2022年6月18日土曜日

『メンデルスゾーンの宗教音楽—バッハ復活からオラトリオ≪パウロ≫と≪エリヤ≫へ』星野 宏美 著

メンデルスゾーンの宗教音楽をオラトリオを中心に述べる本。

メンデルスゾーンといえば、バッハ≪マタイ受難曲≫の伝説的な復活上演で知られる。本書は、≪マタイ受難曲≫と、全曲演奏を果たせなかったバッハの≪ミサ曲 ロ短調≫について述べ、メンデルスゾーンがいかにバッハに傾倒し、その伝統を継承していこうとしたか示している。さらに自作オラトリオ≪パウロ≫と最後の大作となった≪エリヤ≫について詳細に検討し、メンデルスゾーンがこの2つのオラトリオに懸けた思いを考察している。

メンデルスゾーンはユダヤ系ドイツ人であったが、ユダヤ人の両親は子どもたちをキリスト教徒として育てる(具体的にはプロテスタントの洗礼を受けさせた)。その理由は、子どもたちには「キリスト教が教養ある人々の信仰のかたちだからである(p.227)」と述べているが、それは両親がユダヤ教徒として生きる不利を感じていたからに他ならない。

両親はユダヤ系の「メンデルスゾーン」という姓の代わりに「バルトルディ」というドイツ系の姓を名乗る許可を得、子どもたちには「バルトルディ」と名乗るよう命じた。しかしメンデルスゾーンはフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディとダブルネームを使った。

彼は、偉大な祖父モーゼス・メンデルスゾーンを誇りとしており、ユダヤ教徒としての出自を捨て去りたくはなかったのである。しかし自身のユダヤ性に向き合っていたからこそ、メンデルスゾーンは産まれながらのキリスト教徒以上にキリスト教徒らしい音楽を作り、そしてドイツ音楽の正統な継承者としてバッハの復活に熱意を注ぐのである。

今から見れば少し奇異な感じすらするが、当時の人はバッハの音楽を退屈で難解なものと感じ、それは単に忘れられていただけでなく、いわば「音楽性」の合わないものであった。よってメンデルスゾーンはなるだけ原典に基づきつつ、当時の聴衆に受け入れられる形でバッハの作品を復活させた。その成功例が≪マタイ受難曲≫であり、なかなかうまくいかなかったのが≪ミサ曲 ロ短調≫であった。メンデルスゾーンの熱意にもかかわらず、遂に≪ミサ曲 ロ短調≫の全曲演奏を果たせなかったのは(部分的には実現した)、彼自身の多忙のせいもあるが、この大曲が技術的に難しかったという点も大きいようだ。

本書はさらに≪パウロ≫と≪エリア≫の成立の事情、バッハの影響の検証、さらには一曲ごとの分析を加えている。これはかなり細かい話である。ところが、なぜか本書には一つも楽譜が掲載されていないので、楽曲の分析はやや分かりづらい。楽譜が掲載されていれば(楽譜を読める人には)もう少し分かりやすかったと思う。一方、歌詞については細かな点まで考察しており、信仰の内容の分析は重厚である。ただし、私はキリスト教には疎いのでこの部分はあまり頭に入らなかった。

私自身の興味としては、≪エリア≫とメンデルスゾーンの宗教性について知りたくて本書を取った。≪エリア≫はメンデルスゾーンの絶頂期に作曲され、初演では空前の成功を収めた。音楽的には≪パウロ≫の方が優れているという見方もあるが、最後の大作であることもあって、メンデルスゾーンの代表作であるのは間違いない。

新約聖書に基づく≪パウロ≫は、キリスト教徒としての強い自覚があったメンデルスゾーンにとってうってつけの素材であった。ユダヤ教からキリスト教に改宗したパウロに、自身をなぞらえていたのではないかというのだ。その当否はともかく、「パウロ」という素材がキリスト教的なものであり、メンデルスゾーンの宗教性と関わっていたことは事実であろう。ただし、この作品が教会ではなくコンサートホールで初演されたことは重要だ。当時はオラトリオが「脱宗教化」していく時代でもあった。

 一方、≪エリヤ≫は旧約聖書に基づく。ではこれはメンデルスゾーンが決別したはずのユダヤ性と改めて向き合って作ったものなのだろうか? 本書ではそのような見方をしていない。むしろユダヤ教とかキリスト教とか、 カトリックとかプロテスタントとかいう宗教の違いを超えた普遍的な真理を表現する素材としてエリヤを選んだのではないか? と著者は推測している。それはメンデルスゾーンの父の教えでもあった。どのような宗教を信仰していようとも、宗教の表面的な違いを超えた「唯一の真理」に到達できる、というのが父の考えだった。≪エリヤ≫の作曲には、その考えが影響しているのかもしれない。

しかし、メンデルスゾーンは厖大な手紙を書いているが、作品についての個人的な考えを語ることが極端に少なく、実際にどうであったかはわからない。とはいえ≪パウロ≫と≪エリヤ≫は、メンデルスゾーンという天才が、並大抵でない思いを抱いて作曲したことは確実であり、彼の音楽を理解する上でも重要な位置を占めているのである。

ところで、メンデルスゾーンは日本ではなぜか人気がいまいちで、現在では一冊の伝記も(新刊では)販売されていない。日本人にとって、メンデルスゾーンの思想は勿論、生涯の基本的な事項すらも謎に包まれている。そういう状況の中で、限定的なテーマであるとはいえ、メンデルスゾーンをテーマにした本が出版されたことは喜ばしい。この調子で新しい伝記が出版されて欲しいと願うばかりである。

メンデルスゾーンのオラトリオを宗教性から読み解く堅実な本。


2022年6月16日木曜日

『文明国をめざして—幕末から明治時代前期(日本の歴史13)』牧原 憲夫 著

明治時代、どのようにして民衆が「文明化」されたかを述べる本。

本書は非常に刺激的である。明治時代の歴史というと、政権の中枢にいた人たちを主役に描かれることがほとんどだが、本書の主役はそれに翻弄されていた民衆の方なのだ。そのため本書では、新聞や雑誌、戯画や戯作の類まで動員して、民衆の心象を探っている。

明治を表象するコンセプトは「開化」と「復古」である。「開化」は言うまでもなく近代化=西洋化のことだ。それは政体の西洋化に留まらない。政府は「文明国」に相応しい人民となるよう風俗を矯正した。一方「復古」は明治維新の大義名分であり、「神武創業の始め」に戻ることが明治政府の正統性を保証した。この2つのコンセプトは一見相反するように見えたが、実は「江戸時代を否定する」という点で共通しており、相補的なものであった。

「第1章 幕末の激動と民衆」では、幕末の民衆意識が概観される。

幕末には大地震が頻発した。嘉永6年(1853)に小田原大地震、安政元年(1854)には伊賀上野大地震、東海大地震、南海大地震が立て続けに起こり、安政2年(1855)には江戸で安政大地震、安政4年、5年にも各地で地震が起こった。これにより職人は引っ張りだことなり賃金が上昇。財産をあまり持たない庶民は地震の被害が相対的に小さかったから、打ちひしがれるどころか「世直し」への期待が高まった。

一方、開国によって大量の小判が海外に輸出されたことに対応し(金銀の交換レートの内外差によって金が流出した)、幕府は金銀の交換レートを改訂。その結果、名目の貨幣総領が急に増えたためインフレが引き起こされた。特に慶応2年(1866)には一揆・打ちこわしが頻発し、江戸時代を通じて最大の件数に達した。しかし民衆は開国や攘夷といったことに関心はなく、ただ適正な米の価格を求めただけのことだった。

一転して慶応3年には豊作となり、それまで猖獗をきわめたコレラも落ち着き、長州戦争も終結した。この年はインフレが農民・商人の収入を増やす結果になり「庶民は悉く繁盛」した。この楽天的ムードが西日本を中心に「ええじゃないか」をもたらす。伊勢神宮のお札が降ったのをきっかけに、異様な身なりをして富裕者へ酒食を強要、秩序を無視して歌い踊ったのである。それは世直しを求めたものではなかったが薩長を歓迎するものではあった。朝廷が機能不全に陥っていることは庶民の目にも明らかだったからだ。

一方、関東では慶応4年に大規模な世直し一揆が起こった。生活に困った貧民が質屋や商人などの家屋を襲った。その要求は決して無茶・無法なものでなく無秩序な破壊ではなかった。権力は、そうした要求に対して「徳義」で応えるべきとの観念があった。

ところが新政権が発足すると、年貢半減令などは早々に撤回され、富商に献金を強要したり御用金を命じた。その結果大坂の両替商の多くが「分捕り」のために破綻。 また慶応4年の世直し一揆の頭取は処罰され、質物・質地などを質屋や地主に返すように命じた。「新政府は庶民の味方ではなかった(p.54)」。そして戊辰戦争では後の日本陸軍に見られるような「分捕り」や「リンチ」が行われ、遺体の埋葬が禁じられるなど凄惨な光景が繰り広げられた。

それまでも、「殺人・強奪・放火を大義名分で正当化した水戸の天狗党(p.59)」などの志士たちが暴力を公然と行使するムードをもたらしていたが、このようにして明治は「暴力の時代」になっていった。

「第2章 「御一新」の現実」では、明治維新の政権を巡る動向が改めて触れられる。

維新は徳川幕府の廃止とともに、朝廷の改革=西洋化を意味した。維新政府は天皇を「文明国」の君主として恥ずかしくないものにしつらえる必要を感じていたのである。東京に天皇を移したのも伝統や格式に囚われた旧勢力から引きはがす目的があった。

また、徳川慶喜征討の勅が出る1日前という緊迫した状況で、「皇族・公卿の涅歯(お歯黒)・点眉は<古制>でないからやめてよい」という一見瑣末な通達が出たのは注目される。「復古」を目的に「開化」を促し、公家らしい外見を捨てるよう進めたのだ。これは公家自体の否定を暗に含んでいたのだろう。 

そして摂政・関白といった旧来の朝廷の仕組みは撤廃され、「太政官」が復興された。「太政官」という名称は復古的だったものの、内容はアメリカの制度を参考にした三権分立の体裁を整えた機構だった。ここでも「復古」と「開化」は一体となっていた。そして、「公議所」が設けられ様々な近代化政策が議論された。政府首脳は議論を必ずしも歓迎したのではないが、未だ政権基盤が脆弱だった維新政府は「公論」を尊重せざるを得なかった。

ところが、政府は民衆の「公論」は全く尊重した気配はない。明治2年は天保以来の大凶作であり年貢の半減・全免を余儀なくされる藩が多かった。ところが政府直轄領では年貢を軽減するといった措置を全くとらなかった。それどころか年貢軽減の嘆願をしたものを牢に入れ次々に獄死させた。こうした高圧的な対応に憤慨して西日本各地で大一揆が起こる。これに対し大隈重信が「千人迄は殺すも咎めざるべし」といって鎮圧を命じたのは有名な話である。

また、明治政府は神仏分離を断行し、それに触発されて廃仏毀釈も引き起こされた。 人々が素朴に信仰していた神仏が否定され、信仰までも作りかえていったのである。人々は信仰世界の破壊を目の当たりにし、神道国教化政策は本来はキリスト教対策が眼目だったにも関わらず、「太政官は異人が牛耳っている」とか、「廃仏政策はキリシタンの仕業ではないか」と疑った。

