2023年11月19日日曜日

『『日本書紀』の呪縛 (シリーズ<本と日本史>①)』吉田 一彦 著

『日本書紀』とはどういう本か述べる本。

『日本書紀』ほど日本に大きな影響を与えた本はないだろう。それは神話と歴史を述べて国の形をつくった、まさに「正典」であった。

であるだけにその研究は自由に行うことができず、大正期に行われた津田左右吉の研究を例外として、戦前ではその存在に率直にメスが入れられることはなかった。

戦後には『日本書紀』を自由に研究することが可能になり、飛躍的に研究が進展。『日本書紀』は神話や歴史そのものを記載したというよりも、かなり創作が入っていることが明らかになり、また厳密な史料批判によってどのように『日本書紀』が成立したかもわかってきた。しかしながら、未だに『日本書紀』は正典に准じた立場を失っていない(これが著者のいう「呪縛」)。

そこで本書では、そうしたこれまでの研究の蓄積を平明にまとめるとともに、『日本書紀』がどんな本なのかを批判的に検証し、それを相対化する試みを行っている。

「第1章 権威としての『日本書紀』」では、『日本書紀』の位置づけが時代によって変わりつつも、常に高い権威を持っていたことが述べられる。戦後、『日本書紀』の記述全てを事実と見なす態度は改められたが、坂本太郎は古代史を『日本書紀』に従って構成し、これが大きな影響力を持った(著者は「坂本パラダイム」と呼ぶ)。しかしそれは勝者の歴史に過ぎないのだ。

「第2章 『日本書紀』の語る神話と歴史」では、その成立が検証され、神話と歴史の特徴が述べられる。それは、国の統治権が血統によって継承されてきたということだ。そこでは天照大神から神武天皇へ、そして歴代天皇へと「万世一系」で国が譲られてきた。しかし継体天皇は血のつながりがないという理解が有力で、「万世一系」は虚構である。しかし『日本書紀』の編纂者たちは天皇統治を正当化するためこれを押し通した。『日本書紀』は「一言で言って、天皇の歴史を記した書物(p.42)」であり、「「天皇」という存在を歴史的に説き明かすことを目的にして作成された書物(同)」なのである。

「第3章 『日本書紀』研究の歩み」では、その研究史が概括される。まず津田左右吉の説が振り返られ、(1)神武天皇から仲哀天皇までは事実として認めがたく、(2)天武・持統天皇のあたりは実録だが、(3)十七条の憲法は聖徳太子の作ではない、(4)大化改新は後世の脚色で事実でない、といった説が首肯できるものとして紹介される。

戦後、これを受けて大化改新の文が『大宝令』に基づくものであること、「公地公民」の概念は同時代になく戸籍や班田も後世の付加であること、『日本書紀』の最初期の年号(大化、白雉、朱鳥(あかみとり))は創作であること、聖徳太子自体が中国の理想的な聖天子像に合致するよう創作された疑いが濃厚であることなどが明らかになった。

さらに、『日本書紀』が中国の典籍から文を借用して作られていることは古代から知られていたが、実際の元ネタがかなり明らかになった。どうやら梁の時代の類書(テーマごとに多くの書物から文章を抜き出したもの)である『華林遍略』や唐の時代の『文館詞林』がかなり参照されているようだ(池田昌弘)。要するに『日本書紀』の文章は孫引きで作られたものらしい。また、複数の仏典も参照されており、その作業をしたのは僧の道慈だと著者は述べている。

そして『日本書紀』の紀年に矛盾が多いこともこれも以前から知られていたが、『日本書紀』の紀年が人為的に設定されたものであることも明らかになった。さらに、『日本書紀』の用語用事の使い方を詳細に分析することで、複数の編纂者たちが、α群(巻14~21、24~27)、β群(巻1~13、22~23、28~29)、巻30の3つの区分で担当したことが明らかになった(森 博達)。

「第4章 天皇制度の成立」では、「天皇」の意味が再考される。「天皇」は中国の皇帝が称した称号の一つで(津田左右吉、渡辺茂)、明らかに中国風制度を日本に導入し、倭王の存在を皇帝に擬(なぞら)える目的で導入された。それは天武期の途中または持統期とみられ、著者は持統天皇が「天皇」を初めて名乗った天皇と考える。とすれば天皇の最初は女帝だった。中国風制度とは律令体制を意味し、都城・法の支配・官度制などがまとめて導入された。「天皇」号は、単に倭王の呼び名が変わったのではなく、新たな「日本王朝」の創始の意味を持った。そしてアマテラスと伊勢神宮が7世紀末に成立したこともそこにつながっている。

「第5章 過去の支配」では、『日本書紀』が王朝の正統性をどのように支えたかがまとめられる。天皇制が成立して、初めて「大宝」という年号が設定された。『日本書紀』は<時間の支配>のために作成された書物でもあった。「天壌無窮の神勅」によって未来にわたり日本の支配者は天皇であることが述べられるとともに、天皇を支える各氏族も神話的に位置づけられた。特にアマテラスとニニギは持統天皇→文武天皇、元明天皇→聖武天皇、という祖母→孫の権力継承を正当化するための創作神話であり(黛弘道)、そこにはその外戚であった藤原不比等の意向が大きく働いていた。また神勅の文言も仏教文献に出てくる「宝祚長久」祈願の影響を受けている(家永三郎)。さらにアマテラスは持統3年(689)から文武2年(698)にいたる10年間で天皇家の祖先神となっていったとされ(筑紫申真(のぶざね))、高天原の概念も持統期から文武天皇即までに成立したものであった(大山誠一、青木周平)。

