2021年11月21日日曜日

『日本茶の自然誌―ヤマチャのルーツを探る』松下 智 著

茶の原産地と日本への伝来について述べる本。

著者の松下智は茶の原産地研究の第一人者である。本書は100ページに満たぬ小さなブックレットであるが、著者のこれまでの研究が簡潔にまとめられている。

著者の研究キャリアの出発点となったのは、茶の原産地はどこかという昭和28年に提議された問題で、特に日本には「ヤマチャ」と呼ばれる自生の茶があったことから、渡来説と自生説が対立していた。著者は日本の「ヤマチャ」研究に着手して日本各地の産地に足を運び、10年を要して「日本のヤマチャは中国から渡来した茶が自生化したもの」との結論に達した。

その時は中国は国交自由化していなかったため原産地調査はできなかったが、その後自由化されて著者は西双版納(シーサンパンナ:雲南省南部)だけでも9回も訪問して茶の原産地と思われるところを特定した。本書は、そうした一連の研究を一般向けにまとめたものである。

そもそも茶は、東アジアの照葉樹林帯の本来的な構成植物ではないようだ。茶は照葉樹林文化圏において広範囲で焼畑植物として栽培されていたが、それは自然に任せた栽培ではないのである。茶の木自体は本来山地(高山性)の植物なのだ。

ヤマチャは暖地に多いが特に九州山地に多く、山奥であっても消費地に運んでいけるところに生育している。これは茶が人々の自家用で栽培されていたというより、最初から商品作物として栽培され、それが自生化したことでヤマチャが生まれたのではないかということを示唆するのである。また遺伝的にもヤマチャは中国の品種と等しい。このような状況証拠を積み重ね、著者は「日本に茶の原産地は認められない」と結論づけた。

では茶の原産地はどこか。著者は中国・東南アジアを調査し「茶は雲南省南部の山中に原産したが、その地方に住んでいた人々は茶の木を利用するということはなく、漢文化がこの地方に及んでから茶の利用が始まった」と考える。少数民族の茶の栽培と利用、茶の遺伝的多様性(葉っぱが大きな大葉種とか高木性の茶の木、逆に小さな茶の木などがある)などを調査した結果である。

また茶の原産地問題を考慮するにあたり、ベテルと呼ばれるものが取り上げられる。これは「アレカヤシ(ビンロウジュ)」 の実をキンマの葉に石灰を塗ったもので包んで口にする古くからの嗜好品である。ベテル(檳榔)文化圏と茶の文化圏が雲南あたりで重なり合っていることは注目される。雲南あたりも元来はベテル文化であったものが、茶の効用を知り飲茶へと変化していったことが予測できるからだ。

こうして生まれた茶の文化は、どうやって日本まで到達したか。本書では唐代から宋代の「華中・江南ルート」(抹茶)、明代から清代の「華南・閩南ルート」(蒸した茶を揉む煎茶の製法)が簡単に検証されている。しかしながら、中国側の事情には詳しいものの、日本側のことについてはちょっと手薄な印象であり、概略的な説明である。ちなみに、このあたりは日本側資料を詳細に分析した神津朝夫『茶の湯の歴史』がずっと参考になる。

最後に本書では日本の茶文化の成立について語っているが、高尚な「茶の湯」ではなくて、どちらかというと僻地に残った古い茶の製法や飲み方について述べている。茶は「タンニンの渋みを味わうもの。茶の他に渋みを味わう食材はほとんどない」という指摘は、簡単ながら頷くところ大であった。柿にはタンニンが豊富だが、柿の場合は渋みを抜いて食べるのでタンニンを味わうというのは日常生活では茶だけかもしれない。

なお、より詳細な茶の原産地研究については、その後『茶の原産地を探る』として出版されている。

茶の原産地についての著者の半世紀にわたる研究が簡潔にまとまっている本。

 【関連書籍の読書メモ】
『お茶のきた道』守屋 毅 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/11/blog-post.html
お茶の起源をめぐるフィールドワークの記録。西双版納の旅行記は茶の原産地の記録として面白い。

 

2021年11月17日水曜日

『お茶のきた道』守屋 毅 著

お茶の起源をめぐるフィールドワークの記録。

著者はお茶の研究者ではなく、日本文化(芸能や民俗)を専門とする国立民族学博物館助教授(当時)だ。しかしお茶の起源について興味を持ち、機会を捉えて中国や東南アジア等に「観光」に出かけていく。観光といっても実態はフィールドワークに近い。本書はその旅行記をまとめたものである。

「第1章 茶の原郷を訪ねて」では茶の原産地と考えられている西双版納(シーサンパンナ)、四川に赴く。シーサンパンナとは雲南省の最南部、ラオスとの国境に接するところでタイ族の自治区である。ここは長く外国に閉ざされたところだったが1979年に外国人が訪れることができるようになったため、著者らはここを訪れる。ここでは、「茶樹王」と呼ばれる野生の大茶樹(野生とはいいつつも、かつて栽培されていたものが野生化したもの)、焼畑による茶園の造成(茶は焼畑の植物であるという性格が強い)、プアール茶の栽培と販売の様子などを見ている。ここには遺伝的にも、利用的にも多様なお茶が存在している。

茶はシーサンパンナで生まれたが、それを「文化」にまでしたのは四川である。四川では大まかに緑茶、紅茶、そして「辺茶」が作られている。辺茶とは、辺境向けの茶であり、チベットや青海省へ運ばれていく。これは長い距離を輸送するため、レンガ状(楕円形もある)に固められた茶であり、本書ではその製法を詳しく紹介している。なお、固められたお茶をより広く総称して磚茶(緊圧茶)と呼ぶ。 

「第2章 <たべるお茶>をもとめて」では北部タイとビルマに赴く。食物の歴史を考えてみると、茶が最初からお湯で煮出して飲むものだったとは考えがたい。茶もその起源においては食べるもので、それが発展して飲み物になったのだろう。と考えると東南アジアにある「ミエン茶」はその起源的形態に近いのかもしれない。ミエン茶は、ひとつまみのミエン(茶葉)に塩を加えてくちゃくちゃ噛み続けるガムみたいなものである(ただし最終的には飲み込む)。時にはナッツや生姜、肉や脂を加えることもある。