 「占領軍のような態度で民衆を抑圧し、凶作でも年貢を軽減せず、そのうえ生きる拠所である信心世界まで破壊する——これが「御一新」の現実(中略)であり、ここに近代天皇制の特質を見てとる(p.97)」ことができる。

「第3章 自立と競争の時代」では、開化に伴って人々が「競争社会」に飲み込まれていく様子が述べられる。

廃藩置県が封建的な社会機構を一気に整理した後、留守政府は急進的な改革を進めた。その一つに身分制の解体がある。「四民平等」を謳った布告はないものの、様々な面で人々の同質化を進めたのである。

また、廃藩置県後の行政機構として「大区小区制」を敷いた。これは全国を「大区小区」として機械的に分割し、旧来の「村」を解消して行政を行うものだった。これはあまりにも無理があったので後に修正されるが、明治政府は「村」だけでなく、身分に伴う各種の中間団体を否定して人々をバラバラの個人に再編した。

また「開化」は人々の風俗を改変した。裸は文明的でないからと「裸体禁止」をし、「断髪」は当初は髪型の自由化を意味したが、次第に「開化度」を測る指標となって事実上強制されていった。そうした風俗の矯正を行ったのは封建的な圧制者ではなく、開化思想の地方指導者層だった。彼らは自らが「国民」であることを自覚し、進んで国風の改善に努めたのである。

さらに、そうした指導者層は祭礼を無駄として休止させたり、神仏分離政策にともなって仏教信仰を無駄として切り捨てた。人々の楽しみとなっていた各種の講が廃止され、重要な祭日だったお盆も禁止された。休んでばかりいないで働きなさい、というわけだ。また芸能者や宗教者への施しが禁止された。彼らが働かないのは自己責任なのだから慈悲を施すのは無用だというのだ。その上、障害者なども社会にとって無用な存在だから施しを与える必要はない、と切り捨てた。

初期明治政府の社会経済政策は「自由主義経済」だ。これは一見人々の自由を尊重するように見えて、結局は「強者の自由」を保障するものでしかなかった。社会的弱者は切り捨てられる弱肉強食の社会が到来した。

そして身分を否定し、建前として平等な世の中になったことで、「学歴社会」が出来した。当時の小学校は試験ずくめで、合格しなければ卒業できなかったため中退者が続出した。等しく教育を授けるよりも、刻苦勉励するものを選抜していこうとする思想が強かったのかもしれない。明治政府にとっての「開化」は、野蛮・不潔・無駄なものを切り捨て、勤勉・清潔・有用なもので置き換えることだった。政権の原理は、「徳」から「合理性」へ変容したのである。

「第4章 平等と差別の複合」では、徴兵制と賤民への差別が「開化」をキーに繙かれる。明治政府は徴兵制を敷いたが、これは全員が徴兵されるのではなくクジで当たった人が合計10年も兵役を課される仕組みだったので、庶民は徴兵逃れに奔走した。そういう庶民を横目で見て、武士たちは自分たちの出番だと意気込んだが、新政府は武士の志願制を認めれば実質的に士族復権となることがわかっていたので、民衆にも武士にも敵視された徴兵制を続けるしかなった。

また軍隊の生活は、時計に基づく生活をし、整列して行進するなど、それまでの武士の在り方とも全然異なっていた。軍隊こそが「文明的生活」を養成する場だったのだ。そして近代的な軍隊=国民軍を編成する上で、武士の復権はありえなかった。

実際、明治維新を成し遂げたのは武士であったが、「御一新」の勝者は農民であった。武士は特権を失い、家禄を失い、路頭に迷った。武士は江戸時代には土地と遊離していたから、地主になり損ねたのである。そして現実に耕作している農民に土地所有権が認められた。

しかしそれは、農民が引き続き納税者になるということでもあった。「地租改正」で土地の私有が認められ、その代わりに地価のに応じた納税が必要になったからである。これは土地に紐付いた税という意味では江戸時代の年貢と似ていたが実際には大きな違いがあった。それは地主制への道を開いた点である。

年貢は村請制であり、納税責任を負うのは「村」だった。ところが地租の場合は納税責任はあくまで個人にある。さらに土地の共同所持を否定し、土地は個人の所有物とした。村請制では原理上、他村の土地を大量に持つのは難しい。ところが村単位の仕組みがなくなり、「徳義」ではなく「合理性」が幅をきかせるようになると、少数の強者が土地を集積していくのは自然のなりゆきだった。

明治6年(1873)には地租改正、断髪反対などを主眼とする騒動が西日本各地で起こった。民衆は開化政策を拒否したのだ。そこでは被差別民の焼き討ちなど、「穢多」の解放に反対する主張があったのが注目される。これは直接には開化政策の一つである明治4年の賤民制廃止令に基づくものだったが、人々の意識の中でも「開化」と「差別」の問題は繋がっていた。

江戸時代の賤民(穢多=かわた)は、被差別階級を為していたとはいえ、清めの役割や皮革の取り扱いといった経済的特権も付与されており、決して貧困に喘いでいたわけではない。それどころか百姓よりも裕福なかわたは多く、関東のかわたの頭である弾左衞門は3000石の旗本並みの存在だった。しかし維新政府は賤民制を廃止した一方で、彼らの清めの役割や特権も剥奪して形の上で「平等」にした。

結果的には、彼らは百姓並みになるどころか自由競争の社会に投げ出されて経済的に没落し、彼らの「「穢れ」は「不潔」に置き換えられ(p.166)」、文明社会に対応できなかったものとして新たな「差別」の対象となっていった。「「地域と生まれ」が固定された「部落」の差別が、ほんとうに苛酷になるのは文明開化期以降(同)」なのだ。そうしてこうした差別意識は、アイヌ、琉球、朝鮮、中国の人々へも広がっていく。日本は「文明化」を成し遂げた一等国であり、こうした地域は未だに遅れた野蛮な場所だから差別してもよい、というのである。

「第5章 近代天皇制への助走」では、結果的に近代天皇制を準備することになった変節が述べられる。

明治天皇は当初、むしろ親しみやすい君主として登場する。江戸時代の将軍に対するように平身低頭する必要はないと政府は民衆に伝えた。天皇自身が文明開化の象徴であり、西洋の君主のように人々と親密な関係を結ぶ必要があった。皇后も西洋の王妃と同じように外交の場に出てきた。

明治政府は朝廷を西洋化したが、それは「開化」であるとともに「復古」でもあった。西洋近代は日本古代と通ずるとされたのである。

人々の生活を劇的に変えてしまった「開化」が、太陰暦から太陽暦への「改暦」だった。民衆はすぐにこれに順応したのではないが、祝日が全て天皇関係(新嘗祭、天長節、元始祭など)に置き換えられたり、五節句が廃止されたりといったことで太陽暦は国民生活に浸透していった。そして旧来の行事は廃止され、または太陽暦の日程では季節感が合わなくなったため低調になった。ちなみに定時法(一日24時間)はあまり抵抗なく受け入れられた。

一方、政府は一度は神道を国教化したものの、仏教界と妥協し、神仏合同の「国民教化運動」を進めた。ところが、先述の明治6年の西日本各地の一揆を受けてこれも修正を余儀なくされる。「三条の教則」と呼ばれる原則に対する「兼題」(具体的な行動の模範を示すもの)の変化にそれが窺われる。「西欧化との対決を目的とした教導政策が、一転して開化政策を民衆に浸透させるものになった(p.191)」のである。

もちろん神道派はあくまでも「復古」を主張し、例えば古式に則って「火葬禁止令」を出したが、これは埋葬箇所が足りないといった現実的問題からすぐに撤回された。何が古制であるか、何が仏教的(神道的でない)かは、恣意的であり、どうにでも解釈できた。それが神道派の弱さでもあったが、神道派のリーダーたちは神道は宗教ではなく国家の「政典憲章」であるとし、この見解は神道の国教化を防ぎたい島地黙雷や大内青巒などの仏教家と奇妙に一致していた。結果、神道は宗教ではないこととされ、宗教を超越した「国家神道」への道を歩むこととなった。

「第6章 「帝国」に向かって」では、明治政府の対外政策が述べられる。

これ以降の章は、庶民の心情よりも政府の動向が中心だ。明治初年には早くも朝鮮との外交に問題が起き、征韓論が萌芽した。神功皇后の朝鮮征伐を事実と見なし、朝鮮は日本の属国であるとする「復古」の論理もその背景にあった。明治6年には「明治六年政変」(征韓論争)が起きて薩摩出身者が大量に政府を去った。

台湾出兵も大義名分なき侵略だった。明治政府は万国公法的へりくつによって東アジアの伝統的秩序を無視して台湾に兵を送る。台湾は「無主の地」だからこれを分捕るのは自由だという論理だった。これに対しイギリスやアメリカが抗議。思わぬ批判に驚いた政府は矛を収めようとしたが、すでに出動していた軍隊は勝手に行動し、それを政府も追認した。後の戦争でお決まりのパターンになるやり方だった。

しかし明治の初めまでは、庶民は外国人を敵視する態度は持っていなかった。だが次第に日本人は自らを「文明化」されたと信じ、清国人や黒人を野蛮なものとして蔑視し、優越感を抱くようになった。これは西洋人のそういう態度を受け継いだのかもしれないし、文明化の副作用でもあっただろう。「むろん、それをあおったのは新聞(p.227)」だった。

この蔑視の目は琉球や北海道にも向けられる。明治12年、政府は琉球に沖縄県を置いた。それまで琉球は薩摩藩の属国であったが対外的には独立の体であり、清国にも独立国として朝貢していた。それを勝手に日本に組み入れたのである。当然清国も抗議し、琉球人も反発。イギリスからも批判を受けたがなし崩し的に占領を続け、人々の心情を無視して同化政策を行った。「琉球問題の最終解決は日清戦争まで持ち越された(p.231)」。

樺太、千島、北海道に至っては、最初から「無主の地」であると決めつけて分捕った。アイヌが生活していることは知っていたが、それは「土人」であるからものの数には入らない、というのだ。北海道の場合、アイヌの存在を無視して政府や藩で開墾地を割り当て、アイヌに対しては和人化政策を行った。彼らの文化は否定されたのだ。

しかし「琉球の民衆やアイヌが受けた同化政策、「姓・名」の確定、断髪、小学校、日本語(標準語)等々の強制は、「生蕃並み」といわれた本土の民衆がこうむったものと基本的に変わらない。(中略)文明開化とは何よりもまず日本自体の「自己植民地化」(p.241)」だったのである。

明治10年、鹿児島では西南戦争が起こった。鹿児島の士族は文明開化を否定し、士族の特権の解体を認めなかった。これは激闘の末政府に鎮圧されたが、結果的に尊攘派志士を潰滅させることとなった。明治維新は尊攘派志士が成し遂げたものであったが、「開化」に否定的だった彼らが潰滅したことで、明治政府は「開化」を完遂することができるようになったのである。

「第7章 国民・民権・民衆」では、国会開設に向けた様々な動向が語られる。

明治の世論を語る上で見逃せないのが新聞である。明治6年頃から新聞は盛んに創刊された。新聞は建白を掲載し、これまで国政に参与したことのなかった平民までが国民の一員として「国恩に報いる」ことを考えて建白し、時には政府への献金まで呼びかけ実現させた。

