2021年8月29日日曜日

『日本の歴史(9) 南北朝の動乱』佐藤 進一 著

南北朝時代がいかに始まり、いかに終わったかを述べる。

本書は、川添昭二(中世の九州を専門とする歴史学者)により「まさに完成された芸術作品をみる思いである」と評されたもので、南北朝の動乱を多角的に描き、その学問的骨格を与え、その後の南北朝史研究を触発した名著である。

確かに記述は平易であるにもかかわらず分析は深く、ややこしい南北朝時代を生き生きと描いている。が、私自身がこの時代にあまり詳しくないこともあり、とても内容が頭に入ったとはいえず、本を読み終わった今でも「一知半解」というのが実感だ。

というわけで、以下はその「一知半解」のメモである。

南北朝の動乱とは、大まかに言うと室町時代のはじめの方で、後醍醐天皇の「建武の新政」が瓦解してから、皇統が南朝・北朝に分かれて、それが再び統合されるまでの約60年間の動乱を指す。なぜそのようなことが起こったか?

後醍醐天皇は反鎌倉幕府の勢力をまとめ、1333年、幕府を打倒して天皇親政国家を樹立した(建武の新政)。その勢力の一人だったのが足利高氏だ。高氏は後醍醐天皇の名(尊治)から一字もらって「尊氏」に名を変えたのである。

しかし建武の新政はすぐさま瓦解する。後醍醐天皇が、異常なまでに天皇一極集中の政体を作り、法と慣習を無視した政治を行ったからだ。一方で、尊氏は庄園領主(これは今の言葉で言えば既得権益層とでもいえるかもしれない)の権限を認める保守的な考えを持っていたから、後醍醐の新政を歓迎しない勢力が靡くようになり、それを基盤として独自の権力を行使し始めた。それを反逆とみた後醍醐は尊氏討伐に打って出たが、激しい戦いの後に敗北した。

尊氏は後醍醐天皇と講和し、光明天皇(持明院統)を擁立。ところが、講和したはずの後醍醐は「そちらに渡した三種の神器は偽器(ニセモノ)である」といって、自らが正統な天皇であることを主張、吉野に潜行して独自の政権(南朝)を打ち立てたのである。元々、鎌倉時代の後半から、天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれて交互に天皇を擁立した(両統迭立)のであるが、後醍醐がこの無茶をやったお陰で持明院統と大覚寺統が完全に分裂し、北朝と南朝となるのである。

足利尊氏は、後醍醐のように明確な支配のイメージは持っていなかったように見受けられるが、弟の直義と権力を二分する両頭体制で政権を樹立(著者はそれを「建武式目」制定の時に置く)。 南朝が政権を奪還すべく果敢に攻勢してくる中、徐々に政権は整っていった。そして延元4年(1339)、後醍醐は12歳の後村上天皇に帝位を譲り亡くなった。1333年から僅か6年間。その間に護良親王、楠木正成、北畠顕家、新田義貞ら南朝の武将の多くは死んで、武家=北朝方の優位が確立するかに見えた。

が、動乱はまだ始まったばかりだったのである。

それは、南北朝の動乱は、単に権力奪取のゲームであったのではなく、その背景に様々な時代の変化が内包されていたからだ。特に武士の在り方がいくつかの点で鎌倉時代とは変わっていった。

第1に、鎌倉時代には御家人としてまとまっていた武士のまとまりがなくなった。それは、鎌倉幕府倒壊によって主従関係が解消されたからである。もともと武士は傭兵である。武士たちは誰を主人にしてもよかった。足利尊氏は征夷大将軍に任命されていたが、「征夷大将軍」とは象徴的な官名であるだけで、全国の武士には尊氏に従う義理はなかった。

第2に、そういう状態であったから、武士はより有利な条件を求めて分裂した。これはもちろん保険の意味もあった。南朝と足利政権のどちらが勝ち残るかわからないからだ。政治状況次第で武士団は分裂し、武士団が分裂することによってさらに政治が複雑になった。

第3に、武士の相続が、分割相続から単独相続になっていった。鎌倉時代の武士は所領が各地に分散していたが、これは動乱の時代には維持しきれなくなる。いつでも見張っていなければ横領の危険があったからだ。自然と所領は本拠地の一箇所になっていく。そのため、兄弟に分割する余裕はなくなり、単独相続に変わっていくのである。こうして、惣領制から家督制(←この用語は本書にはない)へ徐々に移行していくことになる。

第4に、戦い方も変わった。それを象徴するのが徒歩(かち)武者=歩兵の登場である。鎌倉時代の武士は騎馬武者であって一対一で戦うものだったが、南北朝時代には既存の、いわば「古き良き」戦いかたではなく、悪党的なゲリラ戦法が中心になってくる。そして槍が武器として使われるようになるのもこの時代である。集団的な戦い方、殲滅戦になってくるのである。

このような武士の変容を背景にして、足利尊氏と直義の争いである「観応の擾乱」が起こる。

もともと室町幕府は、尊氏は直接には政権運営を行わず、高師直(こうの・もろなお)を執事として、実務を直義が担う体制になっていた。

直義は日野有範(儒学を家業として王朝に使えた家)を幕府政治に参与させるなど儒教思想を好み、性格は誠実・真面目で、夢窓疎石との対話『夢中問答』でも有名なとおり仏教教理にも明るかった。

一方の高師直は、仏神や天皇を含め既存の権威を全くみとめず、合理性を至上とした、全く違ったタイプの執政官であった。この二人は当然のように対立し、武士団が二人を筆頭に分裂していくのである。

こうして、鎌倉幕府的な秩序の存続を願う勢力が直義に、それと反対の破壊勢力が師直=尊氏につき、さらに南朝がそれに加わって、「天下三分の形勢」にいたるのである。観応の擾乱は、高師直と足利直義が共に没落して決着し、尊氏の覇権が確立するものの、尊氏の非嫡出子で直義の養子になっていた直冬が新たな勢力となって「天下三分の形勢」は続く。

