』によれば、そのような規制を受ける日数は、人の死:30日、お産:7日、六蓄の死:5日、六蓄の産:3日、肉食:3日、となっている。また『延喜式』には規定がなく、後に定められたと思われるが、死体の一部が欠損したものの場合は「五体不具穢」となり7日間であった(『西宮記』『日本紀略』などによる)。さらには失火穢といって、火事も穢の要因であった。理不尽なのが、消防活動に従事した人までも穢になってしまうことである(ただし失火穢は伝染しないらしい)。

一方、後代のイメージとは逆に、流血はそのものは穢ではなく、また殺人者も持続的に穢とは見なされていない(死体に触れたら穢であるが、殺人という行為は穢ではない)。

また、妊娠中の女性は穢であるとする説と穢ではないとする説の両方が当時あり、議論があった。さらに、六蓄以外の野生動物の死体は穢ではない、とされるものの、いや猪は六蓄だ、など当時の人も甲論乙駁の議論をしている。

穢というものは実に難しく、当時の人も自然に理解していたのではないのである。

先述の通り穢は伝染するのであるが、これも一筋縄ではないルールがある。まず穢は発生源から2回伝染する。甲の場所が穢になっていたとすると、そこに入った乙は穢となり、乙がいる場所に来た丙はまた穢となってしまう。しかし丙のいる場所に丁が来ても、伝染は2回までなので丁は穢とならない。この原則自体は簡単だが、いろいろなケースで「これは穢となるかどうか」が議論されることは珍しくなく、貴族たちはそのたびごとに明法博士・明法家に頼った。はっきりしない時は「勅断によるべき」とも考えられていた。

また、穢は開放空間では伝染せず、穢となるのは閉鎖空間(垣で囲まれるなど)であることも重要だ。よって道路に死体が落ちていてそこを通っても穢にはならないが、野犬が死体の一部を垣の内に咥えてきたら、家の敷地全体が穢になる。そして面白いことに、穢所(穢に汚染されたところ)に行っただけでは穢は伝染せず、着座しなければ穢を避けることができる。

さらに、穢はモノにも伝染するが、全てのモノが穢を伝えるのではない。穢を伝えるモノは、穢所で作られた食物や、函や櫃などの容器、軸に巻かれた文書、衣服や身につける品などに限られる。だから、死を伝える文書を収めた函は、文書そのものは(軸に巻かれていなければ)穢ではないが函は穢になる、などは意味がよくわからない。それから、水は流れていれば穢にならないが、たまった水は穢になる(池や井戸に死体があった場合など)。

不可解なのは、死穢の日数は葬儀の日から起算するとされたり(現実には死んだ日から起算することも一般的だった)、認識していない汚物は穢をもたらさず、認識した時から起算するとされたりしていることだ。当時の人にとってもこれらの規則はややこしく、穢であるかどうか大外記に問い合わせたりしている。

このように、穢は多分に観念的な存在である。著者はその本質を、社会的な秩序を乱すものと考える。よって天皇に反逆したり神に対する冒涜も穢である。また着座しなければ穢が伝染しないなど、社会的関係・接触の深さに穢は関係している。とはいえ服喪とは違い、穢の場合はあくまでも物質的に死体等に接触したかどうかが問題なのだ。

穢を避けるため、下女や下僕が死にそうになると、主人はしばしば彼らを追い出した。家で死なれると死穢で30日間も謹慎が必要になるからだ。それも一因で平安京の路頭には死体がたくさん放置されていたのだ。国家はたびたび検非違使にその清掃を命じている(が、そのために検非違使は穢になってしまうのにいいのだろうか)。

さて、では穢になってしまうと、謹慎以外に何か不利益があるのだろうか。内裏など公的施設の穢は、皇太子の体調不良、天候不順、物怪の出現などの原因になると考えられていた。穢を許したことに対する神の怒りが皇族に向けられ神罰が下る、という理屈らしい。ただし、これは因果関係が後付けされていたに違いなく、「実際には病気とか物怪、天変地異などの知覚されうる現象が起こったときに、その原因を求めたら、穢に触れるようなことがあった、というのが一般的な認識の順序である(p.112)」。何か異変があったときは陰陽師がこれを占い、どこそこに穢がある、などといってその原因を確定させた。