しかし政府は介入を嫌い、献金も受け取らなかった。政府と民衆の間には、見た目以上に断絶があったのだ。それを痛感した人々は「民撰議院」の設立を指向しはじめる。国家と自分たちを同一視し、一蓮托生の存在と考えたからだ。「民権論と愛国心は不可分(p.261)」なのである。なおこの時期に、政府と国民を一体視せず、「客分」的な論理で「政府の借金は官債であり自分たちの借金ではない」とラディカルに考えた窪田次郎の例は興味深い。

明治13年には町村議会ができる。しかしここでは、江戸時代の村の寄合では当然参加出来た女戸主や貧民は排除された。国家にとって議会は火種も抱えていたが、代議員制は権力者の都合のいいように代表を設定することができたから御しやすくもあった。

一方、板垣退助らは明治10年に「民撰議院設立建白書」を提出したが、議会開設を求める運動を政府は弾圧した。明治15年には「官吏侮辱罪」が成立し、官吏に反抗すると些細なことでも逮捕できるようになった。しかし自由民権運動が政府への抵抗運動だったわけではない。それどころか自由民権運動は政府へ「国民の権利」を求めると同時に、民衆にも「国民の自覚」を喚起する「愛国的運動」だった。そしてここでも、天皇が持ち出された。「「天皇は国民の味方だ」という観念を浸透させる上で一定の役割を果たしたのは、政府よりも民権運動の側だった(p.274)」 。

「明治十四年政変」では、それまで憲法について調査し、民権派の意見を容れて案を作ってきた大隈重信が政権から排除され、政権は薩長が独占するに至った。翌日明治23年の国会開設を約束する勅諭が出され、政権は国会開設に向けて動き始める。

一方、民権運動は昏迷する。民衆は穏当・理性的な議論よりも、過激・感情的な煽動の方によく反応した。民権家たちも民衆の支持がなければ活動が成り立たなかったので、そうした民衆の心情を汲まないわけにはいかなかった。また明治16年頃には民権運動自体が不況のために低調化した。そしてそれは、主義よりも公共事業の配分を巡る争いになっていく。

明治17年、朝鮮における日本派がクーデターを起こし失敗した「甲申政変」が起き、日本の朝鮮政策は頓挫する。この政変では日本の公使館員・居留民らが40名殺されたことで、福澤諭吉が『脱亜論』で朝鮮や清国を切り捨てた他、民衆も激しく反応し、ナショナリズムが高まっていった。

「第8章 帝国憲法体制の成立」では国会開設に至るまでの政府の動きを述べている。

明治10年頃には、政府が生活習慣にまで口を出す啓蒙的専制の時代は終わり、むしろ自由放任的なムードになってきた。農村も豊作に恵まれて好景気になったが、明治13年には好況が終わり15年にはデフレに陥っていく。そして経済が地主・大企業中心になり「経済的・文明的強者が自己の利益を追求する——そういう時代の始まり(p.303)」だった。

明治19年(1886)の帝国学校令・師範学校令・中学校令・小学校令では、学校と社会的地位が明確にリンクするようになり、明治20年には試験で官吏を選抜するようになった。小学校の学費が無料化され卒業試験がなくなるなど、国民が広く学校に通うようになる。また運動会が兵式体操の一環で始まるなど、軍隊式集団主義が小学校に導入されていった。 

女子教育については、「良妻賢母」を育成するための教育だった。つまり女性のための教育ではなく、その子どもや夫のための教育なのだ。また明治31年の民法では戸主(男性)の権限が強化され女性は「二級市民」とならざるをえなかった。

また、皇室財産が設定されて皇室の基盤が確立するとともに、ご真影・日の丸・君が代・万歳という国民統治の「四点セット」が勢揃いした。皇室への讃仰を通じて国家の一員となる政策がどんどん進んでいく。

同時に、日本文化や歴史の見直しがなされるようになり、「日本国民」としての自覚が促されたのもこの時期だ。しかしいくら「日本国民」としての自覚があっても、現実には多くの人には参政権はなく、国政に関与していくことはできなかった。帝国憲法体制では「我々人民はもはや前日の無権力・無責任なる国民ではない(朝野新聞)(p.334)」と言われたが、現実には「直接国税15円以上を納める25歳以上の男性」しか衆議院議員選挙権は持っていなかった。圧倒的多数の人民が「非−国民」の立場におかれたのだ。だから結局、議会は人民の議会ではなかった。しかしそれでも、天皇は人民の天皇だった。だから政府は、民主制ではなく、天皇を通じて人民を国家に統合したのである。人々が「天皇の赤子(せきし)」=「臣民」と呼ばれるようになったのは、それを象徴していた。

そして「帝国憲法は、天皇主権と立憲主義の複合体(p.337)」であり自縄自縛の状態に陥った。伊藤博文や陸奥宗光は、その不具合を清国との戦争によって脱しようとしていくのである。

本書は全体として、庶民の側から見た「文明開化」を検証するものとなっている。それは、我々が通常の「通史」で見る明治維新とは随分違っている。もちろん一般的な通史においても、文明開化が強制的なものであり歓迎しない庶民は多かった、ということは語られる。しかし本書では当時の多くの「生の声」を拾い集め、それを使って明治初期の歴史をヴィヴィッドに浮かび上がらせている。特に第5章までの記述は非常にオリジナリティがあり、必読書のレベルに達している。

文明開化を庶民から見るスリリングな論考。

【関連書籍の読書メモ】
『明治のむら』大島 美津子 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post_14.html
明治時代の農村政策を描く。明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。

 

2022年6月11日土曜日

『維新史再考—公議・王政から集権・脱身分化へ』三谷 博 著

幕末の政局を見通しよく描く本。

本書は、幕末の政局が直面した課題を主役にして維新史を編んだものである。つまり、志士たちの活躍とか激動する事件とかは主役ではなく、時の政権が直面した構造的な課題を読み解き、それをどう解消していったのかという視点で明治維新に至る歴史を語っている。

本書前半(第1章〜第4章)は、近世の社会が置かれていた状況がグローバルな視野から再検討される。著者は近世日本の政治体制を「幕藩体制」ではなく「双頭・連邦国家」と呼ぶ。禁裏(天皇・朝廷)と公儀(徳川幕府)という双頭の下に、大名の領国が半独立に存在していたからである。

その下で日本には極端に「忠」を肥大させた国家主義が発達したが、実際の政策決定はボトムアップ式であり、幾多の上申を経て老中が決裁する仕組みだった。また家格と決定権が分離しており、むしろ大大名であればこそ政権の意志決定からは排除されていた。彼らが外様大名であったという事情もあるが、外様の場合も小大名からは老中が輩出されていた。島津のような外様の大大名は、政権から排除されていることを不満とし、政権への参画を様々な形で図っていくのである。

また当初は厳格であった身分も、学問や武芸といった面では徐々に混ざり合い、また「塾」などを介して全国規模のネットワークが育っていった。そして人々は一方的に統治されるのではなく、「国民」として「御国(おくに)」のことを考える土壌が育っていた。

一方、幕末にかけて西洋諸国は東アジアに関心を寄せるようになり、特にロシアとの関係が緊張した。このような中、「日本知識人の世界像は、中国を主軸に構成するものから西洋を中心に構成するものへと、はっきりと転換した(p.97)」。そして西洋に対抗するため、日本を「より統合性の高い軍事強国として再建する(p.98)」ことが考えられるようになった(会沢正志斎『新論』)。

本書中盤(第5章〜第11章)は幕末から王政復古までの政局の変転を丁寧に描いている。 天保期からペリー来訪までの政策課題は「鎖国」「避戦」「海防」であり、幕府(公儀)は大きく鎖国・海防へと傾いたが、ペリー来航によって開国へと政策転換した。公儀主導の挙国一致への動きが、「大名や武士の間に広く参加願望を生みだし(p.133)」、特に大大名たちは「公儀の決定権を、譜代の小大名からなる老中から、家門・外様の大大名の連合体に移そうと考え始めた(p.134)」。橋本左内はさらに土地や身分を問わず有能な人物を政権に登用することも構想した。当初の左内の構想に天皇中心といったアイデアはなかったのだが、安政5年に左内は政体変革構想に「朝廷」を組み込むことを思いつき、後に「王政」の下の「公儀」という政体へと行き着くことになった。

ところでアメリカへの条約勅許を朝廷に申請したことで「朝廷の拒否権」が明確化され、これが次なる政策課題となった。特にハリスが予定より1年早く来航したため、大老井伊直弼が勅許を待たず即日調印したことが大問題となる。一橋慶喜を将軍に待望する一派はこの不備を突いて江戸城に登城したがかえって弾圧され、「安政の大獄」が始まった。こうして幕閣専制が復活したかに見えたものの、桜田門外の変で井伊直弼が白昼堂々暗殺されると幕府の威光はガタ落ちとなった。しかし幕府は海軍を大規模に編成して近代的軍制へと舵を切った。

そして条約勅許問題によって朝廷と幕府の間がギクシャクすると、これを周旋することに政治的価値が生まれた。特に長州藩が朝廷と近づいた。諸藩の周旋の結果、将軍が上洛して天皇に謁見して幕府は攘夷を公約させられることとなり、朝幕の地位は完全に逆転した。このあたり(文久年間)から「王政復古」が公家(三条実美)や長州過激派などにより視野に入ってくるようになる。ちなみに早くも安政5年(1858)には久留米の神官真木和泉が王政復古を構想し『大夢記』というシナリオまで書いている。

しかし文久3年(1863)、薩摩・会津が中心になって起こしたクーデター「八月十八日の政変」により攘夷派公家と長州藩が京都から排除され、天皇と将軍が和解して「公武合体体制」が作られた(一会桑政権)。この体制では大名が朝義に参与し、幕議にも参画していくことが構想されたが、幕府はこれを拒否。島津久光は「公武合体体制」による「公議」によって幕政に参加していくことを考えていたのであるが、それどころか幕府は大大名の朝義への関与権まで否定し京都から追い出した。こうして薩摩は幕府に強い不信を抱くようになるのである。

一方、クーデターからの再起を図り「禁門の変」を起こして京都を奪還しようとした長州はあえなく鎮圧され「朝敵」となった。こうして長州の処分をどうするかが朝幕で問題となる。その際の一つの焦点が、「公武合体体制」において大大名たちをどう取り込み長州問題に結論を出すかであったが、結果的には大大名の招集は棚上げになった。他方、長州は下関戦争で外国に屈すると攘夷をあっさりと捨て、軍事機構を大胆に西洋風に組み替え、幕府との戦争に備えた。そして土佐の中岡慎太郎の仲介で薩長が接近し、裏で「薩長盟約」が成立。王政復古の実現のための協力が謳われるのである。

長州は幕府による処分案を拒否し、慶応2年(1866)年に長州戦争が起こった。しかし幕府は苦戦し、戦争中に将軍家茂が病死。こうして政局が不安定になったことを逆手に取り、一橋慶喜は将軍に就任するとともに政敵(山階宮や正親町三条)を排除した。さらに同年、孝明天皇も天然痘で亡くなる。慶喜は意欲的に幕政改革に取り組むととに、西洋への華々しい外交を展開した。

これに対し、島津久光(薩摩)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、松平春嶽(越前)の四侯は政体の一新のために協調し、慶喜に対し「反正」を求める議論をふっかけたが、慶喜の方が一枚上手であり、徹夜の会議は慶喜の粘り勝ちとなった。徳川慶喜は、歴代将軍の中でも特に有能で雄弁、自負心があり実際に全ての問題を自ら裁量していた。将軍という立場も考えれば、誰も慶喜に言論で対抗できるものはいなかったのである。

