2025年12月13日土曜日

『近世史講義―女性の力を問い直す』高埜 利彦 編

近世史を女性の観点を踏まえて概観する本。

ちくま新書の「〇〇史講義」は、まるで大学の授業を受けているような気分になるシリーズである。学術的ではあるが個別事項に深入りせず、その時代を概観することができる論考が納められている。 このシリーズは、通史を読んだ後に、もう少しその時代を勉強してみようと思ったときに最適だ。

そんなシリーズの『近世史講義』の副題が「女性の力を問い直す」なのが画期的だ。つまり、本書は特に女性をテーマにした本ではなく近世史の概説であるのだが、それでも女性に力点を置いているのである。もはや女性の在り方も理解しなければ近世史をしっかりと理解することができないということだ。

「第1講 織豊政権と近世の始まり」(牧原成征)では、近世権力の確立と社会の変化について概観している。かつて信長は改革者として描かれたが、最近は信長の統治に画期性はなく、秀吉こそが近世の基本路線を敷いていることが指摘されている。大名の妻子を中央に集める政策も近世の大名統制の基本となった。なお、このため江戸では女の出入りを関所で厳しく管理した。近世の武家女性は形式的には「囚われの身」となったのである。秀吉が実施した近世的政策としては、大名統制のほかに刀狩と検地、土豪層の権利の制限、キリシタンを敵に仕立てることでの思想統制、町方への集住・優遇政策などが挙げられる。

「第2講 徳川政権の確立と大奥―政権期の成立から家綱政権まで」(福田千鶴)では、徳川政権のツールとして婚姻が使われたことを述べている。家康は秀吉を倒して天下人になったのではないから、大名を自らの家臣にする手法に苦心した。そこで活用されたのが婚姻だ。「秀吉は遺言で五大老が自由に婚姻関係を結ぶことを禁止していたが、家康はこれに背き、結果として実娘3人、幼女18人の計21人を大名家に嫁がせた(p.29)」。家康は各大名と姻戚になることで自らの体制に取り込んでいったのである。また国持大名に松平名字・将軍偏諱・徐爵(従五位下)を与えることで「松平一門」に編成した。

将軍家周辺の女性は、名が残っていない人も多いが、婚姻政策で重要だったのみならず、大奥の差配でも大きな責任と権限を有した。「一位局」こと飯田阿茶(家康の別妻の一人)が従一位に除されているのは特筆される。「春日局」(家光の乳母)の存在感も大きい。なお、近世初期には大名の妻は江戸集住が義務付けられていない。というのは、彼女らは多くが将軍家と血縁関係にあったためである。大名の妻子の江戸集住が義務となるのは元和7年(1621)の老中奉書以降である。なお、詳細は略すが、加藤家の改易の理由は、徳川氏が進めた婚姻政策を尊重しなかったからだという。

寛文10年(1670)には「女中法度八カ条」及び老中連名の条々七カ条が出されている。そこでは、奥方のコネを通じて様々な案件が将軍家綱の耳に入れられることを制限しようとする性格が濃厚だ。逆に言えば、女性のコネを通じた「政治」が行われていたことが窺えるのである。

「第3講 天皇・朝廷と女性」(久保貴子)では、近世の朝廷における高位の女性について概観している。まとめて述べられることが少ない貴重な論述である。秀吉は太政大臣になり、後陽成天皇に即位灌頂を伝授している。また秀吉は近衛前久(さきひさ)の娘前子(さきこ)を養女にして後陽成天皇に入内させた。これが南北朝期以来途絶していたUである。秀吉は、自らを摂関家に擬えていたのである。

しかし家康は摂家の家職を復帰させ、自らは征夷大将軍に任官して、武家官位と公家官位を切り離した。以後、将軍家は公家世界を保護・統制することが基本政策となった。秀忠の娘和子は後水尾天皇の女御となり、寛永元年(1624)に皇后(中宮)に冊立された。皇后の復活は念願だったようだ。霊元天皇正妻(房子)以降、女御→准三宮→皇后となるのが定石となった。また中御門天皇の女御尚子が第一皇子出産後に死亡すると、その皇子(→桜町天皇)の立太子後に「皇太后」が贈られて「皇太后」が復活した。