穢が厳重に避けられたのは神事の際の内裏と諸社であるが、これは先述の通り神事・祭礼・儀式に差し障りがあるからだ。「触穢による神事や儀式の中止・延期は、記録されているだけでも枚挙に遑がない(p.132)」。よって穢を避けるため、「不浄の人来るべからず」という札が立てられるなどした(『小右記』寛仁元年(1017)7月1日)。これはやがて神事札として確立していくことになる。

なお、次第に穢は心の在り方にまで敷衍して考えられ、人間の内面的態度を問う考え方の延長に「おそらく伊勢神道の教説にみられる「心清浄」のように、清浄・不浄を(中略)人間の内面的態度にも適用するという発想が生まれてくるのであろう(p.149)」。

ところでいつから穢が気にされたのかというと、史料的に明らかなのは9世紀からで、10世紀からは事例が膨大になる。高取正男は8世紀末から9世紀にかけてではと考えたが、著者は史料に残っていないだけで記紀の頃から穢を気にする意識はあったのではという。

本書の次のテーマは大祓(おおはらえ)で、これと穢との関連が検討される。従前、大祓は穢のために行われるものと漠然と考えられていた。ところが史料を注意深く見てみると、大祓と穢は直接の関連がないことが明らかになった。確かに臨時の大祓が行われるに先立って穢のことが問題になった事例は多い。ところが、これは神事が穢によって延期されたことが要因で大祓が行われたと考えられるのである。これまで、穢=罪という先入観があり、罪を祓うために大祓が必要とされたのだろう、と考えられてきたのであった。しかし大祓によっても穢は消滅(または期間が短縮)することはないことも、穢と大祓に直接の関係がないことを示している。大祓はあくまで犯した罪を謝罪するためのものであるというのが著者の考えである。

では罪とは何か。現代的な罪だけでなく、天災や病気などの災いも罪と見なされた。なぜそれらが罪であるかというと、何らかの瀆神的行為があり、それによって天災や病気が起こったのだ、と考えられたからではないかと著者はいう。その意味で「災い」と「罪」は同じものだった。

また、大祓が罪を謝罪するものであるといっても、特定の罪がない大祓(6月と12月に行われる定例の大祓)は何のために行われたのか。それは、特に悪いことをした意識がなくても(あるいは顕在化しなくても)人間は罪を犯すという考えがあったために行われたのではないかという。「儀礼それ自体の目的は、あくまでも国土の浄化による神との関係の確認・再確立、またそれによる国土の再生にあったのだと考える(p.226)」。

大祓はどこで行われたか。平安京以前は大祓が行われたのが「天下諸国」などとされて明確でない。平安京では、朱雀門、建礼門、八省院(東廊)その他であり、逆に全国的な大祓の挙行は消える。ともかく意外なのが、大祓は門とか廊といった、通常の儀式とは違う場所でやるということで、その他の場合も庭とか路といった事例が散見される。本書では場所の分類のみで終わっており、このような場所にどのような意味があったのかはあまり考察されていないが興味深い。

なお大祓については、本書を読みながら、仏教の悔過(けか)・懺悔(さんげ)の影響が大きいのではないかと感じた。

最後に、補論として「仏教と穢」の項目があり、ここでは往生するためには五体満足でなければならないという観念、穢を乗り越える仏教理論の動きなどが考察されているが詳細は割愛する。

なお、本書は穢や大祓、罪といったことを考える端緒にギリシアの場合が参照されるなど、全体として広い視野で考察している。が、私は本書を読みながら、著者の考えには疑問を持たざるを得なかった。その疑問は、著者が穢をあくまで宗教的な「ケガレ」として分析しているという一点に集約される。穢は「エ」という法律的概念と捉えた方がよいのではないか。

というのは、著者は穢について「様々な規則や禁忌が存在し(p.10)」たというが、規則は多くても「禁忌」があったのだろうか。穢を規定していたのは常に規則であり、宗教的な禁忌があったようには感じられない。人々は穢か穢でないかを議論し、明法家や大外記に頼ったが、それは穢が法律的な問題であったことを示唆している。もちろん、人々は陰陽師にも頼ってはいた。だがそれは怪異があった時の原因を占ってみると、それはどこそこの穢が原因であった、というように、見えない因果関係を探す時が多い。少数ながら、穢を陰陽師に払ってもらうということもあったが、にしても、穢であるかどうかを陰陽師には聞いていない。穢はあくまでも法律に規定されたものであり、いわゆる宗教は関係なかった、というのが本書により明らかであると思う。