であればこそ、慶応3年(1867)、薩摩は「政治交渉を断念し、基本方針を武力動員による政体一新に転換した(p.257)」。ここからは、「個々の争点は後景に退き、政体転換をめぐる赤裸々な権力闘争が主題となった(p.258)」。 大まかに言えば、大政奉還による政権の一元化と、大藩の連合による「公議」の実現については多くの陣営で共通した目標だった。違うのは、その来るべき政体において引き続き徳川家(徳川慶喜)が中心になるのか、それとも徳川家を排除するのか(薩長)、という点である。朝敵とされていた長州は政局の蚊帳の外におり、薩摩にも来たるべき政体へのヴィジョンはなかったが、土佐の後藤象二郎らが政策転換して「制度一新、政権朝に帰し、諸侯会議・人民共和」の体制を創出するという構想を固めて、これに薩摩が乗って方向性が定まった(薩土盟約)。

ただし、島津久光は武力行使に消極的で、土佐の山内容堂の参加によって平和裏に政権移行が可能だと期待していた。ところが後藤象二郎の京都到着が遅れたため機会を逸し、盟約は事実上棚上げされて互いの妨害をしないというところまで後退した。そして薩摩は単独挙兵の道を探ったがリスクが大きすぎ、また国元でも挙兵反対論があって一枚岩ではなかった。このため朝廷の裏工作によって「討幕の密勅」を下してもらったものの、慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は自ら政権返上を申し出て事態が大きく動く。

慶喜は政権を投げ出したのではなく、「天皇の直下に大大名の連合政権を組織し、自らその首班となって日本を強国とする(p.275)」ために政権返上を申し出た。これにより、天皇に対して恭順の意を示し、自身への批判をかわす意図もあった。そして朝廷には自ら政権を担っていこうとする意志も能力もなかったから、結局は武家が政権の実務を担うことは既定路線であった。よって慶喜は再び政局を手中に収めるため猛烈に運動を開始した。

しかし薩摩は岩倉具視と結んで武力クーデターを計画し、土佐にも事前に知らせた。土佐→越前を通じクーデター計画は慶喜にまで漏れたが、慶喜は京都での戦乱を回避することとし、全面対決しなかった。こうして薩・土・尾・越・芸の5藩は朝廷を封鎖し、その状態で朝議が行われて慶喜の排除が決定された。さらに12月14日には王政復古が布告され、復古に基づく「公議」が謳われた。ところが尾・越はこれまでの徳川家との関係から慶喜の政権参加を周旋した。これでは何のためのクーデターか分からない。クーデターに参加した5藩のうち、徳川の打倒に執心したのは薩摩のみだったのだ。そこで薩摩は長く朝敵とされていた長州と手を結び、徳川方と薩摩・長州の間で鳥羽伏見の戦いが勃発し幕軍は敗退した。これは小規模な戦闘だったが、日和見を決め込んでいた諸大名はなだれをうって薩長に合流し、なし崩し的に新政府が発足した。

本書後半(第12章〜終章)は、それまでの緻密な記述とは違い、いきなり駆け足で歴史をなぞっていく。まるで講義の時間が足りなくなってしまったような感じである。著者自身が「学生時代以来、久しぶりの勉強となった(あとがき)」と述べており、通説の要約以上の内容がないため、ない方が全体的なまとまりはよかったように思う。

とはいえ、この部分で本書の重要なテーマである「脱身分化」が述べられる。新政府は、無位無官の武士たちが参画していたためもあり、身分や家格に囚われない運営が当初から指向された。「人材登用」の結果、無能な公家が排除されるとともに、幕末のギリギリの政局をくぐり抜けてきた大名家臣(徴士)たちが政権の中心に躍り出ていった。そして政権では「公議」「公論」が強調された。明治政府の当初には、上意下達的ではない、ボトムアップ式の議会主義が胚胎していたのである。

そしてもう一つ、武士身分の解体に与ったのは皮肉なことに戊辰戦争だった。従来の武士の戦いが使いものにならないことが明らかになり、近代的な銃隊が編成されたからである。さらには戊辰戦争への動員は各藩の財政を急激に悪化させ、上級武士の俸禄が相対的に大きく削られたことで武士身分内の平準化が思わぬ形で進むことになった。

戊辰戦争後は、軍事的発動が困難な情勢になっていったため、「公議」すなわち言論によって中央集権国家に再編成するしかなかったが、大藩においてこれは簡単には受け入れがたい変革であった。ところが西郷隆盛は最終的には武力をちらつかせてあっさりと廃藩置県を成し遂げた。藩がなくなったことで武士は失業。「廃藩の直後、政府は世襲身分を解体する様々の措置を一気に展開した(p.344)」。散発脱刀、婚姻の自由化、穢多・非人の称の廃止などである。これらは大蔵省の渋沢栄一が中心になって進められたが、それは彼の出自が百姓(豪農商)であったことが関係しているのではないかという。しかし結果的には、身分を平等化したことは徴税を平等化することにつながり、このせいで負担増になった階層も多かった。

さらに教育、徴兵、人口と国土の把握、交通・インフラ整備などを進め、地租改正を行って土地の売買を自由化するとともに、家禄処分を行った。このあたりの記述は極めて概略的である。さらに留守政府、征韓論争、西南内乱(西南戦争)と続くが、やや旧い学説のまま書かれているような印象を受けた(参考文献に毛利敏彦氏の著作がない。これは意図的に避けているのだろうか)。ただし島津久光の動向を詳しく追っているのは興味を引いた。終章では、明治維新が改めてグローバルな立場から位置づけられ、「公議」が「自由民権」へと受け継がれていったと述べる。

本書は全体として、政局の変転を緻密に追うもので、少なくとも王政復古までは最近の学説が援用されてかなりよくまとまっている。しかし政局の変転がメインであるために、個人の履歴や思想はほとんど顧みられることがなく、「その状況で、なぜそのような選択がなされたのか」という考察はほとんどない。さらには民衆の動向は完全に閑却されている。例えば幕末の「ええじゃないか」運動などは政局にも影響を与えたのは確実であるが全く触れられない。つまり本書は「政局中心史観」とでも言うべきもので記述されており、幕末明治の歴史を多角的に捉えたものとはいえない。

しかしながら、王政復古までの記述については非常に説得力が高くかつ平易である。古典的な価値を有する力作といえると思う。

「政局中心史観」で書かれた明治維新の新しい教科書。

【関連書籍の読書メモ】
『明治維新』遠山 茂樹 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/03/blog-post_6.html
唯物史観から見た明治維新の分析。明治維新について考える際には必ず手に取るべき古典。

 

2022年5月21日土曜日

『泉光院江戸旅日記——山伏が見た江戸期庶民のくらし』石川 英輔 著

日本を巡った山伏の旅日記。

佐土原藩の山伏、野田泉光院成亮(しげすけ)は、文化9年(1812)から6年2ヶ月にわたって托鉢しながら全国を旅し、その様子をマメに日記に記した。本書は、その日記『日本九峰修行日記』を読み解くものである。

彼は山伏としては大先達という非常に高い位を持ち、佐土原島津家から27石の禄を受ける家臣でもあった。僧侶であり同時に武士であったのは不思議だが、彼は元は薩摩国出水の野田庄の武家の流れだった。安宮寺という山伏寺を世襲しつつ、同時に武士の身分も受け継いでいったようだ。

ともかく泉光院は主君の命を受け、平四郎という合力(剛力=荷物持ち)を連れて、全国を巡る旅に出るのである。

私は本書を2つの興味から手に取った。第1に、当時の旅について知りたいということ、第2に、宗教者の回国がどのようなものであったか知りたいということである。

第1点からまず興味を引いたのが往来手形のことである。当時は、檀那寺や役所から往来手形というパスポートを発行してもらい旅をした。そして各地の関所で往来手形を確認した……ということになっている。ところが本書を読むと、まず関所・番所自体が少ない(泉光院は、番所の大規模なものが関所、というような用語の使い方をしている)。領国(藩)を超えるときも関所などないことがほとんどである。関所がないのだから、手形は見せようがない。また番所がある場合も、手形を見せなくても通過できるところが多い(何を確認していたのだろうか?)。これは幕府の番所でもである。逆に、通行の際に手形は改めずにお金を取る番所もあった。全体的に言って、往来手形の扱いや番所の通行はかなりいいかげんである。なお、泉光院が泊まる際も一度を除いて往来手形を見せて欲しいと言われることはなかった。ただし、唯一の例外が薩摩藩で、薩摩藩では非常に厳しい「出入国管理」をしていた。薩摩藩の特殊性はここでも際立っている。

そして、泉光院たちは旅の途中に大勢の旅人に出会う。当時、勝手気ままにふらふら旅している庶民がかなり多かったようだ。特に六部(六十六部廻国聖)とはよく出会う。六部というのは、ちゃんとした(専門の)修行の回国もあったが、自称の六部も多かったようだ。妻を尼といって連れ歩く夫婦の回国者もかなり見受けられる。ほとんど観光旅行のような感じである。なお泉光院は、「妻を尼といって連れ歩くとはけしからん」と思っているが、しかし泉光院自身も妻帯しており、宗教者として妻帯すること自体を非難しているわけではないと思う。

ではその旅人たちはどうやって旅を続けていたのかというと、托鉢しながら普通の民家に泊めてもらっていた。本書を読んで一番驚かされるのはここで、当時の日本には見ず知らずの人を喜んで泊める人たちが日本全国にいたのである。泉光院たちも、6年以上の旅でただの一度も野宿していない。宿に困った時もすんでのところで親切な人が現れて泊めてもらえるのである。

というのは、当時の農村の人々は情報に飢えていた。日本中を回っている旅人から話を聞くことは楽しい娯楽でもあったのだ。とはいえ、世の中がみんなそうだったわけではない。特に都市部では泊めてくれる家が少なく、泉光院たちも木賃宿や旅籠に泊まっている。また農村部でも一向宗と日蓮宗の村では苦労し、ことに日蓮宗の村は托鉢も出来ず回国者を一切泊めないためおおむね素通りしている。

また、村の申し合わせで旅人を泊めないことになっている土地もあった。ところがそういうところにも辻堂(数軒が集まって檀那寺以外に維持した無住の小さなお堂)があって、そこを使わせてもらうことができた。逆に回国者を泊めることを誇る土地もあり、そういう場所では家々が「今年はうちは何人を泊めた」と自慢しあっていたり、回国千人宿という回国者ばかりを泊める場所があった。回国者の扱いはこのように色々だが、日蓮宗以外の村ではたいてい親切な人が困った人を泊めていた。

そして、当時の回国には「年宿(としやど)」という風習があった。どうやら、年末年始というのは托鉢や移動をしないという了解があったらしい。よって回国者は12月25日頃から2週間〜1ヶ月くらい、一つの家に逗留して年末年始を過ごすのである。これが「年宿」である。見ず知らずの人を1ヶ月も泊める家を見つけるのはなかなか難しい、と感じるがさにあらず。泉光院は年末が近くなると「今年の年宿はもうお決まりですか」などと声を掛けられ、「決まっていなかったらうちへお越し下さい」などといって毎年あっさりと年宿の家が見つかるのである。驚くべき親切さである。