近世では、天皇の母(先帝の正妻に限る)に対して女院号が宣下された。特に東福門院(←徳川和子)の存在感は大きい。その後の女院で注目されるのは、桜町天皇の正妻青綺門院である。彼女は院不在の状況で幼い桃園天皇を後見した。

近世における皇女は、前代と違って3割近くが婚姻した。特に摂家重視政策の結果、婚姻先は摂家が多かった。東山天皇の皇妹綾宮(あやのみや)が伏見宮家に嫁ぐと、その後は皇女の婚姻先は親王家に移った。これは18世紀半ばから皇子女の数が減少し、天皇家の血筋の人間が少なくなったことに対応していたと思われる。

一方、近世においても皇女の6割近くは比丘尼御所に入寺した。中世に盛衰があった尼寺は近世に整備され、その過程で17世紀に比丘尼御所が3寺(霊鑑寺・円照寺・林丘寺)が創始され、後に序列もできた。その上位4寺が大聖寺・宝鏡寺・曇華院・光照院である。これら(に入寺した皇女たち)は紫衣・色衣勅許の問題を引き起こすなど序列を競ったが、大聖寺の永皎(中御門天皇皇女)を最後に、皇女の比丘尼御所はなくなった。光格天皇は皇女を入寺させるつもりであったがいずれも夭折したためである。

また、堂上公家の娘は典侍(ないしのすけ)・掌侍(ないしのじょう)として後宮に出仕した。彼女らは一生独身で仕事し、朝廷運営においても奥の院の果たす役割は大きかったので、その人事は重要であった。

「第4講 「四つの口」―長崎の女性」(松井洋子)では、江戸幕府の貿易政策とともに長崎の女性が考察される。家康は朱印船貿易を続けるつもりだったが、結局は貿易を制限する方向へ向かった。貿易の制限の背景には、朱印船が襲撃されると家康の権威が傷つけられるという問題もあったらしい。また家康は異教対策から外国人に嫁した日本人妻子をも追放したが、これはキリスト教対策ばかりではなく、「人についてもその支配の及ぶ「日本人」の範囲を明らかにすべく、日本に住み着く「異国人」やその家族という両属的・中間的な存在を排除するためであったと考えられる(p.64)」。なおこの後の外交体制は、最近では「鎖国」とはあまり呼ばない。幕府直轄の長崎の他、宗氏(→朝鮮)・島津氏(→琉球)・松前氏(→蝦夷)という4つの窓口があったためである。

長崎には、外国人相手の遊女屋が公許されており、18世紀以降は20~30軒、遊女が400~500人いたという。こんなにも需要があったことに驚く。興味深いことに、中国船の来航者の中には遊興目的の客もいたという。近世の日本は「売春社会」であった。長崎の遊女たちは異国人との間に子を産むことも許されていた。「両属的・中間的な存在」が特別に許されていたのである(しかし生まれた子供がどうなったかはほとんど不明)。「長崎においては遊女なくては、只今の三つが一つも栄えまじ(p.76)」と延宝版『長崎土産』はいうが、遊女は単に男性に性を提供していたばかりでなく、外来者と現地社会の縁を作り保つ役割をいびつな形で果たしていたのかもしれない。

「第5講 村の女性」(吉田ゆり子)では、郷村の女性の社会的地位について概観している。貝原益軒は身分ごとのあるべき姿を論じているが、女性について「婦女は」と一括している。女性は士農工商ではなく「女性」という身分であったのだろうか?

19世紀半ばの「諸国郷村被仰出」(以前「慶安御触書」と呼ばれていたもの)は、為政者が一般的と認識した百姓の姿が投影されているが、ここでは「夫婦ともにかせぎ申すべし」と夫婦協業が勧奨されている。実際に男女は農作業を分担して行っていた。しかし宗門改帳では名前ではなく「女房」とだけ書かれる場合も多かった。

しかし地域によっては男女にかかわらず長嫡子が家を相続する慣行があり、また19世紀には家族に成人男性がいても女性が宗門改帳の筆頭人になる例がみられる。最初は後家が相続するとか、男子がいない場合の中継ぎ相続で女性がピンチヒッター的に登場したのだが、次第に女性が戸主になってもおかしくないというように変わってきた地域があった。どうも近世を通じて、農村の女性は一個の法的人格として認められるようになっていった流れがありそうだ。