著者はこのミエン茶がどのように生産され、消費されているか実地調査した。具体的にはタイの農村に分け入り、僅かな手がかりからミエン畑(茶畑)とその加工を行っている村を訪れたのだ。ミエン畑は高木の茶畑である。畑といっても整然としたあの茶畑ではなく、焼畑から自然発生的に生えてきた茶の木、しかも無剪定の大きな木によじ登って葉っぱを摘む。この葉を蒸して、それをキレイに束ね、土中の穴に1ヶ月から1年つけ込む。ミエンとは茶の漬物なのである(ただし塩漬けするわけではない)。

一方、ビルマでは「ラペ・ソゥ」というたべるお茶がある。これは付け合わせのおかずと一緒に食べるお茶である。ミエンのようにくちゃくちゃ噛むのではなくレッキとした食べ物だ。こちらの方も、生産・加工している村を探して著者は奥地へ分け入っていく。ここでも茶樹は剪定しない高木性のものとなっている。ラペ・ソゥは茶の葉を茹でて揉み、水にさらして出来上がるが、本格的にはさらにつけ込みの作業をする。竹筒に茶を入れて密閉し、8ヶ月ほど土の中で熟成させるのである。2年間は保存がきくという。

「第3章 世界の紅茶地帯をゆく」ではアッサムとシッキムに赴く。この頃アッサムは政情不安定でインド政府はアッサムを外国人に閉ざしていたため、著者らは「アッサムを訪れた最初の日本人団体客」だったそうである。ではなぜ入域が認められたのかというと、それが学術研究ではなく「観光」だったからだそうだ。アッサムといえば紅茶で名高いわけだが、アッサムがどんなところなのかは私自身全くイメージがなかった。著者によればアッサムは「日本の中世」のようだということである。アッサムの街並みは「洛中洛外図屏風」や『一遍聖絵』に描かれた風景を彷彿とさせるという。紅茶の産地が日本の中世のようだったとは面白い。

ちなみにアッサムには元々茶の文化はなく、アッサム茶を「発見」したイギリス人によって産業として紅茶の生産・製造が導入されたものである。著者はダージリンにも訪れているが、こちらもいかにも植民地産業的な茶栽培が行われている。ミエンとかラペ・ソゥのお茶のような、古く自由な栽培とは全く異質な、工業的な茶園が広がっている。

ダージリンのそばにシッキムがある。アッサムよりもさらに秘境だったのがシッキムで、著者らはアッサムには割とあっさり行くことができたがシッキム(インド軍の統治下にあった)には入るのに苦労し、しかもほぼ入域の許可が下りなかったためたいした見聞はできなかった。さらに著者らはネパール、チベットへ赴いている。チベット式のお茶の取材とともに、文化面の記述が多い。

「第4章 茶堂・碁石茶・釜炒茶」では、四国山地へ赴く。四国には「茶堂」と言われるものがある。これは山中の街道の路傍にあって、道をいく旅人がしばし疲れをいやしたお堂である。他の地域でいう「辻堂」にあたり、おおよそ一間四方で、中にはご本尊の石仏などがある。かつてはこの小さなお堂で旅人を茶でもてなしたことから茶堂を言われるようになったそうだ。私は茶堂について以前興味を持ったものの満足な情報が得られなかったことがあるが、その実態を知ることができて大変参考になった。

ではなぜ四国には「茶堂」があるのか。ここに面白い統計が紹介されている。明治25年の段階で、愛媛のお茶栽培面積は静岡について全国2位だったというのである。かつて一時期、愛媛は全国有数の茶産地だった。これは松山藩や伊予藩が茶業を奨励していたためらしい。そのためか四国には「茶堂」のような独特の茶文化があるのである。さらに阿波晩茶、土佐の碁石茶は極めて特異な製法のお茶であり、日本国内では類例がない。むしろ東南アジアの茶に近いような製法なのである。しかしながらそれがどのような来歴によるものなのか、両者に関係があるのかは全くの謎である。

全体を通じ、本書は茶の研究書ではなくて紀行文であるため平易で読みやすい。しかも他では得られない現地情報が生き生きと述べられており、学術的にも参考になる部分が多いと思われる。なおお茶がその起源において食べられるものであり、しかも入手が困難な辺境地帯にもそれが辺茶として運ばれているということは、単なる嗜好品ではなく栄養学的な根拠がありそうなものだが、本書はあくまで紀行文であるためそうした分析はなされていない。

それから、お茶は原産地においては、焼畑の後の自然発生的な植物として栽培され、剪定もされない粗放な管理が普通な一方で、加工にはかなり手間がかかっている。東南アジアでは多種多様なお茶が作られているが、全てに共通して加工には手間がかかるのである。唯一の例外はラペ・ソゥの簡易版である。食べ物よりも飲み物の方に手間をかけるというのは世界中で普遍的な現象だが、それがお茶にも当てはまるのが面白い。

一つ心に残ったことは、第2章の「たべるお茶」の文化はタイやビルマの若者にはすでにあまり馴染みがなく、本書執筆の時点において消え去りつつあるものとして描かれているということだ。茶の文化は、いろいろな地域で多様に育まれてきた。しかしそれが資本の力によって画一化され産業となっていく。新しい茶の文化は高効率ではあるかもしれないが、土着の豊かな文化を潰滅させてしまうという面も否定できない。しかも古いお茶の栽培の仕方・お茶の飲み方・食べ方は現代化した暮らしに合うものでもない。本書は消えゆく文化の記録としても読めるだろう。

茶の起源を巡る貴重なフィールド・ノート。

【関連書籍の読書メモ】
『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会』角山 栄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/04/blog-post_19.html
茶の近代貿易のありさまを通じて歴史のダイナミズムを感じる本。植民地化と茶についても詳しい。

 

2021年10月11日月曜日

『ベートーヴェンとバロック音楽—「楽聖」は先人から何を学んだか』越懸澤 麻衣 著

ベートーヴェンがバロック音楽からどのように影響を受けたか述べる本。

バッハを「音楽の父」と呼ぶことがある。しかし近代西洋音楽の父は間違いなくベートーヴェンの方である。ベートーヴェンは、西洋音楽の歴史を転回させたといっても過言ではない。それまでの古典派音楽と比べると、ベートーヴェンの音楽の響きは恐ろしく現代的だ。ところが驚くべきことに、この独創的な音楽を作った男は、名をなしてからも過去の音楽を学び続けており、実は伝統的な書法に基づいて曲を作っていたのである。

ベートーヴェンが生きていた頃は、まだバッハが再評価される前だったし、ヘンデルですらも「メサイア」以外はさほど演奏されていない(ヘンデルの全集が出たのはベートーヴェンの晩年だった)。ベートーヴェンは、いわば「自然体」ではそうした古い音楽を利用することはできなかったのである。彼は積極的に、わずかな機会を捉えてバロック時代の音楽の楽譜を手に入れていた。