ここで注目されるのが、『中右記』に記されたある事例(p.158)。そこでは神事(臨時祭)をやった後で穢があったことを申し出たことに対し、「もし隠すなら最後まで申し出るべきでない」と『中右記』の著者は記している。これなどは、もし穢が本当に宗教的概念であれば出てこない言葉ではなかろうか。また、汚物は認識した時から穢を起算するというのもそれを示唆する。宗教的なケガレであれば、人間が認識しようがしまいが、そこに存在するはずだ。

貴族たちは穢を避けるためにいろいろな便法を生みだしていくのであるが、穢に関する言説は一見迷信的に見えて、貴族たちはかなりドライなのである。おそらく「五体不具穢」も、死体が散乱していた平安京で死穢がそうしばしば適用されては仕事に差し障りがあるということから、「五体満足揃っていない死体は穢も軽いはずだ」という理屈で謹慎期間を軽減するために生みだされたものなのだろう。

本書は、穢について初めて実証的に明らかにした本であり、画期的な意義を有している。しかしながら、その概念の分析においては「穢は宗教的な禁忌にまつわる概念である」という先入観から自由になっていないことが素人ながら気になった。

穢の実態を初めて明らかにした労作。

【関連書籍の読書メモ】
『死者たちの中世』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/10/blog-post_9.html
中世、多くの死者が墓地に葬られるようになる背景を説き明かす本。本書がかなり参照されている。思想面は手薄だが、中世の葬送観について総合的に理解できる良書。

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2023年11月19日日曜日

『『日本書紀』の呪縛 (シリーズ<本と日本史>①)』吉田 一彦 著

『日本書紀』とはどういう本か述べる本。

『日本書紀』ほど日本に大きな影響を与えた本はないだろう。それは神話と歴史を述べて国の形をつくった、まさに「正典」であった。

であるだけにその研究は自由に行うことができず、大正期に行われた津田左右吉の研究を例外として、戦前ではその存在に率直にメスが入れられることはなかった。

戦後には『日本書紀』を自由に研究することが可能になり、飛躍的に研究が進展。『日本書紀』は神話や歴史そのものを記載したというよりも、かなり創作が入っていることが明らかになり、また厳密な史料批判によってどのように『日本書紀』が成立したかもわかってきた。しかしながら、未だに『日本書紀』は正典に准じた立場を失っていない(これが著者のいう「呪縛」)。

そこで本書では、そうしたこれまでの研究の蓄積を平明にまとめるとともに、『日本書紀』がどんな本なのかを批判的に検証し、それを相対化する試みを行っている。

「第1章 権威としての『日本書紀』」では、『日本書紀』の位置づけが時代によって変わりつつも、常に高い権威を持っていたことが述べられる。戦後、『日本書紀』の記述全てを事実と見なす態度は改められたが、坂本太郎は古代史を『日本書紀』に従って構成し、これが大きな影響力を持った(著者は「坂本パラダイム」と呼ぶ)。しかしそれは勝者の歴史に過ぎないのだ。

「第2章 『日本書紀』の語る神話と歴史」では、その成立が検証され、神話と歴史の特徴が述べられる。それは、国の統治権が血統によって継承されてきたということだ。そこでは天照大神から神武天皇へ、そして歴代天皇へと「万世一系」で国が譲られてきた。しかし継体天皇は血のつながりがないという理解が有力で、「万世一系」は虚構である。しかし『日本書紀』の編纂者たちは天皇統治を正当化するためこれを押し通した。『日本書紀』は「一言で言って、天皇の歴史を記した書物(p.42)」であり、「「天皇」という存在を歴史的に説き明かすことを目的にして作成された書物(同)」なのである。

「第3章 『日本書紀』研究の歩み」では、その研究史が概括される。まず津田左右吉の説が振り返られ、(1)神武天皇から仲哀天皇までは事実として認めがたく、(2)天武・持統天皇のあたりは実録だが、(3)十七条の憲法は聖徳太子の作ではない、(4)大化改新は後世の脚色で事実でない、といった説が首肯できるものとして紹介される。

戦後、これを受けて大化改新の文が『大宝令』に基づくものであること、「公地公民」の概念は同時代になく戸籍や班田も後世の付加であること、『日本書紀』の最初期の年号(大化、白雉、朱鳥(あかみとり))は創作であること、聖徳太子自体が中国の理想的な聖天子像に合致するよう創作された疑いが濃厚であることなどが明らかになった。