そうした事例の一つとして、武蔵国の生麦村の上層農民に生まれた関口千恵が紹介されている。彼女は、武家奉公→町人に奉公→大名家の奥に奉公→嫁入りして一子をもうけたが死別→義弟と再婚するも離縁→旗本に奉公→女中として大奥勤め→実家に戻り奉公で蓄えた金を元手に貸し付けを行い生涯を終えた。彼女は今でいえばワーキングマザーであり、夫なくして自らの財産を持ち自立した人生を送ったのである。

「第6講 元禄時代と享保改革」(高埜利彦)では、綱吉から吉宗までの朝幕関係を中心とした時代の趨勢を述べている。

天和3年(1683)に5代将軍綱吉は「武家諸法度」の第1条を「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」から「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」に改めて公布した。この頃、東アジア全体が静謐であり、国内は安定していた。平和な時代の訪れである。綱吉は「忠孝礼儀を前面に打ち出し、身分・階層秩序の維持を目指す方向に転換(p.102)」したのである。

綱吉は「かぶき者」を強権的に取り締まり(打ち首にした!)、「生類憐みの令」と「服忌令」によって武に頼る価値観を転換させた。ここでは死の穢れや血の穢れが強調された。戦場で相手を殺傷することが価値であった武士と血の穢れは本来は相容れないが、これらにより折衝や死を遠ざけ忌み嫌う風潮となった。このため、死んだ牛馬を片付ける「かわた」や「長吏」「非人」の仕事が社会的に重要となった。

一方、朝廷では復古の機運が高まっていた。「朝廷復古」を強く望んだ霊元天皇の執念は幕府を動かし、貞享4年(1687)に221年ぶりとなる大嘗祭が挙行された(東山天皇即位時)。これらの他、石清水八幡宮の放生会が214年ぶりに再興されるなど、伝統的な権威の確認とその復興が進められ、将軍権力が伝統的権威によって潤色された。6代将軍家宣政権でもこの方針は変わらず、朝幕協調が踏襲されるとともに、武家諸法度は新井白石によって全面改訂された。家宣は御台所の実家でもある近衛家の基煕(前太政大臣)を江戸に招き、基煕は2年間も江戸に滞在している。このような中、閑院宮家が白石の建言により創設される。家宣の死去後、3歳の家継が将軍となり、白石はこの将軍の権威を高めるために霊元天皇の13番目の姫君との婚約を構想したが、家継が夭折したため実現はしなかった。

こうして将軍本家が途絶え、後継者選びのゴタゴタがあったが、吉宗の受諾の決定打となったのが基煕の娘で家宣の御台所であった天英院の鶴の一声であった。吉宗は幕府の財政難に対処し、諸改革を断行し、社寺造営などの予算を削減したが、「将軍の地位を権威がましくするために、朝廷との関係をいっそう協調的になるように図った(p.114)」。桜町天皇の即位時には、吉宗の側から働きかけて大嘗祭が挙行され、新嘗祭も正式に再興された。

「第7講 武家政治を支える女性」(柳谷慶子)では、奥向の女性が果たした役割について概説している。大名の正室や後家は意思決定に重要な役割を果たした。明治維新の時、天璋院が果たした役割の大きさについては改めて述べるまでもない。なおここの議論の本質ではないが、福岡藩黒田家の事例の中で、正室・後家の名前がすべて院号なのが気になった(→圭光院、桂香院、歓心院)。後家は菩提を弔うために出家するものとしても、圭光院の場合は当主は死亡・出家していないようだ。この院号が持つ意味は何なのか調べてみたい。

一方、奥女中は男性家臣と変わらない、れっきとした仕事であった。大名家の奥女中は、国元では家臣の子女や妻・後家が務めていたが、江戸城(大奥)や大名家の江戸屋敷では少し違う。旗本の子女に加え、公家の子女もいたが、これだけでは足りず、近隣の豪農の子女が奉公していた。奥女中が身分を超えた協業の場となっていたことは注目される。江戸城では約2500人もの女性が奥女中で働き、江戸全体で考えると2~3万人もの奥女中の需要があったとみられる。一大産業なのだ。

奥女中で奉公したことは立派なキャリア(功績)と認められ、将軍家・大名家ともに自己の家を立てることが許された。事例として鳥取藩池田家の場合が挙げられているが、こうして女系の家が家臣団に加わったことは興味深い。鳥取藩では家臣団のうち5%がこのような女性を始祖とする家であったという。ただし家を立てることは費用がかかり、またこれは老後の生活保障の意味が大きかったため、家を立てるのではなく一代限りの扶持を支給する方向となっていった。