本書では様々な証拠から、ベートーヴェンが入手していた楽譜、聞いていたはずのバロック音楽を推測・整理している。それは、現代の目からは非常に限られたものであると感じる。バッハについては、『平均律クラヴィーア曲集』以外若い頃のベートーヴェンはほとんど知らなかった。1801年から『バッハ作品全集』がホフマイスター社により刊行され、ベートーヴェンはこれを手に入れたらしいが遺産目録にはこの楽譜は完全には残されていない。

ところがこの限られた環境で、ベートーヴェンはバロック音楽を非常に熱心に研究した。楽譜の一部をスケッチ張に書き写し、自作のアイデアに活かしたのである。それはほぼ対位法的なものに限られ、フーガが探求された。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』でもフーガは何曲も書き写されているのに、プレリュードは一曲もそこに登場していない。なおベートーヴェンは若い頃からバロック音楽に関心があったらしいが、特に集中的に楽譜を書き写して研究したのは1817年頃である。47歳ほどの頃ということになる。既に名声と作曲スタイルが確立してからこうした研究を行っていることは特筆すべきことだ。

その研究の結果生まれたのが、<ハンマークラヴィーアソナタ>作品106のフィナーレのフーガである。この「非常に斬新に響くこの楽章は、しかし「技法」として見るならば、伝統的なフーガの技法をほぼ網羅的に使用している。とりわけ逆行形は、理論書には説明されていても、実際に作品に用いられるのは珍しい(p.118)」 と述べられ、本書では詳細に分析されている。このソナタは傑作であるばかりでなく、「ピアノ・ソナタの歴史の転換期をなす(p.120)」ものとなった。

さらにこのフーガ書法は、<大フーガ>作品133、<弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調>作品131などで活かされているが、これらについての紹介は簡略である。<大フーガ>については有名な作品でもあり、もう少し丁寧に解説してもらえたらありがたかった。

一方、ヘンデルからの影響については、 <「ユダス・マカベウス」の主題による12の変奏曲>WoO45が取り上げられ、ヘンデルの音楽をいかにベートーヴェンがアレンジしたかという視点で考察されている。また当時からヘンデル風とされた<自作主題による32の変奏曲>WoO80と<献堂式>序曲作品124についてそのヘンデル的特徴を分析している。

さらに分析は晩年の大作<ディアベッリ変奏曲>作品120へ進む。この有名な変奏曲で、ベートーヴェンははじめの方では近過去の音楽の書法を用い、終盤にはバロック音楽的な変奏曲となっていく。特に終わりの第32変奏はヘンデル的な長大なフーガとなる。この第32変奏の何が「ヘンデル的」なのかの解説は大変参考になった。

そしてベートーヴェン自身が最高傑作と位置づけていた<ミサ・ソレムニス>作品123。その<クレド>は壮麗な二重フーガで書かれ、バッハやヘンデルに比肩するものとなった。この作曲にあたり、ベートーヴェンはバッハの<ロ短調ミサ曲>を知っていたかどうかは論争となっているが、状況証拠を総合してみると「曲の存在自体は知っており、楽譜の一部も見たことがあったかもしれないが楽譜自体は持っていなかった」というところらしい。むしろベートーヴェンは<ミサ・ソレムニス>作曲後に<ロ短調ミサ曲>への関心が高まったようである。

さらに晩年、ベートーヴェンはヘンデルの様式でオラトリオ<サウル>を作曲しようとした。当時のウィーンではヘンデルのオラトリオ人気には陰りが見えていたが、オラトリオ自体は非常に重要な形式であり、折よくオラトリオ作曲の委嘱を受けたベートーヴェンはかなりのこだわりでこれに向き合ったようである。しかし具体的な作曲作業に入らないうちにベートーヴェンは死去してしまった。

ちなみにバッハについては、ベートーヴェンはいわゆる「B-A-C-Hモティーフ」を使って生涯に何度もバッハを顕彰する作品を作ろうとした。 フーガや序曲の構想がスケッチ帳に残されている。これらは結局完成させられることはなかったが、もしベートーヴェンが「バッハ序曲」を完成させていたら、その後のバッハ受容史は変わったものになっていたかもしれない。

本書ではこれらの他、コラムとして「バロック音楽を愛したパトロンたち」と題してべートーヴェンのパトロンが取り上げられている。具体的には(1)ヴァン・スヴィーテン男爵、(2)ルドルフ大公、(3)リヒノフスキー侯爵、の3人である。

ルドルフ大公はベートーヴェンの唯一の作曲の弟子であり、ルドルフ大公が対位法書法に関心を抱いていたことがベートーヴェンの作曲活動にも影響を与えていたかもしれない。リヒノフスキー侯爵はライプツィヒ大学で学んでおり、最初のバッハ伝を編んだフォルケルとも親しかった。1796年、ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵とライプツィヒやベルリンを巡る旅をしており、その詳細は不明ながらバッハとベートーヴェンを繋ぐ一つの要素であったと考えられる(ちなみに1789年、モーツァルトもリヒノフスキー侯爵と同様の旅をして、ベルリンで印象深いバッハ体験をした)。

なおコラムには取り上げられていないが、ラファエル・ゲオルグ・キーゼヴェターという人物にも興味を持った。彼は古い音楽に興味を持ち、多くの楽譜を蒐集。1816〜38年にかけて定期的に「歴史演奏会」を開催した。そこではバッハやヘンデルが取り上げられ、「この時期のバロック音楽、あるいはさらに古いルネサンス 音楽についてのキーパーソンであり、ヴァン・スヴィーテン男爵亡きウィーンでは、貴重な存在であった(p.209)」という。

本書は、著者が東京藝術大学に提出した博士論文を元にしたものだが、とても読みやすく平易にまとまっている。ただし基礎的な楽典の知識を有していた方が理解はしやすい。とはいえ楽譜はいくらか挙げられているものの、楽典的説明を読み飛ばしても論旨の理解には問題ないと思われる。

ベートーヴェンとバロック音楽についての繋がりを丁寧に解きほぐした良書。

【関連書籍の読書メモ】
『ベートーヴェンの生涯』青木 やよひ 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/11/blog-post_23.html
実証的な資料によって構成したベートーヴェンの伝記。偉大な音楽家の真実の姿を平易に述べる、ベートーヴェン伝の新しい基本。

 

