2021年3月9日火曜日

『家族と女性(シリーズ 中世を考える)』峰岸 純夫 編

中世における家族の様相を女性の在り方を中心として述べる論文集。

日本の中世においては、今ほど女性は従属的な立場に置かれてはいなかった。女性は財産権を持ち、政治においても重要な役割を果たした。慈円が『愚管抄』で「女人入眼(にょにんじゅげん)ノ日本国」としたように、大事なことは女性が決めたのである。しかし同時に、中世期は徐々に家父長制が成立し、女性の立場が弱くなっていった時代であるともいえる。本書は、王権における女性から下人の女性まで、様々な階層の女性を眺めながら、中世期の家族の在り方の変化を述べる8つの論文を収録する。

1 王権の中の女性(野村育世):摂関期は、母系尊属(外戚)が力を持った時代だといえる。院政期になると、父系尊属(上皇(院))が力を持つようになる。摂関期から院政期への移行の画期となったのが陽明門院禎内親王。摂関期まではほとんどの皇女は不婚だったが院政期にかけて皇女は近親婚を重ねる。また不婚の皇女は王権の中で様々な役割を担っていた。その一つは斎王のような宗教的役割だが、院政期にはそれが「女院」に変化する。「女院」は若年の天皇の准母(名義上の母)になって、王領を相続した。八条女院領や長講堂領といった巨大荘園群を持った女性大富豪が誕生したのである。彼女らは政権の中枢の争いからは距離を置くことで、荘園の相続をはじめとした王権の基盤を支えた。では彼女らはただの財産相続人だったかというとそうでもなく、例えば亡き夫の財産処分権を「後家」が持ったように、この時代の女性は独自の意志決定権があり、権威があったからこそ相続人になれた。だが、一族のために不婚を強いられたという面も否定はできない。なお室町期になると不婚の皇女は比丘尼として寺に入るようになる(比丘尼御所)。

2 武家の家訓と女性(鈴木 国弘):鎌倉時代においては、御家人は本家・分家といった一族が単位になっていたのではなく、むしろ女性を媒介とする親族的イエ連合の性格が強かった。つまり舅−婿の関係も血縁と同じくらい強かったのである。そうした親族の在り方は自然と妻を夫と独立した存在にした。この時代には、妻は夫と別の下人を持ち、別に財産を持っているということが珍しくなかったのである。また嫡男がイエの外交面を受け継いだ一方で、「嫡女」はイエの祭祀や家政の面を守り、訴訟の主体ともなっていた。このように鎌倉期までの武家の女性は男性へ隷属していなかったが、鎌倉時代後期には徐々に家父長制が確立していき、室町期には女性をモノとして扱う風潮が出てくる。

3 村落と女性(蔵持 重裕):中世村落においては、女性経営の農地が存在した。本節では、女性農業経営の実態を離縁の実態や寺への土地の寄進から探っている。そこから読み取れることは複雑だが、中世において村落は一種の法人的な性格を持つようになり、女性経営を保護したとは言える。だが、女性経営は公事の負担が免除されているなど、男性経営と比べ一段劣ったものと扱われていたのも事実である。

4 下人の家族と女性(磯貝 富士男):本節では中世における下人の様相が詳しく述べられる。一口に下人といっても多様な形態があり、大きく分けて債務奴隷(質人下人)と永久奴隷(永代下人)がある。 さらに下人が子どもを産んだ場合、その子どもがどのように位置づけられるかの問題がある(質人下人の場合、家族全員が下人にされるケースは稀であるため)。基本的には、女の子は母に、男の子は父に引き取られたようだ。なお、女の下人(下女)は、主人が性的支配権を持ち、下女を妾とする場合も多く、また下女が別の男と結婚する場合は主人の許可が必要であった。さらに主人の従者が下人と結婚する場合(従者婿)は、従者婿は主人に対し労務を提供する義務があった。一方、男の下人については下女ほどの支配権が確認されない。やはり女性は、男性に比べ従属的な地位に置かれていたことは間違いないようである。

5 後家の力(飯沼 賢司):中世においては後家は遺産の処分権を有した。北条政子は北条家を惣領し、やがて父時政をも追放した。これは、後家の権威が父方の存在に由来するものではないことを示唆する。古代においては兄弟共同体を基本に家族が構成されていたが、10世紀の終わりから11世紀にかけて、夫婦を単位とする家族が前面に登場し「夫婦同財」の観念が確立していく。後家は地頭職の継承においても重要な役割を果たしており、嫡男に替わって後家が長年地頭を務めるケースがあった。しかし中世後期には、嫡男への単独相続が一般化していき、後家が介在しなくてもイエの継承が保障されるようになり、後家の力は失われていった。

6 村落の墓制と家族(勝田 至):本節では、家族の在り方や女性の様相についてはあまり語られず、中世の墓制の全体像が簡潔に説明される。それまでは葬儀は深夜に行われていたのに、中世後期には次第に日中に行われるようになったという記述が興味を引いた。なお墓石の建立や供養の面で、男女が異なった扱いをうけていたということは史料に見当たらないという。例えば高野山は女人禁制であったが、死後は女性の納骨も普通に受け入れられた。中世では、死後の扱いは男女平等だったようだ。

7 家族を構成しない女性(細川 涼一):本節では、単身女性、すなわち下女、尼、遊女・白拍子、非人の女性がどのようなものであったかが淡々と記述される。男と女の結びつきが自由であると同時に不安定だった妻問婚の時代(古代)が終わり、社会全体が夫婦を単位として動く時代(中世)になってくると、どんな身分の女性でも、単身である場合には特別に身の振り方を考えなくてはならなくなった。その最良の場合が尼寺であったと見なせる。特に律宗尼寺は、女性がイエに従属し埋没しない自律的個人として生きる拠り所であった。しかし尼寺にしても、結局は女性が個人として自己実現をはかる場ではありえなかった。

8 女性の発心・出家と家族(勝浦 令子):女性が出家する場合、男性といかなる差があったか。彼女たちは自由に出家することはできず、夫との性愛関係・子供養育・家政経営など婚姻生活における女性の役割からの引退が必要だった。よって、夫の死後や老年での出家が多かった。というよりむしろ、夫の死後に出家して夫の菩提を弔うことは妻の重要な役割とまで考えられていた。ただし、中世においては「嫉妬」が罪業と考えられていたから、夫の浮気によって嫉妬を感じた罪によって出家を行うことは、女性側からの離婚手続きとして消極的に認められていた。出家した女性は尼として世俗的な義務から解放され、また諸国への旅が可能となるなど様々な自由を手にした。

全体を通読してみて思うのは、中世は家族の在り方が大きく変わった時代であるということである。兄弟や妻方の親族を含むゆるやかで大きなイエ連合から、夫婦を核として嫡男への一子単独相続を基本とする核家族的なイエに変化した。 では、そうした変化はどうして起こったのか? 本書はそれについてはあまり述べていない。しかし理由はともかくとして、この時代に人々の「イエ観」が大きく変わったのは間違いない。それには「仏教的夫婦観」も影響していたのかもしれないと控えめに書いてあって興味を引かれた。

具体的なケースを多数引き、女性の在り方の記述を通じて中世の家族観の変化を浮かび上がらせる好著。

 【関連書籍の読書メモ】
『仏と女(シリーズ 中世を考える)』西口 順子 編
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2019/12/blog-post_21.html
仏教における女性のあり方を考える論文集。

 

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