「第8講 多様な身分―巫女」(西田かほる)では、巫女の身分的特質について述べる。近世の神職身分は、年貢を免除された土地にある神社に奉仕する者を基本として吉田家や白川家が許状を発行することによって成立した。例えば、富士山御師(おし)は曖昧な身分であったが、吉田家から許状を得る浅間神社と、白川家に頼る御師のいさかいの後に、吉田家からの許状を得ることで身分が確立した。

両家の勢力争いの結果、百姓や大工、医師、木地師のようなものにまで免許状が発給され、多様な「神職身分の者」が生み出された。下級宗教者としてはほかにも、陰陽師、万歳(まんざい)、神事舞太夫、夷職(えびすしょく)や説教大夫(簓(ささら))、願人坊主、鉢叩きがあるが、彼らはそれぞれ本所(身分保障をしてくれる機関)を仰いで身分を確立させた。そこには、集団を編成し力をつけようとする本所の思惑と、本所を通じて住民を把捉しようとする幕府の思惑があった。

しからば巫女はどういう身分であったか。興味深いことに、巫女を編成する特定の本所はなかった。巫女・神子は独身の若い女性であるという先入観とは逆に、史料に現れる巫女は結婚しており若くもない(女性とも限らなかった!)。むしろ、彼女らは神職との婚姻によって巫女となったと考えた方が自然だ。巫女の実態は、社人・社僧・修験・陰陽師などの妻であったのだ。神職と僧侶は近世の身分体系では別であったが、女性は身分の主体でなかったために神仏習合的なのだ。

そして巫女の身分は、夫の身分(本所)に影響を受けた。吉田家なら「巫女」、神事舞太夫なら「梓神子(あずさみこ)」、修験道本山派の場合は「守子(もりこ)」など。ただし人別帳では夫に従属していた場合と、別記される場合があったようだ。ちなみに妻が巫女である場合に、その娘の身分はどうなるか。これについては本稿では判然としないが、神事舞太夫の場合、一人の神事舞太夫につき3~4人の梓神子がいた。これは、妻と各地で預かった養女らしい。この養女は売春させられていた可能性がある。

本稿には、幕末(天保年間)にいた陰陽師の守屋安芸(男性)の妻と息子の嫁の事例簡潔に述べられているが、これは極めて興味深い。まず、守屋安芸は無宿であったが土御門家から許状を得ていた。無宿とは人別帳から除外されているということだ(行方不明や追放刑などで除外される)。無宿であれば身分は不確定なのだが、一方で土御門家の配下にある。身分の原則が崩れているのだ。土御門家は積極的に許状を出すことで配下の獲得に努めていたのである。お金さえ払えば誰でも(百姓でも僧侶でも神主でも)許状を得られた。実際、土御門家では女性にも許状を出した。「貢納料の前には身分の性別もない。全て平等なのであった(p.148)」。

「第9講 対外的な圧力―アイヌの女性」(岩﨑奈緒子)では、蝦夷地をめぐる幕末の情勢が概説される。幕府がロシアを認識したのは、天明3年(1783)の工藤平助「加模西葛杜加(かむさすか)国風説考」である。そこには巨大国家ロシアが描かれた地図も描かれていた。1792年にはラクスマンが来航。蝦夷地は、ロシアとの緩衝地帯として重要な意味を帯びるようになり、1799年には幕府は東蝦夷地を直轄化し(わざわざエトロフに会所を置いた!)、1807年には全蝦夷地を直轄化した。ロシアの存在を認識してからたった20年ほどで蝦夷地の持つ意味はすっかり変わった。

それまで幕府や和人はアイヌに対して無関心で、どちらかというと蔑視していたが、こうしてアイヌは教化(=日本人化)が必要な対象となり、1800年、幕臣近藤重蔵によって「エトロフ村々人別帳」が作成された。本稿には詳細はないがこの人別帳は興味深い。おそらく宗旨は書いていなかっただろうし(ただし幕府は蝦夷三官寺=善光寺(浄土宗)・等澍院(天台宗)・国泰寺(臨済宗)を設けている(第9講参照))、身分なく一緒くたにアイヌとされたのかもしれない。近代の戸籍を先取りしているような気もする。ともかく、この人別帳を見れば和風の名前を持っている人がわかり、風俗改めの実態を窺うことができるのである。どうやら女性は風俗改めを受け入れない人が多かったようだが、これは逆に風俗改めが強制的なものでなかったことも示唆している。

