2021年3月14日日曜日

『肉食妻帯考—日本仏教の発生』中村 生雄 著

日本仏教における肉食妻帯についての論考。

本書の主張は次の3点に集約できる。すなわち、(1)古代における日本仏教では肉食妻帯が禁じられたが、いずれも厳格には守られず、特に妻帯については常態化した。(2)親鸞と本願寺教団は妻帯を積極的に位置づけ、おそらくはそのためもあって近世に大きな発展を遂げた。それは日本仏教の特質を示しているものと考えられる。(3)明治政府が僧侶の肉食妻帯を自由化したことは、ほとんど議論なく仏教界に受け入れられた。

本書の著者は日蓮宗の寺に生まれた。しかしなぜか親鸞に心惹かれ、日本思想史・比較宗教学を専攻するようになってからも親鸞の思想を高く評価するようになる。よって本書においても、上の(2)の主張の分量が多く、浄土真宗が妻帯(というより家族原理)を基礎として発展したことを特に重視している。他宗派でも、特に明治以降は寺院が世襲されていくことは多かったのであるが、多くの場合、住職の奥さんは好ましいものと考えられず、梵妻・大黒などと隠語じみた名称で呼ばれ、檀家からは歓迎されていなかった。ところが浄土真宗の場合、住職の奥さんは「坊守(ぼうもり)」と呼ばれて、寺院経営の要とすら考えられた。

しかしながら、元来の仏教の教えから言えば、世俗の縁を切るからこその出家である。それが家族原理という最大の世俗の縁を温存してたものならば、もはやそれは出家とは呼べない。親鸞も、「非僧非俗」と自らを位置づけて妻帯に踏み切ったので、出家者として妻帯したのではない。浄土真宗の興隆を考える時、それが脱戒律化というか、世俗化した仏教であったことは確かに日本社会の特質を考える上で有効であるだろうが、著者の述べるようにそこを評価できるかというと、個人的には疑問だった。

なお(3)について、興味深かったのが、明治政府は僧に対し畜髪・妻帯を許可したのであるが、1年後に尼に対して同様の許可を行ったということ。しかし多くの僧がなし崩し的に畜髪・妻帯に踏み切った一方、尼の場合はほとんど畜髪や結婚は行わなかった。それは、男性の場合は畜髪・妻帯しても僧として引き続き認められたのに対し、女性の場合は畜髪・結婚すればもはやそれは尼として認められなかったからではないか、という。男女でこのような非対称性が生まれたのは興味深い。このあたりに、日本人の仏教受容のキーが潜んでいそうである。

本書は、僧侶の肉食妻帯の是非を論じるものではなく、なぜ日本仏教は肉食妻帯を受け入れたか、どのように受け入れたかを検証することで、日本仏教の特質を探ろうとするものである。しかしながら、本書はいわば論点整理というか序論で尽きているところがあり、日本仏教の特質を探ろうとはするものの、その作業は本格的にはなされないままに終わっている。

というのも、実は本書は著者の没後に刊行されたものである。著者は肉食妻帯を中心的なテーマとして「日本仏教の発生」というタイトルでの単著を準備していた。しかし2008年に急性白血病を発症し、2010年には逝去してしまった。本書は、これまで著者と数多くの仕事をしてきた三浦佑之らが、著者が書いた論文や発表をまとめたもので、2004年あたりまでの論文が多い。要するに、本書は「日本仏教の発生」を考察するための前段階の論文をまとめたもので、草稿段階のものといえる。

よって、その内容は率直に言って生煮えと言わざるを得ないものだ(重複も多い)。だが、それを責めるのは酷というものだろう。

 

2021年3月9日火曜日

『家族と女性(シリーズ 中世を考える)』峰岸 純夫 編

中世における家族の様相を女性の在り方を中心として述べる論文集。

日本の中世においては、今ほど女性は従属的な立場に置かれてはいなかった。女性は財産権を持ち、政治においても重要な役割を果たした。慈円が『愚管抄』で「女人入眼(にょにんじゅげん)ノ日本国」としたように、大事なことは女性が決めたのである。しかし同時に、中世期は徐々に家父長制が成立し、女性の立場が弱くなっていった時代であるともいえる。本書は、王権における女性から下人の女性まで、様々な階層の女性を眺めながら、中世期の家族の在り方の変化を述べる8つの論文を収録する。

1 王権の中の女性(野村育世):摂関期は、母系尊属(外戚)が力を持った時代だといえる。院政期になると、父系尊属(上皇(院))が力を持つようになる。摂関期から院政期への移行の画期となったのが陽明門院禎内親王。摂関期まではほとんどの皇女は不婚だったが院政期にかけて皇女は近親婚を重ねる。また不婚の皇女は王権の中で様々な役割を担っていた。その一つは斎王のような宗教的役割だが、院政期にはそれが「女院」に変化する。「女院」は若年の天皇の准母(名義上の母)になって、王領を相続した。八条女院領や長講堂領といった巨大荘園群を持った女性大富豪が誕生したのである。彼女らは政権の中枢の争いからは距離を置くことで、荘園の相続をはじめとした王権の基盤を支えた。では彼女らはただの財産相続人だったかというとそうでもなく、例えば亡き夫の財産処分権を「後家」が持ったように、この時代の女性は独自の意志決定権があり、権威があったからこそ相続人になれた。だが、一族のために不婚を強いられたという面も否定はできない。なお室町期になると不婚の皇女は比丘尼として寺に入るようになる(比丘尼御所)。

2 武家の家訓と女性(鈴木 国弘):鎌倉時代においては、御家人は本家・分家といった一族が単位になっていたのではなく、むしろ女性を媒介とする親族的イエ連合の性格が強かった。つまり舅−婿の関係も血縁と同じくらい強かったのである。そうした親族の在り方は自然と妻を夫と独立した存在にした。この時代には、妻は夫と別の下人を持ち、別に財産を持っているということが珍しくなかったのである。また嫡男がイエの外交面を受け継いだ一方で、「嫡女」はイエの祭祀や家政の面を守り、訴訟の主体ともなっていた。このように鎌倉期までの武家の女性は男性へ隷属していなかったが、鎌倉時代後期には徐々に家父長制が確立していき、室町期には女性をモノとして扱う風潮が出てくる。

3 村落と女性(蔵持 重裕):中世村落においては、女性経営の農地が存在した。本節では、女性農業経営の実態を離縁の実態や寺への土地の寄進から探っている。そこから読み取れることは複雑だが、中世において村落は一種の法人的な性格を持つようになり、女性経営を保護したとは言える。だが、女性経営は公事の負担が免除されているなど、男性経営と比べ一段劣ったものと扱われていたのも事実である。

4 下人の家族と女性(磯貝 富士男):本節では中世における下人の様相が詳しく述べられる。一口に下人といっても多様な形態があり、大きく分けて債務奴隷(質人下人)と永久奴隷(永代下人)がある。 さらに下人が子どもを産んだ場合、その子どもがどのように位置づけられるかの問題がある(質人下人の場合、家族全員が下人にされるケースは稀であるため)。基本的には、女の子は母に、男の子は父に引き取られたようだ。なお、女の下人(下女)は、主人が性的支配権を持ち、下女を妾とする場合も多く、また下女が別の男と結婚する場合は主人の許可が必要であった。さらに主人の従者が下人と結婚する場合(従者婿)は、従者婿は主人に対し労務を提供する義務があった。一方、男の下人については下女ほどの支配権が確認されない。やはり女性は、男性に比べ従属的な地位に置かれていたことは間違いないようである。