さらに、『日本書紀』が中国の典籍から文を借用して作られていることは古代から知られていたが、実際の元ネタがかなり明らかになった。どうやら梁の時代の類書(テーマごとに多くの書物から文章を抜き出したもの)である『華林遍略』や唐の時代の『文館詞林』がかなり参照されているようだ(池田昌弘)。要するに『日本書紀』の文章は孫引きで作られたものらしい。また、複数の仏典も参照されており、その作業をしたのは僧の道慈だと著者は述べている。

そして『日本書紀』の紀年に矛盾が多いこともこれも以前から知られていたが、『日本書紀』の紀年が人為的に設定されたものであることも明らかになった。さらに、『日本書紀』の用語用事の使い方を詳細に分析することで、複数の編纂者たちが、α群(巻14~21、24~27)、β群(巻1~13、22~23、28~29)、巻30の3つの区分で担当したことが明らかになった(森 博達)。

「第4章 天皇制度の成立」では、「天皇」の意味が再考される。「天皇」は中国の皇帝が称した称号の一つで(津田左右吉、渡辺茂)、明らかに中国風制度を日本に導入し、倭王の存在を皇帝に擬(なぞら)える目的で導入された。それは天武期の途中または持統期とみられ、著者は持統天皇が「天皇」を初めて名乗った天皇と考える。とすれば天皇の最初は女帝だった。中国風制度とは律令体制を意味し、都城・法の支配・官度制などがまとめて導入された。「天皇」号は、単に倭王の呼び名が変わったのではなく、新たな「日本王朝」の創始の意味を持った。そしてアマテラスと伊勢神宮が7世紀末に成立したこともそこにつながっている。

「第5章 過去の支配」では、『日本書紀』が王朝の正統性をどのように支えたかがまとめられる。天皇制が成立して、初めて「大宝」という年号が設定された。『日本書紀』は<時間の支配>のために作成された書物でもあった。「天壌無窮の神勅」によって未来にわたり日本の支配者は天皇であることが述べられるとともに、天皇を支える各氏族も神話的に位置づけられた。特にアマテラスとニニギは持統天皇→文武天皇、元明天皇→聖武天皇、という祖母→孫の権力継承を正当化するための創作神話であり(黛弘道)、そこにはその外戚であった藤原不比等の意向が大きく働いていた。また神勅の文言も仏教文献に出てくる「宝祚長久」祈願の影響を受けている(家永三郎)。さらにアマテラスは持統3年(689)から文武2年(698)にいたる10年間で天皇家の祖先神となっていったとされ(筑紫申真(のぶざね))、高天原の概念も持統期から文武天皇即までに成立したものであった(大山誠一、青木周平)。

このように、日本王朝の創始にあたり、<あったはずの過去>を設定するために、7世紀末~8世紀初頭につくられたのが『日本書紀』の神話・歴史だった。神の子孫である天皇家が、万世一系で日本を治めてきたという「唯一の過去」がここで制定されたのである。

「第6章 書物の歴史、書物の戦い」では、『日本書紀』を人々がどう受容し、または反発したかが述べられる。前章までのように『日本書紀』が国家の正典として制定されると、その記述が貴族たちの権威の基準にもなった。例えば忌部氏は『日本書紀』では中臣氏と並んで祭祀(伊勢神宮への幣帛使)に携わっているが、8世紀中頃以降に力を弱めて幣帛使から外された。その挽回を図るために忌部(斎部)氏は中臣氏を訴えて訴訟は3回に及び、『日本書紀』が根拠になって忌部氏の主張はほぼ認められた。そして斎部氏の立場をさらに強固にするため、斎部広成は『日本書紀』が漏らしたことを記録するという立場で『古語拾遺』を著した。自分たちに有利になるように歴史認識を修正しようと試みたのである。その際、口承で伝えられてきた「古さ」が正しさの論拠となった。

「第7章 国史と<反国史><加国史>」では、『日本書紀』の記述に不満があった貴族たちが独自に家の歴史を編纂していったことが述べられる。それらは「家牒」「家伝」などと呼ばれ、『日本書紀』に述べられていない歴史を記録するものであった。貴族たちは『日本書紀』の枠組みの中で、「それに追加したり、あるいはそれに反論したり、さらにはそれを書き換えるような歴史を主張した(p.130)」。