「第10講 寛政と天保の改革」(高埜利彦)では、当時の日本が置かれた内憂外患に幕府がどう対処したかが述べられる。18世紀の末から、商品経済の発達による二極化、浅間山噴火による東北の冷害、既存の秩序の弛緩などを背景に百姓は徒党を組んで領主権力に対決した。大原騒動では一揆勢を領主側が鉄砲で多数打ち殺すという事態まで見られ、「天明の打ちこわし」では統率のとれた行動によって幕府に衝撃を与えた。これらは、庶民が追い詰められていたと同時に、力をつけていたことを示唆する。

このような中で天明8年(1788)に将軍補佐となった松平定信は棄捐令(借金の棒引き)や文武両道の奨励を行っている。このうち学問の試験結果によって登用される制度は、中下級の幕臣が農村で善政を振るう結果も生んだ。一方、都会に出てきた百姓を旧村に帰す「旧里帰農奨励令」を出したり、無宿を収容する石川島の人足場を設けたり、修験道・陰陽道などの本寺・本所に人別帳の作成を命じたりした(第8講参照)。つまり社会を不安定化させる浮動的な存在を把捉・削減しようとしたが、現代で人が東京に吸い込まれるがごとく、人々はそれぞれの損得で動いていたので実効性は上がらなかった。

一方、ロシアの南下(レザノフの来航)やイギリスのフェートン号の侵入(長崎奉行に食料・薪を要求)、英船・米船の近海への出没などを受け、幕府の対外政策は変化していった。そんな中で、朝鮮が一段低い国家とされて朝鮮通信使がなくなっている(両国ともに費用節減の必要があったのも一因)。そしてこのような中、国家・国民の輪郭を定めるべく、官制の編纂事業が相次いだ。塙保己一の『群書類従』『史料』、『徳川実記』、全国の地誌編纂、林述斎の『寛政重修諸家譜』などである。さらに各地の孝行者・貞女などを紹介する「孝義録」が編纂された。これらの事業は明治期に引き継がれた。「寛政期から「近代」は始まりだした(p.179)」のである。

天保の大飢饉を経て民衆の武装蜂起はより高まり、老中首座の水野忠邦は天保改革を実施した。だが寛政の改革を意識した「人返し令」は、むしろ浮動人口を関東周辺に分散させることとなり治安悪化を招いた。物価高騰の原因として株仲間(一種のカルテル)を解散させたが、物価高騰の真の原因は別のところにあったためこれもうまくいかず、10年後に株仲間を復活させた。また幕府は領地替えや上知令(土地を取り上げて幕府の直轄地化する)を行おうとしたがこれも反対され実施できなかった。天保改革の失敗は幕府の権威を低下させ、天皇・朝廷の権威が上昇し始めるのである。

「第11講 女性褒賞と近世国家―官刻出版物『孝義録』の編纂事情」(小野 将)では、『孝義録』の周辺が概観される。松平定信が全国から孝子・忠臣を報告させ、それをまとめたものが『孝義録』全50巻である。それは、百姓・町人のあるべき姿を喧伝するための教化の書物であったが、幕府による一方的な押し付けではなかった。当時懐徳堂周辺では、孝子・孝行者の顕彰が行われており、中井竹山の「草茅危言」でもその顕彰が訴えられている。幕府はこの動向を汲んだようだ。そして民衆の側でも、孝行のエピソードには需要があり、身を犠牲にして親に尽くすようなエピソードはすぐに評判になって広まった。

『孝義録』の編纂の中心となったのは大学頭の林述斎であるが、文体の統一など実務を担ったのが大田南畝である。大田南畝こと大田直次郎は下級御家人であったが、「学問吟味」によって登用されたのである。そして大田南畝が文体の検討を行うため主催した研究会「和文の会」にいたのが幕臣の八代弘賢である。当代一流の人物が精力を傾けて編纂したのが『孝義録』であったのである。ところが、これは高価なものだったためあまり売れず、民衆教化にどれだけ役立ったのかは定かではない。また「忠臣」の方は結局編纂されなかったようだが、太平の時代に「忠臣」はもはやあまりいなかったためなのかもしれない。