5 後家の力(飯沼 賢司):中世においては後家は遺産の処分権を有した。北条政子は北条家を惣領し、やがて父時政をも追放した。これは、後家の権威が父方の存在に由来するものではないことを示唆する。古代においては兄弟共同体を基本に家族が構成されていたが、10世紀の終わりから11世紀にかけて、夫婦を単位とする家族が前面に登場し「夫婦同財」の観念が確立していく。後家は地頭職の継承においても重要な役割を果たしており、嫡男に替わって後家が長年地頭を務めるケースがあった。しかし中世後期には、嫡男への単独相続が一般化していき、後家が介在しなくてもイエの継承が保障されるようになり、後家の力は失われていった。

6 村落の墓制と家族(勝田 至):本節では、家族の在り方や女性の様相についてはあまり語られず、中世の墓制の全体像が簡潔に説明される。それまでは葬儀は深夜に行われていたのに、中世後期には次第に日中に行われるようになったという記述が興味を引いた。なお墓石の建立や供養の面で、男女が異なった扱いをうけていたということは史料に見当たらないという。例えば高野山は女人禁制であったが、死後は女性の納骨も普通に受け入れられた。中世では、死後の扱いは男女平等だったようだ。

7 家族を構成しない女性(細川 涼一):本節では、単身女性、すなわち下女、尼、遊女・白拍子、非人の女性がどのようなものであったかが淡々と記述される。男と女の結びつきが自由であると同時に不安定だった妻問婚の時代(古代)が終わり、社会全体が夫婦を単位として動く時代(中世)になってくると、どんな身分の女性でも、単身である場合には特別に身の振り方を考えなくてはならなくなった。その最良の場合が尼寺であったと見なせる。特に律宗尼寺は、女性がイエに従属し埋没しない自律的個人として生きる拠り所であった。しかし尼寺にしても、結局は女性が個人として自己実現をはかる場ではありえなかった。

8 女性の発心・出家と家族(勝浦 令子):女性が出家する場合、男性といかなる差があったか。彼女たちは自由に出家することはできず、夫との性愛関係・子供養育・家政経営など婚姻生活における女性の役割からの引退が必要だった。よって、夫の死後や老年での出家が多かった。というよりむしろ、夫の死後に出家して夫の菩提を弔うことは妻の重要な役割とまで考えられていた。ただし、中世においては「嫉妬」が罪業と考えられていたから、夫の浮気によって嫉妬を感じた罪によって出家を行うことは、女性側からの離婚手続きとして消極的に認められていた。出家した女性は尼として世俗的な義務から解放され、また諸国への旅が可能となるなど様々な自由を手にした。

全体を通読してみて思うのは、中世は家族の在り方が大きく変わった時代であるということである。兄弟や妻方の親族を含むゆるやかで大きなイエ連合から、夫婦を核として嫡男への一子単独相続を基本とする核家族的なイエに変化した。 では、そうした変化はどうして起こったのか? 本書はそれについてはあまり述べていない。しかし理由はともかくとして、この時代に人々の「イエ観」が大きく変わったのは間違いない。それには「仏教的夫婦観」も影響していたのかもしれないと控えめに書いてあって興味を引かれた。

具体的なケースを多数引き、女性の在り方の記述を通じて中世の家族観の変化を浮かび上がらせる好著。

 【関連書籍の読書メモ】
『仏と女(シリーズ 中世を考える)』西口 順子 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_21.html
仏教における女性のあり方を考える論文集。

 

2021年3月7日日曜日

『現人神の創作者たち』山本 七平 著

朱子学の日本的変容を述べる本。

『現人神の創作者たち』という書名からは、誰しも国家神道の創作者、すなわち明治時代から戦前に至るまでの政治家や内務官僚のことを予想するに違いない。あるいは、敬神思想を鼓吹した国学者たちのことを。しかし本書の内容は、江戸時代の朱子学者たちの著作を紐解くという、一見迂遠なものである。

なぜ朱子学が現人神に繋がるのか。それは、江戸幕府の正統性を示すために官学となった朱子学が、皮肉なことに革命思想ともいうべき尊皇思想を生みだし、さらには「政治的人格神」を必要とせしめたからである。朱子学には現人神の思想は全く内在していなかったのにも関わらず、不思議な因縁から狂信的な方向へ誘導する道標が打ち立てられていった。

しかし、戦後日本は朱子学(特に後述する浅見絅斎)を消し去った。それが言い過ぎなら少なくとも忘れ去った。であるから、戦後日本は、なぜ誤った道へ歩まざるを得なかったのか、自覚することができなくなった。もちろん、日本が破滅的な戦争へ突き進んだのは朱子学のせいだけではない。朱子学は表立って人々を狂気へと駆り立てはしなかった。だが朱子学は、表面的な煽動よりも、ずっと目立たないところで日本人に深い影響を与えた。朱子学は、人々が当然と見なす、ある種の「考え方の型」を形作ったのである。

であるから、日本人は朱子学を忘れたけれども、朱子学が打ち立てていった道標はそのまま残った。現代の日本でも、その道標は依然として社会に残っている。それは「消したがゆえに把握できなくなった伝統の呪縛(p.12)」である。朱子学を知ることは、我々を未だに束縛している不気味な伝統から自由になるために必要なのだ。

朱子学者たちが考え続けたのは、オーソドキシー(正統性)とレジティマシー(政治権力の正統性)の基準についてだった。それがいつのまにか個人の内面のあり方までも規定する道標となっていったのである。様々な朱子学者が、後の世から見れば跳び石にも見えるような形で、「現人神」への道筋を用意していた。

例えば、明からの亡命者である朱舜水(しゅ・しゅんすい)は楠木正成を再発見する。それまでの楠木正成は軍略の天才ではあっても尊王の士ではなかった。楠木正成を「尊王」の文脈から発見したのが中国人だったとは意外である。水戸光圀は朱舜水に心酔して、その思想は水戸の「大日本史」の編纂に影響を与えた。

山鹿素行(やまが・そこう)は『中朝事実』で「日本こそが真の中国である」と主張した。素行は、現在の中国は堕落しており、中国文明が途切れることなく息づいているのは日本の方だと誇大妄想的に考えた。いわば彼は「愛国者」で、日本の現実の体制を絶対視し賛美したのである。当然、こうした態度は幕府から歓迎された。そこに変革のイデオロギーは一切なかった。

そもそも朱子学には、変革よりも、現実の体制を承認する思想の方が濃厚だった。朱子学を生んだ朱熹は、中国文明(南宋)が外夷(元)に朝貢せねばならないという屈辱的な時代に生まれた。そこで朱熹は、実際の支配関係・権威よりも、理念上の正統のみによって現実を再構築するという性格の思想を発達させた。その思想は、幕府にとっては己の正統性を擁護する御用学問たりえたが、幕府は朱子学に基づく統治を行うことはせず(!)、その体制の原理を「個人倫理」として再編集し、個人の規範に組み込んでいくことが誘導された。

それを体現したのが山崎闇斎である。山崎闇斎は「内外一致」(自らの内なる義がそのまま外の秩序となる)といった朱子学的態度を徹底的に一貫させ、弟子たちを恐怖せしめるほどの厳しさで接した。その学問は「崎門学」と呼ばれ、彼は朱子学をいわば「朱子教」にまで進めたといえる。闇斎は晩年に神道に奔り「垂加神道」を創始するが、それ以前にも「崎門教教祖」と呼んでおかしくない存在だった。

一方、闇斎の弟子の佐藤直方(なおかた)は、闇斎とは違った徹底の仕方をした。直方は正統派の朱子学を純粋に推し進めた。それは醒めた合理主義であり、日本特殊論を越えた普遍主義であった。彼は学問には峻厳であったが、闇斎のような「師弟の礼」は言わず、自分自身が生涯学び続け、天とか神を形而上の存在と見なして相手にしなかった(そのために闇斎から破門された)。佐藤直方こそは、朱子学を貫き通すことによって近代合理主義に辿り着いた日本朱子学の到達点であった。しかしながら直方は後の世にはほとんど影響を与えなかった。

