農民たちは「御一新」に期待した。藩政時代の苛斂誅求が終わり、豊かな暮らしが送れるようになると。実際、戊辰戦争の頃には、人心を掴みたかった新政府は農民に”年貢半減”を約束した。
ところがこの期待は裏切られる。新政府が樹立されると、政府の改革的気運は消え失せ、財源の確保のため”年貢半減”の約束はすぐに撤回された。それどころか、明治政府は江戸時代以上の負担を強いるようになるのである。
「薩長は徳川に劣る」と民衆が考えたのも無理はない。こうして新政府反対の「世直し一揆」が頻発したが、政府は徹底的にこれを武力で弾圧した。
政府は農村を統制することの必要性を感じた。明治4年に戸籍法を定め、戸籍上の地域の区分け「大区」を設定すると、「大区」が行政区として実体を持つようになり、旧村役人を廃して「大区」に区長を、「小区」に副区長を置いた。これが「大区小区制」であり、明治政府による最も初期の農村の統制形態である。「小区」は数村に渡る範囲で、「大区」はそれをいくつか組み合わせた範囲であった。
また、これに伴って村方三役などの旧来の村の自治組織は否定された。それまでの村は、寄合による合議と全員一致を建前とする自治の仕組みがあったが、寄合(話し合い)自体が新政府によって否定され、区長は政府の役人として上意下達的な機能しか持たなかった。
旧村時代の総代は、支配者というよりは自身が農民であり、農民の利害を代弁していたのに、新たな区長は生活実態から乖離した広い範囲を収める国家の役人だった。それなのに、区長の給与は地元に負担させたところが「その後の日本の地方制度のあり方を象徴的に暗示している(p.41)」。
「大区小区制」の下で行われたのは、布達の徹底、戸籍整備、租税の徴収、小学校設置、徴兵調査など国家行政業務であったが、それらの費用も地元の町村民の負担であった。さらに、地方長官らは、各地方に根付いていた文化や風習を遅れたもの、古いものとして否定し軽蔑した。路傍の地蔵や石仏は移転され、村芝居や盆踊りが禁止された。新政府は民衆たちを愚民とみなし文明開化の名の下に抑圧した。
こうした、廃藩置県後の数年間の民意を無視した諸政策は反発を招き、士族反乱・農民騒擾がたびたび起こった。そんな中行われた地租改正は「農民が維新に期待した貢租軽減の願いを完全に打ちくだいた(p.60)」。地域の実情を無視して租税の負担が上から押し付けられ、また山村では、これまで共有林として管理されていた林野のほとんどが官有林とされた。これに反発し各地で地租改正一揆が起こり、特に三重・岐阜・愛知・堺に波及した「伊勢暴動」は政府に衝撃を与えた。また自由民権運動が発生し、農民たちの不満が組織的な戦いとなっていく機運が生まれた。これに危機感を抱いた政府は、これまでの強権的な農村支配を改めて、より巧妙な統治へ移行させていく。
それが明治11年の「新三法」の制定である。「新三法」とは、郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則の三法律で、明治政府による最初の統一的地方制度であった。これは、官僚的な大区小区制が反発を招いた反省に基づき、伝統的町村を認めてそれを国家体制に組み込むものである。
具体的には、大区小区を廃して町村を行政単位とし、その長に民選の戸長を置いた。戸長は一般的に薄給で、地主など資産家でないとなれない仕組みとなっていた。政府は共同体の解体が不可能であることを知って、戸長に選出される地域の名望家を通じて村を支配することにしたのである。またこの頃、教育費や町村土木費は激増したが、こうした負担も町村費に押しつけられ、逆に国税による補填(補助金)は減少した。
さらに、国家事業の性格が強い経費の賦課徴収を住民の責任に転化するため、国は区町村会の設置を認めた。その選挙権や被選挙権などは地方の自由に任されていたが、一般的に村の有力者層だけが議員になれる仕組みとなっていた。
そして村が国家の思惑を逸脱しないように監督したのが、郡である。郡長は純粋の官吏で強大な権限を持ち、区町村会に対して中止権、議決施行の拒否権も持っていた。国家は、村にある程度の自治を許す代わりに、その上に郡を置いて睨みをきかせたのである。