なお、『孝義録』においては、幕府領・私領などに関わらず、国郡ごとに記事が掲載されている。領有関係を超えた「全国」が意識されているともいえるし、あまりに複雑な領有関係が障害になっていたことを示唆しているともいえる。

「第12講 近代に向かう商品経済と流通」(髙部淑子)では、近世の商品流通の特徴が述べられる。江戸幕府は当初、商品を大坂に集め、それを江戸に運ぶという流通体制を構築した。これは江戸周辺の生産力が十分なかったことが背景にある。しかし次第に生産力が高まると廻船による流通が盛んになっていった。また米の生産量が上がって米価が下落すると、各地の農民は換金性の高い作物の生産に移行した。こうして商品流通が複線化すると、各地で特産品ができてくるようになる。現代でも同じだが、特産品としてのブランド力が価格に反映されるからだ。特に日本酒はそうしたブランドが早くから成立した商材の一つであった。特産品の江戸への出荷は、厳しく品質管理されて容量なども標準化された。こうして江戸の人々は、商品を選んで好みの物を買うというライフスタイルになっていった。近代の消費行動と全く同じである。また、こうした商品の製造を担ったのが女性でもある。農作業から女性が切り離されてマニュファクチュアに投下され、これは近代の女工につながっていく。

「第13講 遊女の終焉へ」(横山百合子)では、近世の遊女が概観される。中世では遊女は女系で家業を継承していく自営業者であったが、近世には男性の遊女屋が女性を抱え買売春させる仕組みとなった。最下層の遊女(夜鷹)でさえそれを所有する夜鷹屋がいた。本稿では述べられていないが、これは近世的身分の確立と密接に関連すると思われる。江戸の遊郭があった新吉原町五町は、近世当初は一般的な町と同様に公役(のちに金納)を負っていたが、近世後期には傾城町に固有の役として、売り上げの一部を町奉行に上納していた。これは町奉行所の収入の12%にもなったという。そして吉原の遊女は、「17世紀末から享保頃には二千数百人、その後、寛政期には四千人を越え、1801年(享和元)には4963人におよんだ(p.226)」。遊郭は徐々に大衆化・下層化していったのである。

遊女は、一応は奉公の形態をとっていたが実際には人身売買にほかならず(→身売り奉公)、遊女の世界は一見華やかであったがその支配は暴力的であった。新吉原では1800年から幕府が倒れるまでの約70年間に18回も火事が発生し、うち11回は吉原全町が消失した。これらのうち13回は遊女の放火であり、遊女への暴力的支配を窺わせる。

このように火事のたびに経営再建をするためもあり、遊郭は融資を恒常的に必要とした。遊郭の多くが利用したのが寺社名目(みょうもく)金貸付である。江戸幕府は、金銭貸借については当事者間での解決を原則としており、踏み倒しでも裁判はできなかった。ところが寺社や皇族・摂関家などが堂舎建立など名目で貸し付けを行う場合には例外的に幕府が債権取り立てに関与した。つまりこれは取りっぱぐれがない安全な貸し付けであった。この一つを浄土真宗本山仏光寺が行っていた。仏光寺は北信濃の豪農の資金提供を受け、遊郭に貸し付けをしていたのである。この名目金貸付の収益は大きく、幕末、これに目を付けた内大臣の二条斉敬(なりゆき)は名目金貸付の乗っ取りを図って仏光寺と争っている。しかしながら遊郭の収奪の構造に浄土真宗が絡んでいたとは驚きだ。

明治5年、芸娼妓解放令によって遊郭は終焉を迎えた。従前、これはマリア・ルス号事件での国際的な名聞を気にしてなされた処置だとされてきたが、近年、その前から解放令の動きが始まっていたことがわかった。イギリスはマリア・ルス号以前から日本の遊女の奴隷的境遇について外務省に尋ねているのである。日本では買売春は不道徳とは全く考えられていなかったのだが、国際的に問題があることを認識して「身売りによる売春」の否定が不可欠であるとの判断になっていたようだ。そして芸娼妓解放令では、①遊女らの即時解放、②身代金返済も不要とする無償解放が謳われた。しかし、これは遊郭を壊滅させただけで、その後は女性が自らの意思で(という体で)売春することになった。そして遊女への同情や共感が弱まり、自ら売春する淫乱不道徳な女という蔑視に傾いていくのである。

