2021年2月23日火曜日

『古代の琉球弧と東アジア』山里 純一 著

7世紀から13世紀までの南西諸島について交易を中心に述べる。

「琉球弧」とは南西諸島を表す用語で、歴史的なまとまりでいうと、「大隅諸島」(種・屋久、トカラ列島など)、「沖縄諸島」(奄美・沖縄)、「八重山諸島」(石垣島、宮古島など)の3つの地域に分けて考えることができる。本書は、このうち「大隅諸島」「沖縄諸島」を中心に、史料および考古資料によって交易を中心とした国際関係を概括するものである(「八重山諸島」は、対象外ではないが歴史的に台湾・東南アジアとの共通性が大きいため記述の比重は小さい)。

琉球弧における文字史料は、1650年に琉球国の正史として編纂された『中山世鑑』以前には全く存在しない。よって自然と日本と中国の史料に頼る必要があり、特に本書では中国側の史料がたくさん参照されている。

とはいえ、琉球弧に関する情報は史料中にほんの少し登場するだけであり、まとまった史料が存在しないのが現状である。古代の琉球弧がどんなであったかはそうした限られた情報を元にして推測するしかない。それはすなわち確定的なことが言えないということを意味し、研究の進展に従って琉球弧像はかなり変わってきた。本書は、このように移り変わってきた近年の研究結果を広く参照して、現在の通説をまとめたものである。

7世紀の琉球弧では、南西諸島の各島が散発的に日本の歴史に登場する。ヤク(屋久島というよりは南西諸島の総称)、多禰(タネ)、トカラ(今のトカラ列島ではなく、タイのドヴァーラヴァティーを表すのが通説)、流求(琉球と読めるが、その範囲にはいろんな議論がある)などの人々と、日本の人々は散発的に交流があった。時々漂着したり、偶発的な交易が行われていたのがこの時代である。

8〜9世紀になると、日本は律令国家として南島(琉球弧の島々をこう呼んだ)を組織的に取り込もうとした。日本は自らを中華に擬し、北狄南蛮の従属を必要としたのである。そのため律令国家は南島に「覓国使(くにまぎのつかい、べっこくし)」を使わして朝貢を促した。それに応じて南島の人々は産物を持って来朝し、まとめて授位され、また返礼品を受け取った。ただし、この活動は南島人にとっては朝貢という意図はなく、交易として捉えられていたのではないかと著者はいう。

また覓国使が派遣された背景として、遣唐使の航路を確保する意図があったのではないかと著者は推測する。遣唐使は最初、北路と呼ばれる朝鮮半島経由の航路がとられていたが、新羅との関係が悪くなると、朝鮮半島を経由しないで直接中国に行くことが好ましくなった。このために南島を南下してから中国南部に向かうルート(南島路)を開いたのである。事実、南島の諸島には「南島牌」という標柱のようなものが設置された。これは遣唐使船が漂着したときに今自分がどの島にいるのか分かるようにするものだった。

ただし、南島は必ずしも日本に従属していくことはなかった。南島としては、わざわざ遠くまできて朝貢して実のない授位などされても無意味だったし、交易にはあまり利益がなく、律令国家に従属する価値はなかった。

一方で、日本の側としては、南島からの産物は非常に価値が高かった。例えば、赤木(高級木材)、檳榔(ビロウ)、ヤコウガイ(螺鈿の材料)といったものである。こうしたものは貴族にとって喉から手が出るような貴重品だったので、南島との交易は需要が大きかった。ところが南島の人々にとっては、日本からは武器などの他はあまり価値のある品を手に入れることができなかったようだ。

このあたりがすごく不思議なところで、南島は比較的遅れた社会だったにもかかわらず、日本からの品々を有り難がった形跡がない。本当に南島は遅れた社会だったのだろうか、ということから考えさせられる。

それに関して、本書ではさらに不思議なことが述べられる。それは、琉球弧では「開元通宝」がたくさん出土するということである。これは言うまでもなく中国の貨幣(銅貨)であるが、琉球弧で「開元通宝」が流通した形跡はない。とすると、これは威信財として使われたもので、もしかしたら本土からの交易者がその代金の支払い(の代わり)に宝石のような扱いで置いていったのかもしれない。一方、日本の銭貨が持ち込まれた形跡はないのがさらに不思議なことである。なぜ「開元通宝」が持ち込まれたのか通説はないのが現状だ。

10〜11世紀前半の琉球弧の様相は、それまでとは異なってくる。それを象徴するのが997年、奄美島の者が九州諸国に乱入し、諸国の人を300人も拉致した事件。その先年にも大隅国の人400にを拉致する事件が起きている。この頃、本土と琉球弧の間には交易のトラブルが起こり、こうした敵対的な関係となったのではないかという。

一方、沖縄諸島の喜界島には、大宰府の何らかの出先機関が置かれた形跡がある。おそらくその跡である喜界島城久(ぐすく)遺跡からは、多様なものが大量に出土した。城久遺跡から出土したのは、中国の青磁や白磁、高麗青磁、滑石製石鍋、本土産土器(須恵器・土師器)、徳之島のカムィヤキ(硬質の焼き物)など。9世紀から15世紀の長きにわたってその性格を変えながらも城久遺跡は存続したと見られる。しかし11世紀前半頃には大宰府の統制はきかなくなり、喜界島は独立していったようだ。

11世紀後半から12世紀には、琉球弧がひとつの文化圏として成立する。青磁や白磁、カムィヤキががこの時代の琉球弧全体から出土することによって裏付けられる。それはおそらくは城久遺跡の経営者たちによって諸島に運ばれたもので、12世紀に需要のピークを迎えるヤコウガイを手に入れるために使われたものと考えられる。中国では宋、朝鮮では高麗の時代であり、宋・高麗・日本を結んだスケールの大きな交易が行われていた。なお硫黄島から産する硫黄は日宋貿易の主要な輸出品であった。

13世紀の琉球弧については、琉球国の成立前の再編期として位置づけられる模様である。13世紀の史料・考古資料はあまり豊かでないのか、本書では14世紀以降の情報を元にして推測する形で描かれている。これまでの史料に見える「南蛮人」「キカイガシマ(大隅・奄美諸島の総称)」は、沖縄については含まれていないと見られ、リュウキュウは食人の習慣がある怖ろしい土地と考えられていた。それが14世紀には、琉球国が成立し、中国に明王朝が成立すると進貢貿易が行われるようになる。そして交易の中心が琉球国に移っていくのである。

14世紀までは沖永良部島までの範囲は千竈氏の私領として相続されていたが、徐々に琉球国が侵攻し、1466年に最後の砦であった喜界島が征服され、ここに奄美諸島全域が琉球国の版図となった。

本書は先行研究をテンポよく紹介する形で書かれており、とても読みやすく教科書的な本である。ただし、必ずしも通史的には描かれないので、前後関係は若干わかりにくい。最後に年表があればよかったと思う。それから木下尚子の「貝の道」(南西諸島と本土で古代以前から行われた貝の交易の経路)の諸研究が随所で参照されているが、まとまっては記述されない。これについては一節設けてもらった方がわかりやすかったと思う。

古代の南島交易を概括する教科書的な本。

 

【関連書籍の読書メモ】
『国際交易の古代列島』田中 史生 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2021/02/blog-post.html
古代日本の対外関係を交易を中心として述べる本。古代日本の交易関係がわかりやすく整理された良書。

『日宋貿易と「硫黄の道」』山内 晋次 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2013/03/blog-post_2.html
日宋貿易において日本からの重要な輸出品だった(と思われる)硫黄について、その貿易の実態を探る本。


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