後世に甚大な影響を与えたのは、同じく闇斎の弟子の浅見絅斎(けいさい)である。絅斎の『靖献遺言(せいけんいげん)』は維新の志士たちのバイブルとなり、倒幕の原動力のひとつともなった。その内容は中国における政治的な「殉教者列伝」ともいうべきもので、政治権力の正統性に拘り抜いて死んだ8人が取り上げられる。

その8人とは、屈原、諸葛孔明、陶淵明、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺である。このうち屈原から文天祥までは、それまでの(そして現在の)日本でも受け入れやすい人物であるが、『靖献遺言』が独特だったのは、謝枋得、劉因、方孝孺というちょっと無名の人物を最大に称揚したことだ。本書でもこの部分は大変熱のこもった議論が展開されており、また他の本にはあまり出てこないところであるから以下やや詳しくメモする。

では彼らはどういった人物か。

方孝孺(ほう・こうじゅ)は明の永楽帝の正統性をあくまで認めなかった人物。彼は永楽帝から詔勅を書くよう丁重にお願いされたが、永楽帝を王権の簒奪者と見て絶対にそれに従わなかった。怒った永楽帝は彼を捉え、また親類全ての財産を没収する。それでも方孝孺は言うことを聞かない。そこで宗族は847人も坐死し、さらには母族妻族にまで戮せられ、また多くが流刑にされた。方孝孺は磔にされ、口の両側を耳までえぐられ7日間苦しんで死んだ。

こうした例は日本の歴史には見出しがたい。確かに永楽帝は強引に帝位を奪った面はあるが、それが方孝孺に何の関係があるというのか。詔勅の起草を拒もうとも、永楽帝はビクともしない。彼は、永楽帝の正統性を絶対に認めなかったために、無辜の一族もろとも無惨に殺された。その行動には前向きな結果をもたらす意義は全くないどころか、普通に考えれば破滅的に愚かな行為である。いわば彼は、帝位の正統性=「義」を守るという「個人倫理」に殉教し、しかも一族を巻き添えにしたとしか言えない。

だが絅斎は、この政治的殉教を賛美した。絅斎にとっては政治は統治の技術ではなく宗教だった。とはいえ、その殉教の対象は「神」ではない。「しかし絅斎のように考えていけば、そこにはどうしても、「政治的神」が必要になってくる(p.169)」。それは、『靖献遺言』の中では「天」とだけ表現されているが、それがやがてこの書をバイブルとした人々の中で天→(政治的人格神)→天皇と変換されていくのである。

また、『靖献遺言』全体の約半分も費やしているのが謝枋得(しゃ・ほうとく)編である。謝枋得は、宋の文武の官で、自らの正義を貫く硬骨漢であった。彼は元との戦いに敗れ、敗軍の将となる。しかし、彼は戦死も自殺もせず、家族をも棄てて敵前逃亡した。それはひとえに、彼の年老いた母を養うため(つまり「孝」のため)であった。

元の世になって優秀な宋の遺臣の推挙が行われ、彼はその第一位に選ばれるが、枋得はそれを固辞する。枋得にとって元はあくまでも王位を簒奪した夷狄であり、それに仕えることなど問題外だった。彼の使えた宋はもはや滅んでいるのにもかかわらず。そして彼は5日間食を断って自害する。宋の一小官吏に過ぎなかった彼は、ほとんど意地を張っているだけの独り相撲によってあっけない生涯を終えたのである。

枋得にとって重要だったのは、世俗の栄達ではなかったのももちろん、宋の繁栄ですらなかった。君である宋王朝が滅びようが、そんなことは彼には関係なかった。彼にとっては「孝」や「忠」、「義」といった個人倫理を貫き通すことが唯一の価値だった。「「君」の方がどうであろうと、「臣」である彼の方は、それと無関係に「義」に生きていたのである(p.182)」。

この態度を推し進めると、いくら君主の方がダメであっても、臣下たる個人は「義」によって自ら律し、組織論とは無関係に(=謝枋得は王朝が滅亡しても臣として振る舞っている!)、個人倫理として組織の歯車になるという行動原理が導かれる。まさにこれこそ、朱子学が江戸幕府の体制擁護の官学となりえた理由でもあった。江戸幕府の内実がどうであれ、あくまでも幕府に忠義を尽くさねばならないと演繹されるからである。

しかし浅見絅斎は、朱子学的な形式論を推し進めた結果、江戸幕府の正統性は、天子(天皇)から権力を付託されていることにしかないと考えた。とすれば、本当の「君」である天皇にのみ従い、「組織論とは無関係に」考えるなら、「簒臣」である幕府から政権を奪還することこそが「忠」であるということになる。これが、御用学問の朱子学が、皮肉にも倒幕の理論となっていった理由である。

そして「組織論とは無関係に、個人倫理として組織の歯車になる」という原理は、倒幕だけでなく、太平洋戦争の際の「無制限に自らを君主(天皇)と一体化する」態度に繋がっていく。また、二・二六事件を起こした青年将校たちも、あくまで天皇に忠であると本人たちは考えていた。組織論からいえば天皇に権限を与えられていた上官を斬殺しながら、それが「君側の姦」を除く忠義だと思っていた。

それは過去の話ではなく、この原理は今でも日本人の心に深く刻まれている。「まるで自身が為政者であるかのような体制擁護」「一労務者であるにもかかわらず、あたかも経営者のような視点で仕事を考えること」「無制限に会社に自己犠牲することが立派であると見なす考え」といった現代日本のいびつな常識は、まさに『靖献遺言』が打ち立てた道標の先にあったものなのである。少なくとも中世までの日本には、支配体制を絶対化してそれに信仰にも似た献身を献げるのが是であるという、「忠義」が異様に肥大化した思想はない。

そして絅斎が創出した新たな「個人倫理」は、それが「国民倫理」であることをも求めるものであった。

このように『靖献遺言』が残した遺産は極めて大きく、他国を夷狄と見なし日本を世界の盟主と見なす空想的概念(「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」)、外交的妥協を悪と見なす態度(平和を主張するものは非国民、「一億玉砕」)、首脳部の責任を追及せず失敗を国民の自発的行動の結果だと見なす曖昧な責任論(「一億総懺悔」)といったものは、『靖献遺言』にその淵源があるのである。

ただし、絅斎の思想が倒幕の原理となっていくためには、過去の日本の「歴史の過ち」(正統の錯誤)を指摘する作業が必要であった。江戸幕府が「歴史の過ちの結果生じた政府」であることを示すことで、朱子学は変革のイデオロギーとなりえたのである。そういう作業をしたのが、皮肉な上にも皮肉なことに、幕府の藩屏であるはずの水戸藩の『大日本史』編纂であった。

『大日本史』の名編集長であったのが安積澹泊(あさか・たんぱく)、著者兼編集者が栗山潜鋒(くりやま・せんぽう)、三宅観瀾(みやけ・かんらん)である。その基本方針は二転三転したが、それは中国の歴史には登場しない「天皇」の正統性を、中国の歴史論理で示そうとしたからだといえる。それに、彼らは浅見絅斎のように論理を徹底させることをしなかった。

朱舜水の直弟子であった安積澹泊は『大日本史』の論賛で天皇の政治責任を問うたが、同時に忠義の士も称揚した。彼は相対主義者であって、表向きには天皇を絶対だとしながらも、ある意味では日本的な曖昧さで「あちらも立ててこちらも立てる」式の歴史を述べた。これは、彼が水戸の彰考館の史館総裁であったという地位も影響していたのだろう。