そして観応の擾乱後、またしても南朝が奇策を弄する。北朝から三上皇と廃太子を拉致したのである。こうして北朝は天皇不在の異常事態に見舞われる。皇位を与える資格がある上皇すらいないのだから、北朝としては天皇を新たに立てるのも不可能になった。天皇不在の王朝はありえないため、自然と北朝は解消されると南朝は考えたのだろう。

ところが北朝は、これを常識外れのウルトラCによって克服する。広義門院が上皇の代わりとなって神器の代わりに神鏡の容器(小唐櫃)をつかい、後光厳天皇を擁立したのである。広義門院は後伏見天皇の妻で、また花園天皇の准母(名義上の母)であったが皇族ですらない人物だ。北朝は苦し紛れにありえない方法で天皇を擁立したため、天皇の権威低下は避けられなかった。

14世紀後半、畿内では南朝が低調になった一方、九州では南朝方が興隆する。それには、延元元年、8歳で征西大将軍になりたった12人の従者とともに九州に下向した懐良親王が関わっていた。九州では、郡司系の土豪が守護からの圧迫に耐えかねて南朝に帰属したのである。九州には筑前の少弐、豊後の大友、薩摩の島津という強大な守護がいたため、これに対抗するために「敵の敵は味方」方式で土豪たち(鹿児島では「国人」という)が南朝についたのである。

また、足利直冬も九州に移り、少弐頼久に迎えられて幕府党が直冬に応じたため一時は強大な勢力となったが、直冬はやがて南朝に転じて影響力を失うこととなる。ちなみに少弐頼久が直冬を迎えたのは、全九州の軍事指揮官=鎮西大将軍である一色道猷を排除しようとした思惑があったようだ。九州でもいろいろな勢力が競い合うことで「天下三分の形勢」が出来したのである。

ところで、南朝の最高指導者にあたる立場だったのが北畠親房(ちかふさ)である。彼は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著し、王朝の絶対性を主張することで武士を説得しようとした。彼の論は、武士に対し南朝に帰順する利益(官位がもらえるとか)を説くものではなく、利益を度外視して王朝に尽くせという主張だったので当時は形勢を変える力を持たなかったが、むしろ後世に影響を与えた。

文和4年(1355)、幕府は三度の京都奪回に成功してほぼ勝敗の帰趨が明らかになった。ここからは天下三分の残した課題に答えようとする幕府の苦闘の歴史となる。延文3年(1358)、尊氏は死んで、その子の義詮(よしあきら)の時代となったが、同年、義詮に男子が産まれる。南北朝動乱を終わらせる足利義満の誕生であった。

幕府の苦闘は、第1に政権の組織をどう組み立てるのかということと、第2に庄園領主と武士(守護)間をどう調停するかということに主眼があった。

第1の点は、両頭政治によって混乱したことの反省を踏まえ、権力を一元化することが図られた。具体的には、執権の在り方が変わった。執権はかつては将軍の補佐官・秘書であったが、幕府は執事の地位・権限を強化し、幕府の支配機構を一元化した。これによって執権は「管領」となっていった。これは今風に言えば官房長官のようなものになったのだと思う。

第2の点は、そもそも南北朝の動乱の根っこにある問題だった。それを象徴するのが、「半済(はんぜい)令」である。これは、庄園・国衙領の年貢の半分を守護が兵粮米として徴集できる法である。長引く戦争の費用を捻出するために守護は税金の5割を取ったのである。「半済令」の問題は、幕府は全国に領域的支配権を確立していたわけではなかった、ということにある。

つまり本来的には幕府の支配領域ではない国衙・庄園に守護が税金をかけていた。庄園領主、すなわち寺社がこれに反対するのは当然である。しかし戦乱が続く限りその費用はどこからか出さなくてはならない。守護職には所領が付属していたとはいえ、所領と遠く離れた戦地で全ての戦費を弁済するのは難しかったので、寺社勢力と対立してでも各国で「半済令」が乱発された。

本書には詳らかでないが、もしかしたら守護の収支を考えてみると、戦乱が続いて「半済令」が適用できる方が利益になったのかもしれない。戦時の特別税である「半済令」を使えるよう、むしろ守護は戦乱の収束を願わなかったのかもしれないと思った。

それはともかく、「半済令」はあくまでも戦時の特別説である。よって幕府の覇権が確立し、戦乱が収まってくると幕府はそれを禁止した。つまり幕府は寺社を保護し、守護以下の武士の抑圧したのである。ではなぜ幕府は同胞である守護ではなく、むしろ社寺を保護したのか。

それは、庄園領主=寺社本所と守護勢力の均衡の上に幕府が成り立っていたからである。この二つの勢力がせめぎ合い、そしてそのバランスを取ることに幕府の存在価値があった。守護が強くなりすぎるのも困るのである。

もともと、「守護」とは一国の軍事指揮官であり、幕府はそれを吏務職(りむしき=役人)化したかった。直義は「国を治める能力があるものが守護を務めるべきで、恩賞として守護を与えるべきではない」と至極真っ当なことを言っている。

一方で守護の方では幕府から独立した勢力を打ち立てたかった。しかし守護というのは一国の運営全てを担うのではなくあくまでも軍事指揮官である。つまり領域的支配権(土地の支配権)があるわけではない。よって土地の実権を持っている庄園領主を徐々に圧迫する形で統治権を広げて行った。守護は庄園制に寄生したといえばいいのかもしれない。そして本来は国衙(国司)が持っていた国検(検地)の権利も守護が奪取したものと見られる。こうして、国衙領や国衙の実務を守護が奪うことで、一国の主としての守護の支配体制が出来上がっていった。それを「守護領国制」と呼ぶ。

よって第2の点、庄園領主と武士(守護)間をどう調停するか、ということについては、幕府は庄園領主を保護する政策を行ったものの、結局は守護の力が自然と強くなっていったということになる。1360年代が守護領国制にとっての画期であり、応永(1394〜1428)あたりには守護職は一家相伝のものに変質してしまった。ちなみに国司は自然消滅したようだ。