2021年10月8日金曜日

『石仏の旅 西日本編』庚申懇話会編

石仏を巡る旅のモデルコースを紹介する本。

本書は、普通の旅行ガイドとはちょっと違う。有名な石仏を巡るのではなくて、有名ではなくても、見所のある・変わった・興味深い石仏を見、そして(驚くべきことに)その旅の途上にある何気ない石仏にまで注意を向けるものだからである。

本書の構成は、西日本の各県(県単位でないのも若干ある)について石仏巡りのモデルコースを設定し、概ね公共の交通機関を使って見に行ける石仏を紹介する、というものである。このような、地味ではあるが極めて文化的な旅のガイドブックが出版されていた、というだけで素晴らしいことである。

また、こうしたガイドブックを作った「庚申懇話会」の活動もすごい。「庚申懇話会」は全国に会員を有し、庚申塔の研究は元より路傍の石仏までも含めて研究し続けた団体である。これを主宰していた小花波平六(こばなわ・へいろく)さんにも興味が湧いた。

本書は西日本各県の石仏を網羅的に紹介するものではなく、いわばハイライトするものであるから、各県の特徴がよく出ていて面白い。

例えば和歌山にある「不食供養碑」のことは初めて知った。これは女性(未成年も含む)が毎月1日、3年3月の間断食をして供養をする信仰のようだ。「紀の川沿いの旅はまた、不食供養碑をたずねる旅でもある(p.48)」というほど多くの「不食供養碑」があるそうだ。

それから京都市内には江戸期の庚申塔が1基を除き存在しないのだそうだ。あれほど全国を席巻した庚申信仰が京都市内でほとんど存在しないというのはなぜなのか。本書でもその理由はわからないとされている。

滋賀県は本格的な磨崖仏があり、また「宝塔、宝篋印塔の一大天国(p.75)」なのだそうだ。富川磨崖仏、狛坂磨崖仏、妙光寺山地蔵磨崖仏などが紹介されており、特に狛坂磨崖仏については「花崗岩半肉彫り磨崖仏ではわが国で最も雄大なもの(p.78)」という。

徳島県には板碑が多い。1500〜2000基はあるのだという。私も知らなかったが、徳島県には板碑を作るのに使う青石(緑泥片岩)がよく採れるのだそうだ。

長崎には六地蔵塔が多い。「県下のどこにでもあり、珍しくない(p.168)」というとおり、たくさん紹介されている。私はこれまで六地蔵塔といえば鹿児島県と思っていたが、長崎が強力なライバルだったようだ。鹿児島と長崎の六地蔵塔の比較はこれまで誰もやっていないように思う。

ちなみに鹿児島では、大隅路、薩摩路、指宿周辺の3つのモデルコースが紹介されている。知らなかったのは、蒲生の漆(うるし)にある庚申塔が大永3年(1523)で九州最古のものであるということ。なんでこんなところに九州最古の庚申塔があるのか不思議である。

さらに宮之城には享禄4年(1531)の庚申塔があり、これは九州で2番目に古い。これは塔婆の形式のうえからも貴重な資料だそうだ。なお庚申信仰は鹿児島では田の神と習合しており、県下で19の庚申田の神があるのだという。

また非常に興味を覚えたのは、入来の浦之名麓の古春(こしゅん)にある三十三観音の石塔である。これは鹿児島県にただ1基ある珍しいものだそうだ。いつかぜひ見てみたい。

全体を通じ、全部モノクロなのと写真がそれほど多く掲載されていないこと、また実際に行こうと思ったらちょっと地図が頼りない(大雑把すぎる)ことが欠点であるが、読むだけでも石仏の世界の多様性を感じることができ、非常に優れた本である。このような本が出版される時代がもう一度来ることを期待したい。

地味な石仏の世界を楽しく案内してくれる真に文化的な旅の本。


2021年9月24日金曜日

『第二の性 II 女はどう生きるか』ボーヴォワール著、生島 遼一 訳

『第二の性』、5分冊のうちの第2巻。

本巻では、「妻」「母」「社交生活」「娼婦と囲い女」「成熟期から老年へ」という章分けで、成人してから亡くなるまでの女性の生活が活写される。

「第1章 妻」では、結婚制度が再考される。

女性にとって結婚は大きな意味を占めている。将来の方針を尋ねると「結婚したい」と応える若い娘は多い。しかし男性も同様に結婚はするはずなのに、そのように応える男性は少ない。それは、男性の成功は主に経済的成功であって結婚は副次的なものであるが、女性は経済的成功を自ら手にすることができないために、結婚を通じて成功するしかないからである。もちろん職業につく女性もたくさんいることはいる。だが女性の職業はしばしば不利で給料が安いので、仕事での成功を追い求めるよりは結婚に落ちついた方が有利なのである。そのため、結婚自体にも女性に不利な点は多いのに、結局は女性はそれを自ら望んで行うのである。

結婚は愛し合う二人のゴールだと見なす考え方がある。しかしボーヴォワールは、それが幻想であることを執拗なまでに例証する。むしろ結婚とは愛の否定ですらあるというのが著者の考えのようだ。ちなみに数多いその例証の一つに挙げられているのが「無痛分娩」への反対だ。この頃、「陣痛は母性本能の出現のために必要だ」というような理由で、「無痛分娩」に反対する男性がいた。しかし母性本能云々は彼らにとってさほど重大な理由ではなく、その実は「女の負担が軽くなることをよろこばぬ若干の男達があるというのが実状(p.25)」だったのである。この「無痛分娩」への態度は、現代の日本でもほとんど変わっていないのではないかと驚かされる。

では、女の不幸や苦痛を喜ぶ男がなぜいるのか? 愛し合って結婚したはずの妻の負担をも軽減しようとしない男がいるのはなぜなのか? それは、結婚が「制度」であるためだ、と著者は考える。結婚前の、互いに自由な、愛によって結びついている段階では、男女はお互いをいたわり、尊重する。しかしひとたび結婚するや、二人を結びつけるものは愛でもいたわりでもなく「制度」なのである。夫婦生活が味気ないものであってもそこから逃げ出すことはできないから、時として嗜虐的な行動に出る男性(女性も)が出てくるのである。

手垢のついた言葉ではあるが、結婚は自由意志を弾圧する、という意味で「牢獄」なのだ。 しかし結婚が「牢獄」だとしても、男性が活躍する場はたいてい職場であるから、それほど気に病むことはない。だが女性は結婚すると家庭に閉じ込められる。だから彼女の仕事は「この牢獄を一つの王国に変えること(p.56)」になる。それは家や衣服を清潔に保ったり家具を調えたりすることであって、「善」を建設することではなく、「悪」を追っ払うこと、つまり果てしない現状維持の仕事である。「家庭の主婦の仕事ほどシジフォスの刑罰によく似たものは(p.62)」ないのだ。