一方、その部下の栗山潜鋒(闇斎の孫弟子にあたる)は一館員であったためより自由に論じることができた。彼の『保建大記』では、天皇家から武家への政権の移行は、天皇家の「失徳」によると論じた。彼は、鎌倉幕府の樹立の原因は後白河帝が君主としての規範を失って政治を混乱させたためにあると考えた。そして遠慮なくそれに批判を加えて衝撃を与えた。

その議論は、『孟子』のいう天命論を背景にしていた。天命を失った君は放伐されるのが当然だ(湯武放伐論)というのである。では天皇の正統性は何に由来するか。細かい議論は省略するが、彼は神器の保持を正統性の象徴と見なした。『孟子』の考え方からは失徳の君は追放されてしかるべきだが、政権を武家に委譲したとはいえ天皇家は依然として存続している。それを正当化するには儒教式論理では不可能で、そこには中国には存在しない「神器」を登場させるしかなかったのである。ただし彼は神器は政権の絶対保証ではなく、「徳」の方が絶対でそれに引きつられるのが神器だと考えていた。

浅見絅斎の弟子、三宅観瀾は、絅斎の弟子でありながら闇斎・絅斎の用意した徹底性の路線を継承しなかった人で、水戸の招聘に応じたことで絅斎から破門された。絅斎は天子のみを絶対化して、幕府に仕えることを潔しとしなかったのである。彼は闇斎・絅斎とは全く異なり、いわば現代人と同じような常識的な感覚を持ち、わずか36歳で世を去った親友の栗山潜鋒のような鋭さもなかった。いわば彼は「神懸かり」化しない最後の人の一人だった。

観瀾は『中興鑑言』で、後醍醐天皇に仮借なく筆誅を加えた。彼にとっては南朝は滅亡した王朝であり、南朝の後醍醐天皇をいくら批判しても現在の天皇家(北朝由来)に失礼なわけがないのである。そして彼の結論は「神器のある所が正統とは必ずしもいえないが、正統な者は必ず神器を持つ」と要約できる。そして何を持って正統とするかを、彼は君主の「義」に置いた。彼のいう「義」とは、個人倫理・政治倫理・統治能力のことである。観瀾の議論はまことに現代的であって、要するに優れた政治を行うことが統治の正統性の根拠であり、失政の君は退陣してしかるべきだというのである。

このように、栗山潜鋒と三宅観瀾は、朱子学を土台として天皇批判を行い、天皇の正統性を相対化する試みを行ったが、不思議なことにその議論はやがて「神器」の保持自体に焦点が移っていき南朝正統論が生まれることになる(!)。また「天皇の失徳によって政権が武家に移ったのだから、天皇の徳が回復したら政権は自動的に天皇の元に戻る」という大政奉還の思想が形作られる契機ともなったのである。

本書の中心的な議論はここまでで、この後に赤穂浪士をどう考えるかという応用問題が付録的に述べられる。佐藤直方は赤穂浪士を理路整然と徹底的に否定した(このために直方は人気がなくなり影響力を失った面がある。しかし現代の法理から見るとその理屈は最も正鵠を射ている)。一方、林羅山は浅野内匠頭を処罰した幕府の一員であるにも関わらず、処罰を不服として報復した赤穂浪士を称揚した。そして浅見絅斎は『四十六士論』において、組織論を無視して主君への忠義という個人倫理のみによって行動する人間が出てくることを暗に期待してすらいる。

世論は、法理よりも人情を重要なものと見なして、幕府もそれを歓迎してそのように誘導した。そして絅斎はその風潮を逆用し、人情を「義」に変換して「義」のために幕府も法も無視することを煽動していた。表向きには「殉忠」を叫びながら、「殉忠」によって体制を瓦解させる思想が胚胎しはじめていた。

まさに、絅斎が『靖献遺言』を刊行した元禄元年(1688)に明治維新への第一歩は始まったのである。

本書は、朱子学者の著作からの引用(漢文の書き下し文)が多く、しばしば数ページが引用の連続となる。一方で解説は少なく、やや読解力を要する。また率直に言って端正な論考とは言い難く、著者自身が書きながら考えているような節が見受けられる。いわば本書は「研究ノート」であって、広く一般向けに朱子学の解説を行ったものではなく、著者自身が自分の頭の整理のために書いたものだ(本書の「あとがき」にそのような記述がある)。

また、冷戦下の刊行当時の社会情勢に引きつけて解説するような部分が散見され、当時はこれでわかりやすかったと思うが、今では却ってピンと来ないものになっている箇所もある。

私自身、本書の読解にはちょっと苦労し、1日3ページずつ読むような読書によってなんとか咀嚼できた。このように本書は取っつきやすいものとはお世辞にも言えないが、近代日本の思想上に特異な地位を占める朱子学——とりわけ浅見絅斎の思想——を丁寧に繙いた本は貴重であり、江戸時代後期からの思想史においてスッポリと抜け落ちていたピースが埋まるような気がした。

現代日本まで生きる「朱子教」の呪縛を解きほぐした力作。 


【関連書籍の読書メモ】
『日本政治思想史[十七〜十九世紀]』渡辺 浩 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_11.html(その1)
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2017/05/blog-post_14.html(その2)
江戸時代から明治維新に至るまでの、日本の政治思想の変遷を辿る本。朱子学が体制擁護の官学として出発しながら、それが尊王論を生みだし倒幕の理論となっていく全体的な見通しは本書の記述が優れている。

 

2021年2月24日水曜日

『管子』西田 太一郎 訳(『世界古典文学全集 19 諸子百家』所収)

管仲に仮託された政治・経済政策の思想。

管子(管仲)は、中国の春秋時代、斉の桓公を補佐して国を富ませた名宰相であった。それに続く戦国時代、斉では学者を優遇して、大夫(家老)の待遇を与えて専ら学問に専念させたが、それに応じて天下の俊英が斉に集ってきた。こうして斉には「稷下の学士」という学問集団が成立する。

そして彼らの著作が、古代の管子に仮託して編纂されたのが『管子』である。なので、『管子』といっても管子が書いたわけではなく、管子を名義上の編纂者にした論文集であるといえる(なお本書は抄訳)。

その内容は、少なくとも数人の手によるもので、しかも時代的にも長くかかって編纂されたものであるだけに、雑多であり首尾一貫しているわけではない。しかし基本的な方向性として言えるのは、「現実的な人間理解」である。

『管子』は儒教道徳を肯定する。しかし、君主の徳が人民を感化する、といった空想的なことは言わないし、君主は徳を備えているべきだとしながらも、それはあくまで統治上の必要性によって説明される。

まさに『管子』を特徴付けるのは「倉廩(そうりん)実(み)つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」(倉庫が満ちてから礼節を知るようになり、衣食に事欠かなくなって栄誉と恥辱の違いを知るようになる)という言葉が象徴する現実主義である。

人々が君主を慕うのは、君主に徳があるからではなく、君主が善政を敷いて国が富み栄え、自らの生活が豊かになるからだ、というのが『管子』の人間理解である。そのため、諸子百家の中では特異なことに『管子』では経済政策が多く述べられる。例えば、特産物(塩や黄金)の専売制、物価の安定政策(騰貴した時に政府が買い上げて安く払い下げる)、流通を盛んにする方法といったものである。

そして、人々が国家のいうことを聞くのは、君主の徳によるのではなく、信賞必罰によるのだと『管子』は見る。良いことをした人間には褒美を与え、悪いことをした人間には厳罰を加える。しかも、それを君主の気まぐれで行うのではなく、全てを法令に基づいて公平に行うことが重要である。そうすることで、人々は定められた法令を遵守して、国家の秩序が守られるのである。