ちなみに、そのようにして泊まるのはタダだったか? 泉光院の日記には、「謝礼を断られた」という表現がしばしば出てくるので、泊めてもらった家には普通はそれなりの謝礼はしたらしい。しかし彼らが謝礼目当てに旅人を泊めたのではないことは明白であり、謝礼は少なくとも木賃宿などの宿泊料よりも安かったようである。

ともかく、当時の人たちが今から見れば度外れた親切心を持っている、ということには本書を読みながら何度も驚かされた。宿泊だけでなく、托鉢についてもそれは言える。六部などの回国者は、托鉢をしながら日々の糧を得て旅を続けたのであるが、托鉢について再考を促される事例が途中に出てきた。

ある時、合力の平四郎が、「札を配って托鉢をするのは、札を作る手間もあり効率が悪い。自分は札なしで、泉光院は札ありで托鉢をして、どちらが多く托鉢を集めるか競争しよう」と言い出したようなのである。その結果は、平四郎が米4合に対して、泉光院が米5合と銭百文で勝ち、結局それまで通り札を配りながら托鉢をすることになった模様である。

この事例で非常に驚くのは、平四郎は僧侶でもなんでもない町人である、ということだ。町人が托鉢をしても、高位の山伏の托鉢と同じくらい米や銭を集めることができたのである(少なくとも平四郎はそう考えていた)。他の箇所でも平四郎は泉光院とは別に托鉢をしてそれなりの実績を上げている。泉光院は、身をやつしていたとはいえ職業的宗教者であり、服装も山伏の恰好だったはずである。泉光院に喜捨する人々がいたのはわかる。しかし平四郎は全くの俗人だ。泉光院の弟子でもなんでもない。その平四郎が一人で托鉢してもそれなりに集まったということは、人は何に対して喜捨していたのだろうか。

私はこれまで、回国者や山伏というのは決まった服装があり、その服装をしている者は宗教者と見なして人々は喜捨をしたのだ、と考えていた。しかし平四郎のことを考えるとそうではないらしい。宗教者であるか否かに関わらず、托鉢には人々は協力していたようなのだ。しかも、泉光院と平四郎が托鉢勝負をしたことを考えても、宗教者だからといってたくさん托鉢に応じる、というわけでもなかったのだ。もちろん、人々は喜捨が作善の行為であるという意識はあった。だが誰に施すかはそれほど重要ではなかったようなのである。困っている人を助けること自体が作善だと思っていたのかもしれない。

そしてもう一つ気付いたのは、托鉢では結構お米をもらっているということである。江戸時代の農村では、白い米を食べられるのは限られた日だけだった、というようなイメージがあるがそうではない。泉光院たちはよく白い米をもらっている。控えめに見積もっても、白い米が非常な贅沢品であったということはありえない。

ちなみに、托鉢には様々な人が応じたが、人が多いところで多くの米や銭が集まったかというとそうでもなく、むしろ農村の方が托鉢はしやすかった。日蓮宗以外で一番やりづらかったのは、商業都市だったようだ。商業が盛んになると親切心や真心が失われるということはあるらしい。とはいえ、托鉢に応じるかは貧富の問題というよりライフスタイルの問題なのかもしれない。泉光院自身、「田舎の方が面白い」といって田舎では悠々と楽しく過ごしている。

泉光院は当時としては非常な知識人である。田舎に彼がやってくると、その学識や全国を廻った経験、そして祈祷の能力といったものが買われて、田舎では引っ張りだこになるのである。 泉光院はしょっちゅう病気平癒の祈祷をやっている。そして滞在するうちに、うちにも祈祷してくれという依頼が舞い込んだかと思うと、四書の講義を頼まれたりする。四書(孔子、孟子、大学、中庸)など、田舎の人たちに何の関係があったのかと思うが、泉光院自身も「田舎の青年を教えるのは楽しい」といって熱心に講義する。すると近所の人が大勢集まってきて、老若男女が四書の講義を熱心に聞く、ということになる。どうも田舎の人は向学心がすごくあったようだ。

向学心というより、田舎の人にとって知識も娯楽の一つだったのかもしれない。そしてそういう滞在をする際には、ほとんど例外なくその地方の人と俳句、連句、短歌のやりとりがある。どんな農村にもこうした短文詩を嗜む人がいて、コミュニケーションに使われていた。現代ではすっかり失われてしまったが、このように文学的な素養が全国の寒村にまで行き渡っていたなんて夢のようである。

ところで、泉光院と平四郎の関係は面白い。平四郎は荷物持ちとして雇用されており、二人は主従ではあるが、その関係は我々が想像する「江戸時代の主従関係」とはほど遠い。例えば、平四郎はときどき泉光院に説教をしている。 平四郎は経済合理性を重視するタイプで、泉光院が効率を考えないのが気に食わないようなのだ。先ほどの托鉢勝負もそういう考えからもちかけられた。泉光院は身分の高い武士で、平四郎は泉光院に雇用された町人なのに、全くへいこらしていないのである! 平四郎はちょっと変わり者ではあったらしい。しかし、二人の関係はほとんど対等と言って差し支えなく、武士と町人に厳然とした上下関係はなかったと判断するほかない。

その他ビックリしたのが洗濯。泉光院は洗濯のために何日も一つの家に滞在することがある。どうして洗濯に何日もかかるのかと思っていたが、この頃は着物を解いてから洗って糊をつけ、仕立て直すのが正式の洗濯だったらしい。洗濯とは仕立て直しまで含んでいたのである。しかし、どうして洗うためにいちいち解いたり仕立て直ししたりする必要があったのだろう。

このように、泉光院の旅は、江戸時代の社会が垣間見えるものとなっており滅法面白い。宮本常一もその日記を当時の庶民の暮らしが記録されたものとして本に書いている(『野田泉光院』)。本書は庶民の暮らしというより、旅の足取りを追うことが主眼になっていて、泉光院が記録した地名を現代の地名と照らし合わせて、ほとんどの地名を同定している。こうして泉光院の足取りを辿れることは、地名がそれほどは変更されていないからで、著者は「地名が文化遺産」であるという。無定見な地名の変更は、土地の歴史を断絶させることでもあると感じた。

最後に、泉光院は何のために日本を巡る旅に出たのかというと、本書にははっきりと書いているわけではない(日記にもはっきり書いていないようだ)が、まとめると次の3つである。第1に、主君の佐土原島津家の代参として日本三大虚空蔵を巡ること。すなわち柳津(やないづ)=福満虚空藏菩薩圓藏寺、常陸那珂郡=村松山虚空蔵堂、安房郡天津小湊=千光山清澄寺にある虚空蔵菩薩である。第2に、日記のタイトルにもなっている霊山九峰に登攀することである。すなわち英彦山、羽黒山、湯殿山、富士山、金剛山、熊野山、大峰山、箕面山、石鎚山である。泉光院は常識外れの体力を持っており、その気になれば一日に平気で60キロくらい歩く。日記では登山もあっさりとしか記録されていないが、肉や魚を食べない人がこのような強靱な肉体を持っていたことにも驚かされる。そして第3に、西国三十三ヶ所、板東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所 合計百ヶ所の「百番札」を納めることであった。

本書は全体として、泉光院の日記を順を追って読み解いていくという地味なものであるのに、非常に面白く読んだ。親切な人々との温かい交流、びっくりするような当時の社会の有様、泉光院と平四郎の関係(途中、仲が悪くなったりする!)、そして旅そのものの行方まで、いろんな要素で読ませる本である。

江戸時代のイメージが一変する、読んで楽しい日記の解説。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸の旅』今野 信雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_24.html
江戸時代の旅がどんな風であったかを述べる本。江戸の旅の実態をわかりやすく知れる良書。


2022年5月15日日曜日

『江戸幕府の宗教統制(日本人の行動と思想 16)』圭室 文雄 著

江戸時代における仏教の在り方の一端を述べる本。

本書は「江戸幕府の宗教統制」というタイトルではあるが、実際には、幕府の宗教統制政策の論述は全体の半分程度で、その政策に応じて社会や仏教の在り方がどのように変わっていったのかがテーマとなっている。

「I 寺院法度」は、本書中で最も参考になった。江戸幕府は成立当初の慶長6年(1601)に高野山に法度を出したのを嚆矢とし、諸寺院に、追って諸宗に法度を出して行く。概ね、真言宗・天台宗両諸寺→臨済宗(五山十刹・大徳寺・妙心寺)→曹洞宗(永平寺・総持寺)→浄土宗の順である。「浄土宗西山派諸法度」が出たのが元和元年(1615)である。なお天台宗法度は崇徳院天海、臨済宗は金地院崇伝の意向が反映されている。

日蓮宗・浄土真宗・時宗については、この段階では法度が出ていない。本書では民衆的な信仰があり慎重に考えたためではないかとしているが、結局どのような法度が出されたのか、出されなかったのか曖昧である(おそらく出ていないのだろう)。

それらの法度については、別々に出してはいても内容は似ている。関東と関西ではやや異なるが、第1に学問の奨励(特に学問のある僧侶が住持となるべきこと)、第2に戒律の護持、第3に本山の規定、第4に服装や規律の規定が盛り込まれた。第1・第2点目は仏教の振興を図ったものだが、問題は第3点目。この点が関東と関西で異なった部分で、関西の諸寺院には本山という言葉さえなかった。しかし元和元年7月の「真言宗法度」で全国規模の本末関係を明確に打ち出し、江戸幕府の本格的仏教支配の体制が明らかになった。

江戸幕府はなぜ本末関係を樹立しようとしたのか。それは、本山を通じて仏教勢力を封建的体制に取り込むためであった。中世においては寺院は、幕府・公家(朝廷)と並ぶ第3の勢力であった。家康が腐心したのは、これを幕府の下に統括することであり、そのために本山に有利な法度を定めて末寺を掌握させたのである。

「II 寺請制度」では、幕府が寺院を行政機構にどう組み入れていったかが概説される。

幕府は寛永9〜10年(1632〜33)、各宗に「本末帳」を作らせた。末寺のリストである。現存するものは、浄土真宗が全く欠けていること、天台宗も一部であること、西国は極めて大雑把であることなどから、寛永の「本末帳」は不完全なものであったことが明白である。しかし、後々までこの「寛永本末帳」が本末関係の最も正統なものとされた。なお元禄5年(1692)には浄土真宗も本末帳を作成した。

ちなみに、これらに先立つ寛永8年(1631)に、幕府は新建寺院の建立を禁止している(これが全国なのか幕府直轄領のみなのか不明だが追って全国に出したと見られる)。幕府はこれ以前にあった寺を「古跡」、それ以降のものを「新地」とはっきり区別した。そして以後、原則的には古跡寺院しか存在を許さなくなったのである。これと「本末帳」とを併せて考えると、幕府は寛永期において寺院を固定化する明白な意図を持っていたと思われる。

寛永12年(1635)には、寺社奉行が設置された。その職務は寺社および寺社領に関する行政裁判を司ることであり、他に僧尼・神官・楽人・検校・連歌師・陰陽師・碁将棋所等を監督することも職務だった。楽人・連歌師・碁将棋所等の監督が入っているのが興味深い。

寛永14年(1637)には、島原の乱が起こる。これは農民一揆であったがキリスト教が反封建的理念として取り入れられたため、幕府は御用学者をしてこれを「純粋な宗教一揆と規定させ、それを阻止するという名目で、キリシタン禁制をし(p.60)」た。