こうした中、松方デフレ財政による深刻な不況が農村を襲った。松方正義は国家財政を建て直すために、増税と紙幣の整理を行う。今まで国費負担分だった事業を府県・町村に振り分け、さらに新税(例えば「菓子税」まで!)を数々創設した。紙幣整理によるデフレで農産物の価格が下落したため、実質の増税率は50%にも上った。これにより没落する農民が続出。一方で農民が質入れする土地を集める地主も存在し、松方デフレは農村に地主制を拡大する一因ともなった。
農村の不況、農民の困窮によって、世論は反政府的な言論が形作られるようになり、自由民権運動が盛り上がった。体制側に取り込もうとした戸長すらも住民側に立ち、徴兵拒否の教唆をしていた。「福島事件」は、そういう中で起こった国家と村の対立の例である。福島県令に赴任した三島通庸(みちつね)は、強引な手法によって土木工事を進め、また議会の自由党を徹底的に弾圧して反対意見を封殺した。これに対し自由党と結んで蜂起した農民数千名が凶徒として根こそぎ逮捕されたのが「福島事件」である。明治17年頃には東日本の各地に農村蜂起が見られる。「国家権力が高利貸しの後盾にほかならない(p.98)」ことを感じた農民たちは平和的な嘆願が何の意味もないことを知って蜂起したのだ。だがこれらは全て武力で鎮圧された。
こうした情勢を受け、政府は明治17年に諸法律を改正する。その主眼は、行政区としての村をなくし、数か村を合わせた単位に官選の戸長を置いたことである(=村は再び行政区としての地位を失った)。その他、町村税の強制取り立て権の確立など、より強権的に行政が運営できるようにした。
そして政府は、国会開設を前にしてより強固な地方体制をつくるため、明治21年、「市制町村制」を定める。政府はこれに先立つ明治20年、概ね旧来の5、6か町村を合併させる町村大合併を強行していた。このため僅かな間に、町村数は7万435から1万3347へ激減。このような合併を行ったのは、政府が町村に要請する委任事務に耐える財政能力・事務能力のある自治体をつくり出すためだった。
「市制町村制」では、教育、道路整備、衛生など国家から町村に支出を義務づけられた経費は多額にのぼり、町村役場の仕事はほとんどが国からの委任事務であった。にもかかわらず、「町村は基本財産の運用によってその費用をまかなうべし」との考えの下、国は国税を確保する観点から地租とのバッティングをおそれ、驚くべきことに町村に特別な財源を与えなかったのである。
もちろん、そのような運営が可能だったのは全国でもほんの僅かな村だけだったので、実際には家屋割り、戸数割りといった方法によって住民に町村税が賦課された。しかし、1戸あたりで町村税を取れば、どうしても逆進的になる。それでなくても、「市制町村制」では町村議会の選挙権を国税納入の金額を基準とするなど(しかも不在地主にまで選挙権があった!)、あからさまに有力者優先の制度となっていた。国家は地主を優遇して村の有力者をとりこみ、負担は貧農に押しつけたのである。しかも、国税の財源も商工部門への課税や消費税の創設は最小限にとどめられ、反対に農民への重課を意味する地租を中核とした租税体系となっていた。
小作人たちは、土地を持っていなかったから地租を納めていなかったと考える向きもあるがそうではない。本書には詳らかでないが、彼らは地主に高額の(概ね収穫の半分もの)小作料を納めていた。地主はそこから(自分では耕作していないその土地の)地租を払っていたので、結局は地租とは小作人への課税だったのである。しかも町村税の戸数割りなどで、農民には逆進的な負担がのしかかっていた。明治国家の財政を支えたのは、選挙権すら持っていない農民たちだった。
「市制町村制」は、町村役場を自治体とは名ばかりの国家の下請け機関として、しかもその費用は住民に押しつける強権的な体制であったが、そこに一つのほころびがあった。それは、住民が共同体意識を持たない広域の町村を構成した結果、部落(集落)の結びつきが強まり、村が分解する傾向にあったことである。そしてもう一つは、地主優遇の政策によってさらに富が偏在し、地主が不在地主化していったことで、住民と地主・有力者との心理的紐帯が弱まり、農民が階級的に分裂していったことであった。
明治30年代後半になると、日露戦争の遂行などのために税負担が2倍以上に増加する。しかもそれを、地租ではなく、地方税の偏重、すなわち戸数割り町村税の増徴をもって宛てた。「逆進的な戸数割の増徴を通じて、その負担を広く一般住民へ拡散しようとする非常に意図的な政策(p.191)」が行われた。