なおこの時代、庄園の在り方も変わっていった。多くの庄民が寄合に参加する庄民結合あるいは村落結合が出現する。少数の支配者が村落を治めるのではなく、庄民の結合が庄園=村の実体となり、それが法人格的に扱われるようになったのである。

このように多くの変化を内包しつつ、足利義満の治世になって、南北朝の動乱は終結する。

義満は、管領・侍所・直轄軍をそれぞれ将軍直属にするなど幕府の権力を将軍に一極集中させた。また奉公衆(将軍直属の高位の武士)を将軍の直轄領の代官にする制度をつくるとともに、将軍家を頂点とする家格の固定化を行った。

また、衰微していた南朝と和睦し、実質的には吸収合併に近い形で南朝を接収した。

義満は王朝に強い関心を示しており、早くから異常な早さで官位を進めて太政大臣に昇りつめ、しかもそれをすぐに辞任した。義満は無力な公家をバカにしていたらしいが、それと距離を取るのではなくて、公家のルールを逆手にとって形式的にその上位に立つという老獪さを持っていた。義満はさらに出家によって聖俗の身分を超越し、武家・公家の上に超然と立つ立場へ自らを置いた。義満は自らを天皇に擬していた。

そして、統治の最後の仕上げが九州の統一であった。この頃の九州は、管領・細川頼之によって九州探題として派遣された今川貞世(了俊)が九州を制圧する勢いだったが、守護たちとの諍いによって混乱している中でもあった。九州が中央にとっての大きな政策課題になっていたのは、九州は対中国貿易の窓口となっていて、その実権を奪い合っていたからで、事実、今川了俊はこの時期に盛んになっていた倭寇=海賊衆の力を借りていたのではないかという。

しかし、1368年に成立した明は、自由貿易を禁止して朝貢貿易のみに一本化する政策を実施(1371年、海禁令)。義満としては自由貿易か対等な形での貿易を行いたかったようであるが、明がそのような方針である以上、明に朝貢するという臣下の礼をとる以外には貿易ができない。そこで義満は今川了俊を解任、それによって大内義弘が力をつけて反乱を起こしたがそれを鎮圧。このように九州を直接平定し、応永8年、明帝に臣下の礼をとった。

そして明は、天皇ではなく義満を「日本国王」と認めたのである。これは対外的にはもちろん、国内へ向けても、義満が完全な支配権を確立したことを明のお墨付きで示した画期的なことだった。このようにして室町幕府の覇権が確定したのである。

南北朝の動乱全体を通じて私が感じたのは、武士の支配にあたって問題を複雑化させたのが「所領給付」にあったのではないかということだ。そもそも鎌倉幕府の成立にも所領の問題が大きく関わっているのであるが、鎌倉幕府がなくなってしまったことでその問題が蒸し返された観がある。所領が武士の働きの見返りである以上、戦乱が起こればかならず土地が必要になる。一方で、幕府は土地の支配権の獲得によって成立した統治機構ではない(「征夷大将軍」という軍事指揮官としての統治機構である)ので、そこにどうしても矛盾が生じるのである。

しかもこの時代、幕府の財政の中心は土地からの年貢ではないようだ。そもそも守護は別として、幕府自体は年貢をとっていないように見える。幕府は、営業税や貿易による利益、つまり商業を手中に収めることで収益を得ているような感じである。だから守護以下の家臣団と幕府の双方の思惑は、何かちぐはぐな感じがぬぐえないのである。

そうした考察は本書にはないので私の勘違いなのかもしれないが、幕府と家臣団の双方の財政構造はもうちょっと詳しく知りたいと思った。

南北朝時代の優れた概説書。

 

【関連書籍の読書メモ】
『観応の擾乱—室町幕府を二つに引き裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田 俊和 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/03/blog-post_8.html
観応の擾乱を丁寧に解きほぐす本。『南北朝の動乱』とは違った視点で足利尊氏を描いている。

『中世奇人列伝』今谷 明 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
中世における、知られざる6人の小伝。広義門院による天皇擁立というウルトラCについて詳しく述べており非常に面白い。

『寺社勢力—もう一つの中世社会』黒田 俊雄 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/09/blog-post_13.html
中世における寺社勢力の勃興と衰退を述べる。寺社勢力が公家・武士と並ぶ権門であったことを明らかにした名著。

『中世薩摩の雄 渋谷氏(新薩摩学シリーズ8)』小島 摩文 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/06/8.html
中世の渋谷氏に関する論文集。南北朝時代の鹿児島の状況に詳しい。

 

2021年7月31日土曜日

『第二の性 I 女はこうしてつくられる』ボーヴォワール 著、生島 遼一 訳

不朽の女性論。

『第二の性』は哲学者ボーヴォワールの主著である。彼女は1949年という早い時期にフェミニズム運動の先駆けとなる本書を発表した。彼女自身が、哲学者のサルトルと恋人同士でありながら婚姻も子供を持つことも拒否し、互いの性的自由を尊重しつつ共同生活するという新しい時代の女性観・夫婦観の実践者であった。

『第二の性』は、第1巻「事実と神話」第2巻「体験」によって構成され、原語(フランス語)版で1000ページ以上にもなる大著である。この生島遼一訳では、第2巻「体験」の方から訳出されており、本書は「体験」3分冊のその1である。

その内容は、あまりにも有名な冒頭「人は女に生まれない。女になるのだ」が象徴する。男が作った、男が実権を持つ社会の中で、女は少女時代から老年に至るまで副次的な役割だけが割り振られるという「第二の性」に甘んじなくてはならない。(セックスではなくジェンダーの)「女」は生得的なものではなく、社会によって作られたものなのだ。

幼児期は男女の区別はさほど厳しくないが、少女時代になるといろいろな点で女の子は行動に制限が加えられる。女の子は木登りなんかしない方がいいとか、ズボンをはくべきじゃないとか、そういう些細なことから区別は始められる。

