2021年2月5日金曜日

『国際交易の古代列島』田中 史生 著

古代日本の対外関係を交易を中心として述べる。

東アジアの古代社会の国際関係は、当然ながら中国を軸にしていた。卑弥呼が魏から「漢委奴国王」として冊封を受けたように、中国から認められることが国際社会においても国内政治においても重要な意味を持った。

であるから、中国としても周辺国の統治は重要な政策課題であり、前漢は朝鮮半島に「楽浪郡」を設置して東アジア経営にあたり、楽浪郡(追って南側は「帯方郡」に分割)を中心として、中国へ朝貢する体制が出来上がった。

ところで「朝貢」というと、一方的に貢ぎ物を持っていくようなイメージがあるがそうではない。確かに朝貢国は数年(または数十年)おきにいろいろなもの(主に特産品)を貢納する義務があった。しかし中国は朝貢の見返りとして、そうした地場産品の価値を遙かに超える豪華な品を下賜したのである。圧倒的な文明の差を見せつける品を与えることが朝貢体制における上下関係を形成し、またそれは実質的に官営貿易の意味があった。そして、並みの豪族が決して手に入れられないそうした奢侈品は、日本や朝鮮の王権の権威を演出するアイテムとして重要だったのである。

一方、朝鮮と日本の間にも古代から国交があり、交易が行われていた。ところが、文明的には朝鮮の方が進んでいたにもかかわらず、倭韓の間には上下関係はなく、対等な形で交易が行われていたらしいのが中国の場合との最大の違いである。例えば、日本から百済に贈られたのは、兵の他に船、武器・武具、馬、穀物、糸・錦・布などの繊維製品といったもので、百済からは鉄、仏像、経綸、絹織物などがもたらされた。特に鉄と綿は恒常的に交換されていたと見られる。倭韓の間では、こうした取引が値段交渉さながらのやりとりの末に行われていた。

また、この頃の交易では、各地の首長たちがそれぞれ交易を行っていたことが特徴である。日本はまだ統一国家とは呼べなかったし、大王の方にも国際交易を規制しようという意図も手段もなかったものと思われる。

隋・唐の時代になると、日本は律令国家としてこれに対峙していく。日本は遣隋使・遣唐使を派遣して前代に引き続き朝貢を行った。しかしいくつかの点でかつての交易体制とは違った。第1に、日本は中国に朝貢は行ったが冊封を受けること(=臣下となること)はむしろ拒否した(その理由は本書には詳らかでない)。第2に、首長たちの自由な交易(海外渡航)を禁じ、海外交易は王権が統制した。例えば、王権は交易使節が持ってきた品物を優先的に買い上げ(官司先買制)、また貴族たちの購入に介入した。そしてこうした統制のため大宰府が交易の中心になった。

また、日本は中国から見れば東夷であるが、自身を小中華として位置づけようとした。そのため蝦夷や南島(南西諸島)と盛んに交易を行い、彼らを夷としてそれを服属させていることを中国に誇ったようである。もちろん、北方や南方から手に入る特殊な産物が貴族たちの垂涎の品であったこともその背景にあった。

8世紀半ば、唐は衰微して「安史の乱」が起こる。それにより陸域の東西交流が低調となり、替わって海を通じた交易が盛んになった。また、新羅では飢饉や疫病の流行で、多くの人が唐や日本に亡命した。例えば、815年からの8年間だけで中央への新羅からの帰化人は400人を越えた。かなり多くの新羅人が日本に入ってきたのは間違いない。ところが日本と新羅との関係はギクシャクしていたので、国家間の交易は低調となる一方で、自然と新羅人の民間海商を通じた交易が北部九州で行われるようになるのである。なおその交易は、当時の国際通貨である銀を決済手段としたものだった。

そんな唐−新羅−日本を結ぶ交易をリードする存在だったのが、新羅商人の張宝高(ちょう・ほうこう)である。彼は823年頃に新羅から清海鎮の大使として任命され、公的な立場で新羅商人たちを監督し貿易を推進した。今で言えば貿易商社の社長が在外大使に任命されたようなものだろうか。

