2021年9月12日日曜日

『コーヒー・ハウス—18世紀ロンドン、都市の生活史』小林 章夫 著

17世紀に勃興したロンドンのコーヒー・ハウスについて述べる。

イギリスと言えば紅茶で、コーヒー(カフェ)はフランスの文化だと思われている。が、実は17世紀のロンドンはコーヒー・ハウスが大繁盛し、そこでは活気ある世界が展開されていた。

イギリスはモカの産地である現イエメンを植民地としていたためコーヒーが輸入され、この新規な飲み物を提供する店が、新しいライフスタイルの提案とともに登場したのである。

それは、第1に情報交換と仕事の場、第2に言論とニュースの発信地、第3に文芸・文化の交流の場、であった(本書でこのような章立てがされているわけではない)。

第1の点「情報交換と仕事の場」については、当時のロンドンの住宅事情がからんでいた。ロンドンは過密都市で、ボロ屋が犇めき衛生的でもなかった。これは1666年のロンドン大火でその大部分が焼け落ちたことで改善され、家が石造りに変えられたりはするものの、過密都市であることは変わらなかったので家賃が高く、狭小で汚く、当時の個人住宅は人を呼べるようなところではなかった。そして家賃が高いということは、商売をやっている人が事務所をもちたくてもおいそれと持つことはできないということだ。

そんなわけで、コーヒー・ハウスは商売人(この時期、投資家がたくさん登場した)にとって事務所のような場所として活用されるのである。郵便もコーヒー・ハウス留めにして受け取っていた。当時は電話もないので事務所を開いてもそこだけで仕事ができるわけではない。それよりは、市場関係者や事情通が集まる場所にいて仕事する方が効率がよかった。

また、ものを販売するにしても、ショーウィンドウがあるような時代ではない。コーヒー・ハウスに商品を置かせてもらい、欲しい人にその場で販売するのが合理的だった。であるから、当時のコーヒー・ハウスの内部はいろいろな商品(怪しげなものもたくさん)が所狭しと置かれた雑貨屋的なところでもあった。 

他にも、世界最大の保険機構である「ロイズ」は元々コーヒー・ハウスであった。ロイズは客のために海事ニュースを提供し、海上保険の元締めとして不動の地位を占めていく。ロイズは最初から保険会社だったのではなく、海事情報を提供するコーヒー・ハウスだったというのが面白い。ロイズは、正確な情報が商売には一番大切だということを分かっていたのである。

なおこのようにコーヒー・ハウスが商売に利用されたのは、それが当初はノン・アルコールの店だったということも影響していた。イギリスではパブで飲んだくれるのが日常茶飯事であったが、いくらたくさんの人が集まる場所であっても酔っ払っていては仕事はできない。コーヒー・ハウスはノン・アルコールの”真面目な"店であった。

第2の点「言論とニュースの発信地」については、コーヒー・ハウスはお金さえ払えれば誰でも入ることができたので(コーヒー代と別に入場料のようなものを取った)、身分に関係なくいろいろな人が出入りした。身分というものが非常に強力であるイギリスの社会において、コーヒー・ハウスは「人間の<るつぼ>」としての役割を果たした(ただし女性は入店できなかった)。

そしてそこでは、新聞や雑誌が置かれて回し読みされ、また時事問題についての議論が自由に交わされたのである。当時は新聞や雑誌は非常に少部数でしか発行されなかった上、当然のように高価なものでもあったので、コーヒー・ハウスに置かれることには集客上の利点もあった。そこに貴賤の人々が雑多な情報を持ち寄っていたから、政府広報的な情報のみならず市井の生きた情報が集まることとなり、コーヒー・ハウスでの話題や人々の批評が新聞や雑誌に掲載されていくというジャーナリズムが育っていくのである。

特に雑誌と呼べるものができたのがこの時代であり、デフォーの『レビュー』、スウィフトが主筆だった『エグザミナー』、リチャード・スティール創刊の『タトラー』などが18世紀前半に矢継ぎ早に創刊される。特に重要な存在が1711年に創刊された『スペクテイター』(なんと毎日発行)で、この雑誌によってイギリスの雑誌は一挙に隆盛した。『スペクテイター』は当時の文化風俗を知るのに不可欠な有名な雑誌である。こうした雑誌が生まれる母体となったのがコーヒー・ハウスだったのである。