そして少女は、自分は人生を主体的に生きることができない「第二の性」なのだということを理解するようになる。最も野心に富み、自らの可能性を開花させていきたいという欲望を持つ若者の頃に、そういう残酷な現実が少女に降りかかってくるのである。女性は自分の可能性を十分に発揮することが許されておらず、あくまでも男の付属品として生きなければならないという現実に。「少女は大人に変形するためには、女性なるがために課せられる狭い限界のうちにちぢこまらなければならない(p.87)」のである。

もちろん、本書執筆の時点(約70年前)においても、ボーヴォワールを含め自らの信じた道を突き進む女性はいた。女性であっても仕事中心の生き方をする人は皆無ではなかった。しかし一方で、その女性たちは、結婚や出産といった(ある意味では唾棄すべき役割だったとしても)世間並みの幸せを諦めなくてはならなかった、というのも事実だったのである。男たちは当然のように仕事も家庭も手に入れているのにだ。

しかも、女性が男性の付属品として生きる――つまり子供を産み、それを育てるという役割を男のために果たす――のは、自分の自主性を押し殺すのを別にしても、楽ではない。なぜなら、女性は値打ちある男に気に入られなくては、値打ちある女になれない。そして男に気に入られるためには、たいていの場合は可愛さ以外のことは評価されないからだ。「王女さまだろうと、羊飼いの娘だろうと、愛と幸福を手に入れるためには、きっと美しくなければならない(p.47)」のである。

男の場合は、スポーツや勉強、面白い話、リーダー性といったいろいろな観点で女性から評価されるのに、女性の場合は、そうした長所を持っているだけでは十分ではなく、さらに美しくなければ男性から評価されない。しかも、しばしば「あまり教養があるのや、あまり賢いのや、あまり個性的な女は、男たちを恐がらせる(p.117)」。

だから女性は、時としてあえて堕落したり自分を傷つけたりすることで世間に反抗してみたりもする。だが「若い娘は――特に不器量者でないかぎりは――けっきょく女らしさを受諾する(p.168)」。自分が主体になるのを諦めなければならないにしても、大部分の若い娘にとっては、「まじめな恋人・夫」を手に入れることが結局は有利だからだ。

それに若い娘がおしゃれをすることは、単に男性に媚びを売っているだけでもない。自分を美しくしつらえることは、それ自体が喜びであることも多い。また若い娘は(空想的な)「まじめな恋人」を夢想することも多いが、それも一つの遊戯であり、別にそういう男を手に入れるための「取引」を肯定しているわけでもない。しかし長い目で見れば、女性は「自主的個体」であることを諦め、男性に気に入れられる客体(モノ)となる選択をせざるをえないように追いつめられ、むしろ「受け身のかたち」で成功することが女性の夢となっていくのである。

こうして女は作られていく。だがもちろん、それは男性にだって言えることだ。男性だって、「男」として与えられた役割をこなさなくてはならない。でも歴史を顧みれば、重力を発見したのも、アメリカ大陸を発見したのも、憲法を作ったのも男だった。「男だって苦しんでいる」のが事実だとしても、ジェンダー(という用語は本書にはない)が平等でないのは明らかなのである。

本書は、「第1章 幼年期」「第2章 若い娘」「第3章 性の入門」「第4章 同性愛の女」で構成され、以上は第1章と第2章の内容である。第3章からは、発表当時かなりスキャンダラスに受け取られた(批判が殺到した)ところで、女性の性について率直に語られている。月経の問題などは最近になってようやく世間がボーヴォワールに追いついてきたと感じた。一方、女性の性欲についての論考は、当時は衝撃をもって受け取られた(そのおかげで本書はベストセラーになった面もある)のであるが、現代から見ると穏当である。

女性の性について多角的に述べる中でも、特に「冷感症の女」の話題が長かったように感じた。つまり性の快楽を感じない女がいるのはどうしてかということで、処女が暴力的に奪われる場合が多いこと、夫や恋人の冷たい態度、モノとして扱われることなどをその原因に求め、「冷感症」を改善させるためには、性の技巧ではなく「肉体と精神との両面の相互的な思いやり」が大事だと結論付けている。

また当時としては「第4章 同性愛の女」もかなり先進的である。若干時代を感じさせる部分もあるが、同性愛を(「正常」と対置する)「変態」として扱わなかったのは慧眼だと思った。なお本性は「同性愛」自体を考察するものではなく、同性愛の女はどうして存在するのか、ということを入口にして、女性のおかれた苦しい状況を再確認させるような内容だ。

女性は、様々な面で男性に比べ苦しい立場に置かれている。にもかかわらず、彼女は弱さを 武器として魅力として生きなければならない。女性は、主体的に戦うことを奪われているのである。ボーヴォワールは本書執筆の後に女性解放運動に加わるが、本書には女性の闘争を呼びかける要素はほとんどないのに、女性が不当に受動的な社会的役割を押し付けられていることを緻密に論証することでその戦いの土台を作っていたといえる。

なお本書は、ほとんど改行がなく切れ目なく話題が続いていく形式(小見出しなどがない)であるため、現代の読者にはちょっと読みづらい。議論がどこへ向かっているのかよくわからない哲学者的な書き方である。それに、やはり70年も前の著作であるため、女性のおかれた立場も今とは少し違う。だが70年経っても、むしろ全然変わっていないところも多いのである。それは、生殖は女性にしかできない、という普遍的な前提があるためだ。だからこそ両性の不平等を是正していかななくてはならないのに、ボーヴォワールの頃とさほど変わっていない日本の状況にも暗澹たる思いがした。


2021年7月29日木曜日

『ウィーン楽友協会二〇〇年の輝き』オットー・ビーバ、イングリード・フックス著、小宮 正安 訳

ウィーン楽友協会の歴史を述べる本。

「音楽の都」ウィーン、その近代音楽シーンの中心にあったのがウィーン楽友協会である。ウィーン楽友協会の誕生以前には、音楽家が公に作品を発表する場合、自らが興行主となって演奏会を企画するしかほとんど道はなかった。つまりこの頃の「クラシック音楽」の在り方は、今のロックやポップスと似ていて、音楽家本人が会場手配・広告・チケット売りさばき・共演者手配・チケットもぎり…といったことを差配しなくてはならなかったのである。こうした演奏会開催の実務を引き受ける企画者がウィーン楽友協会であり、その誕生には画期的な意味があった。

