実を言うと、本書のうち新井白石の方は、読むつもりがなかった。しかしちょっと読み始めたら面白くてつい全部読んでしまった。
新井白石の祖父・父は、古武士のような面持ちがある人物で、剛毅な性格のため仕官と浪人を繰り返した。将来の白石の浮沈を予感させるようで、導入から引き込まれる。
白石が生まれた頃、父は上総国の久留里藩主・土屋利直に仕えていた。利直は自分の子供よりも、家臣の子である白石を殊の外かわいがったという。白石が、産まれながらに人並み外れて聡明であったためだろう。白石は特定の師を持たなかったが、独学で四書五経を読みとき、さらに全て暗誦したとされる。彼は天性聡明であった上に、貫徹させずにはおれない非常な努力家でもあり、利直の期待に応えて自らを鍛えていた。
しかし白石が19歳の時、利直が死去し、お家騒動が勃発。そのために白石は父の跡を継ぐことが出来ず土屋家を放逐され、浪人となって十数年間も貧困の極みを味わうのである。
その後、古河藩の堀田家に仕えたが藩主の死去に伴い再び浪人化。白石は私塾を開いて日を送っていた。こうした浮沈の日々を送る中で、白石は木下順庵の門人となった。この頃の儒家の正統は言うまでもなく林家であって、順庵は将軍家の侍講までつとめながらも儒家としては傍系である。白石は貧乏なため正式に月謝を払ったこともなかったが、才能が認められて別格の扱いだったという。
そして甲府藩から順庵に門人のリクルートが来たとき、その筆頭になったのが白石だった。こうして白石は甲府藩主・徳川綱豊の儒臣として仕えるようになった。綱豊は稀に見るほどの学問好きな藩主であり、白石は四書五経を継続的に進講した。例えばある年は『詩経』を162回、『大学』を3回、『論語』を7回といった調子である。『春秋』の講義などは、合計6年かかって157回行っている。綱豊が将軍になってからもこの講義は続き、19年の間、合計1299日間も白石が進講した。そして自然と、白石と綱豊にには強い信頼関係が生まれたのだった。
なお講義の合間に、白石は337家の歴史を記述した主著『藩幹譜』を著した。
徳川綱吉が死去すると、綱豊が徳川家宣として将軍職を継いだ。こうして白石は一躍幕政に参与することになった。白石53歳の時であった。白石は、甲府藩時代からの家宣(綱豊)の重臣・間部詮房(あきふさ)と共に幕政を支えた。白石はただの政治顧問ではなく、長年に亘って家宣の侍講をつとめてきた間柄であったから、その意見は概ね受け入れられて文治主義が推進された。
家宣の治世は、悪貨の流通や「生類憐れみの令」といった綱吉の無理な政策の修正が課題であった。家宣は綱吉の遺訓であった「生類憐れみの令」を理由をつけて停止させ、そのために罰せられていた人々を総計8831人も恩赦した。徳川家始まって以来の大赦であった。こうした政策は、白石の考えがかなりの程度反映されていた。長崎での貿易の制限(海舶互市新例)も白石の建言によるものである。
しかし家宣は病弱で、将軍就任後たった3年余りで死去してしまった。幼い徳川家継が跡を継ぐと、白石と間部詮房が引き続き政権を支えたが、それは前時代からの惰性的な政権であったというべきで、強力な後ろ盾だった家宣亡き今、白石自身も自らの時代が終わったことを自覚していた。
そして家継も幼くして死去し、跡を継いだ徳川吉宗は白石を免職した。失脚した白石からは潮が引くように人が遠ざかり、旧友や門人も離れ去っていった。白石の晩年はまことに孤独で失意に満ちたものだった。木下順庵門下で最も白石と親しく、白石を尊敬していた室鳩巣(むろ・きゅうそう)も、吉宗に取り立てられてからはその交友が急激に冷たくなっていった。
こうした時期に、白石は自らの学問に回帰する。 『方策合編』『東音譜』『東雅』『南島志』『蝦夷志』『経邦典例』『経世典例』『孫武兵法択』『史疑』(日本古代史の精密な論析、失われた)など、青年時代からの研究が矢継ぎ早にまとめられたのである。
しかし白石は再び世に出ることはなかった。白石自身、最晩年には「今は、どうにかして何も知らない老人と見られたいと心がけております(p.199)」と知人に述べている。こうして白石は孤独に死んだ。
白石の激動の人生から目が離せない簡略な伝記。
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