また、日蓮宗不施不受派は権力の言いなりにはならなかったため、寛文5年(1665)、違法な信仰として弾圧した。ところが備前・美作・越後・佐渡については不施不受派の寺はその信仰を捨てず、非合法宗教として存続した。悲田宗(不施不受派の一派)も邪義として排斥された。

寺請制度は、全ての人間に檀那寺を定めさせ、檀那寺にその人間がキリシタンでないことを証明させるもので、寛永12年(1635)頃に全国一斉に実施されるようになった。寺ではこの頃に過去帳も作るようになる。そして、寛文初期(1660年代)には、全国の農村で「宗門人別帳」が作成されるようになり、寛文11年(1671)、幕府は「宗門改の儀に付御代官達」を出し、「宗門人別帳」は全国的に統一された同一形式のものとなった。

なお寺請証文は(おそらく寺ごとに)領主が集め、キリシタン改めをしたが、「宗門人別帳」は一村ごとに作成されている。ここに行政面での転換が窺われる。 「宗門人別帳」も当初はキリシタンや不施不受派・悲田宗の弾圧が念頭に置かれていたが徐々に行政的なもの、戸籍としての役割に変化していった。

そして寺院は、こうした行政事務の一端を担うことになった。幕府は諸法度によって本山を通じ寺院を統制した一方で、檀家寺の権益を保護して行政機構に組み入れたのである。庶民の側から見ると、生まれた時から決まっている檀那寺に法要や葬式のたびに収奪されることとなり、自然と信仰心は衰えていった。

「III 寺院整理」は、寛文期(1661〜72)に行われた保科正之の会津藩、池田光政の岡山藩、徳川光圀の水戸藩で行われた寺院整理が取り上げられる。

その前提として、幕府では寛文5年(1665)に「諸宗寺院法度」という、全ての宗派に適用される一括法が登場していた。この法度では、住持の資格・本末制度・檀家制度・徒党禁止・寺院修理の制限・寺領売買の禁止・僧侶の衣鉢服装・金銀をもって後住の契約をすることの禁止、女人の寺中宿泊の禁止等が定められている。これは元和までの法度に比べ総括的かつ寺院統制の強い姿勢が示されている。この法度が出た背景には、幕府のブレーンだった金地院崇伝(臨済宗)が寛永10年(1633)に死去し、林羅山(儒者)が登用されたことがあると考えられる。

元和までの法度は、「幕藩体制の宗教としての仏教の品位をいかに高めるか(p.92)」も考慮されていたが、寛文頃には「幕藩体制を強化するために仏教の理念とその経済力をいかに弱めるかに問題が移っていった(同)」。

そして、元和までの法度では本山を強化していたのに、今度は末寺・檀家の方を保護する政策へと変化した。また幕府は、寺請制度の弊害(檀家の存在が寺の既得権になったこと)を認め、農民保護へと舵を切った。

さらに、この法度とは別だが、同年、僧侶等が俗家に仏壇を設けること(つまり寺でないところを寺のようにしつらえること)、僧侶が寺以外で法談することや信者と集会することを厳しく禁じていることも注目される。

3藩の寺院整理については、著者の『神仏分離』でも触れられるものなのでメモは割愛するが、ごく簡単に紹介されている会津藩の事例が興味深かった。会津藩では幕府の宗教統制の枠からはみ出さず、新寺建設の禁止(新築寺院の破却)、住持の長く絶えた寺の再興の禁止、悪行の僧侶の追放など、いわば消極的な手法によって順調に寺院整理を行った。かなり強引に寺院整理をした岡山藩・水戸藩とは大きく違っている。

「IV 排仏論」では、1660年代から展開された仏教・寺院・僧侶への批判が紹介される。それらは主に、輪廻や須弥山、地獄極楽のような仏教理論を否定することと、寺院や僧侶が堕落していること、そして仏教が庶民を経済的に収奪していることの批判である。

藤原惺窩、林羅山、中江藤樹の排仏論が簡単に触れられ、本書では熊沢了介(蕃山)を最初の実践的排仏論者としてその主張を詳しく紹介している。「実践的」というのは、彼は岡山藩池田光政に仕えており、その理論が岡山藩の寺院整理に具体化したからである。

熊沢蕃山の主張は、(1)寺請制度・檀家制度の廃止、(2) 寺院建築の抑制、(3)寺領の縮小、(4)寄進の制限、(5)新建の禁止、などである。

これに対し、仏教側では一応反論を試みたものの、「儒者とわたり合って仏教防衛の論陣をはる僧侶は、ほとんど見出すことができなかった(p.151)」。そんな中で精力的な抗争を続けたのが道海潮音である。彼は聖徳太子の書として『旧事本紀大成経』(全72巻)を偽作した。この本の中で、潮音は仏教に都合のいいように歴史を書き換え、神仏儒の宥和を説くとともに、葬祭については仏教が行うのが当然と主張した。

しかし、この本が偽作であることは儒者たちに見抜かれ、版木は破棄されて潮音らは処罰された。ただし潮音の処罰は50日間の謹慎であり、それほど重くない。「依然仏教勢力が力をもちつづけていることが明白(p.176)」である。

「V 葬祭から祈祷へ」では、これまでの仏教を巡る幕政や言説に対応し、寺院側がどう対応・変化していったのかが述べられる。

まず、本末制度は幕府からもたらされたものであったため、最初から全ての寺院が上下関係で結ばれていたものではなかった。そこで、寺院間での上下争いが起こった。その事例として江の島の岩本院らの場合が紹介される。

岩本院は肉食妻帯で歴代の住職は血縁関係、上之坊は山の上にあって肉食妻帯せず、下之坊は漁師町にあって肉食妻帯。これら三か寺の本末関係が確立していなかったので、寛永・寛文・延宝・宝永期に争論が起こった。その内容は省くが、岩本院が江の島の支配権を確立し、上之坊・下之坊を末寺に編成したのである。この争いには、たくさんの参詣者がある江の島の弁財天信仰に伴う利権争いがあった。お札やお守りの利潤や旅宿業・御師の活動など、経済的な争いの側面が大きかったである。

ところでこの争論は、その都度寺社奉行で裁断されたのであるが、力関係による慣行の固定化や由緒書、朱印状といったものが重視されて岩本院が勝利した。その際、岩本院が肉食妻帯で、上之坊が戒律護持していたことは何ら争論に影響を与えていないように見える(上之坊はこの点を突いていたにもかかわらず)。それどころか血縁相続であったことは岩本院の発展に寄与したようにも見受けられる。幕府のいう戒律護持はどの程度本気だったのか疑問である。

次に檀家制度については、相模国足利郡千津嶋村の事例が紹介される。相模国全体では曹洞宗・古義真言宗・臨済宗の寺が数の上では圧倒的であり(計99か寺)、一向宗は僅か三か寺しかなく、この村には一向宗の寺は存在していなかった。ところが宗門人別帳を調べてみると、この村の一向宗の割合は過半数を超えていた。これは何を意味しているか。

第1に、幕府の宗教統制によって新寺の建立が禁止されたため、新興の一向宗は寺院数が実態より低く抑えられていたこと。第2に、檀家制度は葬祭を行う寺を定めるものであったため、祈祷中心の密教よりも一向宗にとって有利であり、一向宗躍進の要因となったのではないかと考えられることである。この2点については本書にははっきり述べていないが私はそう読み取った。

また檀家制度の詳細を見るため、千津嶋村の宗門人別帳の経年的な変化が記述されている。寛文・延宝期には一戸単位であったが必ずしも家族全員が同宗派ではなく、それが次第に戸主の宗派に統一されていく。天明期には五人組単位で記載され、また宗派も五人組の構成員全てが等しくなっている。なお「この五人組同宗派という政策によって、日蓮宗はすべて整理される結果(p.213)」となった。この村では日蓮宗は個人の信仰によって担われていたからである。

このようにして、個人の信仰から家の信仰へ、そして五人組によるものへと整理され、檀家制度が形式化していったのである。また宗門人別帳も初期には詳細なものだったが、やがて大雑把なものとなっていった。

こうして檀家関係が冷え切ったものとなると、庶民の素朴な願いを受け止められる存在ではなくなってくる。そういう願いを聞き入れたのが、小規模な庵を構えて庶民のささやかな現世利益を祈った「祈祷寺」である。先述のように、幕府は寛永8年以降には新寺を建立することを禁じていたのであるが、こうした小規模な「祈祷寺」は事実上寛永8年以降にも作られた。しかし実態としては庶民の信仰を集めながら、非合法的な存在であったためかそれらはほとんど葬祭檀家を持っておらず、祈祷檀家しかなかった。またそれらは寛文・延宝期には、村落における小規模な神社と積極的に結びついて別当寺となっていくのである。この点は頗る興味深い。

しかし幕府は仏教をあくまでも葬祭の宗教とし、遅くとも享保15年(1730)までには祈祷を否定した。その理由の一つとして鎮守の祈祷権を吉田神道に委ねる意図があったとしているが、これにどのような意図があったのかは詳らかでない。

ともかく幕府の思惑とは裏腹に、民衆の宗教は祈祷中心へと傾いていったのである。こうして「幕末から明治期にでてくる新興宗教あるいは国家神道は、いずれもこの祈祷を出発点とし、基盤として、祈祷信仰をもつ民衆をいかに組織していくか(p.243)」が眼目となった。

本書は最後に幕府の宗教政策によって寺院や僧侶が堕落した様子を描いているが、これは少し一面的な記述だと思った。どんな世界も堕落した部分があり、特に大組織のトップは堕落しやすいのは世の常である。そうした事例を少数引いてみたところで、仏教界全体が堕落していたかどうかは分からない。

このことも含め、本書は全体として辻善之助『日本仏教史 近世編』の影響が大きく、同書の枠組みを使って、事例を補足し、分かりやすく述べたものという感じがする。よって仏教の堕落史観などはやや古びており、幕府の宗教統制の全体像を述べるものでもなく、かなり恣意的に法度を選択して取り上げているように見受けられた。

とはいえ、幕府の宗教統制についてこのようにまとめてもらったことは有り難く、特に巻末にある「近世宗教史略年表」は非常に参考になった。というより、年表には本文に書かれていない様々な幕府の統制が掲載されており、特に江戸後期については年表頼みである。

江戸時代の仏教を幕府の政策から概観する良書。

【関連書籍の読書メモ】
『神仏分離』圭室 文雄 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/04/blog-post_27.html
神仏分離の背景と経緯を丁寧に描く本。各地の神仏分離・廃仏毀釈運動の推移から明治政府の神仏分離政策の核心を窺う良書。

 

2022年5月8日日曜日

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編

江戸時代の身分について考察する論文集。

江戸時代は身分社会だった。これは「階級社会」とはちょっと違う。もちろん身分には上下関係もあった。しかし社会がヒエラルキー的に構成されていたとイメージしてはいけない。そうではなく、社会が「身分」によってモザイク状に切り分けられていたと考えた方がいい。武士は威張ってはいたが、武士の領域から踏み出すことはできなかった。穢多や非人は虐げられてだけいたのではなく、自らの権利が侵された場合には堂々と奉行所に申し出たのである。

しかし江戸時代の身分が何だったのか、実はまだよく分かっていない。それどころか、ほとんど分かっていないと言ってもよい。本書には、様々な事例から「江戸時代の身分とは何か?」を考察した論文が収録されている。