ウィーン楽友協会の誕生以前も「音楽愛好協会」という団体が定期演奏会を開催したことはあったが、ナポレオン侵攻によって活動は頓挫していた。

やがてオーストリアがナポレオン軍に勝利すると、1812年、その戦勝や被災者の救援を目的に大演奏会が行われ、それがきっかけになってウィーン楽友協会が設立されることになる。この団体は単なる音楽の興行団体ではなくて、政治的な意味、愛国的な意味を付与された存在だった。それは当時のオーストリア皇帝フランツ1世の弟ルドルフ大公が楽友協会の名誉総裁を引き受けていたことからも明らかである。

オーストリア帝国はヨーロッパの新秩序の建設にあたり、芸術の力を政治的な立場の強化に活用しようとしたのである。

しかしウィーン楽友協会が政治的な使命を帯びた御用団体だったかというと、そうでもなかったのが面白いところで、この団体はまずディレッタントの集まりとして誕生する。つまり職業的音楽家は会員になれず、音楽を趣味とする人(多くは貴族)による音楽サークルみたいな存在だった。

彼らにとって音楽はあくまでも趣味であるために却って真剣であり、協会の活動方針は「音楽を高い水準で広めることこそ協会の主目的であり、協会員がみずから演奏したりそれを聴いたりすることは、副次的な目的である」とされていた。またこのために資料館と音楽院が併設され、その収蔵品と教育の水準も非常に高かった。 

ところでウィーン楽友協会といえば、毎年お正月に演奏されるニュー・イヤー・コンサートの会場である「ウィーン楽友協会大ホール」が有名だ。実は楽友協会がコンサートホール(1831年建設の初代ホールは現存せず)を作るまで、ウィーンにはコンサートホールというものは存在していなかった。先述の1812年の大演奏会も、王宮内部のスペイン乗馬学校乗馬ホールを借りて開催されたのである。

現在のウィーン楽友協会会館が完成したのは1870年。ウィーンは1848年に革命が起き、その鎮圧からの政治的混乱、そこからの復興の気運の中での新会館の建設だった。革命後、楽友協会の活動が低迷し借金漬けになっていたところ、カルル・チェルニーが遺産を協会に寄贈したことをきっかけにして経営が好転し、皇帝から土地を下賜(無償寄贈)されて建設したのが現会館である。

日本ではコンサートホールというものは公共の施設として建設されるものがほとんどだと思うが、ウィーンでは政治とは近かったとはいえ民間の団体が最初の音楽ホールを建設したというのが、国の在り方の大きな違いを感じさせるところである。

ところで話が逸れるが、今の日本の小都市には結構コンサートホールがある。例えば鹿児島だと姶良市の「加音ホール」、霧島市の「みやまコンセール」などは有名だ。だがモーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンが活躍していた時代のウィーンには、コンサートホールがなかったというのだから驚きなのである。彼らが人類史に燦然と輝く珠玉の名曲を作っていたのは、コンサートホールすらない頃だった。今の日本では立派なコンサートホールがそれこそ日本中にある(もちろん世界にも)。にも関わらず第2のモーツァルトやベートーヴェンがどんどん生まれて来ないのはなぜなのか。本書を読みながら文化の在り方について考えさせられた。

本書には協会の歩みの他、「楽友協会と演奏会」「楽友協会音楽院」「ウィーン楽友協会資料館」について述べており、それぞれ興味深い話題が盛りだくさんである。特に音楽院に無試験で入学を許された上、さまざまな特別扱いを受けたマーラーの話と、家族がいなかったので協会が葬儀を行い、貴重なコレクションが遺贈されたブラームスの話が面白かった。

しかし本書にはちょっとした弱点がある。それは著者が協会の資料館館長・副館長なので、どうしても内容が宣伝というか自己紹介的になっていることである。よって本書はジャーナリスティックではなく、いいところだけを切り取ってまとめたような箇所がある。また創設の事情なども、どうも説明がボヤッとしていて、書き方が明解ではない。

関係者が書いているために貴重な情報が開示されている一方で、見栄えの良いところだけをまとめたような部分もある社史的な本。


2021年7月11日日曜日

『廃仏毀釈—寺院・仏像破壊の真実』畑中 章宏 著

各地の廃仏毀釈の事例を述べる本。

本書は、安丸良夫『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)で描いた廃仏毀釈の経過を、事例面で補足するものである。『神々の〜』は明治政府の宗教政策を包括的に明らかにした名著であるが、廃仏毀釈で何が行われたかについては、象徴的な事例がいくつか引かれるだけで全国の具体例が掲載されていない。また近年刊行された廃仏毀釈関連本では、それが乱暴狼藉だったという一面的な捉え方をしているものが多く、多面的な見方では描かれていない。

そこで著者は、全国の主な信仰の地における廃仏毀釈の経過をまとめ、またその伝承を民俗学的な視点—つまり伝承をそのまま事実として見なすのではなく、なぜその伝承が生まれたのか考察するという見方—で捉えようとした。

具体的には、神仏分離以前のいわゆる「神仏習合」と呼ばれる状態がどうであったのかを簡単に紹介し、それから第1章:日吉社・薩摩藩・隠岐・松本藩と苗木藩の事例を述べる。次に第2章:奈良・京都・宮中・鎌倉の事例、第3章:伊勢・諏訪・住吉・四国の事例、第4章:各地の「権現」がどのように排除されたか、特に山岳信仰と金比羅信仰について述べ、第5章:各地の牛頭天王信仰(八王子・祇園・大和など)の改変、と続く。そして終章において、廃仏毀釈はどの程度”順調に”果たされたのかについて改めて検証している。

ただし最後の検証結果については、『神々の〜』における安丸の叙述や、その他の廃仏毀釈の研究とあまり異ならない。それは、大寺院の僧侶の場合は一部に反抗はあったものの多くは廃仏の指令に素直に従った一方、民衆や地方的な寺院については抵抗するものがけっこういた、というものである。