こまごまとした雑用を好きになり、そういうものを愛するように自分を仕向ける女性も多い。趣味よく調えられた部屋を作りあげることはひとつの創造的行為かもしれない。しかし多くの場合、やはりそれは本当の意味での(つまり経済的に報われる)やりがいのある仕事ではない。 女性は、終わることのない面倒な雑務を押しつけられていながら、重要な仕事には何一つ関与させてもらえない。というのは夫は妻を無能だと見なしているからだ。「女性には無理だよ」といいながら夫は妻から重要な仕事を取り上げ、代わりに「誰でもできる簡単な仕事」を大量に押しつけるのである。

この議論が展開されていけば、話は自然と「家事の平等分配」に移っていくと予想される。女性だけが家事をやらされるのは不平等だと。ところがボーヴォワールはそう進まない。むしろ結婚制度自体が無用だと糾弾するのである。「夫婦のあいだに誠実と友情が存在するためには、そのための必須条件は二人がともに互に自由であり、具体的に平等であること(p.110)」なのだから、本当に「愛」が存在するのならば、自由を縛る結婚「制度」はむしろ害悪なのである。

もちろん、幸せな結婚生活を送る夫婦も少なくはない。 本書に大量に引かれる不幸な結婚の事例が極端なものであることは著者も認めている。しかし結婚の失敗は少なくない数で起こっている。そしてそれは、個人の選択ミスというよりは、結婚という「制度そのものが根本的に頽廃している(p.132)」ためなのである。結婚が、女性を不当に従属的にするとしたらそんな制度はないほうがいい。

そして、女性に男性と同様の経済的自由が与えられない限りは、「家事の平等分配」のような見せかけだけの平等は意味がない。「深い本質的な不平等は、男は労働者あるいは行動の中に具体的に自己完成ができるのに、妻の方は妻であるかぎり、その自由は消極的な形のものでしかない、ということから来る(p.133)」。そういう不平等を助長するのが結婚制度なのである。要するに、女性は自己実現の機会を結婚によって不当に奪われているのである。

「第2章 母」の出だしはちょっと奇異である。それは、堕胎の問題から始まるからだ。当時(約70年前)、フランスでは堕胎は非合法だったが、それに頼らざるを得ない女性たちがいた。社会は胎児の権利を保護することには熱心だったのに、いったん生まれた子どもには無関心で、女性への支援など眼中になかった(←今の日本と同じ!)。だからこそ女性達は望まない妊娠をしたとき、やむなく堕胎をしたのである。それなのに社会は堕胎した女性たちを断罪した。堕胎には男性にも責任があるはずなのにそれはなかったことにされ、全てを女性に押しつけたのである。

堕胎への断罪は、女性がおかれた状況を象徴するものである。子どもを産むということは男女がともに関与することなのに、実際には女性にのみその重みを負わせているということなのである。

このように始まった「母」になることの検証は、「妻」に引き続き厖大な例証によって暗鬱な様相を帯びるが、その要諦といえば「母性<本能>などというものがそれほどはっきり存在しないことを示す(p.182)」ことにある。

世間では「母性本能」なるものを当然とみなして、「お母さんなら赤ちゃんがかわいいはずだ」「子どもの世話に幸せを感じるはずだ」などという。もちろん親にとって子どもは大切な存在だし愛おしいことが多い。しかしながらそれを世話するのは楽ではないし、しかもそれが母にだけ一方的に押しつけられているならなおさらだ。子育てを通じて「母性愛」が女性を満足させるなどというのは間違っている。子どもをたくさん産んでも「不幸で、ヒステリックで、不満な母親がたくさんある(p.201)」

結局、「母性愛」も社会が女性に押しつけた都合のいい神話に過ぎないのである。赤ちゃんや小さい子どもの世話をするには、自分の生活を犠牲にしなければならない。実際、毎日のほとんどすべてを子どもの世話に献げなくてはならない女性は、結局は自分のやりたいことを諦めるのを学ぶ。ひとたび自分の意欲を封印してみれば、子どもの世話にかかりっきりになる生活にもそれはそれで充実はある。しかしずっとそういう生活をしていると、やがて「子ども」が自分の失われた人生の埋め合わせと見なされてくることが多い。こうなると子どもの成長にもよくない親子関係になっていくのである。

子どもを持つことが男性にとっての最高目的ではないように、女性にとってもそうではない。「女に一切の公的活動を拒否し、男性がいとなむような職業を閉ざし、あらゆる領域において女の無能をはっきり公言しつつ、<人間の形成>というもっともむつかしく、もっとも重大な仕事を女にゆだねるというのは許しがたい矛盾(p.205)」なのだ。

その問題を解決するため、ボーヴォワールは子どもの世話は大部分外部委託する(≒保育園)ことを提案する。その方が子どもの人間形成にもいい影響があるし、なにより「もっとも豊富な個人的生活をもっている女こそ子供にもっとも多くを与え、子供からはもっとも少なく要求する(p.207)」のである。そして「子供は大部分は集団によって負担され、母もちゃんと世話され援助されている場合は、母になることは女が働くことと絶対に両立せぬのではない(p.206)」のだ。このあたりの議論は、保育園に入れないために「保活」などというものをしなくてはならない今の日本の状況にぴったりはまってくる話だろう。

「第3章 社交生活」では、女性の人付き合いについて述べており、今の言葉でいえば「社会生活」のことである。 が、ここで述べられるのは、女性が社会生活を営む上ではおしゃれが必須になっている現況である。もちろん男性もしっかりした服装は着なければならない。しかし男性の場合は社会的地位や仕事の能力の方が重要であるため、外見にはそれほど気を遣う必要は無い。一方女性は、社会からモノとして扱われているために、どう装うかがその価値を大きく左右する。だから女性は「自分をひとに見せたい気持ちと、そんなことはいやだという気持ちとに分裂する(p.212)」ことも多い。

ここに描かれる姿は、約70年前のそれであるにも関わらず今の日本と全く同じである。本書に引用されるコレット・オードリィの描く女性の毎日は驚くほど「現代的」だ。それは美容に気を遣い、健康食品を食べ、アンチ・エイジングに血眼になる姿である。「美容雑誌は無限に更新される処方で彼女に息もつがせぬ(p.221)」。女性にとっておしゃれは、「武器、看板、護身用の物、そしてまた推薦状(p.220)」であるから、それは半ば義務なのである。