このように、日本王朝の創始にあたり、<あったはずの過去>を設定するために、7世紀末~8世紀初頭につくられたのが『日本書紀』の神話・歴史だった。神の子孫である天皇家が、万世一系で日本を治めてきたという「唯一の過去」がここで制定されたのである。

「第6章 書物の歴史、書物の戦い」では、『日本書紀』を人々がどう受容し、または反発したかが述べられる。前章までのように『日本書紀』が国家の正典として制定されると、その記述が貴族たちの権威の基準にもなった。例えば忌部氏は『日本書紀』では中臣氏と並んで祭祀(伊勢神宮への幣帛使)に携わっているが、8世紀中頃以降に力を弱めて幣帛使から外された。その挽回を図るために忌部(斎部)氏は中臣氏を訴えて訴訟は3回に及び、『日本書紀』が根拠になって忌部氏の主張はほぼ認められた。そして斎部氏の立場をさらに強固にするため、斎部広成は『日本書紀』が漏らしたことを記録するという立場で『古語拾遺』を著した。自分たちに有利になるように歴史認識を修正しようと試みたのである。その際、口承で伝えられてきた「古さ」が正しさの論拠となった。

「第7章 国史と<反国史><加国史>」では、『日本書紀』の記述に不満があった貴族たちが独自に家の歴史を編纂していったことが述べられる。それらは「家牒」「家伝」などと呼ばれ、『日本書紀』に述べられていない歴史を記録するものであった。貴族たちは『日本書紀』の枠組みの中で、「それに追加したり、あるいはそれに反論したり、さらにはそれを書き換えるような歴史を主張した(p.130)」。

「第8章 『続日本紀』への期待、落胆と安堵」では、『続日本紀』への貴族たちの対応が述べられる。上述のように、『日本書紀』には様々な面で不満をいだく貴族がいたのであるが、続く歴史書『続日本紀』は、『日本書紀』の枠組みを前提として、史料に基づいて法制度や任官といった記録を淡々と記録するものだった。これには、落胆するものもいれば安堵するものもいたが、落胆したものたちの声を受けて政府が作ったのが『新撰姓氏録』である。それは貴族たちが提出した家の記録を元に、氏族間の利害を調整して作成されたものである。

「第9章 『日本書紀』の再解釈と偽書」では、『日本書紀』がどう読まれたかが述べられる。奈良平安の頃、政府は『日本書紀』を購読する勉強会を開催しており、その記録が『日本紀私記』として残っている。それによれば、漢文で書かれた『日本書紀』を日本風に読み下すことに重点が置かれており、日本のアイデンティティを形成・確認する試みであったといえる。さらに文献の古さが根拠として求められた結果、いろいろな古い書物が後世に偽作されることとなった。

「第10章 『先代旧事本紀』と『古事記』」では、『日本書紀』と並ぶ古典が概説される。 文献の古さが権威と思われたことでつくられたのが、聖徳太子撰という触れ込みの『先代旧事本紀』である。これは「『古事記』の記述を強く意識して、これに対抗し、『古事記』を批判しようと考えて創作(p.174)」されたと思われるもので、室町時代までは日本最古の歴史書として権威を持った。江戸時代にはこれが疑われ、今では平安時代初期に作成された偽書であると考えられている(坂本太郎ほか)。内容が物部氏に有利であることから物部氏の系統の誰かであることは確実で、著者は矢田部公望としている。なお、『古事記』は江戸時代から偽書説もあるが、本居宣長がこれを研究して高い評価を与えたことで『日本書紀』と並ぶ地位に押し上げられた。しかし『古事記』は『日本書紀』を見て書かれたものらしく(梅沢伊勢三)、その成立を解明することは今後の重要課題の一つである。

「第11章 真の聖徳太子伝をめぐる争い」では、『日本書紀』の記述を訂正していこうとする動きを聖徳太子伝をケーススタディとして見ている。意外なことに『日本書紀』では、法隆寺が聖徳太子による創建されたものだという記述はない。しかし法隆寺は聖徳太子創建であることを誇り、『上宮聖徳法王帝説』という伝記を作っている。他に四天王寺と広隆寺も聖徳太子の伝記を作った。仏教興隆の立役者として聖徳太子を顕彰し、その権威を借りようとする動きが活発になったのだ。それらの伝記は、しばしば『日本書紀』の記述を訂正・加上・否定するもので、伝承の古さを根拠にしていた。

「第12章 『日本霊異記』—仏教という国際基準」では、『日本書紀』のカウンターカルチャーとしての『日本霊異記』が紹介される。『日本書紀』と一線を画したはじめての書物が『日本霊異記』である。仏教は、日本の歴史とは違う別の文明からの視角を準備した。それは中国仏教に対抗し、日本にも仏教の「奇事」があることを主張しつつも、自国の歴史ではなく大陸の仏教や経典、僧尼にその価値の源泉が置かれたのである。これは歴史書ではないが、『日本書紀』的なものとは全く別の価値観・世界観もあったことを示している。

「終章 『日本書紀』の呪縛を越えて」では、これまでの見解がまとめられ、『日本書紀』はありのままの歴史が書かれた書物ではないことが解明されながら、それでも規範性を失っていないことが改めて指摘される。 その「呪縛」を乗り越え相対化するため、さらなる徹底的な研究が期待されるとして擱筆されている。

本書は全体として、これまでの厖大な『日本書紀』研究を端正にまとめており、記述の密度が高いのにもかかわらず非常に読みやすい。私は『日本書紀』に関する本はいろいろ読んできたが、この本を最初に読みたかったと思ったくらいである。

『日本書紀』の成立とそれにまつわる言説を平明に述べた良書。

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