さらには、君主すらも法令には従う必要がある。というよりも、緻密に組み立てられた法令の体系さえあれば、君主の行うべきことはほとんど何もなくなる。よって『管子』の思想は、法家的な法令万能主義を基盤として、ついには道家的な無為自然に近づいていく。法令さえ備えれば、全ては滞りなく流れていき、君主は何もせずに天下が泰平となるのである。

このように、国を富み栄えさせるための経済政策、人々を教導し社会を運営するための法令、それを実行するための信賞必罰が『管子』の基本路線である。「無為自然」はともかくとしても、その人間理解に基づいた政策の提案は非常に現代的である。少なくともその問題意識と立論の仕方は現代でも十分に通用するであろう。

ところが『管子』には盲点ともいうべき空白がある。それは、『管子』は「法令」を重視しているのに、それがどうあるべきか一切述べていないことである。例えば、ソクラテスは「悪法もまた法なり」と言ったが、『管子』においては悪法がありうることが全く想定されていない。しかし現実の世界では、政策立案者の思惑と、法律がもたらした結果が齟齬していることはよくあることだ(古代においても)。しかし『管子』では、法令さえ厳重であれば社会は公正に運営されるだろうとウブに考えている節があり、法令そのものの良し悪しをどう判断するか全く思索されていない。

もっと言えば、法令はいかにして定めるべきか、どうやって布告すべきか、といった法令を定めるプロセスについても一切の検討はない。『管子』の著者たちはどうやれば「公正な法」が立案できると考えていたのだろうか。こうした点において『管子』はやや空想的な雰囲気があり、その現実的な人間理解とは裏腹に、法については非現実的なほど安易に考えていたようだ。

しかしながら、他の諸子百家の著作が強烈なバイタリティーと個性に彩られた(当時としては)過激な思想を表現しているのとは違い、論文集であるためもあって内容は穏当であり、その思想を全面的に承認しなくても、部分的に政策に生かしていけるという柔軟性を『管子』は持っている。古来、経済思想の基本として重んじられたのも当然であろう。

現実主義的な人間理解に基づく古典的政治経済学。

 

2021年2月23日火曜日

『古代の琉球弧と東アジア』山里 純一 著

7世紀から13世紀までの南西諸島について交易を中心に述べる。

「琉球弧」とは南西諸島を表す用語で、歴史的なまとまりでいうと、「大隅諸島」(種・屋久、トカラ列島など)、「沖縄諸島」(奄美・沖縄)、「八重山諸島」(石垣島、宮古島など)の3つの地域に分けて考えることができる。本書は、このうち「大隅諸島」「沖縄諸島」を中心に、史料および考古資料によって交易を中心とした国際関係を概括するものである(「八重山諸島」は、対象外ではないが歴史的に台湾・東南アジアとの共通性が大きいため記述の比重は小さい)。

琉球弧における文字史料は、1650年に琉球国の正史として編纂された『中山世鑑』以前には全く存在しない。よって自然と日本と中国の史料に頼る必要があり、特に本書では中国側の史料がたくさん参照されている。

とはいえ、琉球弧に関する情報は史料中にほんの少し登場するだけであり、まとまった史料が存在しないのが現状である。古代の琉球弧がどんなであったかはそうした限られた情報を元にして推測するしかない。それはすなわち確定的なことが言えないということを意味し、研究の進展に従って琉球弧像はかなり変わってきた。本書は、このように移り変わってきた近年の研究結果を広く参照して、現在の通説をまとめたものである。

7世紀の琉球弧では、南西諸島の各島が散発的に日本の歴史に登場する。ヤク(屋久島というよりは南西諸島の総称)、多禰(タネ)、トカラ(今のトカラ列島ではなく、タイのドヴァーラヴァティーを表すのが通説)、流求(琉球と読めるが、その範囲にはいろんな議論がある)などの人々と、日本の人々は散発的に交流があった。時々漂着したり、偶発的な交易が行われていたのがこの時代である。

8〜9世紀になると、日本は律令国家として南島(琉球弧の島々をこう呼んだ)を組織的に取り込もうとした。日本は自らを中華に擬し、北狄南蛮の従属を必要としたのである。そのため律令国家は南島に「覓国使(くにまぎのつかい、べっこくし)」を使わして朝貢を促した。それに応じて南島の人々は産物を持って来朝し、まとめて授位され、また返礼品を受け取った。ただし、この活動は南島人にとっては朝貢という意図はなく、交易として捉えられていたのではないかと著者はいう。

また覓国使が派遣された背景として、遣唐使の航路を確保する意図があったのではないかと著者は推測する。遣唐使は最初、北路と呼ばれる朝鮮半島経由の航路がとられていたが、新羅との関係が悪くなると、朝鮮半島を経由しないで直接中国に行くことが好ましくなった。このために南島を南下してから中国南部に向かうルート(南島路)を開いたのである。事実、南島の諸島には「南島牌」という標柱のようなものが設置された。これは遣唐使船が漂着したときに今自分がどの島にいるのか分かるようにするものだった。

ただし、南島は必ずしも日本に従属していくことはなかった。南島としては、わざわざ遠くまできて朝貢して実のない授位などされても無意味だったし、交易にはあまり利益がなく、律令国家に従属する価値はなかった。

一方で、日本の側としては、南島からの産物は非常に価値が高かった。例えば、赤木(高級木材)、檳榔(ビロウ)、ヤコウガイ(螺鈿の材料)といったものである。こうしたものは貴族にとって喉から手が出るような貴重品だったので、南島との交易は需要が大きかった。ところが南島の人々にとっては、日本からは武器などの他はあまり価値のある品を手に入れることができなかったようだ。

このあたりがすごく不思議なところで、南島は比較的遅れた社会だったにもかかわらず、日本からの品々を有り難がった形跡がない。本当に南島は遅れた社会だったのだろうか、ということから考えさせられる。

それに関して、本書ではさらに不思議なことが述べられる。それは、琉球弧では「開元通宝」がたくさん出土するということである。これは言うまでもなく中国の貨幣(銅貨)であるが、琉球弧で「開元通宝」が流通した形跡はない。とすると、これは威信財として使われたもので、もしかしたら本土からの交易者がその代金の支払い(の代わり)に宝石のような扱いで置いていったのかもしれない。一方、日本の銭貨が持ち込まれた形跡はないのがさらに不思議なことである。なぜ「開元通宝」が持ち込まれたのか通説はないのが現状だ。

10〜11世紀前半の琉球弧の様相は、それまでとは異なってくる。それを象徴するのが997年、奄美島の者が九州諸国に乱入し、諸国の人を300人も拉致した事件。その先年にも大隅国の人400にを拉致する事件が起きている。この頃、本土と琉球弧の間には交易のトラブルが起こり、こうした敵対的な関係となったのではないかという。

一方、沖縄諸島の喜界島には、大宰府の何らかの出先機関が置かれた形跡がある。おそらくその跡である喜界島城久(ぐすく)遺跡からは、多様なものが大量に出土した。城久遺跡から出土したのは、中国の青磁や白磁、高麗青磁、滑石製石鍋、本土産土器(須恵器・土師器)、徳之島のカムィヤキ(硬質の焼き物)など。9世紀から15世紀の長きにわたってその性格を変えながらも城久遺跡は存続したと見られる。しかし11世紀前半頃には大宰府の統制はきかなくなり、喜界島は独立していったようだ。