本書のやや新しいところは、前述の「民俗学的な視点」であり、これまでの廃仏毀釈の本では、例えば興福寺の五重塔が25円で売りに出された、といった伝承がそのまま事実として描かれていたのに比べ、「本当にそういうことがあったのかは分からないが、そういう伝承が残っている」という形で、留保しながら記述されていることである。

それらの伝承は、今となっては事実であったかそれとも誇張であったのかは検証できない。とはいえ廃仏毀釈を免れた仏像とその破壊の伝承が微妙に整合していないことを考えると、一部誇張が混じっているだろう、というのが著者の考えのようである。しかしながら「民俗学的な視点」は本書の全体には貫徹していないように見える。というのは、事例紹介がほとんど公刊されたものや公的な記録(郷土誌とか)に負っており、伝承の聞き取りといったものが行われていないからである。そこはやや期待はずれの点である。

ところで、本書を読みながら、ある地域の廃仏毀釈では堂宇の取り壊しが徹底的に行われているのに、別の地域では堂宇のいくつかが神社の社殿に転用されている、という違いが気になった。神仏分離令では神社から仏教的なものを取り除け、といっているだけなので、 必ずしも建物を壊す必要はない。例えば五重塔のような、完全な仏教建築を壊すのはしょうがないとしても、経堂とか金堂は神社の社殿に転用が可能なのである。にも関わらず、なぜ頑なに全部破却しようとした人がいたのだろうか。建物は残して神社の社殿にしてしまった方が合理的に思えるのに、どうも「壊す」こと自体に価値を置いていたように感じてしまう。やはり暴動的な心理が働いていたのだろう。

それから、明治7〜8年になって廃仏毀釈が行われている事例がいくつか紹介されていて興味を引いた。本書には記載がないが、明治5年には大教院体制が出来て神仏合同の国民教化運動が行われる。つまり明治7〜8年の頃は仏教勢力も国家に協力する立場になっていて、必ずしも一方的に弾圧される存在ではない。にも関わらず「神仏分離令」が停止されていたわけではないため、この頃になっても神仏分離とそれに続く廃仏は行われていたのである。「神仏分離令」はいつくらいまで実効性を持っていたのだろうか。これはさらに検証してみたいところである。

なお、本書では神仏習合の様相が大きく取り上げられており、今のような(仏教的ではない)神社の存在は廃仏毀釈によって生まれたものだということが強調されている。 そして例えば八坂神社については元々が疫病を抑える「牛頭天王」を奉ったものであるのに、神仏分離によって「牛頭天王」が抹消されたためにその信仰内容が不明確になってしまった…というような事例をいくつか引き、神仏分離・廃仏毀釈は単に神社から仏教的要素を取り除いただけでなく、信仰そのものの改変であったとしている。

著者自身が「問題追及の途中経過」と言うとおり、全体的に必ずしも調査内容は重厚ではないが、廃仏毀釈の全国的な動向がまとまっているのは便利であり、「民俗学的な視点」は今後の研究に期待できるものである。

廃仏毀釈の事例集として分かりやすい本。

【関連書籍の読書メモ】
『神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』安丸 良夫 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/05/blog-post_2.html
明治初年の神仏分離政策を中心とした、明治政府の神祇行政史。「国家神道」まで繋がる明治初年の宗教的激動を、わかりやすくしかも深く学べる名著。

『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち』佐伯 恵達 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2018/01/blog-post_11.html
宮崎で行われた廃仏毀釈についてまとめた本。廃仏毀釈や神道の見方はやや一面的なところはあるが、仏教側への考証は緻密で、地元に関する情報が豊富な真摯に書かれた本。地方の廃仏毀釈の実態を探るためには、このくらいの情報量が必要と思う。

 

2021年7月10日土曜日

『中世の罪と罰』網野善彦・石井 進・笠松宏至・勝俣鎮夫 著

日本中世における罪と罰の在り方を考察する論文集。

何を悪事と見なし、どのような罰を加えるか、ということは社会の特質を示す格好の素材である。例えば外国に行ったとき、日本ではごく普通に許されていることが罰せられたり、逆に日本ではしてはならないことが堂々と行われたりしていて、その文化の違いにハッとさせられることは多い。その一つひとつが、その国の人々が考える社会のあるべき姿と繋がっているからである。

だから、日本の中世における罪と罰の在り方を知ることは、その社会がどのようなものであったかを照射するテーマとなるのである。

しかしながら、中世の刑法システム—今で言えば刑事訴訟法とか民事訴訟法のようなもの—は完全な形では残っていない。というよりも、中世においてはそれはその場しのぎで増築されていった建物のようなもので、当時の人にとってもその全貌が分かりづらいものだったようだ。よって、それは史料に残る片言隻句から推測・考察していくしかない。

本書には、そのようなスタンスで書かれた10の論文と著者たちによる討論会(の速記録)が収録されている。

1「お前の母さん……」(笠松宏至):鎌倉時代、悪口は重罪の一つだった。御成敗式目は前時代までの罪を踏襲していたが、唯一「悪口」だけは式目で規定された罪である。著者は特に母子相姦を表す悪口について考察している。

2 家を焼く(勝俣鎮夫):荘園領主はその領民が罪を犯したとき、追放とその住居を破却・焼却するだけでそれ以外の断罪の手段をほとんど持たなかった。では追放はともかく家の破却はどうして行われたのか。それは犯罪を穢れと見なしていたためで、穢れている犯罪者の住居を領内からなくすためだったのだという。

3「ミゝヲキリ、ハナヲソグ」(勝俣鎮夫):中世では、追放・所領没収・死刑が代表的な刑罰であったが、劓刑(はなそぎけい)や指斬り刑などの肉体刑、また片側だけ鬢を剃るとか女性の髪を切るといった刑罰も行われた。これらは「異形の姿にする刑罰」であり、詐欺や密通など「あざむきの罪」に対応していたと見られる。