「第8章 『続日本紀』への期待、落胆と安堵」では、『続日本紀』への貴族たちの対応が述べられる。上述のように、『日本書紀』には様々な面で不満をいだく貴族がいたのであるが、続く歴史書『続日本紀』は、『日本書紀』の枠組みを前提として、史料に基づいて法制度や任官といった記録を淡々と記録するものだった。これには、落胆するものもいれば安堵するものもいたが、落胆したものたちの声を受けて政府が作ったのが『新撰姓氏録』である。それは貴族たちが提出した家の記録を元に、氏族間の利害を調整して作成されたものである。

「第9章 『日本書紀』の再解釈と偽書」では、『日本書紀』がどう読まれたかが述べられる。奈良平安の頃、政府は『日本書紀』を購読する勉強会を開催しており、その記録が『日本紀私記』として残っている。それによれば、漢文で書かれた『日本書紀』を日本風に読み下すことに重点が置かれており、日本のアイデンティティを形成・確認する試みであったといえる。さらに文献の古さが根拠として求められた結果、いろいろな古い書物が後世に偽作されることとなった。

「第10章 『先代旧事本紀』と『古事記』」では、『日本書紀』と並ぶ古典が概説される。 文献の古さが権威と思われたことでつくられたのが、聖徳太子撰という触れ込みの『先代旧事本紀』である。これは「『古事記』の記述を強く意識して、これに対抗し、『古事記』を批判しようと考えて創作(p.174)」されたと思われるもので、室町時代までは日本最古の歴史書として権威を持った。江戸時代にはこれが疑われ、今では平安時代初期に作成された偽書であると考えられている(坂本太郎ほか)。内容が物部氏に有利であることから物部氏の系統の誰かであることは確実で、著者は矢田部公望としている。なお、『古事記』は江戸時代から偽書説もあるが、本居宣長がこれを研究して高い評価を与えたことで『日本書紀』と並ぶ地位に押し上げられた。しかし『古事記』は『日本書紀』を見て書かれたものらしく(梅沢伊勢三)、その成立を解明することは今後の重要課題の一つである。

「第11章 真の聖徳太子伝をめぐる争い」では、『日本書紀』の記述を訂正していこうとする動きを聖徳太子伝をケーススタディとして見ている。意外なことに『日本書紀』では、法隆寺が聖徳太子による創建されたものだという記述はない。しかし法隆寺は聖徳太子創建であることを誇り、『上宮聖徳法王帝説』という伝記を作っている。他に四天王寺と広隆寺も聖徳太子の伝記を作った。仏教興隆の立役者として聖徳太子を顕彰し、その権威を借りようとする動きが活発になったのだ。それらの伝記は、しばしば『日本書紀』の記述を訂正・加上・否定するもので、伝承の古さを根拠にしていた。

「第12章 『日本霊異記』—仏教という国際基準」では、『日本書紀』のカウンターカルチャーとしての『日本霊異記』が紹介される。『日本書紀』と一線を画したはじめての書物が『日本霊異記』である。仏教は、日本の歴史とは違う別の文明からの視角を準備した。それは中国仏教に対抗し、日本にも仏教の「奇事」があることを主張しつつも、自国の歴史ではなく大陸の仏教や経典、僧尼にその価値の源泉が置かれたのである。これは歴史書ではないが、『日本書紀』的なものとは全く別の価値観・世界観もあったことを示している。

「終章 『日本書紀』の呪縛を越えて」では、これまでの見解がまとめられ、『日本書紀』はありのままの歴史が書かれた書物ではないことが解明されながら、それでも規範性を失っていないことが改めて指摘される。 その「呪縛」を乗り越え相対化するため、さらなる徹底的な研究が期待されるとして擱筆されている。

本書は全体として、これまでの厖大な『日本書紀』研究を端正にまとめており、記述の密度が高いのにもかかわらず非常に読みやすい。私は『日本書紀』に関する本はいろいろ読んできたが、この本を最初に読みたかったと思ったくらいである。

『日本書紀』の成立とそれにまつわる言説を平明に述べた良書。

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2023年11月17日金曜日

『伊勢神宮の成立』田村 圓澄 著

伊勢神宮・天照大神がどのように出来上がったか推測する本。

伊勢神宮は古代以来、朝廷・皇室によって最も貴ばれた神社であるが、その成立は謎に包まれている。というより、意外と古い歴史がないようなのだ。では伊勢神宮が、どうして国家の宗廟となっていったのか。著者は主に『日本書紀』に拠り、慎重に伊勢神宮の成立を考察している。