11世紀後半から12世紀には、琉球弧がひとつの文化圏として成立する。青磁や白磁、カムィヤキががこの時代の琉球弧全体から出土することによって裏付けられる。それはおそらくは城久遺跡の経営者たちによって諸島に運ばれたもので、12世紀に需要のピークを迎えるヤコウガイを手に入れるために使われたものと考えられる。中国では宋、朝鮮では高麗の時代であり、宋・高麗・日本を結んだスケールの大きな交易が行われていた。なお硫黄島から産する硫黄は日宋貿易の主要な輸出品であった。

13世紀の琉球弧については、琉球国の成立前の再編期として位置づけられる模様である。13世紀の史料・考古資料はあまり豊かでないのか、本書では14世紀以降の情報を元にして推測する形で描かれている。これまでの史料に見える「南蛮人」「キカイガシマ(大隅・奄美諸島の総称)」は、沖縄については含まれていないと見られ、リュウキュウは食人の習慣がある怖ろしい土地と考えられていた。それが14世紀には、琉球国が成立し、中国に明王朝が成立すると進貢貿易が行われるようになる。そして交易の中心が琉球国に移っていくのである。

14世紀までは沖永良部島までの範囲は千竈氏の私領として相続されていたが、徐々に琉球国が侵攻し、1466年に最後の砦であった喜界島が征服され、ここに奄美諸島全域が琉球国の版図となった。

本書は先行研究をテンポよく紹介する形で書かれており、とても読みやすく教科書的な本である。ただし、必ずしも通史的には描かれないので、前後関係は若干わかりにくい。最後に年表があればよかったと思う。それから木下尚子の「貝の道」(南西諸島と本土で古代以前から行われた貝の交易の経路)の諸研究が随所で参照されているが、まとまっては記述されない。これについては一節設けてもらった方がわかりやすかったと思う。

古代の南島交易を概括する教科書的な本。

 

【関連書籍の読書メモ】
『国際交易の古代列島』田中 史生 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post.html
古代日本の対外関係を交易を中心として述べる本。古代日本の交易関係がわかりやすく整理された良書。

『日宋貿易と「硫黄の道」』山内 晋次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2013/03/blog-post_2.html
日宋貿易において日本からの重要な輸出品だった(と思われる)硫黄について、その貿易の実態を探る本。


2021年2月20日土曜日

『農村の生活—農地改革前後—』河合 悦三 著

農地改革によって農村がどのように変わったかを述べる。

戦後、GHQの指示によって日本は農地改革を行い、小作農に土地を分け与え、自作農化した。ではこの改革によってどのように農村の様相は変化したのか、それを述べるのが本書の目的である。

近代の日本では、小作料が非常に高く設定されていた。地域によってかなり異なるが、平均すれば収穫物の5割もの小作料が設定されていたのである。こうなると、豊かになった農民は自らの経営を広げていくよりも、土地を買って小作人に貸し出す方が得だ。だから近代の日本では企業的大経営の農業が発達せず、地主制が発達した。

また、本書には記載がないが、明治政府が地主を優遇する政策を行ったことで急速に地主制が広まったのである。ただし、著者が強調するのは、全体の傾向としてはそうでも、地方毎にその様相はかなり多様だったということだ。経営規模の大小、利益の大小、作柄の違い、そういう農村の多様性を認識することが重要だという。そのため本書では各種の統計によって農村の多様性を示している。

しかるにそれが農地改革によってどのように変わったか。また農地改革はどのように進行したか。

まず、農地改革以前(戦前)から、小作料の減額を求める戦い(=小作争議)は各地で広がっていた。この戦いははかばかしい成果を生まなかったが、戦争を遂行する必要から政府は地主の権利に制限を加えるようになる。また食料統制(配給制)によって政府は農産物の買い上げを行い、その価格を政府が自由に設定できるようになったこと、またインフレの進行などから、実は終戦前、既に金納小作料は1割程度に低下していたのである。

だがそれは意図的な政策ではなかった。戦後、GHQによって農地制度改革が指示されて、政府は地主制を解体しなくてはならなかったが、政府は出来る限り地主に有利な形に改革の内容を修正し、しかも法規的には農地の大規模所有(5町歩以上)は制限されたものの、実際には強制譲渡は行われず、改革は骨抜きにされてしまった(昭和20年、第一次農地改革)。

そこでGHQは「農民解放令」を出してさらなる制度改正を指示し、また英国とソ連は具体的な改革案を提出した。そこで政府は、英国案を参考として第二次農地改革を行った(昭和21年)。その内容は、要するに「国が地主から土地を強制買収し、これを小作農に売り渡す」というものだ。またこれを実行に移すため、市町村の農地委員会の構成が農民中心に見直された。

ところが、政府はこの改革をも骨抜きにしようとし、吉田茂首相は農地改革の打ち切りを声明した。それどころか、政府は小作料の値上げ、農地価格引き上げなど農地改革に逆行する政策を実行した。昭和25年の「ポツダム政令」では、固定資産税を増額するために小作料の最高額が従来の7倍にも引き上げられたのである。

この背景には地主たちの農地改革反対の運動もあった。政府自身がGHQに言われてイヤイヤながら農地改革をやっていたので、こうした地主の運動に呼応したのも当然である。そして地主たちは、小作人を作男としたり、小作料をヤミでとったり、小作人から土地を取り上げて自作地だと言い張ることで買収を逃れようとした。特に土地取り上げは深刻で、不法に取り上げられた土地は全国で100万件以上あるとみられる。

小作農たちはこれにどう対処したか。実は、既得権益を守ろうとする地主たちの運動に比べれば、小作農の動きは消極的であった。全体的には小作料が低減していたことなどから、彼らは従来の関係を荒立てることを好まず、積極的に自作農に転換しようとせずに、むしろ小作農でありつづけようとしたものも多い。ただし土地取り上げについては、死活問題であるだけに命がけで戦った。

また、農地改革には山林の解放は含まれていなかった。今でこそ山林は林業の場であるが、当時の山林は農業と密接な関係を持っていた。山林から肥料(刈草)や燃料を得ていたからだ。しかも山林は、少数の大山主(もちろん地主でもある)に寡占されていた。よって、山林を通じて地主は農民を支配することができたのである。これは、ただでさえ不十分だった農地改革において特に禍根を残した。 

このように、農地改革は農民的な動きを基盤とせず、GHQの指示で消極的に実施されたものではあったが、その結果としては、小作農の割合が44%から13%に減少し(昭和19年→25年)、自らは全く耕作しない「寄生地主」がほとんどいなくなるなど、一定の成果を収めたのである。

では肝心の農民の生活はよくなったか。そこが問題で、農地改革を経ても農民の生活はあまり楽にならなかったのである。

その理由は、第1にインフレが進行したことだ。農地改革が進行した2年間に、米の価格は3倍以上になった。これは、米を売る農民には一見有利な変化だったが、そうではなかった。なぜなら政府は、独占資本家が儲かるように鉄や石炭の価格を決め、それにつりあうように労働者の賃金を決め、その賃金で生活できるように農産物の価格を決めていた。だから、結局は相対的に安い価格で農産物は買い上げられていた。

第2に、税金がかなり上げられた。小作料が低減するのを埋め合わせるように、税金の方が上げられたのである。また自作農にはあまり税金がかかっていなかったのに、自作農にも重い税金が課されるようになった。しかも課税の仕方はデタラメで、貧農ほど重い負担が課されていたのである。

第3に、「供出」が負担となった。供出というのは、農民に生産量を予め割り当て、その割り当てを供出させる(政府が安い価格で買い上げる)ものである。この頃は食料統制を行っているので、自由販売は供出後に残ったものに限られる。ところが、その割り当ては過重なもので、しかも割り当て分を供出できなければ刑務所にぶち込まれるという、税金よりも酷いものだった。だから農民は割り当てが達成できない場合、ヤミで買ってそれを収めるということすらしなくてはならなかった。