女性は中身がないから外面を着飾るのだ、というような批判は当を得ていない。例えば素晴らしい頭脳を持った女性学者がいたとする。しかし彼女が不美人でおしゃれに気を遣っていなかったら、人は彼女は不完全であるという印象を持つ。女性は能力が十分にあるだけではだめなのだ。見た目も麗しくなくては! 社会は、女性におしゃれを強いているのである。

このような議論を展開した後、女性同士の人付き合い(家に招待することなど)について述べ、そして話は不倫へと展開していく。先述の通りボーヴォワールは結婚制度について口を極めて攻撃するのであるが、その理由の一つとして夫婦が互いに性的に満足することはめったにない、ということを挙げている。それは結婚制度は「肉体的な愛」を基盤としていないからである。だからボーヴォワールは、結婚と性的関係は区別した方がいいのではないかという。つまり結婚していても、互いの性的自由は認めてもいいのではないか、と。実際、ボーヴォワールはサルトルと事実婚の状態にあり、深く愛し合ってはいたのだが、互いの性的自由を認めていた。

しかしながら、世界中の社会で、結婚は排他的な性的関係の樹立と等しい。それは人為的な制度ではなく文化人類学的な基盤を持ったもののように思える。ボーヴォワールの提案はちょっと無理があるような気がした。

「第4章 娼婦と囲い女」は、女を売りにする女のことが語られる。まず、娼婦が存在するのは、女性が堕落した存在だからではなく、女性が職業的に差別され、経済的に弱いからだとしている。ある種の女性は「社会にちゃんと入れてもらえず、大都会の中に見失われたようになっている(p.258)」から、そういう「仕事」を選ぶのである。売淫の存在は、女性の堕落を示すのではなくて、社会の悪さに依るものなのである。

そして当然、娼館に通ってくる男性の需要があるからこそ、その商売は成り立つ。女性が堕落しているとするなら、男性も堕落しているとしなければならない。しかし男の方は、娼館では堕落していたとしても、一歩そこを出れば立派な顔をしているのである。だから娼婦たちは、男が振りかざす高尚な道徳や立派そうに見える品位といったものを鼻で笑う。

一方、「囲い女」の方はこちらとはちょっと違う。「囲い女」とは、「自分の全人格を資本とかんがえて利用する、そういう女たち全部(p.277)」を指す。つまり「女を武器としている女」だ。「逆説的な言い方では、女としての武器を徹底的に利用する女は、ほとんど男性に劣らぬ立場をつくることができる(p.278)」。彼女は「男性社会」に完璧に適合し、それを逆手に利用する。これは女性の生き方としては最も自己実現を図れるもののようだ。ところがボーヴォワールは(予想されるとおり)、この生き方を積極的には評価しない。結局、彼女は「男性社会」に寄生しており、その道を突き進む限り本当の自由を手に入れることはない、ということのようだ(はっきりとは書いていない)。

「第5章 成熟期から老年へ」では、更年期から老年が語られる。更年期あたりになると、女性は自分の人生を無駄遣いしたように感じ、未だ何も成し遂げていないことに愕然とする。そして今のうちにできることをやっておこうと齷齪(あくせく)するが、やがて閉経を迎えて老年に入っていくと、むしろ女性は自由を手に入れるのである。それは「女性であること」から解放されるからだ。女性は「女性」としての価値を失って初めて、社会が彼女に押しつけていた義務から逃れられる。「彼女はまた流行や世間ていをはっきり無視し、社交的な義務や摂生や美容の手入れなど一切ごめんこうむる(p.300)」。

だから老境においては、女性は男性よりもかえって生き生きし出す。それに男性は職業を退くと社会生活においてはほぼ無用の存在と化すが、女性は家庭を切り盛りするという今や重要な仕事を手にしている。「夫にとって彼女は必要なものだが、夫の方はただ邪魔ものでしかない(p.318)」のだ。男性と女性の立場は逆転し、「ついにここで彼女は、世界を自分自身の目で眺め出す(同)」。こうして封じ込まれていた批判精神が自由に働くようになるとはいえ、それは老境の慰み程度の意味しか持たないのだ。

全体を通じ、本書に描かれる女性の姿は不幸をかなりデフォルメしている、というのは誰しも感じるところだろう。幸せな女性だって世の中にはたくさんいるのだから。だが本書が言いたいのは、個別の女性が幸せであるか不幸であるかということよりも、社会の構造自体が女性を抑圧している、ということなのである。本書の価値はまさにそれを徹底的に論証したことにある。

本書(原書)の刊行時、本書は女性の「性」の問題をあけすけに取り上げたことでスキャンダルな反応を引き起こし、ために世界各国でベストセラーになった。しかしそれは本書の価値の一端でしかない。刊行から約70年経ち、女性問題への理解は格段に進んでいるが、それでも本書が言っていないことはそれほど多くないのではないか、と思わせるほど、本書は包括的に女性問題を取り上げている。女性問題がまだそれほど認知されていなかった時代に、これほど総合的で徹底的で、容赦ない本を書いたということは奇跡的だった。

 

【関連書籍の読書メモ】
『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/07/blog-post_31.html
この巻では、女性が生まれてから成年になるまでを取り扱っている。


2021年9月12日日曜日

『コーヒー・ハウス—18世紀ロンドン、都市の生活史』小林 章夫 著

17世紀に勃興したロンドンのコーヒー・ハウスについて述べる。

イギリスと言えば紅茶で、コーヒー(カフェ)はフランスの文化だと思われている。が、実は17世紀のロンドンはコーヒー・ハウスが大繁盛し、そこでは活気ある世界が展開されていた。

イギリスはモカの産地である現イエメンを植民地としていたためコーヒーが輸入され、この新規な飲み物を提供する店が、新しいライフスタイルの提案とともに登場したのである。

それは、第1に情報交換と仕事の場、第2に言論とニュースの発信地、第3に文芸・文化の交流の場、であった(本書でこのような章立てがされているわけではない)。

第1の点「情報交換と仕事の場」については、当時のロンドンの住宅事情がからんでいた。ロンドンは過密都市で、ボロ屋が犇めき衛生的でもなかった。これは1666年のロンドン大火でその大部分が焼け落ちたことで改善され、家が石造りに変えられたりはするものの、過密都市であることは変わらなかったので家賃が高く、狭小で汚く、当時の個人住宅は人を呼べるようなところではなかった。そして家賃が高いということは、商売をやっている人が事務所をもちたくてもおいそれと持つことはできないということだ。