天照大神は、日本神話の中心的な神であるが、『日本書紀』の古い部分には存在していない(※『日本書紀』は記事が「一書」の形で挿入されているが、それを分析すると段階的に成立したことが知られる)。古い神はタカミムスビノ神で、天孫降臨も原初的記事ではタカミムスビが命じるものとなっている。倭王が奉じていたのも、タカミムスビであった。

ではいつ天照大神はタカミムスビと入れ替わったのか。天照大神は、『日本書紀』では他に「日神」「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」「天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)」の4つの名で記載されている。このうち古態を示すのが「日神」で、雄略期ごろに伊勢地方の地方神に「日神」が重ねられ、「日神」(伊勢大神)→「大日孁貴」(日神を祀る巫女の神格化)→天武期に「天照大神」となって伊勢に祀られたらしい。

天照大神が祀られたことが明確なのが、持統天皇の即位式で中臣大嶋が奏上した「天神寿詞」。 『日本書紀』の新しい部分では、天孫降臨説話で中臣・忌部氏の祖先神が随伴しており、天照大神の成立にあたって中臣・忌部氏が影響したことが示唆される。

天照大神の前に大和で信仰された中心的な神はおそらく三輪神であった。しかし三輪神があくまでも三輪山の土地神であったために新しい国家体制にそぐわず、天照大神にその地位を譲った。

天照大神が登場したのは、『日本書紀』によれば天武元年(672)6月。壬申の乱に際して大海人皇子(後の天武天皇)の「直観と自覚を通じて」その原像があらわれたのだ、と著者は考える。

天照大神が誕生した要因を私なりに3つにまとめると次の通りである。

第1に、天皇の存在を神話・歴史によって説明すること。特に天皇が天照大神の子孫であることがその核となり、天皇は「明神」となった。ムスビ(生産力)の神であるタカミムスビではその役割が果たせない。『金光明経』に説かれる「帝王神権説」がその背景にあったのではないかという。

第2に、持統天皇→文武天皇の祖母→孫の継承を正当化し、日嗣の法(直系で天皇の地位を継承していく法)を確立すること。

第3に、律令国家構想の中心的イデオロギーとして、「国家」・「国土」の観念とそれを天皇の所有に帰する理論を提供することである。律令国家は公地公民であるが、それまでは地方豪族が土地や人々を私有しているという感覚が当然だったであろう。これを打破するための理屈が、日本という「国家」とその「国土」は、天照大神によってその子孫に永遠に譲られたとする神話であった(天壌無窮の神勅)。『日本書紀』では天皇に「天の下治しめす天皇」などと、天皇の統治者としての性格が執拗に強調されているが、これはその傍証だ。

要するに、国家統治のために生みだされたのが天照大神であり、それは「政治的な神」であった。

では、具体的には天照大神はどう祀られたのか。律令制では神祇官が置かれ、「天神地祇」を祀った。全国の豪族が祀っていた神を序列化し、班幣(幣を頒つ)などによって国家と関連付け、その序列の最高位に天照大神を置いた。律令制を神のレベルで支えたのが神祇官であり(これは中国の律令制にはない組織)、その主神が天照大神だったのである。

一方、伊勢神宮はいつ創建されたか。はっきりとはわからないが、持統2年(688)の第1回目の式年遷宮とされる時が、社殿の創建の時期であると著者は考える。これは藤原京の造営開始時期と連動したものであったと推測される。そして文武2年(689)、『日本書紀』ではじめて「伊勢大神宮」の文字が登場する。ここが伊勢神宮の成立の時であるという。

伊勢神宮が特徴的なのは、正殿を五重もの垣が取り囲み、皇室から伊勢へ派遣された皇女(斎内親王)ですら第二重までしか進むことができず、それ以外の神官に至っては第三重どまりであった。そして伊勢神宮には拝殿もない。これは、伊勢神宮が「天皇ただ一人のための神宮(p.224)」であったためだと考えられる。天皇自身は伊勢に参拝することがなかったために拝殿は必要なかったのだ。

ちなみに当初の祭主を務めたのは中臣氏で、特に中臣大嶋(おおしま)は天照大神の形成と祭祀に深くかかわったと考えられる。一方、忌部氏は社殿の造営に携わり、心御柱の用材の伐採・造形には忌部氏が独占的に携わった。他、禰宜を世襲した荒木田氏、豊受宮(外宮)の禰宜を世襲した渡会氏がいる。

