本書の主張は次の3点に集約できる。すなわち、(1)古代における日本仏教では肉食妻帯が禁じられたが、いずれも厳格には守られず、特に妻帯については常態化した。(2)親鸞と本願寺教団は妻帯を積極的に位置づけ、おそらくはそのためもあって近世に大きな発展を遂げた。それは日本仏教の特質を示しているものと考えられる。(3)明治政府が僧侶の肉食妻帯を自由化したことは、ほとんど議論なく仏教界に受け入れられた。
本書の著者は日蓮宗の寺に生まれた。しかしなぜか親鸞に心惹かれ、日本思想史・比較宗教学を専攻するようになってからも親鸞の思想を高く評価するようになる。よって本書においても、上の(2)の主張の分量が多く、浄土真宗が妻帯(というより家族原理)を基礎として発展したことを特に重視している。他宗派でも、特に明治以降は寺院が世襲されていくことは多かったのであるが、多くの場合、住職の奥さんは好ましいものと考えられず、梵妻・大黒などと隠語じみた名称で呼ばれ、檀家からは歓迎されていなかった。ところが浄土真宗の場合、住職の奥さんは「坊守(ぼうもり)」と呼ばれて、寺院経営の要とすら考えられた。
しかしながら、元来の仏教の教えから言えば、世俗の縁を切るからこその出家である。それが家族原理という最大の世俗の縁を温存してたものならば、もはやそれは出家とは呼べない。親鸞も、「非僧非俗」と自らを位置づけて妻帯に踏み切ったので、出家者として妻帯したのではない。浄土真宗の興隆を考える時、それが脱戒律化というか、世俗化した仏教であったことは確かに日本社会の特質を考える上で有効であるだろうが、著者の述べるようにそこを評価できるかというと、個人的には疑問だった。
なお(3)について、興味深かったのが、明治政府は僧に対し畜髪・妻帯を許可したのであるが、1年後に尼に対して同様の許可を行ったということ。しかし多くの僧がなし崩し的に畜髪・妻帯に踏み切った一方、尼の場合はほとんど畜髪や結婚は行わなかった。それは、男性の場合は畜髪・妻帯しても僧として引き続き認められたのに対し、女性の場合は畜髪・結婚すればもはやそれは尼として認められなかったからではないか、という。男女でこのような非対称性が生まれたのは興味深い。このあたりに、日本人の仏教受容のキーが潜んでいそうである。
本書は、僧侶の肉食妻帯の是非を論じるものではなく、なぜ日本仏教は肉食妻帯を受け入れたか、どのように受け入れたかを検証することで、日本仏教の特質を探ろうとするものである。しかしながら、本書はいわば論点整理というか序論で尽きているところがあり、日本仏教の特質を探ろうとはするものの、その作業は本格的にはなされないままに終わっている。
というのも、実は本書は著者の没後に刊行されたものである。著者は肉食妻帯を中心的なテーマとして「日本仏教の発生」というタイトルでの単著を準備していた。しかし2008年に急性白血病を発症し、2010年には逝去してしまった。本書は、これまで著者と数多くの仕事をしてきた三浦佑之らが、著者が書いた論文や発表をまとめたもので、2004年あたりまでの論文が多い。要するに、本書は「日本仏教の発生」を考察するための前段階の論文をまとめたもので、草稿段階のものといえる。
よって、その内容は率直に言って生煮えと言わざるを得ないものだ(重複も多い)。だが、それを責めるのは酷というものだろう。
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