なおコーヒー・ハウスにおける自由な言論・政治談義は、時の政権にとって好ましくなかったのは言うまでもない。そこで1675年にはチャールズ2世が「コーヒー・ハウスは不満分子の根城になっている」としてコーヒー・ハウスの閉鎖令を出したこともある。しかし既にコーヒー・ハウスはさまざまな階層の人にとって欠くべからざるものになっていたため、大反対に遭ってこの命令は10日後に撤回されるのである。

しかしながら、開放的で自由な言論・政治談義がコーヒー・ハウスで行われたのはそんなに長くなかった。次第に政治的な立場によってどの店にいくか決まるようになっていったからだ。そしてやがては会員制のクラブが交流の中心となっていくのである。

第3の点「文芸・文化の交流の場」については、著者の専門がイギリス文学であるためにかなり詳しい。17世紀の文芸(詩作・劇作)というものは、著者が書斎で呻吟しながら書き上げるものではなく、大勢の前で披露し、批評され、それに応じて書き改めるといった公的な場でつくりあげる性格を持っていた。であるから、コーヒー・ハウスにおける交流が文芸の中心、つまり「文壇」となったのである。この時代の、いわば文壇の流派は「ウィル」「バトン」「ベッドフォード」といったコーヒー・ハウスに分かれて存在しており、それらの店の特徴やそこに集まった文士たちについて本書では詳しく触れている。

そしてコーヒー・ハウスは中産階級における読書の啓発にも大きな役割を果たした。17世紀後半には、まだ本は高価で普通の人の手には届かなかったし、また図書館も不十分だった。一方で雑誌の普及や小説の登場(例:デフォーの『ロビンソン・クルーソー』)などにより、中産階級の読書欲も高まってくるのである。そこでコーヒー・ハウスでは、店内で本が買えるようになるばかりでなく(=つまり本屋の機能もあった)、18世紀には店内に図書室を設けて本が読めるようになっていくのである。

18世紀のコーヒー・ハウスには、今風にいえば「ブックカフェ」が流行ったのである。 また貸本屋や本の共同購入サークル(本を回し読みする)、そして「読書会」もコーヒー・ハウスを舞台として行われた。コーヒー・ハウスは読書文化の発信基地でもあったのである。

このように様々な面で時代の先端を走ったコーヒー・ハウスだったが、その栄華は長く続かなかった。17世紀後半から18世紀前半までの約100年がコーヒー・ハウスの栄えた時代であり、特に活発な活動や展開が見られたのはその前半50年に過ぎない。

ではなぜコーヒー・ハウスは衰退したのか。その理由としては、(1)数が増えすぎて需要を超えた、(2)モラルが低下し賭博やアルコールの提供が行われるようになった、(3)コーヒー・ハウスの発展にともなって店ごとに客層が固定化し、「人間の<るつぼ>」でなくなった、(4)オランダによってジャワ・コーヒーがヨーロッパにもたらされて、イギリスのモカ・コーヒーが競争力を失いコーヒー輸入が減少した(それを埋め合わせるように茶の輸入が増大する)、(5)ロンドンの住宅事情が改善された、といったことが挙げられている。

ただし、1849年の報告で、ロンドンには2000軒のコーヒー・ハウスがあって労働者で賑わっている、うち500軒には付属図書室があって労働者が読書にふけっている、といった情報があるので、18世紀後半には衰退したといっても、19世紀半ばにもかなり繁盛しているのも間違いない。コーヒー・ハウスの勃興期の研究はいろいろあるらしいが、衰退期の研究はあまりないようで、どのように衰退していったのかは不明な点もあるそうだ。

本書はコーヒー・ハウスの歴史を多面的に追うもので、時系列的ではないので混乱する部分もあるが筆は平易で読みやすい。ただし、副題に「18世紀ロンドン」とあるものの、分量的には17世紀の記述の方が多いくらいで、18世紀についてはほぼ前半に限られている。また先述のとおり著者はイギリス文学を専門にしているためその面は詳しい一方、逆に言えば他の文化についてはあまり触れられていない。

例えばこの時代は演奏会が勃興してくる時期と重なっているが、コーヒー・ハウスはそれにどう関わっていたのか(関わっていなかったのか)。そのあたりはもう少し書いて欲しかった。

ロンドンのコーヒー・ハウスについて多面的に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『生活の世界歴史〈10〉産業革命と民衆』角山 榮 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/12/10.html
本書の参考文献として「17世紀から19世紀のイギリス社会、生活について概観したもので、日本人の手になるものとしては最も包括的で、また面白く読める本といえる」と紹介されている。コーヒー・ハウスについても詳しく述べている。

 

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