4 死骸敵対(勝俣鎮夫):死骸を辱めることは中世ではよく行われた。合戦で死骸が敵方に渡らないように処置することは残されたものの務めだった。死骸は意志あるものと考えられ、その意志に反する行為は「死骸敵対」として非難された。

5 都市鎌倉(石井 進):鎌倉は政治の中心として数々の規制にがんじがらめになっていたが、実際にはその禁制が現実に力を持っていたとは限らない。また相次ぐ災害や飢饉によって鎌倉は荒廃して人肉が喰らわれていたことさえあった。そのような環境を踏まえて罪と罰の体系を考察していく必要がある。 

6 盗み(笠松宏至):盗みは公家法・幕府法では盗んだものの金額次第で罪の軽重が計られる軽罪だったが、実際に機能していた在地法(荘園本所法)では金額によらず本人の死刑のみならず妻子所従に及ぶ重罪と見なされた。盗みは不浄なことと考えられたため、このようなダブルスタンダードが長く続いたのかもしれない。

7 夜討ち(笠松宏至):現代の感覚では、昼の討ち入りと夜討ちは同じものに思えるが、中世では夜討ちは斬罪が原則の凶悪犯罪だった。やることは同じなのになぜ夜に行うことが問題になるのか。他にも夜間の通行に対する規制も多かった。どうやら中世の夜には昼と違うルールが存在していたようである。

8 博奕(網野善彦): 博奕は古代から盛行し、10世紀から11世紀には「芸能」の一つとなった。博奕は巫女と同様に神と関わりを持つ呪術的な側面があったらしい。しかし鎌倉期になると博奕は公権力によって禁止され重罪と見なされるようになり、戦国時代には刑罰も厳しくなり、その姿勢は江戸幕府にも引き継がれる。

9 未進と身代(網野善彦):未進、すなわち納入すべき年貢を納められないことは罪であった。それは借銭・借米の未返済と同じような契約不履行の罪であって、その罰として身代を取り上げられる=債務奴隷化するということが多く行われた。これは年貢の制度自体が出挙の仕組みを基盤としていたからではないかという。

10 身曳きと”いましめ”(石井 進):「9 未進と身代」での考察が再び取り上げられる。未進だけでなく犯罪の場合も「身曳き」といって、自分の身を領主の下人とすること、即ち犯罪奴隷化が行われた。 しかしその場合も上位権力による命令によったのではない。「曳文(ひきぶみ)」、すなわち「自分はこれこれの罪を犯したので自分の意志で所従になります」という自発的な文書を作成した(形にした)。「刑罰に処される人間が、自発的にそれを承認する文書を提出する形式をふまざるをえなかったところに、われわれは中世という時代の特色をもとめることができる(単行本版p.178)」。

討論[中世の罪と罰]: 興味深い話題が次々に、脈絡なく語られている。特に面白かったのは、「2 家を焼く」では荘園領主は犯罪者に対して追放・家の破却しかできなかったとしているのに、「9 未進と身代」「10 身曳きと“いましめ”」では明らかに債務奴隷・犯罪奴隷にするという処罰が存在していたとする矛盾をどう考えるか。それは荘園領主(=公家)と在地領主(=武士)では違う罪観念があったことの反映ではないかという。公家では犯罪は穢れであり遠ざけておきたいもので、その検断(逮捕・裁判・処罰)にもできるだけ関わりたくなかったが、逆に武士では積極的に摘発や追捕してその人間を殺すなり奴隷にしたりということが行われた。つまり武士は犯罪=穢れと思っていなかったフシがある。だからこそ武士が検断権を独占的に請け負うようになり、それが武士の力を高めたのではないかという指摘は面白い。

本書は雑誌『UP』に連載されたもので、論文集とはいっても、普通の論文では成立しないアイデア段階のものが自由に書かれており大変エキサイティングである。中世の刑法システムを体系的に語るものではなくトピック的なのでやや分かりづらいところもあるが、全体像がわからなくても面白く読める。

中世の罪観念を繙き、そこから中世社会の特質を窺うエキサイティングな本。


2021年6月20日日曜日

『破戒』島崎 藤村 著

被差別部落出身の青年の苦悩を描く小説。

本書は、日本近代文学の重要作品として名高いものであるが、読むのが暗鬱な本である。

主人公の瀬川丑松は、被差別部落出身(穢多)であることは絶対に隠せという父の言いつけを守り、小学校教員になって生徒からも慕われるが、校長などからは生一本な性格が疎まれて、やがて出生の秘密を探られるようになる。周囲の差別意識が徐々に露わになり、丑松は追い詰められる。その上、自分が穢多であることを隠しているという自意識が丑松自身を蝕み、丑松は鬱病のような状態へと陥る。

このプロセスは見ていて痛々しく、読み進めるのが苦痛なほどである。そこにどんな救済も用意されていないことを感じるからである。

一方、丑松が尊敬するのが猪子蓮太郎という人物で、彼はいわば「目覚めた人」として力強く描かれる。猪子は「我は穢多なり」と公言し、穢多も平等な一人の人間であることを訴える。その猪子が暴漢に襲われて死亡したことで、丑松は自らの人生の欺瞞に耐えかね、何もかも捨てる覚悟で穢多であることを公言。丑松は小学校の生徒たちの前で跪き、「今まで隠していて済まなかった」と謝り学校を去った。

その後、同じく穢多で社会から放逐された大日向という人物がテキサスに移住するという話に乗り、また以前より思いを寄せていた落ちぶれ士族の娘・お志保と両想いだとわかって、将来の結婚を臭わせて物語は終わる。

この終わり方は、「捨てる神あれば拾う神あり」という安易なラストであるが、私にとっては、最後の最後に少しでも丑松に救済が訪れてよかったと安堵できた。

しかしながら、丑松には本当の意味での救済は訪れていない。それは、丑松にとって穢多であることはあくまで恥ずべきことであり、自ら穢多を卑下してしまう差別意識を持ってしまっているからだ。その点が真に目覚めた人物である猪子とは違う。