1 近世の身分とその変容(朝尾直弘):身分とその表象としての格式の概説。士農工商というが、農工商の順での序列はなかった。身分制度は政治権力が設定したことで創出された、というような単純なものではない。「中世の身分が尊卑の観念を基軸にしていたのと異なり、近世のこの身分は社会的な機能分担(p.28)」の観念に基づいている。

中世の支配は主従制を基軸とする人の支配であったが、近世の支配は領域支配的であった。そしてその社会の構成員は、自らメンバーを選んだ。町人として町人に認められたものが町人であり、百姓として百姓に認められたものが百姓であった。18世紀以降、そのような認知の関係を金銭を媒介として制度化したのが「株」である。近世社会のいたるところに「株」があった。こうして「株」の売買によって身分が変わる現象が生じ、「身分が物権化した(p.40)」。

2 近世的身分制度の成立(横田冬彦):元々、私はこの論文を読みたくて本書を手に取った。「「戸籍制度」こそ、中世の身分制が持たなかったものであり、近世の身分制を近世的制度たらしめている第一の特質(p.42)」として、近世の「戸籍制度」が概説される。それは(1)慶長期の夫役(ぶやく)動員のための戸口調査(「人掃令」)、(2)慶長〜寛永末年のキリシタン禁圧のための宗旨人別改め、(3)寛永〜寛文期の夫役動員と宗旨人別改めが融合したもの、である。

(1) 人掃令では、村単位で1冊、家一軒ごとの記載で家族構成も調べられた。しかし未成年や女性については名前が載っていない。あくまで夫役動員が目的であったので、その対象外に関心がなかったのだ。人々は出家とか病気・負傷だとかにして夫役を逃れようとしたが、これはその村がどれだけの夫役を負担できるかを調査することが目的であり、そのものは徴発の台帳ではなかった。

(2) 幕府は当初はキリシタン名簿を作り、さらに転宗者名簿を作ったが、寛永期にキリシタン改めを大きく転換し、全ての民衆に町・村単位でキリシタンではないという起請文を出させることにした。特に寛永12年(1635)の改めは全国的なもので、キリシタンへ立ち返らないことを「デウス」に誓う「南蛮起請」も登場した。寛永14年が島原の乱。寛永末年までには改めの毎年実施が命じられるようになり、全住民の毎年登録という宗旨改め制度が成立した。この特徴は、信仰という個人の思想の調査であったため女子や子どもまで対象としたこと、思想は変わりうるものであるから毎年実施したこと、身分に関わらない全住民の悉皆調査であること、一方で住民を地域に緊縛するものではなく移動を許容する制度であったことである。

(3)寛永末年頃は、幕府の農政の転換期でもあった。寛永の飢饉などによる農村の疲弊を受け夫役徴発の軽減化が図られ、百姓を動かす現夫役ではなく石高に応じた米や銀による代納に変わった。またこうしたことを背景に、幕府は寛永21年(1644)に「家数人数万改帳」を作成し、夫役の負担にどのくらい耐えられるかを調査した。しかしその調査項目は宗旨人別改めと重なっていたため、それ自身は家屋・家畜調査なども含めた社会調査の性格を強く持つようになった。享保6年(1721)の全国人口調査令はその延長線上に位置づけられる。

また、幕府は大名に「大名宗旨証文」を毎年提出させ、それに併せて「切支丹宗門改人数目録」を提出させた。そこでは領地の全人口が家中・百姓・城下町人・えた・非人などに分類して示された。ここで、百姓は村の帳に登録された者であり、町人は町の帳に登録された者であったが、賤民は別帳とされたのも注目される。この「戸籍制度」による身分制度は、<武士ー平人ー賤民>というものだった。

本編は非常に参考になるものだが、僧侶という身分についてほとんど言及がないのが少し物足りなかった。<武士ー平人ー賤民>において僧侶はどう位置づけられるのか。そもそも僧侶は宗旨人別帳に記載されていたのか。より詳しく知りたい。

3 職人と職人集団(笹本正治):職人とは古くは特別な技能を持つ人一般を指したが、近世には技術者の意味合いに変化した。本編では、大工と鋳物師(いもじ)について取り上げ、技術者たちがどう自らを組織化し、職人の身分(権益)を確立しようとしたかが述べられる。近世当初では職人は身分であったが、例えば百姓が実際には大工で生計を立てるなど次第に身分と職業は乖離していった。であればこそ、本業の職人は自らの営業権を確立するためにも、広い範囲で職人を組織化し、領主や公家などの権威を借りて、正規の職人としての権益を守ろうとしたのだった。「近世に天皇制を支えていた一つの力として職人組織があったことは疑いない(p.122)」。

4 近世の障害者と身分制度(加藤康昭):本稿は本書中の白眉である。近世において障害者はどのような身分だったか? 領主は、農業経営をなしえない者を排除するため、人畜改めで障害者を把捉した。そのために障害者の記録が今に残されることになった。近世社会で障害者の多くがどういった扱いを受けていたのかは謎が多いが、盲人については史料がたくさん残っている。盲人は盲僧となる道があった。盲僧は、盲僧寺に所属し、頭の下で組織され、定期的に檀家を回って琵琶を断じてお経を読む、呪術的宗教者である。ただし都市部では呪術性を払拭して芸能者となり法師体を残しつつ「座頭」と呼ばれるようになった。

なお、本筋とは逸れるが座頭に関して非常に興味深い事例が紹介されている。元禄9年(1696)、岡山藩で座頭の慶作が暴行される事件が起こり、奉行へ訴え出た。慶作の身元を吟味してみると、藩には無届けで座頭に弟子入りしており、人別帳ではまだ仁三郎となっていることが判明し、この手続きが問題視された。座頭側では、頭を剃り名を改め、施物も受けているので座頭であると申し立てたが、藩側では出家や座頭など百姓を抜けるには郡奉行に願い出て藩の許可を受ける必要があるとし、結局慶作は追放になった。この事件で興味深いのは2点。(1)座頭になるには改名を要したが、その名前は僧名ではなく俗名であること、(2)出家・座頭になるには藩の許可を要したこと、である。特に(2)は、おそらく藩の方では本当に目が見えないのか吟味したのであろう。なお人別帳では、「座頭・瞽女は一般村民とは別に、出家・社人・山伏、その他諸芸人・被差別民などとともに最後に書き出されるのが普通(p.150)」だった。

琵琶法師たちは僧侶というよりは芸能民として自らを組織化し、座ができあがった。そして幕府によって「当道式目」が定められ、それに対応する形で惣検校を頂点とする全国組織ができあがった。この組織は73もの階級があり、官位は実態としては金で買われた。俗に「検校千両」と言われ、最高位の検校になるためには合計で約千両必要だった。しかし高位の盲官を得れば、役職に伴う収入もまた大きかったし、惣検校ともなれば将軍のお目見えが許されるなど身分的には高位の武士に相当した。しかし次第に官位の魅力は低下し、座頭金というサラ金のような高利貸しが座頭の間で流行るようになった。官位を買うための蓄財を原資に座頭が金貸しを始めたのだ。一方社会の方でも盲人に施しを与える余裕がなくなっていった。

明治政府は、障害者についても配当・勧進を禁止し、全国民統一戸籍を編成する過程で「盲人仲間を含む近世の諸仲間・諸身分の撤廃を行った(p.177)」。さらに明治4年11月には盲人の官職が廃止された。盲官廃止令によって解散した盲僧仲間は明治9年に天台宗の宗派として再組織されたが徐々に分散し、明治30年代に鍼・按摩を軸とした全国組織へと再結集していった。

5 武士の身分と格式(笠谷和比古):大名の間の身分・格式、大名の家臣の身分・格式の概説。本編はなんとなく分かっているつもりの親藩・譜代・外様の違い、国持大名、城持大名とは何か、朝廷官位と武士の身分、江戸城殿席といったことがまとまった非常に参考になる内容。特に徳川幕府の年始の賀式が身分をはっきりと表象する場だったということが興味深かった。またそれらは非常に複雑であり、「当時の社会の人々の間でも知悉しえないものであった(p.208)」が、身分・格式は完全に固定されていたわけではなかったので、大名や武士たちはそれが少しでも上昇するよう腐心していた。家格の維持のためには幕府にたてつくことも厭わなかった南部家の事例は、武士にとって格式とは何かを象徴しており印象的だった。

6 下層民の世界(塚田 洋):えただからと言って一方的に差別され、収奪されるというわけではない。えたも己の権益が侵された場合は、堂々と奉行所へ訴え出た。えたという「身分」は下には置かれていたが、その権益は保護されるべきものだと見なされていたのである。同様に様々な下層民が利害集団としてあった。その一例として「目明かし」が取り上げられている。これは身分というよりは職業だが、その他下層民の職も利害集団化しており「木戸番」の交替事例は興味深い。「権助」という木戸番が、45両でその職と道具(=つまり株)を後任に譲った例では、同時に権助という名前まで譲っているのが面白い。名前までが役職化するのである。また家守(マンション管理人+町の運営を委託された存在)の事例で、元来はそれが家持(不動産の持ち主)が任命するものであったのが、任免権が弱体化したためか、家守の役が物権化していく様子は、近世の「役の体系」の一端を垣間見るものである。

7 意識のなかの身分制(間瀬久美子):職人や下層民は自らの権益を確保するため、「由緒書」を偽造した。そうしなければ寛永以降は諸役免許が得られなかったのである。特に被差別下層民はその由緒を天皇や朝廷と関連づけていた。また木地師が白川家を、鋳物師が下級公家の真継(まつぎ)家を戴いたように、公家の権威を借りることは、財源を欲していた公家の思惑とも合致していたため盛んになった。既に戦国期に「職人受領」(職人に「加賀守」のような名前を与えること)があったが、近世では私称が多くなったため幕府は近衛家の求めに応じてこれを取り締まった。しかし勅許受領は少ないままで、公家からの私的な許しを得た半ば違法の職人受領が多かった。受領名を許す公家の方に金銭的メリットがあったからに他ならない。本編では、さらに雛人形を飾る風習の大衆化を述べ、公家文化が幅広い層に浸透したことが述べられる。松平定信が朝廷を模した「古今雛」(原題の雛人形の原型となったもの)を弾圧したのが興味深かった。

8 「かわた」身分とは何か(畑中敏之):「かわた」とは穢多身分のことであるが、河内国の「かわた村」には、百姓を遙かに凌ぐ富豪がおり、しかもその数は少なくなかった。さらに18世紀後半から19世紀、百姓村では飢饉等で人口停滞・減少が続いていたのに、かわた村では自然増によって大幅に人口増加した。それには、村の経済が雪踏製造という土地に依存しないものを基軸としていたことが背景にあった。かわた村は大坂の問屋(平人)と全く対等に価格交渉しており、しかも「この交渉のために(中略)大坂市中にて長期間逗留している(p.320)」。ということはそれを可能にする経済力のみならず、彼らを平人とともに逗留させる宿があったことを示す。さらに、平人からかわた村の住人に(「人別送り証文」で)移籍したものもいる。貧困の中で差別に逼塞していたというイメージとは違うのである。しかし彼ら自身、「自分たちは穢多ではない。百姓だ」と主張していたが、やはり「かわた」として認識されていた。しかも、もはや実際に被差別・貧困といった実態がなくなっていても、「なおそのような”実態”をもつ「かわた」身分として認識されていた(p.344)」のである。被差別階級の身分観を覆す論考。