ところで、神祇官が行う祭りの中で最も重要だったのが践祚大嘗祭である。祭祀は斎の期間により大祀・中祀・小祀に分けられるが、践祚大嘗祭は唯一の大祀であり、一月の斎を要した。『日本書紀』における即位礼としての「大嘗」の初見は持統5年(691)で意外と新しく、おそらく持統天皇がこれを初めて行った。それまでの倭王の即位は単なる地位の継承であったが、ここに天照大神により委任された統治権を受け継ぐという神権的意味が付与され、「天皇」即位という画期的な意義が生まれたのである。

中祀には、祈年祭、月次祭、新嘗祭、神嘗祭の4つがある。このうち祈年祭と月次祭は、「天神地祇」を祀るもので(ちなみに大嘗祭も天神地祇を祀る)、祈年祭では3132座の神、月次祭では304座の神を祀る。神祇官は天照大神の権威を使って、全国の神々を祀る(=祭祀権を持つ)ことができたのである。なお新嘗祭は、古いムスビノ神の祭りの名残と考えられる(伊勢神宮への奉幣がない)。

天照大神・伊勢神宮の成立は、単なる一神社の創建ではなく、「天皇」・「日本」・「天照大神」の三位一体で考えなくてはならない。天照大神の登場と軌を一にして倭→日本、倭王→天皇、という転換が起こり、天皇制国家が誕生した。天照大神は「天皇による日本統治のみにかかわる神(p.313)」であり、臣・民の神ではなかった。五重の垣に守られて、人々は伊勢神宮正殿に近づくことはできず、私に幣帛を封建することは重い禁断であった。

本書は全体として、細かい項目ごとに考察していくスタイルをとっていること、『日本書紀』がフリガナ(と送り仮名)がない漢文で引用されることから、なかなか読みにくいものである。とはいえ、考察が延々と続くわけではなく、項目ごとで見れば簡明で、史料に基づいて、あまり想像を交えずに結論を出していることから論旨は堅牢である。

ただ、少し気になったのは、明らかに上山春平『正・続 神々の体系』に影響されているように見えるのに、参考文献には一切挙げられていないことだ。『続・神々の体系』で述べられた「神祇革命」のアイデアは、本書によりほぼ論証されたと言える。上山がアイデア的に書いていたことが正しかったのである。著者の田村圓澄は、上山が専門の古代史家ではないので参考に値しないと判断したのではないかと思われるが、『正・続 神々の体系』を結果的に無視した形になったことは奇異な感じがした。

また、『正・続 神々の体系』で強調されながら、本書ではほとんど触れられないのが、天照大神のデザインにあたって藤原不比等が大きく影響しているのではないかという説である。藤原不比等が実際にどのくらい影響しているのかを実証的に述べることはできないとはいえ、影響があること自体は明白だ。本書は、実証的であろうとするあまり、意図的に藤原不比等の存在から避けているように見受けられる。

もう一つ不十分だと感じたのが、本書では豊受宮(外宮)は考察から外す、という立場であることだ。しかも、なぜ外宮を考察から外すのかは全く説明がない。伊勢神宮の特徴は内宮と外宮がセットとして存在していることなのだから、合理的な理由なく外宮を考察外にしたのは、重大な瑕疵のように感じた。

そのような欠点も散見されるものの、天照大神の成立を『日本書紀』の丁寧な読解で明らかにした堅牢な本。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/10/blog-post_30.html
日本神話編集の背景を推測する本。藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

『続・神々の体系―記紀神話の政治的背景』上山 春平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/11/blog-post.html
前著『神々の体系』を補完する本。記紀神話を新たな視点で読み解いた先駆的な著作。

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2023年11月4日土曜日

『続・神々の体系―記紀神話の政治的背景』上山 春平 著

前著『神々の体系』を補完する本。

著者は『神々の体系』で、記紀―『古事記』『日本書紀』―が藤原氏専制体制の確立のための神話として編纂されたことを主張した。しかしそれはいわばアイデア段階のものとして提示され、論証はさほど丁寧ではなく、古代史家からの反論もあった。そこで本書では前著を補完し、改めてその政治的背景を考察している。

私自身、前著の記述はいまいち全体のつながりがよくわからないところがあった。特に著者が述べる神々の体系、

アメノミナカヌシ→
【高天の原】イザナギ→アマテラス→ニニギ
【根の国】イザナミ→スサノオ→オオクニヌシ
→イワレヒコ(神武天皇)

が、どのように藤原氏専制体制に結びつくのかが前著では不明確だと感じていたのである。本書では、この体系の中に藤原氏の奉ずる神がどう包摂されているのかがまず述べられる。