そしてそれは、作者である島崎藤村自身にもおそらく言えることだ。藤村は、この優れた反差別小説を書きながら(そして猪子という反差別の旗手を登場させながら!)、やはり穢多を賤民視する「常識」から抜け出ることができず、言葉の端々で穢多を卑賤なものとして描いてしまったのである。

このことは『破戒』が部落解放同盟から問題視されたことからも明らかだ。藤村はそれに応じて(特に「穢多」を他の言葉に言い換えるなど)作品を訂正したが、それは本当の問題が何かを理解しない表面的な訂正で、しかも文学的に意味の通らないものとなり、むしろ改悪と呼べるものであった(本書はこの改悪が批判されて復活した初版本に基づくもの)。このことを見ても、藤村自身に拭いがたい差別意識があり、しかも差別意識の底にある本当の問題は何かということを閑却していたことの証左であるように思われる。

しかし、本書が藤村初の長編小説として自費出版されたのは明治39年で、これは差別問題がようやく社会の表面に出てきた頃である。このような早い時期に差別をテーマにしてこの重厚な作品を書いたということだけでも画期的なことであるし、今では暗鬱すぎて読むのが苦痛なほどであるが、当時は評判となって新潮社が出版権を2千円(破格)で買い取ったことから見ても、少なくとも同時代の読者に広く理解される描き方であったことは間違いない。

そして、丑松の態度は、非常にリアルなものだと私は思う。差別されてきた人間で、猪子のように突き抜けられるものはめったにいない。「差別されても強く生きなよ!」というのは、差別されないものの勝手な言い草で、実際には萎縮した生き方になってしまうのがやむを得ないのである。丑松が(まだ本当には問題が起こってもいないのに)徐々に自暴自棄になっていく姿、思いを寄せるお志保にまともに話すことができない意気地のなさ、穢多であるという自意識に押しつぶされていく様子など、等身大の若者の姿が描かれているような気がした。

そして丑松は言う。「何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕うような、そんな思想(かんがえ)を持ったのだろう。同じ人間だということを知らなかったなら、甘んじて世の軽蔑を受けてもいられたろうものを」と。

本書のテーマは「目覚めたものの哀しみ」だといわれることがある。確かにそれはそうかもしれない。丑松は、学生時代には穢多を隠すことは何とも思っていなかった。しかし猪子の思想と出会ったことで、素性を隠しながら生きていることに後ろめたさを感じるようになるのである。それは、猪子が「穢多も人間だ。恥じることはない」と力強く主張することに共感しながら、実際には素性を隠して生きているという矛盾に耐えかねたためであった。

しかし既に述べたように、最後まで丑松は本当の意味では目覚めることはない。目覚めるということはどういうことかを知り、また自分では目覚めたのだと思っていながら、実際には未だ古い社会通念に自分自身が囚われているのである。そしてそれが、私が非常にリアルだと感じた部分でもある。

例えば、小説の最後に丑松は「隠していて済まなかった」と惨めに土下座する。しかし丑松は何も悪いことをしていないのである。悪いのは、穢多を差別してきた社会の方なのだ。丑松は被害者である。にもかかわらず、丑松は「隠していて済まなかった」と謝ってしまう。それまで散々、「なぜ穢多は穢多であるというだけでこんな目にあわなければならないのか」と煩悶しながら、ついにそれが社会批判として昇華することはないのだ。それが、目覚めたつもりになっているのに、いまいち目覚めきれない丑松の限界である。そしてそういう丑松の心理は、現実の人間の非常に精確な写実であると感じた。

明治時代の反差別小説の傑作。

 

【関連書籍の読書メモ】
『夜明け前』島崎 藤村 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/08/12.html
幕末明治の社会を、ひとりの町人の一生を通して描いた大河的小説。明治維新を反省させる大作。

 

2021年6月16日水曜日

『ハプスブルク 記憶と場所——都市観相学の試み』トーマス・メディクス 著、三小田 祥久 訳

ハプスブルク帝国の残滓を見つめる旅。

本書は、副題に「都市観相学の試み」とつけられているが、このような学問があるわけではないらしい。それは、観相学——すなわち顔立ちから内面を窺う技術——を都市に応用し、都市の相貌からその内面を覗いてみようというもののようだ。しかし本書は学問的というよりは、エッセイや旅行記に近く、結論じみたものもない。

正直に言えば、私は本書の叙述の半分もピンと来なかった。なぜなら、私は本書に取り上げられる都市の一つも訪問したことがないからで、本書には写真もないため、著者のいうことが現実の場所とどう繋がるのかが全く分からなかったからである。なので以下は甚だ心もとない読書メモである。

本書では、ウィーン、プラハ、ヴェネツィア、ブダペスト、トリエステが取り上げられる。これらはヴェネツィアを除きハプスブルク帝国(ハンガリー=オーストリア二重帝国)の版図に含まれた都市である。著者はこれらの都市に残されたハプスブルク帝国の記憶をその相貌を頼りに辿っていく。

ハプスブルク帝国とは、失敗したもう一つの「ヨーロッパ」である。それは現在の「ヨーロッパ」、即ち「欧州連合」とは違った原理で他民族・多言語を統合しようとし、瓦解した。本書では、そういうことが批評家風に語られるわけではない。しかしなんとなく浮かび上がってくるのは、ハプスブルク帝国という経験が、ヨーロッパに何をもたらしたか、であるように思われる。

それは、ヨーロッパにとって18世紀が何であったのか、ということなのかもしれない。激動の19世紀を迎える前、比較的平穏だったヨーロッパが、その平穏さの中に、暗鬱な火種を宿していたことを、なんとなく都市の相貌からえぐり出しているような気がした。ハプスブルク、という豪華絢爛な言葉のイメージとは逆に、本書から滲み出てくるのはむしろ崩壊の響きである。

しかし実際、本書はそういうものではないのである。著者は都市を巡り、歴史に思いを致す。そのシンプルな営みの中で、都市が置いてきた前近代の記憶をそこはかとなく掘り起こしていくだけなのだ。