そんなわけで、コーヒー・ハウスは商売人(この時期、投資家がたくさん登場した)にとって事務所のような場所として活用されるのである。郵便もコーヒー・ハウス留めにして受け取っていた。当時は電話もないので事務所を開いてもそこだけで仕事ができるわけではない。それよりは、市場関係者や事情通が集まる場所にいて仕事する方が効率がよかった。

また、ものを販売するにしても、ショーウィンドウがあるような時代ではない。コーヒー・ハウスに商品を置かせてもらい、欲しい人にその場で販売するのが合理的だった。であるから、当時のコーヒー・ハウスの内部はいろいろな商品(怪しげなものもたくさん)が所狭しと置かれた雑貨屋的なところでもあった。 

他にも、世界最大の保険機構である「ロイズ」は元々コーヒー・ハウスであった。ロイズは客のために海事ニュースを提供し、海上保険の元締めとして不動の地位を占めていく。ロイズは最初から保険会社だったのではなく、海事情報を提供するコーヒー・ハウスだったというのが面白い。ロイズは、正確な情報が商売には一番大切だということを分かっていたのである。

なおこのようにコーヒー・ハウスが商売に利用されたのは、それが当初はノン・アルコールの店だったということも影響していた。イギリスではパブで飲んだくれるのが日常茶飯事であったが、いくらたくさんの人が集まる場所であっても酔っ払っていては仕事はできない。コーヒー・ハウスはノン・アルコールの”真面目な"店であった。

第2の点「言論とニュースの発信地」については、コーヒー・ハウスはお金さえ払えれば誰でも入ることができたので(コーヒー代と別に入場料のようなものを取った)、身分に関係なくいろいろな人が出入りした。身分というものが非常に強力であるイギリスの社会において、コーヒー・ハウスは「人間の<るつぼ>」としての役割を果たした(ただし女性は入店できなかった)。

そしてそこでは、新聞や雑誌が置かれて回し読みされ、また時事問題についての議論が自由に交わされたのである。当時は新聞や雑誌は非常に少部数でしか発行されなかった上、当然のように高価なものでもあったので、コーヒー・ハウスに置かれることには集客上の利点もあった。そこに貴賤の人々が雑多な情報を持ち寄っていたから、政府広報的な情報のみならず市井の生きた情報が集まることとなり、コーヒー・ハウスでの話題や人々の批評が新聞や雑誌に掲載されていくというジャーナリズムが育っていくのである。

特に雑誌と呼べるものができたのがこの時代であり、デフォーの『レビュー』、スウィフトが主筆だった『エグザミナー』、リチャード・スティール創刊の『タトラー』などが18世紀前半に矢継ぎ早に創刊される。特に重要な存在が1711年に創刊された『スペクテイター』(なんと毎日発行)で、この雑誌によってイギリスの雑誌は一挙に隆盛した。『スペクテイター』は当時の文化風俗を知るのに不可欠な有名な雑誌である。こうした雑誌が生まれる母体となったのがコーヒー・ハウスだったのである。

なおコーヒー・ハウスにおける自由な言論・政治談義は、時の政権にとって好ましくなかったのは言うまでもない。そこで1675年にはチャールズ2世が「コーヒー・ハウスは不満分子の根城になっている」としてコーヒー・ハウスの閉鎖令を出したこともある。しかし既にコーヒー・ハウスはさまざまな階層の人にとって欠くべからざるものになっていたため、大反対に遭ってこの命令は10日後に撤回されるのである。

しかしながら、開放的で自由な言論・政治談義がコーヒー・ハウスで行われたのはそんなに長くなかった。次第に政治的な立場によってどの店にいくか決まるようになっていったからだ。そしてやがては会員制のクラブが交流の中心となっていくのである。

第3の点「文芸・文化の交流の場」については、著者の専門がイギリス文学であるためにかなり詳しい。17世紀の文芸(詩作・劇作)というものは、著者が書斎で呻吟しながら書き上げるものではなく、大勢の前で披露し、批評され、それに応じて書き改めるといった公的な場でつくりあげる性格を持っていた。であるから、コーヒー・ハウスにおける交流が文芸の中心、つまり「文壇」となったのである。この時代の、いわば文壇の流派は「ウィル」「バトン」「ベッドフォード」といったコーヒー・ハウスに分かれて存在しており、それらの店の特徴やそこに集まった文士たちについて本書では詳しく触れている。

そしてコーヒー・ハウスは中産階級における読書の啓発にも大きな役割を果たした。17世紀後半には、まだ本は高価で普通の人の手には届かなかったし、また図書館も不十分だった。一方で雑誌の普及や小説の登場(例:デフォーの『ロビンソン・クルーソー』)などにより、中産階級の読書欲も高まってくるのである。そこでコーヒー・ハウスでは、店内で本が買えるようになるばかりでなく(=つまり本屋の機能もあった)、18世紀には店内に図書室を設けて本が読めるようになっていくのである。

18世紀のコーヒー・ハウスには、今風にいえば「ブックカフェ」が流行ったのである。 また貸本屋や本の共同購入サークル(本を回し読みする)、そして「読書会」もコーヒー・ハウスを舞台として行われた。コーヒー・ハウスは読書文化の発信基地でもあったのである。

このように様々な面で時代の先端を走ったコーヒー・ハウスだったが、その栄華は長く続かなかった。17世紀後半から18世紀前半までの約100年がコーヒー・ハウスの栄えた時代であり、特に活発な活動や展開が見られたのはその前半50年に過ぎない。

ではなぜコーヒー・ハウスは衰退したのか。その理由としては、(1)数が増えすぎて需要を超えた、(2)モラルが低下し賭博やアルコールの提供が行われるようになった、(3)コーヒー・ハウスの発展にともなって店ごとに客層が固定化し、「人間の<るつぼ>」でなくなった、(4)オランダによってジャワ・コーヒーがヨーロッパにもたらされて、イギリスのモカ・コーヒーが競争力を失いコーヒー輸入が減少した(それを埋め合わせるように茶の輸入が増大する)、(5)ロンドンの住宅事情が改善された、といったことが挙げられている。

ただし、1849年の報告で、ロンドンには2000軒のコーヒー・ハウスがあって労働者で賑わっている、うち500軒には付属図書室があって労働者が読書にふけっている、といった情報があるので、18世紀後半には衰退したといっても、19世紀半ばにもかなり繁盛しているのも間違いない。コーヒー・ハウスの勃興期の研究はいろいろあるらしいが、衰退期の研究はあまりないようで、どのように衰退していったのかは不明な点もあるそうだ。