新羅商人を通じた民間交易を日本は公的には禁じていたが、831年(天長8年)に積極姿勢に転じる。官司先買制を導入した上で、大宰府の監視のもと公定価格で民間が交易することを許したのである。張宝高らは、取引価格が抑えられるというデメリットがあったにもかかわらず、基本的にこの管理交易を歓迎した。滞在中の安全が保障されるだけでなく、天皇や朝廷との取引が約束されたからである。なおこの交易の決済には真綿が使われたようだ。

新羅海商のネットワークを朝廷も重視し、また利用した。例えば、最後の遣唐使船の往還は新羅系交易者たちの協力によって果たされたし、僧や官人の派遣においても、遣唐使船ではなく新羅系交易者のネットワークを頼るようになった。

しかしこのネットワークのトップだった張宝高は、841年頃、新羅の政争・政変に巻き込まれて暗殺される。そこで明るみに出たのが、前の筑前国守の文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)が宝高と密貿易をしようとしていたことだった。この頃、「唐物(からもの)」の価値が大変高くなっており、密貿易をしてでも手に入れる価値があったのである。それは、大陸との交易が盛んになり多くの唐物が流入したことで貴族の手が届く品となり、より多くの貴重な唐物を所持することが貴族としてのステータスになったからだった。つまり唐物は威信財として自らの立場を有利にするアイテムになっていた。

あまりにも唐物熱が高まったことで朝廷は貿易管理を強化し、朝廷は新羅人の帰化を禁じるなどするとともに、貿易管理業務を大宰府に任せるのではなく、朝廷(蔵人所)から派遣する唐物使(からもののつかい)に担わせることとした。貿易管理を朝廷直轄の業務としたのである。また新羅海賊の横行もあり、新羅との貿易は徐々に低調になっていった。

これを補う形で、日本では江南海商との繋がりが深くなっていく。それには、本国の混乱や唐における「会昌の廃仏」(840年〜)によって江南地域に移住していった新羅系商人たちが多くいたことも関係していた。また江南地域の海商たちは、「会昌の廃仏」で排斥される寺院を裏から支援していたが、そういう海商の代表が徐兄弟(兄・公直、弟・公祐)である。徐兄弟は江南の特産品はもちろん、南海の産物や北方のものも取り扱って日本と交易した。こうして江南地域が貿易のハブになっていった。

なお、海商たちが寺院を保護したのは、仏教文化が東アジアの共通文化となり、国境を越えた結びつきをもたらしたからでもあり、また仏教僧による航海の安全祈願に需要があったためでもある。

ところで9世紀後半、大宰府が集める真綿の質が低下し、これを交易代価とすることが難しくなった。そこで10世紀には貿易の決済は陸奥国からの金が用いられるようになったが、10世紀末に陸奥国の金が停滞するようになると、大宰府の官物(米)による決済に移っていった。

一方、10世紀初め、唐は滅亡して中国は五代十国の時代を迎えて混乱していた。これに応じて朝鮮半島情勢も複雑化する。日本では、こうした混乱期の国々とは国交を持たなかったが民間の海商を通じた交易はむしろ盛んであり、朝廷としてはこれを制限する形で管理する。

やがて宋が成立すると日宋貿易の時代となって、宋海商たちが日本人を妻にするなど婚姻関係も利用して日中双方に拠点を形成した交易ネットワークを広げて行くのである(日宋貿易は中世にかかってくるため本書では軽く触れる程度)。

古代日本の交易関係がわかりやすく整理された良書。

【関連書籍の読書メモ】
『倭寇―海の歴史』田中 健夫 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/12/blog-post_22.html

倭寇を軸に、14〜16世紀の東シナ海の歴史を描く。
倭寇の動きを追うことで、東シナ海の激動の歴史を垣間見られるエキサイティングな本。

『大宰府(教育社歴史新書<日本史25>)』倉住 靖彦 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/01/25.html

大宰府の概略的な歴史。

 

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