第4に、農業恐慌が訪れた。日本はアメリカからたくさんの食料を輸入するようになり、農産物価格は(インフレの中でも)相対的に下がったのである。

このような理由から、農地改革後もむしろ農民の生活は悪化し、農業を続けられなくなるものが続出して耕作放棄地が激増した。 同じ時期、大会社が資本金の数倍以上の利益を上げ、5割もの配当をしているのに、農村は疲弊していった。

本書の中心となる農地改革前後の動きは以上の通りであるが、分量的にはこれで約半分。もう半分は、農地改革以外の点について農村の変化を記述している。

例えば、台所改善、娯楽、冠婚葬祭、部落(集落)の生活、などといったものだ。そこで面白かった指摘が、農村の人間は「容易に新しいものをうけいれようとしないがしかも簡単に新しいものにだまされ(p.152)」るというもの。厳しいながらも的を射た指摘である。また農地改革によって寄生地主はほとんどいなくなったが、依然として「ボス」が村を支配していて、ボスに連なる人々の不正が後を絶たないという。それは、ボスの不正を告発すれば村八分にあって村で暮らせなくなるからで、ボス連中は村の権力を掌握することによって旨い汁を吸い、それによって富を築いて大ボスに成長していくのだという。今にも通じるような話である。

さらに、著者は日農(日本農民組合全国連合会)中央常任委員の立場があるため、昭和20年から26年までの(つまり農地改革進行中の)全国の農民闘争、農民による政治運動などを列挙風にまとめている。この節はかなり政治色(政党色)が強く、学術的な性格が強い他の部分に比べると異色である。ここは読み物としても面白いものではないが、資料的な価値は高い。

本書は、昭和27年、農地改革後すぐに出版されたものであり、農地改革を時事問題として記録したものである。そのため、現代の読者には説明不足な点も多い。例えばいろんな部分で「読者もよく分かっていると思うので詳述しない」といった記述があるが、今となっては説明して欲しい事項ばかりだ。また、各所に統計データが出てくるが、その表が全て縦書きで漢数字なので非常に読みにくかった。

しかし同時代資料であるだけに、当時の人が何を問題だと思い、何に憤っていたのかをヴィヴィッドに知ることができる。著者によれば、農地改革は一定の成果があったけれども、それは小作地の所有権を小作人に買わせる「インチキ」だったという(p.229)。本書の結論を一言で言えばそれである。

同時代の目で見た農地改革の記録の書。


【関連書籍の読書メモ】
『明治のむら』大島 美津子 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post_14.html
明治時代の農村政策を描く。明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。特に地主制が成立する過程は本書を参照。

 

2021年2月14日日曜日

『明治のむら』大島 美津子 著

明治時代の農村政策を描く。

農民たちは「御一新」に期待した。藩政時代の苛斂誅求が終わり、豊かな暮らしが送れるようになると。実際、戊辰戦争の頃には、人心を掴みたかった新政府は農民に”年貢半減”を約束した。 

ところがこの期待は裏切られる。新政府が樹立されると、政府の改革的気運は消え失せ、財源の確保のため”年貢半減”の約束はすぐに撤回された。それどころか、明治政府は江戸時代以上の負担を強いるようになるのである。

「薩長は徳川に劣る」と民衆が考えたのも無理はない。こうして新政府反対の「世直し一揆」が頻発したが、政府は徹底的にこれを武力で弾圧した。

政府は農村を統制することの必要性を感じた。明治4年に戸籍法を定め、戸籍上の地域の区分け「大区」を設定すると、「大区」が行政区として実体を持つようになり、旧村役人を廃して「大区」に区長を、「小区」に副区長を置いた。これが「大区小区制」であり、明治政府による最も初期の農村の統制形態である。「小区」は数村に渡る範囲で、「大区」はそれをいくつか組み合わせた範囲であった。

また、これに伴って村方三役などの旧来の村の自治組織は否定された。それまでの村は、寄合による合議と全員一致を建前とする自治の仕組みがあったが、寄合(話し合い)自体が新政府によって否定され、区長は政府の役人として上意下達的な機能しか持たなかった。

旧村時代の総代は、支配者というよりは自身が農民であり、農民の利害を代弁していたのに、新たな区長は生活実態から乖離した広い範囲を収める国家の役人だった。それなのに、区長の給与は地元に負担させたところが「その後の日本の地方制度のあり方を象徴的に暗示している(p.41)」。

「大区小区制」の下で行われたのは、布達の徹底、戸籍整備、租税の徴収、小学校設置、徴兵調査など国家行政業務であったが、それらの費用も地元の町村民の負担であった。さらに、地方長官らは、各地方に根付いていた文化や風習を遅れたもの、古いものとして否定し軽蔑した。路傍の地蔵や石仏は移転され、村芝居や盆踊りが禁止された。新政府は民衆たちを愚民とみなし文明開化の名の下に抑圧した。

こうした、廃藩置県後の数年間の民意を無視した諸政策は反発を招き、士族反乱・農民騒擾がたびたび起こった。そんな中行われた地租改正は「農民が維新に期待した貢租軽減の願いを完全に打ちくだいた(p.60)」。地域の実情を無視して租税の負担が上から押し付けられ、また山村では、これまで共有林として管理されていた林野のほとんどが官有林とされた。これに反発し各地で地租改正一揆が起こり、特に三重・岐阜・愛知・堺に波及した「伊勢暴動」は政府に衝撃を与えた。また自由民権運動が発生し、農民たちの不満が組織的な戦いとなっていく機運が生まれた。これに危機感を抱いた政府は、これまでの強権的な農村支配を改めて、より巧妙な統治へ移行させていく。

それが明治11年の「新三法」の制定である。「新三法」とは、郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の三法律で、明治政府による最初の統一的地方制度であった。これは、官僚的な大区小区制が反発を招いた反省に基づき、伝統的町村を認めてそれを国家体制に組み込むものである。

具体的には、大区小区を廃して町村を行政単位とし、その長に民選の戸長を置いた。戸長は一般的に薄給で、地主など資産家でないとなれない仕組みとなっていた。政府は共同体の解体が不可能であることを知って、戸長に選出される地域の名望家を通じて村を支配することにしたのである。またこの頃、教育費や町村土木費は激増したが、こうした負担も町村費に押しつけられ、逆に国税による補填(補助金)は減少した。

さらに、国家事業の性格が強い経費の賦課徴収を住民の責任に転化するため、国は区町村会の設置を認めた。その選挙権や被選挙権などは地方の自由に任されていたが、一般的に村の有力者層だけが議員になれる仕組みとなっていた。

そして村が国家の思惑を逸脱しないように監督したのが、郡である。郡長は純粋の官吏で強大な権限を持ち、区町村会に対して中止権、議決施行の拒否権も持っていた。国家は、村にある程度の自治を許す代わりに、その上に郡を置いて睨みをきかせたのである。

こうした中、松方デフレ財政による深刻な不況が農村を襲った。松方正義は国家財政を建て直すために、増税と紙幣の整理を行う。今まで国費負担分だった事業を府県・町村に振り分け、さらに新税(例えば「菓子税」まで!)を数々創設した。紙幣整理によるデフレで農産物の価格が下落したため、実質の増税率は50%にも上った。これにより没落する農民が続出。一方で農民が質入れする土地を集める地主も存在し、松方デフレは農村に地主制を拡大する一因ともなった。