すなわち、藤原氏の祖先神であるアマノコヤネとタケミカヅチがニニギの天孫降臨で付き従った神として描かれ、しかも『日本書紀』では妙に大活躍していることが指摘される。藤原氏は元来は中臣氏で、藤原不比等の頃に”祭祀をつかさどる中臣氏”と”政治に携わる藤原氏”に改めて分かれた。この際、中臣氏=アマノコヤネ、藤原氏=タケミカヅチと祖先神が整理され、中臣氏と藤原氏の分業体制が確立したと著者は考える。

これは神祇官と太政官が並立することとも無関係ではないだろうという。さらには、『古事記』と『日本書紀』の二本立ては、記が古代豪族への配慮、紀が律令制原理の貫徹を意図するという目的を持ち、中臣氏と藤原氏の分業体制を反映して編纂されたものだというのである(これはやや強引な見方で、本書の後半で著者自身により少し修正されているが細かい話なので割愛する)。

次に、高天の原と根の国の対立と統合については、前著ではその意味があまり描かれていなかった(なお、本書では「タカマノハラ」「ネノクニ」とカタカナ表記になっている。表記を変えた理由は不明)。本書では、高天の原は律令制原理、根の国は氏姓制を象徴するものとし、根の国は「黄泉の国」がいつのまにかすり替えられて、社会的な死者の国に変貌したものであるとする。大王家に服属したものたちが根の国系、大王の仲間たちが高天の原系と整理されて、服属が天孫降臨によって正当化されたというのである。

さらに著者は、記紀編纂のリーダーが藤原不比等であったことや、記紀の編纂年代(6世紀か8世紀か。著者は8世紀説をとる)、天皇という称号の成立の意味についての論証をしているが、いずれも状況証拠の域を出ないものであると感じた。

ともかく、こうした考証を経て、著者は大化改新の際に「神祇革命」が起こったと主張する。その内容は、高い神格を持っていたオオナムチがオオクニヌシの別名とされて根の国に位置づけられる一方、三輪山の神が一豪族の神から国家最高神に生まれ変わって伊勢に祀られるなど、神体系の組み換えが行われたとするものである。

つまり伊勢神宮は、古代律令制の確立に伴って新しく創建されたものなのだ。しかるに伊勢神宮の神事を『皇大神宮儀式帳』(平安時代に書かれたもの)で見てみると、それは「唐文化の影響をもろにうけた天平文化のおもかげを鮮やかに伝えて(p.152)」おり、「伊勢の伝統的神事が、「国粋的」というよりはむしろ「国際的」な色彩を濃厚に帯びている(同)」。さらに著者は神宮の歴史を供犠や遷宮、宮司・祭主・禰宜などの制度の変遷を簡単に振り返り、そうしたものが藤原・中臣氏の影響があったことで整合的に理解できると主張している。

すなわち、律令国家の成立にあたって、国家の側は各地に残る神話や神々を国家的レベルで統合することを企図し、国家(と藤原氏)に都合の良いように体系化した。さらに三輪山の神を辺境の地である伊勢に祀って国家最高神とした。こうしたことが7世紀の後半に行われたというのである。

本書は全体として、状況証拠を積み重ねていく形で論考が進んでいくので、「そうかもしれないが、その確たる証拠はない」という主張が多い。特に記紀の編纂については、やや単純化して考察しているように感じた。例えば、それらが藤原不比等のリーダーシップでまとめられたにしても、なぜ記紀二本立てにされたのかということを、中臣・藤原分業体制に求めるのは少し強引な気がした。そこには定量的・言語学的な分析が何もないためである。

「神祇革命」についても、仮に著者が主張する神話・神統譜の組み換えがあったとしても、それを藤原不比等の作為と比定しうるだけの根拠はなく、単に「天皇家の支配を正当化するため」で十分に説明できるように思う。

一方、そうした欠点を挙げることはできるが、それまでにない視点で神話の構造を考究したという点では、本書は大きな価値を持っている。また「神祇革命」自体については、その眼目が藤原不比等の企みではなかったにせよ、かなり確からしい説であると思われ、面白く読んだ。伊勢神宮の歴史についてはさらに調べてみたいと思う。

記紀神話を新たな視点で読み解いた先駆的な著作。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の体系—深層文化の試掘』上山 春平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/10/blog-post_30.html
日本神話編集の背景を推測する本。藤原氏独占体制と日本神話との関係を探った重要な本。

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