9 移動する身分(高埜利彦):富士山の登攀口にある須走(すばしり)村の御師と百姓の対立を描く。須走村は富士山噴火のため農業が潰滅し、富士山信仰の参詣客の収入をあてにするようになった。そして多くの百姓が実際には御師(参詣客を導く役目)と変わらない実態を持ちながら、御師14名が連名により誓約を交わし、御師身分を固定することにした。これは百姓を御師の仕事から閉め出すことを意味していたので、百姓と対立した。18世紀中頃には、吉田家から木綿手繦(ゆうだすき)を掛ける許状をもらい、神職身分としての性格を強めていった。吉田家では全国の神社を統括する立場を確立したい思惑から、身分的に不安定だった御師を積極的に取り込んだのである。本編では、「身分」というものが創出される一例が示されている。

本書は、全体として江戸時代の身分とはいかなるものであったかがボンヤリと浮かび上がってくるものとなっている。江戸時代の身分は、<武士ー平人ー賤民>という大きなヒエラルキーの他は上下関係としては捉えられていなかった、というのは確かのようだ。しかも武士は支配階級として上にはあったが、それにしても絶対に服従しなくてはならないというようなものではない。職人や下層民は利害団体を組織し、それを「座」とか「株」のような形で表現した。そしてそれが金銭によってやりとりされるようになり、身分が物権化して一種の流動性を獲得するのである。またそれに一役買っていたのが朝廷権威であったというのが興味深い。

ところが近代の身分は、こうした在り方とは異質なものである。近代の身分は、「四民平等」を掲げながら、江戸時代よりも身分を「上下関係」として表象したもののように思えて仕方がない。ではどうして身分の在り方は近世と近代で変わってしまったのだろうか? 本書にはもちろんその答えは書かれていないが、非常に大きな問題提起を投げかけられた気がする。

近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

 

2022年5月4日水曜日

天皇はなぜ現人神になったのか

 天皇はなぜ現人神になったのか。

簡単なようでいて難問である。多くの日本人は漠然と、戦時中の軍部がその無茶な戦いを遂行するために天皇を神にしつらえ、絶対主義体制を作り上げたのだ、と思っている。

しかし生身の人間を神にしつらえるなんて荒唐無稽なことが、軍部の強制だけによってできるはずもない。そこには思想的な地固めとでもいうべきものが、江戸時代以来、長い時間かけて準備されていたのである。

江戸時代の思想的変転の全体像がクリアに概観できるのが渡辺 浩の『日本政治思想史』である。

【読書メモ】
『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_11.html
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_14.html

中世になって政権が武家に移ると、天皇の権威は形式的なものになり、江戸時代には名目上のものだけになっていた。江戸時代には天皇は実質的な権力を持っていなかったのである。

これが、幕末にかけてどんどん天皇の権威が高まっていく。しかも不思議なことに、朝廷が何かやって権威が高まったのではない。むしろ朝廷は一貫して何もしていなかったのに、勝手に天皇の権威が高まっていったのだった。そしてそれを演出したのは、皮肉なことに幕府の御用学問たる儒学(朱子学)だったのである。

朱子学は、現実の社会よりも理念的・観念的な——というより、建前的・官僚的な——理屈を推し進め、実際には徳川は武力で政権を握ったのに、「天皇から大政を委任されたから」政権を担っているのだ、と理論化した。そうであるならば、天皇からの信任を失ったら幕府は政権を返上しなくてはならないことになる。ここに「倒幕の思想」が静かに胚胎していた。

朱子学は、元来は統治の学であったのだが、その形式論を推し進めた先に思わぬ変容を遂げたのだ。朱子学は忠君を叫びながら、実際には革命を準備することとなった。

その変容を、儒者たちの文章を丹念に読み込むことで明らかにしたのが山本七平の『現人神の創作者たち』である。

【読書メモ】
『現人神の創作者たち』山本 七平 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/03/blog-post.html

儒者たちは、何も最初から革命を考えていたわけではない。それどころか、彼らは民はあくまでも「お上」に忠実でなくてはならないと考え、仮に「お上」が滅ぼうとも忠を貫かなければならないと見なしていた。

その極端な「殉忠の思想」を喧伝したのが、山崎闇斎の弟子浅見絅斎である。浅見絅斎はその著『靖献遺言(せいけんいげん)』で、 政権の存在とは無関係に忠を貫いた人々を描いた。特に、「忠」や「孝」といった個人倫理を貫き通すことに絶対の価値を置いて死を選んだ謝枋得(しゃ・ほうとく)について長大に語り、後に幕末の志士たちが大いに鼓舞されることとなった。浅見絅斎は、統治の学、組織論だったはずの朱子学を個人倫理として再編集したのである。

これこそが、幕末の志士たちが何の役職にも就いていないうちに天下国家を論じる土台でもあった。今であれば、「日本を変えたかったら政治家にでもなれば?」と言われるところを、あくまでも個人倫理としての「忠」や「義」から国政を論じ、行動することを可能にしたのである。

そしてその「忠」の向かうところが、天皇であった。彼らは天皇を絶対化することで徳川幕府を相対化した。自らを天皇の「臣」であると規定することで、幕藩体制から飛び出したのだ。いや、相対化されたのは徳川幕府のみではない。あらゆる階層の人が相対化されていったのだ。

橋川文三は、『ナショナリズム——その神話と論理』で、その相対化によって「国民」が創出される様子を描いた。

【読書メモ】
『ナショナリズム──その神話と論理』橋川 文三 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/05/blog-post.html

吉田松陰が水戸学と出会い、歴史を「発見」して、その中心に「忠誠心」を据えたことは、後の日本の行く末を暗示しているようで興味深い。そして「忠誠心」の向かうただ一つの先である天皇に対する「億兆」として、天皇以外の人々が相対化されることになったのである。

そして天皇を超越的な支配者とし、それによって全ての階級を相対化する一種の平等思想が生まれていく。日本における「平等」の概念は、まずは「天皇の前における平等」として構築されたのである。極端に言えば、日本では国民があって、それを統べる者として天皇があったのではない。逆に、天皇がまずあって、それに従うものとして国民が生まれたのである。

とはいっても、明治維新の政策担当者たちが最初から天皇を神として描いていたかというと、そんなことはなかった。

坂本是丸は、『明治維新と国学者』で微に入り細に入り、明治政府における宗教政策を検証している。

『明治維新と国学者』阪本 是丸 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_11.html
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/02/blog-post_13.html

明治政府の宗教政策を担ったのは国学者たちであったが、彼らが目指したのは古代の「天皇親祭にして天皇親政」の体制であった。つまり、天皇自身が神を祀り、同時に政務を執る、という体制だ。彼らにとって天皇は祭祀王であり同時に宰相でもあったということになる。

彼らは、天皇自身が政権を担っていた古代律令制の再現を目指していた。そして彼らの構想は、一時的には実現した。明治2年、太政官の上に「神祇官」が置かれ、「大教宣布の詔」によって神道が国教の地位に据えられた時、彼らが目指した祭政教一致の国家が実現したのである。

しかし国学者たちはそれ以上の構想を持っておらず、時代の変化に合わせて自らの思想を展開させていくことが出来なかった。結局彼らは政権の中枢から体よく遠ざけられ、彼らの理想であった古代律令制は雲散霧消してしまった。

こうして国学者たちの理想は潰えた。表面的には、日本を神の国と見なす狂信的なナショナリズムは修正を余儀なくされ、日本は暫く「万国公法」に従って西洋化に邁進することになる。

ところが国学者たちが政権から遠ざけられてなお、「国学的な態度」はそこに居座り続けていた。本居宣長以来、国学者たちが涵養していた態度だった。

小林秀雄は大著『本居宣長』で、宣長の学問の核心を執拗に追求している。

【読書メモ】
『本居宣長(上・下)』小林 秀雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/04/blog-post.html

その核心とは、「古代人になりきって古典を読む」ことだ。それは古典に対する正確な読解を行うことを可能にし、『古事記伝』という不朽の業績を成し遂げたが、副作用として、古典に対する一切の批判精神を放棄することをも意味していた。

そしてそれこそが、私には「国学的な態度」の始まりだったと感じられる。『古事記』や 『日本書紀』にどんな荒唐無稽なことが書かれていても、それはそのまま真実であると受け止めなければならないのだ。

このことは、江戸時代の国学者たちにとってすら難しかった。なぜなら、記紀の全てが事実であるはずなどないのだから。実際、本居宣長と上田秋成の間で、神話が事実であるかどうかを巡って「日の神論争」と呼ばれることとなる論争が起こっている。

当時の議論を鑑みると、宣長は非合理なことを主張しており、どう見ても分が悪かった。ところがこの態度が平田篤胤に引き継がれると、神話の世界はこの世とは別のレイヤーに存在しているのだ、という風に変わってくる。篤胤はその世界を「幽冥界」と呼んで実在するものとして扱い、熱意を込めて大量に論述した。

神話を事実として扱う態度は、篤胤によって確立されたと考えて間違いない。

しかしその篤胤ですらも、天皇を神であるとは見なしていない。それどころか篤胤は、天皇も死ねば幽冥界に赴き、幽冥界の主宰神であるオオクニヌシの審判を受けるものと考えた。篤胤の天皇観と現人神とはかなりの距離があった。

実際、明治の政策担当者たちも、誰一人として天皇を神にしつらえるプランは持っていなかった。それなのに、天皇はどんどん神に近づいていった。天皇が神になったのは、誰かの意図した結果ではなかったというのは確実である。

ただ、今の私には天皇が現人神になっていくその過程を説明する力がない。

一つ言えることは、明治後期から大正・昭和初期にかけて現人神という観念が確立してゆくが、それが「国体」の観念と並行して構築されていった、ということである。

そしてそれは、思想的あるいは宗教的に構築されたものではなく、行政的に、もっとあけすけに言えば「内務省的」に出来ていった。

そういう過程は、向坂逸郎編『嵐のなかの百年』に窺うことが出来る。

【読書メモ】
『嵐のなかの百年—学問弾圧小史』向坂 逸郎 編著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/06/blog-post_23.html

本書は明治から昭和初期にかけての学問・言論への弾圧がどのように行われたかを述べたもので、その中には、重野安繹、久米邦武、喜田貞吉、津田左右吉のケースが取り上げられている。こうした学者たちの、学問的に穏当で至極妥当な書物がひとたび右翼主義者の注目するところとなるや盛んに攻撃が加えられ、「国体を毀損する」「国体の明徴に疑義を生ぜしめる」などといって学説が危険なものであると喧伝された。

そして神聖不可侵な「国体」と、その中心にいる神としての天皇=現人神が出現したのである。それは内務官僚と右翼主義者、国粋主義者たちの、なりゆきまかせの共同作業であった。

であるから、戦後、GHQは国家神道を解体し、また天皇の人間宣言はなされたが、誰一人として東京裁判では「天皇を神にしつらえた罪」には問われていない。もちろん、誰か一人をその罪で裁くことは不可能だったし、おそらく連合国にはその意図も無かったのだろう。

しかし、明治以降の日本が、世界征服までも考えて狂信的な軍事国家となっていったその背景には、確実に「神の国」観念があったし、その国を統べる現人神の存在があったのである。

21世紀に、再び天皇が現人神になることは、おそらくないだろう。それでも、なぜ天皇を現人神にしてしまったのか、その反省をちゃんとしないことには、同じような間違いが起こらないとも限らない、と思うのである。

 

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