町村税は増税されたものの、村役場の事務はほとんどが国家の委任事務であり、地域政策のための予算はむしろ減少したため、この時期には町村の財政において「寄附金」の割合が著しく膨張した。今も、道路拡張記念碑や校舎建設記念碑で寄附を感謝するこの時期の石碑を見ることができるが、その背景にはこのような財政事情があったのである。そして町村財政が寄附に頼るようになると、寄附金を出すことができる少数の有力者の力がなおさら強くなっていくことは自然のいきおいであった。
そして、「国家出先機関としての町村役場の行政機能強化が、地方制度上、集大成した形であらわれた(p.200)」のが、明治44年の町村制改正であった。この改正では町村長の権限が強化されるとともに国政事務の遂行が義務づけられ、また町村の基本財産の整備が行われた。その原資とされたのが旧来の部落有林である。国は戦時であることを利用して、部落の財産を強制的に町村に編入させ、部落的セクショナリズムを打破しようとしたのである。またこれと並行して部落氏神の町村合祀政策も進められた。
そして、町村の人心統合のため、「地方改良運動」が強力に推進された。農村の動揺を勤倹や上下一致思想の鼓吹によって切り抜けようとするもので、村が一丸となって労働と貯蓄に邁進することを二宮尊徳の「報徳精神」を援用し思想的に喧伝した。またこの時期には、在郷軍人会、愛国婦人会、納税組合、貯蓄組合、農会といったおびただしい行政補助組織が作られた。さらに婦女会、矯風会、青年会、夜学会、戸主会などの町村内の強化組織の設置も奨励され、こうした中間団体を利用することで個人生活の細かい面まで規制を行うとともに、社会矛盾を長老主義的な温情感で粉飾し、さらには「従順な服従によって日常生活が貫かれる社会(p.207)」を理想としたのである。
本書に描かれる明治政府の農村政策を概観すれば、3つの特徴を挙げることができる。第1には、地主中心の新たな身分秩序を再構成したことである。それまでの農村にも、もちろん豪農と貧農はいた。しかしそれらは農民としてひとまとまりに出来るものであった。ところが明治期には、逆進的な租税体系と、戸長・議員・官吏などに有力者のみが就任できる仕組みにより、地主階級が確立し「寄生地主体制」ができていったのである。
第2に、伝統的な村落自治の仕組みを破壊して、町村役場を国家の出先機関にすぎない上意下達の官僚機関としたことである。農民がこれを不服として武力蜂起しても国はそれを容赦なく弾圧した。江戸時代の農村は、かなりの自治を行い、武士にも言論で対抗できる力を持っている村も少なくなかったが、明治期の町村は完全に国家に従属することとなった。こうして体制に従順な「物言わぬ農民」が出来上がっていった。
第3に、江戸時代以来の村については、行政区画としての地位を剥奪して度重なる合併を行った一方で、部落(集落)については比較的温存させたことである。これは意図せざる政策だったようであるが、結果的には部落における日常的相互強制力、部落間の対抗意識などを利用して徴税を確保したり、地方改良運動における思想教導が婦人会や青年団といった部落組織を通じて行われるなど、部落は政策的に利用された。そして部落が温存されたことは、村議の立候補なども部落推薦候補などで占められるといった風潮となり、次の時代の課題として引き継がれていくのである。
こうした特徴を見れば、現代の農村に残る様々な悪しき特徴が、江戸時代以来のものであるよりは、むしろ明治政府によって人為的に作られたものであることがわかるだろう。本書は「明治のむら」がどうして成立したかを丁寧に解き明かしたものであるが、それは農村政策史であるだけでなく、現在の農村の姿をも照射するものだ。
明治政府が、どのように村落を再構築していったのかを克明に語る出色の農村史。
【関連書籍の読書メモ】
『百姓たちの幕末維新』渡辺尚志 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
幕末維新期における百姓の実態を探る本。幕末の百姓が武士と対等に「言論」で戦っている様子が分かる。
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