「第14講 女人禁制を超えて―不二道の女性」(宮崎ふみ子)では、不二道を題材に近世の女人禁制が述べられる。ある種の聖地では古くから女人禁制が続けられてきているので、女人禁制は古くからの習俗と思いがちだが、女人禁制が広まったのは近世中期であると考えられる。これは女性を不浄とする観念が広まったためと考えられる。一方で、同時に女人禁制の形骸化が始まったのも近世中期である。本稿でそう指摘されてはいないが、むしろ形骸化したからこそ広まったのかもしれない。

山岳信仰では早くから女人禁制が行われたが、都から遠い富士山では、女人禁制の成立が遅く、近世初期にかけてである。そんな中で女人禁制を受け入れなかったのが富士講身禄派やそこから分かれた不二道である。身禄派の創唱者、食行は「身分や性別は本質的な価値とは無関係で、道徳的な生き方をする人間が尊い(p.244)」と教えた。商人の禄行三志(ろくぎょう・さんし)はその女性観を発展させ、家業出精や孝行を勧めるとともに、男女の調和・均衡のために(現在は男性優位に偏っているから)「女性を先に」と格差是正的な主張をしている。三志らは身禄派から独立して不二道を形成して多数の信者を獲得し、1860年代には「近世後期の非公認の宗教団体として最大規模に達した(p.246)」。不二道には聖職者も上下の階層もなかった。これは伝統的な宗教団体との大きな違いである。なお女性信者の割合は30~40数%と見られる。

不二道の女性信者たちは、富士山登頂を目標として運動したが、それに反対したのは富士山麓の農山村であった。彼らは女性の登攀が長雨などの異常気象を招き飢饉の原因となると主張した。富士山の御師らは女性の登攀需要が高いことが分かっていた(=それが商売になった)ので、1800年には、60年に一度の庚申年には女人禁制を緩和するという説を出して4合5勺までの登山を認めたが、地元の村落の反対で実現はできなかった。天保3年(1832)に不二道の女性信者が登頂を強行したが、折あしく天保の大飢饉が起こり、これは女性が富士山に登頂したせいだとされてかえって女性禁忌が強くなり、検問所まで設けられた。御師たちは1860年の庚申の年に8合目まで登れるという規制緩和を行い、今回は江戸の寺社奉行に「そういう伝統がある」と訴えて許可させた。この時に8合目まで登攀したのは男女混合で1034名だった。これが契機となり、「他の登山口の職業的宗教者も女性登山の解禁が参詣者誘致の切り札であることを認識し(p.252)」、女性へ門戸が開かれるようになった。

明治維新後には、京都博覧会の時に外国人女性が比叡山に入れないという問題を契機として女人禁制を撤廃したが、これも不合理な旧習と考えて撤廃したのではなく、観光客誘致のためであった。逆に言えば、女人禁制の形骸化が進んでいたからこそ、商業的な理由で撤廃されたのである。

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本書は全体として、教科書とは少し違う方法で幕末より前の近世史を描いている。つまり、政治史や為政者の歴史を描くのでも、大きな事件を描くのでもなくて、社会が置かれた状況を主役にして、人々がどういった方向に流れていったかを描いている。その中で女性の観点が意図的に導入される、一味違った近世史だ。ただし、本書は文化史については全く触れられていない。多分これから「文化篇」などが出るのではないかと思われる。今後の出版に期待したい。

【関連書籍の読書メモ】
『江戸時代の神社』高埜 利彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/12/blog-post_28.html
江戸時代の神社や神道がどのようであったか述べる本。江戸幕府の神社政策の概略がまとまった良書。

『日本の近世7 身分と格式』朝尾直弘 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2022/05/blog-post_8.html
江戸時代の身分について考察する論文集。近世の身分について多角的に検討した充実した好著。

『後水尾天皇』熊倉 功夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/03/blog-post_28.html
後水尾天皇の評伝。後水尾天皇と寛永文化の価値を詳述した名著。

『徳川家の夫人たち(人物日本の女性史 8)』円地 文子 監修https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_6.html
徳川家の女性たちを描く本。徳川幕府を女性から見る好著。

『女人禁制』鈴木 正崇 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2023/01/blog-post_7.html
女人禁制とは何かを多角的に述べる本。女人禁制を歴史・思想から中立的に考える貴重な本。 

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