本書はコーヒー・ハウスの歴史を多面的に追うもので、時系列的ではないので混乱する部分もあるが筆は平易で読みやすい。ただし、副題に「18世紀ロンドン」とあるものの、分量的には17世紀の記述の方が多いくらいで、18世紀についてはほぼ前半に限られている。また先述のとおり著者はイギリス文学を専門にしているためその面は詳しい一方、逆に言えば他の文化についてはあまり触れられていない。

例えばこの時代は演奏会が勃興してくる時期と重なっているが、コーヒー・ハウスはそれにどう関わっていたのか(関わっていなかったのか)。そのあたりはもう少し書いて欲しかった。

ロンドンのコーヒー・ハウスについて多面的に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『生活の世界歴史〈10〉産業革命と民衆』角山 榮 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/12/10.html
本書の参考文献として「17世紀から19世紀のイギリス社会、生活について概観したもので、日本人の手になるものとしては最も包括的で、また面白く読める本といえる」と紹介されている。コーヒー・ハウスについても詳しく述べている。

 

2021年8月30日月曜日

『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』吉川 宗明 著

日本における岩石信仰について整理する本。

岩石信仰とは、「岩石を用いて霊を信仰した信仰体系全般を指す(p.76)」。 つまり岩石そのものを神とみなしたり、岩石が神の依り代となったりする信仰だけでなく、祭祀の中で石が使われたり、特に石を神聖なものとみなしていなくても特別な役割が与えられている場合をも含め、著者は岩石信仰と呼ぶのである。

著者は、岩石信仰を体系的に考察するための学問的基盤を作ろうとしているようだ。 

本書では、まずこれまでの岩石信仰の先行研究を整理する。この部分だけでも私には大変参考になった。本居宣長、柳田國男、折口信夫といった先駆者たちの業績、今では学界からは冷笑されているが当時は大きな影響を及ぼした鳥居龍蔵の巨石文明論、神社界から「イハクラ」を研究した遠山正雄、神道考古学を提唱し石神・磐座・磐境の概念整理をした大場磐男、その他民俗学や仏教学からの研究が手際よく紹介される。

そうしたこれまでの岩石信仰研究では、しっかりした学問的枠組みがないまま、自身が「見たいものを見る」式の研究が行われてきたきらいがあった。祀られている巨石をなんでも「 磐座(いわくら)」と見なしたり、それどころかたいして祀られていなくてもそれらしい岩を「 磐座だ」としてしまうようなところがあった。信仰とは外からは見えないものも多いので、研究者がそう言えば地元の人も「あの岩は磐座なんだ」と納得してしまう場合さえあったのである。

そうした反省に基づき、著者は非常に抑制的な態度で岩石信仰を見る。「巨石」とか「磐座」のような曖昧で価値判断を伴う概念を避け、ある程度はっきりと評価できる機能面に注目して岩石信仰を体系的に分類していくのである。

著者の分類では、A. 信仰対象、B.媒体、C.聖跡、D.痕跡、E.祭祀に至らなかったもの、という5つの大分類があり、さらにそれぞれが中・小分類に分かれていく。特にB.媒体は中分類・小分類・その細目があり、例えば「BABB.岩石の上に別の依代が置かれて祭祀される」とか、「BCA.神聖な空間や祭祀空間を示す岩石」といったような細かい分類がアルファベットを用いて規定されている。これは帰納的に作られた分類で、あまり信仰の内面に立ち入らないで構成されたものである。

もちろん全ての岩石信仰の事例がどれか一つのカテゴリに収まるというわけではなく、信仰はいろいろな性格を持っているのでBABB.でありまたBCA.である、といったようなケースも出てくる。そういう重複はありながらも、この分類は誰がやってもある程度似たようなところに決まってくるもののように感じた。けっこう優れた分類である。

ただし、この分類法の欠点は、BABB.とかBCAというようなアルファベットの羅列がわかりづらいことである。もうちょっとわかりやすい表示の仕方はなかったのだろうかと思ってしまった。

それはともかく、このような分類作業を行ってから、ケーススタディとしていろいろな岩石祭祀の事例を提出し、またそれが分類のどこに当たるのかを考察している。先ほど「誰がやってもある程度似たようなところに決まってくる」とは書いたものの、実際には信仰・祭祀がどのようなものであったのかははっきりとはわからない。何しろ、岩石そのものに霊性を感じていたかどうか、というようなことは当時の人に聞いてみないとわからないことで、しかも聞いてみたとしても人それぞれの考えがあったかもしれない。よって著者は様々な状況証拠からそれを考察しており、優れた分類があるからあとは当て嵌めるだけ、というような作業ではないのも事実である。

そしてケーススタディの部分は、当然だが事例列挙的であって、やや行き先を見失いそうになる部分である。どのような意図で提出された事例なのか最初に書いてくれているとわかりやすかったかもしれない。しかしながら、このケーススタディによって、著者が強調する岩石信仰の「多様性」の一端を垣間見ることはできる。

全体として、著者の目的と思える「岩石信仰を体系的に考察するための学問的基盤づくり」は十分に達成している。大げさに言えば、本書は岩石信仰研究の上で画期的なものである。

ただし本書は、著者自身が言うように「木や水などではなく、なぜ岩石を信仰したのかという根源的な問いに対する回答を用意できていない(p.313)」し、岩石信仰は日本人に何をもたらしたのか? といった思想史的な部分についてはほぼ全く手がつけられていない。だが、こうしたより深い研究に移っていくための基盤の部分までで本書を終わらせたのは、物足りない感じがする一方で好感も持った。あくまでも学問的な姿勢を崩さず、安易に「岩石信仰とは…」と語らないのが本書のよさである。今後のさらなる研究に期待したい。

なお、岩石信仰の分類では、石仏・磨崖仏・墓石のようなものは対象外になっているようである。石で作られる祭祀の道具といえば誰でも真っ先に墓石が思いつくし、本書でも紹介される大護八郎『石神信仰』、五来重『石の宗教』などの先行研究でも、そうしたものが「岩石信仰」の中心をなしている。石仏などはあくまでも素材としての利用だからということで省いたのだろうか。どのような整理を行ったのか記述してもらいたかったところである。

岩石信仰に学問的基盤を与えた画期的な本。

【関連書籍の読書メモ】
 『石の宗教』五来 重 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/05/blog-post.html
石仏を民間宗教の側から読み解く。石仏の奥にある、石自体の神聖性に着目した刮目すべき本。