農村の不況、農民の困窮によって、世論は反政府的な言論が形作られるようになり、自由民権運動が盛り上がった。体制側に取り込もうとした戸長すらも住民側に立ち、徴兵拒否の教唆をしていた。「福島事件」は、そういう中で起こった国家と村の対立の例である。福島県令に赴任した三島通庸(みちつね)は、強引な手法によって土木工事を進め、また議会の自由党を徹底的に弾圧して反対意見を封殺した。これに対し自由党と結んで蜂起した農民数千名が凶徒として根こそぎ逮捕されたのが「福島事件」である。明治17年頃には東日本の各地に農村蜂起が見られる。「国家権力が高利貸しの後盾にほかならない(p.98)」ことを感じた農民たちは平和的な嘆願が何の意味もないことを知って蜂起したのだ。だがこれらは全て武力で鎮圧された。

こうした情勢を受け、政府は明治17年に諸法律を改正する。その主眼は、行政区としての村をなくし、数か村を合わせた単位に官選の戸長を置いたことである(=村は再び行政区としての地位を失った)。その他、町村税の強制取り立て権の確立など、より強権的に行政が運営できるようにした。

そして政府は、国会開設を前にしてより強固な地方体制をつくるため、明治21年、「市制町村制」を定める。政府はこれに先立つ明治20年、概ね旧来の5、6か町村を合併させる町村大合併を強行していた。このため僅かな間に、町村数は7万435から1万3347へ激減。このような合併を行ったのは、政府が町村に要請する委任事務に耐える財政能力・事務能力のある自治体をつくり出すためだった。

「市制町村制」では、教育、道路整備、衛生など国家から町村に支出を義務づけられた経費は多額にのぼり、町村役場の仕事はほとんどが国からの委任事務であった。にもかかわらず、「町村は基本財産の運用によってその費用をまかなうべし」との考えの下、国は国税を確保する観点から地租とのバッティングをおそれ、驚くべきことに町村に特別な財源を与えなかったのである。

もちろん、そのような運営が可能だったのは全国でもほんの僅かな村だけだったので、実際には家屋割り、戸数割りといった方法によって住民に町村税が賦課された。しかし、1戸あたりで町村税を取れば、どうしても逆進的になる。それでなくても、「市制町村制」では町村議会の選挙権を国税納入の金額を基準とするなど(しかも不在地主にまで選挙権があった!)、あからさまに有力者優先の制度となっていた。国家は地主を優遇して村の有力者をとりこみ、負担は貧農に押しつけたのである。しかも、国税の財源も商工部門への課税や消費税の創設は最小限にとどめられ、反対に農民への重課を意味する地租を中核とした租税体系となっていた。

小作人たちは、土地を持っていなかったから地租を納めていなかったと考える向きもあるがそうではない。本書には詳らかでないが、彼らは地主に高額の(概ね収穫の半分もの)小作料を納めていた。地主はそこから(自分では耕作していないその土地の)地租を払っていたので、結局は地租とは小作人への課税だったのである。しかも町村税の戸数割りなどで、農民には逆進的な負担がのしかかっていた。明治国家の財政を支えたのは、選挙権すら持っていない農民たちだった。

「市制町村制」は、町村役場を自治体とは名ばかりの国家の下請け機関として、しかもその費用は住民に押しつける強権的な体制であったが、そこに一つのほころびがあった。それは、住民が共同体意識を持たない広域の町村を構成した結果、部落(集落)の結びつきが強まり、村が分解する傾向にあったことである。そしてもう一つは、地主優遇の政策によってさらに富が偏在し、地主が不在地主化していったことで、住民と地主・有力者との心理的紐帯が弱まり、農民が階級的に分裂していったことであった。

明治30年代後半になると、日露戦争の遂行などのために税負担が2倍以上に増加する。しかもそれを、地租ではなく、地方税の偏重、すなわち戸数割り町村税の増徴をもって宛てた。「逆進的な戸数割の増徴を通じて、その負担を広く一般住民へ拡散しようとする非常に意図的な政策(p.191)」が行われた。

町村税は増税されたものの、村役場の事務はほとんどが国家の委任事務であり、地域政策のための予算はむしろ減少したため、この時期には町村の財政において「寄附金」の割合が著しく膨張した。今も、道路拡張記念碑や校舎建設記念碑で寄附を感謝するこの時期の石碑を見ることができるが、その背景にはこのような財政事情があったのである。そして町村財政が寄附に頼るようになると、寄附金を出すことができる少数の有力者の力がなおさら強くなっていくことは自然のいきおいであった。

そして、「国家出先機関としての町村役場の行政機能強化が、地方制度上、集大成した形であらわれた(p.200)」のが、明治44年の町村制改正であった。この改正では町村長の権限が強化されるとともに国政事務の遂行が義務づけられ、また町村の基本財産の整備が行われた。その原資とされたのが旧来の部落有林である。国は戦時であることを利用して、部落の財産を強制的に町村に編入させ、部落的セクショナリズムを打破しようとしたのである。またこれと並行して部落氏神の町村合祀政策も進められた。

そして、町村の人心統合のため、「地方改良運動」が強力に推進された。農村の動揺を勤倹や上下一致思想の鼓吹によって切り抜けようとするもので、村が一丸となって労働と貯蓄に邁進することを二宮尊徳の「報徳精神」を援用し思想的に喧伝した。またこの時期には、在郷軍人会、愛国婦人会、納税組合、貯蓄組合、農会といったおびただしい行政補助組織が作られた。さらに婦女会、矯風会、青年会、夜学会、戸主会などの町村内の強化組織の設置も奨励され、こうした中間団体を利用することで個人生活の細かい面まで規制を行うとともに、社会矛盾を長老主義的な温情感で粉飾し、さらには「従順な服従によって日常生活が貫かれる社会(p.207)」を理想としたのである。

本書に描かれる明治政府の農村政策を概観すれば、3つの特徴を挙げることができる。第1には、地主中心の新たな身分秩序を再構成したことである。それまでの農村にも、もちろん豪農と貧農はいた。しかしそれらは農民としてひとまとまりに出来るものであった。ところが明治期には、逆進的な租税体系と、戸長・議員・官吏などに有力者のみが就任できる仕組みにより、地主階級が確立し「寄生地主体制」ができていったのである。

第2に、伝統的な村落自治の仕組みを破壊して、町村役場を国家の出先機関にすぎない上意下達の官僚機関としたことである。農民がこれを不服として武力蜂起しても国はそれを容赦なく弾圧した。江戸時代の農村は、かなりの自治を行い、武士にも言論で対抗できる力を持っている村も少なくなかったが、明治期の町村は完全に国家に従属することとなった。こうして体制に従順な「物言わぬ農民」が出来上がっていった。

第3に、江戸時代以来の村については、行政区画としての地位を剥奪して度重なる合併を行った一方で、部落(集落)については比較的温存させたことである。これは意図せざる政策だったようであるが、結果的には部落における日常的相互強制力、部落間の対抗意識などを利用して徴税を確保したり、地方改良運動における思想教導が婦人会や青年団といった部落組織を通じて行われるなど、部落は政策的に利用された。そして部落が温存されたことは、村議の立候補なども部落推薦候補などで占められるといった風潮となり、次の時代の課題として引き継がれていくのである。

こうした特徴を見れば、現代の農村に残る様々な悪しき特徴が、江戸時代以来のものであるよりは、むしろ明治政府によって人為的に作られたものであることがわかるだろう。本書は「明治のむら」がどうして成立したかを丁寧に解き明かしたものであるが、それは農村政策史であるだけでなく、現在の農村の姿をも照射するものだ。

明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。

【関連書籍の読書メモ】
『百姓たちの幕末維新』渡辺尚志 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
幕末維新期における百姓の実態を探る本。幕末の百姓が武士と対等に「言論」で戦っている様子が分かる。